夏目漱石『草枕』の〈非人情美学〉

A Consideration of Hi-Ninjou-Bigaku on Natsume Soseki's Kusamakura


 武 田 充 啓 (Mitsuhiro TAKEDA)


章立て

 はじめに

  一 見る男 あるいは 描けない画工  

  二 〈非人情美学の幅〉(「自然」の叙景から「心持ち」の表現まで)

  三 顔のない女 あるいは 〈あいだ〉を生きる人

  四 画工の「心持ち」と那美の「憐れ」

  五 「胸中の画面」の意味(「おわりに」に代えて)  


  はじめに

 『草枕』は、一九○六(明治三十九)年九月、雑誌「新小説」に発表された中編小説である。よく知られているように、この『草枕』については、次の作者自身による解説がある。

私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない。(『余が「草枕」』@)

 「世間普通にいふ小説」とは、「人生の真相を味はせる」ために「汚ないもの」をも平気で写すような小説のことであり、漱石は、自分の『草枕』は「人生の苦を忘れて、慰藉する」ことに重きをおいた「美を生命とする」作品だ、と強調するのである。そしてそういう小説だからこそ、「普通の小説」にあるはずの「プロツトも無ければ、事件の発展もない」とするのである。
 しかし、ここで確認しておきたいのは、引用文の「さればこそ」でつながれた前後の文章が、原因と結果の関係というよりは、むしろ目的と手段の関係にあるということである。つまり、『草枕』が「美」を伝えることを目指したために(原因)、「プロツトも無ければ、事件の発展もない」小説ができあがった(結果)、というよりは、『草枕』の「目的」(「美」を伝える)を達成するために、事前に「プロットも無ければ、事件の発展もない」という方法が「手段」として意識的に選択された、ということである。
 もちろん、『草枕』に話の筋のようなものが全くないというわけではない。「非人情」の旅に出た画工が、那古井の温泉で宿の那美に出会い、彼女の言動に接しながら、自分の理想とする画を完成させようとする物語としてまとめられなくもないのである。しかし、この主人公である二人は、旅人と宿の女というその関係を最後まで保ち続けて、少しも変化を見せないまま、小説は結末にいたるのである。その意味で『草枕』は、やはり「事件の発展」のない小説といえるのである。
 「真」よりは「美」を伝えることをもっぱらとし、事件らしい事件のない小説。では読者は、そんな『草枕』にいったい何を読むことになるのか。

「全くです。画工だから、小説なんか初から仕舞迄読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。こゝへ逗留して居るうちは毎日話をしたい位です。なんならあなたに惚れ込んでもいゝ。さうなると猶面白い。然しいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初から仕舞迄読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情ぢやありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいゝんです。かうして、御籤を引くように、ぱつと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」(九)

 これは、画工と那美さんとの間に交わされる小説の読み方に関するやりとりであるが、ここに見られるような芸術に対する姿勢のみならず、画工の自然や人事に対する考え方や態度といったものを、読者は読んでいくことになる。それを一言で言えば、〈非人情美学〉ということになる。私たちは、画工が表明する〈非人情美学〉に寄り添いながら、彼が自らの課題(〈非人情美学〉の実践)にどう応えていくのか、という興味をつなぎながら『草枕』を読み進めていくことになるのである。
 この画工による〈非人情美学〉の実践を見届けるためには、画工が『草枕』において担っている役割について、きちんと目配りをしておく必要があるだろう。画工が『草枕』において果たす役割は、たんにその話の引き回し役にとどまるものではなく、いま少し複雑である。彼は旅行中に出会う出来事や人物を「見立て」の発想で見物しようとする観察者であり、またそうした対象をただ眺めているだけではなく、それらを絵や詩に表現しようとする実作者であり、さらに古今東西にわたるその芸術的教養に支えられた自らの趣味や見識を披瀝して倦まない批評家でもあるのである。
 画工が「観察者、芸術家、実行者、批判者」といった「何重もの役割を負わされている」ことを指摘したのは清水孝純氏Aであるが、氏が論及するように、そうした複数の役割のために、画工の〈非人情美学〉の実践が、読者にとってかなり見通しのわるいものになってしまっているということは事実であろう。しかし、画工の引き受ける複数の役割が、「世間普通に云ふ小説」ではない『草枕』においても、やはり氏のいうように「相いれない」「相対立する」ものであるのかどうか、そしてそれらの役割が彼の〈非人情美学〉とどう関係するのかについては、画工の〈非人情美学〉とその実践に則して、個別に詳しく検討し直すべきであると考える。
 小論におけるこの画工の役割の再検討という課題は、画工の〈非人情美学〉をどうとらえるか、とくにその実践との関係をどう読み解いていくか、という問題につながるものである。以下の論考では、画工が果たしている幾つかの役割のうち、現実を絵として眺める観察者としての側面と、絵を実際に描こうとする表現者としての側面との、二つの側面にとくに注目したい。この二つの役割こそが、〈非人情美学〉を支える要であると考えるからである。そうして、〈見る〉ことと〈描く〉こととの関係を読み解きながら、彼の〈非人情美学〉が最終的に貫かれ得たのかどうかを、したがってまた、結末に「成就した」とされる彼の「胸中の画面」の意味についても、これはさらに那美との関係を読み解く作業を補足しつつ、明らかにしたいと思う。

