夏目漱石『坊つちやん』の「乱暴者」

Ranboumono ( A Rough ) in Natsume Soseki's Botchan

              武 田 充 啓 (Mitsuhiro TAKEDA)


 はじめに

 『坊つちやん』は、明治三十九(一九○六)年四月一日発行分の『ホトトギス』に掲載された短編である。その明治三十八・九年の『断片』に、漱石は「世界向後の趨勢は人間はみな自殺するものであると云ふ命題が事実に証明せらるゝ時期に到底する」と書いた。

○今人について尤も注意すべき事は自覚心が強過ぎる事なり。(略)此知覚は文明と共に切実に鋭敏になるが故に一挙手一投足も自然なる能はず。人々コセコセして鷹揚な人を見る事能はざるに至る。(略)而して現今の文明は天下の大衆を駆つて悉く探偵的自覚心を鋭敏ならしむる世なり。思ふに自覚心の鋭きものは安心なし。起きて居るうちは無論の事寝て居る間も飯を食ふ間も落ちつく事なし。此故に探偵を犬と云ふ。(略)

天下に何が薬になると云ふて己れを忘るゝより鷹揚なる事なし無我の境より歓喜なし。カノ芸術の作品の尚きは一瞬の間なりとも恍惚として己れを遺失して、自他の区別を忘れしむるが故なり。是トニツクなり。此トニツクなくして二十世紀に存在せんとすれば人は必ず探偵的となり泥棒的となる。恐るべし。(同『断片』。以下、断りのない場合、傍点は引用者による。)

 漱石が二十世紀の「安心」なる世界を芸術による「トニツク」に求めたことは疑いがない。彼の創作は、「自殺」だけが安心への道として残されているような「探偵的」社会を生きる人間に対して処方された薬であり、望ましき生への強壮剤としてある。そしてそのことは『坊つちやん』についてもいえるのである。

  △汝の見るは利害の世なり。われの立つは理否の世なり。汝の見るは現象の世界なり。われの視るは実相の世なり。人爵−−天爵。栄枯−−正邪。得失−−善悪。……(同『断片』)

 『坊つちやん』での試みの一つは、右でいわれている「われ」の視点に「おれ」を立たせてみること。そのためには「おれ」から「自覚心」を取り去ること。つまりは「単純」で「無鉄砲」な、それでいて「正直」で「欲がなくつて、真直な気性」(四)の人物を登場させること。そのようにして「己れ」を忘れた「おれ」を読者に差し出すことで、読者にもまた一瞬の間なりとも「己れ」を離れ得る機会を提供することであった。

  何だか生徒全体がおれ一人を探偵して居る様に思はれた(三)

 しかし「世の中」に出た「おれ」は、自らが「探偵的」とならざるをえない現実に直面することになるだろう。また、「今」その「過去」を報告しようとする語り手は「過去」の「己れ」をよくよく吟味し反省しなければならないだろう。つまり「おれ」は「真直」に生きるためにこそ「自覚心」をもたざるを得ず、また語り手は自分を「正直」に語るためにこそ「単純」なままではいられないのである。したがって『坊つちやん』はまた、自殺願望を抱えたまま神経衰弱的な世界で安心立命できない「人間」を救うために拵えられたはずの「おれ」が、逆に「世間」や彼自身の「自覚心」からどのようにして救い出されるのかを読む物語ともなるのである。

 『坊つちやん』執筆の前後に、漱石は次のような言葉を手紙に記している(明治三十九年森田草平宛書簡より)。

自分の弱点に対しては二様に取り扱ふ方法がある。一は之を隠して自己の虚栄心を失望させまいとする。(略)一はコンフェツシヨンである。(一月九日)

僕のつむじは真直なものさ。猫をかくのは立派な考だと思つてる。決してブクブク湧いて出ては来ない。只無闇にかいてるとあんなものが出来るのです。/天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず。而も己れ程頼みにならぬものはない。どうするのがよいか。(二月十三日)

コンフェシヨンの文学は結構である。コンフェシヨンの文学程人に教へるものはない。(二月十五日)

破戒読了。明治の小説として後世に伝えるべき名篇也。(四月三日)

 小論では、『坊つちやん』の世界の基底に〈自殺〉の問題があるこということを確認した上で、大きく以下の二つの問題について考えてみたいと思う。一つは、語り手が自分自身を語る『坊つちやん』の方法とそこで目指されているものとが、「探偵的自覚心」−〈自己への執着〉と「鷹揚」「無我」−〈自己からの解放〉という、正反対の二つの方向に引き裂かれてしまっている点についてである。この問題は、主人公である「おれ」が、なぜ受動的、非主体的な人物として性格設定されているのか、という問題、すなわち作者の〈芸術〉観(「コンフェシヨンの文学」)や〈自然〉観(「無我」と「無法」)に関わる問題である。もう一つは、何故「おれ」は他の誰ひとりの人物ともつながることなく、本来的に生きる場所をこの現実世界に失い、死の世界の近くにいるように見えるか、という問題である。このことは、その「無鉄砲」を「親譲り」のものとして抱え込まされたまま、それが何であるかを見極めることも、またそれから逃れることも許されずにいる「おれ」が、「無闇」や「乱暴」として、それを噴出させる以外にない彼のあり方と深く関わっている。つまり生身の人間としての「おれ」 と要請された〈自然〉としての「おれ」とのズレの問題である。


