「自己本位」と「則天去私」   ―漱石における自己への態度―(二)

               

'Jikohoni' and 'Sokutenkyoshi': Attitudes towards the self in NATSUME Soseki's life and works(T)

                       武 田 充 啓


 
 承前


 前稿(一)では、漱石文学の大きな核となる二つの思想である「自己本位」と「(則天)去私」に注目し、自己中心主義と無私、拘泥と解脱、あるいは自力と他力とさえ言い換えられそうな、それら両極的ともいえる思想を、漱石はどのようなかたちで自身の文学のうちに共存させていくことになるかを問い、まずは留学以前に作った漢詩を読み直し、次に英国留学時代を振り返って書かれた『文学論』序について、当時の英文学事情を考慮しつつ確認し、創作をはじめたばかりの明治四十年頃までの作品をやや足早にですが吟味しました。

 そして漱石の「自己本位」が、留学時代にそれを余儀なくされるかたちで、「読む」すなわち他者を理解する受動的姿勢から、「書く」すなわち自己を表現する能動的態度への転換において、つかまれたものであること。しかし実際の創作においては、たとえば『猫』の「吾輩」のように人間界に自在に出入し「余裕」をもって眺める猫という語り手の設定、あるいはまた『草枕』の語り手「余」の「見立て」的観照の姿勢がそうであるように、「自己」にも距離をおく「去私」的位置どりや態度こそが、むしろ奨励されているかに見えること。あるいは、たとえばその暴力的行為において人物の「自然=無垢」を守るために、作者が不自然にも非主体的な「自己」にしてしまっている『坊ちゃん』の「おれ」や作者に保証された人格の「高さ」を自らは全く疑うことのない『野分』の白井道也のように「自己本位」を生きるかに見える人物を描くことにおいては、漱石は失敗していたこと。そして「去私」もまた、小説の方法としてはまだまだ洗練されていないこと、などをみてきました。

 本稿では、『虞美人草』以降の作品について続けて検討していく前に、漱石における「自己本位」と「去私」という両極思想共存の、その原点を確認しておきたいと思います。もっとも、ここで原点というのは、まとまって書かれた文章で、最も若い頃に確認できるもの、というほどの意味です。



 一 老子(その一)

 原点の一つは、漱石夏目金之助(以下、漱石で通します)が学生時代に書いた「老子の哲学」(明治二十五年1892年)という文章です。これは文科大学に提出した東洋哲学論文ですが、第一篇「総論」、第二篇「老子の修身」、第三篇「老子の治民」、第四篇「老子の道」というかたちで整理され、もともとは秩序なく配列されている『老子』全八十一章を老子の「思想」ではなく「哲学」として、また方法としても分析的にとらえ直そうとしています。

 偖(さて)老子の主義は如何に、儒教より一層高遠にして一層迂闊なりとは如何なる故ぞと云ふに老子は相対を脱却して絶対の見識を立てたればなり捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道を以て其哲学の基としたればなり其論出世間的にして実行すべからず其文怪譎放縦にして解すべからざればなり

 第一篇第二段落の冒頭です。ここで漱石は老子の教えがなぜ儒教のそれより「高遠」で「迂闊」なのかを問い、気高く優れているのは「相対」を抜け出て「絶対」の考えを明らかにしたからであり、捉えることも見ることもできない「道」というものをその基礎にしたからである、回り遠いのは述べられていることが浮き世離れしていて実際には行いがたく、文章が怪しく気ままで理解しにくいからである、と答えています。

 第一篇冒頭で漱石は、孟子と老子を対比し、「末を棄て本に復する」ことを説く点で共通するが、その「本」とするところは異なるとし、「当時に迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとする者」が老子であり、その老子が書いたのが『老子道徳経』である、と始めていました。

 続いて漱石は、孔子の説いた「仁」「義」のような「瑣細な者」があくまでも「相対」にとどまるのに対して、老子は「道」という「絶対」を説くと述べ、ずばり『老子』思想の中心をなす「玄」を引き出してきます。漱石が『老子』全編を貫く「大主意」だとする、第一章を福永光司の訳で引いておきます。

