「自己本位」と「則天去私」 ―漱石における自己への態度―(一)

'Jikohoni' and 'Sokutenkyoshi': Attitudes towards the self in NATSUME Soseki's life and works(T)

                       武 田 充 啓



  はじめに


 「自己本位」と「則天去私」は、いずれも夏目漱石にまつわる言葉としては、かなり有名なものです。漱石の生活やその作品のうちに窺うことのできる思想のうちでも、とりわけ大きな二つの核になる思想といってよいものだと思われます。ではこの「自己本位」、あるいは「則天去私」とは、それぞれどのようなことを意味するのでしょうか。

 最初に「自己本位」ですが、漱石は『私の個人主義』*1で「自己本位」をたいへん肯定的に述べます。あとでくわしく見るように、そこにいたるまでの過程がたいへん重要なのですが、「自己本位」の一般的な意味としては、判断や行動の基準を自己に置く。他人に動かされず、自ら動く。自分の考えに自信をもち、自己を手放さない、くらいのところでしょうか。「自己中心主義」といっても違いはないのかもしれません。漱石のいう「自己本位」も、ほぼ同じ意味と考えてよいでしょう。ただし漱石自身、他人にも自己があり、他人は他人でまたその自己を本位にしてよい、と認めることになるのですが、彼の「自己本位」は自身の「自己」だけでなく、他者の「自己」もまた尊重する思想へと時間をかけて鍛えあげられたものであるということは、確認しておきたいと思います。

 もう一つの「則天去私」は、最晩年における漱石の心境あるいは覚悟のようなものとして伝えられてきた言葉です。小論では、晩年に限らない漱石の理想とする境地あるいは態度・姿勢・方法としてとらえ、「去私」を中心に扱うことにします。「天」を詳しく吟味するということは、それだけでも大仕事で、ここでは扱いきれませんし、また、そのように「天」を明確化する以前の考察としては、「則天去私」を、たとえば「悟り」という語が示すような、宗教的な悟達の境位、あるいはすべてを見通してしまう明澄で透徹した認識を可能にする超越的な境位といったものから、とりあえずは遠ざけておきたい、という思いもあるからです。そこで「(則天)去私」の意味ですが、これは「自己本位」とは逆に、自分を(「天」のような大きなものに比べて)小さいものと考え、「私が」「俺が」という自覚心の強い自己を、あるいは利に聡く探偵的になりがちな自己を、離れること。自分の感情や欲望などにこだわらず、そこからいったん距離を置いて、そして自分を含めた世界をより冷静に客観的に眺める、くらいの意味でしょうか。この姿勢もまた、たんなる精神衛生上の態度といったものから、「自己」の認識を深める方法としてのそれへと進化していくことになります。

 自分を大切にするということと、自分を捨て去るということ。この二つの考えは、一見するとちょうど正反対の方向に向かっているように見えます。たとえば、自己を中心に考えるべきというのは、西洋的な価値観のようだし、他方、自分というものから離れてみようというのは、東洋的な智恵のようだ、というふうにです。しかし、二つともまちがいなく漱石が大事にしていた考えです。

 さて、ではどういうかたちで漱石は、この一見相反するように見える二つの考えを、自らのうちに共存させることができるようになったのでしょうか。小論は、作家以前の頃からその最晩年に至るまでに漱石によって書かれたもの(小説作品以外のものも含めた)全般を対象としつつ、この問題をめぐって考察するものになります。



  一 欲学葛藤文字技(出発点としての漢文学)


 「元来僕は漢学が好で随分興味を有つて漢籍は沢山読んだものである」(談話『落第―「名士の中学時代」』「中学文芸」明治三十九年六月)。かつて二松学舎に学んだ漱石の教養の基礎には漢学があります。むろん漢文を読むというだけでなく、すでに二十三歳の頃には、正岡子規の『七艸集』と互いにとり交わし批評しあった『木屑録』(明治二十二年)のような漢詩文集をものするだけの力がありました。英国に留学する以前から、漱石の表現手段の一つに漢詩があったのです。

 松岡謙は、漱石が「英語に転向」したのち「潔く漢詩文を捨てたと自分で書いている」にもかかわらず、「その実、捨て切れず、詩友を得ると忽ち詩の贈答をおっ始める」と述べて、次のように続けています。「つまり漢詩は生涯彼の『三つ児の魂』であったので、専門の詩人たる事はその時限りあきらめたが、何かに触発されると、この魂が忽然として目覚め、活発に働き出した。殊に歿年の『明暗』時代に放たれた数ヵ月にわたるまばゆいばかりの光芒のすさまじさ、すばらしさ」*2。漱石の漢詩といえば、松岡氏も指摘するように、やはり『明暗』執筆時期のものがよく取りあげられます。それからいわゆる修善寺の大患以後に書かれたものに詩境のいちだんの深まりを見て評価する向きも多いのですが、ここでは留学前の時期に作られた漢詩に注目したいと思います。

 後に初期の小説において自ら引用することになる、たとえば『草枕』(明治三十九年)(十二)に主人公の画工の作として載せられている「三十我欲老/韶光猶依依/逍遥随物化/悠然対芬菲(三十 我(われ)老いんと欲し/韶光(しょうこう) 猶(な)お依依(いい)たり/逍遥(しょうよう)して 物化(ぶっか)に随(いたが)い/悠然(ゆうぜん)として 芬菲(ふんぴ)に対す)」と結ばれる五言古詩「春興」(明治三十一年)*3、あるいは『虞美人草』(明治四十年)(十二)に、甲野さんの日記に「一聯が律にも絶句にもならず」に残されていると、その一部が紹介されている「鳥入雲無迹/魚行水自流人間固無事/白雲自悠悠(鳥入りて 雲迹(あと)無く/魚(うお)行きて 水自(おのずか)ら流る/人間(じんかん) 固(もと)より無事(ぶじ)/白雲 自(おのずか)ら悠悠)」と結ばれる五言古詩〔無題〕(明治三十二年)*4のように、老荘の影響を大きく受けた陶淵明ばりの、出世間的な境地を詠った詩が、この頃の作にもあります。