一、「おれ」という死者

 『坊つちやん』は、未熟な人間が成長していく話ではない。「おれ」は単純であり、自分の欲望に無自覚という意味では「己れ」を忘れた無垢な人間である。『坊つちやん』が目論んでいるのは、そんな人間を一陣の涼風のように「世の中」に送り込むことであり、そしてその人物自身が「世間」に染まって複雑になったり汚れてしまったりする前に、つまりは「おれ」が別の存在になってしまう前に彼をそうした「不浄の地」(十一)から救い出すことである。しかしそれは成功しているのだろうか。

 「是でも元は旗本だ」「こんな土百姓とは生まれからして違ふ」「正直だから、どうしていいか分らないんだ」(四)「此所へ来てからまだ一カ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒に思い出した。(略)もう五つ六つ年を取った様な気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう」(七)「こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも」(十)。しかしこのようにして「おれ」が自分自身を確認しようとすればするほど、彼はその自己認識を裏切って「己れ」を離れられなくなり、次第に「世間」に染まっていくことになる。

 「人間程宛にならないものはない」(七)。「おれ」にあるのは成長や成熟ではなく、変化だけである。そしてその変化はその人物の意思や思惑とかかわりなく突然に、そして決定的に起こり、一旦起こった変化は人間にはどうしても追いつけないものとして示される。『坊つちやん』におけるそのような決定的変化とは、「おれ」の語りが始まる以前にすでに起こっていたことであり、最後まで隠されていた事実である。それは他でもない清の死であり、清の死によって「おれ」は己の経験を語るべき正当な相手を永遠になくすのである。正当というのは、一心同体のごとく思いを分かち合い、その運命を共同する「片破れ」的存在、彼の存在をどこまでも肯定し彼の行為を全面的に承認し得る唯一の存在としての清のことである。

 『坊つちやん』は、いわばそうした清に書かれる約束であった「おれ」の長い、しかし遅れてしまった手紙である@。もともと「手紙をかくのが大嫌」(二)な「おれ」は、「逢つて話をする方が簡便だ」(十)と清に書きかけた手紙を途中でやめてしまう。死んでしまってもう「声」が直接届かなくなった清に対して、それでもわき上がってくる叫びを「おれ」は「語る=書く」以外にない。このとき「おれ」にとって「語ること=書くこと」は、ただ清に向かってだけ語ることではなくなる。自己を自身に向かって「語ること=書くこと」、そのことが彼の「主体」獲得に向けての自己検証となり、自己確認となるのである。

 この語り手の位置を得たという点で、『坊つちやん』は、「自己」をその「過去」に遡って検証し、「自己の表現」を通じて自己認識を深め、そこから自己変革を試みようとする漱石生涯の文学的実践としての第一歩を踏み出した作品とみることができる。しかしそのことと同時に、『坊つちやん』には「自己」を見つめるということよりも、むしろ「自己」を放棄してしまいたいという欲望が、もっと言ってしまえばいっそ「自己」を消し去ってしまいたいというような絶望が他方でその背景にあるように思われるのである。

車へ乗り込んだおれの顔を昵と見て「もう御別れになるかも知れません。随分御機嫌よう」と小さな声で云つた。目に涙が一杯たまつて居る。おれは泣かなかつた。然しもう少しで泣くところであつた。汽車が余つ程動き出してから、もう大丈夫だらうと思つて、窓から首を出して、振り向いたら、矢つ張り立つて居た。何だか大変小さく見えた。(一)

 死者の世界からの、自分の存在に対する視線。死んだ人の立場に立ってはじめて自分の命の姿を掴むことができるのかもしれない。「もと由緒あるものだつた」が「瓦解のときに零落し」た清、そして待ちに待った人と「一所になる」(一)という夢を見続けるわずかな時間も許されず今はもう死んでしまった清、そういう視点に重ねて自分を眺めてみること。そこで「坊つちやん」という存在をあらためて見つけたとき、「おれ」は自らその立場に身を置こうとしたのである。もちろん「おれ」は、自分が清とは違う存在であることは知っている。しかしそのときはじめて「おれ」は清がそう呼ぶ「坊つちやん」になりたい、と本気で思ったのではなかったか。親兄弟に見放され、町内からは「乱暴者の悪太郎」と決めつけられ、「人に好かれる性(たち)ではない」と自分をあきらめていた男が、清が評価する「真直」で「純粋」で「正直」で「単純」な、そしてだからこそ清がそう呼ぶところの「坊つちやん」でありたいと心から思う。それは死にたいということである。「坊つちやん」には永遠の若さがある。若さとは単純さであり、その主体性のなさである。そして永遠の若さとは死である。「坊つち やん」とは、自分の意志を持たずに人々の間に住んでいる〈自然〉であり、〈死〉なのである。