これが道だと規定しうるような道は、恒常不変の真の道ではなく、これが真理の言葉だと決めつけうるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない。天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉では名づけようのないエトヴァスであるが、万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る。この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、根源的には一つであるが、名の世界では二つに分れ、いずれも不可思議なるものという意味で玄とよばれる。そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、造化の妙用に成る一切万物は、そこを門として出てくるのである。*1


 漱石は「此玄を視るに二様あり一は其静なる所を見一は其動く所を見る」と述べ、「無名」と「有名」の違いを絶対(静)と相対(動)の視点から読み解いていきます。三浦雅士は、「老子のなかに絶対と相対の二面を見、そこに思想の要諦があるとするところに、論文『老子の哲学』の特色がある」と述べて、その後に続く漱石の文章を次のように「現代文ふうに変えて」紹介しています。

 むろん、玄とは絶対なのだから、そのなかに善悪もなく長短もなく前後もない。難易もなければ高下もない。感性的にも知性的にもいっさいの性質をもたない。だからこそ天地の始め、万物の母なのであって、混沌、名づける所以を知らないから無名というのである。
 とはいえ、ひるがえって他方から見れば、天地の始めだから天地を生じ、万物の母だから万物を孕む。すべて一度生まれてしまえば相対的なものとなり、善悪、美醜、大小、高下、さまざまな性質、属性が雑然と出現してくることになる。この点から見れば、玄もまた万物の母にして有名といわなければならない。
 したがって、その無名の側面を知ろうとするならば、常に無欲にして相対の境を解脱し、自分自身を「玄」のなかに没却しなければならない。また有名の側面を知ろうとするならば、常に有欲をもってその「玄」より流出して離合集散する事物の終わりを見なければならない。*2


 第二篇「老子の修身」は、漱石の老子批判がはっきり示されるところです。漱石は第一篇で「玄」を「静」と「動」の二面で捉えたのですが、ここでは『老子』の「修身」について、そのほとんどが「消極的」な面(「無為」)ばかりであると断ったうえで、三段に分けて論じています。しかし最後に「表」に図式的なまとめをするにあたって、三つ目の「老子は嬰児たらんとす」の段を「積極的?(ママ)」な面とし(これには「あながち之を積極的と云ふにも及ばざれども便宜の為め斯は名(なづ)けぬ」という但し書きがあります)、対比的な二面として整理しているのです。

 「学問」も「行為」も「多言」も廃せと説く老子は消極的ですが、では嬰児に復帰しようとする老子がめざすところはどんな「境界」か、漱石は「ウオーヅウオース」の詩を引用しながら、それは「足ることを知」り、「柔に居つて争はず」、「静に安んずる」ことだと記すのですが、漱石自身但し書きをしているように、学問も行為も取り去ってしまえば、「残る者」は「蕩然たる自然の嬰児」のほかにないのであって、どうしても積極的に「積極的」とはしにくいところが確かにあります。

 しかし確認しておきたいのは、ここで漱石が無理矢理に切り分けてでも正反対なものを一所に同居させ対照してみせようとしていることです。そして、それが彼の性向だとするのではなく、また文章表現上の一技巧に留まるものでもなく、漱石の「方法」的なものの原点としてある、ということです。

 三浦氏は、先に引いた同書で「無限という観念は、ある場合には、人間の悲惨な条件への最大の慰めである」とし、「老子の教える無、無為」は、漱石の「出生の秘密、その悲惨を覆い隠すに十分であった」と述べています。漱石が老子を否定しようとするところこそが、その惹かれたところである、とする三浦氏の指摘は鋭いのですが、漱石が老子に惹かれた理由が、自分の出生に対するこだわりを解消してくれるものだったからかどうか、その点については確かめようがありません。

 続けて三浦氏は、やがて漱石は老荘に代えて禅をその「出生の秘密を覆う蓋に」し、そのとき「漱石がそこで手にした武器は、笑いだった」とします。そして英国留学の成果である『文学論』は、「ほとんど笑いの研究に近い」と述べ、漱石文学における方法としての「笑い」と禅(あるいは解脱)を結びつけてみせる文脈で、『文学論』にある「不対法」についての説明を引用しています。「不対法」とは、「まるっきり対立するようなものをわざと並べてみせるという文学的方法」*3のことです。

