経験の技法(二) ―夏目漱石『道草』を読む―

The Art of Experience in Natsume Soseki's Michikusa (U)

                       武 田 充 啓



  六(承前)


 『道草』は一人の話者が誰とも交代することなく、その役割を最後まで全うすることになる小説です。たとえば『彼岸過迄』は三人称の語りで始まり終わるのですが、途中に複数の話者による一人称の語りや長い手紙が挟まっています。そのあとに書かかれた『行人』も『こゝろ』も、登場人物の一人が報告する一人称の語りを別の人物の手紙(一人称の語り)が引き継ぐ形の作品になりましたから、その意味では『門』以来、漱石がしばらくぶりで試みた三人称長編小説だということができます。

 漱石は最初の長編といってよい『虞美人草』で、その長さを成立させるためにかなりの苦労をしています。それまで彼は写生文的な短編しか書いていませんでした。周知のとおり『吾輩は猫である』は、最初は短編であったものがたまたま好評だったことから連載が延び、結果的に分量がふえた小説であり、長編としての結構がありません。漱石には初めての新聞連載ということもあって『虞美人草』は、たとえば武田信明が指摘しているように、勧善懲悪的な物語の枠組を借り、モチーフを反復的に描くことでつなぎを固め、何より話者が「此作者は」と一人称的に作品に介入し、その主観や判断を露わにしてまで作品を統御しようとする作品になっています。つまり《過剰なまでに構築的な作品》@なのです。

 では『道草』という小説の構築性についてはどうでしょうか。この作品は作家自身の過去が素材になっていますが、その日常生活には取り立ててドラマティックな展開もありませんし、物語の枠組という点からいっても、借物の様式で窮屈に縛りあげたようなところはどこにも見当たりません。しかしでは写生文を適当につないで成った文章かというとそうではなく、『道草』の言葉は間違いなく構築への意志をもって人工的に組み上げられています。

 たとえば『道草』で反復されるのは主人公健三の回想(過去の記憶)であり、また手紙や書付・証文といった〈書かれたもの〉なのですが、それら過去のあれこれが媒介となって、あるいは他の登場人物たちに媒介されつつ、そうした過去とつながるようでつながらない健三の現在(彼がいまここに、こうして在ることの必然性と偶然性)が浮き彫りにされていきます。のちに詳しく見ますが、この〈媒介するもの〉への着目こそが、『道草』という小説の構築性を支える柱になっています。

 健三のたとえば不安や孤独といったものでさえ、関係性のなかでしかありえないこと。コミュニケーションは直接的にではなく、必ず媒介的にしかそれがなされえないこと。そうした認識が、何かと何かを〈媒介するもの〉への注意を怠らない作者の、その言葉を操作し文章を組織していく遠回しで間接的な手つきとともに示されることになります。つまり『道草』というタイトルはその内容だけでなく、文章が構築されていくそのスタイルにおいてもその名にふさわしいものとなっているのです。

 『道草』を読むときに構築性の問題と絡んで重要になるのが、語り手の位置どりとその解釈の問題です。健三を自分自身のモデルと見なしうる存在としての語り手が、時間的に十分距離を置いた地点から過去の自分(たち)を振り返って批判的に見ている、と考えるのではなく、あるいは認識的にも倫理的にもはるかな高みにいる作者の理想とする存在が、登場人物たちを高踏的に眺めていると考えるのでもなく、健三とも作者ともイコールで結ぶことのできない第三者的存在として、まさしく過去の作者(のモデルとしての健三)と現在の作者を〈媒介するもの〉としての語り手をそこに想定する場合には、作家が自身の過去を検証するためにではなく、現在の自己を確認するためにこそ設定された装置であることが見えやすくなります。

 『道草』が、作家自身の過去を素材にしているという問題については、小説の意図(「何故書かれたのか」)の問題とともに、前稿「経験の技法(一)」ですでに論じましたので、本稿の以下においては、〈媒介するもの〉と片付かなさの問題、語り手と語りの装置(作者の現在における自己確認)の問題の二つにしぼって、「如何にして」作家がその現在の自己を確認し創造していくのかについて叙述したいと思います。


 
  七 〈媒介するもの〉


 『道草』は、健三がすでに「縁を切つた」はずの、かつての養父島田と出会う場面から始まります。十数年の隔たりの間に「位地も境遇も」「まるで変わつて」しまった健三にとって、当時と「あまりに変わらなさすぎ」る島田は「異な気分を与える媒介(なかだち)」となるのですが(一)、当初、名前を与えられずに「帽子を被らない男」とだけ紹介されるこの男は、「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない」(百二)という健三の言葉を体現する象徴的な存在として彼の生活に介入し、「彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介(なかだち)」(二)となり、また健三と「親しく往き来をしてゐなかつた」(三)姉や兄とを〈媒介するもの〉として、その間を取りもつことになります。

 『道草』の読者はその冒頭から、かつての養母御常の「封書」(二)や「痩せた」姉の「身体」(四)といった種々の〈媒介するもの〉、主人公の非直接的で迂回的な行動(島田との出会いを妻の御住にいわない、姉を訪ねて姉に話を切り出せない)、作者の迂言的表現(「帽子を被らない男」「長い手紙を書いた女」)等々を読んでいくことになるのですが、この章では「養子」と「金銭」を中心に〈媒介するもの〉とそれが浮かび上がらせるものについて見ておきたいと思います。

 山下悦子は、明治文学と養子制度を論じた文章で、次のように述べています。
 
家を継ぐのはひとりであるから、後継ぎ以外の男子は、女が嫁に行くのと同様、他家へもらわれていくわけだが、男子はしっかり見返りを要求される。養父母の老後の面倒を見るとか、家督を相続してさらに財を増やすとか、決められた娘と婚姻するとかといったように責任を負わされ、家に拘束されるのである。それをなしえない場合は、容赦なく離縁された。A

