漱石とコンピュータ あるいは 電子情報とのつきあい方  武田充啓


 むろん漱石の時代にコンピュータなどなかった。当時でいえば、万年筆がそれにあたるかも知れない。「余と万年筆」(1912年)と題する文章の中で漱石は、ふつうのペンの値段の数百倍もする万年筆が飛ぶように売れることに驚きながらも、万年筆が時代の必需品となったことを認めている。そして「余の如く機械的の便利には夫程重きを置く必要のない原稿を書いてゐるもの」、「万年筆に多少手古擦つてゐるものですら」、いったん使いはじめた万年筆をやめることの不便には耐え難い、というのである。

余は、各種の万年筆の比較研究やら、一々の利害得失やらに就て一言の意見を述べる事の出来ないのを大いに時勢後れの如くに恥ぢた。酒呑が酒を解する如く、筆を執る人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなからうと思ふ。(前掲文)

 私たちはコンピュータ(あるいは電子化された情報)を「解しなければ済まない」時代に生きている。しかしインターネットの時代だからといって、紙の本がなくなってしまうというわけではない。今のところでいえば、コンピュータはむしろ本を真似ようとしているかにさえ見える。しかし電子化された情報とのつきあい方は、これまでのような紙に書かれ印刷された文字や絵とのつきあい方とはまったく異なったものになるだろう。情報の電子化は、本をなくすのではなく、私たちの「読み書き」の仕方を確実に変えていくのである。

 たとえば、本を「最初から最後まで読む」という読み方から、「検索機能を使った拾い読み」へ(「ブラウザ」は browse=ざっと目を通す、から来ている)。映像の「意味を解読する」(つまりは映像を文字と同じようなものとして扱う)ことから、映像を引用し、加工し、変形すること、すなわち編集しつつ「映像そのものと戯れる」方向へ(音楽を音として楽しむとき、ふつう私たちはそうしている)。そこでは「読み込む」ことよりは「参照する」ことの方に重点が置かれる。ある箇所から別の箇所へのジャンプ。そのことだけならば、これまでの読み巧者にだって可能である。しかしそこで重要なのは、言葉の帰属先や移動のプロセスを問うことではなく、その驚異的な速度と、圧倒的な量とによってもたらされる出会いのうちに浮かび上がってくる「関係」そのものを生きることなのである。現時点で実現されつつあるものでわかりやすくいうとすれば、それは「閉じて完結している」テクストから「未完だが他へとリンクできる」ウェブへという方向である。

無精な余は印気がなくなると、勝手次第に机の上にある何んな印気でも構はずにペリカンの腹の中へ注ぎ込んだ。又ブリユー・ブラツクの性来嫌な余は、わざわざセピア色の墨を買つて来て、遠慮なくペリカンの口を割つて呑ました。其上無経験な余は如何にペリカンを取り扱ふべきかを解しなかつた。(同上)

 ここには無謀な「リンク」を試みる漱石がいる。しかし私は万年筆というメディア(あるいは「情報」)とこのようにつきあう漱石を好ましく思うのである。


本校「図書館だより Library News」 No.45(98年7月発行)に寄せた文章です。
字数の制約により印刷原稿ではやむをえず割愛することになった参考文献や参照ページを以下にあげておきます。


○参考文献(以下の文献については「人文科学のブックガイド」のページを参照のこと)
『情報の歴史』(編集工学研究所,NHK出版)
『メディア論』(M・マクルーハン,みすず書房) 
『声の文化と文字の文化』(W.J.オング,藤原書店)
『文字の歴史』(ジョルジュ・ジャン,創元社)
『思考のエンジン』(奥出直人,青土社)
『ライティング スペース』(J・D・ボルダー,産業図書)
『本とコンピューター』(津野海太郎,晶文社)
『本はどのように消えてゆくのか』(津野海太郎)〔この作品は「青空文庫」からダウンロードして読めます。〕
「あたらしい読書をめぐる27の断章」(粉川哲夫、『季刊 本とコンピュータ 1』97年夏号所収,トランスアート)

漱石関連の Web page へ

○「書評」の Web page
「書評ホームページ」(松本功氏主宰)

○「電子雑誌」の試み
「アナーキー」(粉川哲夫氏)
「BIENVENIDOS」(山崎カヲル氏)
「リング・リンク・リップ」(鈴木志郎康氏)

○文字コード問題に関する Web page
「ほら貝」(加藤弘一氏主宰)
「小林龍生ホームページ」(小林龍生氏)
「座談会 国境を越える日本語の条件」(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター)


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