夏目漱石『吾輩は猫である』論

A Consideration on
Natsmesoseki's Wagahai wa neko de aru ( I am a cat ) 

 武 田 充 啓


章立て
はじめに
一、余儀なくされた「冷淡」あるいは「社会」への夢
二、可能性としての馬鹿竹あるいは狂気への誘い
三、動きかけた石地蔵あるいは狂気から苦沙弥を救うもの
四、自覚心とユーモアあるいは死者との語らい
おわりに


 はじめに

 

 『吾輩は猫である』(以下、『猫』と略記する)は明治三十八年一月の『ホトトギス』に第一回が発表されたのち断続的に書き継がれ同三十九年八月第十一回をもって完結する。この間『猫』を書き継ぎながら漱石は何と向き合っていたのだろうか。

 漱石は早くにスターンの小説『「トリストラム、シヤンデー」伝及び其意見』を取り上げ「『シヤンデー』は如何、単に主人公なきのみにあらず、又結構なし、無始無終なり、尾か頭か心元なき事海鼠の如し」と書いていた@。

 

 「吾輩は猫である」は雑誌ホトゝギスに連載した続き物である。固より纏つた話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切つて一冊としても興味の上に於て左したる影響のあらう筈がない。然し自分の考ではもう少し書いた上でと思つて居たが、書肆が頻りに催促をするのと、多忙で意の如く稿を続ぐ余暇がないので、差し当たり是丈を出版する事にした。(中略)此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の様な文章であるから、たとひ此一巻で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又実際消えてなくなるかも知れん。然し将来忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機会があれば再び稿を続ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が気が向くときは――余も亦筆を執らねばならぬ。(『吾輩は猫である』上篇(一〜五をおさめる―引用者註)自序A)

 

 すでに数回分を書き継いだ時点で漱石は『猫』が「続き物」であり、しかし「筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切つて一冊としても」よい作品であると書いている。「海鼠」のような文章だから「消えてなくなつた所で一向差し支へはない」などの言葉からは自作に対する淡泊な姿勢がうかがえもするが、注意したいのはそうした余裕や諦念ではなく「再び稿を続ぐ積」「亦筆を執らねばならぬ」という漱石の意欲や衝動のほうである。そのとき漱石の頭には、やはり断続的に書き継がれながら未完のままに終わった『シヤンデー』があったことは疑いがない。

 

彼自ら公言すらく、われ何の為に之を書するか、須らく之を吾等に問へ、われ筆を使ふにあらず、筆われを使ふなりと、瑣談小話筆に任せて描出し来れども、屡々相依り前後相属するの外、一毫の伏線なく照応なし、篇中二三主眼の人物に至つては、固より指摘したがらず、(中略)些の統一なき事、恰も越人と秦人が隣り合せに世帯を持ちたるが如く、風する牛馬も相及ばざるの勢なり、嘗て聞く往時西洋にて道化を職業として、大名豪族の御伽に出るものは、色々の小片を継ぎ合せたる衣裳を着けたるが例なりとか、「シヤンデー」は此道化者の服装にして、道化者自身は「スターン」なるべし(『トリストラム、シヤンデー』B)

 

 これはほとんど『猫』の評である。『猫』は『シヤンデー』に似て「纏つた話の筋」「趣向」「構造」をもたない「海鼠」のような作品である。「猫が生きて居る間は」「猫が気が向くときは」という書き方は「われ筆を使ふにあらず、筆われを使ふなり」という書き方と同様書く主体というものが希薄なままの書きぶりであり、しかも「尾か頭か心元なき」形で断続的に作品を書き継ぎながら、それでもしっかりとあり続けた漱石の書くことへの衝動というものは、ではいったい何に向き合っていたのだろうか。

 第十一回の完結まで「結構なし」で書き継がれた『猫』の各篇に共通する主題を見つけるのは難しいし中心となる登場人物も誰彼と入れ替わってはいるものの、饒舌そのものを楽しむ言葉の戯れについては全篇を通じて明らかである。そのような『猫』のありさまを、右に引いた漱石自身の言葉をもじっていえば「道化は色々な小片をつなぎ合わせた衣裳を身に着けている。猫をはじめとする主人公たちはその道化の服装であり、道化者自身は漱石である」ということになるだろう。そしてその道化者は道化ながらひたすら「無意味」と向き合っていたのではなかったか。

 漱石はほとんど「無意味」と思える世界に対してそれ以上に確実に「無意味」な言葉で戯れてみせることによって、かろうじて世界の「無意味」さに耐ええたように思われる。もちろんそのような戯れがほとんど「狂気」と隣り合わせのものであったことは従来からも多く指摘されてきた。しかし私が『猫』に見たいのは「笑い」に執着することで世界の「無意味」さから逃れようとする作者の姿ではなく、「狂気」に近づき「孤立」に踏みとどまることで浮かび上がってくる様々な問題を問い直しつつ、そうした問題を身をもって生きようとする漱石の姿である。のちにくわしく見るように漱石はそこでは死者に向けて語らざるを得ないところまで追い込まれているのである。

