無垢なるものの行方(一) −夏目漱石『こゝろ』を中心に−

The Art of Innocence in Natsume Soseki's Kokoro (T)

武 田 充 啓


 はじめに


 このたび『こゝろ』を中心に漱石作品を読み返してみて強く印象づけられたのは、漱石の無垢なるものへの欲望についてであった。漱石作品には『吾輩は猫である』以来、私利私欲とは無縁の清廉無垢な存在が描かれていて、それは後期の作品に至るまで続いている。無垢なるものをそのまま体現する人物がいなくなっても、汚れなきものに憧れる人物は描かれ続けたのである。そこに漱石その人の無垢なるものに対する憧憬や希求といったものがそのまま顕れている、とする見方もあるだろう。

 しかしそれら無垢なるものの存在を最初は人物そのものとして造形していた漱石は、だからといって人物を全き善として描くことの非現実性に無自覚だったわけではない。たとえば『吾輩は猫である』に出てくる馬鹿竹は無垢なるものをそのまま体現しているような人物だが、「文明の弊を受けて」「魂胆がありすぎる」人たちに対して「どうか馬鹿竹の様な正直な了見で」と訴える八木独仙の訓話中に登場させられているために、生身の人間としての現実性をほとんど欠いている。このことが示しているのは、そうした間接性や虚構性といった条件のもとで初めて馬鹿竹の無垢が提示可能なものになっているということである。無垢なるものはそのままでは小説に持ち込めないのである。

 では『坊つちやん』についてはどうか。後にもふれるように、その主人公を無垢なままでいさせるために、作者は彼の主体性にまでかなりの制限を加えている。あるいは『虞美人草』の小野清三は宗近一に「生れ付きを敲き直」されて「真面目」になるのだが、いったん汚れてしまったものは元には戻らないというのが漱石的人物の宿命であるとすれば、小野は例外的にそれを免れているといってよい。しかしその無理こそが後々この作家が自作の中でもとりわけこの作品を嫌った理由なのかも知れないのである。

 いずれにせよ、自身の無垢なるものへの欲望を生き延びさせるために、漱石は無垢なるものを人物像として描きだすのではなく、方法としての無垢を作品に組み込むかたちへとその方向を転換させていったように思われる。『彼岸過迄』以来の試みである短篇の連作をまとめて一つの作品とする試みも、おそらくはこの路線の延長上にある。語り手や視点人物の複数化などは、世界を多元的かつ重層的にとらえることで、客観性あるいは現実性の構築を目論んだものであろうが、小説を多なるものへと開いていこうとするその意志の裏側で、世界の理念的把握への希求が、漱石の場合、無垢なるものへの欲望と結びついて生きられているように思われるのである。

 『こゝろ』では、よく知られているように、主人公が「純白なままに」と自らの欲望を直接にその遺書に書きつけている。それはしかし、彼自身がすでに「汚れ」てしまっているということである。青年「私」が先生を紹介するというかたちは、独仙が馬鹿竹の話をするのと構造的に同じであり、そこでは媒介された間接性のもとに無垢なるものが提出されているかに見える。しかし汚れてしまっているはずの先生の無垢は、もしそれが可能だとすれば、馬鹿竹のものよりもずっと複雑なものにならざるを得ないはずなのだ。そこで問題になるのは、『こゝろ』における「告白」という方法であり、またそれを間接的なものにしている「引用」という方法であろう。

 漱石は、青年「私」に先生の話をさせるだけでなく、先生の遺書を「引用」させた。それは先生の「告白」だけを直接そのまま残すことを避けたということでもある。無垢な人間は存在し得ず、「告白」もまた無垢を保証しない。しかしそれでも漱石は何らかのかたちで無垢なるものを、つまりは自身の無垢なるものへの欲望を、生き延びさせようとしているのではないか。そしてそれが「告白」とその「引用」という方法と密接にかかわっているのではないか。さらにいえば、「告白」の直接性が、「引用」によって間接性へと、「引用」を支える文脈によって虚構性へと置き換えられることで、その現実性は損ないながらも、そのことによって初めて、かろうじてその無垢については生き延びる可能性を残すことになったのではないか。

 もっとも先生の「遺書」=「告白」そのものが、途方もなく長いという点では、すでに自らその現実性からは離れているともいえるので、この尋常でない長さのうちにも無垢なるものへの欲望が生き延びられている可能性がある。だがそれが直接にではなく、あくまでも「引用」されるかたちで置かれているのである。