 松岡氏が、『草枕』に引かれたシェレー(シェリー)の詩を参看することを促しながら「漢詩には珍しい大胆な表現」「全詩中、最も異色ある吟詠」*5と評した五言古詩「菜花黄(さいかこう)」(明治三十一年三月)*6を見てみましょう。

  菜花黄朝暾  菜花 朝暾(ちょうとん)に黄に
  菜花黄夕陽  菜花 夕陽(せきよう)に黄なり
  菜花黄裏人  菜花 黄裏(こうり)の人
  晨昏喜欲狂  晨昏(しんこん) 喜びて狂わんと欲す
  曠懐随雲雀  曠懐(こうかい) 雲雀に随い
  沖融入彼蒼  沖融(ちゅうゆう) 彼の蒼に入る
  縹近天都  縹渺(ひょうびょう)として 天都に近く
  迢逓凌塵郷  迢逓(ちょうてい)として 塵郷(じんきょう)を凌(しの)ぐ
  斯心不可道  斯(こ)の心 道(い)う可からず
  厥楽自洋  厥(そ)の楽しみ 自(おのずか)ら黄洋(こうよう)たり
  恨未化為鳥  恨(うら)むらくは 未(いま)だ化して鳥と為(な)り
  啼尽菜花黄  菜花の黄を啼(な)き尽(つ)くさざるを

 「晨昏」の句に「狂」の字が見えますが、それがそのまま「迢逓」の句の「凌」の勢いにつながっているように思えます。喜びに気が狂いそうなほど菜の花の黄色一色に染まった世界で、ひろびろとした気持ちがひばりに連れしたがって、おだやかな気分が天にまで昇っていきます。それでもまだこの喜びは歌い切れていない、と作者はこぼします。しかし詩人はこのとき、間違いなく俗世間からはるか高くに抜けだし、それを遠くに眺める境地にいます。もう少し正確にいえば、そうした境地にいる人間を詩のうちに仮構し、それに同一化している、ということになるでしょうか。

 明治三十一年といえば、漱石が九州は熊本の第五高等学校で教鞭を執っていた時代にあたります。東京師範学校を辞して赴いた松山中学でしたが、わずか一年で見切りをつけて、さらに西へと移動を重ねていたのでした。この頃までにすでに、義父中根重一に教職以外の働き口の周旋を頼んでみたり、現状への不満が募っていて、子規宛ての書簡(明治三十年)*7にも、教師を辞めて文学的な生活を送りたいと洩らしたりしています。やはり本当に親しい友に対しては素直になれるのでしょうか、この頃の漢詩の中でも、子規宛てのものには、漱石の正直な気持ちがまっすぐに現れているように思います。

 たとえば、五言律詩〔無題〕(明治三十年十二月)*8の後半、頸聯と尾聯には「秋風吹落日/大野絶行人/索寞乾坤/蒼冥哀雁頻(秋風 落日を吹き/大野(だいや) 行人(こうじん)を絶(た)つ/索寞(さくばく)として 乾坤(けんこん)黒(くろ)く/蒼冥(そうめい) 哀雁(あいがん)頻(しきり)なり)」とあり、秋風に夕暮れて、行きかう旅人の人影も消えた黒く広大な天地に、雁がかなしげに鳴く情景が歌われているのですが、一海知義が引いている吉川幸次郎による「哀雁」の訳注に「雁はつれだって飛ぶのを原則とし、むれを離れて飛ぶ『哀雁』は、友に別れた人への連想をもつ」とあるように、また一海氏自身の訳注に「雁は群れをなすが、『哀雁』は友と別れて一羽飛ぶ雁。自らの境遇を象徴する」とあるとおり、たとえ望んで田舎に逃れてきたにせよ、理想の境地とはまた別に、漱石が寂寞とした現実を孤独に生きざるを得なかったことも事実そうだったに違いありません。そしてそうした孤絶の感覚は、向けどころを見つけられないままに滾るばかりの情熱をその胸に秘めていればこそ、いや増しに増したものと思われます。

 「吾心若有苦/吾(わ)が心 苦しみ有るが若(ごと)し」と始まる五言古詩〔失題〕(明治三十一年三月)*9は、全部で十六句からなる詩で、第八句「意気軽功名(意気 功名(こうみょう)を軽(かろ)んず)」、あるいは第十二句「孤剣匣底鳴(孤剣(こけん) 匣底(こうてい)に鳴(な)くを)」といった言葉からも窺えるのですが、その結びの四句には「慨然振衣起/登楼望前程/前程望不見/漠漠愁雲横(慨然(がいぜん)として 衣(ころも)を振(ふる)って起(た)ち/楼(ろう)に登りて 前程(ぜんてい)を望む/前程 望めども見えず/漠漠(ばくばく)として 愁雲(しゅううん)横(よこ)たわる)」とあり、そこで描かれている、心を高ぶらせ意を決して立ち上がる、しかし前途は高殿に登って望んでも見えはしない、そういう姿からもまた、作者の、何ものに向けたものかは判然としないながらも、尋常ではない強度をもったその意気込みと、それだけにまた一層深くならざるを得ない憂いとが同時に、ひしひしと伝わってきます。

 しかし漱石がどのような思いで英国に留学したかについては、次の七言律詩〔無題〕(明治三十三年)*10に明らかでしょう。
 
生死因縁無了期  生死因縁(しょうじいんねん) 了期(りょうき)無く
色相世界現狂痴  色相(しきそう)世界 狂痴(きょうち)を現(げん)ず
屯亶僂校塵中滞  屯亶(ちゅうてん) 校(かせ)を僂(つ)けて 塵中(じんちゅう)に滞(とどま)り
迢逓正冠天外之  迢逓(ちょうてい) 冠(かんむり)を正(ただ)して 天外(てんがい)に之(ゆ)く
得失忘懐当是仏  得失(とくしつ)に懐(おも)いを忘るるは 当(まさ)に是(こ)れ仏(ほとけ)なるべく
江山満目悉吾師  江山の目に満(み)つる 悉(ことごと)く吾(わ)が師
前程浩蕩八千里  前程(ぜんてい) 浩蕩(こうとう) 八千里
欲学葛藤文字技  学ばんと欲す 葛藤(かっとう)文字の技(わざ)

