「モラル」について   武田充啓


 締め切りが近い。書かねばならない。
 虫たちさえ「リンリ、リンリ」と鳴きたてる。
「モラル」について書くことを、たしかに私は「約束」した。

 約束は守らねばならない。
 なぜなら、しないですますこともできた約束を、それでもしたのは自分だからである。

 もちろん約束には相手がある。相手はその約束に合わせてすべての予定を立てている、はずである。
 つまり約束をした人が約束を破ることは、相手に「迷惑」をかけることになる。
 だから「いけない」のである。 

 これでおしまい。では約束の字数に足りない。
 そこで約束は守るのが義務だが、守れない場合を考えてみる。
 たとえば彼女と待ち合わせをしている。車で急いでいると、重傷を負った人が道に倒れている。さてどうすべきか。

 約束した彼女には悪いが、けが人を助ける、が常識的だろう。
 最悪の場合を比較して、彼女が怒って包丁をふりまわすというような心配がない限り、
 見捨てたけが人が死んでしまうことのほうを「大きい不幸」と考え、「小さい不幸」のほうを選択する。

 「困ったときはお互いさま」という考えもある。
 「自分が望むことを彼/彼女にする」を原則とすれば、誰もがけが人を救うことになるだろう。
 もちろん自分がして欲しいからといって人に麻薬を注射してはいけない。
 だから「彼/彼女が望まないことを彼/彼女にしない」という原則のほうが優先する。

 しかしそうなると今度は麻薬の取り締まりなどができなくなる。
 つまり「優しさ」の原則と「正しさ」の原則はズレているのである。
 より正しい原則は「自分がして欲しくないことを彼/彼女にするな」ということになろうか。

 「相手の身になって考える」ことは大切でよい方法に見える。
 が注意が必要である。いじめの場合がわかりやすい。
 いじめる人はいじめられる相手の気持ちがわかればいじめをやめる、と考えるか。
 それとも、いじめる人は相手の気持ちがわかるからこそ楽しくてやめられない、と考えるか。
 これはどちらも「正しい」というしかない。

 借りたナイフを返そうとしたら彼が「アブナイ人」になっていた。
 これは返す約束を守ってはいけない場合である。

 さて、こう書いてきてもいっこうに私が約束を守らなくてよい状況にはならないので、話を少しずらしてみる。
 他人に「迷惑」をかけるのは「いけない」。これはとりあえずよいとして、
 では「他人に危害や迷惑をかけなければ何をしてもよい」か。
 これを考える。

 人体に有害とされるタバコでも、吸う吸わないは買った「その人の自由」である。
 死ぬとわかっていて輸血を拒否するのも自由だし、だから自殺をするのも勝手である。
 どうやら「自分のもの/ことは自分で決めてよい」らしい。

 だから自分の身体の一部である胎児も勝手に処分してよいし、自分の身体の一部である臓器を人にあげてもよい。
 すすんで奴隷になる場合でも「自分で決めてよい権利」そのものを他人に譲り渡すのもまた自由ということになる。

 もちろんそうした「自由」は「判断力のある大人」に限られる。
 ポルノグラフィは見たい人が見るといってもそれは「大人」だから許されるのであって「子ども」は論外である。
 しかし「子ども」はいつまでも「子ども」のままではない。
 そこで問題になるのは「子ども」はいつ「大人」になるか、である。

 判断能力は、たとえば二十歳なら二十歳という年齢によって、一律には決めてしまえないほど「個人差」が大きい。
 しかしだからといってケース・バイ・ケースということになると、今度は「平等」が保てなくなる。
 だれが、どのように判断能力を判定するのか。
 近頃では高齢化による「大人」の判断力喪失も深刻な問題である。

 「自分のものなら」というのも気になる。
 たとえば「自分の身体を自分が持つ」ためには、「持たれる自分」と「持つ自分」とが別々に分かれていなければならない。
 しかし本当にたとえば「私が私の命を持っている」と言えるのか。

 これはただそのようにみなすことができるというだけのことであろう。
 自分という存在の全体から、主体(自分の意志)と対象(自分のもの)をきれいに分けてしまうことなどできはしない。

 「他人」についても同じようなことが言える。
 タバコの煙を一人きりで吸いきることなどできないのがふつうである。
 たった一つ空いている席に私が座れば他の誰かが立つことになる。これは「環境」という視点を持ってくれば瞭然である。
 自分に無関係な他者などどこにもいないのである。

 「自分に不利益なことをするのもその人の勝手」という考えの根っこにあるのは、
 「自分のことは自分が一番よく気にかけていて、よく知っているはずだ」という考えである。
 だからこそ「個性と自発性を尊重しよう」ということになる。

 「彼/彼女が自分で間違うことを恐れるより、
 他のもの(社会)が彼/彼女に対してそれ以上の間違いを押しつけてしまうことのほうを心配すべきだ」ということにもなる。
 しかしもちろん、逆に「自分のことを一番知らないのが自分である」とも言えるのである。

 それでもやっぱり「自分のことは自分で」という原則は大事にしたい、と私も思う。
 ここにはおそらく、多数決に基づく政治的な干渉から少数の「個人(の自由)」を守ろうとする姿勢がある。
 国家のような存在ができることは個人の自由を制限することでしかない。
 ならばそういうものは最小限でよい、とする考えである。

 しかしこうした自由主義的・個人主義的な考え方のうちにある希望的観測については疑問を感じる。
 それは、個人はエゴむき出しバカまる出しに見えても、全体的に見れば、
 あるいは長い目で見れば、自由と功利、自己決定と理性とが一致するという想定である。
 啓蒙や教育のあるなしにかかわらず、「最終的に自由と理性は一致する」という見方は、やはり一つの理想にすぎない。

 これが最近の私の実感である。
 とここまで書けば、約束は守れた、しかしそう書いては教育者としてのモラルに反する、となるのかも知れない。

 素人が大ざっぱにすぎる話をしてきたが、紙数が尽きてきた。
 こうした問題に興味のある人で、でもまだ自分は「子ども」だしと思っている人には、
 @『子どものための哲学対話』(永井均、講談社)、
 A『哲学ってどんなこと?』(トマス・ネーゲル、昭和堂)の一読を、いや自分はもう「大人」だよと思っている人には、
 B『現代倫理学入門』(加藤尚武、講談社学術文庫)、
 C『コウモリであるとはどのようなことか』(T・ネーゲル、勁草書房)の一読を、それぞれおすすめする。
 なお、上の文章はBに多くを負っている。

 直接には触れられなかったが、ネットワークに関係する「モラル」に関しては、
 富山大学の小倉利丸 氏のホームページ(「大学とインターネット」「ANOTHER WORLD」などのページ、
 後者にはフェミニズム、環境、文化運動、マイノリティ運動、地域運動、人権運動などのページへのたくさんのリンクが張られている)を参照されたい。
 とくに通産省や電子ネットワーク協議会の出した「倫理綱領」に反対する抗議声明のページでは、
 賛同者の署名一覧のうちに、 粉川哲夫らの名とともに奈良高専の学生さんの名前(←個人名を削除しました(2016/06/08))
 を見つけたときには正直驚いたし、うれしかった。
 私はたしかに勇気づけられたのである。


付記
本校 電子計算機室 運営委員会広報誌('97年度)に寄せた文章です。
参照リンク先を含んだ最後の段落は、少し文章を変更(URLの記述を省略等)しています。

この原稿は、97年9月末が締め切りでした。
印刷されて発行されたのは98年1月のことでした。虫は、当然……


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