 『道草』以後の作品では、『明暗』における「鷹揚」な人物として造形されている清子や、「技巧」から「真面目」へと漱石的には珍しく逆方向に変身しそうなお延らが、無垢なるものとかかわる存在としての可能性を残しているものの、当の作品そのものが中絶しているために、彼女たちの行く末はなかなか見定め難い。あるいは『明暗』では、登場人物の内面に自在に出入する語り手のあり方において、方法としての無垢なるものへのにじり寄りまたは同一化が、まだまだ試みられ、夢みられているのかも知れない。

 しかしまずこの小論では、漱石が『こゝろ』において試みた「告白」という方法が、彼の無垢なるものへの欲望を生き延びさせる方法として、どのようにしてそれでも生きられようとし、しかしどのようにあらかじめ殺されているのかを確かめておきたい。そしていま一人の主人公が行うもう一つの方法としての「引用」の可能性とその限界についても考えてみたい。




 
考へて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思ふ。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じて居るらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊つちやんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。夫ぢや小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教へない方がいゝ。いつそ思ひ切つて学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだらう。赤シャツがホヽヽヽと笑つたのは、おれの単純なのを笑つたのだ。単純や真率が笑はれる世の中ぢや仕様がない。(『坊つちやん』五)
 
 明治三十八、九年は、漱石が『吾輩は猫である』や『坊つちやん』を発表し、作家として生き始めた頃であるが、その頃の彼が大変厭世的であったことはよく知られている。人々の強すぎる「自覚心」が「神経衰弱」を生み、この「二十世紀の共有病」とともに「退廃」「衰弱」していく人間が、やがて「みな自殺するものであると云ふ命題が事実に証明せらるゝ時期」がくる、とまで漱石は書いている。
 
其時分には警察の巡査は犬殺しの如く棒を以て天下の公民を殺してあるく。殺されたい人間は門口に張り紙をして殺されたき男ありと出す。(中略)/学校では中学校アタリから自殺学及び他殺学を倫理の代りに教へる。時によるとおやぢやお袋抔が倅に殺してもらう事がある。其時に学校で人殺し法を習つて置かないと非常に不便である。(『断片』)
 
 ここに漱石の秘められた自殺願望が顕れていると見る人も少なくないであろう。彼の厭世の度合いが並外れたものであり、ほとんど狂気すれすれの所にいることがわかる文章である。当時の漱石は、そのように病んだ世界を生き抜くための強壮滋養剤として、芸術を考えていた。
 
天下に何が薬になると云ふて己れを忘るゝより鷹揚なる事なし無我の境より歓喜なし。カノ芸術の作品の尚きは一瞬の間なりとも恍惚として己れを遺失して、自他の区別を忘れしむるが故なり。是トニツクなり。此トニツクなくして二十世紀に存在せんとすれば人は必ず探偵的となり泥棒的となる。恐るべし。(『断片』)
 
 「己れを忘るゝ」こと、「無我」であることが人をして「鷹揚」でいさせる。芸術こそが「己れを忘るゝ」ためのトニックであると考える漱石が、自らの作品に「無我」を体現する人物を登場させようとしたとしても不思議ではない。たとえば『坊つちやん』の「おれ」がそうであろう。もちろんすぐに私たちは、「それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした」(『こゝろ』下四十八)と自らの遺書に書きつけた人物を思い浮かべることができる。「鷹揚に育つた」(下七)はずのその男は、自殺した直後の友人の傍らで「がたがた顫へ」ながら、しかしまずは自分宛ての遺書の内容にすばやく目を通し、自らの身の安全を確かめたうえで「わざとそれを皆なの眼に着くやうに、元の通り机の上に」置いたのだった(下四十八)。
 
記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。(『こゝろ』下九)
彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遙かに立派に見えました。『おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ』といふ感じが私の胸に渦巻いて起りました。私は其時さぞKが軽蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顔を赧らめました。(同下四十八)
 
 作家は、もはや無垢なる人物をそのまま小説空間に登場させることなどできないことを知っている。仮に遺書に「K」という「余所々々しい頭文字」(上一)で示された人物が無垢そのものであったとしても、彼は早晩自死しなければならない。青年「私」が手記を書き始めた時間の「今」からいえば、青年が今でも「記憶を呼び起すごとに、先生と云ひたくなる」(上一)その人物と共に、すでに存在していない過去の人物なのである。

