夏 目 漱 石 『 彼 岸 過 迄 』 論 の 前 提

Notes on Natsume Soseki's Higansugimade


 武 田 充 啓 (Mitsuhiro TAKEDA)


章立て

 一 田川敬太郎について

  一・一 敬太郎とその役割

  一・二  敬太郎とその〈成長〉

  一・三  敬太郎とその「冒険」

  一・四  敬太郎と須永市蔵

 二 須永市蔵について

  二・一  須永とその「純粋な感情」

  二・二  須永とその個人的な倫理

  二・三  須永とその「改良」
 


 一 田川敬太郎について

 一・一 敬太郎とその役割

 周知のように『彼岸過迄』(明治四五・一〜四)は、緒言「彼岸過迄について」に続くT「風呂の後」、U「停留所」、V「報告」、W「雨の降る日」、X「須永の話」、Y「松本の話」の六つの短篇小説、および「結末」とから成っている。 最初の短篇「風呂の後」の冒頭は、「敬太郎は夫程験の見えない此間からの運動と奔走に少し厭気が注して来た」という一文で始まっている。そしてこの「風呂の後」第一回で特に目立つのが、「休養」という言葉である(「当分休養する事にする」・「『矢つ張り休養ですか』と云ふと、相手も『えゝ休養です』」)。
 「休養」を強調するからには、それを必要としている現在があるわけで、それは第四回にいたって初めて明らかにされることになるのだが、敬太郎は大学は出たものの職に就けず、したがって就職活動を余儀なくされている青年なのである。冒頭の一文は、次のように続けられる。「思ふ事が引つ懸かつたなり居据つて動かなかつたり、又は引つ懸らうとして手を出す途端にすぽりと外れたりする反間が度重なるに連れて、身体よりも頭の方が段々云ふ事を聞かなくなつて来た」。
 では、こうした曖昧で中途半端な状況に堪えきれず「厭気が注して」いる敬太郎は、むしろ「身体よりも頭の方」に「休養」を必要としている青年なのであろうか。だとすれば、話すこと全てが本当のようでもあり、また嘘のようでもあるような、まるで掴み所のない森本という存在と関わることは、敬太郎にとってどのような「休養」になるというのだろうか。
 一風変わった自身の経験について、「みんな面白いし、又みんな詰まらない」(「風呂の後」第七回。以下T・七のように記す)といってのけるような「一切がXである」(T・三)人物に、しかし敬太郎は、持ち前の「浪漫趣味」(T・四)を掻き立てられている。むろんこの「浪漫趣味」は、森本が敬太郎に植え付けたものではなく、逆に敬太郎の「浪漫趣味」が森本と出会う原因になっているので、この「趣味」こそは、「遺伝的に平凡を忌む」(同)敬太郎自身に備わったものであり、また、既に大学は出たものの未だ就職口が見つかっていないという、彼の現在の位置そのものの中途半端さ、宙ぶらりんさの証明になっているものである。
 「世の中への出口」(同)に出るような出ないような、有るような無いような場所にいる敬太郎が見るものは、すべて容易には決定できないものばかりである。電車の中で乗り合わせた赤ん坊を背負った女は、「黒人だか素人だか分らない」(T・一一)し、赤ん坊は「私生児だか普通の子だか怪し」(同)く映るのである。この事情は、次の短篇「停留所」にいたっても変わらない。「須永といふ友達」(U・一)の家の門を潜った一人の女の「後姿」(U・二)に翻弄され、自身の想像が空回りするのに手を焼くことになるからである。それが最も切実な形で現れるのは、やはり彼が田口から「探偵」を頼まれて停留所で観察することになる女についてであろう(U・二七〜)。
 しかし、冒頭から暗示され、森本の登場と敬太郎の「浪漫趣味」によって始められたこうした世界の(両義的なあるいは多義的な)曖昧さといったものは、そもそも世界は見る者の位置や角度や先入観、あるいは偏見などによって様々に見え、想像され、考えられるのだというような認識がそこに示されているというのではなく、それがどこまでも、ただ敬太郎その人に関する描写であるということ。このことは今一度確認しておかねばならない。
 気分を「快豁」にしようとして「飲みたくもない麦酒をわざとポンポン抜いて」(T・一)みるもののかなわず、それではと無理に寝ていようとして、それもまた果たせないこの青年は、風呂に行けば、「実用の」ためでなく「快楽を貪ぼる為の入浴」(T・二)をする森本と対照的に、身体のすみずみまで丹念に洗ってしまう「勤勉」(同)さを見せてしまうのである。
 森本という男に「敬太郎は思はず自分の同類を一人発見したやうな気がした」(T・一)と語り手は記している。しかし作者は、「森本」的浪漫世界に魅せられながら、実は森本その人とは全く異質な人間として敬太郎を描いている。ここでの「一人」というのは、だから「別のもう一人」という意味ではなく、実はただ敬太郎が「勝手に一人で」そう思った、という意味なのである。
 「無学」(T・七)な森本は、「学のある」(T・九)敬太郎に「貴方のは位置がなくつて有る。僕のは位置が有つて無い」(同)というのであるが、そうした世俗的な意味で守るべき有形無形の財をいうのでなく、その人がその人自身を真に生きる空間としては、逆に敬太郎には「位置が有つて無い」のであり、森本には「位置がなくつて有る」のである。だから、「休養々々と云つて又眼を眠つて」(T・一)休もうとしたところで、彼は移動させられ、見させられ、聞かされることになるのである。
 敬太郎は、森本がいうように、彼自身の「教育」によって自らの行動(冒険、漂浪)が制限されているだけではない。作者は、敬太郎の「浪漫趣味」やその眼前に広がる多義的世界の描出によって、彼が<居場所のない人間>であるということをいっているので、決定不能な世界や「後姿」が代表するように、奥行きと深さをあらかじめ奪われた形で設定されたこの人物が、小説世界の表面をズレながら、ひたすらその表面を横滑りしていく外にないことが容易に理解されるのである。
 したがって、やがて須永の叔父である田口という人物から「探偵」という役割を背負わされることになること、またそれが真に自他の存在の本質を変化させるような発見を伴うことなく終わること、さらに同じその人が小説全体の後半には話の「聞き役」に徹することになることさえ、むしろこの人物にふさわしい姿として納得できるのである。
 田川敬太郎がそうした人物であるとすれば、また「位置が有つて無い」森本も、自身の言葉どおり、早晩この小説世界から姿を消すことになるであろう。殊に、彼が自分の存在そのものよりは、敬太郎の傍らにあるにふさわしい(長い様な又短い様な、出る様な出ない様な)ステッキなるものを持っているとすれば。というのは、森本という存在は、「一切がX」とはされているものの、しかし、むしろだからこそ逆に、「森本」=「X」として、敬太郎にとって唯一決定され得る存在だからである。
 『彼岸過迄』においては、須永市蔵の出生の秘密を除いて、他の一切の謎は、謎として残されるか、たわいもないものとして消え去るかのいずれかである。それが都会の迷路であれ、人の心という迷路であれ、奥行きと深さを禁じられた敬太郎は、ひたすら表面を横すべりに滑っていく。したがって、田川敬太郎に即して見るかぎり、この小説全体における主題は、こうした迷路からいかにして抜け出るか、に見えて実は、いかにして抜け出ないでいられるか、というところにあるのかもしれないのである。 