 もちろん『シヤンデー』との大きな違いである「名前」の問題もある。『猫』では猫の「無名性」ばかりではなく、登場人物たちによる「命名」の振る舞いもまた重要な問題と絡み合っている。猫は自身の予告どおり「名前」のないままに死んでいる。「名前はまだつけてくれない」という当初の不平は次第に調子を弱めていったようにも見えるが、名無しの猫に不満がなかったわけではなかろう。少なくとも作者はその不満を知っている。しかし作者は猫の欲望を煽るようなことはしなかったし、最後まであえて猫に名前を与えなかったのである。それはなぜか。おそらく、この猫には名前がないことがふさわしいと見なされたからである。その理由についても考えてみなければならないが、少し回り道をする。

 以下、小論では「名前」の問題を「狂気」や「死」の問題と絡めながら、『猫』が問い直そうとしている「自由」と「倫理」の問題について考えてみたい。

 

 一 余儀なくされた「冷淡」 あるいは 「社会」への一歩

 

 越智治雄は《社会に帰属しない。自由》こそが猫の無名性の意味するところだと書いていた。《社会的存在であるかぎり、人は世間、すなわち外的な、他者に見られる自己と、暗室、すなわち内部の自己との分裂を避けられぬことは明瞭だろう。これに反して猫は文字どおり自然なので》あるC。

 「然しながら猫といへども社会的動物である」。「或る程度までは社会と調和して行かねばならん」(五)。もちろん越智氏はこの猫に生活者漱石の実感が紛れ込み、その「自由」や「自然」に制限が加わることも指摘し忘れてはいない。「頭を以て活動すべき天命を受けてこの娑婆に出現した程の古今来の猫」(五)であっても「猫鍋」にされたくなければ捕ったこともない鼠でも捕って見せねばならない。そういう現実がある。

 猫の「自由」や「自然」がおかれた現実は、たとえば次のような場面に明らかである。

 

鳴かせる為めなら、為めと早く云へば二返も三返も余計な手数はしなくても済むし、吾輩も一度で放免になる事を二度も三度も繰り返へされる必要はないのだ。只打つてみろと云ふ命令は、打つ事それ自身を目的とする場合の外に用うべきものでない。打つのは向ふの事、鳴くのは此方の事だ。鳴く事を始めから予期して懸つて、只打つと云ふ命令のうちに、此方の随意たるべき鳴く事さへ含まつてる様に考えるのは失敬千万だ。他人の人格を重んぜんと云ふものだ。猫を馬鹿にして居る。(中略)打てば必ずなかなければならんとなると吾輩は迷惑である。目白の時の鐘と同一に見傚されては猫と生れた甲斐がない。先づ腹の中でこれだけ主人を凹まして置いて、しかる後にやーと注文通り鳴いてやつた。(七)

 

 「鳴いてやつた」と心の内で叫んで見せても外からは鳴かされているとしか見えない。猫はここで「外的な、他者に見られる自己と、暗室、すなわち内部の自己との分裂」を演じているのであって、彼は「腹の中で」不平を言うしかない。「三毛子は死ぬ、黒は相手にならず」という状況の中で「どこまでも人間になり済まして居る」(三)猫は次第に心の内でだけ話すようになり、その「言葉」を外に出すことがなくなっていく。猫の心がどれほど自由であり、その振る舞いがどれほど自然であったとしても、彼の「自由」や「自然」はその分裂した世界のどちらかの片側にしかないのである。

 猫は(三)人間同様の「分裂」を抱えながら、それを他の猫にも人間にも伝えることができないでいる。その意味で猫は「社会に帰属」できない「不自由」な存在である。「権力の目を掠めて我理を貫く」(四)のがやっとであり「力づくでは到底人間には叶はない」(四)存在なのである。「力」を前にしてその「自由」や「自然」が制約され「孤立」を余儀なくされている猫の現実は、人間たちが生きる現実をそのまま映し出しているのである。

 では人間は「力」に対してどう振る舞うのだろうか。たとえば苦沙弥は「頑固」や「喧嘩」で立ち向かおうとしていた。

 それに対して実業家鈴木藤十郎は「どうしても金のあるものに、たてを突いちや損だ」「多勢に無勢どうせ、叶はない」「頑固もいゝが」「とゞのつまりが骨折り損の草臥儲けだ」と説き(八)、哲学者八木独仙は「もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢に無勢の問題になる」「君の様な貧乏人でしかもたつた一人で積極的に喧嘩をしやうと云ふのが抑も君の不平の種さ」と諭す(八)。

 鈴木は「損」をしないことに重点を置き、独仙は「安心」を得ることを主眼としているが、それらがいずれも消極的な立場であることには違いがない。「無事に切り抜ける」ために「自覚心」(十一)を鋭くしたり、「安心」のために努力して「自己」を離れる修養をするなどというやり方は猫に理解されるはずがない。

 

 人間の心理程解し難いものはない。此主人の今の心は怒つて居るのだか、浮かれて居るのだか、又は哲人の遺書に一道の慰安を求めつゝあるのか、ちつとも分らない。世の中を冷笑して居るのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起して居るのか、物外に超然として居るのだか薩張ぱり見当が付かぬ。(二)