 「おれ」は偶然に対して素直に物理学校に行き、偶然のなりゆきで四国に行く。そして偶然の重なりの中で暴力を振るう。それは彼の必然となる。「おれ」は子どもの頃から「別段何になると云ふ了見もなかつた」(一)し、どのように生きようなどという主体的な意志も持たなかった。彼はそのように〈自然〉だったのである。最後に東京に帰った「坊つちやん」が死んでいるのではなく、「坊つちやん」は最初から死んでいる。あるいは少なくとも「おれ」は「今」死にたいのである。もちろん彼には自分が本当は死ねないのではないかという恐怖がある。だから彼は語る=書く。しかしそうした「おれ」の恐怖を先回りして保護してくれているのか、あるいは早く来いと急かしているのか、いずれにせよ清はすでに死んで、そこで「おれ」を待っているのである。


二、要請された非主体性

 『坊つちやん』は善悪の問題を扱っている。しかし「好き嫌」の問題にしかできなかった。だから、結末の「勝ち負け」は見かけとは逆転している。このことはこれまでからよく指摘されてきたことである。公正や公平を社会に実現しようとする男たちが、自分たちの「正しさ」を好悪の感情で支えられた私的な暴力で示すしかなく、そのために結局のところは自らの職を失いその地を追放されてしまうことになる物語。そのように読めば、『坊つちやん』は敗北者の回顧談になる。しかし、そうではない読み方はできないだろうか。

 片岡豊が指摘しているように、たしかに「坊つちやん」は、いつでも主体的な意志を欠いて受動的に振る舞うしかない存在である。片岡氏は《坊っちゃんの〈没主体性〉は〈力〉に対するアンビバレトな傾向を導いている》とし、「坊つちやん」がその《反発の背後に〈権威〉=〈力〉に対する親近感、もしくは憧憬を隠し持っていた》点を鋭く指摘しているA。しかし同じその受動性について、逆に消極的ではあるけれども肯定的な価値をもつものとして設定された可能性を考えることはできないだろうか。つまり、公平性を保つために要請された〈自然〉としての非主体性である。

 山嵐に対して「赤シャツと野だを撲つてやらないかと面白半分に勧めて」みる(九)「おれ」は、自分の宿直中の温泉行きという「あやまり」については「公け」にして笑われていた(六)が、自分の「正しさ」については山嵐ほどには真剣に「公け」のものにしようとはしていない。というより出来ないのである。「おれ」は善悪の問題に対して「論法」で対応するには「あまり単純過ぎる」(山嵐による「おれ」評価、「おれ」はその評を素直に受け入れている−十一)し、「脳がわるい」(「おれ」自身による自己評価−六)のである。その点では山嵐は「おれより智慧のある男」(十一)であり、だからこそ生徒処分の職員会議で厳罰と「公けに謝罪」することを求め(六)、赤シャツ相手に「正義」の一言を口にもする(十一)のである。赤シャツや野だに「天誅」を加えるにいたる場面での「おれ」の行動は、ほとんどが「山嵐の踵をふんであとから」(十)行われているだけであり、その振る舞いには辛抱も根気もなく、偶然がなければ平気で放棄されてしまう程度のものにすぎない。なぜ「おれ」はこれほどまでに非主体的なのであろうか。このことは、なぜそのように彼は〈自然〉でなけれ ばならないのか、と問うことと同じである。

 山嵐に言わせれば、赤シャツは「大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云ふと、ちやんと逃道を拵へて待つてる」(九)ような「奸物」となるのだが、では赤シャツは本当に悪い人間か。それは決してわからない。そういうふうに作者は書いている。しかしそのうえで『坊つちやん』は、山嵐と「おれ」が赤シャツと野だに対して「理非を弁じないで腕力に訴える」ことを「無法」(十一)とせず、むしろその「乱暴」を肯定しているのである。「おれ」は「単純過ぎる」若者であり、実際にはそのように「単純」であり続けることがまず相当に困難なことなのだが、それほどの「単純」さをもってはじめてできるであろうような非反省的・他者追随的な、すなわち無意識的・非利己的な行動があり、それが暴力にまでつながり、そのような暴力でしか叩けない隠された不正をただすというかたちに『坊つちやん』はなっている。

 

  可愛想に、もし赤シャツが此所へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加えることは出来ないのである。(十一)

 