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 一・二 敬太郎とその〈成長〉

 敬太郎は、「人間の異常なる機関が暗い闇夜に運転する有様を、驚嘆の念を以て眺めてゐたい」」(U・一)というロマン的な好奇心を持った人物である。しかし作者は、彼が「根が執念深くない性質」(U・一)であることを急いで付け加えずにはいられない。
 「自分丈硝子張の箱の中に入れられて、外の物と直に続いてゐない心持」(U・一四)と「何処か似た点がある」(同)敬太郎は、「今日迄何一つ自分の力で、先へ突き抜けたといふ自覚を有つてゐなかつた」(同)。「何処へでも進んで行かう」(同)とする積極性は、しかし「碁を打ちたいのに碁を見せられるといふ感じ」(同)を与えられるにとどまり、「世の中は少しも手に握れな」(同)い。そうして結局「煮切らない思ひに悩んでゐる」(同)のである。
 にもかかわらず、それでもやはり「敬太郎の思案には屈託の裏に、何処か呑気なものがふわふわしてゐた」(U・一五)とされるのだから、そのような人物がまさか〈成長〉を遂げるとは容易には考えられないのであるが、その敬太郎が田口に依頼されて「探偵」へと一歩踏み出したとき、明らかに一見そうした敬太郎らしくない言動を見せはするのである。

あんな小刀細工をして後なんか跟けるより、直に会つて聞きたい事丈遠慮なく聞いた方が、まだ手数が省けて、さうして動かない確かな所が分りやしないかと思ふのです(V・六)

 不得要領に終わった探偵の一件の顛末を、敬太郎がその依頼者田口に報告する場面である。しかし、これは真に敬太郎の〈成長〉を意味する言葉なのであろうか@。「探偵」によって得た認識によって、あるいはここでの田口への発言以後、彼は自己変革をするわけでもないし、そもそもそうした欲望は、作者によって最初から摘み取られてしまっていたはずなのである。
 「今迄に、何一つ突き抜いて痛快だといふ感じを得た事のない」(U・十四)自分だから、「何の道突き抜けた心持ちを確かり捕まへる為には馬鹿と云はれる迄も、其所迄突つ懸けて行く必要がある」(同)というような、奥行きや深さへの欲望を伴った意志を貫き通すためには、彼に与えられた「何処か呑気なものがふわふわしてゐ」(同十五)るという、むしろ表面的、横滑り的な存在の本質規定が、重すぎるのである。
 作者は当初の設定どおり、敬太郎という存在を〈成長〉させていない。後にみるように、須永市蔵が千代子に非難される場面を除いて、登場人物が自己を変革させ得る可能性をもつ場面は、『彼岸過迄』においては極めて少ない、というよりそれ以外にないといってよい。敬太郎が「探偵」の役割を終えることになるこの場面が、〈成長〉への可能性を開くことになり得ること、そして、にも関わらず敬太郎の〈成長〉をここで禁じたこと、それらに作者が十分に意識的であるとすれば、それは敬太郎の抱える彼固有の問題が、彼の〈成長〉という形ではなく、別の形で問われることになることを意味するだろう。
 敬太郎の「冒険」は、自己を変革しない。それは、読者への「作品世界」の案内=話の「聞き役」に徹する形になることが必然であった。彼はもともと居場所のない男であったのだから、その姿を小説世界から見えないものにして行くのはいたって当然のことなのである。そして場所を持たない男の「冒険」とは、他人の話を聞き引き出すこと以外にはないのである。
 この点は、明らかにたとえば『こゝろ』の青年「私」とは異なっている。「私」は、単なる「聞き手」、「報告者」の立場を越えて、自ら(自己を自己たらしめていたはずのものとしての)〈故郷〉喪失者とならざるを得ないような「冒険」を余儀なくされるからである。
 敬太郎は、松本と千代子を追う「探偵」の役を終えると、須永や松本の話の「聞き役」に納まってしまう。したがって、私たち読者は、敬太郎の「探偵」が終わることによって初めて、彼本来の「冒険」へと導かれることになるのであるが、そこではもう敬太郎自身の〈成長〉は、やはり期待することはできないのである。
 しかし、敬太郎のその役割の〈変化〉は見逃せない。『彼岸過迄』の大きな亀裂とも呼び得る、田川敬太郎から須永市蔵への主人公の交代劇に、この小説のひとつの核が、やはりあると思われる。

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 一・三 敬太郎とその「冒険」  

敬太郎は本気に何故自分に探偵が出来ないかといふ理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜る社会の潜水夫のやうなものだから、是程人間の不思議を攫んだ職業はたんとあるまい。(略)が、如何せん其目的が既に罪悪の暴露にあるのだから、予じめ人を陥れやうとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分には出来ない。(U・一)