  もちろん、簡単に「離縁」できない場合もあります。たとえば、健三の姉と比田の夫婦にも「彦ちやん」と呼ばれる「養子」がいます。実子の「作太郎」は生まれて「すぐ死んで」(同)いて、その「名前さへ忘れて」(六十八)しまっている健三と姉夫婦との距離が、次のように描かれます。
 
「もう少し御金を取つて呉れると好いんだけどもね」
 無論彦ちやんは養父母を楽に養へる丈の収入を得てゐなかつた。然し比田も姉も彼を育てた時の事を思へば、今更そんな贅沢の云へた義理でもなかつた。彼等は彦ちやんを何処の学校へも入れて遣らなかつた。僅ばかりでも彼が月給を取るやうになつたのは、養父母に取つて寧ろ僥倖と云はなければならなかつた。健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払ひかねた。(六十八)

  ここにあるのは「兄が死んだあとの家族を、たゞ活計の方面からのみ眺める」(六十六)のと同様のクールでドライな健三の眼差しです。語り手は「彼はそれを残酷ながら自然の眺め方として許してゐた」(同)と書いています。姉夫婦は「養子と経済を別々にしながら一所の家に住んで」(六十)いて、自分たち専用に「搗いた餅」や「砂糖」をもち、「客に出す御馳走なども屹度自分達の懐中から払ふ」(同)という生活をしています。それを健三は「極端に近い一種の個人主義」と見るのですが、語り手は「然し主義も理窟も有たない姉にはまた是程自然な現象はなかつた」(同)と、「姉弟(きやうだい)の気風の相違」(六十七)だけでなく、その「活計(くらし)」を考える「標準」(六十)に差があることを強調するのです。

 山下氏は《養子に出されるというのは、この時代、よく見られたことであるが、出された本人は、なんらかの形で心に傷を負う筈である》と書いています。論点を離れた「心の傷」の具体についてはこれ以上に踏み込んだ言及はされていませんが、健三が「家族を、ただ活計の方面からのみ眺める」態度などは、実家と養家との間で「むしろ物品」(九十一)としてやりとりされた彼自身の「心の傷」の、その効果の現れなのかも知れません。「養子」という存在・制度は婚姻の成立を、あるいは家の存続を〈媒介するもの〉としてごく当たり前に利用されたのですが、それによる「心の傷」というものがもしあるとするならば、それは〈媒介するもの〉としての、その〈媒介〉のあり方にかかわるものに違いありません。

 ところで『道草』の作者が養子に出された経験をもつことは、よく知られています。漱石は明治二十一(一八八八)年、二十二歳の時に正式に養家先と離縁し夏目家に復籍しましたが、その前年に夏目家ではすでに家督を相続していた長男大助と次男直則が肺結核のために相次いで亡くなっています。この次兄直則が残した「銀側時計」の話が、健三の「まだ生きてゐる」感情を示すエピソードとして『道草』に出てくる(百)のですが、それにはあとでふれます。

 さて、一人残った兄と並んで、夏目金之助は急遽家督相続候補者のひとりとなったのですが、その復籍の際に実父直克は養父塩原昌之助との間に一種の公正証書を交換し、金之助は昌之助宛に「今般私義(ママ)貴家御離縁相成因て養育料として金貳百四拾圓実父より御受取之上私本姓に復し申候就ては互に不実不人情に相成らざる様致度存候也」との「一札を入れ」ていますB。このことは『道草』には次のような形で出てきます。
 
 彼は無言の儘もう一枚の書付を開いて、其所に自分が復籍する時島田に送つた文言を見出した。
「私儀今般貴家御離縁に相成、実父より養育料差出候に就ては、今後とも互に不実不人情に相成ざる様心掛度と存候」
 健三には意味も論理(ロジツク)も能く解らなかつた。
「それを売り付けやうといふのが向ふの腹さね」
「つまり百円で買つて遣つたやうなものだね」
比田と兄は又話し合つた。健三は其間に言葉を挟むのさへ厭だつた。(百二)

 実際のところ、〈書かれたもの〉に媒介されて結ばれた者同士が「一切の関係を断つ」(百二)ためには、またその間に介入させるべき「もう一枚の書付」だけでなく、相応の「金銭」まで必要とするのですが、皮肉なことに「関係を断つ」手段となるはずのそれらがまた〈媒介するもの〉なのですから、それが本当の意味で「片付く」ことになるかどうかは保証の限りではないのです。〈媒介するもの〉がまた別の〈媒介するもの〉を召喚してしまう事態に、自ら加担することは避けたい、とでもいうように健三は「無言の儘」堪えているのです。



  八 〈媒介〉のあり方


 〈媒介〉のあり方次第で、断たれるはずの関係が結ばれたり、つながるはずの関係が疎遠になったりします。ここでは〈媒介するもの〉が機能する場面で、健三が感情的になる場合を確かめながら、彼が何に苛立っているのかを考えてみます。

 次の場面から見てみましょう。「健三が外国から帰つて来た時」に、姉が「兄の口を借りて」「小遣」をねだります。対して健三も「兄の手を経て」自分の「旨を通知」することにします。「すると姉から手紙が来」ます。そこには自分が月々もらえる金額を兄には内緒に教えてくれと書いてあり、姉は「中取次をする役」の「兄の心事を疑ぐつた」とされるのですが(六十九)、以下はそのときの健三の反応です。
 
