夏 目 漱 石 『 三 四 郎 』 の 低 徊 家

'Teikaika' in Natsume Soseki's Sanshiro


 武 田 充 啓


章立て

  はじめに

  一 動く人、眠る人

  二 夜

  三 夢

  四 装置と自然

  五 結婚と肖像画

  おわりに



  はじめに

 『三四郎』(明治四一、九〜四一、一二)には周知のように作者の予告(同、八)があり、そこには「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に入つた三四郎が新らしい空気に触れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して、色々に動いて来る。手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である」とある。そこでとりあえず『三四郎』で作者は、「新らしい空気」の中で青年が〈動くこと〉を描こうとしたのだということがわかる。
 『三四郎』の冒頭にある「うとうとして眼が覚めると……」という文章は、主語としては省かれてしまったある主体がそれまでは眠りの中にいたことを教えてくれる。そうしてその同じ人物が「たゞ口の内で迷羊、迷羊と繰返した。」という末尾の一文まで読み終えてもう一度この冒頭に戻ってみると、『三四郎』という作品そのものを一つの夢として生きた青年が、そこから目覚めて再び同じ夢を生きはじめるといった印象を受ける。
 三四郎の眠りに着目した論考はすでにある@が、ここでは眠る/目覚めるということが、動く/動かないこととどうかかわるか、という問いかけを軸にして、いま一度『三四郎』を読み返してみたいと思う。それは、具体的には様々なかたちで現れる「夜」や「夢」といったものが、この作品の中で直接、間接に果たす役割を明らかにし、それらが三四郎や美禰子が「低徊」すること、あるいは「真直に進んで行く」こととどう関係することになるのかを読み解く作業になる。


  一 動く人、眠る人

 上京する二十三歳の青年小川三四郎は、九州から山陽を抜けて、いまは京都から名古屋へと向かう車中にある。ある場所から別の場所へとその身体を移動させながら、三四郎は眠りから覚める。動く人三四郎は、また眠る人でもある。そして三四郎のこの車中での眠りは特別な眠りである。というのは三四郎にはこの眠り以後、決して安らかな眠りが訪れないからである。
 事実「新らしい空気」との接触が、名古屋で「無教育」だか「大胆」だか「無邪気」だか「見当が付かない」(一)女と同宿せざるを得なくなるというような「現実世界の稲妻」として、三四郎の眠りを奪うかたちでまず訪れた後、東京での「劇烈な活動」を目の当たりにするほぼ三週間の間Aというものは、三四郎の眠り、三四郎の夜の時間は描かれることがないのである。そしてその夜の代わりとでもいうように、三四郎は野々宮宗八の「穴倉」を訪ねるのである。「和土の廊下を下へ降りた。世界が急に暗くなる。炎天で眼が眩んだ時の様であつたが少時すると瞳が漸く落付いて、四辺が見える様になつた」。ここで、眩ゆさが暗さの喩として使われていることに注意しよう。三四郎はすでに「昼」と「夜」の区別が意味を持たない〈場所〉に置かれている。それでも夜を求めるかのように、三四郎は野々宮の「光線の圧力を試験する」器械の「横腹に開いてゐる二つの穴に眼をつけ」る。しかし「穴」は「蟒蛇の眼玉の様に光つてゐる」。やはり三四郎の夜は奪われているといってよい(二)。

 三四郎が凝として池の面を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、其又底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且つ遥な心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲の様な淋しさが一面に広がつて来た。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人で坐つて居るかと思はれる程な寂寞を覚えた。(二)

 「面」が「底」であり「底」が「面」であるような〈場所〉で、三四郎は「今始めて」の「孤独」を感じている。三四郎は「早く下宿に帰つて母に手紙を書いてやらう」と思う。しかし三四郎にそんな時間が与えられるのはまだ先である。孤独を癒す東京での夜が描かれないうちに、三四郎は「女」に出会うことになるのである(二)。

三四郎は慥に女の黒眼の動く刹那を意識した。其時色彩の感じは悉く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方ですね」と云はれたときの感じに何処か似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。(中略)/三四郎は茫然してゐた。やがて、小さな声で「矛盾だ」と云つた。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途に矛盾してゐるのか、又は非常に嬉しいものに対して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、−−この田舎出の青年には、凡て解らなかつた。たゞ何だか矛盾であつた。(二)

