『山月記』課題発表 05-2I

以下の文章は、『山月記』の授業の最後に、次の3つの課題の中から1つを選んで、それぞれ400~800字程度を目安に、書いて、提出してもらったものです。

1、感想文を書く
2、主題を考える
3、外伝を作る



1感想文「虎になる」  arit0

これまで数々の栄光と挫折を経験した主人公がある日突然虎になってしまうという話は、普通に考えたら「そんなのありえないだろう」の一言で済まされてしまうが、この物語は「虎になる」ということをリアルに語っている印象を受けた。
普通の話(人間が人間以外の生き物になる話)ではあまり人間以外の生き物になった時の苦しみを語られないが、この虎はまるで実際に虎になったかのような話の進め方をしている。
虎になっているときの自分をまるで第三者のように見ている人間の心の自分。そしてそれは自分がやったことと気付き苦しむ主人公。
最後のほうで「いっそ虎になったほうが幸せなのかもしれない」と考える主人公。
もし自分が主人公になったら、同じ考えを持つだろうか。
現代では街中に虎なんか出没したら猟銃で撃ち殺されるだろうけど、この物語はそんなものない時代。
虎は確実に人間より強い。
そんな中でかつての友人を殺してしまうのではないかという恐怖。
しかし、私の場合殺すことそのものよりも報復が怖いのでそんなに虎になるもの悪くないように思う。
そんな大切な友人がいないというのも事実だが…



 山月記を読んで  shoma

 この話を読んでまず最初に感じたことは、もし自分が人間から虎になってしまったらどんなに悲しいだろうと思ったことです。
現実にはありえないことだけど、この話を読むと現実にこういうことがあるかもしれないと思ってきました。
 とても賢い李徴がこういう運命をむかえてしまったのは、やはり生き方が間違っていたからだと思います。
もし現代の世界でこういう生き方をしていたら、虎にはならないけれど、なにか罰のようなことをどこかでうけるはずです。
 李徴の友である袁惨の気持ちを考えてもかなり悲しいものがあると思いました。
もともととても親しかった友人が姿をかえて、もう二度と会えないことになってしまうと、どんなに悲しいだろうと思います。
もし僕のもっとも親しい友達ともう会えないようになったら、どんな気持ちになるだろうと考えるだけで胸がしめつけられます。
 この話を読んで、僕はこれから絶対に李徴のような運命を辿りたくはないと思いました。
また、袁惨のような立場にも絶対立ちたくないと思いました。
これからは、いろいろなことに気を使って生きていこうと思います。



 感想文  大杉正樹

 今までにない、というより今ではもうない、といったほうが正しいのだろうか。
とにかく、私にとってはかなり新鮮だった。
というのも、第一に………主人公が虎になったとき、(というより、虎の本能が出たとき)の記憶が主人公にはほとんどない点である。
私は今までかなりの数の小説を見てきたつもりなのだが、主人公が何らかの動物になるときはたいてい主人公が主人公の意思で行動し、ましてや記憶がなくなるなんてことはなかった。
その意味でこの小説は私にとってかなり斬新だったといえよう。
 第二に、この主人公は虎になることを何故か知らないが非常に恥じている、という点である。
 普通の主人公は虎といういかにもかっこよくて、強い存在になれると喜ぶものだが、何故かこの主人公は妙に嫌がっているのである。
やはり時代、そして国の違いから今とかなり価値観が違っていることがわかる。
 そして最後に、最大の違いを挙げるとするならば、主人公がオッサンという点である。
私たちが普段目にする小説というものはたいてい主人公が少年少女である。
ここからもう「この小説は違う」オーラが出ていたのかもしれない。
普段はオッサンが主人公の小説はまったく読まないので、ある意味新鮮味が出た。

こんなところでしょうか?



 山月記を読んだ感想 ペンネーム:らーめん

李徴は発狂し、虎になってしまったわけだが、詩の内容や李徴の言動を見ていると、自己中心的な部分が多いと思う。
あまりに自尊心が高く、自己中心的な考えなため、周りとの交流がなく、何事も自分ひとりで抱え込んでしまい、それがたまりたまって発狂し、虎になってしまったのではないかと思う。
そういうことを考えると、ある意味、李徴は虎になったことでその部分を考え直す良い機械になったのではないだろうか。
もちろん、李徴が虎になり、その間の虎と人間の間での心の葛藤もわからなくはないが、もう少し人間的にというか、他人との交流をもち、他人の意見や体験談を聞きつつ詩を書いてなら、虎にならずとも、良い詩を書けていたのではないだろうか。
だがそんな李徴にも、袁傪というすばらしい旧友がいてよかったと思う。
虎としてただ恐れるだけでなく、少しでも役に立ってあげようと、李徴の気持ちを考えつつ自分にできることはないかと声をかける、思いやりの気持ちを持ったとてもやさしい人だなぁと思った。
もし、この袁傪がいなかったら、李徴はさらに発狂したかもしれない。
そういう意味でも良い友達を持ててよかったなと思った。



 山月記外伝。~現代Ver.~  わっちん

あるところに李徴というサラリーマンがいました。
彼は幼い頃から神童と呼ばれるような子供で、なんと高校卒業後すぐに外資系のエリートサラリーマンになったのでした。
しかし、彼の性格は天才肌といいますか、並のやつらと付き合うのは嫌という困ったものでして。
飲み会は行っても一時会まで、合コンなんてもっての他という堅物。
しかも人の下につくのが大嫌いという。
こんな人間がいつまでも縦社会の中で生きられる訳もなく、李徴は早々に会社を辞め、昔から好きだった落語の道を究めようと思いました。
しかし落語家として大成するのはけして簡単な事ではありません。
しだいに生活も苦しくなり、今日食う飯もままならなくなってきた李徴は落語の道をあきらめて会社に再就職することにしました。
それでももとより他人の下につくのが嫌で辞めた職業。
そんなに長く李徴の精神が持つ訳はありませんでした。

ある日出張に来た先で、李徴は上司を殴り飛ばしてしまったのです。

それから5年後。

袁というサラリーマンが出張で東京に行った時の事です。
駅のホームで特急を待っていた袁に、突然男がぶつかってきました。
しかし、その男は袁の顔を見ると大慌てで階段の後ろへ隠れてしまったのです。
そこから聞こえる「危なかった…」という声に袁は聞き覚えがありました。

「その声はもしかして李徴じゃないか?」

男は一瞬息を飲みましたが、その後ゆっくりと語り始めました。
「ああ、そうだ友よ。俺は李徴だ」。

李徴の話は、彼は上司を殴った事によりリストラに合い、ホームレスとなってしまったというモノでした。
そしてスリを行いそのお金で何とか生計を立てているらしいのです。
そうしなければ俺は生きていけないんだと、李徴は苦悩した声で語りました。
なぜ階段の後ろから出てこないのかと聞くと、李徴はこのように落ちぶれた姿を見られたくないと血を吐くようにいいました。
そして袁はある事を頼まれたのです。

「なぁ袁。俺の落語を聞いてくれないか。そしてこの話を誰かに伝えてくれ。俺の話が世間に知られないまま、こんなところで息絶えるのは嫌だ」

袁は承諾をし、李徴の話に耳を傾けました。
それはとても非凡なもので、李徴に少なからず才能があるという事をはっきりと示していました。

最後に、李徴は帰りにはこの駅を通るなと言いました。
それは本当に生活が苦しくて、次こそ誰だろうとスリを行ってしまうからだと。
そして、袁が電車に乗った後、自分は今の姿をキミに見せようと言いました。

指定の特急が来、袁はそれに乗り込みます。
ドアが閉まり、ゆっくり動き出すと、階段の影から李徴が出てきました。
それは長く髭を生やし、ぼろぼろの服をきた男でした。
袁は確認しようと窓の外を凝視しましたが、速度を増した特急からその姿が確認出来るわけもなく。
ただゆっくりと手を振るその男の残像が視界の端に焼きついただけでした。