 次のように自己を紹介する『坊つちやん』の「おれ」は、右のような人物から限りなく遠い存在として設定されていたはずである。
 
「よろしい、いつでも加勢する。僕は計略(はかりごと)は下手だが、喧嘩とくると是れで中々すばしこいぜ」(『坊つちやん』十)
「それもよからう。おれは策略は下手なんだから、万事宜しく頼む。いざとなれば何でもする」(同十一)
 
 当然「赤シヤツの作略」(八)「マドンナを手に入れる策略」(九)は悪として非難される。しかしその赤シャツは親切なことに「単純」な「坊つちやん」に対して警告を発していたのである。「無論悪るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくつても、人の悪るいのが分らなくつちや、矢つ張りひどい目に逢ふでせう」(五)。「正直」な人間であっても、「智慧のない」(四)ままでは生きていけない。「是でも元は旗本」で「こんな土百姓とは生れからして違ふ」(同)と力んで見せた男も、やがて次のように叫ばざるを得なくなるのである。
 
こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似をしなければならなく、なるかも知れない。(中略)どうしても早く東京へ帰つて清と一所になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来て居る様なものだ。(『坊つちやん』十)
 
 「自覚心」と「智慧」を身につけざるを得ず、ついには自ら「赤シヤツ退治の計略」(十)に加担することになる「おれ」は、すでに「堕落」しつつあり、もはや以前の「坊つちやん」ではない。「正直」なこの男は、自分がすでに変化し始めていること、無垢な存在ではなくなりつつあることに気づいており、またそれを隠さない。
 
其時分の私は妻に対して己を飾る気はまるでなかつたのです。もし私が亡友に対すると同じやうな善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大変な苦痛だつたのだと解釈して下さい。(『こゝろ』下五十二)
 
 『坊つちやん』の「純白」な「おれ」に「一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは」、作者にとって「大変な苦痛だつた」に違いない。しかし当の本人がすでに自身の変化に気づき始めている。「おれ」を、なるべくなら「坊つちやん」のまま、「塵に汚れて」「きたなく」なってしまう前に、かの「不浄の地」(『坊つちやん』十一)から救い出さねばならない。作者にはそうした「利害の打算」があるのだ。だとすれば『坊つちやん』の物語は、すぐにもその終末へと向かわざるを得ない。そして実は「坊つちやん」でいられなくなった人物が語り始めた物語こそが『坊つちやん』なのだとすれば、そこで無垢なるものが称揚されることは、少なくとも語り手にとっては、それが同時に叶わぬ夢であることを確認していく作業でもあるということになる。『坊つちやん』の勢いのある語りの裏側に張りついている淋しさは、この語り手の置かれた同じ位置に読み手もまた立つことになるそのときに感じられるものなのであろう。




 
叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出てゐる三年間の間に容易く行なはれたのです。凡てを叔父任せにして平気でゐた私は、世間的に云へば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が悪く生れて来なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません。然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち帰つて生きて見たいといふ心持も起るのです。(『こゝろ』下九)
 
 『こゝろ』は、大正三年四月から八月にかけて朝日新聞に連載された。「本当の馬鹿」こそが「純なる尊い男」であるという『吾輩は猫である』以来の思想がここにもはっきり現れている。そしてたとえ「悪く生れて来なかつた」人間であっても、「汚れ」のない「生れたままの姿」というものは、最早すでに叶わない夢としてある。 

 赤シャツや野だに「天誅」を加える『坊つちやん』の「おれ」は、まだ「談判」を続けている山嵐の「理屈」を無視して玉子を投げつけるのだが、「おれは食ふ為めに玉子は買つたが、打つける為めに袂へ入れてる訳ではない。只肝癪のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけて仕舞つたのだ」(『坊つちやん』十一)。「坊つちやん」の「乱暴」は、あくまでも「自覚心」や「作略」とは無縁の「腕力」(同)でなければならない。そのために「計略」や「策略が下手」だとされる「坊つちやん」は、「万事山嵐の忠告に従ふ」(十一)男、「山嵐の踵をふんであとから」(十)行動するだけの男にされてしまっており、その意味では全く「主体性」をもたない。そして成り行き任せの「おれ」に主体的な選択をさせないことは、彼を「無我」=「自然」の喩であるかのように読ませるために、すなわち無垢なる存在でいさせるために、作者が施した無理なのであった@。
 