 三四郎は「池の縁で逢つた女の、顔の色ばかり考へ」る。そして安らかな夜を持てないまま三四郎は「女の色」について「九州色」の「黒」でもなく、上京後に見た下駄屋の娘が石膏の化物のように塗り立てた「白」でもなく、「薄く餅を焦した様な狐色」を「どうしてもあれでなくつては駄目だと断定」するのである。三四郎はここで初めて、「白」でも「黒」でもない、その中間の曖昧な「たゞ何だか矛盾」の世界に生きることを、自分の『三四郎』における役割として自覚しているのだといってよい(二)。
 三四郎は眠る人として、また動く人として登場した。眠っていた三四郎は眼を覚ます。そしてひとたび眼を覚ましたが最後、彼には安眠できる「夜」がなくなってしまう。「髭のある」「神主じみた男」はいう。「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」「日本より頭の中の方が広いでせう」(一)。七つ歳上の野々宮はいう。「七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日は立易いものでね。七年位直ですよ」(二)。「夜」が奪われるまでは明快であったはずの世界が、空間も時間も、広くて狭い長くて短い、「矛盾」を抱えたものになる。
 「凡ての物が破壊されつゝある様に見え」「同時に建設されつゝある様に」も見える東京の「大変な動き方」が、三四郎のかつての「自分の世界」とは無関係に現れる。三四郎は「今活動の中心に立つてゐる」。そして「此動揺を見てゐる。けれどもそれに加はる事は出来ない」。三四郎は眼の前の「現実世界」と「どこも接触してゐない」。だとすれば、それを彼の見る「夢」と区別するものがどこにあるというのか(二)。
 こうして眠りから覚めたはずの三四郎は、今までの「自分の世界」という過去も、目の前にある東京での「現実世界」という現在も、さらに彼の未来をも、すべて「夢」として抱え込み、「夢」の中を動く人=眠る人になるのである。

〔「章立て」に戻る〕


  二 夜

 三四郎の求めている「夜」と、直接につながりを持つ存在は母親である。三四郎は度々母親からの手紙に接しており(二)(三)(四)(七)(九)、自ら返事を書いてもいる(三)(七)。便りは電報(十二)や送金(九)のかたちをとる場合もあるが、三四郎がそれらと接するのはほとんど夜なのである。
 「古い人で古い田舎に居る」(二)母親は、三四郎の「三つの世界」(四)の第一の世界を代表する人物である。三四郎にとって「母」は「脱ぎ棄てた過去」を「封じ込めた」「立退場」(同)なのである。「戻らうとすれば、すぐに戻れる。たゞいざとならない以上は戻る気がしない」と三四郎は考える。しかし、そう考えているときこそ彼は「立退場」に戻っているのである。「夜」は三四郎が「母」と接触する〈時間〉であり、この〈時間〉が三四郎を「低徊家」(四)たらしめている。しかし「母」は、いつまでも三四郎の「立退場」としてあり続けるわけではない。
 野々宮宅での留守番の夜、三四郎は母親が野々宮に送った「ひめいち」を晩飯に食うが、若い女の「轢死」に出くわすことになるだろう(三)。「三十円を枕元へ置いて寝た」ところで、夜火事を知らせる「半鐘の音」が彼の「すこやかな眠」を妨げるであろう(九)。三四郎は美禰子に金を借りねばならなくなりB、その前夜には美禰子の「好意」と「愚弄」について「汚ない所を奇麗な写真に取つて眺めてゐる様な気がする。写真は写真として何処迄も本当に違ないが、実物の汚ない事も争はれないと一般で、同じでなければならぬ筈の二つが決して一致しない」ことに頭を悩ませなくてはならない(八)。そして広田先生から〈不義の子〉の話を聞かねばならないCのである(十一)。
 安全地帯としての「夜」は影を薄くしていく。母からの手紙が長いものから次第に短くなるのに対して、三四郎の返事は弱くなっていく「夜」の力を強く求めるかのように長いものに変わっていく。〈夜−母〉は、三四郎の安眠を保証し続けることはできない。おそらく最後のチャンスとして試みられた三四郎の帰郷さえも、『三四郎』からは除かれてしまうほかはなかった。「母」という「立退場」は、もはや三四郎の個的な時間軸上の「過去」にしかない。そしてそれは、すでにそこからは覚めてしまった「夢」と異ならないのである。
 広田は三四郎の「三つの世界」のうち、第二の世界を代表する人物である。彼もまた三四郎の「夜」にかかわる存在であり、東京の「現在」をともに生きつつ三四郎の「暢気の源」(七)になるという意味で、いまは「夢」となりつつある「母」以上に三四郎の「低徊」に影響を与える存在である。
 〈夜−広田〉は、まず「髭を濃く生やしてゐる」「神主じみた男」(一)として三四郎の前に登場する。「囚はれちや駄目だ」というのがこの男の最初の警告である。若い女の「轢死」に遭遇した、三四郎の「人生と云ふ丈夫さうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きさうに」思えたそのとき、三四郎は「髭の男」を思い出し、「世の中にゐて、世の中を傍観してゐる」「批評家」にでもなろうかと考え、そう考えることによってかろうじて「低徊家」を維持することになる(三)。
 三四郎はその広田から、「自然を翻訳すると」「みんな人格上の言葉になる」、「崇高」「偉大」「雄壮」といった「人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が毫も人格上の感化を与へてゐない」という言葉を聞く。その翌日の夜、自分の将来について「国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎へて、さうして身を学問に委ねるに越した事はない」という結論を得ていた三四郎は、広田の「翻訳」説から「なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない」という別の結論をも導くことになる(四)。
 三四郎の未来は、彼の第三の世界である「美しい女性」に関して、〈細君を得ること〉と〈なるべく多く接すること〉との二つの方向に分裂する。この両立し得ない「夢」を抱えたまま、三四郎は美禰子と接触することになる。しかし「あまりに暖か過ぎる」「青春の血」が三四郎を「真直に進」ませようとする(十)以前から、「夜」はむしろ余裕を持った「低徊」を勧めていたのである。
 「同級生の懇親会」で「鼻の下にもう髭を生やしてゐる」学生は、三四郎にこそ警告するために演説している。