 吉川氏の訳注によれば、第三句と第四句は「しかし」でつながります。すなわち、ぐずついて行きなやみ「靴にかせをはめられたように『塵の中に滞る』のがこれまでのおのれであった。しかし今度はおのれも海外に留学する」*11のだと。それでも、いま冠を正して、はるか天外の地ロンドンで学ぼうとしているのが「葛藤文字」、すなわち人事を描いて滅多にその人事から離れることのないあの英文学の「技」なのですから、天外とまで呼ばれた彼の地もまた一つの「塵中」にほかならない、ということにもなるでしょうか。

 吉川氏は、同じ詩の「正冠」の訳注で、孔子の弟子、子路が死にあたって「冠のひもをむすび直し」た故事にふれ「この故事が先生の意識にあったとすれば、先生の留学は、命がけであった」と記しています。漱石に雄飛の気概があったことに疑いはありません。彼なりの「功名」の念もあったことでしょう。しかしこの句のなかでのように消極的な意味で「塵中に滞(とどま)」るのではなく、自覚的に世俗にまみれる決意でいたことがわかります。そこに漱石の「自己」が垣間見える気がします。

 しかし、こうして見てきますと、漱石の漢詩の世界には「自己本位」どころか、まずは「自己」というものが描かれきっていない、という印象を受けます。たとえば、五言古詩「春日静坐」(明治三十一年三月)*12の結びの四句「会得一日静/正知百年忙/遐懐寄何処/緬白雲郷(会(たま)たま一日の静(せい)を得て/正に知る 百年の忙(ぼう)/遐懐(かかい) 何(いず)れの処にか寄せん/緬貌(めんぼく)たり 白雲の郷(きょう))」にある「遐懐」の句(はるかなる思いを何れの処に寄せようか)に強い情念とでもいうべきものがあることは瞭然としています。しかしそれをもつ主体がさてどのような人間であるか、その輪郭が不明瞭なのです。あるいは、先に挙げた五言古詩「無題」には「江山満目悉吾師」のように「吾」が出てきます。しかし「吾」その人のいわば「顔」が、くっきりとは浮かびあがってこないのです。

 感慨はあります。気概も見えます。しかし漱石の漢詩の(あるいは手紙の)直接の受け取り手でもない、間接的な「読者」にすぎないものとしては、そこに個性をもったひとりの人間を見ることは難しいのです。それはこの時期の漱石の漢詩が、俳句同様、贈答しあうものとしての、コミュニケーションの手段という性格が強いものだからなのか、それともそもそも漢詩という形式そのものが、「自己」といったものの表現には適合しないもの(むしろ「自己」から距離をとることによって可能になる表現)だからなのでしょうか。いずれにせよ、そこに「自己」がないならば、「自己本位」などありえない、そういうことになります。

 では、「(則天)去私」的な態度あるいは境地についてはどうでしょうか。もちろん、この時期の漱石の漢詩にも、そのような姿勢が窺えます(詩に人物の「顔」がみえにくいのも、「去私」の効果としてそうであるのかもしれません)、しかしそれは自在にとれる姿勢や自由に出入できる境地といったものでは、けっしてなかったようですし、「自己」についての認識を深めるための「去私」的方法といったものにも、まだまだなっていなかったように思われます。

 俗世の塵芥にまみれて、その憂愁が深まれば深まるほど、憧憬し希求してしまう避難所のようなものとして、どうやら「去私」の世界はあったようなのですが、それは実際には「私」を去ることができない、「自己」を棄てられないということの裏返しでもあるでしょう。そうした「自己」をうまく盛る器は、まだ見つけられてはいません。しかし「去私」への憧れと同時に、また漱石には当時から「塵中に滞(とどま)」ろうとする覚悟もしっかりとあったということは、あらためて確認しておきたいと思います。それがあったからこそ、彼の「自己」は、それを「本位」とすることができるような、より明確な「自己」へと鍛えあげられることになっただろうからです。



  二 何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念(英国留学)


 漱石の英国留学(明治三十三年九月〜同三十六年一月、西暦一九○○年〜一九○三年)の成果の一つとして、その『文学論』があります。二年余りの英国留学から帰ってまもなく、漱石は学年途中の四月に帝大講師となり、のちに『英文学形式論』にまとめられる講義を三ヶ月行います。その後、新学年から本格的に行った最初の講義が、やがて『文学論』として書物になります。明治三十六年九月から明治三十八年六月まで、「英文学概説」と題して帝国大学文科大学英文学科で行った日本人による最初の英文学講義がそれで、「文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。」という有名な一文で始まります。明治四十年五月に出版された『文学論』には「序」があり、それは前年の明治三十九年十一月に書かれています。

 「序」で漱石は、何故このようなものを書くことになったのか、その経緯を説明しています。大意を取ると、『文学論』は、実際には十年計画の書であるが、二年に縮めた未成品・未完品である。しかし多忙極まりない自分の身辺の状況が一変しない限り、今後も完成の見込みはない。それで版行することにした。後生の向上に路を示すことができていればよしとしたい、くらいになるでしょうか。じつはここにも、東洋的なものと西洋的なものとのぶつかり合いがあります。有名なところですが、読んでおきましょう。
 
翻つて思ふに余は漢籍において左程(さほど)根底ある学力あるにあらず、しかも余は充分之を味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄岐(わ)かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂(いわゆる)文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。

 漢文学と英文学とは、同じ「文学」という名が付いているけれども、それらは異種類のものである、そう考えるほかにない。それほど漱石はその違いに困惑しました。そうして「文学」というものの正体を自らの手でつかもうと決意します。そこで漱石が試みたのは文学書を捨てることでした。
 
余が此時始めて、こゝに気が付きたるは恥辱ながら事実なり。余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。……/余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。

 文学を知るために文学を離れる。この方法は、自己を知るためにむしろその自己を離れる、という「去私」の姿勢に通じます。しかし漱石が文学を知ろうとして文学を離れねばならなかったのは、あるいはまた「大学の聴講は三四ヶ月にして已め」「下宿に立て籠」らなければならなかったのは、彼自身の「知識」や「学力」の偏向や不足のせいではなく、時代の制約のためでもありました。