終。



 山月記感想文「虎になった日」  うつろふ心

 虎になる。
「なんでっ」と突っ込みたくなるがそれはおいておく。
それを無視して考えてみる。
倫理から外れてしまい実際に人ではなくなってしまう。
しかも、人としての心を残したまま。
虎になる。虎は凶暴な肉食獣。
自らが望まなくても体が反応して獲物を狩る。
そして、意識が戻ってその行いを悔やむことになる。
 これが神が与えた罰だとするとかなりひどい神だ。
苦しみを与えるための行為として考えると最高に近いだろう。
人としての優しさを失ったから受ける罰なのに、人としての心に苦しめられる。
さらに、懐かしい友と出会う。
その喜びと、自らがその友を殺してしまうかもしれない恐怖は想像を絶する。
人の心は孤独には耐えられない。
友と話をしたいと思う。
虎の心は空腹に耐えられない。
目の前にある餌を食べたいと思う。
相反する二つの思いに心を削られる。そんな苦痛を味わうことになる。それでも死の恐怖から、自ら命を
絶つことはできない。
 こんな拷問を与えられるのは辛いだろう。
僕は、作者は「思いやりを持ってほしい」と言いたいのだと思うが、こんなひどい話を作る作者の心を疑ってしまう。



 「山月記のジャンルはいったい何か」  ペンネアラビアータ

 この物語は普通に考えてありえないなと思った。
人間が虎になることなんて現実的にありえないのだが、作者はその非現実的な内容をパロディなんかにせず、真面目な内容で話として成立している。
ジャンル的にはシリアス・サスペンスといったところだろうか。
だが、恐怖な場面もなく、ただただ李徴が虎になってしまった原因が延々と書き綴られている。
よく考えると、この話は面白おかしくないし、恐ろしくともない。
では一体この話のジャンルは何なのだろうか。
 まず考えられることは、悲しい話であることだ。
虎になったせいで、外見は人間ではなくなり、日に日に内面的な人間性を失っていく李徴はとても悲しんでいることよりそれが考えられる。
しかし、人間性を失っていく李徴の恐怖心も盛り込まれているから、悲しい
とも断定できない。
 次に考えられるのは、昔話であることだ。
この話を読むと、過去の李徴の生い立ちや、生活、虎になるまでのいきさつが書かれていることが分かる。
また、李徴が言ったことも過去の自分に対する反省点ばかりあげている。
だが、やはりこれも現在の李徴の虎になった理由を話す時点で断定できなくなる。
 総合的に考えると、多ジャンルであるとしか言えないと考えられる。
悲しく、恐ろしい、昔話な山月記と、無茶苦茶な題名であるが、全ての要素がこの物語に詰まっていると思う。
ただ、面白おかしい点はあまり見られなかった。



 山月記の感想   VariableSword

P55 l4に、「袁傪はこの超自然の怪異を実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった」とあるが、これは李微のことを気遣ってあえて怪しもうとしなかったのか、それとも李微の故人であったので、李微の尊大な羞恥心が李微を虎に変えてしまったことに察しがついたからなのか、非常に気になる。
李微は、虎になってしまったことを省み、自分の残虐な行いの後を見て、己の運命を振り返っているが、これは、自分の中の虎の心が行ったことだから自分は残虐なことはしていない、と言わずに、自分のこととして受け止めて、その上で情けなさや恐ろしさ、憤りを感じている。
これは、李微の自尊心がいい意味で働いていると思う。
李微は、人間の姿を失ってしまったが、人としての心は人間のときに欠けていた、妻子を思う気持ちなどを得て、より人間らしくなったと僕は思う。
もし、李微がもう一度人間に戻れるなら、尊大な羞恥心のない、臆病でない自尊心をもった「すばらしい猛獣使い」になると思う。



 山月記の印象  レポート嫌人

数行の山月記の第一印象は難しい文章だなと思った。
漢字や熟語は多いし、少し古典的な表現もあったので最初は非常に読みづらかったし面白くなかった。
最初に読んで分かったことといえばまず舞台は中国であるということ、風景や自然について語ったものではないということである。
読む前までは舞台は日本で、日本の自然のすばらしさなどが書いてあるのだと勘違いしていた。
そして李徴についての印象はあまり良くなく、一方袁傪の印象はよかった。
これは物語だからありえる話であるが袁傪が虎になったとき、あまりかわいそうだとは思わなかったし、むしろ無関心に近かった。
袁傪は李徴の姿は一瞬しか見ていないが虎になっても疑わず変わらず李徴に接したのにはなんて度胸があり心が広い人なんだと思った。
でも話を読み進めていくうちに2人の印象が変わってきた。
李徴は虎になっても詩に対する情熱は変わっていないし、妻子、袁傪を思う気持ちがあって悪かった印象がいい方向へと変わった。
そして人間でいたい・虎になってしまいたい、この気持ちにはさまれて苦しむ李徴がかわいそうだと思った。
最終的には山月記はいい友情の物語であるという印象が残った。
李徴については高慢で孤独ながらも内には温かい心を秘めた人だと思った。
一方袁傪については最初から最後まで印象は変わらなかったが、考え直してみれば、中身は友達であるが虎になってしまった李徴に対して、疑いもせず話しかけたところでは不思議な人・変わった人という印象が強く残った。



 感想文  (´・ω・)(・ω・`)

李徴は虎になってから自分の詩に関するわずかばかりの才能に気づき、人間の時にこの才能に気づいていればと思ったかもしれないが、その詩の才能は虎になったからこそ気づくことができたのだと僕は思う。
虎になったことにで今までの視点が変わり、人間であった頃の自分を懐かしく、悲しく、あの頃に戻りたいと思い、なぜ虎になったのか疑問に思い、かつての自分の妻子や友人のことを思い、そういういろいろな考えが生まれたからこそあの詩ができたのだと思う。
人間のままだと絶対にあんな詩はかけなかったし、自分の詩の才能に気づけはしなかったと思う。
虎になったことによって人前に姿を現せない、家族のことをとても心配に思う、自我がどんどん失われていく恐怖、など悪いことが大半だが逆に自分のわずかな詩に関する才能に気づけたという良いこともあったんだと僕は思う。
そして虎になってから思い浮かんだ詩をこの姿では伝録できないが、かつての友人袁惨が自分の前に現れそのことを快く引き受けてくれた時、李徴は猛烈に嬉しかったと思う。



 「山月記」外伝 -李徴と袁さん、思わぬかたちで運命の再会!-  デヴィ婦人

 ある日袁さんが目覚めた。
なんと袁さんの姿が虎になっていたのだ!
袁さんは自分の意思ではないのになぜか体が動いて前に李徴と出会った叢に行った。
そこには一匹の虎がいた。
その虎は間違いなく李徴だ。
姿は虎だったが袁さんには直ぐに分かった。
「グルゥーーー!(李徴ーーー!)」
すると李徴がすぐに、
「ガオオー!(袁さん!)」
李朝はびっくりした。
「なぜお前がこんなところに、しかも虎の姿でいるんだ....?もしかしたら....。すまない袁さん。実は俺の中の虎があの時言ったんだ。人間としゃべるとそのにんげんも虎になると...。だからあの時しばらく考えていてなかなか返事ができなかったんだ。」
袁さんが言った。
「そんなことはない。俺もあれから毎日毎日李徴に会いたい、と願っていたんだ。例え自分が虎になってでもと...。だから俺の強い願いが俺をとらにして、しかもこの場所に導いてくれた。ありがとう!」
「袁さん。お前はいいやつだな!こんな俺だけどこれからずっと一緒にいてくれないか?」
「もちろん!」
「袁さんーーー!」李徴ーーー!」
「袁さんーーー!」李徴ーーーーーーーーーーーーー!!!」