 我々は西洋の文芸を研究する者である。然し研究は何処迄も研究である。その文芸のもとに服従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究してゐるのである。此方便に合せざる文芸は如何なる威圧の下に強ひらるゝとも学ぶ事を敢てせざるの自信と決心とを有して居る。(六)

 むろん「女性」を「研究」する三四郎に、こうした自信や決心があるわけではない。「髭」の学生から「囚はれちや不可ませんよ」と重ねて忠告された三四郎は、やはり〈夜−広田〉を訪ねている。
 美禰子に対して「訳の分らない囚はれ方」に陥った三四郎は、自分のとるべき態度を決定するために、広田から野々宮と美禰子の関係を聞き出そうとする。が、広田の話は「外れて」、三四郎自身の結婚の話になる。広田は「まだ早いですね。今から細君を持つちや大変だ」と、いったんは否定するようなことをいっておきながら、三四郎が母親から結婚を勧められていることを知ると「御母さんの云ふ事は成べく聞いて上げるが可い」と、先ほどとは矛盾するような言葉を「丸で子供に対する様」に、二度までも繰り返すのである(七)。
 広田の話はまたも「外れて」、「偽善」と「露悪」の話になる。「昔の偽善家に対して、今は露悪家許りの状態にある」。しかし「露悪」が「度を越」して「極端に達」すると「利他主義が復活」し、「それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する」。この「際限」のない繰り返しのうちに「進歩」がある。「英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない」。「自分丈は得意の様だが、傍から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる」。そういう話を広田は三四郎に聞かせている。
 広田は「母」のように安全な「立退場」ではない。「広田先生は畢竟ハイドリオタフヒアだ」(十一)という三四郎の言葉どおり、広田は「解らないながらも」「興味を惹く」(同)書物、解読されるべきテクストなのである。だが「偉大な暗闇」(四)とは、それ自身〈場所〉を持たない存在であることに注意すべきである。汽車に乗る人=動く人として登場し、つねに「暗い方へ」(十二)「外れて」いこうとするこの男は、同時に「奇麗な空の下」「真昼間」の「戸外が好い」(同)と明るさを愛する男でもある。自身のうちに「矛盾」を抱えたこの遍在する「暗闇」は、動く/動かないといった次元を、超越するというよりは、そこからずれてしまうことによってそれを相対化するのである。だが「奥行」を奪われた三四郎は、与次郎ほどには広田というテクストを「余処から見る」(十)余裕を持たない。
 美禰子は「正直か正直でないか」。三四郎がその考えを「真直に」進めるとどうなるか。「表面上の行為言語は飽迄も善に違ない」ものが眼の前にある。しかし「極めて神経の鋭敏になつた文明人種」がそれをしたとき、ほんとうに「正直」に「それ自身が目的」でそうするのか、「横から見ても縦から見ても」「偽善としか思はれない様に仕向けて」そうしているのか、区別がつかない場合がある。だとすれば、「露悪家」の中で「正直」なだけで「悪気がない」〈善人〉と「尤も優美に露悪家にならうとする」〈悪人〉とを外側から判断して見分けることなどできないのではないか(七)。
 美禰子自身の生が分裂を余儀なくされたように、三四郎もまた「未来に対する自分の方針が二途に矛盾し」(二)、「自分の態度を判然極める事」(七)ができなくなる。
 「夜」はここでもやはり広田をとおして、三四郎に「囚はれちや駄目だ」と警告しているだけなのである。広田の言葉に対してもそうあるべきなのだ。おそらく「進歩」とは〈動くこと〉そのことであろう。しかし「真直に」動いてはならない。広田の話がつねにそうであるように、問題の中心から距離を保ちつつ「外れ」続けることで、自己と対象とを同時に相対化すること。だが母親に対しては許された「返事」が、「夜」そのものに対しては許されない三四郎は、「一面の星月夜」(三)「月夜」(四)「星が夥しく多い」「美しい空」(六)「高く晴れて何処から露が降るかと思ふ」(七)「月の冴えた」(九)夜空を見上げるばかりだ。そして広田をとおした「夜」からの声は三四郎に届かない。
 やがて「夜」は三四郎を見限ったかのように「風」を吹かせ、彼に「運命といふ字を思ひ出」させるであろう(九)。久しぶりの母の「長い手紙」も、もはや夜の時間に読まれることはない(十一)。そうして「真直に」進むべき道を断たれた三四郎は、「夜半から降り出した」「雨の音を聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱にして、其周囲にぐるぐる低徊」(十二)することになる。むろんこれは「外れ」ることのできる余裕ある「低徊」ではない。

〔「章立て」に戻る〕 


  三 夢

 轢死した女の「凄い死顔」を見た三四郎は、その夜夢を見ている。

−−轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つて家へ帰つて来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽で、今夜轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池の端で逢つた女である。……(三)