「どうせ斯うですわ。何時迄立つたつて、斯うですわ」
「さうは行かない」
「だつて、是が生れ付なんだから、何時迄立つたつて、変り様がないわ」
「変ります。――阿爺と兄さんの傍を離れると変ります」
「どうしてでせうか」
「離れると、もつと利口に変ります」(『虞美人草』十三)
「御嫁に行つたら人間が悪くなるもんでせうか」(『同』十六)
 
 漱石テクストは、「生れ付」がどんなに無垢なものであれ、必ずや経験がそれを「堕落」させる、とでも言いたげである。
 
「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。(中略)幸福は嫁に行つて天真を損はれた女からは要求出来るものぢやないよ」(『行人』「塵労」五十一)
 
 「嫁に行」くこと、「田舎」に同化すること、「世間」で経験を積むことそのことが、その人間の「天真を損な」い、彼彼女らを「利口」=「邪」にさせていく。しかも彼彼女らは自ら意志してそれらの行為を選択したのではなかった。それでも「人間が悪くなる」のだとすれば、もっと「自覚心」の強い、つまりはごく普通の人間ならばどうか。
 
私が文学を職業とするのは、人の為にする即ち己を捨てゝ世間の御機嫌を取り得た結果として職業として居ると見るよりは、己の為にする結果即ち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人の為になつて、人の気に入つた丈の報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見る方が本当だらうと思ひます。若し是が天から人の為ばかりの職業であつて、根本的に己を枉げて始て存在し得る場合には、私は断然文学を止めなければならないかも知れぬ。(『道楽と職業』明治四十四年八月)
 
 「己を捨てゝ」まで「世間の御機嫌」を取ることはできない。「己の為にする」「即ち自然な」選択こそが自己を自己たらしめる。「己」と「自然」が一つに結ばれている限りにおいて、「自己本位」(『私の個人主義』、大正三年十一月)こそは作家漱石の存在理由である。
 
叔父の希望通りに意志を曲げなかつたにも関らず、私は寧ろ平気でした(『こゝろ』下七)
道のためなら、其位の事をしても構はないと云ふのです(同下十九)。
 
 『こゝろ』の場合、基本的に「善」とされるべきそうした自己表現へ向けての主体的な選択は、まず「故郷」の喪失というかたちに結果する。叔父の勧める従妹との結婚を固辞する点において、あるいは養家先から医者になる条件で学費をもらいながら「医者にならない決心」(『こゝろ』下十九)でいる点において、親族の「機嫌」を取らず「己を枉げ」ない先生あるいはKは、その主体的な選択によって二人とも自ら故郷を捨てることになるのである。『こゝろ』は、「自己」に忠実であろうとする若者がその「自覚心」ゆえに故郷を、そして親友を、さらには妻をも捨てることになる物語である。
 
藝術は自己の表現に始まつて、自己の表現に終るものである。(中略)最後の権威が自己にあるといふ信念に支配されて、自然の許す限りの勢力が活動する。夫が芸術家の強味である。即ち存在である。けれども人の気に入るやうな表現を敢てしなければならないと顧慮する刹那に、此力強い自己の存在は急に幻滅して、果敢ない、虚弱な、影の薄い、希薄のものが纔かに呼息をする丈になる。(中略)/だから徹頭徹尾自己と終始し得ない芸術は自己にとつて空虚な芸術である。(『文展と芸術』大正元年)
 
 ここでも「自然の許す限り」の「自己」を前提にして「自己の表現」が善であり義務とされている。漱石はしかし、講演や随筆で「自己本位」を強調しそれを称揚する一方で、他方小説では同じそれを疑い、「自己本位」が「汚れ」や「罪」を伴うことなくして可能であるのか、自由な意志による主体的な「選択」というものがそもそも可能であるのかを問うていた。

 先生は自分たちの「己」が「下卑た利害心に駆られて」(下九)いないということを強調する。たしかに『こゝろ』の若い主人公たちの無垢は、彼らの「自己の表現」が「本当の愛」(下十四)なり「道」(下十九)といったそれぞれの理想へと向かおうとするそれなりに「自然」な「自己」の「心術の発現の結果」であることを、わざわざ書き残そうとする遺書の書き手の熱意によって、かろうじて支えられているかに見える。