 山月記感想文  ばびぐず

 大抵こういう言葉が難しい文章は、途中で意味が分からなくなって読むのを諦める事が多いのだが、この山月記は、最後まで興味を持って読むことができた。
人間が虎になってしまった、という非現実的な物語なはずなのに、何故か不自然さを感じなかった。
 この物語のなかで、思ったことがある。
発狂し、虎となってしまった者が居るのなら、もしかしたら猛獣というものは人間の発狂した姿なのかな…と。
そんなことが真実であるとそれはそれで困るのだが。
このように、非現実的だからこそ読み手がいろいろと話をふくらませる事が出来るのが、この話の面白い所なのかなと思う。
 最も李徴を苦しめているのは、虎となった今でも人間であった李徴が少し残っていることであろう。
どうせ猛獣となってしまったのなら、完全に虎となってしまいたいのに、人間の心が李徴を縛っている。
人間であるときは、詩歌を残すことも出来ず、ただただ後悔に苛まれるだけ。
可哀想な運命をたどってしまったんだなと思う。



 山月記外伝「食べられた袁傪と虎」  レ○レのおじ様

嶺南に無事到着し、使いの役目を終えた袁傪は、再び友人である李徴の言葉を思い出した。
「嶺南からの帰途には決してこの道を通らないでほしい、そのときには自分が酔っていて故人を認めずに襲いかかるかもしれないから。」と言っていたことを。
袁傪はその言葉通りに、帰途にはその道を通らなかった。
そして、李徴の妻子に李徴が死んだと告げ、相応の配慮をしてやった。
それから少しして、どうしても李徴のことが気になった袁傪は、再び李徴と出会った道を訪れた。
すると、また一匹の猛虎が叢から飛び出してきた。
しかし、それに李徴の意思はなく、完全に虎になってしまった李徴だった。
その猛虎は、袁傪めがけて襲いかかってきた。
虎の牙が袁傪の体をえぐり取ったその時、その虎の体の中である変化がおきた。
袁傪が目を覚ますとそこには暗闇の中で横たわっている李徴がいた。
思わず李徴に向かって走り寄る袁傪。
しかし、李徴との距離はなかなか縮まらない。
ようやく李徴の目の前に来た袁傪は李徴に声をかけた。
すると、李徴は起き上がりこう言った。
「どうして、またここにきたのだ。あれほど来るなと言ったはずなのに。」
「どうしてもこの間のことが気になってしまったのだ。それに、ただ虎になっていくだけの君を見捨てるなんてできなかった。」
そうして会話しているうちに、少しずつ、虎の姿が変化しているのがわかった。
そうして二、三日すると、虎から人間の姿になっているではないか。
それから、袁傪の意思を持った人間の姿の李徴は、詩人として名を残し、その名は後々に語り継がれていった。



 山月記の感想文  unknown

この山月記という作品をよんで、この物語の主人公である李徴の人柄は本当に虎になっていたのかという疑問が残った。
普通に考えて人間が虎になるなどということはありえない。
僕は李徴は虎になったのでなくて実は虎になったと思い込んでるんじゃないかと思った。
文中には「たちまち一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのをかれらは見た」と書いてあるがそれをあえて僕は比喩的表現だと捉える。 
李徴は追い詰められたあげく精神を病んでしまったではないのかと僕は考える。
その結果自分を虎だと思い込み山に住み虎として暮らしていたんだではないか。
それも李徴の尊大な自尊心と臆病な羞恥心によるものだと考える。
彼は自分でも語っていたようにその尊大な自尊心と臆病な羞恥心によって己の身を虎に変えてしまったのではなく、彼は己の心を虎に変えてしまったのではないのか?
そして袁惨はそんな李徴の事を途中で気づいたのではないか?
そんな考えを僕は山月記を読んで思った。



 無題  GIRU

 山月記は、人が虎になるという実際にはありえないことが書かれているが、それによって人のあり方や人生観を表現していると思う。
李徴という人物は、自分を他人に知られるということを拒みできるだけ他人とかかわらないように生きてきたと思う。
他人に自分の才能の大きさを測られたり限界を知られることを恐れていた。
そのように生きていることで、詩家を目指しているもののうまくいかず、地方官吏の職に就いたとき自分の自尊心が傷つけられたと感じ発狂し虎になってしっまた。
 李徴が虎になったとき、李徴は始めて自分の今までの自分の人生について省みたと思う。
きっとこのとき今までの自分の行いを多少うなりとも後悔したと思う。
そして虎として生きることで友の存在の大きさを感じたと思う。
 山月記という作品は、非現実的なことを書くことによって、現実を見さしてくれたと思う。



 商於人虎録 -山月記外伝-   作:六蛇 焔

 これは商於にて袁傪と分かれた後、李徴が自ら命を絶つまでの短い物語である。

 旧友袁傪と分かれた後、自分は人を決して食い殺さぬようどこか深い山の奥へ隠れようと思い、人としての心があるうちに近く の山へと向かった。
後々考えればこのようなことは自分の心が人の心である時間のほうが短い我が身にはなんら意味はなかっ たと思う。
それでも自分はひた走りに走り、近くの山の中の洞窟の中へと篭った。
洞窟の中で身を丸めているうちに自分は耐え難い喪失感に見舞われた、人の心から虎の心へと変わるときはいつもこのような 感じだ。
こうして、いつものように自分の人の心は消え去ってしまった。

 私は商於の珂栖(かす)、山に入りて獣を撃ち、山菜をとり、川の水を汲みその日その日で暮らしを立てている。
私がいつものように山に入るとき、なぜか虎のいないはずの山から虎の咆哮が聞こえたような気がした。
私は不思議に思ったが、山に入りて十余年、並みの獣には遅れをとらんとその日も鉈を持ち、弓を担ぎ、篭を持ちて山に入った 。

 自分が再び人としての心を取り戻したとき、自分の手と口は獣の血にまみれ、目の前には食い散らかされた猪の死骸が転が っていた。
「またやってしまった・・。」
自分の口を裂いて出たのは獣の鳴き声ではなく人の声、それも悲しみに満ちたものである。
「殺めたのが人でなかったのは幸いか・・」
自分の人とは違うはずの虎の顔には悲しみにくれる人のような表情が浮かんでいることであろう。
川の水の流れで口を漱ぎ身を清めようと思ったそのとき、自分の右手から草を掻き分けて何かが進む音が聞こえてきた。
音の鳴りかたからして、おそらくその何かは人であろう。
そう考えた自分は静かに、音を立てずにその場を去ろうとした。
しかし自分はその場を動けなかった。
先ほど袁傪と言葉を交わしたことを思い出し、耐えようのない人恋しさに襲われたのだ。
俺は、その場を動けなかった・・・。

 私が草を掻き分け進んでいると、前方に獣の気配を感じた。
「猪・・・いや違う、これは・・・」
身の丈程もある草木の間から見えたのは山吹色の毛並み。それは恐ろしく大きく、美しい虎であった。
虎の皮は高く売れる、これほどに大きく美しい虎ではなおさらである。
「仕留めれるか・・?」
自問自答、しかしその問いに答えられるのは自らの心と手に持った心細い武器のみ。
しかし私は目の前にある美しい毛並みに心奪われ、正常な判断ができなかった。
矢を放ち、足を封じた後に鉈で咽を掻っ切る。
そう決め、私は足を前に踏み出した。

 叢の中にある人の気配はしばらく動かなかった、道に迷ったのであろうか?
そのときの自分は人恋しさのあまりに自分が汚らわしい虎の身であることを忘れていた。
人恋しさのあまりに自分が声をかけようとした次の瞬間、右肩に灼熱の痛みが走った。
自分の肩を見る、そこには矢が刺さっていた。
そうか、このものは私の毛皮を売り、肉を食らうつもりなのか・・。
怒りとともに、いやに冷静にそのことを受け入れた自分。
しかし受け入れたからといって肩を射られたことに対する怒りが収まるわけではない。
次の瞬間、今度は左肩に痛み。
自分の体は怒りに支配され、次の瞬間には叢の中にある気配に向けて飛び掛っていた。