 作者は現実世界では認められない不可能な行為を成立させるために『坊つちやん』では「おれ」を最後まで利害損得を計算しない人物として描かねばならず、私的な暴力が私利私欲のためでない「腕力」(十一)として「正しく」行使されうるような偶然を用意する必要があったのである。そのためには「おれ」はどこまでも非主体的でなければならなかったし、その意味で彼は〈自然〉でなければならないのである。

 「自分だけ悪るい事をしなくつても、人の悪るいのが分らなくつちや、やつぱりひどい目に逢ふでせう」と当の赤シャツにすでに早くからその「単純なのを笑」われていながら(五)、結末近くになっても「なんで田舎の学校はさう理屈が分らないんだらう」(十一)と焦れる「おれ」は、さすがに懲りない「単純」さを維持していて、同じ「理屈」であっても「田舎の学校」の「理屈」と自分の「理屈」とが別のものでありうることにいまだ気づいていない。そこに「欲」が、とくに自分自身の「欲」が介在しうるという視点をもたされていないからである。これに気がついてしまえば、彼もその単純さを失い、代わりに「智慧」を持つことになる。「智慧」は彼を主体的な存在へと変えていくだろう。そして「おれ」がほんの少しでも主体的になれば、その主体としての自己の利害損得、すなわち「利己」から自由ではいられなくなる。そのように「おれ」は非主体的でなければならないのである。こうした制限があらかじめ設けられている限り、『坊つちやん』が「おれ」の「主体性」獲得の物語となることはない。 


三、「親譲り」と「無暗」「無鉄砲」

 

 校舎の「二階から飛び降り」る。たまたま「募集の広告が出て居たから、何も縁だと思つて」物理学校に「入学」する。「教師になる気も、田舎へ行く考へも何もなかつた」のに教師として四国に行く。「なぜそんな無暗をした」。おれの「無鉄砲」は「親譲り」だ。それが「おれ」の答えである。

 「おれ」は、とりあえず「無鉄砲」とか「無闇」とでも呼んでおくしかないような何ものかをうまく制御することもできずに抱え込んでいる。そして「おれ」は、その「無鉄砲」を「親譲り」と呼んでいる。ここでは点について考えてみよう。

 周知のことだが、彼自身が語る彼の「親」に関する挿話についてだけでいえば、彼の「無鉄砲」が「親譲り」であるという証拠はどこにも見つからない。どうやら「親譲り」とは、自分で選択したり、制御したりすることができないものに対して、一つの方便として、とりあえずの名指しとして、彼がそう呼んでいるだけにすぎないもののようなのである。物理学校への入学や四国行きを「無鉄砲」とし、それを「親譲り」と呼んでいるのは、偶然を必然のものとして置き換え、それを受け入れていく自分(の受動性、主体性のなさ)を言い訳しているのであり、それは一方で自らが〈自然児〉であるという宣言として見ることもできるのだが、他方で自分の抱える〈無鉄砲−自然〉というものに対して、どう向かい合えばよいのかがわからない、そのわからなさが、そのまま「おれ」の受動性と暴力性という現実世界に対する両義的な姿勢として現れていると見ることもできるのである。いずれにせよ、「親譲り」という言葉で示されているのは、その人生を決定しているかに見える「おれ」の性質なり性格なりが、彼自身によって主体的に選択され形成されてきたものではない、ということであり、要する にそれらは自分ではどうすることもできないものなのだということである。

 「おれ」は、親から譲り受けたものが「何であるか」ということを読者に知らせているのではない。それが何であれ本人の意思に関わらずとにかく譲り受け「させられる」ものが人にはあるのだということを、むしろ自分自身に言い聞かせているのである。「おれ」は、読者への説得力のためというより、自分の軽率で乱暴な行為を自分自身にむりにも納得させようとする言い訳として、あるいは自分の行動によって被る「損」「失策」「祟り」を自身にあきらめさせる手段として、性格の正統性を行為(とその帰結)の正当性にすりかえるかたちで、あるいは自分の抱え込んだ〈無鉄砲−自然〉を「当然」や「必然」に読み替えるかたちで、「親譲り」の言葉を用いているのである。それは極言すれば、自分の失敗のすべては「親」、すなわち〈自然〉のせいであるとして責任を転嫁することである。しかしこのことは、単に「親」を、〈自然〉を否定しているのではない。むしろ「おれ」にとって〈親−自然〉が重要な存在であることをも示している。語り手は血のつながった肉親としての「親」に疎まれ拒まれた存在が、今度は逆に自分の方から「親」を無視しつつも、しかし全面的には否定しきれずに 、自分が自分であることの何らかの根拠としての「親」を〈自然〉に対して求めてしまう「おれ」を語っている。このように考えれば、「おれ」の「真っ直でよい御気性」もまた自覚的にそれを選べるものでもないという意味で〈親譲り−自然〉なのだといえるのである。