 これに続けて「自分はたゞ」「眺めてゐたい」という敬太郎は、「底へ潜る」人ではなく、「表面」を生きる人である。
 「浪漫」に飢え、それを探し求めているという敬太郎の設定は、たとえば「浪漫」そのものを生き得た三四郎(『三四郎』)という存在とは微妙に異なり、もはや彼が「浪漫」の中では生きられない存在となっていることが前提されているとみてよい。
 たとえば、三四郎という青年は観察者になれるほど「大人」ではなかったが、敬太郎は観察者でいるしかない「子供」なのである。三四郎には「東京」で十分であった。それが迷路であり、迷宮であり、「浪漫」そのものであった。
 敬太郎が学生の頃、友人たちの間で「田川の蛸狩」という言葉が「流行」したのは、彼が新聞に連載された「兒玉音松とかいふ人の冒険談」を面白おかしく紹介したからである。「敬太郎の此傾向は、彼がまだ高等学校に居た時分」に「スチーヴンソンの新亜刺比亜物語」を読んだことから始まっている。敬太郎は何より「物語」を必要としてしまう存在なのである。「物語」に頼らない彼のオリジナルな想像ともいえる「新嘉坡の護謨林栽培」について「実際の算盤に取り掛つ」てみると、たちまち夢はしぼんで、「彼は其後護謨の護の字も口にしなくなつて」しまうのである(T・四、五)。
 敬太郎の「東京」は、やはり迷路、迷宮であるとはいえ、そこは適当な就職口を「足を擂木の様にして」「探して歩」(T・四)かねばならない現実の世界であり、人々が人々なりの生活を営んでいる現場である。彼の必要とするような「物語」は、そこにはない。彼があくまでもそこに「浪漫」を求めようとするのは、彼がその場所へと出て行こうとして出て行けない人だからである。この意味で、敬太郎の「浪漫趣味」は、彼の居場所のなさの証明になっている。同じく「田舎」から「東京」へ出てきた青年であっても、三四郎と敬太郎とではそれほどに違っているのである。
 しかし「不思議」はある。彼自身なぜ自分が「浪漫」を必要としているのかという「不思議」に気が付いていないように、生活者のそれぞれの心の中に「不思議」は潜んでいるのである。「世の中への出口」を求めつつ、出るような出ないような敬太郎の「冒険」、「探偵」は、したがって結局のところ東京そのものや人々の生活そのものにではなく、それら人間の心の中の「不思議」に、その対象を求めることになるのである。
 彼は都市の迷路を漂い、心の迷路をさまよう。ただし、奥行きと深さを許されていない彼が生きるのは、ただ表面の世界なのである。場所を持たず横滑りしていくしかない男が、本当にその居場所をなくしてしまう前に、登場人物たちは彼の視線に晒されていなければならない。
 敬太郎の視線はすべての存在を同格に、平等にしてしまう。彼の位置からは、「後ろ暗い奇人」(U・五)森本も、「人を取扱ふ点に掛けて成程老練」(V・七)な田口も、「人を取扱ふ点に於て、全く冴えた熟練を欠いている」(同・十)松本も、「退嬰主義の男」(U・一)須永も、それぞれ同距離で同価値の存在である。「眺める」だけを義務づけられた装置にとっては、その誰もが特別な存在ではなく、同格の人物たちなのである。そこには表面的な差異だけがあり、本質的な異同に敬太郎は接することが出来ない。(敬太郎のそうした設定は、作者にとって精神衛生的機能を果たしているように思われる。)
 「下町」的景趣を丁寧に描写する語り手(U・一六、二五〜)とは別に、「田舎」育ちの敬太郎には都会に対する一種の違和感だけがあり、それは彼の「浪漫趣味」を培う滋養となるのだが、元来「下町生活に昵懇も趣味も有ち得ない」(U・五)敬太郎にとっては、それがいくら「江戸」と「東京」との微細な差異のちりばめられた世界であれ、「山の手」との対照を際立たせたものであっても、そこに質的価値的な異同はない。それは、人物に対してと共通である。

自分を甚だ若く考へてゐる敬太郎には、四十代だらうが五十代だらうが乃至六十代だらうが殆ど区別のない一様の爺さんに見える位、彼は老人に対して親しみのない男であつた。(U・八)

 敬太郎の価値判断は、決して他の人物を動かさない。そのことによって他の人間と深く関わり、相手や自分が変化するということがない。敬太郎の抱える表層的「好奇心」と、他の登場人物たちが抱える内面的「不思議」とのズレは、作者が当然気付いていることであって、本来は内在化された形でしか問えない固有の「問題」を、ここでは敬太郎の媒介によって外化、表面化させてはいるものの、それらを敬太郎(あるいは読者)の眼の前に並列することが作者の主要な関心であって、その解決を試みる気持ちはさらにない、と見るべきである。
 しかし、一度彼敬太郎がその弱点であったはずの「呑気」さを失い始めると、作品そのものが大きく変質を始めるのである。それは、彼が「探偵」の対象にした人物たちが「家族」という関係で結ばれているということを知ったとき(V・一三)から始まる。彼はこのとき、「森本」(非家族、非日常、非現実)的世界から、血縁関係にある松本や須永たち「一族」(日常的、現実的)の世界に踏み入ることになるのである。そのとき彼の冒険は彼本来の「冒険」となり、したがってそれと同時に主客が転倒するのである。