 私が放った矢は、狙い違わず虎の右肩に命中した。
普通の獣ならここで痛みに耐えかねず飛び掛ってくるところだが、その虎 は何故か呆然としたようにその場に立ち尽くしていた。
その間に私は次の矢を放つ。
次の矢は左肩に命中した、これでもう虎は満足には動けないだろう。
しかし、虎は一瞬人のような悲しげな顔をした後、普通の虎を遥かに上回る速度で私へと飛び掛ってきた。
私は、おそらくそこで命を落としたのであろう。
欲にくらんだばかりに正常な判断ができずに命を落とす、実にばかばかしいことだ。
しかしもう私にはどうすることもできない、私の意識は深い深遠の底へと落ちていった。

 自分はすべてを見ていた、人の心にありながら同じ人を殺す業を。
止められたはずであった、しかし自分にはどうすることもできなかった。
自分はただ、怒りに任せて目の前の人間を八つ裂きにした。
「ついに、やってしまったか・・。」
予想していなかったわけではない、虎として生きる時間が長くなっていく以上、人の心のままに他の獣を殺めることもあるだろうと。
しかし、最初に殺めるそれが人であるとは誰が予想できたであろう?
しかも私はその人間を自分の意思で殺したのだ。
「もう、潮時か・・。」
そう、本来なら私は最初からこうするべきであったのだ。
人として生きてきた以上、自分は虎としては生きることはできなかったのに、自分の身かわいさにここまで生きながらえてしまった。
心残りであったことも、すべて袁傪に話し、託してきた。
もう心残りはないはずであったのだ。

 その日のうちに、山中の崖の上から飛び降りる恐ろしいほどに大きく、美しい虎の姿が目撃された。
その知らせを聞いた袁傪は嘆き悲しみ、せめてもの弔いにと李徴との最後の約束をすべて全力で果たした。
また、美しい虎の皮の噂は国中を駆け巡り、時の皇帝もその毛皮を欲したが、袁傪の強い訴えによりその毛皮も火葬に処され た。
 こうして、後に山月記と呼ばれるようになったひとつの事件は幕を閉じた。
李徴がなぜ虎になったのかは未だにわからないが、おそらく物の怪の術の仕業であろう。
後にはその物の怪と思われるものも滅ぼされている。
我々にできるのは、ただこの物語を後の世代に伝えることだけ、だから私も喜んでそうしよう。
ただ、虎に生きた悲しい一人の人間を思いながら・・・。



 もしもあの時と同じことになったら・・・  re

 おぼろ月がきれいな夜だった。
袁さんに自分の想いをすべて託し、人間の心を失うのを待っている間のある日のごく短い人間の心が戻っているときのことだった。
 1年前、汝水のほとりに泊まった夜と同じだった。
どこかで誰かが我が名を呼んでいる、李徴はそう感じた。
あの時と同じ声、同じ暗闇に李徴は背筋が冷たくなるような感情を覚えた。
 あの時、気付いたら自分は虎になっていた。
ならばまたあの時のように、いつの間にか現時点での姿よりもっとひどい姿になっているのではないかと。
そしてあの声から逃げたい衝動に駆られた。
 しかし、それと同時にほんの少し、小さな光が見えた気がした。
それは、自分はあの声が原因で虎になったのだとしたら、今度は逆に「あの声」を追いかければ人間に戻れるのではないだろうかと。
 しかし李徴の心は前者の感情が強かった。
己の俊足を使い、その場から逃げ出した。
とにかく遠くへ、そう思っていたがふと別の考えが浮かんだ。
自分は姿が人間だったころ、詩人になるという夢がありながら積極的にそれを実行に移そうとしなかった。
今こそ勇気を出して「夢」を追いかけるべき時ではないのかと。
これはだれかが自分に与えた罰だったのだ、虎になることでもう十分反省したのをその誰かがわかってくれた。
だからこそ今、それが試されているのではないかと。
今の李徴の「夢」は人間に戻ることである。
だからこそ「あの声」を追いかけてみようと。
でももしもっとひどい姿になっていたら・・・
李徴はそう考えたが、どうせ人間の心など失いかけているのだ、だったら今のうちにやるべきことをやってみよう、といつの間にか開き直っていた。
気付くと走っていた方向を向いたまま足が止まっていた。
李徴は方向を変え、「あの声」の聞こえてくる先を目指してまっすぐに走って行った。



 午後の袁傪  欄

 紅葉した木々からパリパリに乾燥した葉が落ち始めたある日、俺はふと旧友のことを思い出した。
そう、虎になった李徴のことだ。
彼はふとしたことから虎になっていた。
いや、実際にはそんなことはありえないのだが、確かに俺はこの目で彼の姿(つまり虎になった姿)を見たのだ。
虎になった彼は少し変わって見えた。
きっと、虎になってからずいぶんと悩んだのだろう。
ずいぶんと自分の過去を振り返っていたのだろう。
彼の心が丸くなった気がする。
 まだ李徴が人間だったころ、俺たちは仲がよかった。
同年で進士の第に登り、彼はほかの友と違い少し変わっていた。
プライドが他の人よりも飛び出て高かったのだ。
プライドが高すぎる李徴のことを良いと思わなかった人もいるかもしれないが、俺は李徴の尖った部分も人間の個性だと思っていた。
悪い部分が全てではないしな。
 その李徴が何故虎になったのだろう。
俺はずっと考えていた。
まず、人間が虎になるなんてことは聞いたことがない。
李徴は、尊大な羞恥心が虎だった、と言っていた。
俺はどうなんだろう。
俺にも尊大な羞恥心というものが心の奥底にもし、あったとしたら虎になってしまうのだろうか。
いや、これは李徴の心の現われなのだから俺とはまた違うのか・・・。
 李徴と最後にあった時、遠くからだが虎になった姿を見せてくれた。
そのとき俺は何とかしてあげたいと思った。
でも、どうやって李徴を元にもどすことができる?
病院にでも連れて行くか?
もし、元に戻すことができたとしても彼にとって幸せなのかどうか。
逆に辛い気持ちにさせてしまいそうだ。
だけど、俺はもう一度彼と話がしたいと思った。
 
 外に出て少し冷たくなった風をうけた。
秋は人が恋しくなるものだ。
彼は元気にしているのだろうか。



 感想

李徴は汝水のほとりで虎になってしまい、今まで虎として自分の行ってきた行動を省みて、その行いに怒りを覚え憤りを感じている。
そして自分はなぜ虎になってしまったのかを考えているが、家族のことや自分の詩のこと、その他のことをいろいろ考えているうちに、自分の心の奥底で虎のように本能の赴くままに生きて行きたいと思っていたのかもしれない。
そのひとかけらの思いが李徴を虎にしてしまった原因のひとつではないだろうかと思う。
また、袁惨とであった時、虎となっていた自分の心を人間の心にすることが出来たが、これは友を殺したくはないという思いが本能に打ち勝ったということだから、人間に戻りたいと心の奥底から思い続ければいつか人間に戻れるのではないか。
しかし李徴はこのまま虎になり自分の行いを省みる必要のないようにしたいと思っているが、この希望を捨てることが出来ないため、虎の姿なのに人間の心を持っているという複雑な状況になっているのではないかと思う。



 山月記の感想文  今夜が山田

 昔話には、しばしば超常的なことが起こる。
桃から人が生まれたり、竹から人が生まれたり、亀がウサギに勝利したり。むしろその非常識がデフォルトで、浦島太郎が水中で呼吸したとしても、別段それに対する注摘はつかないし、ましてや突っ込みを入れる人はまずいない。
 この山月記にも不可思議なことが起こる。
なんと、人が虎に変身するというのだ。
忠君武勇、勧善懲悪の少々浅薄な教訓を子供たちに与えるならば、その虎がスーパーマンの代わりに悪人をやっつけておしまいだが、大人に読ませるこの物語では少々勝手が違う。
この物語の主題(?)は、虎になった男自身による、自らが虎になるまでの人生と、虎になってからの人生の後悔の独白である。
 小説とは、他人の人生を体験するものであると聞いたことがあるが、これほど珍妙で、これほど強く引き寄せられる人生を聞いたことがあるだろうか。
二ページ程度の簡潔な人生も壮絶だが、虎になってからの自己を語るさまにも強く引き寄せられる。
 男を虎に変えたのは、男が己の中の虎を太らせたからだという。
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」によって。
この二つの言葉は教育関係者の中では有名らしい。
現代の子供たちがこういう問題を抱えているというのだ。
現代の子供たちも己の中の猛獣を太らせているのであろうか。