 健三は馬鹿々々しく思つた。腹立しくも感じた。しかし何より先に浅間しかつた。「黙つてゐろ」と怒鳴り付けて遣りたくなつた。彼の姉に宛てた返事は、一枚の端書に過ぎなかつたけれども、斯うした彼の気分を能く現はしてゐた。姉はそれぎり何とも云つて来なかつた。無筆な彼女は最初の手紙さへ他(ひと)に頼んで書いて貰つたのである。
 この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。(中略)
「近頃御住さんは何うだい」
「まあ相変らずです」
会話はこの位で切り上げられる場合が多かつた。
間接に細君の病気を知つてゐる姉の質問には、好奇心以外に、親切から来る懸念も大分交つてゐた。しかしその懸念は健三に取つて何の役にも立たなかつた。従つて彼女の眼に見える健三は、何時も親しみがたい無愛想な変人に過ぎなかつた。(六十九)

 「兄の口」や「兄の手」を借りる、また「手紙」や「端書」を介する間接的で迂回的なコミュニケーションですが、注意したいのは健三の場合、この直接性の欠如(怒鳴り付けの抑制)が、つまりは間接性(一枚の端書による代替行為)が、人と結びつくようにではなく、人から離れて「温かい人間の血を枯らしに行く」(三)ように作用するという点は、注意しておきたいところです。

 なぜ健三は姉の「懸念」が「何の役にも立たな」いと思うのでしょうか。他者への気遣いは、彼女の「無教育」(七)という問題とは関係がありません。そもそも彼自身が「甚だ実用に遠い生れ付」(九十二)の人間です。それにこれは健三自身の言葉として紹介されているのですが、妻に対して「役に立つばかりが能ぢやない」(同)と説教までしているのです。

 健三に姉の「親切」を御住に「取り次ぐ」という発想がないからでしょうか。あるいは実際にやりとりされようとしているものから考えれば、姉の「懸念」のようなものは健三が渡す「小遣」=「金銭」と同じようには「役に立たない」と見なされているのでしょうか。だとすれば彼は、本来比べることのできないものを並べて、同じ尺度で量ったうえで切り捨てているということになります。いずれにせよ明らかなのは、彼が自ら〈媒介するもの〉になることを拒んでいることです。

 じつはここで気になるのは「健三に取つて」という語り手自身の考えがどの程度反映しているのか、すなわちどんなものをも交換可能にしてしまう貨幣的尺度を無自覚に内面化しているのは健三か語り手かという問題なのですが、この点については語り手の盲目性の問題として、のちに(本校最終章において)別の例でもってあらためて取り上げます。

 しかしどうやら健三の情緒を不安定にさせる問題は、何にでも交換できる「金銭」という特別な〈媒介するもの〉自体にあるのではなく、むしろそれが相互の交換ではなく一方的な贈与になってしまうという形式、すなわち〈媒介〉のあり方のほうにこそありそうなのです。

 借りたものは返す。それはごく一般的な応酬のあり方です。健三は自分の「袴」を兄に貸します。借りた兄はそれを返しに来ます(三十五)。この循環的交換的な貸借関係において、健三の情緒に不安定なところはありません。しかしこれが一方向的な流れとなったり、自分のところに来るはずのものが届かなかったりした場合には、彼はひどく幼児的な振る舞いを見せるのです。たとえば健三の「兄は最初の妻を離別し」「次の妻に死なれ」ています(三十六)。
 
 三度目の妻を迎へる時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。然し弟には一言の相談もしなかつた。それがため我の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉の方に迄影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だと主張して、気の弱い兄を苦しめた。(三十六)

  兄の言葉(気持ち)が父にだけ直接的に届けられて、弟の自分とは言葉(気持ち)のやりとりがなかったことに腹を立て、その意趣返しとして健三の感情(あるいは言葉)が、しかし直接兄には向けられずに、むしろ間接的な形で義姉にぶつけられているところが重要なポイントです。この件については、健三は「慚愧の眼をもつて」(同)回顧したとあって、彼は自己の非を認めているのですが、同じ健三がどうしても自分の「正しさ」を引っ込められない場合もあります。

 「彼を反省させるよりも却つて頑固(かたくな)に」(同)させるのは、たとえば先に少しふれた「銀側時計」の件です。この時計は亡くなった次兄が生前、健三に「是を今に御前に遣らう」(百)と「口癖」のようにいっていたもので、嫂(次兄の妻)も「健三に遣る」と「明言」(同)したものです。しかし実際には兄(長太郎)のものになってしまいます。
 
 健三は黙つて三人の様子を見てゐた。三人は殆んど彼の其所にゐる事さへ眼中に置いてゐなかつた。仕舞迄一言も発しなかつた彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたやうな心持がした。然し彼等は平気であつた。彼等の仕打を仇敵の如く憎んだ健三も、何故彼らがそんな面中(つらあて)がましい事をしたのか、何うしても考へ出せなかつた。
 彼は自分の権利も主張しなかつた。又説明も求めなかつた。たゞ無言のうちに愛想を尽かした。さうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取つて一番非道い刑罰に違なからうと判断した。(百)

 ここでも大切なのは、「親身の兄や姉」の行為を自分への「仕打」「面中(つらあて)」と受け取り、それに対する彼のいわば復讐が、「黙つて」「腹の中で」「愛想を尽かす」という一種の間接性でもって、つまりは自ら〈媒介するもの〉となることへの拒否でもって、なされている点であり、また関わりをもたないこと(〈媒介〉しないこと)こそが相手への「一番非道い刑罰」だと「判断」されている点でしょう。