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  一  見る男 あるいは 描けない画工

 画工が何より〈見る〉人であることは、たとえば次のような文章を見れば瞭然である。 

住みにくき世から、住みにくき煩ひを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云へば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。(一)

 〈見る〉ことができれば、実際に〈描く〉ことまではできなくてよい。その「心眼に」「澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに収め得れば足る」(一)。画工は、冒頭から、自分が実際には画を描かないで終わる画工であることを告白している。
 画工において、〈見る〉ことの方により重点が置かれるのは、彼の〈描く〉という作業が、実際には、作者が『草枕』を〈書く〉という作業によって置き換えられているからである。画工は登場人物であり、『草枕』は小説である。「美しい感じ」は、結局のところ、色や形ではなく、言葉によって実現される。したがって、画工が「難有い世界をまのあたりに」〈見る〉ことさえできていれば、それを「画」に〈描く〉ことまではしなくてよいというのは、画工の言い訳というよりは、作者の言い分なのである。それは「事件の発展」のない小説の読者を結末にまで導いていく方便でもあり、その意味では、画工が小説の中で実際に画を〈描く〉ことなどは、作者によって意図的に制限されているといってよいのである。
 「非人情をしに出掛けた旅」(一)において、画工が最初に〈見る〉のは「自然」である。「自然」に接して「苦」がないのは、その景色を「一幅の画として観、一巻の詩として読むから」であり、「人情」を絡めずに〈見る〉ことができるからである(一)。そして、この「物は見様でどうでもなる」(二)という画工の相対主義的な見方が、「人間」を〈見る〉ときにも適用されるのである。
 画工は、〈見る〉ことの基本姿勢として、「見立て」という態度を思いつく。「旅中に起こる出来事」や「旅中に出逢ふ人間」を「能役者の所作」や「大自然の点景」に「見立て」ることによって、「人情の電気が無暗に双方で起こらない様にする」というのである。すべての「人間」を「画中の人物」としてしまうのは、「利害に気を奪はれない」で「彼らの動作を芸術の方面から観察する」ためであり、「余念もなく美か美でないかと鑒識する」(一)ためである。つまり「見立て」は、純粋に「美的」なものだけを〈見る〉ための、観察上のひとつの手続きなのである。
 ところで、「自然」や「人間」を「見立て」によって眺めることは、いわば〈見る〉ことを水平方向において二重化することである。この行為は、もちろん積極的で意志的なものであり、努力なしには続かない態度である。画工は最初から「非人情はさう長く続く訳には行かぬ」と断ってもいる。しかし画工は、自分自身を〈見る〉ことの対象とするときにもやはり「見立て」を試み、その方法としての可能性の幅の大きさを示して見せている。   

 茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも詠まれる。有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。(中略)初めは帽を傾けて歩行た。後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎた様だ。(一)

 画工は、ほとんど「己れを忘れ尽くし」ながら、しかし「純客観に眼をつく」ろうとする自分を手放してはいない。ここでは、いわば〈見る〉ことが垂直方向に二重化されているということができるだろう。「非人情がちと強過ぎた様だ」という表現は、まさしくそのことをあらわしている。それは、彼が酔狂にも風雨(=「自然」)にさらされ過ぎた、ということだけをいっているのではない。画工が自分自身に対してあまりに距離を置き過ぎたことを、しかし彼自身がそれをしっかり自覚しているということもまた、強調されているのである。
 このように見てくると、「見立て」は、「自然」や「人間」を対象とするときであれ、自己自身を対象とするときであれ、水平と垂直とでその方向に違いはあっても、〈見る〉ことの二重化による実践であるという点で、共通した「方法」であることがわかるのである。そしておそらくは、この「〈見る〉ことの二重化」という方法の内側で、作者によって制限された画工の〈描く〉主体、彼の〈描く〉ことへの欲望が、生きられているのである。
 もちろん画工は、最初から〈描く〉ことを諦めているわけではない。峠の茶屋では、早速写生帖を開いて婆さんや鶏を写生しようとしている。