 英文学者の亀井俊介によると、設立当初の英文科の事情は次のようなものでした。明治二十(一八八七)年に帝国大学文科大学に英文科ができます。第一回入学生は一人もいませんでした。翌明治二十一年に一名、立花政樹*13が入学。この年は文科大学全体で入学者が八名でした。明治二十二年も入学生がなく、明治二十三(一八九○)年に一名、これが漱石(第二回生にあたる)で、当時の英文科は文学を教えるのではなく、語学教師の養成を中心とする方針であったようです*14。

 同じく英文学者の大橋洋一によると、英国における英文学周辺の事情は次のようなものでした。当時ケンブリッジ大学やオクスフォード大学には「英文学(史)」の講義はありませんでした。一九○四年、ウォルター・ローリーがオクスフォード大学の英文学教授に就任します。それ以前にも英文学教授の席はあったのですが、なり手がなく、ローリーが最初の人でした。彼はインドの大学で英文学の教授をしていました。英国で英文学科とか英文学教授の職ができる前に、植民地であるインドの大学で英文学科や教授職ができていたのです。

 自分の国の人間に自国の文化や文学をわざわざ教える必要はありません。しかし外国の人間には教える必要があります。植民地となればなおさらです。そして英語を教えるだけでなくイギリスの文化を教えようとすると英文学という科目が必要になりますし、あるとたいへん便利です。英国本土ではそういう必要性はとくに認められなかったのですが、植民地では事情がちがいました。

 つまり英文学は植民地で生まれたのです。インドの他、カナダやスコットランドでも十九世紀にはすでに誕生していました。それ以前は、イギリスの大学で研究に値するのは、ギリシアやローマの古典文学であり、自国の文学などは娯楽や教養として好き勝手に読んでおけばよかったのです。ところが植民地で英文学が教えられるようになり、それが逆輸入される形で、本国でも英文学を研究するようになったのです。

 大橋氏は続けて概ね次のように述べています。文学教育はおもに宗主国の文化や伝統がいかにすばらしいかを教える目的を持っていました。たとえば、植民地の読者の教養を高め文明化することで、教養ある労働者なり兵士なりがつくられます。彼らは教養があるので、やみくもにお上に逆らったりせず、説得すれば体制側に懐柔できました。植民地における民族意識の高揚に対して、イギリス本国がいかにすばらしいところであるかを知らしめ、肝に銘じさせるために本国の文学が教えられたのです。

 しかし自国内にも「原住民」たちがいました。それは労働者と女性たちです。彼らは素直に言うことをきかない連中でもありました。帝国主義国家の体制から見ると彼らは一種の異民族だったのです。どうやって彼らを体制側に組み込むか。十九世紀においては、もはや宗教に力はありません。そこで自国の文学をネタにして教育が庶民レベルで始まりました。大学における科目としての自国の「文学(史)」はその後から、それを追いかける形でようやく始まったのでした*15。

 長い紹介になりましたが、英文学がむしろ植民地で先に誕生し、いちばん最後に本国で始まったという事情は示唆的です。というのも、「自己本位」にしても、その「自己」というものが、そもそもどのようにしてできあがるのか、という問題があります。この「自己」もまた、ちょうど英文学の成立がそうだったように、他者との関係のなかではじめてできあがってくるものだからです。したがって、これからいくつかの漱石の作品その他を読むことになりますが、その中で「他者の他者」としての「自己」が、その関係ともども、きちんと描かれていないかぎり、そこに「本位」にすべき「自己」などありようがないということにもなります。

 さて、漱石が「報告書の不十分なる為め文部省より譴責を受け」たという明治三十四年七月二十二日付「英国留学申報書(一)」には「修業所教師学科目等」として「クレイグ氏 W.J.Craig ニ就キ近世英文学ヲ研究ス」、「入学金授業料」として「一回毎々五シリングヲ払ウ(一週二回)」とだけ書かれています。後の明治三十六年一月三日付「英国留学申報書(二)」にも「修業所教師学科目等」として「英語研究ノ外文芸ノ起原発達及其理論等ヲ研究ス 但シ自修」とだけ記されています。やっと明治三十六年一月二十六日付「英国留学始末書」において初めて、漱石は「明治三十三年十一月十日英国倫敦ユニヴハーシチ、コレヂニ入リ教師カー氏ニ従ヒ翌年迄左ノ学科ヲ研修ス/近代英文学史」と大学での、実際には二ヶ月にも満たない「修学状況」にふれるのです。

 始末書にある「教師カー氏」とは、ケア教授のこと*16で、漱石がロンドン大学で聴講したと思われる科目の時間割は手帳に表にして残されており、高宮利行および岡三郎の調査によって表中の省略記号の表す講義題目も明らかになっています。それらは、ケア教授による十四世紀後半の英文学史(シニアクラス)、十五世紀の英文学史(ハイヤーシニアクラス)、英文学史概説(ジュニアクラス)、十九世紀前半の英文学史(ジュニアクラス)、T・グレゴリー・フォスター助教授によるドイツ哲学入門(ハイヤーシニアクラス)、古英語研究入門(ジュニアクラス)などです。

 当時のロンドン大学には英文学史の講義がなかったわけではないのです。ベドフォード学寮(コレッジ)の女子学生も受講できる共通のクラスもありました。しかしこれらの講義対象を含めた科目名や受講料(ハイヤーシニアクラスでは三学期あるうちの一学期分だけでも二科目で三ポンド十三シリング余り(当時の換算率を一ポンド十円として三十七円くらい))を見ますと、留学期間を二年ばかりに限られ、月額百五十円分の給付金だけを頼りに、しかも三十代も半ばにさしかかろうとする漱石がのちに「大学の聴講は三四ヶ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり」と記さざるを得なかった事情が、それだけからでもうっすら浮かんでくるような気がします*17。