 健三は〈媒介〉が誤った方向に、しかも一方向的になされていることに苛立っていながら、「権利」も「説明」も放棄してまで「無言のうちに」踏みとどまります。しかしなぜ健三は自ら〈媒介するもの〉となってそこに介入することを惧れるのでしょうか。どうして不干渉というかたちでなければ自分を保てないのでしょうか。これらはたんに健三の「我」の強さの問題なのでしょうか。

 『道草』では、一見するとこうした問題は、「生れ付」に授かったものか、幼少期までに「親」や「周囲のもの」によって養われた「性向」、あるいは「学問の力で鍛え上げ」(十)ることのできない「野生」の問題として扱われているかに見えます。「平生の彼は教育の力を信じ過ぎてゐた。今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた」(六十七)というわけです。

 しかし「生れ付」も「性向」も「野生」も、いわば向こう側から一方向的に与えられるものであって、ちょうど次兄の遺品を「記念(かたみ)」(百)として譲られた長太郎のように、こちら側からの「お返し」(能動的に取捨選択すること)ができないものであり、つまりは交換の利かない〈媒介〉関係の結果と見なせるものです。健三がその結果に苛立っているのはもちろんのことですが、そこに明らかなのは、その種の一方的交換に、つまりは贈与に、彼自身が〈媒介するもの〉として積極的に関わることへの拒否の姿勢であり、健三が「其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ」というのは、むしろこの拒否の姿勢であり「感情」なのです。



  九 交換―贈与―純粋贈与


 健三にとって最も一方向的で取り返しのつかないことといえば、彼が幼い頃に養子に出されたことであり、養父母が島田であり御常であったことです。島田や御常に一方向的に贈与されてしまったという事実が、健三に《なんらかの形で心に傷を負》わせたことは疑いのないところですが、そこには「世話になつた」(十三)というような簡単な言葉では言い尽くせない複雑なものがあるようです。

 吉田?生は早くに次のような指摘をしていました。
 
『道草』における家族=親族は、社会的には「互恵的交換作用」と呼ばれる相互扶助作用の系(システム)である。しかしこの系は成員間の精神的齟齬によって円滑に機能しない。そこでは原理としての「交換」が健三によって否定されている。C

 吉田氏によれば健三に課せられた役割は、《島田に元の養子として金銭を与えることであり、親族から経済的に頼られることであり、御住には夫として情緒的満足を与えること》になります。健三はこのどれをも満足に果たさない、というより、自ら拒んでいるところがあります。そんな健三ですから、「腹の中には不平があつた」(十)というように、彼が見せる態度や取る行動は、内心とは裏腹になっている場合が多く、健三に限った「腹の中」という言葉の使用例だけでも、『道草』にはざっと二十はありますD。健三はもちろんそのことに無自覚ではないのですが、それでも「外表的(デモンストラチーヴ)」(五十)にはなれないのです。それは「ただ健三の歓心を得るために親切を見せ」(四十一)た養父母のせいで、彼が「己れ独りの自由を欲しが」(同)る人間になったということではありません。
 
「是からは御前一人が依怙(たより)だよ。好いかい。確(しつ)かりして呉れなくつちやいけないよ」
 斯う頼まれるたびに健三は云ひ渋つた。彼はどうしても素直な子供のやうに心持の好い返事を彼女に与へる事が出来なかつた。
 健三を物にしやうといふ御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろ慾に押し出される邪気が常に働いてゐた。それが頑是ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。(四十四)

 この健三の記憶のなかにいる少年の態度は、ほとんど今現在の彼自身のそれのように見えます。御常の言葉に対して、はいしっかりしますというような「心持の好い返事」ができない、すなわち「交換」ができないのは、どうやらそこに一方向的な〈媒介〉のあり方を感じて、それを彼が「拒否」しているようだからです。語り手は御常に「愛」ではなく「慾」や「邪気」があったことが、過去の健三を不愉快にさせたように説明していますが、もしそうならばこの度、御常がその態度を改めて現れてきたときに、健三の対処の仕方は変わってもよかったはずです。
 
 彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考へるよりも寧ろ不思議に思ふ位、御常の性格が牢として崩すべからざる判明(はつきり)した一種の型になつて、彼の頭の何処かに入つてゐたのである。(中略)
 遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考へて見ても、健三には少しも合点が行かなかった。
「そんな淡泊(あつさり)した女じゃない」
 彼は腹の中でこういはなければ何うしても承知が出来なかつた。(六十四)

 御住は健三の「執拗」(六十五)な性格を嗤います。たしかに健三の性格は、御常のそれとともに「血と肉と歴史とで結び付けられ」(二十四)た変わりようのないものなのかも知れません。しかし彼がそこで我慢ならないのは、自分や御常の「性質」のことではないでしょう。健三が苦しいのは、今の彼が、返す必要のない形で養父母たちに金銭を贈与することが、昔彼が島田や御常に育てられたことがやはり贈与であったこと、しかもこちらからは返すことのできない形での贈与であったという真実を思い起こさせるからではないでしょうか。健三にとってそうした贈与は、養父母が未来の「報酬」(四十一)を目的にしたものだと、彼がいくら言葉で彼らの「慾」や「邪気」を名指し糾弾してみせても、あるいは感情の上でいくら「嫌悪」(十三)してみせても、それだけで返済できるような単純なものではないはずです。
 
 彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐へ入れた。
 小遣を遣る時の健三がこの前と同じ挨拶を用いたやうに、それを貰ふ御常の辞令も最初と全く違わなかつた。その上偶然にも五円という金高さへ一致してゐた。
「この次来た時に、もし五円札がなかつたら何うしやう」
 健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされてゐない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかつた。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかつた時、彼はふと馬鹿々々しくなつた。
「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないやうな気がする。…」(八十八)

