G・Fからの手紙   武田充啓



 前略 元気してますか。この間はどうもありがとう。お借りした『トーマの心臓』読みました。でもこれサコちゃんからの借り物なんでしょう? 

 まあそれはいいとして、今日はそんときに私の頭にぼんやり浮かんだことを書きますね。  『トーマの心臓』の解説の中で、村上知彦はいっているの。

  トーマ・ヴェルナーを殺したのは誰か。
  それはぼくだ。  
  ぼくの中にもいた、あの少年を殺してしまったのはぼくだ。

 でも私は別の問いかけをすべきなんじゃないかなって思う。「ユリスモール・バイハンを殺したのは誰か」って。

 胸の鼓動が聞こえはじめたのは、ユーリが神学校行き(=神父になること)を決意する場面。

  きみ ぼくにきみの翼をくれるっていったね。

 このとき私が思い起こしていたのは、『ベルリン・天使の詩』−−寒かったね、でもよかったね、サコちゃんもよかったっていってたよ−−の中で、ピーター・フォークが天使ガブリエルに対して「この世界」への誘いをする、あの感動的なシーン。

 一方は、やがて翼を捨てて「人間」という限りあるもの(しかも中年の!)になろうとする天使を描いたムービー。

 もう一方は、自ら翼を捨てた(と思っている)少年がまだ持っている(はずの)別の少年の翼をもらって「神父」になろうとする姿を描いたマンガ。

 「神様」から「人間」へ、「人間」から「神様」へ、方向がまるで正反対。対照的だなあって。

 エーリク・フリューリンクがいくら翼を持っている少年でも、「少年」であるかぎり、彼もやがては翼をなくしてしまう。つまり作者は「少年たちの翼は、やがてはなくなるものなのだ」っていうことを認めてしまってるの。そのうえでユーリに神父になる決意をさせてる。でしょ。

 少年たちの、その誰の背中からも翼が「なくなってしまう」とき、それでもかつては彼らにも翼が「あったんだ」ってこと忘れさせないようにする「装置」として、ユーリ=神父は存在してる。でもそれってあまりにもロマンティックな欲望を助長するばかりじゃないかしら。

 このとき萩尾望都はユリスモール・バイハンを殺すだけじゃなく、すべての少年たちから現実の翼を奪ってるんだと思う。

 ヴィム・ヴェンダースはそんなロマンティックな欲望を否定してるような気がする。彼はなくしてしまった、あるいはどこかにあるに違いない「懐かしの、憧れの、幻の」翼を描いたりはしない。彼は「少年の翼は決してなくなりはしない、それは今もそこにあるんだ」ってこと知らせるために天使を人間に「堕とす」の。

 子供たちにとって天使は「天使」っていう特別の存在じゃない。「子供はやがて天使を見ることが出来なくなる」って、そんなふうに思いたがる大人たちが特別な「天使」の存在を支えてる。そして、天使が「やがて見えなくなるもの」として考えられているというそのことが、実は子供たちから翼を奪うことになってるんだと思う。

 ピーター・フォークが天使を感じることが出来るのは、彼が以前天使だったからじゃなくて、彼が今も少年だから。「天使はやがて見えなくなるもの、翼はやがてなくなるもの」なんていう「常識」から自由でいるから。

 少年は少年でなくなってしまう、彼らは彼らでなくなってしまう。それに似たような言葉を、たぶん私は以前口にしてるし、これからもすることがあるかも知れない。でもそれがもし「もう自分が少女でなくなっちゃった」っていうような(幻滅、あるいは自己嫌悪的な)言い訳としてだったなら、ちょっと哀しいし、貧しすぎると思う。

 私たちには翼があるんだし、それがあると感じられるときにはいつでも、彼らの翼が見えるはずだって思うから。

 だから『トーマの心臓』のいちばん感動的な場面は、ユーリが神父になる決意をする場面でも、エーリクがその愛をNOT二番煎じ、BUT「私」自身の愛なんだって主張する場面でもなくて、やっぱりトーマが翼を捨てて「堕ちてゆく」冒頭のシーン。

 そして忘れてならないのは、トーマ・ヴェルナーは決してユーリを「神」により近い「神父」へと「昇らせる」ために「堕ちた」のではなかったということ。 だから萩尾望都には、ユリスモール・バイハンを「悪」へと下降させたその反動で「神」へと上昇させるんじゃなく、もう一度、そして本当に、「人間」へと向かって「堕ちる=生きる」姿を描く義務が残されてるんだって思いたい。

 私たちには「ぼくらの中にトーマ・ヴェルナーが生きている」っていう権利があるんだから。ね、そう思いません?

 とまあ、たぶんへんな文章になっちゃった。でも読み返さないでこのまま出します。まだまだロマンティックすぎるって笑うだろうな。お仕事頑張って下さい。それからサコちゃんに会ったらよろしくね。また一緒に映画を見に行きましょう。           かしこ


 この手紙をもらったのは確か88年の暮れだったから、あれからもうすぐ3年になろうとしている。2年前、G・Fはそれまで8年付き会っていた彼氏と9年目のその年に突然の逆転サヨナラ。ほどなく別の男性と結婚した。サコちゃんとは現在僕の妻になっている女性である。彼女たちは今も友だちでいる。したがって僕をも含めた僕たちの交際は続いているのだが、一緒に映画を見に行こうという彼女の提案は実現しないままである。

 1991年の夏休み、僕は公開時に見逃していた映画をヴィデオで見た。少女たちが少年たちを演じているそれは、ほとんど(だから微妙にそして確実に異なっているということなのだが)『トーマの心臓』であった。僕はG・Fに一枚の絵はがきを送った。「『1990年の夏休み』を見ましたか。見ていたらその感想を。まだならヴィデオになってるから一度見てみて下さい。」と僕は書いた。

 9月も半ばが過ぎた頃、G・Fからの返信がやっと届いた。

 「見たよ。みんなで一緒に映画行こ!」


付記
本校発行1991年度の "Campus"誌の「読み物」コーナーのために拵えた「お話」です。


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