 三四郎がこの夢の中で「野々宮に関係のある女」を自殺させていること、そして「池の端で逢つた女」を野々宮の「妹」と考えその女もまた死なせていることは興味深い。この夢見が「池の女」と再会する前夜のことであり、その「リボン」によって野々宮と関係があることを三四郎が知る以前のことであることに注意しよう。ここには「夢だから分る」(十一)ことがある。
 三四郎は夢見の前に「光線の圧力の研究をする為に、女を轢死させる事はあるまい」と考えている。夢はそれが間違いであり、野々宮の「研究」が一人の女=美禰子を自死の「企て」にまで追いやることになることを知らせている。そして後に三四郎は自分の「夢」への執着によって美禰子=「池の女」を殺すことになるのだとすれば、夢の中の二人の女は同一人物であり、同時刻に死ぬのも不思議ではない。こうしてこの夢が一人の女を引き裂いて同時に二つの場所に存在させ、求めている男とすれ違いにさせるかたちで女の生を奪っていると見るならば、三四郎の夢は、三四郎を先取りしながらすでに『三四郎』を読んでいることになる。
 野々宮の「妹が此間見た女の様な気がして堪まらない」三四郎は次のような空想もしていたのである。

三四郎はもう一遍、女の顔付と眼付と、服装とを、あの時あの侭に、繰返して、それを病院の寝台の上に乗せて、其傍に野々宮君を立たして、二三の会話をさせたが、兄では物足らないので、何時の間にか、自分が代理になつて、色々親切に介抱してゐた。所へ汽車が轟と鳴つて孟宗薮のすぐ下を通つた。(同)

 空想が空想である程度に、「代理」は「代理」にしかすぎない。「物足らない」のは美禰子の方である。兄恭助の代理に野々宮がおり、野々宮の代理に三四郎がいる。美禰子はついに「代理」としか出会えない。
 三四郎は自分では気づかずに、「池の女」という彼の「夢」にこだわっている。そうして「池の女」という枠におさまりきらない現実の美禰子を見殺しにし、彼女を眼の前から遠ざけてしまうことによって、「池の女」がより完璧な「夢」として三四郎に生きられることになるという逆説にも、彼自身気づいてなどいない。しかしそれこそが「囚はれ」るということではなかったか。広田の夢(十一)でもわかるように、この「囚はれ」方は「思ひ出す事も滅多にない」くらいのものでありながら、「二十年」ぶりに不意に夢の中に現れたりするような「囚はれ」方であり、母親の不義から生まれ「結婚に信仰を置かなく」なった男を、その結婚に踏み切らせる力を潜在的に持つような「囚はれ」方なのである。

 「夫で結婚をなさらないんですか」
 先生は笑ひ出した。
 「それ程浪漫的な人間ぢやない。僕は君よりも遥に散文的に出来てゐる」
 「然し、もし其女が来たら御貰ひになつたでせう」
 「さうさね」と一度考へた上で、「貰つたらうね」と云つた。(十一)

 広田は「十二三の女」に、彼の「結婚」という「夢」を殺されたわけではない。おそらくは実の母親によって、「母」という「夢」と同時に「結婚」という「夢」をも殺されてしまった男が、だからこそその「夢」の死後に見いだす=築くことになった完璧な「夢」が彼の「森の女」なのである。そこには壊されることのない完全で安全な「女」が眠っている。むろん「囚はれ」ることに無自覚でない広田は、ここで三四郎のいう「もし」がまたもう一つ別の「夢」であることを知っている。
 しかし、人がこの「囚はれ」に気づくのは、自分の「夢」を他人に殺されるという経験、あるいは自分の「夢」を見続けようとして他人の「夢」を殺してしまったという自覚をとおしてでしかない。三四郎は、しかしその「夢」の死を経験せず、殺しを自覚しない。

 「重い事。大理石の様に見えます」
 美禰子は二重瞼を細くして高い所を眺めてゐた。それから、その細くなつた侭の眼を静かに三四郎の方に向けた。さうして、
 「大理石の様に見えるでせう」と聞いた。三四郎は、
 「えゝ、大理石の様に見えます」と答へるより外はなかつた。女はそれで黙つた。しばらくしてから、今度は三四郎が云つた。
 「かう云ふ空の下にゐると、心が重くなるが気は軽くなる」
 「どう云ふ訳ですか」と美禰子が問ひ返した。
 三四郎には、どう云ふ訳もなかつた。返事はせずに、又かう云つた。
 「安心して夢を見てゐる様な空模様だ」
 「動く様で、なかなか動きませんね」と美禰子は又遠くの雲を眺め出した。(五)