 皮肉なことに、ここに見られるのは「貰ふ」側の心の余裕であり、与える側の心理的負担です。健三は「周囲のものからは、活力の心棒のやうに思はれて」(三十三)いて、「幾何でも欲しい丈の御金は取れる」(六十)と見られています。健三は今の彼らへの施しが、昔世話になったことへのお返し、つまり「交換」であるとは決して認めようとはしません。そして何より彼が納得できないのは、「一つ作つて置くとそれが何時までも売れる」(十七)と島田がいう「本」のように、勝手にどんどん増殖していく「資本」のような存在と見なされていることです。

 実態と違っているからというだけはなく、そういう存在からの「贈与」は、彼我の圧倒的な非対称性によって、返さなければと思う必要のない、いや返すことなど絶対にできない「純粋贈与」になりかねないからですE。もちろん究極の無償贈与を意味する「純粋贈与」は神や自然にのみ可能なものであって、人間がそれを行うことは原理的に無理なことなのですが、だからといって健三はそれで安心するわけにはいかないのです。もしそうだとすれば、逆に健三は自分が養父母に育てられたという返済不可能な「贈与」が、人間業を超えた、それこそ「天」の采配のごときものであることを認めねばならなくなります。それは彼が島田や御常という存在に自分が永遠に「引懸つてゐ」(九十七)ることを意味します。

 こうして、今贈与する側の健三の心の負担は、そのまま昔贈与された側の彼の心の負担なのです。どうやら健三の「交換」拒否の根本にあるものはこうした不安であり、そのために彼は周囲のものたちと自然な会話(言葉)を交換することさえできないでいるのです。

 たとえば、健三は島田について「何処迄此影が己の身体に付いて回るだらう」(四十六)と心配します。彼には島田との応酬がどうしても対等で等価な「交換」であるとは思えません。兄の長太郎が袴を借りるといった《ごく日常的な社会的交換》(吉田F)とは次元が違っています。健三にとって島田に証文や金銭を与えることは、姉の御夏に端書きや小遣を出すこと以上に、不等価な「交換」であり、こちらからは一切の見返りを求めないという意味で「純粋贈与」に近いものになるのです。

 義父に対する健三の消極的な態度もこの延長線上にあり、「彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可した」(七十六)とされるのは、健三が対等な「交換」と思えない一方向的な〈媒介〉の当事者として「贈与」する側に立たないことを倫理的に正しい振る舞いとして自認しているということなのですが、それはいわば「自分の勝手で座敷牢へ入つて」(五十六)いくことであり、「彼の道徳は何時でも自己に始ま」り「自己に終る」(五十七)という結果にしかならないのです。



  十 つながらない過去、つながらない他者


 健三が「交換」を拒むのは、もちろん彼が「生きてゐるうちに、何かし終せる、またし終せなければならないと考へる男であつた」(二十一)こととも関係しています。吉田氏は書いています。
 
たとい自然現象としての生命の生成は交換を必然としていても、心的存在としての自己は他の何ものとも交換不能である、という思想にほかならない。G

 しかし健三はむしろ「心的存在としての自己」を何ものかとできれば「交換」したがっているように見えます。ただそれは断じて彼の「妻」「子供」「親族」「周囲のもの」たちとではないのです。健三が疑っているのは、知識も教養も身につけた自分がただ家族=親族であるというだけで「交換」を演じなければならない理由がどこにあるのか、彼らの共同性に自分が組み込まれることの根拠や必然性がどこにあるのか、ということです。

 彼らの「自己」は「家」や「親族」「世間」といった共同性の中に埋没しているように、少なくとも健三には見えています。健三は、彼らに対して一方的に「贈与」する立場には立ちたくないものの、同時に彼らと同じにされてはたまらない、という気持ちもあるのでしょう。いずれにしても、自己を相対化し彼らと「大した変りはない」(四十八)と同一性を確認するだけでは、健三は自己を支えることはできないのです。

 しかし「異様の熱塊」(三)はあっても、健三はその「心的存在としての自己」を何と交換したいのかさえ、未だわかってはいません。この交換相手の見つからないという不透明感が、彼をして「徒労」「老い」「死」というものに直面させます。「途中で引懸つてゐる」(九十七)健三には未来が見えず、過去を空しくまさぐるばかりです。

 健三が解かねばならないのは、「然し今の自分は何うして出来上つたのだらう」(九十一)という自らへの問いかけですが、過去の断片は「鮮明(あざやか)に彼の心に映る」のに「其頃の心が思ひ出せない」(十五)。そして親族と過ごす時間は健三を「昔の我に帰つたやうな心持」にさせますが、彼は同時に「今の自分が、何んな意味で彼等から離れて」いるかも「意識しなければ」ならない(二十八)のです。こうして「今の自分」や「今の彼」といった言葉が、いずれも過去の自分との大きなズレを示すかたちで多用されH、「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」(九十七)という自問にまた戻ることになるのです。

 「心的存在としての自己」と「交換」してもよいほどのものということでいえば、今までとは「違つた方面に働いた彼の頭脳の最初の試み」として「ある知人に頼まれて」「雑誌に長い原稿を書いた」ときの「筆の先に滴る面白い気分」(八十六)の先に、将来への道が見つかりそうなのですが、『道草』はここでもやはり迂言的な表現のままにとどめています。

 たとえば柴市郎は、健三が島田の「書付」を「百円」で買い取る場面を取り上げて、次のように指摘しています。
 
そこに起きたのは「反古」に等しい、つまり物じたいに内属する価値(仮りに使用価値と呼ぶ)などまったくないように見えたものが結果として〈交換〉過程において「百円」という価値を体現した(かに見える)というアクシデントである。しかし、この出来事は、見かけの不条理の背後に、予め物じたいに何か具体的な価値が属性として備わっているものだという通念を覆し、むしろ他の物との関係において成立する〈交換〉価値こそが遡及的に使用価値を構成するということ、使用価値は決して実体的なものではなく、〈交換〉価値が発生させる「効果」の如きものだという〈現実〉を垣間見せているのではないだろうか。I