 たとえば、後に談話「テニスンに就て」*18において、漱石がコールリッジの詩を「面白く聴いた」とするケア教授の講義について「講義としては初学者に遣るやうな講義であつた」と述べているのは、十九世紀前半の英文学史(ジュニアクラス)に限ってのことなのかもしれません。いずれにせよ、漱石が大学での聴講を諦めたのは、費用(あるいは時間)対効果をいちばんに考慮しなければならなかった当時の彼の経済事情や研究事情が大きく原因してのことでしょう。聴講の意義を評価するのは彼の「自己」に違いありませんが、その「自己」はまた、彼の「事情」次第で変化するものでもあります。幸か不幸か、その結果として漱石はのちに「文芸ノ起原発達及其理論等」を研究し「文学」の根本義をとらえようとする「頗る大にして且つ新らしき」企てを起こすことになります。聴講を続けていたらまた別の結果が生まれたでしょうが、大学での修業は漱石の意気込み(あるいは焦り)に応えるには十分なものではなかったのだろうと推測されるのです。漱石はここですでに彼の「自己本位」をはじめているのかもしれません。しかしその「自己」は、それを取りまく環境が作りあげるものでもあったのです。



  三 生涯の事業(学者から創作家へ)


 『文学論』序の結びのところで漱石は、彼の書物の読者にはまずなりそうにない英国人に対して生真面目に言い訳をしています。
 
倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人口は五百万と聞く。五百万粒の油のなかに、一滴の水となつて辛うじて露命を繋げるは余が当時の状態なり……。清らかに洗ひ濯げる白シヤツに一点の墨汁を落としたる時、持ち主は定めて心よからざらん。……、英国紳士の為めに大に気の毒なる心地なり。……。個人の意志よりもより大なる意志に支配せられて、……。去れど官命なるが故に行きたる者は、自己の意志を以て行きたるにあらず。

 無垢で真っ白なものに一点のシミ、というところは、『こゝろ』(大正三年)にも似た言葉があり、書き手の倫理観を示す表現がすでに現れている点で非常に興味深いのですが*19、ここでいわれている「個人の意志よりも大なる意志」というのは、つまりは「官命」のことです。注目したいのはこちらです。漱石は命じられて仕方なく行ったのだから、自分という「個人」に責任はないのだと、もはや再び会うこともないだろう人たちに対して本気で申し開きをしているのです。次の箇所と比較してみましょう。
 
帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れども余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たるの光栄と権利を有する余は、五千万人中に生息して、少くとも五千万分の一の光栄と権利を支持せんと欲す。此光栄と権利を五千万分の一以下に切り詰められたる時、余は余が存在を否定し、若(もし)くは余が本国を去るの挙に出づる能はず、寧(むし)ろ力の継く限り、之を五千万分の一に回復せん事を努むべし。是れ余が微小なる意志にあらず。余が意志以上の意志なり。余が意志以上の意志は、余の意志を以て如何ともする能はざるなり。余の意志以上の意志は余に命じて、日本臣民たるの光栄と権利を支持する為めに、如何なる不愉快をも避くるなかれと云ふ。

 今度は同胞である自国の人々に対して、弁明ではなく、むしろ開き直りとでもいうべきものを見せています。漱石はここで、ロンドンでは五百万分の一でもたいへん申し訳なかった、日本ではさらに小さくて、ほんの五千万分の一の存在にすぎないけれども、自分は日本を逃げだしたりはしないですよ、遠慮せずに、五千万分の一だけの空気は吸わせてもらいますよ、といってるわけです。ではここで「五千万分の一」のおのれを死守せよと命ずる「余が意志以上の意志」とは、いったい何を意味しているのでしょうか。

 漱石は「臣民たるの光栄と権利」と書いています。それをいまかりに「臣の光栄」と「民の権利」というように二つに分けて考えてみると、とくに「民の権利」として、のちになって日本国憲法がはじめて保障するような基本的な人権、あるいは生存権とでもいうようなものを、ここで漱石は主張しているようにも読めます。その叫びの真っ当さを保障する「天」のようなものを望み見ているというか、人間界の「公平」や「平等」といった理想の実現を見届けるはずの超越的存在を要請しているかのような、そんな強く切実な感じもどこかにあります。しかしその底から聞こえてくるのは、たとえそんなものがなくっても、自分はここに居続けてみせる、「自己」はここにあるのだ、という「個人」としての叫びではないでしょうか。

 こうして見てくると、漱石の英国留学のいちばんの成果は、学問的な研究上のあれこれといったもの以上に、「自己本位」を手に入れたことだったのかもしれません。実際、漱石はのちに学習院で、若い聴衆たちに向かって自分の過去を振り返って、次のように述べています。
 

私は此自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大変強くなりました。……。/自白すれば私は其四字から新たに出立したのであります。さうして今の様にたゞ人の尻馬にばかり乗つて空騒ぎをしてゐるやうでは甚だ心元ない事だから、さう西洋人ぶらないでも好いといふ動かすべからざる理由を立派に彼等の前に投げ出してみたら、自分も嘸愉快だろう、人も嘸喜ぶだらうと思つて、著書其他の手段によつて、それを成就するのを私の生涯の事業としやうと考へたのです。(『私の個人主義』(大正三年))

 漱石の「自己本位」は、書物を「読む」という理解・鑑賞の受動的な姿勢から「著書其他の手段によつて」、すなわち「書く」という表現・創作の能動的な態度への転換において、つかまれたものでした。「自己」を本位にして「書く」ことを「生涯の事業としやう」と。しかし「本国へ立ち帰つた後、立派に始末をつけやう」とした『文学論』は、結果的には失敗に終わりました。『文学論』の序を書いてから七年以上過ぎた大正三年になってもやはり、漱石は言い訳しています。右の引用のあとに続く部分です。
 
所が帰るや否や私は衣食の為に奔走する義務が早速起りました。……。最後に下らない創作などを雑誌に載せなければならない仕儀に陥りました。色々の事情で、私は私の企てた事業を半途で中止してしまひました。私の著はした文学論はその記念といふよりも寧ろ失敗の亡骸です。然も畸形児の亡骸です。或は立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のやうなものです。/然しながら自己本位といふ其時得た私の考は依然としてつゞいてゐます。……其時確かに握つた自己が主で、他は賓であるといふ信念は、今日の私に非常の自信と安心を与へて呉れました。私は其引続きとして、今日猶生きてゐられるやうな心持がします。(同)