 無題

 僕は李徴は根はとてもやさしい人だと思う。
人一倍プライドが高くて、ちょっと自己中心的なところもあるけど、妻や子のことを考えて自分の夢である詩家になることをあきらめ、自分の嫌いな官職にもどったり、自分が虎になってしまって絶望的な状況にあっても、袁慘のことを想えるのはとてもやさしい証拠だと思う。
李徴は虎になったけど、その理由などについて自分なりにしっかりと考えているし、その間も、自分だけじゃなく、他の人、他のものについても考えたりできることから李徴がとても賢い人だと、わかる。
でも、李徴は完全に虎になってしまうことが、幸せだと言っているが、僕はそうは思わない。
なぜなら、もし本当にいつか完全に虎になってしまうなら、幸せだの不幸せだの、考えたところで無意味なのは、わかっていることだし、李徴が本当に人間に戻りたいのならば、そんなことは考えずに、ただ人間に戻る方法だけ考えていればいいと思う。
見つからなければ、気づかぬうちに虎になっているだけのことだと思う。
だから李徴にはどこか悲観的なところがあるんだと思う。
だから李徴はプライドが高くて悲観的ででも、根は優しい人なんだと思った。



 他人と関わらず、生きていくことは出来ない  __stdcall

 山月記の主題とは『人は他人と関わらずして生きていくことは出来ない』という事ではないだろうか。
李徴は才能ある若者でありながら、人と融和することが出来なかった。
また自尊心が強く、そのくせ自分の才能を見くびっている。
結果、人とならざる獣、虎となった。
 これは、人との関係拒み続けた結果ではないだろうか。
そして虎となって初めて李徴は、『人は人との関わりを断ち切って生きることは出来ない』という事に気づいたのである。
 例えば、李徴の作品の感想において、以下のような文がある。
「しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と」
この欠けている部分とは、この主題そのものなのだと思う。
だからこそ、虎になった後の李徴の詩は、とても美しいと劇中では評価されるのである。
これは虎になった李徴が、この主題に気づいたことの証明なのだ。
 また『虎』というのは、孤独の象徴なのだろう。
これの根拠となる一文を引用する。
「天に躍り地に伏して嘆いても、だれ一人俺の気持ちを分かってくれる者はいない。」



 李徴と袁傪・・・  酸化Fe

 袁傪と遭遇したことは李徴にとって良い結果とはならなかった。
 袁傪と遭遇してから数日間は、李徴は袁傪と会った事により以前人間でいた時のように一日のほとんどを人間の心で過ごせた。
 しかし、虎となってしまった李徴にとってはそれはこれ以上ないほど孤独な一日であった。
 今までなら一日のうちの大半は虎でいれたので、そういった孤独にさいなまれる事も少なかったが今はそうはいかなかった。
 もう一度袁傪と会いたいという希望と、一人でいる孤独とでついに李徴は耐えられなくなり駆け出した。
 どれくらい走ったかは分らないほど走った。
ただ少し感じる袁傪のにおいを追いかけて・・・
 
 数日後、
 旅を続けていた袁傪はある宿に宿っていた。
袁傪は二度と李徴とは会わないだろうと思っていた。
 袁傪にとって李徴は昔のままであったのでおそらく人との関わりはもう持たないだろうとそう思っていた。
 その夜、袁傪がなぜか寝付けなかったので気晴らしに夜の散歩に出かけた。
 竹やぶの近くを歩いたときに、ふと人間の気配を竹やぶから感じた。
 不思議に思いその方向を良く見てみるとそこには二つの目から涙を流している虎がいた。
 袁傪にはそれがすぐに李徴だと気づいた。
 虎は竹やぶから出てくると袁傪に飛び掛ってきた。
しかし、袁傪自身もそれが誰なのか分っていたので逃げようとはしなかった。

 その時、
 不意に後ろから銃声が聞こえ袁傪の目の前に血の海が出来た・・・李徴が死んだ・・・
 二人にとっては再会であっても他人からみればそれは虎に襲われている人間としか見えなかったのだ。
 
 これが李徴と袁傪の最後の遭遇になった。
 



 虎  nez

 山月記を読んでみて最初に感じたこと、それは作者中島敦の文章のパワーである。僕はこの人の名前さえ知らなかった。
しかし、この作品にとても心が惹きつかれた。
読みにくさは最初感じたが読んでみるとそうではなくてぐいぐい引き込まれて一気に読まされた。
自分に当てはめていたのかもしれない。
人間が虎になるということは非論理的で認めがたいことだが「人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。」という箇所でなんとなくわかった。
僕の心の中にも猛獣がいるのかもしれない、また、この世の人間すべての心にいるのかもしれない。
しかし、けっして李徴のように虎になってはいけないと思う。
李徴を見ていると悲しくなってくる、李徴は自分の送ってきた人生について後悔していたのだ。
これは、教訓になると思う、後悔するような人生を送ってはいけないのだ。
また、作者は李徴の内心を描くとき、自分の中にも渦巻いている孤独と狂気のようなものを表したのかもしれない。
作者も臆病な自尊心、尊大な羞恥心というものを感じていたのだろう。
僕はこの作品に出会えて本当に良かったと思う。
中島敦には、自分のこれからの人生について考えさせられた。



 「山月記」を読んで--  ...

人は、誰でも心の中に虎を飼っている。
李徴は博学才穎であるが、俗悪な役人に仕えるよりは詩家になる道を選んだ。
しかし、それも叶わず、結局は役人となったが、他の者より下位な自分が許されず、ついに発狂し。
妻子を残して失踪し、終には虎の姿と成り果ててしまった。
虎の姿になってしまった悲しみ、身も心も虎になってしまう怖さを話す李徴。
そこに、今まで誰も自分の悲しみを分かってくれなかった、という辛さが感じられる。
作者の「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが各人の性情である」という言葉により、虎というのは人の心を例えているのが分かる。
そして、その心が抑えきれなくなると、ただ自分の本能のままにしか生きていけなくなるのだ。
自分の中にも虎がいると思うと、少し怖くなる。
虎になり、人間でなくなる、ということはないだろうが、他人のことを考えられず、自己中心的なものの考え方しかできなくなるのではないか、と。
そうなってしまった李徴はとても悔やんでいる。
しかし、李徴は故人に妻子のことを頼み、もうこの道を通るな、と故人を案じているところから、李徴の本当の優しさがみえ、また人間にもどれるのではないかとも自分には思える。
自分の中の虎を暴れさせないように、自分への戒めとしてこの話を受けとめたい。



 山月記の感想   百式
 
 人間だったが、虎になってしまった李徴の感情が、読んでいてまるで本当にあった出来事のように思ってしまうくらい、適切な表現だったと思う。
李徴は、もしかしたら自分には才能が全くないのかもしれないと自分が虎になるまでずっと思い続けているくらい臆病で、そしてそう思っていることをあまり人に知られたくないプライドの高い人間だった。
そして、虎になって初めて、才能があまりなくてもそれを専一に磨いたら、自分のなりたかったものに慣れるということに気づいた。
つまり、この物語は、たとえ、自分がどのようなものになりたいと思っていても、自分の心の奥底で思っているものになってしまうということを言いたかったのだと思う。
そして、李徴は虎になってからそのことに気づき才能を磨き続けていればよかったと思うようになったので、心だけは人間になっていたのだと思う。
そして詩家になってやりたかった事を袁慘に伝え実現するとわかったので、李徴は袁慘と分かれた後すぐに完全に虎になっていたと思う。