 

 人間が自己を「分裂」させていることを見抜けるのは、猫もまた自ら「分裂」を知るからである。しかし今は「慰安」「冷笑」「癇癪」といった内面の問題はしばらく措いて、「世の中へ交りたい」というときの外への方向に「力」への対抗の可能性が見えない点について問題にしたい。

 鈴木と独仙に共通しているのは、「世間」や「力」に向かい合うのは、いつでも「たつた一人」でしかないという前提である。だから二人とも口をそろえて「多勢に無勢」というのである。もちろんこの条件を共有しているのは二人だけではない。「気の毒だの、可哀相だのと云ふ私情は」「口にすべき所ではない」(四)と自戒していた下宿時代の若い迷亭の「不人情」は今も変わらない。むしろ「非人情」とでもいうべきその「冷淡」は『猫』の誰もが共有している姿勢なのである。

 自分が監督するクラスの生徒を相手に「人間の本来の性質」である「冷淡」を隠さない苦沙弥を「善人」で「正直」だと猫は評価しているのだが(十)、それをアイロニーや作者の自嘲として受け取るべきだろうか。自分の「自由」を生き延びさせるためには、したがって他者の「自由」を尊重するためにはどうしても「冷淡」でいるしかない。そうした「冷淡」をこそ近代を生きる人間の「自然」と認め「社会」はそこから始める以外にないという認識が示されているのだと考えたい。

 『猫』の登場人物たちはそれぞれ見事に「冷淡」である。彼らは当たり前のようにその一人ひとりが「孤立」している。それは近代を生きるうえでほとんど余儀なくされたいわば方法としての「冷淡」である。しかしそのときに世界を生きる人間たちに「冷淡」から互いの方へと歩み寄る一歩を踏み出させるものが、共有できる何ものかがない。これが『猫』の「世間」が変わらない理由であり、「社会」へと変えられない原因である。

 

銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金の様に見えてくるさうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせる為めに、ある権限を委託した代理人の様なものだ。ところが委任された権力を笠に着て毎日事務を処理して居ると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれに就て何等の喙を容るる理由がないものだなどと狂つてくる。(十)

 

 作者は人間一人ひとりの「泥棒根性」(十)を叩き直せといいたいのではない。外に向けて、社会に向けて「力」の問題を解決する出口を求めようとして藻掻いているのである。それは文明に対するたんなる呪詛にとどまるものではない。

 「世間」は自ずと変わるものではあっても、意図して変えることは難しいものであるのかもしれない。しかしそれでもここには、「世間」にある「力」(の使い方や「力」と「力」のぶつかり合い)の問題を「泥棒根性」といった個々人の「心」の内面の問題としてではなく、「社会」の問題としてとらえようとする認識の萌芽がある。そのことをひとまずは強調しておきたいD。

 しかし実際には『猫』は「社会」を変えていくことで自己の「分裂」を回避しようとするような「外」の方向への可能性を追求することはなかった。では「内/心」の方向に「力」に立ち向いうるどのような可能性が探られたのだろうか。

 

 二 可能性としての馬鹿竹 あるいは 狂気への誘い

 

 「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つてみたいと存候。/出来るならば一日でもなつてみたいと存候。(中略)イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候」。この内田魯庵宛て漱石書簡(明治三十九年一月五日)を引いたうえで、小宮豊隆は《この「馬鹿竹の話」は、恐らくトルストイの『イワンの馬鹿』から来たものに相違ない》と述べているE。

 「馬鹿竹の話」は、辻の真ん中にある石地蔵を動かそうとして人々が「策」を弄し様々な「力」に頼って何度も試みるが地蔵は動かず、馬鹿竹が「動いてやんなさい」と頼むと「そんなら早くさう云へばいゝのに」と動き出したというものである(十)。独仙が講演の中で紹介したとされるこの挿話は作者の理想の一方向を指し示している。

 「食ひたければ食ひ、寐たければ寐る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く」(二)。これができれば馬鹿竹になれる。しかしこれは猫にさえ実行困難な理想であった。猫にも自己分裂と自由の制約があったことは先に見たとおりである。馬鹿竹には思いと行いにずれがなかった。「内」なる欲望(食い、寝る)を遠慮なしに肯定し、それがそのまま「外」に向けた表現や行動(怒り、泣く)につながっている。他者との連帯までが確実に保証されるわけではないが、少なくとも自己分裂は回避できる。この理想猫的「自由」、馬鹿竹的「自然」に近づけば近づくほど人間にも分裂回避の可能性が出てくると考えられているのである。

 その点で苦沙弥はもっとも馬鹿竹に近い人物である。猫がいうように「主人は野暮の極、間抜けの骨頂」(七)であり、「赤裸々を以て誇る主人」(六)は「正直」の人なのである。そしてその性質は「名前」に対する態度にも現れていた。苦沙弥は「名前」に頓着しない人なのである。