 しかしここで注意しておかねばならないのは、「表現」あるいは「選択」する「己」と「自然」との関係である。むしろ遺書の書き手が筆を尽くして強調しているのは、「自然」が「己」を裏切るようなかたちで「選択」がなされてしまう事態についてではなかったか。彼らの最初の喪失にしたところで、彼らの「断り」(下六)や「白状」(下二十)は充分に遅れていた、遅すぎたのである。彼らが自らの「選択」にもっと早くに気がついていたら、その親族との間に「斯うまで隔りが出来ずに済んだかも知れない」(下二十一)のだ。しかし「己」=「意識」は、「選択」=「表現」に対して常にすでに遅れてしまう。したがってあらかじめ「告白」すべき「己」=「心術」が確定的にあってそれを「表現」するのではない。「選択」=「表現」がなされてしまって後に、はじめてそのような「自己」が見出されることになるのである。




 
世間は何うあらうとも此己は立派な人間だといふ信念が何処かにあつたのです。それがKのために美事に破壊されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。(『こゝろ』下五十二)
 
 「本当に人間程宛にならない者はない」(『坊つちやん』七)。疑いが向けられているのは、人間の心の「不可思議」(『こゝろ』下五十六)さである。「吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何せん、(中略)思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る」(『人生』)。漱石は作家になるずっと以前から、「己れ」を知ること、「自己」を表現することそのことに疑いの眼を向けていた。よく引かれる文章だが、次の部分も見ておこう。
 
自ら知るの明あるもの寡なしとは世間にて云ふ事なり、われは人間に自知の明なき事を断言せんとす、之を「ポー」に聞く、曰く、功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を叙して思ひのまゝを言はざる、去れど人ありて思の儘を書かんとして筆を執れば、筆忽ち禿し、紙を展ぶれば紙忽ち縮む、芳声嘉誉の手に唾して得らるべきを知りながら、何人も躊躇して果たさゞるは是が為なりと、(中略)願はくば人豈自ら知らざらんや抔いふものをして、誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん(『人生』明治二十九年第五高等学校『龍南会雑誌』)
 
 ここに見られるのは、人間の心の不可解さへの認識であると同時に、その表現の不可能性の自覚である。漱石は作家になる十年近くも前から「宛にならない」自己の「表現」という同じ難題を抱えたままでいるのである。
 
「かう云ふ危うい時に、生れ付きを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞ふよ。いくら勉強しても、いくら学者になつても取り返しは付かない。此所だよ、小野さん、真面目になるのは。(後略)」(『虞美人草』十八)
 
 しかし人が「正直な路を歩く積りで、つい足を滑ら」(『こゝろ』下四十七)せることになるのは、その「真面目」さゆえなのだ。
 
私には第一に彼が解しがたい男のやうに見えました。何うしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又何うして打ち明けなければゐられない程に、彼の恋が募つて来たのか、さうして平生の彼は何処に吹き飛ばされてしまつたのか、凡て私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知つてゐました。又彼の真面目な事を知つてゐました。(『こゝろ』下三十七)
 
 Kの「真面目」は正しく先生に向けられている。しかし先生はKに「真面目」を返すことができないまま、御嬢さんの母親に「真面目」を向け変える。「真面目」は無垢なる「自然」を保証しない。むしろ「真面目」は、人をして主体的であり続けることが困難なある「場」へと導くのである。
 
「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後で驚ろいたんです。さうして非常に怖くなつたんです」(『こゝろ』上十四)
 
 Kもまた先生に恋を打ち明けた「後で」驚いたのかどうか。そして瀕死の父親を田舎に残し、もはや先生のいないはずの(静のいる)東京へ向かう汽車に飛び乗る「真面目」な青年もまた「後で」驚くことになるのだろうか。「告白」=「選択」が必然的に伴うずれを、漱石は時間的な「遅れ」としてだけでなく、その相手を違えさせるかたちでも描き、コミュニケーションの根源的な不全性を浮かび上がらせる。遣った「後で」驚く。しかしこの「選択」=「表現」と「己」=「意識」とのずれの問題は、たとえば『それから』では巧妙に回避されていた。
 
けれども、代助は今相手の顔色如何に拘はらず、手に持つた賽を投げなければならなかつた。上になつた目が、平岡に都合が悪からうと、父の気に入らなからうと、賽を投げる以上は、天の法則通りになるより外に仕方はなかつた。賽を手に持つ以上は、又賽が投げられ可く作られたる以上は、賽の目を極めるものは自分以外にあらう筈はなかつた。代助は、最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。父も兄も嫂も平岡も、決断の地平線上には出て来なかつた。(『それから』十四)
 