 そして、それはたんに「商品」の無根拠性を暗示するだけでなく、《銀行券(紙幣)という形の〈貨幣〉がそれじたいとしてはただの「反古」(紙片)にすぎないという〈現実〉がほのかに透視される》と柴氏はいいます。健三も商品も貨幣も、同じようにその存在の無根拠性が暗示されているというわけです。これは大変に鋭い指摘です。

 しかしだとすれば、それは「記憶」にも当てはまるのではないでしょうか。健三の「記憶」も、誰かと交換されなければ、やはり「反古同然」(九十五)です。「記憶」内容の確からしさとは、それを言葉にしたものを自分以外の誰かと共有したという事実の効果として、はじめてあるものだからです。柴氏の言葉をもじっていえば、「記憶が単なる『反古』でないのは、それが実際に今を生きる現実に役立つ限りにおいてである」ということになります。

 そしてもちろん、その「記憶」の内容も、他の記憶や記憶をめぐる言葉との関係によって意味が変わってきます。それもまた、いわば記憶の交換価値の効果としての使用価値です。たとえば、「兄と同じく過去の人となつた」(三十八)健三は「自分は其時分誰と共に住んでゐたのだらう」(同)と自問し、語り手は「其時代の彼の記憶には、殆んど人といふものの影が働らいてゐなかつた」(三十九)というのですが、こうした言葉は、健三の昔の事実のことよりも、じつは「今の彼」の周囲に「人というものの影」がない、という真実のほうをより強くいいあてています。健三は今現在、自分とかかわる人間に対する自分の情愛を感じられないでいる(不人情)のだし、自分の周りに人の影を見いだしかねている(孤独)のです。そしてこれがまた今この文章を書いている作家に関係していない、ということがあるでしょうか。

 私たちは漱石の日記(大正三、四年の頃)をここで今一度繙く必要はないでしょう。一番身近にいる人に対してさえ、彼はたいへん執拗で深い疑いをもっていました。もちろんそれを一種の病気とみる見方もあるでしょう。しかしそれならその病気は小説を書くことで自己治療を試みなければならないほどのものだったのです。千田洋幸は『門』の主人公について《彼自身が何らかの形で記憶を書き換える方法を見いだすほかない》Jと指摘していますが、これは『道草』を書く漱石にも当てはまる言葉でしょう。

 『道草』では、健三の記憶や手紙や書付といった〈書かれたもの〉を他者と共有させることで、あるいは他者に介入・媒介させることによって、彼の過去が開かれ、作り替えられ、編み直されていきます。そのことを書くことで、作家は自分自身の過去・経験を言語化する方法を手に入れようとしています。それはすぐさま自己同一性の物語の内部に回収できることを意味しません。しかしありえたかもしれない自己という過去の束縛から自身を解放し、ありうる自己すなわち未来の自由に向けて自分を開いていくには、まずはこうしたいささか遠回りの作業が必要だったのです。こうしてやっと自己を確認し創造していく足場が可能になるのです。


 
  十一 自己媒介と他者への開かれ


 柴市郎は、交換のひずみから余剰が生み出さてしまう《〈交換〉のアイロニー》について、次のように述べています。
 
〈貨幣〉は異なる対象の間を通約可能にする上で、対象の質を抑圧しなければならない必然を背負っている。そのため〈貨幣〉を媒介とする〈交換〉は、その対象どうしが差し引き零という結果に終わるかに見えようとも、実は対象の質の抑圧という厄介な問題をそれに伴う言わば余剰として潜在的に生み出してしまっている。K

 これまでに見てきたように『道草』では貨幣に限らず、〈媒介するもの〉は別の〈媒介するもの〉を呼び出してしまったり、断つべきを結んだり、つなぐべきを切ってしまったりするのでした。そして言葉もまたそうした〈媒介するもの〉の一つなのですが、二者間でやりとりされるはずの言葉が、方向違いの相手を〈媒介〉する場合があります。たとえば、小説の最後の場面での御住の言葉は、夫の健三に向けてというよりは、超越的な位置にいる語り手に向けての、その語り手の言葉すら相対化してしまいかねない言葉になっています。

 健三と御住の最後のやりとりの少し前の部分で、比田の「証文さへ入れさせて置けばもう大丈夫」(百二)という言葉が紹介されます。兄長太郎も「是で漸く一安心」(同)といいます。二人が帰った後で、御住がやはり「証文を取つて置けば、それで大丈夫」(同)というと、健三は「片付いたのは上部丈ぢやないか」(同)といい返します。

 健三は、島田との関わりを自分と御住との二者の関係において確認しようとして、そこに外=第三者の視点からの言葉を導入してしまいます。「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない」(同)というときの「世の中」がそれです。以前にも、御住との対話において「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」(五十二)という健三の発言がありました。このような二者関係における言葉のやりとりの中に、「世の中」というような第三者の視点からの言葉が持ちこまれると、二者の関係そのものが変質してしまいます。外に向けて開かれることで、かえって二者間のつながりが消えてしまう、そうした切断の言葉として働くのです。

 たとえば御常や御住も、それぞれ次のような形で使っています。
 
「此方などが困つてゐらしつちあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」(八十七)
「貴夫に気に入る人は何うせ何処にもゐないでせうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」(九十二)。