 ここでは私たちは漱石の「自己本位」と「去私」という両極の思想の共存のあり方を探ろうとしているのですから、そういう視座から氏が引いている箇所をここに改めて原文のまま引いておきたいと思います。

吾人はかく縁故なき両素の、しかく卒然と結びつけられたるを驚ろきて、不調和の感を生ぜんとする刹那に、此縁故なき両素が如何にも自若として其不調和に留意せざるものゝ如く突兀(とつこつ)として長(とこしな)へに対立するの度胸に打たれて、急に不調和の着眼点を去つて矛盾滑稽の平面に立つて窮屈なる規律の拘束を免れたるを喜こぶ。而して其結果は洪笑となり、微笑となる。是を不対法の特性となす。此特性を有するが為めに不対法は先に説叙せる第四種の聯想法と編を隔てゝ相呼応するものなり。「正成泣いて正行を誡めて曰く」と云ふ。泣くの一字を点じ得て人をして其妥当なるを首肯せしむるに足る。今此一字に代ふるにあくびを以てせば如何、更に代ふるにビールを煽つてとせば如何、更に進んで「正成鼻糞を丸めて正行を誡めて曰く」とせば如何、正成の遺誡と鼻糞を丸めるの行為は対立すべき予期以外に超然として対立するの傍若無人なるにあきるゝの結果は不調和の悪感を透過して解脱の天地に入るに似たり。*4


 たしかに、思わず声を漏らしてしまうほど面白いところです。「笑いもまた解脱に似ている」とする三浦氏は、老荘や禅は「出生の秘密」を覆っただけでなく、「留学の悲惨をも救ったのである」と指摘するのですが、漱石はしかしこの節を、「洪笑」した自らを戒めるかのように一転して厳しく倫理的な論調で締めくくっています。ここにも正反対なものの同居があるといえるでしょうか。

一たび此形式を濫用して憚らざる時吾人は目的物の矛盾より生ずる滑稽感を味ふの暇なきうちに却つて此徳義を犯したる無頼漢を嫉むに至る。彼の外国の喜劇と称するものを読んで其此種の不対に充つるが為め却つて不快の念を起すは此法を利用して滑稽感を読者に与へんが為め、矛盾の境に苦しむべからざる温厚篤実の人を強ひて窮境に誘致して顧みざるに因る。かゝる不徳義を敢てして憚らざる作家は軽佻の作家なり、かゝる作物を読んで滑稽と思ふは軽佻の読者なり。(同前)

 私たちの文脈では「笑い」は、「解脱に似ている」ものというよりは、「自己本位」と「去私」との中間にあるものとして考えられるのではないでしょうか。「笑い」は、「自己本位」からだけでは出てきません。「去私」の態度からだけでも出てきません。たとえ出たところで、それは開放的なものでも、朗らかなものでもないでしょう。たとえば『猫』において、自殺を笑いの種にするのも、「自己本位」を確立したいと思うからこそ自殺したくなるほどに深く絶望することになるのですし、またそういう一途な自己を「去私」するからこそ、自殺が「首縊りの力学」(『猫』第三回)にもなり得るのでしょう。「笑い」は、自己本位たろうとしなければそこにはありませんが、そして自己本位たろうとすればするほど、真面目になろうとすればするほど、出てくるものでもありますが、「笑い」とは、どうやら「自己本位」とそれと共にある「去私」という互いに反動しあう姿勢が相互におよぼす力の効果として、それら両極の中間に浮かび出てくるもののようなのです。

 そしてこうした乗除も加減もできないまま「天地開闢以来より対立すべく大法によりて命ぜられたるかの如き態度にて対立」する二つの両極端の要素をわざと並置してみせる「不対法」だけでなく、やはり全体としての『文学論』そのものが、「自己本位」から生まれ出た『文学論』でありながら、その形式的な方法ゆえに、同時に、自己を含めた世界から一歩退いて対象を捉えようとする「去私」の態度でもあり方法でもあったのだということを改めて確認しておきたいと思います。