 「無暗」は、実は清にもある。清は「おれ」を「無暗に珍重し」また「あなたは御可哀想だ、不仕合せだと無暗に云ふ」(一)。校長の狸は「無暗に法外な注文」(二)をし、下宿のイカ銀は人のお茶を「無暗に飲む」(二)。山嵐は「無暗に牛肉を頬張り」(十)、新聞でさえ「無暗な嘘を吐く」(十一)のである。

 寝るときにつく「尻持」の「頓」を「どんどん音がする」「わるい癖」だと咎められ、開き直って「階下の下宿人を「凹ましてやつた」とする「おれ」(四)は、今度は逆に宿直の夜、中学生たちに「二階が落つこちる程どん、どん、どんと」「床板を踏みならす音」「足音に比例した大きな鬨の声」といった「気狂いじみた」いたずらをされてしまう(四)。彼らも「おれ」も同じ「無暗」を生きている。

 「無暗」対「無暗」の闘い、これが「おれ」の生きる世界である。もちろん「おれ」は、清に対してはその「無暗」を受け入れている。しかし基本的に「おれ」の世界は、「無暗」あるいは「乱暴」と「大人しい」との対によって構成されている。「おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする」(六)。萩野の爺さんは「無暗に出て来ないから大きに楽」(七)であり、もちろんうらなりは「人形の様に大人し」い(七)。いったいに「おれ」は「大人しい」人間に同情的で優しい。しかし他人の「無暗」や「乱暴」には反発的で厳しいのである。では「おれ」自身にとって「無暗」とは何であったのか。「おれ」は自分の「無鉄砲」や「無暗」を正体も分からないまま、それをもてあましていたのではなかったか。

 木村巧は、「おれ」を評して《自分について省察するような姿勢と、主体的な自己認識が欠如している》と指摘しているBが、「おれ」に「無鉄砲」や「無闇」がある以上、自己認識どころか「主体」そのものがかなり疑わしいのである。清が「真っ直でよい御気性だ」といくら「おれ」を可愛がり誉め上げても「おれ」は「不思議」「不審」「分からなかつた」「気味がわるかつた」のである。「真直」な気性といったところで、それは「おれ」にとって彼の「無鉄砲」や「無闇」と区別されるものではなかったからである。つまり町内の者たちが「乱暴者の悪太郎」と見なしたものと清が評価した「真直でよい御気性」とは、「無鉄砲」「無闇」とでも呼ぶしかない彼の〈自然〉から出てきているという点で異なるところのない共通のものだったのである。《周囲の悪評を一方的に受け入れる》のも《清の評価には懐疑的》なのも、《自分に関する認識を進んで形成しようとはしていない》のも、つまりは「おれ」が自分のうちに「無鉄砲」「無闇」を、つまりは〈自然〉を抱えているからであり、それを「おれ」がはっきり何ものと名指せないかぎり、「おれ」にとって「自己」とは何かという問いその ものが成り立たない、無効なのである。こういう人間に自分以外の他人が「人間」として見えるだろうか。「おれ」にあだ名で呼ばれないほとんど唯一の人間といってよい清でさえ、一人の「人間」として見られていたかどうか疑わしい。「おれ」が「坊つちやん」を再発見するのは清の死後のことであり、その清にしても、私利私欲のない「無我」の女、理想の「善人」へと「おれ」の「無暗」な思い込みによって変化させられているのである。

 この抱え込んだ己の内部の違和に匹敵するものが現実世界に見あたらないということが、「おれ」の悲劇なのだ。「おれ」が敵とみなし、暴力で排除しようとした他者は、「おれ=漱石」自身の内的な違和なのだ。『坊つちやん』には現実世界に対するほとんど全面的な否定の意志がある。『坊つちやん』という虚構は、こうして現世の否定を肯定する〈自然〉を、ときに〈暴発する力〉として、「無鉄砲」「無暗」として描くことによって、その魅力を確保しているのである。


四、理想と虚構、あるいは、清と「おれ」

 

 「おれ」と清との関係は、夫婦に擬せられるほどに深く結ばれた関係であるかのように錯覚してしまいがちである。が、二人は決してそれほど通じ合っている仲ではない。そして二人のずれた関係は最後まで変わらないのである。なるほど「田舎者は人がわるい」とか「天候だつて東京より不順に極つてる」とは「おれ」の言葉でなく清の手紙にある言葉である(七)。しかしそうやって何かと「おれ」を気遣い世話を焼いて「為替で十円」をくれまでした清に対する「おれ」の反応は「なるほど女は細かいものだ」なのである(七)。「この次には責めてこの手紙の半分位の長さのを書いてくれ」という清の切なる望み(七)に対しても「おれ」は叶えてはやらず「こうして遠くへ来て迄、清の身の上を案じていてやりさへすれば、おれの真心は清に通じるに違ない。通じさへすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮してると思つてるだらう」と考える(十)。この思い込み、すれ違いこそが二人の関係なのである。