 いずれも第三者的視点からの言葉を対話の中に持ちこんでしまい、相手との関係を、その表面的な意図とは裏腹に、切断してしまっている例ですが、語り手自身の言葉遣いにも同様のものがあります。
 
他(ひと)から見ると酔興としか思はれない程細かなノートばかり拵へてゐる健三には、世の中にそんな人間が生きてゐやうとさへ思へなかつた。(八十六)

 語り手が直接に健三を突き放している例ですが、こうした例のうちで究極的なものは、健三の自問の中にこの言葉が入り込む場合です。
 
「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」(九十七)

 このときは健三が彼自身との関係を遮断することになるため、自分で自分を引き裂くような結果になります。

 最後にもう一度小説の結びの場面を見ておきましょう。健三の「世の中」の一言で、御住との二者の関係が第三者の視点に開かれたあと、言葉はどこに向かうのでしょうか。
 
「ぢや何うすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない。一遍起つた事は何時迄も続くのさ。たゞ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
 健三の口調は吐き出す様に苦々しかつた。細君は黙つて赤ん坊を抱き上げた。
「おゝ好い子だ好い子だ。御父さまの仰やる事は何だかちつとも分りやしないわね」
 細君は斯う云ひ云ひ、幾度か赤い頬に接吻した。(百二)

 おそらく御住が聞きたいのは、あなたはどうしたいの?わたしにどうしてほしいの?私たちはどうすればいいの?といった類のことなのですが、健三はここでもそれをいいません。そういうことならば、つまり、とりあえず二人の間にだけ通じ合えばいい事柄の表現上の問題ということでなく、世間一般に通用する問題への対処ということならば、ということですが、御住にとってその問題は「証文」という形で、すでに「片付いちやつ」ています。ですからそういう御住の今ここにおいては、もはやそれ以外には、「黙つて」抱上げた「赤ん坊」との、もう一つの二者関係があるだけです。少なくとも健三や語り手にはそう見えています。

 子供を抱きながらその子供と一体化している御住は、健三に彼の過去を蘇らせずにはおかない姿をさらしているともいえます。しかし健三はもはや「女は策略が好きだからいけない」(八十三)などと口にしたりはしません。作者もまたここでは語り手にもそのような健三の過去に関わる言葉を介入させないのです。

 そうなるとしかし、二者の関係を切断し第三者の視点を取り込んだ健三の「世の中」という言葉のあとの、「おゝ好い子だ好い子だ」に続く御住の言葉を第三者の視点からの言葉として受け取れるのは、読者だけになります。「何だかちつとも分りやしないわね」。「他(ひと)にも自分にも解らなくなる」というのに、どうして「いつまでも続く」と言い切れるのでしょう?二者関係の言葉としては、そういう意味にもとれるでしょう。しかし「分りやしない」といわれているのは、全てを見渡せるような離れた位置に立って、何でも見透かしたかのように書かれている言葉に対して、かも知れないのです。

 作者は、自分の作品の最初の読者でもあります。健三に聞こえよがしにいう御住の赤ん坊への語りかけが、かつて幼児だった誰かに呼びかけられた言葉のように、また、ただいま筆を執ってそれを書いている作家自身に呼びかけてくる言葉でもあるかのように、最後におかれています。そのとき漱石は、自分自身と小説という二者関係を第三者の視点から読もうとしているのだと思います。


 
  十二 語り手という装置


 二者関係に第三者の視点を取り入れることは、そもそもは健三(過去)と作者(現在)という二者の関係を〈媒介するもの〉としての語り手に期待される役割であり、当然二者を切断するためにではなく、連結させるための装置としてです。

 たとえば健三が「フランスのある学者」(もちろんベルグソンですが)の記憶に関する説を青年に紹介する場面を見てみましょう。
 
「人間は平生彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟に起ったある危険のために突然塞がれて、もう己は駄目だと事が極ると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで凡ての過去の経験が一度に意識に上るのだというんだね。その説によると」
 青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかつた。健三も一刹那にわが全部の過去を思い出すやうな危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかつた。(四十五)

 語り手は、健三がある程度の余裕をもっていて、自分にそれほどの危険が迫っているわけではないと自覚している点をむしろ評価しているかに見えます。しかし作家自身はどうでしょうか。このとき語り手は、青年と健三とを媒介する義務から離れて、健三と作者をつなぐ権利を行使していると仮定してみましょう。すると語り手の声は、これを書いている作者自身はどうなのか、と問いかけていることになります。じつは「一刹那にわが全部の過去を思い出すやうな危険な境遇に置かれ」ているのは、作者のほうではないのか、と。漱石は、自分の死がほんの目の前に見えていたのではないでしょうか。自分の過去を振り返り、組み立て直さねばならない自分こそ、死を前にしているからそうしているのではないか、との思いはなかったでしょうか。

 千田洋幸は『門』に関する考察において、社会学者の片桐雅隆の研究Lを参照しつつ、過去の記憶について、次のように述べていました。
 
そもそも過去の記憶とは、現在との関係のなかでその都度新しく生み出され、しかも書き換えの可能性を内包する構築物としてあるはずである。それは出来事の静的な記録などではなく、隠蔽、抹消、捏造……等をふくむ物語化の操作によって生成され、解体と再編による更新をともなうのであり、同時に、記憶の主体がおかれている現在の状況を正当化し、安定した自己同一性を確保しようとする意志にしたがって創出されるのである。M