 
 二 老子(その二)


 「遺誡」と「鼻糞」を並べてみせるような「方法」ということで思い浮かぶことがあります。『吾輩は猫である』中篇の自序(明治三十九年1906年十月)に記された正岡子規を追悼する文章と子規自身の文章です。どちらにも「笑い」があります。学生時代、漱石は子規と真摯に文学論を戦わしていました。
 『猫』中編自序において漱石は、小説の序にふさわしいとは思えないほどの赤裸々さで、―「余程の重体」でありながら「何か書いてくれ」と留学先のロンドンに寄こした親友の手紙をそのまま引き写してみせさえしているのですが―「無聊(ぶりょう)に苦しんで居た子規」を慰めるために「何か認(したた)めてやりたい」と思いながらついに果たせなかった自分を責め、子規の死を悼みつつも、そこから調子を転じてユーモラスに彼との友情を再確認しようとしています。

余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯(つゆいつわ)りのない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う余の返事には少々の遁辞が這入(はい)って居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。……。
 子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に/長けれど何の糸瓜とさがりけり/という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。/どつしりと尻を据えたる南瓜かな/と云う句も其頃作ったようだ。同じく瓜と云う字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据えるべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未だに尻を持って居る。どうせ持っているものだから、先ずどっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め一言断って置く。*5


 傍線を施したあたりはとくに、漱石の「自己本位」たろうとする意思が窺えます。子規は「写生」を唱えた人ですが、じつは漱石の初期の文章はみな基本的に写生文だとする見方があります。あるがまま、見たままに写す。これが写生の基本姿勢ですが、これはまた切断の文章ともいわれています。自分を世界に入れ込むというよりは、むしろ自己を突き放し、その世界を切り取ってくる。自分を他人として眺めるこの方法は、「去私」の姿勢でもあります。

 子規には雑誌『ホトトギス』に寄せた「墓」という有名な文章があります*6。自分の最期を想像して書いたフィクションです。

 いまわの際に、隣室から危篤の電報を打たねば、などと声が聞こえてきます。やがて自分のそばにやってきた誰かが、耳元で言い残すことはないか、と訊きます。借金のことは頼んだ。それだけか。僕は饅頭が好きだから、死んだらなるべくたくさん盛ってほしい。わかった、時世はないか。考えたが間に合いそうにない、十七字に変えてみたが、十二字までしかできない、五字足りない。それでいいから言ってみろ。じゃいうぞ、「屁をひって尻をすぼめず」、笑っちゃイカン、下の五字をつけてくれ。じゃ萩の花はどうだ。なんで。なんでもない、いま萩がさかりだし。そんなわけのわからないものは困る。じゃ君、屁ひり虫、というのはどうだ、屁ひり虫は秋の季語になっている。「屁をひって尻をすぼめず屁ひり虫」か、あんまりつまらんね。困ったな、じゃこれはどう「屁をひってすぼめぬ穴の芒(すすき)かな」。少しは善いようだ。善いようならそれでガマンして往生するさ、迷わずに逝ってくれたまえ。迷ったら帰ってくるよ。

 というような、臨終の、まさに今生の別れの一大事の時に、なんともまあ他愛のない話を、挨拶のように軽く交わしたりして、静かになって、葬式が終わって、棺桶に入れられて、運ばれて、埋められて、というその様子が淡々と描かれて、何年か経って自分の墓に来る人が少なくなった頃に、生前つきあいのあった女の子が訪ねてくる話を書いたりしています。最後には落ちまでがあって、めっきり寒い、身の毛がよだつ、といってももうその身の毛がないのだが、骨身にしみるというやつだ、それにしても馬鹿に寒いと思ったら、あばら骨に月がさしてらあ、というのです。

 病気で今にも死につつある自分を、少し離れて見て、客観視して、笑いにしてしまう余裕というか、ぎりぎりのところでのユーモアですが、そういう姿勢が子規の「写生」にあって、それは漱石も初期のころからもっていた態度だと思います。