 

清なんてのは見上げたものだ。教育も身分もない婆さんだが、人間としては頗る尊とい。……ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。  (四)

かうして田舎へ来て見ると矢つ張り善人だ。あんな気立てのいゝ女は日本中さがして歩行いたつて滅多にはない。(七)

人間は好き嫌で働くものだ。論法で働くものぢやない。(八)

 

 清が「おれ」に勝手に認められ肯定されていくのは、彼女が「好き嫌で働く」人間だからである。しかし清が「おれ」と異なるのは、彼女に〈信〉がある点である。彼らは二人とも「無暗」を抱えて生きている。しかし「人間は好き嫌で働くものだ」というのは「おれ」の得た認識であり、残念なことにそれを認識として得たときには自らがそのようには生きて行きにくいということに気づき始めているのである。逆に言えばそのように生きて行くことができなくなって初めてそれに気がついているのである。対して清は自らそれを生きて実践しているのである。むしろ幼い頃の「おれ」はそれと知らずにそのことを自分の生き方として実践し得ていたのである。だから清もそういう「おれ」を「坊つちやん」と呼んで誉めたのである。だが「今」はどうであろうか。「単純」であること「智慧」がないことが、「正しさ」であるとは限らないということに気づいていく「おれ」は、「無鉄砲」もまた、いつでも必ず「善」とつながるものではないことにも気づいていく。たしかに「無鉄砲」は論法で出てくるものではない。ただ自分の「好き嫌」に従うときだけ、自分にだけは正直で正しい「無暗」や「無鉄 砲」が出てくるのである。複雑かつ「物騒」(六)(七)な世の中では「正直」とつながろうとする「智慧」や「無鉄砲」もまた複雑にならざるを得ない。

 

世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並みにしなくちや、遣り切れない訳になる。巾着切りの上前をはねなければ三度の御膳が戴けないと事が極まればかうして、生きてるのも考へ物だ。と云つてぴんぴんした達者なからだで、首を縊つちや先祖へ済まない上に、外聞が悪い。(七)

人があやまつたり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云ふんだらう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思つてれば差し支ない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔する迄叩きつけなくてはいけない。(十)

 

 運ばれていくこと、流され巻き込まれていくことが人生であると知りつつある「おれ」は、自分の居場所がこの現実の世界のどこにもないとわかりはじめている。にもかかわらず、しかしそこから逃れること降りることができない。だとすればせめて「損」をしないことを願い行う以外にない。この思惑の行き着くところが東京への撤退というかたちになるのだが、この「損」に対する気遣い、配慮が「おれ」と清の大きな違いなのである。

 「おれ」と山嵐との違いにも簡単に触れておこう。いうまでもなくそれは「主体」「智慧」のあるなしである。山嵐には自分の主体を賭けた「計画」がある。「おれ」はしかしそうした「計画」に本気ではない。あくまでも「加勢」(十)にとどまるのである。山嵐が赤シャツの「悪るい所を見届け」ようとする場面では辛抱も我慢もできず「いやに」なり「飽き」てしまい「休まうか」と思う(十一)。山嵐に一定の距離をおく「おれ」を描く作者は、醒めた目で山嵐を見ている。山嵐の持つ「智慧」とは、自分が抱えている「無暗」「無鉄砲」を「世間」で通用させうるような「理屈」を拵えたうえではじめて外に出すということであって、それはその意味で計算であり「作略」(八)なのである。そのことに「おれ」は最後まで距離を置いているが、これは作者があえて「おれ」にそうさせて「利害」や「得失」からの無垢を最後まで救っているのである。「天誅」といえどもそれは単純に「無鉄砲」を爆発させたものなのではなく、あらかじめ計算され計画された「天誅」なのであるC。それはもはや無垢な〈自然〉の力ではありえない。人間が生きていくうえでの「智慧」であり「作略」の一つなの である。策略から被る「損」を避けるための策略。「おれ」は、この世界で生きていく限り、自分もまたこうした「作略」に巻き込まれて行くしかないことに気づき始めている。彼はもはやたんに「無鉄砲」ではありえなくなりつつあるのである。このことは彼が理想としての清を一方的に「製造し」、彼女を価値ある「善人」として崇めていくこと、つまり自分自身はそんな彼女のようには生きられないということを自覚していくこと、と並行している。