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 一・四 敬太郎と須永市蔵

 『彼岸過迄』では、各短篇を通じて(「雨の降る日」以後も)、ただ敬太郎の生きる時間だけが、辛うじてリニアに持続している。むろんそのことのみで、彼が主役であるのか、わき役であるのかを決定することはできないのだが、彼が「家族」の世界へと横滑りし、やがて話の「聞き役」へと納まっていくその存在の印象と共に、自身の「呑気」さを失い始めるとき、中心となる時間軸が他の人物のものに移され、それが複数となり、さらにその上を人物が前後するようになることは、彼が明らかにその生きる場所をなくしたこと、生きる時間をなくしたことを表している。
 そうした意味で、彼がこの小説においてその存在の理由をすでに持ち合わせていないとすれば、誰がそれを受け継いでいるのかが問題となるはずである。そして敬太郎が抱えていた、〈居場所のなさ〉という彼自身に固有の本質的な問題を、「家族」的世界の中で体現している人物は、須永市蔵をおいて外にない。とすれば、須永が必ず敬太郎の問題を引き継いでいるはずなのである。
 低徊、淡い夢、好奇心といった敬太郎の軽い欲望を、須永は、停滞、現実への僻み、諦念というかたちで、重く実現してしまっている。世界の〈軽い徘徊〉を実現しているともいえる敬太郎の存在感を希薄にしてまで、逆にその欲望の不可能性を生きる須永を中心にすえた作者の意図はどこにあるのだろうか。作者は、敬太郎を否定しているのか、須永を否定しているのか、あるいは須永を救おうとしているのだろうか。
 風変りな体験談を聞かせ大連に去った森本(が残したステッキ)に、その人生を操られる敬太郎。眼の前にいる高木その人にはどういう対応も出来ず、彼を視界から遠ざけるために自ら場所を変えておきながら、やはりその存在に心を悩まされる須永。そしてそんな須永には関わりなく、高木は満州に去ってしまい、いつ帰って来るのかさえわからぬままである。
 彼らは、二人とも現実的とはいいがたい人物たちの、むしろその〈不在〉によって、人生や心といったものをもてあそばれる。そのことによって初めて、森本や高木は、彼らにとって現実的な存在となるのである。
 他のどの人物たちと較べても特別な自由を有している彼ら(森本、高木)には、ある種の(行動的、肉体的、社交的といった)健康さが与えられていることで共通している。そしてこの〈健康さ〉こそが、敬太郎が森本に、須永が高木に、(自分にないものを持つという意味で)一種の理想を見る原因になっている。
 では敬太郎や須永が、彼ら自身として〈健康〉に生きる可能性は、どこにあるのだろうか。それは、たとえば敬太郎がその「教育」を捨て、須永がその「僻み」を捨てさえすれば、それで済むというような問題ではあるまい。しかし彼らは、そこに可能性があるはずだとでもいうように、揃って二人とも、「眺める」ことを行為として強いられているのである。
 彼ら二人の「眺める」の大きな違いは、「煩瑣しい事」(Y・一二)の中に、見ようとしても容易に覗き見ることの出来ない「浪漫」を渇望している敬太郎に対して、見たくもないのにそこに「アイロニー」(X・一二)を見てしまう須永が、「運命」や「不思議」から目を逸すために、必死で「煩瑣しい事」に執着しようとしていることである。
 敬太郎は自身の「浪漫趣味」によって、かえって現実世界への「出口」を見えにくいものにしてしまっており、須永はその〈懐疑趣味〉によって、生き得る世界をせばめているA。このとき、可能性の行為としての「眺める」は、ちょうど彼らのそれぞれの「眺める」を補完し合うようなかたちでなら、実現しそうにも思われる。
 「呑気」な敬太郎に須永の〈懐疑〉の視線を、深さへと誘われがちな「疑惑」の人須永に敬太郎の〈表面〉への視線を。彼らが自分のものに加えて、もう一つの視線を持ち合わせて「眺める」を実践し得る「位置」を獲得すること。
 さて、敬太郎の問題が須永に引き継がれ、その須永の理想とするところが「考えずに観る」ということなのだとすれば、実はそれは敬太郎がそうしている(いた)ところのものではなかったかということになる。これでは小説の時間(須永市蔵の)が「松本の話」Yから「停留所」Uへとつながるように、その主題さえも、まるで尻尾を飲み込む蛇のように、末尾からまた小説の冒頭へと堂々めぐりしていることになる。
 だとすれば、この『彼岸過迄』の世界に外への「出口」はない。しかし、この閉じられた世界の内部にこそ、彼ら本来の「位置」があるのである。それは決して世界を、「世間」を〈超越〉し得るような、特殊な「位置」(外部)ではない。むしろ平凡な現実の地平にある「場所」である。
 事実須永自身、「女の雑誌の口絵に出てゐる、ある美人の写真を」、「実物の代表として」ではなく、「ただの写真として眺めてゐた」(Y・二)のではなかったか。敬太郎も須永も、それぞれ奥行きや深さを拒まれ、あるいは拒みつつ、しかしその表面の世界そのものの混沌や美しさと一体化し得た時間があったのだ。

天下にたつた一つで好いから、自分の心を奪ひ取るやうな偉いものか、美しいものか、優しいものか、を見出さなければならない。一口に云へば、もつと浮気にならなければならない。(Y・一)

 自己を滅却すること。そうさせる何物かに出会うこと。だが、そのこと自体が本当の「位置」にいることではない。〈超越的〉な外部など何処にもありはしないのだという認識と共にそれを実践し得る「場所」に立つこと。松本のいう「浮気」とは、そうしたいわば〈超越論的〉な立場のことでなければならない。(小説の創作の現場においては、それは具体的には、語り手と作者との距離の間にある。)それは決して「救い」の場所ではない。しかし「眺める」実践は、そこへと歩み寄るための可能性の行為として試みられねばならないのである。

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 二 須永市蔵について

 二・一 須永とその「純粋な感情」


単に彼女と僕を裸にした生れ付丈を比較すると、僕等は到底も一所になる見  込のないものと僕は平生から信じてゐた。(X・一一)

純粋な感情程美しいものはない。美しいもの程強いものはない。(同・一二)

彼女は美しい天賦の感情を、惜気もなく夫に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の栄養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から豫期するに違ひない。(同)