 このあたりで漱石の老子批判を具体的に見ておきましょう。「老子の哲学」第二篇一段目の「学問を以て無用とせり」にある箇所です。

自ら知らずして無為なると之を知つて無為にならんとするとは同じからず成程古代の民は無為なりしかは知らざれども自ら無為をなして自覚せざりしならん(少くとも老子の意見に従へば)今老子は如何老子と同時の民は如何擾々紛々有為の極に居ると云ふべし老子既に此有為活溌の世に生れて独り無為を説くは是れ無為に眼の開きたるなり無為にconsciousになりしなり偖(さて)其無為を自知せるは何ぞと尋ぬるに転捩一番翻然として有為より悟入したるにあらずや去らば其悟入したる点を挙げて人を導くべきに去はなくして劈頭より無為を説き不言を重んず何とて此有情有智、立行横臥の動物朝夕有為の衢に奔走する輩を拐し去つて一瞬の際之を寂滅窈冥たる無為世界に投ずることを得ん(第二篇)


 ここで漱石は、無自覚なままですでに無為であること(古代の民)と、有為のいまここから無為になろうとすること(老子と同時の民)とでは、まったく立場が異なる、と主張しています。老子は無為を自覚しているが、それは有為から入ったのであって、ならばその悟り入った点を挙げて人を導くべきである。無為や不言は目的であって、そこに至る過程を明示しないままで、どうしてごく普通の市井の人たちを無為の世界に至らすことができるのか、と不満を述べているのです。

 面白いのは、漱石の分析手法は「去私」的態度そのものであるのに、書いている文章の内容からは、老子の主張する「無為」にもつながる「去私」が逆に否定されて、「自己本位」こそを必要なものとして肯定し、奨励しているようにみえることです。

 福永光司は『老子』に「固有名詞が一度も見えていないという点」と「我れ」「吾れ」といった一人称代名詞が「突如として現われてくる点」に注目し、「この事実を『老子』という書物の理解に関して重要視しておきたい」と述べ、「固有名詞」が出てこない理由を次のように解釈しています。

彼にとって最も本質的な関心は、それらの個別的なるもの、具体的なるもの、もしくは歴史的・風土的な特殊性ではなくして、それらの名をもち名でよぶことのできる一切存在の根源にあるもの――永遠不変の〃道〃の真理であった。形をもち名をもつ万象の世界よりも、その根源にある形をもたず名をもたぬ道の世界こそ、この哲人の第一義的な関心事であったと解されるのである。*7


 『論語』『孟子』『荘子』『列士』のいずれにしても、著者の弟子たちや友人知己、論敵や権力者の名前が、あるいは遊歴・活動先の町や村の名が、そこここに記されている。それは固有名詞が大きな比重をもつからだ、と福永氏は書きます。哲学や宗教の著作においては「真理そのものよりも真理を体現し宣述する具体的な人格が重要な意味をもち、その人格に対する尊敬と帰依、さらにはひたむきな信仰が決定的な重要さをもつ」。しかし『老子』はそれとは異なっている。「そのような人格的なものをことごとく原理的なものに還元し、真理と己れを結ぶ媒介者をしりぞけて、己れが直ちに“道”の真理の前に立つことを教えるのである」と。

 「原理的なものに還元」しようとする姿勢は、漱石の「老子の哲学」もそうですし、『文学論』なども典型的にそうでしょう。漱石が『老子』に魅力を感じたのは、個別的なものよりは普遍的なものに対する強い志向というか、そうした真理に対する「去私」的姿勢であったのかもしれません。ただし、『文学論』などは、理論だけでなく実例を多く引いているので、固有名詞そのものは沢山出てくるのですが。

 では「一人称代名詞」についてはどうでしょうか。福永氏は、『老子』第二十章にある「名を持たぬ『我れ』と名を持たぬ『道』とが、名を超えたところでぽっつりと向いあっている」ような特異な「我れ」を例に挙げています。