 名無しの猫が「名前」にこだわりをもつのは当然だが、その猫が「贅沢もこの位出来れば」とうらやましがるのは「小説中の人間の名前をつけるに一日巴理を探険」するバルザックの話である(二)。しかしその話を自分には一向名前をつけてくれない主人の苦沙弥から聞くというところが皮肉であるが、迷亭が「何か大著述でもして家名を揚げなくては」「明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたい」というのは冗談としても、母親からの手紙の中に「小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものゝ名前が列挙してある」「その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなつて人間もつまらないと云ふ気が起つた」というのはあながち誇張でもあるまい(二)。川底から自分の「名前」を呼ぶ声を聞く体験をした水島寒月(二)も「自分の名前の講釈」をし「姓名が韻を踏んでいると云ふのが得意」な越智東風(二)も「名目読み」を持ち出して「他人の姓名を取り違えるのは失礼だ」と叱る迷亭の伯父(九)も「金田の妻ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない」と信じている金田夫人(三)も「金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったのは、伯父さんの名前を聞いてから ですよ」と指摘する苦沙弥の妻(三)も皆誰も彼もが「名前」を意識し「名前」に決して鈍感ではないのである。

 その中にあって苦沙弥はひとり異質な存在である。彼は「近所で後架先生と渾名をつけられて」も「一向平気」(一)で、「標札はあるときと、ないとき」があり、それも「名刺を御饌粒で門へ貼り付ける」程度のものであり(三)、名刺を持って訪ねてきた「鈴木藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑に処せられ」ている(四)。苦沙弥は自分の名前も人の名前も実物以上にありがたがることのない人物なのである。それを猫は「猪口才でないところが上等」だといって評価し、「世間」では「偏屈」「頑固」「変人」と呼ぶのである。

 別の一面もある。苦沙弥は「大和魂」を「名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」「誰も聞いた事はあるが、誰も遇つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」と茶化してしまえる人間でもある(六)。見落とせないのは「不思議な事に迷亭はこの名文に対して、いつもの様にあまり駄弁を振はなかつた」とされていることである。ここでの苦沙弥はその「真面目」を徹底することで「滑稽」にまで到達しており、「出鱈目」迷亭のお株を奪ってその「自在」を体現しえているのである。

 しかしそれでも苦沙弥は本物の馬鹿竹ではない。「娑婆気もあり欲気もある」「俗骨」(二)である。この中途半端な馬鹿竹的「自然」に対して「世間」や「力」はどう振る舞うか。いじめてからかうのである。

 苦沙弥に対して「自分の勢力が示」せない金田は自分の「金力」が「力」であることを信じたいがために「車夫、馬丁、無頼漢、ごろつき書生、日雇婆、産婆、妖婆、按摩、頓馬に至るまでを使用して」「うちの旦那の名を知らない」教師、「力」のない苦沙弥をからかう。苦沙弥は「名前」に執着せず「小刀細工」をしないというそのことによって「働きのない」者とされ、「名前」に頓着せず「魂胆」をもたないというそのことによっていじめられるのである。

 

 吾輩の考では奥山の猿と、学校の教師がからかふには一番手頃である。学校の教師を以て、奥山の猿に比較しては勿体ない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。然しよく似て居るから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は鎖で繋がれて居る。いくら歯をむき出しても、きやつきやつ騒いでも引き掻かれる気遣はない。教師は鎖で繋がれて居らない代りに月給で縛られて居る。いくらからかつたつて大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のある様なものなら最初から教師抔をして生徒の御守りは勤めない筈である。主人は教師である。(八)

 

 猫はあまりに作者に近づきすぎていて、ここでは幾分自嘲気味の生活者漱石が顔をのぞかせている。

 「名前」には「淡泊」な苦沙弥だが、「力」による「自由」の制限に対しては律儀に「大戦争」をし「逆上」と「癇癪」を繰り返す(八)。そうして少しずつ彼は「狂気」へと追いやられていく。作者は苦沙弥の人間的弱点をも描いてはいるが、明らかに彼が「外」からの力によって精神を不安定にさせられ自己分裂を強いられていくさまを強調している。苦沙弥が馬鹿竹になれないのは彼自身の内面的な弱点のせいもあるが、やはり「世間」や「力」によるところが大きいといいたいのである。

 

 吾の人を人と思うとき、他の吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的に天降る。この発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。(九)

 

 この天道公平の書面にある言葉は、苦沙弥自身のものでもあろう。しかし「外」へと「社会」へと繋がっていくみちすじが見えない以上「革命」とは彼自身の発狂以外のものではありえないのである。

 

 三 動きかけた石地蔵 あるいは 狂気から苦沙弥を救うもの

 

 《馬鹿竹だけが「正直」で論理による関係を成立させうるという寓話は金田の娘富子を激昂させたように「小刀細工」を捨てることのできぬ人間へのみごとな鏡になっていることは確かだが、「馬鹿竹になつて下さい」という言葉に反して、苦沙弥も雪江もついに馬鹿竹にはなりえないだろう。時代が「 Self-conscious 」を必死としているからである》F。越智治雄がいうように苦沙弥は馬鹿竹ではありえない。では彼は石地蔵ではありえただろうか。前田愛は書いている。