 このお話自体への感想…  じょん・F・けねでぃ

 今から感想を書いていくことにする。
 この物語は、どういった気持ちで読めばいいのか分からない。
正しくは、いろんな感慨が混ざりすぎて、どの気持ちを中心に決めて読めばいいのか分からない。
例えば、かの有名な「世界の中心で愛をさけぶ」なら、悲しさや愛と言った気持ちを心の中で決めておき、その気持ちを持って見てみれば、それなりに感情移入もでき、ただぼんやりと見る(読む?)だけよりは、はるかに感動も大きいはずだ。
お笑い番組にしても、楽しいとか、おかしいとかの気持ちを持って見ていれば、楽しく見えるはずである。
がしかし、極端な話、もしもセカチューを楽しい気持ちで見るのは、ちょっとおかしいだろうし、何より作者がかわいそうだ。
だから、何か、物事を見聞きしたりするときは、その対象の心情や意図を読み取って、何か自分で、「中心の気持ち」とでも言うべきものを決めておく必要があると思う。
 なのに、この山月記では、それが非常に難しい。
なぜかと言うと、僕には、この物語の主体がつかめないからだ。
読んでいけば、ところどころで、面白かったり、悲しかったり、あ~なるほどなんて思ってみたりすることもあるが、まだ何かが足りない気がする。
それこそ、本文中の詩の話(李徴の詩は、確かによいのだが何かが足りていない気がすると言う袁傪の気持ち)にそっくりだ。
正直、授業だから仕方ないものの、この程度の文章をわざわざ読む気にはなかなかなれない。
だって、これはとあるジャンルの本とそっくりだからだ。
それは「マンガ」だ。
どこが似ているか?
そう思われた方がほとんどだと思うので簡潔に答えることにする。
そりゃあ、イラストなんて洒落たものはまったくと言っていいほどない。
がしかし、根本で考えてみて欲しい。
マンガとはどんな本なのか?
…僕の考えでは、あるときは楽しかったり、あるときは感動したり、あるときはなんでやねん!?みたいなツッコミを入れたくなったりするようなストー
リーの書かれた、イラストつきの本。
そんな考えだ。
そして、僕はこの山月記からも同様なイメージを受けた。
イラストはついていないが…。
だから、もうぐだぐだ引っ張っててもしょうがないからはっきり言う。
 面白くないし、あんまり勉強にもならないから、一度出直して来なさい。
この物語の作者さん?
 



 山月記、その後  アザゼル

 山月記に記されている時間から約一年後・・・。
 李徴は袁参と別れてからも一人、叢のなかに隠れながら必死に「虎である自分」と「人間である自分」とで、戦っていた。袁参と別れてすぐの頃はまだ別れを悲しむこともできていたが、しばらくするとそんなことすらどうでもいいと思える自分がいるのに気が付いた。
その心を自覚したとき、ふと目の前が真っ暗になった・・・。
 次に目が覚めたとき、李徴の周りには血に塗れた動物が二、三匹転がっていた。
どの動物も首に噛まれた痕があり、すぐに自分の、いや、もう一人の自分がやったんだと気付いた。
またか、と李徴は思ったが、自分の手が生温いことに気付き、辺りを見渡してみると、血の痕が点々と茂みの向こうへと続いていた。
これを見て李徴は何か嫌な予感がした。
血の痕を辿り茂みを掻き分けて進むとそこには人の形をした肉塊が落ちていた。
その光景を目の当たりにした李徴は、しばし呆然としたが、「ああ、俺はもう、戻れないところまできてしまったんだ」と思い、人の心が残っていることに絶望した。
そのことがまた、「虎である自分」が増長し、完璧な虎に近づいていった。
 それから一週間程が経ち、李徴は袁参がいるであろう場所まで必死に虎を押さえ走っていった。
途中、人の目にふれながらもなんとか、自分を保ちながら何一つ襲うことなく袁参のもとにたどり着いた。
突然の訪問者に慌て、驚く袁参に、李徴がもう人の声だと分からないくらい雄雄しい声で、それでいてどこか悲しげな声で「殺してくれ。自分で命を絶つことが怖くてできない。お前に殺されるなら運命だと思い安らかに眠れる。・・・頼む。」と。
それを聴いた袁参は何かを言おうとしたが、その言葉をのみこみ、黙って頷いた。
その後、李徴の言うとおりにした袁参は、李徴の亡骸を剥製とし、死ぬまで自分の傍から離そうとはしなかった。
自分が死んだときは、一緒に燃やし、それを同じ墓に入れてくれるよう、遺言を残して・・・。



 外伝 「慟哭」 - 雷麒と飛麟

 (…おれは)
 月が紅かった。
 (今まで何をしていた…。)
 それは血のように鮮やかで、
 (…ああ、そうだ。)
 見れば、
 (いつものことじゃないか。)
 自分にも同じような血の紅。その下には、染みこんですっかり変色しきった土の色。
 そして、
 (…うまかった。)
 その周りには、散乱した動物の毛や骨らしきもの。
 (…ああ。)
 空を見上げる。
 (…どうしてだろう。)
 ただ紅い月だけが見えた。それしか見えなかった。
 (腹も、衝動的な殺意も、何もかもが満たされた、はずなのに。)
 脳裏をよぎるのは、夢。
 (…どうしておれは泣いているのだろう。)
 今ではほとんど見なくなってしまった、淡く、儚い、夢。
 (…どうしてこんなにも苦しいのだろう。)
 自分の中の何か、遠い昔に忘れてしまったような「何か」を思い出させてくれそうな。
  そんな夢だった。
 夢に出てくるのは、男。
 なぜか、どこかで見たことがあるような、
 とても懐かしい感じがした。
 その男の顔を、声を思い出す度に、
 足元の地が水に濡れる。
(……っ)
 耐え切れず、彼方に見える丘に駆ける。
 そこで、
 泣いた。
 力の限り、出せる限りの方咆哮で。
 いつまでも、いつまでも泣いていた。



 山月記の主題  李徴の息子

 山月記が主題としているのは、人間の心理や考え方である。
「人間が虎になる」という外見の(視覚的な)事実を表面に出して、それに重ねるように主人公の李徴、あるいはすべての人間の心情を推論しているように思う。
 李徴はもともと才能があり、高い地位についている人物だったが、これは誇張表現と考えられ、このくらい極端な例のほうがその心理の変化を理解しやすいからではないか。
李徴が実際に虎になってしまった原因として挙げられているのは、羞恥心や自尊心、怒りなどの誰もがいくらかは持っている他愛ない感情である。
しかし、李徴はこれらの心理が強すぎたがために、心が猛獣のようになり、周りの人間を傷つけ、いつしか姿まで虎になった、つまり、他人から避けられるような存在になってしまったのである。
 この作品で作者は、このようなちょっとした心理、考え方でも、時には思わぬ方向へ向いてしまう危険があるということを言いたかったのかもしれない。



 山月記を読んだ感想  柳川鍋

僕は一番初め山月記は中国の話しなので難しい漢字がたくさん出てきて読みにくい本だと思っていたけど実際に読んでみると多少読み方の分からない漢字もあったがそんなに読みにくい本でもなかった。
 初め李徴が虎になってしまって彼はかわいそうだと思っていた。
しかしそれはそんなに不幸なことではないと思った。
たしかにかわいそうだけれども李徴は虎になってよかったのかもしれないとおもった。
なぜかというと虎になることによって今までの人生を反省し、また自分以外の人のことを思いやるようになったからだ。
 それと僕がこの本で一番感動したのは最後に袁惨に出会うことができたことだ。
虎になってしまって誰にもきずいてもらえずにいるときにかつての友人である袁惨に出会い、きずいてもらうことができてとてもうれしかったと思う。
それに袁惨に会い、きずいてもらうことによって言い残したことを伝えることができたからだ。
そのことで李徴の気持ちは癒えたと思う。