 「活躍」とは、「肉眼で指す事の出来る権力か財力を攫」むことである。だとすれば、「千代子が僕の所へ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない」だろう。彼女は自分の要求を当然のことと思っているし、要求すればかなえられると思っている。しかし、ぼくにはその要求に応える力がないからだ、と須永は考える。それが「二人の間に横たはる根本的の不幸」なのだと(同)。
 だが、彼はそのように「今日迄世間から教育されて来た」男なのであり、「恐ろしい事丈知つた男」なのである。須永は「常に考へてゐる」。つまり、ここでは、彼が自分でいうように「生れ付丈を比較」しているのではなく、「常に考へ」てしまうという方向に彼を押しやった「世間」も含めた「不幸」が問われているのである(同)。
 そうでなければ、なぜ「恐れない女」の「美しい感情」が、「結婚」によって「権力」や「財力」に対する〈醜い勘定〉へと汚れてしまう、というような確信が語れるのか。(ここで作者は、須永の中に強引に顔を出しているように思われる。) もっとも、この問題は須永自身に即した形でいえば、彼が高木という第三者が介在することによって、自身の嫉妬に気付かされるという事態と正確に対応している。それは「美しい感情」を持っているはずの千代子に、なぜ「技巧」(同・三一)を見ざるを得ないのか、という問題とも共通する。
 高木という第三者が介入することによって、須永と千代子の関係の中には、本来的にはないはずの、別の視線、価値が入り込むことになる。そういう意味で、高木という存在は、須永にとって「世間」とみなしてよい。千代子の美しさは、それだけなら須永に自身の「僻み根性」(同・一六)を自覚させるだけであるが、高木=「世間」の介入は、打算のないはずの須永の「純粋な感情」を〈勘定〉へと汚してしまうことになるのだ。
 「嫉妬心だけあつて競争心を有たない」(同・二五)ことを何度も繰り返し強調しようとする須永には、自分の感情がたとえ「愛」と呼ばれるものであったとしても、それは千代子と自分との一対一の、二人きりの、ある〈絶対的な感情〉であって、「世間」とは関わりのないもののはずだ、という気持ちがある。自分の「嫉妬」は、高い場所から「飛び下りなければ居られない神経作用と同じ物だ」(同)、それは誰か他の人物と同じ立場に立って獲得を競う意欲とは別のものだ、なぜなら自分の感情は、そこにどんな「世間」的な〈勘定〉もないからだ。あるとすれば、それは個人的な次のような「良心」だけである。

僕も男だから是から先いつ何んな女を的に劇烈な恋に陥らないとも限らない。然し僕は断言する。若し其恋と同じ度合の劇烈な競争を敢てしなければ思ふ人が手に入らないなら、僕は何んな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄てゝ仕舞ふ積でゐる。男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したら何うにでも評されるだらう。(略)何方へ動いても好い女なら、夫程切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。(略)相手の恋を自由の野に放つて遣つた時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕を淋しく見詰めてゐる方が、何の位良心に対して満足が多いか分らないのである。(同二三)

 ここで須永は、「愛」と「恋」とを意識的に使い分けている。「恋」に「競争心」があったとしても、「愛」にはそれはない、というのだ。しかし、注意すべきは、作者が千代子だけでなく、須永市蔵もまた〈待つ人〉であることを明かしているという点である。
 二人の間には当然、「女」として「世間」的に制限された行動としての〈待つ〉と、「世間」の評価よりは自己の「良心」の「満足」のために、自ら規制した行動としての〈待つ〉の違いがある。しかしとにかく、互いに相手が自分を動かしてくれるように動くのを〈待つしかない〉二人にこそ「根本的の不幸」があるのだ、ということを作者の眼は捉えている。そして、それはそのように強いることになった「世間」を含めた「生れ付」のせいだというのである。
 須永は「僕は今迄気が付かずに彼女を愛してゐたのかも知れなかつた」(同・十)と認めはするのである。しかし、それは「世間」的なレベルに並べられるようなものとしてでは決してない、という思いがある。ここには二人きりの世界で成立するはずのある〈絶対的な感情〉と「世間」的に「愛」と呼ばれる感情との間に奇妙にねじれた関係が存在している。
 二人きりの世界においては、須永の感情はそれを「愛」だと確かめる必要がなく、また確かめることは出来ない。『須永の話』において、須永が自身の感情について「愛してゐたのかも」という言葉を見つけることが出来たのは、千代子に「縁談」が「もう極つた」と嘘を吐かれて初めてのことであり、それを敬太郎という他人に話すことが出来たのは、高木との一件を経験した後である。つまりそこに「世間」の介入がない限り、彼は自分の感情がどんなものであるのかを名指すことが出来ないのである。
 しかし、「世間」の介入は、須永に自身の感情の何であるかを教えるだけではなく、その感情が生きていたはずの美しい「自由の野」から、それを〈醜い勘定〉から自由ではいられない汚れた場へと連れ出し、元に戻れなくしてしまうのである。彼は自分に「嫉妬心」のあることを認め、自身の感情が「愛」と呼ばれるものであることを知ったそのとき、実はすでに、自分の「美し」く「自由」な感情をなくしてしまっているのである。
 「嫉妬心だけあつて競争心を有たない」ということの強調には、「競争心」という不純な気持ちをあくまでも認めず、「美しい」ものでも「自由」なものでもありはしないが、せめて「純粋」である「嫉妬心」なら認めようとする須永のぎりぎりの自己保全がある。それを自身の存在根拠としての〈故郷〉の確保だといってもよい。
 私たちが気付くのは、須永のこの「純粋な感情」への固執ぶりである。須永が「淋しいです」(松本三)というのは、自分の出生の秘密を知ってしまったからではない。母親だと思っていた人が母親ではなく、実の母親はすでに死んでしまっていることを知らされることによって、彼は産みの母親と育ての母親という二つの存在に対して、いわば二重の〈故郷〉喪失を体験するのであるが、重要な点は、このとき彼はすでに自分の「純粋な感情」を諦めねばならない存在であったということである。すなわち、彼の「胸」が感得する「淋し」さというものが、常になくしてしまった後で、既に戻れなくなってしまった後に、初めて自身の〈故郷〉を発見せざるを得ないような、そうした人間の宿命に対してのものであるという点であるB。

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 二・二 須永とその個人的な倫理

是程好く思つてゐる千代子を妻として何処が不都合なのか(X・一二)