 《町の人々と石地蔵の構図は、直接には寒月の結婚問題をめぐってこじれだした金田家対苦沙弥家の確執にうつしてみることができる。金力を動員したあの手この手の迫害に屈しない苦沙弥の頑固さには、たしかに石の地蔵のおもむきがある》G。

 しかし私がここで「苦沙弥=石地蔵」を問題にしたいのは金田に対して苦沙弥の「頑固」が貫かれたかどうかではない。苦沙弥が一人の馬鹿竹を得てその「牡蠣的生涯」(二)を自ら破ることができたかどうかという点である。

 『猫』に苦沙弥を動かしうる人間は見あたりそうにないが、天道公平はいちばん馬鹿竹に近いところにいたのではなかったか。猫が「日記」をつけないように馬鹿竹は「馬鹿竹の話」をしない。「馬鹿竹の話」をする独仙は馬鹿竹ではない。独仙の「話」は雪江をはじめとする他の人々の「話」を生み出すだろうがそれだけである。その点で天道公平は師の八木独仙を超えている。独仙は「婦人」を啓蒙しようという「魂胆」があったが公平にそんなものはない。「小刀細工」を離れた彼の実践は馬鹿竹の行為に匹敵する。

 地蔵に直接声をかけてみると動いたということは、その「魂胆」のない直接性が、あり得ないコミュニケーションを偶然成り立たたせる可能性があるということを意味しており、それは天道公平の手紙を読んだ/誤読した苦沙弥との間に確かに起こったことなのである。その意味では地蔵は実際に動きかけたのである。それは「狂気」であったかも知れないが、また別のかたちで苦沙弥の「牡蠣的」人生を一変させる「革命」であったかも知れないのである。

 しかしその「革命」を阻止しようとする力が「世間」の側にも苦沙弥自身の中にも存在するのである。牡蠣はいったん口を開けそうになったのにまた口を閉じた。苦沙弥にも「娑婆気」があり自己保身がある。そしてその「欲気」につけ入って日常に引き戻しているのが他ならぬ迷亭その人であるのは皮肉なことである。迷亭は天道公平が立町老梅であり、老梅が「狂人」であることを苦沙弥に教える。苦沙弥は「狂人の作にこれ程感服する以上は自分も多少神経に異状がありはせぬかとの疑念」(九)に苦しむことになる。迷亭はそのことで苦沙弥を「狂気」から救ったことになるのであろうか。むしろ苦沙弥を自覚心の迷路へ「 Self-conscious 」の無間地獄へと誘ってしまったのではなかったか。迷亭はたしかに相対化の達人である。しかしこの場合には彼の振る舞いは「世間」の人のそれと変わらないものとなっている。それにそもそも迷亭は自らいうように「僕と老梅とはそんなに差異はない」(六)のかもしれないのである。苦沙弥は自分が「気狂」になる恐怖におびえるのではなく「気狂」である心配をしなければならないのである。

 では苦沙弥を「狂気」から救っているものは何であろうか。苦沙弥は細君に猫を撲たせて「今鳴いた、にやあと云ふ声は感投詞か、副詞か何だか知つてるか」と唐突に聞いている。そして夫婦のかみ合わない会話は次のような会話へと続いていく。

 

 「道楽もいゝさ。桂月が勧めなくつても金さへあればやるかも知れない」

 「なくつて仕合せだわ。今から道楽なんぞ始められちやあ大変ですよ」

 「大変だと云ふならよしてやるから、其の代りもう少し夫を大事にして、さうして晩に、もつと御馳走を食はせろ」(七)

 

 要するに苦沙弥は、たとえ「金」がなくてもいま少しの「御馳走」は可能であろう、といいたいのである。『猫』においては狂気は食べ物と大いに関係している。それは天道公平すなわち立町老梅の手紙や彼の「瘋癲院」収容の経緯からもわかる。

 

「僕のうち抔へ来て君あの松の木へカツレツが飛んできやしませんかの、僕の国では蒲鉾が板へ乗つて泳いで居ますのつて、頻りに警句を吐いたものさ。只吐いて居るうちはよかつたが君表のどぶへ金とんを堀りに行きませうと促がすに至つては僕も降参したね。それから二三日すると遂に豚仙になつて巣鴨へ収容されて仕舞つた。」(九)

 

 迷亭が「気狂」にならずにすんでいるのは彼が「食ひ意地」を張らずにすむ程度には「御馳走」を食べているからかもしれない。そのことは彼が金銭的な不自由がないということを意味するが、食べ物が「金」以上に大きな「意味」をもつこともある。私たちはここでやはり「食ひ意地」の張った若者を主人公にした『坊ちやん』を思い起してもよい。彼が食べ物をからかわれてどれだけ腹を立てていたか。赤シャツたちに生卵を投げつけて「坊ちやん」は「教師」をやめるのだが、その生卵が松山で下宿生活する「坊ちやん」にとってどれほど「御馳走」であったことかH。