余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳して、遠く向うを指している、袖無し姿の婆さんを、春の山路の景物として恰好なものだと考へた。余が写生帖を取り上げて、今暫くという途端に、婆さんの姿勢は崩れた。(二)

 画工が、画を実際に描こうとして描けないのは、この場面だけではない。しかし、ここで注意しておきたいのは、この後、画工がこの峠の茶屋の「婆さんに石臼を挽かして見たくなつた」とされる点である。これは、「見立て」によって〈見る〉ことの枠を越えて、画工の〈描く〉ことへの欲望がかなり露出している場面であり、ここには画工が現実世界を「写す」ことよりも、それを変更してでも、自分の理想とする美の世界を現出させたいという気持ちが窺えるのである。
 〈描く〉ことを許されない画工は、しばしば詩作に転じ、その企てはたいていは途中で投げ出され、あるいは那美に邪魔され、ときには成功したりもするのであるが、それとともに、彼が遠い昔の記憶を蘇らせる場面が幾度かある(七)(十一)(十二)。この画工による過去の想起も、彼が画を〈描く〉ことを禁じられていることと関係があるだろう。画工の幼少期の記憶については、那美像との対応を安藤久美子氏が指摘しているBが、ここで重視したいのは、画工が、画を〈描く〉ことを代償に、記憶の世界に遊んでいるかに見える点である。この場合、画工によって想起される過去は、幼少期のものに限らない。三本松の記憶(七)においては、「子供心に好い心持ち」になったことが、円覚寺の坊主に関する記憶(十一)では、「気分が晴々した」ことが、木瓜の花にまつわる記憶(十二)においては、「其時分の方が余程出世間的」であったことが、それぞれ思い返されていて、木瓜を見つめている画工は、やはり「いゝ心持ちになる」のである。それら過去の想起に共通しているのは、「心からうれしく感じた」り、無邪気に「楽んだ」りが素直にできている、画工の脱俗的な「心持ち」である 。そうした「心持ち」を画に〈描く〉ことを許されない画工は、自らの「過去」をある「心持ち」に「見立て」ることによって、実際に画を〈描く〉ことの代わりとしているのである。つまり、この過去の想起もまた、一種の〈見る〉ことの二重化であり、画工は相変わらず〈描く〉ことはできないものの、彼の〈非人情美学〉と結びついた〈描く〉欲望、〈描く〉主体は、その「見立て」という方法のうちに見え隠れしつつ、しかし確実に生き延びているのである。

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  二 〈非人情美学〉の幅(「自然」の叙景から「心持ち」の表現まで)

 画工の〈非人情美学〉が、はたしてどれだけの幅をもつものなのか。対象に対して距離をとり、客観的に事象を観察する立場と、対象と同化し、主体が対象と不分明になってしまうことに「窈然として名状しがたい楽 」(六)を感じて、その状態に身を委ねているような立場とが、双方ともに〈非人情美学〉の枠内に収まるものとして考えられるのかどうか。以下、本章ではこの問題について考えてみよう。
 たとえば、秋山公男氏は、『草枕』には「非人情美」の枠を超えた、それとは別種の「朧の美」が描かれていると述べているC。氏は、「非人情美学の基本的な立場は、自他の間に距離(「隔て」)を置いた、対外的・対他的視点の設定」にあるとし、それとは対照的に、「朧の美」は「対象との距離を喪失し、朧な周囲の情景と同化し」「意識も明覚を失い朧な溶解状態にある」主体によって叙景されるとする。この対比の軸は、主体と対象との距離のある/なしであり、〈見る〉視点の確保/放棄の問題である。

 余は明かに何事をも考へて居らぬ。又は慥かに何物をも見て居らぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩を以て動くものがないから、如何なる事物に同化したとも云へぬ。されども吾は動いて居る。世の中に動いても居らぬ、世の外にも動いて居らぬ。只何となく動いて居る。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、只恍惚と動いて居る。(六)

 秋山氏は次のようにも述べている。「朧の美の場合、対象との『同化』が実現しそこに美が醸成されるためには、『何事をも考へて居らぬ』『見て居らぬ』、〈見る〉視点の放棄が前提になる」。しかし、ここで見落とされているのは、〈見る〉視点を放棄した自身をしかし「見て居らぬ」と描写し続けている主体である。これは〈見る〉視点を放棄した主体が、しかしそのこと自体を「写す」視点については、これをしっかりと把持しているということであろう。そしてこの、先にも見た、画工の〈描く〉欲望に支えられた、〈見る〉ことの二重化による「写す」視点の確保にこそ、「写生」のスタンスは生かされているのである。