 小川の縁に腰を下ろした二人の前に「髯を生やし」た男が現れる。「憎悪」の眼で「睨め付け」られて「凝と坐つてゐにくい程な束縛を感じ」ながら、しかし「安心して夢を見てゐる」男は「夢」から覚めたがらない。「『私そんなに生意気に見えますか』」。「池の女」ではなく、眼の前の〈小川の女〉を見よ。おそらくは、美禰子こそ「小川三四郎」という名が悪いといいたかったに違いない。しかし「小川」の省かれた『三四郎』という題を持つ作品の中では、美禰子の呟きはただ「迷へる子」としか聞こえない(五)。
 〈多くの美しい女性に接すること〉と〈美しい細君を得ること〉。この二つの「夢」の狭間から美禰子という生身の女が飛び出してくる。しかし三四郎は目の前の「明瞭な女」(五)の素顔を見ることができない。三四郎は自分の「夢」という枠組みの内側でしか「意味のあるもの」(同)を見いだせないのである。美禰子は「立派な人」(十)と結婚し、「森の女」という一枚の絵を残して三四郎の前から去って行く。三四郎は「森の女と云ふ題が悪い」といい、「たゞ口の中で迷羊、迷羊と繰返」す(十三)。
 三四郎は、重松泰雄がいうように《『迷羊』美禰子の孤独をとおして真に『迷羊』たる自己に目ざめた》Dのであろうか。越智治雄は《おそらく作者の関心は、動揺し秩序を喪失した現実の中で、虚妄と彷徨を必然とする人間把握に到達する時間にあったのだろう》Eと指摘していた。「迷羊」はいくつもの「夢」を、そして「夢」の中だけを彷徨わねばならない。しかし作者の関心や認識はともかく、三四郎には、美禰子にはあったかも知れぬ、虚妄と彷徨を「必然」とする自己認識はない。
 たしかに三四郎は「夢」の中でしか生きられない人間なのであり、たとえかりに彼が「夢」から覚めたと思ったとしても、それもまた一つの「夢」でしかないような世界に生きねばならぬ人物である。「夢」から覚めるというそのこと自体が不可能な「夢」に他ならないのだとしても、では「夢」の中で覚めているということはできはしまいか。おそらく美禰子の二つに分裂した行為には、そうした試みが含まれていたはずである。そして美禰子のそんな欲望に無縁な三四郎は最後まで「夢」に対する認識を持ち得ず、「夢」の中に眠り続ける青年なのである。
 「池の女」として記憶した女が「森の女」として眼の前に残されたことにどうしても違和を感じる三四郎は、「池の女」を殺したのが他でもない自分自身であり、そうすることによって「池の女」という「夢」を(変わらないという意味で)完全なものとして自分のうちに取り込んだのだという自覚を持たないまま、しかし「池の女」というただ一つの「夢」を見続けたい、変わらない「夢」の中で眠り続けていたいという本心だけは「正直」に洩らしている「露悪家」なのである。

〔「章立て」に戻る〕  


  四 装置と自然

 里見美禰子は早くに両親と長兄を亡くし、残った兄恭助との二人きりの生活の中で、その兄から「放任」(八)されて育っている。「田舎」あるいは「旧式」の女性に比べて、美禰子は「自由」な境遇にあるのだが、この「自由」は、血のつながった親を亡くし、残された「肉親」とはある距離を持って生きねばならないという代償の上に成立しているF。野々宮よし子が兄宗八に甘えるようには美禰子は兄に甘えることができない。同じような境遇に見えてよし子と美禰子には決定的な違いがある。
 三四郎は「何で来たか」「実は分らない」まま、野々宮を訪ね、よし子に会っている。よし子の兄に対する「大いに尤もな様な、又何処か抜けてゐる様な」意見を聞いて、しかし三四郎は「よし子に対する敬愛の念を抱いて」帰るのである(五)。三四郎は「これしきの女」と思うと同時に「東京の女学生は決して馬鹿に出来ない」とも思う。だが三四郎が馬鹿にできないのは、よし子の「尤もな」ところではなく、「抜けてゐる」ところなのである。それは、たとえば美禰子にはないものだからである。

ヴォラプチユアス!池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。甘いものに堪へ得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。甘いと云はんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違う。見られるものゝ方が是非媚たくなる程に残酷な眼付である。(四)

 これを広田式にいえば、三四郎という「装置」(九)は、美禰子の「自然」を「ヴォラプチユアス」「艶なるあるもの」「残酷」としか「翻訳」できない。つまり三四郎は、この範囲でしか「人格上の感化」を受けず、この範囲でしか彼女の「自然」を理解できないということになる。そしてそれが彼の「池の女」という「夢」=〈枠〉なのである。

 女は腰を曲めた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚いたと云ふよりも、寧ろ礼の仕方の巧なのに驚いた。腰から上が、風に乗る紙の様にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄来て苦もなく確然と留つた。無論習つて覚えたものではない。(三)