 「食ひたければ食ひ、寐たければ寐る」。この内なる欲望と外なる行動は「分裂」しているのが「世間」の「普通」である。老梅の例が示しているのは、これを無理やり一致させようとすることが「狂気」と結びつくということである。迷亭は自分のために注文したそばを苦沙弥の家に出前させて食べる男である。これが無理なくできているために迷亭は「狂人」の手前にとどまっている。経済的にも健康的にも迷亭ほど「御馳走」には縁のない苦沙弥だが、彼もまたなんとか「寝たいときに寝る」ことだけはできているのであろう。猫は「よく昼寝をして」「こんなに寝て居て」といい(一)、迷亭は「午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君の様に日課としてやるのは少々俗気がありますね」と揶揄して見せる。しかしどんなに笑われようが苦沙弥は眠ることで、すなわち「毎日少しずつ死ぬ」(六)ことができるおかげで何とか「狂気」から遠ざかっていられるのである。

 

 四 自覚心とユーモア あるいは 死者との語らい

 

 近代を生きる人間は馬鹿竹にもなれないし石地蔵でもいられない。それは「世間」や「力」のせいであり、また「個人の自覚心の強過ぎるのが原因」である。

 

 自覚心と云ふのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云ふ事を知り過ぎて居ると云ふ事だ。さうしてこの自覚心なるものは文明が進むに従つて一日一日と鋭敏になつて行くから、仕舞には一挙手一投足も自然天然とは出来ない様になる。(十一)

 

 「凡て人間の研究と云ふものは自己を研究するのである」(九)。では鏡を覗き込んで「自己」を研究すれば「自覚心」から自由になれるのだろうか。

 

其の中で多少理窟がわかつて、分別のある奴は却つて邪魔になるから、瘋癲院といふものを作つて、こゝへ押し込めて出られない様にするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されて居るものは普通の人で、院外にあばれて居るものは却つて気狂である。気狂も孤立して居る間はどこ迄も気狂にされて仕舞ふが、団体となつて勢力が出ると、健全の人間になつて仕舞ふのかも知れない。(九)

 

 苦沙弥が鏡を覗きながら考えているのは「名前」と「所有」の問題である。彼は「命名」と「支配」について考えざるを得ない。自分で自分に命名すること。この自分を自分だけで所有しようとする行為はそのまま「狂気」と結びついていた。立町老梅は自分で自分の名前に飽きて天道公平と号していたのである。他者という契機をもたなければ、自己言及的「自覚心」のために人はいずれ「狂気」に陥ってしまう。しかし「勢力」のある他者に名指されたなら自分は自分を命名した他者に支配され、世界は世界を命名した「勢力」の所有となってしまうのではないか。

 ではどうするか。「金力」や「威力」といった力によって名指されたものを無理やり押しつけられ共有させられる形ではなく、「分別=理」による「公平」な「名前=言葉」の共有の可能性を探れないだろうか。他者との連帯の可能性が出てくるような「名前=言葉」はどこにあるのか。それによってはじめて社会は「私たち」の社会となり、私たち自身の手で変えていくことのできる「社会」となる、そのような「名前=言葉」を生み出すことはできないか。あるいはコミュニケーションの断絶のなかで一人ひとりが自らを名指して狂気においやられるか、続くかぎりの饒舌で自らを浮遊させながら死を引き延ばす以外にない日常を絶望の淵の一歩手前で踏みとどまり醜くて美しい「世の中」や卑しくて尊い「人間」どもを高らかに笑いとばす一瞬の夢を見ようとするか。しかし『猫』はそのどちらにも成功していない。

 苦沙弥は若くして死んだ友人曾呂崎に天然居士という名をつけて自慢していた(三)。彼が「命名」を許されるのは死者に対してだけである。しかもその名は迷亭とさえ共有できないくらいに流通性をもたない名前である。しかも迷亭はいう。「実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食つてるから曾呂崎より先へ死んで宜い訳なんだ」(四)。迷亭は曾呂崎と苦沙弥が別の命を生きる一人ひとりの人間としてではなく、取り替え可能な「名前」にすぎないものとして扱うのである。

 「義理をかく、人情をかく、恥をかく」の「三角主義」(五)を標榜し「一個の活動紙幣」(四)として生きる金田のようなものが名付け使用する「名前=言葉」だけが「団体」に通用する。「引力と云ふ名を持つて居る巨人」や「鼻子」は決して流通しない「名前=言葉」なのである。金田が通用させるのは前田愛がいうように《人間関係のさまざまな局面を金銭がつくりだす抽象的な関係に置換》することによって流通性を獲得した「名前=言葉」であるI。苦沙弥たちが臥龍窟で繰り返しているのは表層をひたすら滑り飛び移っていくことによって意味から逃れていく言葉であり、それは意味から逃げられはしてもそのものが確かな意味を持つこともまたないような「名前=言葉」でしかない。つまりほとんど「無意味」なのである。そして『吾輩は猫である』の笑いはついに、余儀なくされた「多勢に無勢」さえ共に呪うこともできない、その「無意味」を共有するほかに何らつながるものを持たない孤立した面々の孤立した笑いでしかなかった。