 写生文家は自己の精神の幾分かを割いて人事を視る。余す所は常に遊んでゐる。遊んでゐる所がある以上は、写す我と写さるゝ彼との間に一致する所と同時に離れて居る局部があると云ふ意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写される彼になり切つて、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我の境地を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。是に於いて写生文家の描写は多くの場合に於て客観的である。(中略)/此故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にも矢張り同一の筆法を用ゐる。(『写生文』D)

 ここでいわれている「写生文家」の態度は、画工の〈非人情美学〉の姿勢と重なっている。画工は、「写生文家」のように、〈見る〉視点を放棄してしまっている自分を、しかし「写さるゝ彼」として観察し、決して「写す我」「我の見地」を捨てきっていない。対象と同化してしまっている自分自身をなお、「大人が小児を視る如き立場」から眺めることによって、「自己の心的行動を叙」し続けているのである。
 つまり、画工の〈非人情美学〉の基本的立場は、「自然」であれ「人間」であれ「自己」であれ、その対象の如何を問わず、またその対象との距離の遠近深浅をも問わず、自在に「動き」つつ、〈見る〉ことの二重化のもとにおいて「写す」視点を把持することにあるのである。
 たとえば、次の場面を見てみよう。画工が鏡が池に来て、池の中の水草をのぞき込む場面である。

 余は草を茵 に太平の尻をそろりと卸した。ここならば、五、六日斯うしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣はない。自然の難有いところはこゝにある。(中略)席をずらせて段々水際迄出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸せば生温い水につくかも知れぬと云ふ間際で、とまる。水を覗いて見る。
 眼の届く所はさまで深さうにもない。底には細長い水草が、往生して沈んで居る。余は往生と云ふより外に形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄なら靡くことを知つて居る。藻の草ならば誘う波の情けを待つ。百年待つても動きさうもない、水の底に沈められた此水草は、動くべき凡ての姿勢を調へて、朝な夕なに、弄らるゝ期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代の思を茎の先に籠めながら、今に至る迄遂に動き得ずに、又死に切れずに、生きて居るらしい。(十)

 ほぼ同じ箇所を引いて、「『余』は藻の草が『波の情けを待つ』ように美那を待っている」と読んだのは、W・バートン氏であるE。氏は、「自然」を対象としたこれら叙景の中に、画工の自己投影(描写対象と感情の結合)が見られるとし、やはり「非人情」とは「正反対」の立場に移っていると指摘する。氏の考えの基盤にあるのも、「非人情」は「作家が芸術の対象との距離を持つこと」とする見方である。しかし水草が画工の「自己投影」として描かれているのか、それとも那美に「見立て」られているのかは、それこそ「見様でどうでもなる」のである。二重化された視線によって見られているものが、那美であれ、自己自身であれ、それをどう「人情」や「利害」から離れて「美的」にとらえ続けることができるか。〈非人情美学〉の要点はそこにある。
 右に引いた場面で注意しておきたいのは、描写の対象が何を意味しているかではなく、描写しようとして〈見る〉人、すなわち観察者である画工の「動き」にある。画工はまず、草の上に腰を下ろす。そうして彼は、水草を観察する前に、まるで自分自身がその水草であるかのように、その姿勢を先取りしてじっと「動かない」。それから彼は「段々水際迄」近づき、はじめて池の中を覗き込む。「動かない」水草を確認した画工は、そのあと「立ち上がつて」「石を二つ拾つて」「功徳になると思つたから、目の先へ、一つ抛り込」み、さらに「今度は思い切つて、懸命に真ん中へ投げ」ているのである。ここで明示されているのは、ほとんど同化に近いといえるものから客観的といってよい姿勢までの、あるいは見るだけの観察者から現実的な接触も辞さない実行者としてまでの、対象に対する自在な距離の取り方であり、自在な関わり方というものであろう。
 画工は、たんに〈見る〉人であるだけでなく、〈動く〉人でもある。しかしそのことは、彼の「非人情」というスタンスの崩れを意味しない。むしろ「動く」ことによって、画工は「人情」や「利害」の誘惑から逃れるのである。こうして対象との距離や関わり方を自在に変える画工の「動き」は、逆に彼の「非人情」を保証するのであり、彼の〈非人情美学〉は、距離を置いた「自然」の叙景からほとんど距離なしで対象と同化している自己の「心持ち」の表現にいたるまで、〈見る〉ことを二重化させ、つねに「写す」視点を失わない画工によって、一貫して維持されているのである。