 漱石はここでは「下らない創作など」と謙遜してみせていますが、『文学論』の序においては、「創作」にこそ自己の存在理由があるのだと、ほとんど宣言に近い表明をしていたのでした。
 
帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集(ようきょしゅう)」を出し、又「鶉籠(うずらかご)」を公けにすることを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず。(『文学論』序)

 漱石自身がそういうように「神経衰弱にして狂人」が原因で「創作」が結果したのかもしれません。しかしまたその「創作」が原因した結果、彼は「神経衰弱」にも「狂人」にも陥りきることがなかったともいえるのではないでしょうか。

人間の心理程解し難いものはない。此主人の今の心は怒つて居るのだか、浮かれて居るのだか、又は哲人の遺書に一道の慰安を求めつゝあるのか、ちつとも分らない。世の中を冷笑して居るのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起して居るのか、物外に超然として居るのだか薩張ぱり見当が付かぬ。(『吾輩は猫である』(二))

 その処女作(明治三十八年)において、自分の主人である珍野苦沙弥について、猫にこんなふうにいわせている漱石ですが、実際のところ、苦沙弥先生は「裏表のある人間」(同)どころか、彼の「自己」をこの通りいくつにも分裂させてしまっているのかもしれません。それが作者漱石の「自己」のありようと無関係なはずはありません。明治三十八・九年と推定される『断片』に「世界向後の趨勢は人間はみな自殺するものであると云ふ命題が事実に証明せらるゝ時期に到底する」と書いた漱石です。『坊つちやん』(明治三十九年)の世界もその基底には自殺への願望のようなものが窺えます。主人公の「おれ」もまた自己への執着と自己からの解放という正反対の二つの方向に引き裂かれてしまった人間ですし、ただ孤独なだけでなく、ああ見えてたいへん受動的で非主体的な人物でもあるのです。作者は彼の「無闇」や「乱暴」を許されるべき「自然」として描くために、彼の「自己」を無理にも虚しいものとする必要があったからです*20。

 これらの作品では、「自己」を本位とする主人公の姿が肯定的に描かれることはありません。むしろ「自己」に拘ることの苦しさや「自己本位」を実践することの困難さのほうが描かれます。そして、名前のない猫という自由で自在な存在による視点やその設定がそもそもそうであるように「去私」的な位置取りや態度こそが奨励されているのです。



  四 打死をする覚悟(桃源郷の画工から維新の志士へ)


 漱石の初期の作品では、利害得失に敏感という意味で、あまりにも自覚的にすぎる「自己」からは距離をとって、それを相対化する「去私」的な姿勢を「自然」に近いものとして評価し、主題的にも方法的にもそちらにより重点が置かれています。その代表作は、やはり『草枕』(明治三十九年)でしょうか。
 
 苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々(あきあき)した。飽き々々した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少からう。どこ迄も世間を出る事が出来ぬのが彼等の特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粋なるものも此境(きょう)を解脱する事を知らぬ。どこ迄も同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場(かんこうば)にあるものだけで用を弁じて居る。いくら詩的になつても地面の上を馳けあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シエレーが雲雀(ひばり)を聞いて嘆息したのも無理もない。(一)

 本文は「うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱(げだつ)したのがある」と続きます。そして陶淵明や王維の詩が紹介され、これらの詩が建立している世界の「功徳は『不如帰(ほととぎす)』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐつすり寝込む様な功徳である」とされるのです。

 『草枕』は三十歳の画工が主人公、那古井の温泉場が舞台、漱石が熊本時代に実際に訪れたことのある小天温泉(長崎、雲仙地方)がモデルで、現代の桃源郷のようなところとして設定されています。そこで画工は、那美さんという離婚して実家の温泉宿に戻ってきている女性と出会います。この女性、夜中に盛装して廊下を歩き回ったりするちょっと変わった女性なんですが、温泉で画工と混浴することになっても全然動じない肝の据わった女性でもあります、画工はその強烈な個性と奔放な言動に圧倒されます。

 舞台は桃源郷のように自然の豊かなところです、金儲けや出世のためにあくせくする俗世間の塵芥を遠く離れています。そこで画工は悲人情の旅をもくろんで漢詩を作ったり俳句をひねったりするのですが、画家が本業なのにその絵が描けません。那美さんを絵にしたいのですが、どうしても描けないのです。椿の花がぽたりぽたりと際限なく落ちる、そんな古池に絶世の美女が浮いている、そういう構図だけは頭の中にできているのですが、なかなか描けないわけです。そしてそれはなぜかというと、その女の表情が定まらないからなのです。現実の那美さんの顔は、持ち前の勝ち気が前に出すぎています。それでは絵にならないのです。

 しかし小説の最後になって、那美さんは従弟が出征するのを見送ります。そのとき画工は、現実世界に連れ戻されたような気になります。川に船を出して皆で山を下るのですが、その行き先には汽車が待っています。いよいよ駅での別れの場面です。戦争に行く従弟の久一さんを乗せた列車の窓から、昔別れた、今は零落して満州に行くことになった元夫が突然顔を出します。小説では「野武士」としか表現されず、名前の与えられていない男で、少し前に那美さんがこの男と会ってこっそり短刀を渡していたのを画工は目撃しています。このたびは偶然に現れた元夫の顔に出会して、那美さんに表情が浮かびます。あ、と思った那美さんの顔に画工が描きたかった「憐れ」がでるのです。画工はそれだ、と叫んで自分の絵が出来たといって、それで終わる話です。

 「憐れ」そのものは人情です。ですがそれを一歩離れて「美」として眺める画家は「非人情」を貫いている、というわけです。それでないと絵は描けない、絵にならない。「憐れ」の感情の中に自分までのみこまれてはならないのです。そこから距離をとって冷静に眺める。この態度は、「自己」自身に対しても同じであるべきものとして推奨されているのです。