 「おれ」は、うらなりに対しても「君子」や「聖人」といった言葉を思い浮かべているが、清にしてもうらなりにしても、本当の聖人君子として描かれているわけではない。彼らはその人となりとして「善人」であるが、善行を社会に実践できる人たちとしては決して描かれてはいないのである。清がどれだけ「おれ」を評価しようが、それで世間が少しでも変化するかというと、そうはならないのである。「おれ」は善悪の判断からではなく、ただ自分の「好き嫌」で行動し、それがたまたま世界を変えそうな、少なくとも世間の秩序を乱しそうな動きになる。それが「無鉄砲」であり「無暗」なのであるが、もちろんそうした「おれ」の「乱暴」を正当化するどんな根拠もない。「おれ」の暴力によって赤シャツらに「天誅」を加えるということは、現実には不可能な行為、無効な行為である。だからこそそうした行為が読者へのサービスにもなるのである。つまりこうした「おれ」の「乱暴」は、実際の〈現実〉とはつながらなくてもよい〈虚構〉の行為としてあるのであり、〈現実〉の延長線上に思い描かれる到達と実現の可能性を持った目標としての〈理想〉の行為ではないのである。「おれ」はそ の意味で聖人でも君子でもなく、まして善人としてあがめられ憧れられるような人ではないのである。

 うらなりや清と「おれ」との間には、けっして埋まらない大きな溝がある。うらなりや清は、まだそれでも現実の延長線上に何とか思い描くことができるという意味である種の〈理想〉の人たちではあるが、「おれ」はほとんど現実と直接のかかわりを持たない〈虚構〉の人なのである。そして理想の人たちを描くだけにとどまらず、虚構の人を描かねばならなかったところに、作者の現実に対する絶望の深さがうかがえるのである。


五 抱え込まれた〈自然〉

 

 「好き嫌で働く」人間としての自分を肯定し、「坊つちやん」を信じることができた清と他者の「無暗」をひたすら受け入れるうらなりとを同じ存在と見なすわけにはいかない。しかし清やうらなりは、「金や威力や理屈」(八)だけが幅を利かす時代の変化のただ中で、人々の「欲望」「暴力」「作略」といった不浄のものに翻弄されながら、自らはなんら世界に手を下すこともできずに退くしかない人たちであった。そして、もちろんその人物に〈自然〉を背負わせるという作者の意図によって、「現実」に対しては距離を置いて身を引いているしかなく、ただ退却することしか許されていない人物こそが、他でもないこの「おれ」という存在なのである。

 

そこで仕方がないから、こつちも向の筆法を用いて捕まえられないで、手の付け様のない返報をしなくてはならなくなる。そうなつては江戸つ子も駄目だ。駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうならなくつちや始末がつかない。どうしても早く東京へ帰つて清と一所になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来て居る様なものだ。新聞配達をしたつて、ここまで堕落するよりはましだ。(十)

 

 「作略」に汚れたくもなく損をしたくもない。「おれ」は「無暗」「無鉄砲」を、つまりは〈自然〉を抱えたまま、その使い方も分からぬままに、ただ退く以外にない。うらなりが「おれ」から「聖人」「君子」として敬愛されるのは、黙って「損」を引き受ける存在だからというだけではない。「うらなり君程大人しい人は居ない」(六)から、彼が「人形の様に大人しい」(七)からなのである。「おれ」は、つまりは「大人しい人」が「すき」なのであり、そしてそこが「おれ」の限界なのだが、「おれ」は「大人しい」うらなりもまた彼なりの「無暗」や「無鉄砲」を抱えているのではという疑いを少しも持たない。大多数の他者を「好き嫌」の「嫌」で否定するより他に自己を肯定できない「おれ」とは異なり、うらなりは(たとえそれが「無暗」なものであったとしても)他者の言葉を字義どおり、額面どおりに受け取ることを徹底することで「無暗」「無鉄砲」の発現を抑え込みつつ、やっと裏表のない世界に生きることに成功しているのであるD。清にしたところで、彼女が自身で抱える「無暗」を自分の〈信〉によって方向づけし、「主従」の関係の枠組みの中で生きるというかたちでコン トロールしていたことに「おれ」が気づいていたかどうかは疑わしい。「後生だから清が死んだら坊つちやんの御寺へ埋めて下さい。御墓のなかで坊つちやんの来るのを楽しみに待つております」(十一)という清は、死ぬ間際まで自分の「無暗」を押し付けたかに見えるが、それは死んでもこの世の「主従」の関係の枠組みを維持し続けようとしたのだともいえるのである。この「無暗」、すなわち〈自然〉とその制御の問題に、はたして「おれ」自身はどこまで意識的であるのか。清を養源寺に葬ったことさえ、彼女に言われたからそうしたにすぎない、まったく受動的な行為で終わっているのだとすれば、である。しかしくり返しになるが、そのことはあえて作者が「おれ」を濁らせないままでこの作品を終わらせたかったということを示しているのである。裏表が見え始めている「おれ」にとって、しかしうらなりのように「損」を引き受けることもできないのであれば、自分自身が「作略」する人になる以外に、裏表のある世界を知りつつ「損」から逃れる手だてはないからである。つまり『坊つちやん』の世界には、「無鉄砲」「無暗」を、無垢な〈自然〉の発露として行使し得るような「坊つちやん 」が生きる場所はすでになくなっているのである。