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  三 顔のない女 あるいは 〈あいだ〉を生きる人

 次に、那美と画工の関係について考えてみたい。旅のはじめには、様々な対象に拡散していた画工の〈描く〉欲望は、那美に出逢って彼女と接していく間に、ほぼその対象を那美に集中させていくことになる。そのことと最終的に画工が自分自身の「心持ち」を画にしようとすることとの関係を読み解くことが、以下のの課題である。
 那美は、早くから『草枕』に登場する。画工が那古井へと向かう峠の茶屋で、茶屋の婆さんと馬子の源兵衛とが交わす会話の中に「那古井の嬢さま」「志保田の嬢様」として出てくる。画工は彼らの話を聞きながら、「この景色は画にもなる、詩にもなる」と考え、取り出した写生帖に「花の頃を越えてかしこし馬に嫁」と書き付ける。しかし、画工の「心のうちに」思い浮かぶのは、女の衣装であり髪であり馬であり桜であって、「花嫁の顔だけは、どうしても思ひつけなかつた」のである(二)。
 那美は、最初から顔のない女として登場するのであり、このことは、彼女がのちに「自己」を失った存在として現れてくることを予告しているのだが、同時にこのことはまた、以下に見ていくように、画工自身がその「自己」との出会いを求める気持ちを潜在させていたことをも示していたのである。
 実際に目にした那美の表情は、画工が今までに「見た事がない」ものであった。

 元来は静であるべき大地の一角に陥欠が起つて、全体が思はず動いたが、動くは本来の性に背くと悟つて、力めて往昔の姿にもどらうとしたのを、平衡を失つた機勢に制せられて、心ならずも動きつゞけた今日は、やけだから無理でも動いて見せると云はぬ許りの有様が――そんな有様がもしあるとすれば丁度此女を形容する事が出来る。(三)

 「本来」は「動かない」はずの女が、無理に「動いて」いる。「不仕合な女に違ない」と口にする画工の関心は、しかし那美の「不幸」の原因や背景よりも、彼女のその「動か静か」はっきりしない表情や「悟りと迷」を「同居」させたような奇態な行動そのものにあるのである(三)。
 たとえば画工の目は、振り袖姿で夕暮れの宿の縁側を何度も往きつ戻りつする那美をとらえている。

 刻々と逼る黒き影を、すかして見ると女は蕭然として、焦きもせず、狼狽もせず、同じ程の歩調を以て、同じ所を徘徊して居るらしい。身に落ちかゝる災を知らぬとすれば無邪気の極である。知つて、災と思はぬならば物凄い。黒い所が本来の住居で、しばらくの幻影を、元の儘なる冥漠の裏に収めればこそ、かやうに間Tの態度で、有と無の間に逍遙してゐるのだらう。(六)

 「口も聞かぬ。傍目も触らぬ」那美が「夜と昼との境をあるいて居る」。彼女は、「半ばあの世へ足を踏み込」みながら「夢」と「うつゝ」のあいだを「寂然として歩行て行く」。そして画工の目は、このとき、「窈然として名状しがたい楽 」をもたらしたあの特別な〈同化〉の体験(六)を、いわば外から、垂直にではなく、水平方向に眺めているのである。「あるものは只心持ちである。此心持ちを、どうあらはしたら画になるだらう――否此心持ちを如何なる具体を藉りて、人の合点する様に髣髴せしめ得るかゞ問題である」(六)。
 この問題は、〈見る〉ことの垂直方向への二重化を、水平方向に変換させるに適当な「具体」をうまく発見できるかどうかにかかっていた。画工は、この課題に対して、「不思議な歩行をつゞける」那美を「写す」ことによって、応じている。「如何なる事物に同化したとも云へぬ。されども吾は動いて居る。世の中に動いても居らぬ、世の外にも動いて居らぬ。只何となく動いて居る。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、只恍惚と動いて居る」(六)。これは、画工の〈同化〉の「心理状態」(同)を写した文章であるが、那美の行動を叙述する言葉としても、ほとんど違和感なく読めるのである。
 もちろん画工は、それが那美の「芝居」である可能性についても意識的である。しかし画工は、「あの女は家のなかで、常住芝居をして居る。しかも芝居をして居るとは気がつかん。自然天然に芝居をして居る」「自分でうつくしい芸をして見せると云ふ気がない丈に役者の所作よりも猶うつくしい」と評価して見せるのである(十二)。画工が「あの女の御蔭で画の修行が大分出来た」(同)というのは、「自然」と「芝居」とのあいだを生きる那美の「所作」のうちに、「利害」を離れた彼女の「美的生活」(同)を見ているからであろう。
 もはやすでに明らかなように、那美は〈あいだ〉を生きる人である。彼女は動いているように見えて、しかし実は二つのものの〈あいだ〉を往きつ戻りつしているだけの「動けない」女なのである。那美の「不幸」は、ここにある。彼女が「動けない」原因は、様々にあるのであろう。しかし画工はその背景を積極的に探ろうとはしない。それよりも自らが体験した「自然」との特別な〈同化〉の「心持ち」を、彼女の「表情」や「所作」といった、その表面において見ようとするのである。もちろんこのとき、画工の〈同化〉の「楽 」と、那美の〈あいだ〉を生きる「不仕合」とでは、あまりにも違いが大きすぎるのではないかという疑問が浮かばなくもない。しかし、対象とほとんど〈同化〉しているかに見えて、画工の「写す」視点は確保され、〈描く〉欲望が生き延びていたのとちょうど同じように、那美には「芝居」があるのである。そしてこの点にこそ、画工が自分の「心持ち」を、那美の内面にではなくその表面に〈見る〉ことを可能にする、彼の〈非人情美学〉の真髄があるのである。