 もちろん、小説における語り手の役割は、作品を持続させることにありますが、語り手自身の客観を装った主観からの登場人物への断罪は、読者を一定の方向に導く働きをすることにもなります。公平性の点では『虞美人草』の語り手ほどひどくはありませんが、それでも『道草』の話者は作品にとってかなり統括的な存在だといえるでしょう。といっても、この作中人物に対する語り手の評価は、そのまま作者の認識ではなく、それらを〈媒介する〉ものです。話者は、作中人物を固定化し制御するのではなく、作家に動揺と自由を与えるのです。語り手は、長編を維持するために、過去と現在という異質な時間の世界を交替させながら話を進めます。その交替には、たくさんの媒介があり、介入があって、いよいよ作品世界を利害の絡まりあった、複雑につながりあったものにしていきます。そしてそれら異なる時間のあいだを往還することから生まれてくる主人公健三の「時間」や「自己」への疑問や洞察の深まりが、また作品の長さを生み出していきます。
 
彼の時間はそんなことに使用するにはあまりに高価すぎた。(八)

 語り手は、健三の心情に寄り添うように、彼にとって「時間」というものが金銭の尺度では計量できない特別なものだという意味で、「高価」なものだと記しています。しかしもちろん語り手は、健三を突き放す視点も同時にもっています。
 
さうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通つてゐる事には、丸で気がつかなかつた。(三)

 ここでは語り手は、健三の迂闊を指摘しているように見えます。柴市郎は、この点を取り上げて《〈貨幣〉以上に大切なものであるはずの時間の意義が皮肉にも〈貨幣〉をめぐる言葉のネットワークのなかに囚われてしまっている》と指摘しています。時間を「費やす」(二十一)「費やさされた」(五十八)「費やした」(五十九)「時間の空費」(二十八)といった言葉の使用法は、時間を貨幣と同次元でとらえているものの発想だというわけです。そしてそれをもって《実体的、可視的な金銭の力につきうごかされている》島田以上に、健三が《観念的、抽象的な領域に及ぶ〈貨幣〉の力に操られている》ことの例証のひとつとしています。N

 ここで私が問題にしたいのは、それらの表現が健三自身の言葉ではなく、語り手の評価だという点です。つまり、やれ「高価」だの「守銭奴」だのと、自在に距離をとりながら健三をその内心まで明視し、彼を批評してみせているはずの、その語り手自身が、時間と貨幣を同じものと見なす発想/用語法に囚われていることに盲目であるという点です。

 語り手の位置を健三という存在の延長線上におかない視点から『道草』を読む場合、柴氏の指摘を、語り手という対象に絞ることで、(これまた語り手とイコールではない)作者の位置取りという焦点がはっきりします。これこそ作者が、その現在における自己を相対化している部分といえます。つまり漱石はここで、健三の姿勢からというよりは、むしろ語り手の自らの立ち位置に対する盲目性を通じて、自分自身もまた金銭が流通する社会にあって、その金の力から「解放された自由の人」(八十五)では決してあり得ない、という確認の場に立とうとしているのです。

 こうして様々な〈媒介するもの〉の複雑な交錯の末に、「片付かない」という言葉=認識が、つまりはこの小説が残ったのですが、漱石は「片付かない」という言葉で、無媒介的なコミュニケーション(直接性、無償性)への夢を断念したというより、むしろ無媒介というもののありえなさを表現しているのだと思います。「記憶」という〈媒介するもの〉がある以上、過去の事実のそのままの再現はありえない。素材が他人と共有可能な「言葉」として組織されるためには、語り手という〈媒介するもの〉なしにはすまされません。そしてその語り手の超越的な明視でさえ、盲目性を伴わざるを得ないのです。

 そのままであり続ける「過去」がありえないのと同様、語り手の「言葉」もまた確定的な真ではありません。自己が自己自身であるためにも、〈媒介する〉何ものかを必要とし、その〈媒介〉が誤った切断をし、予期せぬ連結をもたらしても、その都度「記憶」を編み直し「自己」を書き換えていくこと。『道草』は、そうした構築の断念へと導きかねない苦い認識とそれでも構築しようとする強い欲望とがせめぎ合う、終着点をもたないテキストとして編み上げられた作品なのです。


 
 
@武田信明「『小説(フィクション)』の構築―『虞美人草』論―」 (「漱石研究」第十六号、二○○三)

A山下悦子「明治文学と養子制度 夏目漱石をめぐって」(「批評空間」第六号、一九九二)

B荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、一九八四・六)

C吉田?生「家族=親族小説としての『道草』」(『講座 夏目漱石 第三巻』所収、三好行雄他編、有斐閣、一九八一・一一)

D「腹の内」「腹の底」というそれぞれ一例を含めると全部で三十例があり、うち健三のものについては三、五、九、十、十三、十四、二十六、二十九、四十五、四十七、四十九、五十三、五十六、五十七、六十三、六十四、六十五、六十七、八十七、百にある。

Eジャック・デリダ「時間を―与える」(『他者の言語―デリダの日本講演』所収、高橋允昭訳、法政大学出版局、一九八九・一二)、および中沢新一『愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュV』参照。なお用語は中沢氏のものに従う。

F前掲Cに同じ。

G前掲Cに同じ。

H「今の自分」は二十五、二十八、二十九、四十五、六十、九十一、九十四に、「今の彼」は二、八、十六、二十、二十四、三十三、同、三十四、四十四、五十、五十三、五十七、六十一、六十二、六十七、七十三、九十三に、それぞれ使用例がある。

I柴市郎「『道草』―交換・貨幣・書くこと―」(「日本近代文学」第四九集、一九九三・一○)

J千田洋幸「過去を書き換えるということ 『門』における記憶と他者」(「漱石研究」第十七号、二○○四)

K前掲Iに同じ。

L片桐雅隆『過去と記憶の社会学』(世界思想社、二○○三・二)

M前掲Jに同じ。

N前掲Iに同じ。


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