 「美しい天賦の感情」を持ち、「平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極めて純粋の女」(X・七)である千代子と、「血を分けて始めて成立する通俗な親子関係を軽蔑しても差支ない位、情愛の糸で離れられないやうに、自然から確かり括り付けられてゐる」(Y・五)須永の二人は、血縁という自然を超える可能性を持った、いわば〈純粋自然〉を有している点で共通している。
 しかし、須永の千代子に対する「純粋な感情」(=〈純粋自然〉)は、「世間」の介入(=「教育」)によって汚れ死んでしまった。もはや須永にとってリアルなものは、自身の「嫉妬」という感情だけである。彼はかつて確かに実感したはずの、自分の千代子への「純粋な感情」に対して、ちょうど松本やその妻が、亡くした子供にその取り替えがきかないことを確認するのと同様に、決して戻らないある〈絶対的な感情〉をそこに見ている。そして、その喪に服するとでもいうように、かたくなに千代子と結婚しようとはしないのである。
 須永は、母親との「情愛」についても疑いを持っていない。彼はこの「情愛」(=〈純粋自然〉)を信じている。しかしこの「情愛の糸」は、千代子と結婚すれば切れてしまうはずのものとして、須永には考えられているのである。千代子と結婚させたいという母親の希望はかなえてはやりたいのだが、それは血縁という自然への〈不自然〉なすり寄りになるからである。
 血縁からは「自由」な〈自然〉、須永に残された唯一の〈純粋自然〉を、血縁という自然への不純な人為、「小刀細工」へと収めてしまうわけにはいかない。ここに須永の個人的な倫理がある。自身の唯一の「純粋な感情」(=〈純粋自然〉)をなくすことが出来ないでいる須永がいる。
 たとえば松本は、そんな須永に「考へずに観る」ことを勧める。外界の一切を自然として眺めること。須永に自然が必要ならば、それが須永の「薬」になると考える松本の発想に根拠がないわけではない。しかし、当然のことながら《現実にある大自然と理念としての自然の内実の位相》Cとは異なる。だから松本は、須永と千代子の二人については、「天の手際で旨く行かないものを、何うして僕の力で纏める事が出来やう」(Y・一)「唯成行に任せて、自然の手で直接に発展させて貰うのが一番上策だと思ふ」(同)と、彼なりにその「自然」の位相を移した形で発言している。
 個人の「内へとぐろを捲き込む性質」、「際限を知らない」「此内面の活動」(同)は、外界の自然によって緩和されるかも知れないが、二人の「運命」は「天」なる自然に任せるしかない、というのである。 いったい須永が千代子と結婚できないということ(=須永の個人的な倫理)と「自然」や「天」はどう関わっているのだろうか。
 私たちは、須永が旅行先から自然を報告してきた手紙の中に、いかにも唐突な形で「天」を差し挟んでいたことに気付く。

彼の乱行はまだ沢山ありましたが、何れも天を恐れない暴慢極まるものゝみでした。僕は其話を聞いた時無論彼を悪みました。けれども気概に乏しい僕は、悪むよりも寧ろ恐れました。僕から彼の所行を見ると、強盗が白刃の抜身を畳に突き立てゝ良民を脅迫してゐるのと同じ様な感じになるのです。(X・一一)

 「無闇に金を使ふ」富豪に対して「真正に宗教的な意味に於て恐れた」須永の感想が綴られているのであるが、彼がここで「悪」と「良」の二文字を意識的に用いていることに注意したい。
 須永の「悪むよりも寧ろ恐れました」という言葉には、「悪む」ことはむしろ「天」の仕事なのだ、人間の「善悪」については、「天」がその仕事を果たしてくれるはずである、という思いが込められており、彼はここで、自分は自然に対してはその公平性について「僻み」を持つけれども、こと「善悪」についてはそれを「天」に帰依する、といっているのであり、それはつまるところ自分一人きりの倫理(=〈純粋自然〉を守ること)も、その「善悪」については「天」によって保証されるはずだ、されねば困る、という願いとひと続きのものなのである。 
 千代子との結婚で彼が恐れているのは、千代子の「美しい天賦の感情」「純粋な感情」が、「財力」や「権力」といった「世間」の醜にまみれてしまうことばかりではない。むろん、田口夫婦の「世間」的な打算による〈当然〉も、〈心身的自然〉からみた千代子の健康健全さと自分の脆弱不健全さとの不釣合いも、彼の真に恐れるところではない。〈不自然〉によって血縁という自然へとたどり着こうとすること(=「悪」)を「天」が見逃すはずがない、と恐れているのである。それは須永にとって、彼に残された唯一の〈自然〉である母親との「情愛の糸」をかえって切り離してしまうことになるのである。
 一人きりの倫理(=〈純粋自然〉を守ること)を救済する「天」を要請する須永の姿は、自分自身が「神」である以外にないとまで考え、狂気に近づく後の『行人』の一郎や「死」以外に道を見い出せなかった『こゝろ』の先生を巡った後、再び同じ欲望を抱えて登場することになる『道草』の健三にまで続いていくことになるので、そういう意味ではまさに漱石的「問題」を持った人物像であるが、ここで作者はすでに、「信」と「不信」の境界線上で、本来は「胸」にあるはずのものを「頭」に寄り掛かって守らざるを得ない、須永のそうした一人きりの〈純粋自然〉を超えるものとして、それを千代子の「美しい天賦の感情」として「女」にあらかじめ与えているという点は、留意されてよいだろうD。
 敬太郎が東京の現実に「浪漫」を発見することがなく、平凡に生きる人の心にある「不思議」を示唆されたように、須永の求める「天」は、天上にではなく、素直に生きる人(=「女」)のうちにある。漱石的課題の一つは、この意味で「運命のアイロニー」(同・一二)を見てしまった「恐れる男」(同)が、しかし如何にしてそのようなものなど見たこともない「恐れない女」(同)として生き得るか、という問題を生きることである。