 山月記感想  OYAJI越え

この作品を読んで、一番初めは李徴に同情した。
自分の才能が認められず、生活が苦しくなり、仕方なしに自分より下だと思っていた人間に頭を下げなくてはならないような状況になることで、彼のプライドがどれほど傷ついたかはわからない。
そしてそれがどれほど彼を思いつめさせたか。
そして、自ら望んでもいないのにトラの姿になってしまい、人間の意識を保てる時間が少なくなって、詩のことを頭に浮かべる時間も少なくなって、どうしようもなくかわいそうだと思った。
でも李徴は、トラになって、自分自身について、そうなってしまったことの理由を見つけ出せるほど思い当たることがあるということなので、自業自得といってもいいんじゃないだろうか。
でも、袁傪と会い、少しは気休めになったとおもう。
しかし、もう李徴は友人とは会えないかもしれないので、やかりかわいそうだとおもう。
それに詩ももうたいしてできないと思われるので、トラになったことで、いままでの自分自身を反省し、そしてそれが報われて人間の姿に戻れることを願ってみようかなぁとおもう。



 山月記の感想  たこ焼き青海苔だくだく

 山月記を読んで考えさせられるのは、人間の奥深くに根付く本質的なものとは一体何だろうかという問いです。
 そういった面からのキーワードに考えられるのは「猛獣」という点にあると思います。
 李徴は各人の性情を「猛獣」と言い、人間はそれを飼いならす「猛獣使い」であると、表現しました。
 元来猛獣とは、本能に抗うことのできない生き物です。
 すなわち人間の性情がそのまま本能と言い換えることができます。
その結果として李徴の尊大な羞恥心と臆病な自尊心が、虎へと李徴の姿を変えたのです。
 現代社会でも、姿を変えるとまで行かなくとも、自分で選択して行動しているはずなのに、何かに流されているような感覚を持つことが多いのも、自らの「猛獣」の本能のようなものが関係しているのかもしれません。
 この山月記では、李徴の告白やその時の回りの風景について詳細に書かれています。もしかしたら李徴の苦悶の告白は作者自身の告
白でもあるかのように捉えることができるくらい、要所要所を突いた表現になっていると思います。



 「山月記」外伝    美羽

 袁參が嶺南に着いたとき、袁參は李徴の言葉を思い出していた。
そこで、袁參は李徴が伝録してほしいと言った詩を嶺南に残しながら、勅命をこなしていった。
 嶺南を去る日、袁參はどうしてももう一度李徴会って話しがしたいと思った。
だから、もう1度あの場所を通ろうと考えた。
しかし、他の者達はそれに賛成せず違う道から帰りたいという者ばかりであったが、袁參は1人であの場所に行こうと決意した。
他の者は反対はしなかったが、やはりついていこうとは思わなかった。
 何日か歩いた頃、そろそろあの場所に近づくというころあの聞き覚えのある咆哮が聞こえた。
袁參にはそれが間違いなく李徴のものであるとわかった。
そして、その声が聞こえた場所まで急いだところ、そこには李徴がいた。
するとすぐに李徴は、帰りはここを通らないでほしいと行ったはずだが、どうして君がここにいるのかと尋ねた。
その言葉に袁參は、もう1度話がしたいと思ったのだ。
今から私はカク略に行こうと思っているのだが、どうしても私は君の言葉で君の妻子達に前に言った言葉を伝えてやってほしいのだ。
だから、私と一緒に行かないか?と聞いた。
その問いに李徴は、それはできない、旅中に君を襲うかもしれない、それに今のおれには妻子達にあわす顔がないと言った。
では、カク略の近くまで来て妻子達の姿だけでもみておきたくないか?という袁參の問いに、それならば私は今からカク略の近くまで行こうと答えた。
 袁參がカク略に着いてすぐに李徴の妻子の元に向かった。
そして、李徴が前に言ったとおりに李徴はもう亡くなってしまったということを告げ、李徴が最後に書いた詩を渡した。
次に袁參が向かったのは李徴の元であった。
李徴はカク略の近くにいてもう妻子達と会ってもおかしくない距離まで来ていた。
そのこともあって袁參は本当に会わなくていいのか?と念をいれて聞いたが、やはり李徴は会う気はないと答えた。
 李徴は次の日にここを去ると袁參に告げた。
しかし、その日に李徴は我を忘れ完全な虎となってしまった。
そして、虎はカク略まで降りてきて人々を襲い始めた。
ついには、自分の妻子達までにも牙を向けたのであった。
妻子達が死んだとわかった虎はその時に李徴に戻った。
そして、李徴は袁參に自分を殺すように頼んだ。
袁參は戸惑っていたが早くしないとまた虎に戻ってしまうという李徴の言葉を聞いて仕方なくそばにあった刃物で李徴を刺した。
李徴は最後に感謝の言葉を告げて倒れこんだ。
 袁參は次の日に李徴と妻子達を同じ墓に埋め泣き崩れたと言う・・・



 「山月記」外伝  匿名希望

李徴と別れ嶺南に向かった袁傪は、そこで今回あったことを日記に記し李徴のことを忘れないようにした。
嶺南からの帰り道は、李徴に言われたとおりに李徴(虎)が出る街道を通らずに都に帰り、李徴に頼まれた詩をこのままでは後世まで残せないと思い、袁傪が少し改良を加え詩を本に記した。
そして、李徴の妻子に李徴の今の現状を話したところ、妻子が李徴に会いたいと言うが袁傪は李徴が人間の心を忘れているからといって自分の妻子を襲うのはあまりにも李徴にとっても妻子にとっても悲しいことなので李徴の妻子を行かせなかった。
そして、自分が李徴に頼まれたことを話し妻子に袁傪の家に連れて行き、袁傪は李徴の妻子に何の不自由もないように大切にあつかった。
数ヶ月が経ち、商於では、人食い虎をついに仕留めたと言う事が袁傪のもとに伝わった、このことを聞いた商於の民衆は喜んでいたが、袁傪達はとても悲しんで、李徴の墓を作り、李徴を尊んだ。
そして、李徴の詩はあまり後世まで伝わらなかったが、この話しは、長く後世まで語り継がれた。



 山月記の感想 奈菜氏

 最初は、難しい言葉だらけで、理解に苦しんだが、読み進めるにつれてだんだんなれて、意味も理解できて来た。
 李徴は、虎の中に人間の部分が一部残っている状況になってしまって、それで人間が消えている間に何をしでかすかわからないというこの恐怖と戦いながらも生きていかなければならないという、この生き地獄のような状況に陥り大変かわいそうだと思った。
 李徴が友人の袁さんを襲いそうになってしばらく草むらに隠れて姿を表に出すのをためらった気持ちも非常によくわかった。
 袁さんも行方知れずになっていた李徴が虎の姿になったとはいえ生きていてくれたのはきっとすごくうれしかったと思った。
 李徴が袁さんにいろいろ物事を頼んだときに、妻子のことよりも最初にかつて作った数百の詩の伝録をたのんだあたりが李徴の性格がよく現れていると思った。
 最後に別れるときに李徴が袁さんに、もうこの道を通らないでくれといったところも李徴の気持ちがよく現れていると思った。



 山月記の主題

この小説の主題は、
  人との関わりは非常に大切だということ
だと思う。
今回李徴は、他人とのかかわりを持たず、更に家族のことまで考えないために、自分を苦しめてしまったのだと思う。
 人と関わりをきってしまったために、李徴は臆病になり、自尊心をおおきくしてしまったりしてしまったのだと思う。
それにより、李徴の夢である詩家というものに対して、自分がどれくらい詩家に向いているのか、近づいているのかが分からなくなってしまっている。
しかも、人と接するのがだんだん嫌になり、自分の作品を人に見せたり、評価されることも嫌になってくる。
それによって、夢の実現には自分がどこにいるのか、どのように頑張ればいいのかという基準がわからなくなってくる。
それをハッキリさせるためにも、人との関わりは大切だと思う。
 人の心というのは非常にもろいものである。
そのもろい心を支えてくれるのは、他人の存在である。
 この物語は、李徴という人物がその支えを失ってしまって、虎という動物になってしまうことで、そのことを示しているのだと思う。