 「賽の目を極める」代助が、そのまま「天の法則」であるかのような書かれぶりだが、だとすれば「自然の児にならうか、又意志の人にならうか」(同十四)を迷う代助はどう考えたらよいのか。本当にそんな「選択」が彼に許されているのか。小谷野敦も指摘するように《「天意」とは、われわれが意志をもって選びとることができないものだからこそ「天意」》なのであるA。
 
彼はたゞ彼の運命に対してのみ卑怯であつた。此四五日は掌に載せた賽を眺め暮らした。今日もまだ握つてゐた。早く運命が戸外から来て、其手を軽く敲いてくれゝば好いと思つた。が、一方では、まだ握つてゐられると云ふ意識が大層嬉しかつた。(『それから』十四)
 
 「最後の権威は自己にある」とする代助は、それをただ「腹のうちで定め」ているだけで、実際のところは「運命が戸外から来」るのを待っているばかりである。なぜか。彼の「選択」が私利私欲を離れたものであることを保証するのは、「天意」や「運命」以外にないからだ。ここにも作者にその無垢を保護されたもう一人の「坊つちやん」がいる。『それから』の代助の「選択」は、結局のところ彼の美意識のような個人的な水準での問題にとどまっていて、三千代自身の「選択の自由」を全く考えていない。抜き差しのならない肝心の他者が抹消されてしまっているのである。にもかかわらず、というより、だからこそ、代助の「自己」は「自然」とずれることなく「天意」=無垢そのものなのである。




 
彼は三千代と自分の関係を、天意によつて、――彼はそれを天意としか考へ得られなかつた。(『それから』十三)。
 
 大澤真幸は、代助が三千代との関係を「天意」と見なすことは、具体的な外部性を抹消することと同じであると述べているB。つまり平岡の欲望を自分自身の欲望として内面化することで、「自身の欲望か他者の欲望か」の分裂に悩まずにすますことができたのだというのである。そして《自己の選択が本源的に他者に媒介されている》という構造こそが、逆説的に選択を《能動的で独立した選択》にしていたのに、他者の外部的な存在を失うことで《選択が自分で責任を負えるような選択ではなくなってしまう》のだと指摘している。大澤氏によれば、「選択」は《主体にとって、不可能な「ほかでもありえた可能性」》として現れてしまうために、この「ほかでもありえた可能性」を選択しなかったことが、主体に罪責感をもたらすのである。
 
聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿つて行つても、本当の事実は人間の力で叙述出来る筈がないと誰かゞ云つた事がある。况して私の書いたものは懺悔ではない。(『硝子戸の中』大正四年)
 
 「懺悔」や「告白」では「本当の事実」は叙述し得ない。このことは、たとえば「自己の胸臆を叙して」「思の儘を書かんとして」いるかに見える「日記」にしたところで同じである。
 
あくる日妻を呼ん〔で〕こそこそ話をしては不可ない、話すなら普通の人間が普通の時に使ふやうに話せと命じた。/(中略)またこそこそ何か云つてゐる。是は子供に云ふのである。其言葉も不都合な事ではない。然し人が止せといふのを故意にやつてゐる事丈は明瞭であつた。/其翌晩も同じ事を繰り返した。私は便所に起きる時妻の枕を蹴飛ばしてやらうかと思つた。「だまつて寝てくれ」と云つて厠へ行つた。妻ははいと答へた。/(中略)/妻は私が黙つてゐると決して向ふから口を利かない女であつた。ある時私は膳に向つて箸を取ると其箸が汚れてゐたのでそれを見てゐた。すると妻が汚れてゐますかと聞いた。それから膳を下げて向へ行つた時、下女に又こつちから話させられたと云つた。(是は去年の事である。)近頃は向から話す事がある。私にはそれが何の目的だか分らない。(『日記』大正三年十一月九日)
 
 「汚れたのを用いる位なら」といい「白ければ純白でなくつちや」とこだわる「精神的に癇性」な先生(『こゝろ』上三十二)を彷彿させる文章だが、これはすでに『こゝろ』を書き終えた作家が、日常生活における妻への「疑い」を記したもので、直接にはむしろ『道草』の内容に対応するものだ。しかし最後の記述には「去年の事」と注記があり、それが『こゝろ』執筆の前年のできごとであることがわかる。

 妻が「故意にやつてゐる」のかどうか。それはしかし、どうしても決定できないことである。こうした叙述で浮かび上がるのは、「自分を呪うより外に仕方がない」(上十四)ような「自己」である。書いてあることが「本当の事実」であるかどうかよりも、まず書き手の狂気を感じてしまうような文章だが、『吾輩は猫である』の「吾輩」なら次のように言うだろう。
 