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 二・三 須永とその「改良」

 須永は、第三者が介在しない、一対一の裸の人間同士の関係をこそ、本来的な純粋で自然なものと考えており、そこに固執しているために、生き得る現実をせばめてしまっている。彼には、第三者の存在(=「世間」の介入)は、自分をオリジナルな存在ではないものにするように見えている。
 しかし人間の存在のオリジナル性は、そうしたいわば〈純粋自然〉において見い出されるのではなく、(必ずしも一対一の関係とは限らない)絡み合った他者たちとの関係の、具体的な現実の有り様そのものからしか見い出せぬものではなかったか。千代子の「卑怯」の言葉は、須永の考え方(=「頭」)に対する、そうした批判となっている。(「恐れない女」とは、一対一を人間関係の絶対的な理想として虚構しない存在者のことである。)
 高木という第三者がいなければ、須永と千代子の「二人の間に横たはる根本的の不幸」(X・一二)は、おそらくはっきりと形をとらぬまま、少なくとも須永にとっては名指すことのできないものとして、自分の「神経だか性癖だか」(Y・一二)のせいにしてしまう外になかったであろう。 それに対して千代子は、おそらく高木がいなくても、自分と須永との「間に横たはる根本的の不幸」については、それ以前からよく見えていたであろうような描かれ方をしている。 高木を組み込んだ避暑地鎌倉での出来事は、彼女にとって、自分と須永との関係の上に何か新しいものを発見する事件としては機能せず、したがってそこは従来からの二人の不幸な関係の確認の場となる他になかった。
 東京に戻った須永が、鎌倉で発見した自身の「嫉妬」について、それをあくまでも自分個人の、一人きりの問題として、やはり「内へ」向かおうとするのに対して、千代子がそれを「卑怯」という言葉でもって、それが取りも直さず私たち二人の問題である(だけでなく、私たちを囲む「世間」の問題でもある)のだということを指摘することになることからも、彼女が以前から「二人の間に横たはる根本的の不幸」(の少なくともその一部)について、気付くところがすでにあったということがわかるのである。
 須永という人物は、おそらく別の「高木」が現れても、同じようにうろたえ、同じように手をこまねいて、「内へとぐろを捲き込む」ことになるのである。そしてしかも、千代子の指摘がない限り、その「卑怯」さを生き続けるしかない男なのである。
 須永は、自分の「愛」については疑わざるを得なかったが、おそらく彼にとって自身の「嫉妬心」だけは、疑うところのない「純粋な感情」であった。そして、それが本当であるかぎり、彼はその「純粋な感情」が二人きりの世界で生まれたものではないことを確認し、「愛」と呼ばれるものについて、今一度自身の「胸」に問い直すことになるだろう。そしてそのときこそ、須永の自己変革への可能性があったはずである。
 しかし、彼は「愛」に対するよりは、「人間」に対する、「自己」に対する不信がある。「自然」に対する「僻み」があり、「運命」にはアイロニーを見るばかりだ。「頭」で「胸」を抑えるという「命を削る戦ひ」(X・二八)が、その原因であるのか結果であるのか、「生れ付」であるのか「教育」のせいなのか、しかしそれらは、他者との関わりの中で、須永自らが真に問おうとすることなく、彼は一人きりの世界で「とぐろを捲」いているだけなのだ。
 須永は彼なりに旅行という「冒険」に出る。ここで須永は、二つの欲望を持っている。一つは、もう一度「母が恋しくな」(松本八)れるようにという「胸」の復活であり、もう一つは、そうした「胸」も含めて、いわば「頭」と「胸」という二元論を越えるような形として、「考へずに観る」姿勢を獲得することである。しかしそうした欲望は、自己変革を目的としてはっきり意識されたものではなく、むしろこれまでの自己というものを一時棚上げし、括弧にくくってしまうことがとりあえずの目的とされているのである。
 したがって、とりあえずの目的は達せられたかのように見えて、彼自身は変わらなかった。千代子との関係もまた、松本のいうように「昔から今日に至るまで全く変らない」(Y・一)。変わった(すでに変わっていた)のは、娘を亡くしたひとり松本だけである。
 そもそも、人物のいわゆる〈成長〉を描くことを意図していないこの『彼岸過迄』には、そうした〈成長〉の軌跡を辿るべき〈線的な時間〉が存在していない。それぞれの人間がそれぞれの空間でそれぞれの時間を生きており、それは決してつながることがないばかりか、交わることさえ期待されてはいないのだ。かろうじて自分の生きる時間をリニアに持続している敬太郎も、その役割を変更させられはするが、〈成長〉は禁じられている。
 《「松本の話」の機能には、須永の救済を図りたいとする作者の倫理的要求が篭められていた》とする秋山公男の指摘Eには賛成できるが、しかし作者はおそらく同時に抱えていた別の倫理的要求(人為による救済は不自然=悪であるという作品内における倫理。いわゆる「小説」らしい小説は書かないという作品外における倫理。)から、須永市蔵救済の欲求を追求することはしなかったという点が、むしろ『彼岸過迄』という小説(の特異性)を読むときには、重要な問題であるように思われる。
 秋山氏は、須永の「旅行」における二つの方向性を持った目論見を松本の視点から一つにまとめて、しかもそれを作者が一挙に救済するという方向で「改良」がなされたかどうかを問うている。しかし、須永の問題は、彼の出生の秘密でも「神経だか性癖だか」の問題でもないので、「淋しいです」(Y・六)という彼の実感が示している真の「問題」に目をおけば、小説時間の推移の上で、彼が「益偏窟に傾」(X・二)いていることそのことについて、「頭」の「改良」がなされたかどうかということが、ことさら大きな意味を持つわけではないことがわかる。
 「淋しい」問題とは、感情(=「胸」)によって運命のアイロニーを見落とすことを危惧してしまう「頭」を「改良」することではない。また、ただ人間の運命に対する認識の問題でもない。そうした弱点を含んだ「胸」(「頭」ではなく)によってしか感得することの出来ぬ、運命へのある種の「戦慄」についてのことである。それを「不思議」と呼んでもよい。
 しかし、むしろ注意すべきは、作者がここ『彼岸過迄』においては、その問題を誰にも共有させていないという点である。子供を「不思議」によって亡くし、「胸」に「不思議」を感じているはずの松本が、須永の問題を共有できず、須永もまた松本の問題を共有できないでいるのである。彼らはまさしく須永のいうように「世の中にたつた一人立つてゐる」(Y・六)。彼らだけではない、登場人物の誰もが「たつた一人」なのである。
 『彼岸過迄』において、登場人物たちが〈成長〉を禁じられていることは、当然彼らが孤立させられていることと密接な関係がある。彼らのそれぞれに内在する固有の「問題」は、敬太郎の存在によって、外化、表面化することになるのだが、しかしそのことは、それによって「問題」が一般化されたということを意味するわけではない。
 彼らが「問題」を共有することが出来ないのは、それぞれの「経験」(たとえば、子供を持ったことがあるかないか)が異なるというだけでは十分ではない。それはおそらく、「恐ろしい事」(X・一二)を知っているかいないかに関わっているF。そして、この「恐ろしい事」というのは、一般に誰でもが経験可能な出来事として、明示化され得るような性質のものではないのだ、と作者はいうのである。
 それは、〈特殊〉な経験のことをいっているのではない。単独に固有の、個別的なかたちでしかあり得ない性質のものであり、それ故に逆説的に普遍性を持ち得るような、ある〈事件〉として考えられているのである。
 漱石はかつて、『思い出す事など』において、次のように書いている。