 漱石は、自作についてふれた『余が「草枕」』(「文章世界」、明治三十九年)に「私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない」と書きました。しかしこれもまた周知のことですが、島崎藤村の『破戒』(明治三十九年)に衝撃を受けたことなどもあってのことでしょう、漱石は自身の文学に対する一面の姿勢に対して、他方で大いに不満を感じてもいました。ここではそれを二つの書簡のうちに確認しておこうと思います。
 
「……世の中は僕一人でどうもなり様はない。ないからして僕は打死をする覚悟である。打死をしても自分が天分を尽くして死んだといふ慰藉があればそれで結構である。実を云ふと僕は自分で自分がどの位の事が出来て、どの位な事に堪へるのか見当がつかない。只尤も烈しい世の中に立つて(自分の為め、家族の為めは暫らく措く)どの位人が自分の感化を受けて、どの位自分が社会的分子となつて未来の青年の肉や血となつて生存し得るかをためして見たい……」(明治三十九年十月二十三日付狩野亨吉宛書簡*21)
 
「……苟(いやしく)も文学を以て生命とするものならば単に美という丈では満足が出来ない。丁度維新の当士〔志士〕勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思う。間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ。……。僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰拔文学者の樣な氣がしてならん……」(明治三十九年十月二十六日付鈴木三重吉宛書簡同日第二信*22)

 「去私」的であることは必ずしも「難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る」ことではありません。しかし「俳諧的文学」はたとえ美的ではあっても、得てして社会的には無責任な「腰抜」の位置に陥りがちではあります。趣味や教養で言葉遊びをするのでなく、現実に向きあい社会と切り結ぶ文学。そういう文学をやることで社会を、あるいは自分自身を、変えていけないだろうか。変わらなければ文学をやる意味はないのではないか。漱石は自分を近代の文学者としてあらためて位置づけ直そうとしていたのかもしれません。その「死ぬか生きるか」の意気込みをほとんど直に注ぎ込んで生まれたのが『野分』(明治三十九年)でしょう。

 『野分』という小説は「白井道也は文学者である」という宣言めいた一文で始まります。この文学者白井道也の言動が、文学者志望の青年高柳周作を「感化」することになる、という物語です。
 
世が容れぬなら何故こちらから世に容れられやうとはせぬ? 世に容れられ様とする刹那に道也は奇麗に消滅して仕舞ふからである。道也は人格に於て流俗より高いと自信して居る。流俗より高ければ高い程、低いものゝ手を引いて、高い方へ導いてやるのが責任である。高いと知りながらも低きに就くのは、自から多年の教育を受けながら、此の教育の結果がもたらした財宝を床下に埋むる様なものである。自分の人格を他に及ぼさぬ以上は、折角に築き上げた人格は、築き上げぬ昔と同じく無功力で、築き上げた労力丈を徒費した訳になる。(一)

 この「学者としての道也」「志士としての道也」「道を守り俗に抗する道也」の「高さ」を作者は最後まで擁護し続けます。資本家を批判する道也の言論活動を封殺しようとする兄も労苦をともにしてきたはずの妻も、道也に拮抗する人物たりえません。道也を相対化しようとする人物たちは、そのことによってむしろ道也より「低い」存在であることが確認されるだけに終わります。どうやら漱石には、道也に矛盾を突きつけたり、その自己を相対化させ、そこから自己変革に向けて歩を進めさせる気など最初からないようなのです。

 『野分』から先の手紙をふり返ってみると、そこにある漱石の相当な自負にあらためて気づかされます。「低いものゝ手を引いて、高い方へ導いてやる」ことは、漱石自身が自分の責任の取り方として考えていたことで、彼は道也先生という人物を借りて自己の思想とその実現に向けた方法を語っていると見てよいでしょう。しかし『野分』を小説として読むときには、作者の意図がどうあれ、一義的な解釈を押しつけられることはありません。確かに道也は真摯です。ひたすら「真面目」にその「自己」を社会や他者に働きかけます。そしてその切迫感は伝わります。しかし作者にその「人格」の「高さ」を守られ、自ら疑うことのない「自己」に安住した人物の「自己本位」は、彼が真面目で真剣であればあるほど、かえって現実性を失い、滑稽な笑劇にさえ見えてきます。

 『野分』の評価の鍵は、結びに置かれた道也の『人格論』の出版と借金に関わってやりとりされる百円がめぐる回路をどう捉え、どう解釈するかにかかってきます。零落し結核になった高柳は、自分とは正反対に「余裕」のある裕福な友人中野に百円の金を借りて転地療養することになるのですが、暇乞いに道也を訪ねると、借金取りが来ていて、百円の金の取り立てをしています。高柳は、ちょうど中野に借りたばかりの手元にある百円で、道也の『人格論』の原稿を買い取り、それを自分の著作の「代り」として中野に届けようと「暗き夜の中に紛れ去」ります。中野は(しかしこれは、実際には気位の高い高柳に金を受け取らせるための方便だったかもしれないのですが)、療養費を負担する代わりに、高柳の「一大傑作」をもらい受け、それを「世間へ」出すという契約を申し出ていたのです。

 この小説の結末は、読みようによっては道也がまったくの道化であったということにもなりかねません。道也の『人格論』はこのあと、中野の手元に置かれて日の目を見ないままになるのでしょうか、それとも中野が出版してしまうのでしょうか。いずれにしても中野という青年は、道也の兄が勤める会社の社主の息子であり、そんな男に窮状を救われたということだけでなく、場合によってはさらに自分の本の出版までされてしまうことにもなりかねないのです。「君丈」が「僕の知己ですね」と打ち明けた男に「先生、私はあなたの弟子です」と青年は応えます。『人格論』を高柳に預けた道也こそは真の「文学者」であり、それをまさに自分自身の「一大傑作」として受け取った高柳もまた真の「文学者」である、そういうことなのかもしれません。しかし道也から高柳への「感化」は確かにあったとはいえ、それはまもなく訪れるだろう彼の死と中野の金によってはじめて可能になったものともいえるのです。