善は行い難い、徳は施こしにくい、節操は守り安からぬ、義の為めに命を捨てるのは惜しい。是等を敢てするのは何人に取つても苦痛である。その苦痛を冒す為めには、苦痛に打ち勝つ丈の愉快がどこかに潜んで居らねばならん。画というも、詩というも、あるは芝居というも、この悲酸のうちに籠る快感の別号に過ぎん。此趣きを解し得て、始めて吾人の所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、凡ての困苦に打ち勝つて、胸中一点の無上趣味を満足せしめたくなる。(十二)

 画工にとって、那美に対する興味は、あくまでも「画中の人物」としてのそれなのである。

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  四 画工の「心持ち」と那美の「憐れ」

 もちろん生身の那美は、画工に対して批判的な存在であり得る。二人の男から言い寄られれば、二人とも「男妾にする許りです」と言い切り、人間の作る歌ではなく、鶯の歌が「本当の歌です」と「余に教へ」る那美にとって、画工の大切にしたい絵画の世界などは「横幅ばかり」の「窮屈な世界」にすぎない(四)。彼女は画工を「蟹」呼ばわりして見せるのだが、実は「蟹の様な思ひ」で生きているのは那美自身なのである。
 付け文をしてきた若い僧泰安に本堂で抱きついて見せたという挿話(五)は、それに応えるものさえあればいつでもそれに応じて生きていって見せるという彼女の覚悟を示している。しかし、もちろん泰安には那美に見合うような覚悟はない。彼女は、懐に「九寸五分の白鞘」(十二)を潜ませて、いつでもそのつどの「現在」と切り結ぼうとしながら、しかしその「現在」に宙づりになっている存在なのである。
 那美が〈あいだ〉を生きざるを得ない存在であることは、先にも引いた鏡が池の水草の描写が、よく示している。

百年待つても動きさうもない、水の底に沈められた此水草は、動くべき凡ての姿勢を調へて、朝な夕なに、弄らるゝ期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代の思を茎の先に籠めながら、今に至る迄遂に動き得ずに、又死に切れずに、生きて居るらしい。(十)

 「死にきれずに、生きて居る」水草が、どうしても「動き得ずに」いるのは、動けば卑しくなるからではないか。「動と名のつくものは必ず卑しい」(三)という画工の認識は、那美の価値であり倫理でもあるように思われるのである。
 「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」という歌を「憐れな歌」とする画工に対して、那美は「憐れでせうか。私ならあんな歌は咏みませんね。第一、淵川へ身を投げるなんて、つまらない」と答えている(四)。ここには那美の「憐れ」に対する態度、「露」のように「消え入る」こと、「川」を「流れる」こと、つまりは「動く」ことに対しての否定的な姿勢があらわれている。「動くは本来の性に背く」(三)とは、画工が那美を形容した言葉であるが、実際彼女は「動く」ことについてかなり意識的なのである。
 那美は、画工とメレディスを読んでいる最中に起こった地震の直後に、「岩の凹みに湛へた春の水」に「落ち付いて影をひたしていた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がつたり、くねつたりする。然しどう変化しても矢張り明らかに桜の姿を保つてゐる所」を見て、画工に「人間もさう云ふ風にさへ動いて居れば、いくら動いても大丈夫ですね」と言葉を掛けている(九)。那美が「動く」ことを容認するのは、「どう変化しても」自分の「姿を保つてゐる」という条件つきでのことなのである。

流れるもの程生きるに苦は入らぬ。流れるものゝなかに、魂まで流して居れば、基督の御弟子となつたより難有い。(中略)ミレーのオフエリアも、かう観察すると大分美しくなる。(中略)あれはやはり画になるのだ。水に浮んだ儘、或は水に沈んだ儘、或は水に沈んだり浮かんだりした儘、只其儘の姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。(七)