 たとえば美禰子の「礼」に対して、三四郎は応対する術を持たない。三四郎だけではない。この「習つて覚えたものではない」もの、すなわち美禰子の「自然」に対応し得るものは、自然現象としての自然を除いてほかにないのである。
 『三四郎』の男たちは、美禰子の「自然」を受け止める存在としてはあまりに「人工的」(四)であり、観念的である。野々宮は「女には詩人が多い」(五)といい、与次郎は「イブセンの人物に似てゐるのは里見の御嬢さん許りぢやない。今の一般の女性はみんな似ている」(六)という。原口は「これからの女はみんな左うなる」(七)といい、語り手までが「三四郎は近頃女に囚れた」(同)というのである。
 むろん「余処から見る」ことと一般化してしまうこととは同じことではない。しかし、人間はそもそも〈人間の自然〉を観察する「装置」としては不適格なのである。これはおそらく作者の動かせない認識である。広田の話に明らかなように、人間は「光線」とは違って「ある状況の下に」「どんな所作をしても自然」(九)だからである。ともあれ三四郎という「装置」とその背景としての男たちの存在は、美禰子という存在がますます謎に包まれていくことにだけは貢献することになる。
 女が轢死した夜、三四郎は女の「『あゝあゝ、もう少しの間だ』/と云ふ声」を「真実の独白」として聞いたはずである(三)。美禰子の「美しい享楽の底に、一種の苦悶がある」(十)ことを見逃さない三四郎は、しかし彼女の洩らす「迷へる子」という言葉については「凡てに捨てられた人の、凡てから返事を予期しない、真実の独白」(同)とは聞かない。それがあの轢死した若い女の声が発せられたところと同じ〈場所〉からのものかも知れぬという疑いすら持てないでいる。そこは彼が「夜」を求めて立っているその〈場所〉ではなかったか。このことに気づかないかぎり三四郎の自己発見も自己確認もあり得ない。
 「一歩傍へ退く事は夢にも案じ得ない」(十)三四郎は、最初から不可能な仕事を請け負っている「装置」としてのその役割に堪えきれないかのように、素手で光線の圧力を測ろうとする科学者を演じようとする。美禰子の不幸は、彼女の「自然」の解読とその共有を他の人間に期待できないことにある。その意味で美禰子に他者は存在しない。彼女は空を見上げ、雲を眺めるほかにない。三四郎の「浪漫的」純真さは美禰子の「自然」をたしかに動かしはする。が、その「自然」の「苦悶」を救う力は、若さというような曖昧なものにはないのである。

〔「章立て」に戻る〕  


  五 結婚と肖像画

 美禰子について、三四郎は与次郎に質している。「周囲に調和して行けるから、落ち付いてゐられるので、何処かに不足があるから、底の方が乱暴だと云ふ意味ぢやないのか」(六)。彼女の欲望を叶えてくれる対象は、「現実世界」の側には存在しない。それは「現実世界」こそが一つの「夢」にすぎないからというよりは、美禰子の欲望が「自己」という彼女自身によって構築されるべき「夢」の問題にかかわるからである。
 「三四郎は詩の本を」「美禰子は大きな画帖を」開く(四)。広田式にいえば、「詩」とは〈移りゆくもの〉であり、「画」とは〈変わらないもの〉である。男たちは、では自ら「詩」たり得ているか。「もつと美しい方へ方へ」(十一)。しかし自らを変えることなくそこへと移動し得るという思い込みが錯覚でしかないのは広田の夢(十一)と彼の「囚はれ」に対する自覚を見れば十分であろう。したがって広田は、自らの変化を覚悟の上で「囚はれちや駄目だ」というのである。移動と変化のすすめ。しかしこの警告の主旨を理解し、それを徹底的に実践してみせるのは美禰子だけなのである。
 雲を眺める美禰子は、三四郎に「駝鳥の襟巻に似てゐるでせう」(四)「大理石の様に見えるでせう」(五)と聞いている。彼女は三四郎の前で「自然」を決して「人格上の言葉に翻訳」しようとはしない。美禰子は「詩」ではなく「画」を選ぶ。「画」は画工の原口がいうように「心を描くんぢやない。心が外へ見世を出してゐる所を描く」(十)ものだからである。たとえば「眼」は「心を写す積で」描かれるのではなく「たゞ眼として」描かれねばならない。「人格上の言葉」という〈枠〉におさまりきらない「自然」を抱えている美禰子はそれを「乱暴」(六)などという貧しい言葉に「翻訳」して欲しくはないのである。

 「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬ許りだ」是は男の声である。
 「死んでも、其方が可いと思ひます」是は女の答である。
 「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈の価値は充分ある」 
 「残酷な事を仰しやる」
 (中略)
 「(略)高く飛ばうと云ふには、飛べる丈の装置を考へた上でなければ出来ないに極つてゐる。頭の方が先に要るに違ないぢやありませんか」
 「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかも知れません」
 「我慢しなければ死ぬ許ですもの」
 「さうすると安全で地面の上に立つてゐるのが一番好い事になりますね。何だか詰らない様だ」
 野々宮さんは返事を已めて、広田先生の方を向いたが、
 「女には詩人が多いですね」と笑ひながら云つた。すると広田先生が、
 「男子の弊は却つて純粋の詩人になり切れない所にあるだらう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙つた。(五)

 「空中飛行器」の議論ではっきりしているのは、野々宮が美禰子の煩悶に匹敵する存在ではないということだ。野々宮が「燈台」(四)にたとえられているのは、彼が外国で知られていながら日本では誰も知らないからではない。野々宮が自分の立っている〈場所〉を動こうとしない存在だからである。彼女が何を求めているのか、それさえも知ろうとはしない。
 運動会を抜けて池を見おろす「高い崖」に立つ場面(六)で、よし子に「『まだ此処を御存じないの』」「『飛び込んで御覧なさい』」という美禰子は、よし子を自分のいまいる〈場所〉に立たせようとし、よし子がいまいる〈場所〉を彼女に換わって占めようとするかのようである。「『でも余まり水が汚ないわね』」と答えるよし子は水平に「外れ」る人である。「真直に」進む人美禰子はまさしく垂直に「飛ばう」としているのだ。変わろうとし、変われると信じたいのである。変わりたくない、変われない男たちはそれを理解しない。
 「露悪家」として生きざるを得ない時代とは、「浪漫的自然派」(九)を余儀なくされる時代のことであり、そうした制約の内側で「正直」であろうとすること、真に変わろうとすること、そうした欲望に忠実に「真直」進めば、必ず里見美禰子的問題にぶつかる。〈変わらないもの〉としてある「画」はそのとき、欲望の可能性としてと同時に、不可能性として現れる。不徹底な「露悪家」、中途半端な「詩」であるしかない男たちにはそれが謎である。変われない美禰子は変わらないものの中に変わりたいという欲望を閉じ込めようとする。
 玉井敬之は美禰子の結婚について、《この結婚は不自然で》《この「宿命の女」には、夫を破壊しなければならないような、何か恐ろしいものを秘めているような気がしてならない》Gといっている。しかし「恐ろしいもの」がかりに生き延びたとすれば、それは美禰子の結婚生活にではなく、彼女が残した「画」の中にではなかったか。
 美禰子の自己実現の欲望が、野々宮という他者によって無視され見殺しにされるかたちで相対化されたとき、彼女は「迷へる子」を自覚する。しかし殺されず生き延びて持て余された欲望は、三四郎というもう一人の「迷羊」を発見し、彼を自分の仲間にしようとする。そして外に向かおうとする自らの欲望がどの方向にも閉ざされてあるのに気づいた美禰子は、その自己を「結婚」への決意と「画」を残すこととの二つに振り分ける。このことは「自己本位」(七)というものが結果として余儀なくされる二つのみちすじを示している。一つは「自己」を押え込むかたちで殺す方向であり、一つは「自己」を〈表現〉するかたちで生かす方向である。「自己本位」が社会や他者といった外に対しての通路を持てないでいるときには、とりあえずこの二つの方向にしか道はないのである。
 そこで作者とその創作との関係といった問題とも関連させて、「自己本位」の確立の可能性を具体的な人間関係の中においてではなく、芸術という〈表現〉の領域に見い出すことになった、とする見方に誘われやすいのであるが、しかしそれだけでは少なくとも『三四郎』における美禰子の「宿命」を説明するには不十分であろう。美禰子は自らの欲望だけではなく、その死でさえも誰とも分かち合うことができない。そしてそればかりではなく、彼女の〈表現〉は他人に媒介されたものでもあるからである。
 もう一度、美禰子の「結婚」と「画」について考えてみる。彼女の「結婚」は、それだけではなく同時に「画」が残されているために、彼女の全面的な改心、あるいは回心を示すものとして考えることはできない。そして彼女の「画」は、同時に「会堂」(十二)があるために「罪」の告白とは考えられない。否定されるはずのものは「耶蘇教」(同)が引き受けるであろう。したがって「画」には、美禰子にとって、少なくとも美禰子にだけは最後まで肯定されるはずのものが込められている。しかしそれは、「画」となった今も誰とも分かち合えないままでいる。
 美禰子の肖像は、まずはそれを描く画工に、そしてそれを観る者にと、二重に委ねられている。したがって美禰子にとって、「画」そのものではなく、「画」を残そうとしたその姿勢だけが問題となる。丹青会の会場に現れた野々宮や広田先生は「画」の「技巧の評ばかりする」(十三)。彼らは、その「画」が「鼓の音の様に間が抜けてゐて、面白い画」にはなっていないことを、それも画工の原口がすで「自白」していることを確認するだけである。与次郎は二人に「異を樹て」て、「里見さんを描いちや、誰が描いたつて、間が抜けてる様には描けませんよ」という。たしかに、美禰子は「鼓の音の様にぽんぽんする画」には描いてもらえなかった。しかしそれは、彼女自身が「鼓の音の様にぽんぽんする」人間になろうとしていたのかも知れないことを否定するものではない。
 美禰子に「迷羊」と認められた三四郎は「画」を批評しようとはしない。「科学者」や「批評家」が見落としているもの、見ようともしないものを三四郎だけは指摘しておかねばならないのではないか。

 「どうだ森の女は」
 「森の女と云ふ題が悪い」
 「ぢや、何とすれば好いんだ」
 三四郎は何とも答へなかつた。たゞ口の内で迷羊、迷羊と繰返した。(十三)