 それならば誰もに共通であり必然である「死」が苦沙弥の頭に浮かんできたとしても不思議ではない。

 

「死ぬ事は苦しい。然し死ぬ事が出来なければ猶苦しい。神経衰弱の国民には生きて居る事が死よりも甚だしき苦痛である。従つて死を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではない。どうして死ぬのが一番よからうと心配するのである。只大抵のものは智慧が足りないから自然のままに放擲して置くうちに、世間がいじめ殺してくれる。然し一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必ずや死に方に付いて種々考究の結果、嶄新な名案を呈出するに違ない。だからして世界向後の趨勢は自殺者が増加して、その自殺者が皆独創的な方法を以てこの世を去るに違ない」(十一)

 

 これを承けた迷亭は苦沙弥を「一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務」とまで茶化すのであるが、ここにあるのはおそらく自殺願望ではなく、むしろ死のほうが向こうからやって来てくれる偶然を期待している作者の心である。しかし苦沙弥は死ぬわけにはいかない。「どうして死ぬのが一番よからう」という問題につかまっているからである。彼の「生きてるのはいやだ」と「死ぬのは猶いやだ」という言葉の間には、生き続けてしまう生物としての人間の弱さを認めたくないという気持ちと同時に何かに対する強い意地のようなものを感じる。

 漱石は「実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ」と書いた生前の子規の手紙を引いて次のように書いている。

 

余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へとある文句は露佯りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙しいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辞が這入つて居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取つたのである。/子規はにくい男である。嘗て墨汁一滴か何かの中に、独乙では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采を博してゐるのに漱石は倫敦の片田舎の下宿に燻つて、婆さんからいぢめられてゐると云ふ様な事を書いた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へ抔と云はれると気の毒で堪らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞つた。(中略)子規は死ぬ時に糸瓜の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称へ、子規自身のことを糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作つた時に/長けれど何の糸瓜とさがりけり/と云ふ句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。/どつしりと 尻を据えたる南瓜かな/と云ふ句も其頃作つたやうだ。同じく瓜と云ふ字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だらう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据ゑるべき尻がないので落付をとる機械に窮してゐるだらう。余は未だに尻を持つて居る。どうせ持つてゐるものだから、先づどつしりと、おろして、さう人の思はく通り急には動かない積りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為一言断つて置く。(「『吾輩は猫である』中篇自序」J)

 

 死というものが怖いのではないと苦沙弥はいう。だが「生きてるのはいや」「死ぬのは猶いや」という「死」に対する微妙な距離を伸ばすことも縮めることもできずに彼らは長々とした無意味なお喋りに興じる以外にない。苦沙弥は一編の『猫』を書き上げていない。作者は『猫』を書き得た。しかし『猫』が好評を博し作者の「言葉」が流通したからといって、それは漱石がひとり抱える「名前=言葉」が誰かに共有され通用したということにはならないだろう。それがこの自序に現れているように私は思う。作者は仲間に向けて書いたのかも知れないKが、漱石は死者たちに向かって書いたのである。

 『猫』を子規の霊前に献上し「往日の気の毒を五年後の今日に晴さうと」する漱石に「死」を厭う気持ちはない。それまで無為に生きてきたことに対する後ろめたさは『猫』を書くことで幾分かは和らいだかもしれない。しかし自分が生き残っていることの言い訳ができたから子規の手紙までを引用したというのではないだろう。むしろ生き続けてしまう自分の弱さを素直に認めることができたからこそこれを書きえたのだと思う。第二回目以降死を引き延ばされていた猫も決して自殺はしなった。猫は偶然に助けられて死ぬ、すなわち「太平を得る」のである。この頼れない偶然に頼らざるをえないところが人間の弱さであろう。しかしその弱さに気づきその弱さを認めていくところからしか本当の笑い、ユーモアは生まれてこないのではないか。

 

 おわりに

 

 前田愛は《猫は「私は誰か?」という問いかけを自らに投げかけようとしない。また投げかけることを阻まれている純粋で抽象的な語り手》であるとし、《猫自身は、甕のなかで溺れ死ぬ瞬間まで自己を知る機会を持とうとはしないだろう》と書いていた。前田氏はM・ブーバーを引きながら、《たんなるそれでしかない猫》は、《観察・経験・認識を使命とする語り手としてとどまるかぎり、われ―それの関係を超えることができない》と述べ猫の役割としての限界を指摘するのであるL。しかし私の考えでは作者はむしろ猫が「われ」を知ろうとして自己を検討し始めないように、「われ」にとらわれることのないように猫を語り手という役割につねに限定しようとしていたのである。その限定が破られそうなほど猫が苦沙弥の心の奥にまで入り込みやがては自分自身に言及しないではすまない程度にまで役割をはみ出してきそうになったので作者は猫を死によって救ったのである。

 猫が役割をはみ出すということは猫に名前のないことが不自然になり、ついには猫に名前が与えられないではいられなくなるということである。名前を自分でつければそれは「狂気」につながる。しかし他者から押しつけられた名前を抱えてしまえばそれは「自覚心」にとらわれることにつながる。だから作者は猫に名前を与えることなく死に至らしめたのである。それはただ「自覚心」にとらわれて「われ―なんじの関係」を失ってしまった近代人の病に猫までも引き込むのは忍びなかったからというだけではない。猫の報告が、したがってこの作品自体がたとえば天道公平の手紙と「違う」ということを保証するものがなくなってしまうからである。