 画工は当初、自分の存在がそうであるからとでもいうように、「流れる=動く」ものに美しさを見いだしていた。それが那美と接することによって、描こうとする対象を「動かない」ものの方へ変えていくのである。

「私が身を投げて浮いて居る所を――苦しんで浮いてる所ぢやないんです――やすやすと往生して浮いて居る所を――奇麗な画にかいて下さい」(九)

 那美は「自然」と調和してそれに溶け込むような存在ではない。峠の茶屋の老婆を「自然」に溶け込んだ存在として「見立て」ることのできた画工は、那美に対してはそれができない。それは彼女が「自然」と「芝居」の〈あいだ〉を生きる女だからである。那美は「死」と結びつけられ、「生」と「死」の〈あいだ〉に置かれることによって、はじめて「見立て」が可能になる、そうした存在なのである。

温泉場の御那美さんが昨日冗談に言つた言葉が、うねりを打つて、記憶のうちに寄せてくる。(中略)あの顔を種にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長えに落ちて、女が長えに水に浮いてゐる感じをあらはしたいが、それが画でかけるだろうか。(十)

 川に「流れる」土左衛門ではなく、池に横たわる女は「動かない」女である。那美は、つねに「死」を覚悟し「死」を背負った存在であるが、「死」そのものではない。「生」と「死」の〈あいだ〉に宙づりにされて「動けない」存在なのである。画工は「人間を離れないで人間以上の永久と云ふ感じ」(十)を出そうと試みる。彼が描こうとしているのは、「時間はあるかもしれないが、時間の流れに沿うて、逓次に展開すべき内容がない」(六)世界である。そこでは、切り取られた一瞬の、少しの幅ももたない時間において、ただ「空間的に景物を配置したのみで」(同)、しかし「永久と云ふ感じ」を出したいのである。平面に奥行きを写すのとちょうど同じように、一瞬の間に、しかし永遠を写そうとするこの課題は、実は〈見る〉ことの二重化の、いわば応用問題であり、今度は水平方向への二重化という「空間」における二重化にさらに重ねて、「時間」の次元においても〈見る〉ことの二重化が要請されているのである。
 そこで問題になるのは、那美の「顔」である。画工は「流れて行く人」の表情を考えていたときには、「表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう」、かといって「全然色気のない平気な顔では人情が写らない」などと、「風流」にふさわしい「顔」を探していた(七)。そのときにも、画工は、自分の画に「人情」が写ってはならない、というふうには考えていないF。そして今や「動かない」人を描こうとする画工は、「一瞬」のものでありながら「永久と云ふ感じ」が出るもので、かつ「人間を離れないで人間以上の」ものという条件において、「神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である」「憐れ」を見出すのである(十)。

色、形、調子が出来て、自分の心があゝ此処に居たなと、忽ち自己を認識するようにかゝなければならない。生き別れをしたわが子を尋ねあてるため、六十余州を回国して、寐ても寤めても、忘れる間がなかつたある日、十字街道にふと邂逅して、稲妻の遮ぎるひまもなきうちに、あつ、此処に居た、と思ふ様にかゝなければならない。それが六づかしい。(六)

 画工は、自分の画に求めようとして得られないでいるものを、那美の「顔」を「写す」ことによって手に入れようとするのだが、それが彼自身の「心持ち」であり、つまりは「自己」なのである。つまり画工は、自分の「心持ち」を「見立て」るために、那美を「死」と結びつけ、彼女を「動かない」女に「見立て」たうえで、「動けない」彼女の「表情=顔」のうちに「自己」を探すという〈見る〉ことの多重化の手続きを必要としたのである。

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  五 「胸中の画面」の意味(「おわりに」に代えて)

 「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に言った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(十三)