 外伝  虫歯菌

気がついた時、自分は何処か見知らぬ場所にいた。
そこには緑の下草が鬱蒼と生い茂り、森と草原との境目のような曖昧な輪郭を持った場所であった。
「ここは・・・何処だ」
 辺りを見回しても片側には緑の草木の絨毯が続き、もう一方にはあるいは曲がりくねりあるいは天を衝くように伸びた樹木がその大量の葉でもって深遠さながらの暗闇の口を覗かせている。
「・・・いったい、どういうことだ」
 思った言葉がそのまま口から漏れた。
まったく、意味がわからない。
自分はなぜここにいるのだ。
「昨日は、たしか汝水の・・・」
 ふと、昨夜に何かがあったような気がした。
だが、何があったのかが思い出せない。
何か、とても重大なことであった気がする。
「ふむ・・・」
 しばしそのままで考え、だが答えはでない。
言いようのない不安感と、なぜか同じくらいの期待があった。
「水を浴びて、頭を冷やすか」
 幸い、水音が先ほどから聞こえていた。
そう遠くないところに小川でもあるのだろう。
 歩き始めたとき、不思議な感覚を覚えた。
身体に奇妙な違和感と安定感があった。
何かが少しずれてしまったかのような。
「何だ。・・・いや、考えすぎだろう」
 首を振り、馬鹿な考えを振り払った。
ともかく今は現状を正しく認識するほうが先だろう。
「ん。思ったよりも近かったな」
 水音がすぐそばまで近づいていた。
考え事をしながら歩いていたせいで、時間が短く感じられたのだろう。
そう納得したところでまた奇妙な感覚にとらわれた。
何かはわからない。
だが何かが確かにおかしい。
「・・・・な!そんな、馬鹿な」
 先ほどまで見上げていた樹木が、今は見下ろす位置にあった。気がついたときには丘のような場所にいた。
あの樹の高さから、どう考えても考え事をしながらあがれる高さではない。
しかしその驚いている暇もなく、新たな衝撃に襲われた。
「そんな・・・・・馬鹿な・・・」
 自分の手が、地を掴んでいた。しかもそれは剛毛に覆われ、明らかに自分のものではない。
しかし自分の肩からそれは生え、感覚もあった。
「馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な」
 それこそ馬鹿のように繰り返しながら、川面へと走った。
いや、駆けたというべき速さだった。
「・・・・・・そんな・・・馬鹿・・・な・・・」
 そして、おれはそれを見た。
馬鹿のように呆けた顔つきの、川面にうつったその姿を。

 ・・・・あれから、すでに一年近くが経っている。
日毎、おれがおれでなくなっていくのを、おれは強く感じていた。
「おれは・・・どうすればよいのだろうか。一体これから、どうしていくのだろうか」
 その問いに答える者はいない。
なぜならおれはもう・・・・・・。
「おれは・・・・」
 誰も、答えてはくれないのだ・・・。



 帰途  十六夜 無月

嶺南からの帰途の途中の夜のこと、袁傪は以前李徴と出会った道を通っていた。
最後にもう一度だけ一目李徴の姿を見ておきたいと思ったからだ。
袁傪は嶺南へ行く途中に、もう一度会えるような気がしてならなかった。
だとその霊感的な感情が日に日に強まるのを袁傪は感じていた。
その機会を逃せばもう一生会うことが出来ないかのように。
だから彼は今この道を通っている。
かつての親友と言葉を交わしたこの道を。
もちろん部下に止められた。
しかし、袁傪はそれを聞き入れずに一人で此処にやって来た。
しかし、その夜道は静まり返っていた。
道中では虎どころか小動物すら見ていない。
袁傪はだんだん心細くなってきていた。
そもそも暗い夜道にしかも一人の袁傪にとっては、かつての親友に会えると思うことだけが支えだった。
その支えが今や風前の灯の様に消えかかっている。李の遠吠えすら聞こえないのだから当然である。
ただ李徴に会うことだけを考えて歩いていると後ろの草陰が音を立てた。袁傪は一抹の期待を胸に振り返る。
袁傪が振り向くとそこにはリスが1匹倒れていた。すでに息絶えている。
そのリスは袁傪の不安を掻き立てた。
ただのリスが他人事のように思えなかった袁傪は埋葬しようと袁傪がしゃがみこんだ。
その時、大きな黒い影が一人と一匹を覆った。
一閃。
あたりは赤く染まっていた。
草も木も大地も。
全ては赤く塗られ禍々しい光を放っていた。
ただ異臭だけが周囲を包み込んでいた
そこに転がるものはただの肉片としか呼べないような代物だった。
そこには一匹のリスの死骸と数分前は人間だった肉片。
それと一人の男が気を失っていた。
男は黄と黒の毛に毛布のように覆われていた。
その日、朝日が昇るまで誰もこの道を通らない。
虎が出るようになってからこの道を通る者はほとんど居なくなっていた。
その日は朝霧が濃くどんよりとした夜明けだった。
すると一人の男が赤い泉の近くに歩いてきた。
男はその場所を見つけると立ち尽くした。
脳が行動を拒否した様に動けなくなり、ただ見つめていた。夜とは違う悲しみが作り出した静寂があたりを包み込んだ。

どれくらい経っただろうか。
商於の宿屋で一人の男が目を覚ました。
その男は辺りを見回し、ハッとした様に自分の手を見た。
人の手である。
指である。
皮膚である。
その男は不思議でたまらなかった。
なぜならこの男こそ虎としてこの商於で恐れられていた李徴なのである。
なぜ人に戻ったのか李徴にはさっぱり分からなかった。
李徴は部屋を見回した後、宿屋から駆け出した。
ひたすら駆けた。
親友と言葉を交わしたあの道へ。
ようやくたどり着くとそこは別世界だった。
いや、地獄といったほうが正しいかもしれない。
あたりには異臭が立ち込め、周囲は赤しか存在しない。
黄と黒の毛でさえ赤く染まっていた。
李徴は落ちている肉片に目が行くのに数秒かかった。
ほかの者には肉片に見えようとも李徴にはそれが何か、なぜそうなっているのかが分かった。
李徴が全てを悟ったとき、空に向かって絶叫した。
かつて自分が発狂した夜など比べ物にならないくらいに。
その後、その場所は赤い色がなくなる事も無く人々に恐怖を与えている。
李徴のその後を知るものは誰も居ない。
商於の人々はその日に天空へ上る龍を見た人という人が後を耐えなかったという。



 僕はこう思う  ABC

 博学才穎の李徴が発狂、虎になる。
まずこの物語のインパクトに驚いた。
 なぜ李徴は虎になったのか。
そこがこの物語のテーマだと思う。
詩人になろうとして途中で挫折し、虎になった苦しみを誰もわかってくれないと嘆いている李徴は、可哀想だとも思うが、それは気持ちが不安定であり、もっとしっかりとした意思を持つべきだとも思った。
 エリートだからこそ、自尊心が逆に自分を滅ぼしたのか。
そんな風に考えていくと、よい大学に入り、一流の会社に就職するというようなことをトントン拍子でやってのけてしまうと、少しの失敗が大きなダメージとなるのではないか、と考えてしまう。
一つの事を貫いてやっていくべきだと思った。
それができないから李徴の詞には、第一流の作品となるにはどこか欠けるものがあるのだと思う。
 臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉は違和感を感じるが、李徴にはこの言葉が適切だと思う。
 じぶんを嘲笑う前にすることがあったのでは?そう感じる。