 弱点や矛盾を抱えた自身にも、自分の傍らにいる人間にも目を向けることなく、ただ「高さ」のうちにその「自己」を維持しようとすることは、「去私」とはまるで反対の態度です。そこからは「感化」をもたらすようなどんな真実も生まれてはこないでしょう。おそらく「感化」は高いところから見下ろしたり低いところから仰ぎ見たりすることによっては成立しません。師弟のような上下の関係においてよりは、むしろ夫婦や友人といった水平の間柄にある個人と個人とのあいだにこそ成り立つものではないでしょうか。そして真の「感化」とは、理性が伴ってこそ、すなわち認識による裏打ちがあってはじめて、可能になるものなのかもしれません。

 白井道也が小説家だったら、『野分』はまったく違った世界になっていたかもしれません。漱石はすでに創作家でもありましたが、まだまだ『人格論』を書いてしまうような学者でもあり、その意味では小説家にはなりきっていなかったのです。『野分』は、「自己」から解放されつつ、同時にその自己を「本位」にできる「自己」へと鍛えあげていくことの難しさ、道也の文章の題名にあった「解脱と拘泥」でいえば、漱石が自身の「自己」に「拘泥」する姿のほうが、より前面に出ている作品といえるでしょうか。(この稿つづく)


 
 注

1 大正三年十一月二十五日に学習院輔仁会で行った講演筆記に補筆したもの。

2 松岡譲『漱石の漢詩』「まえがき」(朝日新聞社、一九六六年)

3 『漱石全集』第十八巻(岩波書店、一九九五年)、漢詩65「春興」。漢詩の本文、訓読は一海知義による。以下同様

4 前掲書第十八巻、漢詩70〔無題〕。「白雲」は、一海氏による別詩同語の訳注に「現実の白雲であるとともに、俗世間から隔絶した境界・理想郷の象徴」とある。別詩とは『木屑録』にある詩(同書、漢詩23〔其六〕)。また漱石の漢詩(二○八)のうち「十六例を数える」ともある。芳賀徹は「漱石の東洋」(芳賀徹ほか『漱石を読む』、岩波書店、一九九四年、所収)でこの漢詩を取りあげ、「こういう陶淵明にも李白にも通じるような世界に、いま自分はいる、というよりは、いつかはたどり着きたいと思っているというのでしょう」と評している。『虞美人草』では「鳥入雲無迹/魚行水有紋」と改められている。

5 松岡譲前掲書、八七頁。

6 前掲書第十八巻、漢詩68「菜花黄」。

7 明治三十年四月二十三日付書簡には「単に希望を臚列するならば教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり換言すれば文学三昧にて消光したきなり」とある。

8 前掲書第十八巻、漢詩64〔無題〕。熊本から東京の子規に宛てた書簡(明治三十年十二月十二日付)に前書きとともに記されたもの。

9 前掲書第十八巻、漢詩66〔失題〕。この詩を添削した漢詩人で五高の同僚でもあった長尾雨山の評には「不覚斂襟」の文字がある。一海氏注に「覚(おぼ)えず襟(えり)を斂(おさ)む」「『斂襟』は襟を正す」。

10 前掲書第十八巻、漢詩74〔無題〕。一海氏注にもあるように、首聯の二句は『虞美人草』(四)に甲野さんの日記の一節として載せられている。同注に「明治三十七年七月十八日付菅虎雄宛書簡に『此詩は僕が洋行する時に作つた傑作で書と共に後世に伝ふるに足るから君に進呈する』として、墨書したこの詩を封入する」。

11 吉川幸次郎『漱石詩注』(岩波文庫、二○○二年、百頁)。

12 前掲書第十八巻、漢詩67「春日静坐」。この詩も『草枕』(六)に主人公である画工の作として出てくる。

13 立花政樹(1865-1937)。日本で最初の英文科卒業生。福岡県立尋常中学伝習館長、第二高等学校教授などを歴任。のちに漱石は「満韓ところどころ」(明治四十二年)で当時大連の税関長をしていた「政樹(まさき)公」を訪ねた話を書いている。

14 亀井俊介「漱石の西洋」(前掲『漱石を読む』所収)。

15 大橋洋一『新文学入門』(岩波書店、一九九五年、六四〜六七頁)

16Ker, William Paton(1855-1923)。カーディフ大学教授を経て、一八八九年ロンドン大学教授就任。中世研究の権威。漱石は一九○○年十一月から十二月まで(三学期制の第一学期の終わりまで)聴講し、またその著書にも接し、中世文学一般に対する学識を深めたことが、『幻影の盾』や『薤露行』のような作品を生む契機となったとされる(『漱石全集』第十三巻、二七一16の注解参照)。

17 『漱石全集』第十九巻(日記・断片 上)(岩波書店、一九九五年)、四○頁「断片六B〔手帳A99-98天地逆〕」。聴講は実際には二ヶ月足らず。高宮利行(『英語青年』、一九八三年八月)と岡三郎(『英語青年』、一九八四年八月)の調査による。高宮氏は漱石の「十分な英語力」を認めた上で、聴講をやめた理由の背後に「後に顕在化するあの自閉症的な衝動」が作用したとする。岡氏は漱石が「持ち前の負けじ魂」のために若い学生たちと机を並べることを潔しとしなかったのではないかと推測している。

18 『国民新聞』明治四十二年八月六日。

19 『こゝろ』(下五十二)には「たゞ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかつた」「純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大変な苦痛だつた」とある。『坊つちやん』でいえば、作者は「純白」な「おれ」に「暗黒な一点を印するに忍びなかつた」ということになる。「自然」とみなされるものは善悪の彼岸に置かれ、対して「人為」は「魂胆」であり悪である、とする漱石の倫理観は、『文学論』から『こゝろ』まで一貫している。

20 拙論「夏目漱石『坊つちやん』の「乱暴者」」(奈良工業高等専門学校研究紀要第三十四号、一九八九年)は、この問題を論じる。

21 『漱石全集』第二十二巻(岩波書店、一九九六年)、書簡690

22 前掲書第二十二巻、書簡695


付記 小論は、平成二十年度奈良工業高等専門学校公開講座「日本文学講座」第三回「夏目漱石を読む」(八月八日実施)における講演をもとに大幅に加筆・修正したものです。漱石の「自己」に対する態度について、あらためて考える場を与えて下さった参加者の皆様に感謝いたします。
 

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