 画工が那美さんの顔に「憐れ」を見つけ、彼の「胸中の画面」が完成する。画工は、自分の「心持ち」をあらわす画を描きたいと思っていた。それが完成したのだとすれば、彼が那美さんの表情のうちに見た「憐れ」というのは、彼女の「感情」というだけでなく、彼自身の「心持ち」でもあるはずである。
 畑有三氏は、「観察者と対象の関係性の質そのもの」が変わらなければ、「画工は那美さんの画を、那美さん認識の答えというかたちで完成させることは出来ない」。だから画工が「答えを出すことが出来るためには」、彼の「認識は多様化よりも、深化していく必要がある」という視点から『草枕』を読もうとするG。そうして、「『草枕』の『旅』の経験を潜ってくることで」「人間の現実に直面していく姿勢を画工は選び取る決意をもつに至った」とするのである。しかし、具体的な経験が主体の認識を深め、やがてその主体が現実に対応する仕方・態度を変えていく、とする氏のそこでの基本的なスタンスは、むしろ「世間普通にいふ小説」を読むのにふさわしい姿勢であって、画工自身には「那美さん認識の答え」としての「那美さんの画」というような発想はなかったはずである。逆に、そうした認識の深化だの人間の成長だのといった視点そのものを相対化し、そこから逃れるための『草枕』の「方法」であり、〈非人情美学〉だったからである。
 那美さんの「不幸」に関心を持たないからこそ、画工の「画面」は成就する。「自然」や「人間」を「見立て」によって眺めることから自分の「心持ち」の表現にいたるまで、画工の興味は徹頭徹尾彼自身、すなわち「自己」の世界に限られている。彼は「現実=他者」の世界とは最後まで自分の〈非人情美学〉というフィルタを通してしか関わろうとしない。そしてそれが当初からの彼の望みだったのである。
 画工の「胸中の画面」の成就は、彼の〈非人情美学〉が貫かれたことの証左である。そこで成し遂げられているのは、「人間」や「人情」を否定した自然讃美というのではないし、かといって「人間」や「人情」の再発見というのでもない。画工が果たした課題は、「神」と「人間」との〈あいだ〉にあるもの、「自然」と「芝居」との〈あいだ〉にあるもの、「作者」と「登場人物」との〈あいだ〉にあるものを、「まのあたり」にすることである。たとえ「咄嗟」の瞬間であってもよい。那美が生きているその〈あいだ〉の世界を、他ならぬ「自己」の世界として〈見る〉ことである。池に横たわる女であれ、プラットフォームに立ち尽くす女であれ、いずれにせよ「動かない」ことと「動けない」こととの〈あいだ〉に宙づりにされた那美の表情を、自分自身の「心持ち」として「見立て」ることが可能であったのは、そもそも画工その人が、〈描く〉ことを禁じられたまま、登場人物として〈見る〉ことと作者によって〈書かれてしまう〉こととの〈あいだ〉を生きざるを得ない表現者であったからであり、その彼の「心持ち」こそが「憐れ」だったのである。そしてこの、言葉によって「写す」以外 にない画工の「憐れ」の内実としては、「憐れ」の表情そのものを彼が「写す」代わりに、作者が「憐れと云ふ文字」を、ただそれのみを、書きつけたこと以上のことは、おそらく他にないのである。

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 註

@『余が「草枕」』(「文章世界」、一九○六・一一)。

A清水孝純 「『草枕』の問題 ―特に『ラオコーン』との関連において―」(『文学論輯』、一九七四・三)[日本文学研究資料叢書『夏目漱石U』有精堂、一九八二・九]

B安藤久美子 「『草枕』ノート〈非人情美学〉考」(『国文学 解釈と鑑賞』、一九八八・八)。氏は「那美像は対他的な自己と社会の関係認識を形づくり、幼年期の記憶は即時的な自己了解、自然了解になると考えられる」と指摘している。

C秋山公男 「『草枕』 ―朧の美学」(『日本近代文学』、一九九二・一○)。秋山氏は、「『同化』と『非人情』とは、対極にある立場」とする宮内俊介氏の論考(「『酔興』としての『非人情』―『草枕』の読みの試み―」『方位』6号、一九八三・七)をふまえつつ、「非人情美」と区別して、その「非人情美」の枠を超えた「朧の美」が描かれていることを指摘している。

D『写生文』(「読売新聞」、一九○七・一・二○)

Eウィリアム・バートン 「『草枕』 ―「紀行文」の側面から―」(『国文学 解釈と鑑賞』、一九九七・六)。氏は、『草枕』では、自然を「写生」することから自己を表現することまでの、つまりは「極端」から「極端」までの、表現の可能性が試されているということ、また、漱石はそれらの表現が互いに排他的なものではないことを示したということ、を指摘している。小論では、これらの幅の大きい異なる表現法のほとんどすべてが、画工の〈非人情美学〉に収まりうることを述べている。

Fよく知られているように、漱石は森田草平宛て書簡(一九○六・九・三○)において、結末の場面でも、画工が「自己の利害」を離れて「単に美か美でないかと云ふ点」から観察していることを、したがって「画工が此の態度で居れば『憐れ』といふのが人情の一部でも、観察の態度は矢張り純非人情である」ことを丁寧に解説して見せている。小論はこの作者の見解に従っている。

G畑有三 「『草枕』の旅」(『講座夏目漱石』第二巻〈漱石の作品(上)〉有斐閣、一九八一・八)。


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