 赤シャツや野だに「天誅」を加える場面で、「おれ」は山嵐の「理屈」を無視して、まだ山嵐が赤シャツに「談判」している最中であるにもかかわらず、「只肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに」野だに玉子を「打つけて」いるのだが、これはあくまでも私利私欲と離れた無垢な〈自然〉の発露としての「乱暴」を描こうとする作者の最後の意地であろう。「生卵ででも営養をとらなくつちあ週二十一時間の授業が出来るものか」(七)。そして芋ばかりの下宿の食事の足りない栄養を補うための玉子を投げつけて割ってしまうことは、すなわち教師を辞めることであり、下宿をやめることであり、この「四国辺」の片田舎を去ることである。しかし「おれ」に帰る故郷はあるのだろうか。

 

もう立つと云ふ三日前に清を尋ねたら、北向の三畳に風邪を引いて寐て居た。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊つちやん何時家を御持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポツケツトの中に湧いて来ると思つて居る。そんなにえらい人をつらまへて、まだ坊つちやんと呼ぶのは愈馬鹿気て居る。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云つたら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れを頻りに撫でた。余り気の毒だから「行く事は行くがぢき帰る。来年の夏休には屹度と帰る」と慰めてやつた。それでも妙な顔をして居るから「何を見やげに買つて来てやらう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云つた。(一)

 

 理想は失われ、食べ物という現実になる。清の「玄関付きの家」で「坊つちやん」と「一所になる」という夢が、土産の「笹飴」に変えられていたように、「おれ」の故郷は喪われ、だから彼は「食い心棒」(六)となっていたのである。それは『坊つちやん』をロマン的な故郷喪失の物語にしないための、「おれ」をメランコリーから遠ざけるための、工夫であった。東京から田舎へ、そしてまた東京へと戻る形の話にし、「文学」的なるものを拒絶し、金銭や食べ物といった日常性への執着を徹底させて隠蔽してきたことが、ここで「おれ」自らが玉子を投げつけるという行為によって一挙に露わになったのである。

 清が「おれ」が帰ってきたにもかかわらず、まもなく死ななければならなかったのは、もうすでに「おれ」が以前の「坊つちやん」ではなくなってしまったことに気づかざるを得なかったからであろう。清はそうなることを見越してでもいたかのように東京を発つ「おれ」に「もう御別れになるかも知れません」と「小さな声」で挨拶していた(一)。清は「おれ」が東京を離れたときにすでに死んでいた。彼女がもう一度「坊つちやん」に逢えるのは死者の世界でだけであることを作者は知っていたのである。

 作者には、「芸術」という出口/入口もまた見えていたのかも知れない。しかし、清にふさわしい存在でありたいと願う男、あるいは今はもう死にたいと思っている男には、自分が抱え込まされた〈自然〉の正体を見極めることが許されていない。ただ身を退けることしかできない自分、そしてその退けた身をおさめるための帰る場所を持たない自分、清にさえ認めてもらえそうになく、死さえも許されずにいる自分自身を「只無闇にかいて」みること、正直に語る=告白すること。それが『坊つちやん』という小説、すなわち「コンフェシヨンの文学」で語り手が試みていることである。

 


 

@村瀬士朗「『世の中』の実験−『坊つちやん』論−」(「国語国文研究」一九八七・九)は、『坊つちやん』という小説は《未完了であり続けるしかない清への返礼の代償》としての「おれ=坊つちやん」の語りとしてあると指摘している。

A片岡豊「〈没主体〉の悲劇―「坊つちやん」論―」(「立教大学日本文学」一九七七・一二)

B木村功「『坊っちやん』論−〈おれ〉の形象について−」(「日本文学」一九九四・五) なお、氏は主人公の変容を重視する氏の論点を明瞭にするために「語り手」とその「語り手」によって語られている存在とを区別し、それを〈おれ〉と表記して論じているが、ここでは「無闇」と「非主体性」とを〈自然〉という価値として抱え込まされた存在である主人公の一貫性を重視する観点から、それを語り手と全く異なった存在とはしない「おれ」として扱った。

C戸松泉「『坊つちやん』論―〈大尾〉への疑問―」(「東京女子大学日本文学」 一九八八・九)は、これがあくまでも山嵐の「天誅」であり、「坊つちやん」の論理からは「堕落」となると論じている。

D小森陽一「『坊つちやん』の語りの構造−裏表のある言葉−」(「日本文学」一九八三・三〜四)に、うらなりの「沈黙」の位置が、赤シャツの「裏表のある」世界や山嵐の「公的言語世界」や語り手の「〈私〉的言語世界」を相対化しているとの指摘がある。



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