 三四郎は「自己」という「夢」には無縁であり、したがって実現すべき「自己」を得ようとして美禰子を求めたわけではない。三四郎の行動は、あくまでも「美しい女性」を「研究」する延長上にあり、その意味で彼は「低徊家」にとどまっている。ただし距離も余裕も持てない中途半端な「低徊家」は、「面」が「底」であり「底」が「面」であるような世界で、その「面」を横滑りに横断することもできず、「底」向かって「真直に」も進むこともできないのである。三四郎には成長というものがない。そしてだからこそ三四郎は、彼だけに許された権利を完全に放棄することがないのである。
 「自己」という「夢」に「囚はれ」、「肖像画」を残そうとした美禰子。「迷羊」でなくなることによってでしか「迷羊」を肯定し続けられなかった美禰子もまた「奥行」を奪われ、「真直」な成長を許されてはいない。そのことに気がつかないまま、二人の生が等しく余儀なくされた条件だけは辛うじて分かち合おうとする姿勢をとどめた「迷羊」の呟きは、三四郎にできる美禰子への精一杯の誠実な挨拶なのである。そしてそばにいる「立派な人」の画工への「鄭重な礼」でもなく、ましてや〈動かない〉安全な位置からの「技巧の評」などでもなく、この成熟を禁じられた「低徊家」の多分に「間の抜けた」それこそ三四郎的な反応だけが、自意識家を廃業した「森の女」への慰藉になるであろうことなどにも、むろん気づかない三四郎なのである。

〔「章立て」に戻る〕   


  おわりに

 「自己」という「夢」を築き上げることができずに、したがって「自己」という〈枠〉におさめきれなかったものを、一枚の「画」として額縁の中に押し込んだかに見える美禰子は、では「耶蘇教」という額縁に何をおさめようとしているのか。むしろ「自己」などという「夢」=「罪」を持たずに生きていける〈場所〉としてそこは選ばれているのだろうか。十字架というものが〈枠〉そのものではなく、〈枠〉の不在を内側から支えるものとでもいうように、そこにいる美禰子は、いまいっさいの〈枠〉から解放されてあるのだろうか。
 こうした問いに誘われながら、しかし美禰子と「耶蘇教」との結びつきには、彼女と「画」ほどの切実さは窺えない。作者は作品を壊してまで美禰子の「自己」を表現し追究しようとはしていない。ここでは、宗教は死せる「自己」に与えられた一つの〈枠〉=墓標としてはあり得ても、「自己」がその中で十全に生き得るように構築=獲得されるべき「夢」として登場しているわけではないのである。
 変わりたくない人間と変わりたい人間がそれぞれの欲望を実現させようとする、あるいは、変わってはならない人間と変わらねばならない人間がそれぞれに与えられた宿命に抗おうとする、そうした物語として『三四郎』を読むならば、『三四郎』は、変われない人間という共通の根を持つ両存在者たちが、変われないという同じ無益な実を結ぶだけに終わる物語となる。
 『三四郎』に成長や成熟はない。三四郎は「美しい女性」=「池の女」という「夢」に「囚はれ」たまま、「低徊」することも「真直に」進むことも許されず、美禰子は「自己」という「夢」に付こうとしてただ「ァ徊」し、「自己」という「夢」から離れようとしてただ推移するばかりである。しかし同じ世界において、「自己を放下し去」(三)ることを許す瞬間が、あるいは一枚の「肖像画」という「心」を置き去りにした「奥行」のない表面が、当人の意志とは無関係に訪れ、現出していることもまた事実なのである。むろんそれは、ただ向こう側からのみやってくる僥倖を待つ以外にない、ということを意味しているわけではない。そのことは、「夢」に「囚はれ」てはいけないということ、とりわけ「自己」という「夢」が、こちら側から求めては決してたどりつけないのは、成長や成熟という「夢」に「囚はれ」ているからではないか、そういうことを示唆しているように思われるのである。

〔「章立て」に戻る〕


 註

@ 浅野洋「三四郎の眠りと父の消息」(「立教大学日本文学」六十、一九八七・七)

A 助川徳是「『三四郎』の時間」(重松泰雄編『原景と写像 近代日本文学論攷』、一九八六・一)を参考にした。

B 村田好哉「『三四郎』の世界−「森の女」美禰子を巡って−」(「日本文芸 研究」三七・二、一九八五・七)に、三四郎が美禰子から金を受け取ることに よって、「例えば母なるものとの関係において自己を支えていたその世界に無条件には帰れない存在へと変容を余儀なくされる」の指摘がある。

C 前掲@に同じ。ここで浅野氏は、三四郎は美禰子の背後に「危うい〈母〉」を見ており、彼の深層に眠っている〈不義の子〉疑惑を直視すまいとする無意識的な防御反応こそが三四郎の〈眠り〉である、と指摘している。

D 重松泰雄「『夏目漱石全集』V 三四郎注釈 補注一二六」(『日本近代文学大系』二六、角川書店、一九七二・二)

E 越智治雄「『三四郎』の青春」(『漱石私論』、角川書店、一九七一・六)

F 『彼岸過迄』の須永市蔵が、こうした点で里見美禰子を引き継いでいる。

G 玉井敬之「三四郎の感受性−『三四郎』論−」(『講座夏目漱石第三巻漱石の作品下』、有斐閣、一九八一・一一)   


論文リストに戻るRecent Major Publications