かく単に自活自営の立場に立つて見渡した世の中は悉く敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友もある意味に於て敵であるし、妻子もある意味に於て敵である。さう思ふ自分さへ日に何度となく自分の敵になりつゝある。疲れても已め得ぬ戦ひを持続しながら、煢然として独り其間に老ゆるものは、見惨と評するより外に評しやうがない。(一九)

 人間に対するこうした認識を持っている作者が、松本の須永救済の欲求に乗じて、その欲望を安易に模倣してしまうことには、少なからず無理があるのである。(たとえ当時はこの認識を、「急に病気が来て顛覆した」(同)のだとしても)作者はここ『彼岸過迄』においては、この「自然」のようにただ「公平で冷酷」に登場人物たちを眺めているだけなのである。
 作者に時間錯誤があったのかも知れない。が、むしろ『彼岸過迄』の「根本的の不幸」とは、作者自身が松本による須永救済の〈欲求〉に従ってしまったのかどうかという点ではなく、須永が相対化し得ていたはずの松本の〈認識〉(考へずに観る)のほうに寄り添ってしまうことを許した点にある、というべきであろう。須永の「浮気」が、松本のもとに報告してきた程度に自然を「眺める」ということであるならば、それが「頭」の「薬」にはなっても、「胸」の問題の解決にはならないということは、誰よりも作者その人が気付いていたはずである。
 須永を救済する道は、「通俗な世間から教育されに出た人間」(Y・二)の考えている「浮気」ではなく、「在来の社会を教育する為に生まれた男」(同)が、その本来の目的の実現へと向かうべく、徹底された「浮気」の実践でなければならない。「家庭的な」「高等遊民」松本は、「血縁」や「家族」さえ否定せざるを得ない須永の、彼の個人的な倫理、一人きりの〈自然〉が、他者と出会うことの出来ぬまま、「永久に流転して行く」(結末)のをただ見守ればよい。しかし作者は、それに「位置」を与える戦いを須永に強いなければならない。

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 註

@ 同じ所を引いて、山田有策(「『彼岸過迄』−敬太郎をめぐって−」 別冊國文學「夏目漱石必携U」學燈社 昭五七・五)に、「この発言はまず第一に敬太郎の成長を物語っている」、そしてこの「方法」は「須永と千代子の関係への一つの批評」であり、また敬太郎の「〈冒険〉の終焉」を意味し、さらに「この段階に到るまでの小説の方法に対する作者自身の自嘲がこめられているかも」の指摘がある。敬太郎の〈冒険〉について、そこにいくらかの〈成長〉を見、さらなる〈成長〉を期待する読み方について、私は山田氏と意見を異にするが、他の意見については賛成である。特に「作者自身の自嘲」に関しては、おそらく漱石長編作品の構成的破綻の原因の一つには、こうした創作方法への自己批評的視点が絡んでいるのではないか、という問題を示唆されて、私には興味深い。憶測を一歩進めるなら、作者の生活上の倫理=方法と芸術上の倫理=方法が作品の上で一つに統一される形で試みられようとするとき、破綻が生まれているように思われる。

A 「しかし自分のつくった幻を追いかけて一人相撲をしているのは敬太郎だけではない。須永もまたそうなのだ。敬太郎を駆りたてるのは敬太郎の浪漫趣味だったが、須永を追い込むのは、須永の自意識であり、自尊心である。」とする伊豆利彦(「『彼岸過迄』論序説」 「講座夏目漱石」第三巻 有斐閣 昭五六・一一)の指摘がある。

B 「たゞ不思議といふより外に云ひ様がない」(雨四)かたちで子供を亡くしている松本は、しかしそんな須永の認識に気付いていないように見える。松本が須永の「淋し」さに触れ得ていない点については、早くに指摘がある。たとえば、高木文雄「須永市蔵」(「漱石文学の支柱」 審美社 昭四六・一二)

C 相原和邦「畏怖のモチーフ−『彼岸過迄』」(「漱石文学の研究」第二部第七章 明治書院 昭和六三・十)

D 宵子の「骨上」の場面(X・七)で、次のような千代子と須永のやりとりがある。
 「(略)ぢや妾なんか何うしたの。何時子供持つた覚えがあつて」
 「あるか何うか僕は知らない。けれども千代ちやんは女だから、大方男より美しい心を持つてゐるんだらう」
 ここで、須永は「女」に「経験」を問わず、アプリオリに「美しい心」を与えている。

E 秋山公男「『彼岸過迄』試論」(「漱石文学論考」 『彼岸過迄』第一章 桜楓社 昭六二・一一)

F この点に関しては、Dでのやりとりを取り上げて「このことについて千代子は深く考えることができない。須永もむろんわからない。しかし、彼は盲者を見て身を隠し、宵子の骨を見て、ただ蒼白い顔をして口もきかず鼻をすすりもしなかっただけである。」とする平岡敏夫(「『彼岸過迄』論−青年と運命− 「漱石序説」 塙書房 昭五一・十)の指摘が示唆的である。

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