猫抔はそこへ行くと単純なものだ。食ひ度ければ食ひ、寐たければ寐る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記抔といふ無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人の様に裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿悉く真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目(しんめんぼく)を保存するには及ばぬと思ふ。日記をつけるひまがあるなら椽側に寐て居る迄の事さ。(『吾輩は猫である』二)
 
 「己」と「自然」にずれがない猫にとっては、「意識」が「選択」=「表現」に「遅れ」ることや、そのことがもたらす「汚れ」や「罪」といった問題とは無縁である。だが人間に「裏表のある」のは、「己」と「選択」が、「意識」と「表現」が、どうしてもずれてしまうからだ。それでも『坊つちやん』の「おれ」がいうように「手前のわるい事は悪るかつたと言つて仕舞はないうちは罪は消えない」(四)のだとすれば、他人はもちろん「自分で自分が信用出来ない」(『こゝろ』上十四)まま、しかし「罪」の意識にはしっかり悩まざるを得ない人間は、どう自分が「悪るかつた」と言えばよいのか。すなわち「遅れ」を生きねばならない存在がその「己れの真面目を保存する」にはどうすればよいのか。
 
罪を犯した人間が、自分の心の径路を有りの儘に現はすことが出來たならば、さうして其儘を人にインプレツスする事が出來たならば、總ての罪悪と云ふものはないと思ふ。總て成立しないと思ふ。夫をしか思はせるに、一番宜いものは、有りの儘を有りの儘に書いた小説、良く出來た小説です。(中略)有りの儘を有りの儘に隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、其人は描いた功徳に依つて正に成佛することが出來る。法律には触れます懲役にはなります。けれども其人の罪は、其人の描いた物で十分に清められるものだと思ふ。(『模倣と独立』大正二年十二月)
 
 漱石は「告白」ではなく「良く出来た小説」なのだという。もちろん「小説」は「懺悔」ではない。「告白」という方法が、必ずしも「一番宜いもの」として考えられていたのではなかった。ただし「小説」には「有りの儘を有りの儘に隠しもせず漏らしもせず描き得たならば」という条件が付いている。この条件が漱石の無垢なるものへの欲望とかかわっていることは明らかである。ではどんな方法なら不可避的に見える「己」と「自然」とのずれを、「遅れ」を、乗り越えることができるのだろうか。

 しかしそのことを確かめるには、「選択」におけるずれの構造に組み込まれた「模倣」についても考えておかねばならない。




 
御嬢さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪気に遣るのか、其所の区別が一寸判然しない点がありました。若い女として御嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうしてその嫌な所は、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬に帰して可いものか、又は私に対する御嬢さんの技巧と見傚して然るべきものか、一寸分別に迷ひました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面に此感情の働きを明らかに意識してゐたのですから。(『こゝろ』下三十四)
 
 先生がお嬢さんとの結婚に踏み切れなかったのは、つまりは「遅れ」てしまったのは、先生の「愛」がオリジナルに「自己」のものであるという確信が得られなかったからである。Kとの関係において、お嬢さんは「技巧」と「自然」の二様の存在となり、先生自身もまた分裂する。「嫉妬は愛の半面」(同)だと自覚するそのときには、すでにその「嫉妬」=「愛」はKの欲望をなぞったコピーになってしまっているのだ。
 
「先生」のお嬢さんへの思いは結局真実のものではなく、Kの「切ない恋」の模倣にすぎない、そして「先生」と静は、テクネーを用いて「恋愛結婚」を成就させ、それができなかった「ピュシス」のKに対して深い罪悪感、負い目、劣等感を抱いていたと。つまり「漱石」は「模倣」を恥じていたと。(小谷野敦「夏目漱石におけるファミリー・ロマンス」C)
 
 小谷野氏は自分で立てたこの作業仮説を見事に覆してみせている。もちろん氏のいうように、Kの「ピュシス」が「絶対の他者」である静の「技巧」によって喚起されたものと見てもよい。それでKの無垢は相対化される。しかし今度は全てお見通しの「技巧家」静が絶対化されてしまう危険がある。もっとも、静が無垢な聖女であるか、したたかな悪女であるかといった議論には、いずれも《男性の視点による幻想》にすぎないという指摘があるD。しかしKの「自然」性は、何より先生が尋常でない長さの遺書を書くというその行為とともに、先生が自身の言葉で拵え上げたものとも言えるのだ。
 