 『猫』に「われ―なんじの関係」を描き出すことが作者の目的ではなかった。漱石は『猫』を書くことで「われ」をささえるのがやっとだったに違いない。『坊ちやん』の「坊ちやん」がやはり世間の「汚れ」にまみれきる前に、したがって自らの「自覚心」にとらわれてしまう前に、松山から脱出させられたように、猫は狂気に陥る前に、自己を反省する前に、この世から脱出させられたのである。猫にだけは「狂気」や「自覚心」から自由なままで終わらせる。その作者の手つきだけがこの「趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の様な」ほとんど無意味な饒舌の印象を与える作品の非狂気性を、「健康」を保証しているのである。

 最終的に猫を殺すことで「自覚心」や「相対化」の罠を抜け出した作者は自分自身を「狂気」から救ったともいえる。しかしもちろんそれで十分だったわけではない。仮に世界というものがすべてを相対化してしまう世界であるのだとして、ならばその世界にありながらその相対化そのものを完全に観察し報告することがどのようにすれば可能であるのか。その世界の中のどこに絶対的な「視点」や「場」がありうるのか。これが問い残された問題である。それはもちろん『吾輩は猫である』によって救われた「作者」という存在ではなかった。のちに漱石は書いている。

 

「猫」の甕へ落ちる時分は、漱石先生は、巻中の主人公苦沙弥先生と同じく教師であつた。甕へ落ちてから何ケ月経つたか大往生を遂げた猫は固より知る筈がない。然し此序をかく今日の漱石先生は既に教師ではなくなつた。主人公苦沙弥先生も今頃は休職か、免職になつたかも知れぬ。世の中は猫の目玉の様にぐるぐる廻転してゐる。僅か数ケ月のうちに往生するのも出来る。月給を棒に振るものも出来る。暮れも過ぎ正月も過ぎ、花も散つて、また若葉の時節となつた。是からどの位廻転するかわからない、只長へに変らぬものは甕の中の猫の中の目玉の中の瞳だけである。(『吾輩は猫である』下篇自序M)

 

 朝日新聞社への『入社の辞』と同月に書かれたこの文章に私は一種の余裕とさわやかさを感じる。それは漱石が教師をやめて「生徒の御守」を勤める必要がなくなったことと大いに関係があることだろう。しかし手に入れた自由と引き換えにあらたな制約が生まれなかったはずはないのである。もはや『猫』を書き継いだときのように「たゞ書きたいから書き、作りたいから作つた」Nとはいえなくなるであろう。

 ここでいわれている「猫の中の目玉の中の瞳」とは、時空を超えて人間世界を照らし続ける死者の眼差しであり、漱石その人の生を見つめている「倫理」の眼でもある。このときにも漱石はむしろそのような「外」の眼を己の心(「内」)の支えに必要としていたのである。この文章が書かれた時期から見て、おそらくその猫の「瞳」は『虞美人草』の甲野さんの父親の肖像画の中に引き継がれ問い直されていくものなのであろう。

 

 

@漱石「トリストラム、シヤンデー」(一八九七〔明治三○〕年三月 『江湖文学』)

A漱石「『吾輩は猫である』上篇自序」(一九○五〔明治三八〕年十月)

B前掲@に同じ。

C越智治雄「猫の笑い、猫の狂気」(『解釈と鑑賞』一九七○年九月、のち『漱石私論』一九七一年六月、角川書店)

D漱石は後に『野分』や『それから』のような作品を書いたが、そこではここでの作者の声にならない叫びを十分に形にしたとはいえない。 『明暗』はこの問題を一層意識的に扱おうとしているが、この点についてはいずれ『明暗』論で考えてみたい。

E小宮豊隆「岩波新書版漱石全集『吾輩は猫である』下解説」(一九五六年八月)

F前掲Cに同じ。

G前田愛「猫の言葉、猫の論理」(『作品論夏目漱石』一九七六年九月、双文社、のち『近代日本の文学空間』一九八三年六月、新曜社)

H拙稿「夏目漱石『坊ちやん』の「乱暴者」」(奈良工業高等専門学校研究紀要第三十四号、一九九九年三月)

I前掲Gに同じ。

J漱石「『吾輩は猫である』中篇自序」(一九○六〔明治三九〕年一一月)

K猪野謙二「『吾輩は猫である』を中心に」(『近代文学 作家とその世界』一九七五年五月、朝日新聞社)に「すくなくともはじめのうち は、この『猫』という作品はある意味で一定の読者との一種の馴れあいの上に立って書き始められた、ということさえできる」とある。

L前掲Gに同じ。

M漱石「『吾輩は猫である』下篇自序」(一九○七〔明治四○〕年五月)

N漱石談話筆記『処女作追懐談』(一九○八〔明治四一〕年九月)


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