たゞKは私を窘めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だつたのです(『こゝろ』下四十二)
妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから(同下五十六)
 
 しかしこうした言葉は、それが先生の独白であるために、さらには「私」に対する「告白」であるために、「私」の位置に立つ読者には、それが「本当の事実」なのか真偽が決定できないようになっている。先生はKの「自然」を強調し、同時に妻の無垢をも確保しようとする。静が「策略家」ならKも「自然」ではいられないからである。先生は手紙がどれほど長大になろうとも「有りの儘」を書こうとする、その姿勢によって自分の無垢を自ら肯定し、遺書の読み手にも無垢が認知されることを期待しているかに見える。しかし他方、Kの名を明かさず、その名を誰とも共有しようとせずに、妻にも「告白」をすることなくその遺書も見せないよう頼んで死ぬことを考えれば、先生にとってはKも妻も自分と同じように「汚れ」た存在であるということを、むしろ知ってもらいたがっているようでもあるのだ。

 「模倣」が「恥」であるとすれば、それは「模倣」が「遅れ」であり、「罪」や「汚れ」をもたらすからである。そしてそれが「媒介的」なものであって主体的なものではないからである。しかし「主体的」で「真面目」な「選択」こそが「模倣」の場においてなされることなのである。

 では、この「主体的選択」こそが「模倣」であるという逆説的な場から逃れるにはどうすればよいのか。「模倣」を模倣しつつ、したがって「模倣」せざるをえないことを意識しつつ、そのことによって「模倣」からずれていくこと。しかしそれはどのようにしてなされるのか。
 
私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決したのではなからうかと疑がひ出しました。さうして又慄(ぞつ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じやうに辿つてゐるのだといふ予覚が、折々風のやうに私の胸を横過り始めたからです。(『こゝろ』下五十三)
 
 「模倣」の予覚に「慄と」すること。「自己」の枠を通してKの姿を捉えたと思ったそのとき、逆にKの枠の中に映っている「自己」を見出してしまうこと。これこそが「模倣」とその自覚である。しかしこの「慄と」はたんに「汚れ」にふれたせいではない。先生は死に至るKというモデルを模倣=選択してしまっていることに「後で」気づいて驚いたのだ。先生は、Kを「模倣」していることを自覚つつ、自死の道を歩みながらも、他方でしかし、Kが書かなかった長い遺書を試みている。そしてその「書く」ことを通して「模倣」=「遅れ」の構造をまさに生きながら、そこからずれていこうともしているのだ。あるいは青年「私」は「私」で、「謎」で誘引する先生を「模倣」しつつ「書く」ことになる。しかし彼もまた自己を「偽りなく書き残して置く」(下五十六)という姿勢からは、ずれた「自己の表現」を試みるのである。

 しかし模倣されるのは、こうした人物の行為のレベルにおいてだけではない。彼らが叙述する言葉もまた模倣され反復されるのであるE。そしてしかし、先生の遺書の言葉や青年「私」の手記が、たとえつねに既に反復されたものの痕跡なのだとしても、そこでの模倣や反復は同一性を保証するわけではない。そこにこそずれが、ノイズが紛れ込むのである。そしてそうしたずれやノイズを排除するのでなく、それらをも含めて全的に肯定すること。無垢なるものへの欲望は、模倣とそれからのずれを併せ持つ姿勢のうちに試みられているのであり、その意味で矛盾や余剰を含むものこそがかえって「良く出来た小説」なのである。




 
@拙論「夏目漱石『坊つちやん』の「乱暴者」」(「奈良工業高等専門学校紀要」第三四号、一九九八)
A小谷野敦「夏目漱石におけるファミリー・ロマンス」(「批評空間」第四号、一九九二、福武書店)
B大澤真幸「明治の精神と心の自律性」(「日本近代文学」第六二集、二○○○・五、日本近代文学会)
C小谷野氏前掲論文
D座談会「『こゝろ』論争以後」(「漱石研究」第六号、一九九六、翰林書房)における関礼子氏の発言
E押野武志「『遺書』の書法−ペンとノイズ−」(『総力討論 漱石の『こゝろ』』所収、一九九四・一、翰林書房)は、先生の遺書の言葉は《つねに既に反復されたものの痕跡なのであり、どの言葉も〈始まり〉としての特権性=ロゴスを主張できない》と指摘している。

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