名の本質はあくまでも他と区別することにあるのであり、他と区別されなければならないところに「名」の世俗性がある。しかし、道の前にただ独り立つ者は他と区別される必要がなく、したがって名をもつ必要がない。いな、名をもつことによって、彼は己れを世俗の世界に引き戻し、道との一体性をみずから遮断してしまうのである。/老子において道に目ざめをもつ「個」は、媒介者をもたずにそのまま「道」の前に立ち、道とただ独り向いあって言葉なき言葉で語りあう単独者であった。己れが直ちに道の前に立ち、「個」が直截的に「普遍」と結びつくところに、老子の思考の根本的な特徴が見られる。*8


 名前のない「我れ」だからこそ、名前のない「道」の前に立てる。そういうとき福永氏は、その「我れ」はたんに抽象的・観念的なものではなく、根源的な真理の前で「己れの憂愁と歓喜を独語する実存的な『我れ』」なのだ、といいます。「名を持たぬが故に却って名を持つことのよそよそしさが剥ぎ取られ、道に目ざめをもつ者の裸の肌のぬくもりがじかに感じられるような生きた『我れ』である」と。

 私たちはすぐに「余所余所しい頭文字杯(など)はとても使ふ気にならない」と書いた『こゝろ』の青年「私」(彼も彼の先生もその友人Kもまた名前を持たない)を思い浮かべることができるでしょう。最初に書いた作品『猫』の「吾輩」からして、そういう「独語する実存的な我れ」であり「生きた我れ」でもあったのです。しかし『こゝろ』では、一つの作品に二人の「私」が現れて、その「独語」はバトンタッチされます。一人の「私」が書き、それをもう一人の「私」が読みます。「私」は別の「私」に引き渡されることによって多元化されます。名前がないままに、どうやってその名前に代わるあり方を探るか(「普遍」の前に直ちに立っているような「個」をどのように描き出すか)について、世俗の相対世界を生きざるを得ない漱石がそれまでに考えを進めてきた小説の「方法」をそこにみることができます。

 修身を拡ぐること一歩にして治他となる老子身を修めて学を癈し徳行を癈し多言を癈し自ら嬰児の天性に復し能く足ることを知り能く柔を守り能く静に安んず而る後人をして己れの域に臻らしめんとす故に人を治むるの法を構ず然れども其説く所亦多く退歩主義なりとす(第三篇)


 「老子の哲学」第三篇の冒頭で漱石は、第二篇をきれいに整理したうえで、その多くが「退歩主義」であると、老子をばっさり切り捨てています。そして政治の方法についても実行不能なだけでなく、科学の世の中である昨今では「論ずるに足る者寡なし」とし、「夫(それ)にしても相対世界に無限を引き入れ無限の尺度を以て相対の長短を度ることは出来まじ学理上の議論ならば兎に角之を応用して政治上に用ひんとするは驚き入るの外なし」というのです。漱石の老子批判はさらに続きます。第四篇には「道」について理論的に矛盾をつく詳しい分析もありますが、ここでは省いてよいでしょう。

 要するに「老子の哲学」では、理想を説く老子に現実を生きねばならない漱石が批判している。「絶対」という最終目的は示されていても、「相対」の世界からそこにたどりつくための前向きの手だてが書かれていない、と漱石は不満を述べているのですが、漱石はしかしその老子から生涯変わらないものを少なくとも二つは手にしていると思われます。一つは、老子の思想にあるわずかに「積極的?」な面である「嬰児たらんとす」の方向性です。それは、汚れなきもの、無垢なるものへの憧憬として、漱石の心から生涯消えることがありませんでした。稿を改めて個別の作品においてくわしく見ることになると思いますが、「子」や「小供」は、漱石の小説には重要な意味を持ってずっと登場することになります。もう一つは、「修身から治民へ」という方向性です。個人が社会的責任を果たす際の順序として、個人が修身することから始めて他者へと影響を及ぼしていくとする考え方―換言すれば、「自己本位」がまずあって、次に「感化」というものがありうるという考え方―です。これも―当初は高い方から低い方へという一方向通行的でしか考えられていなかったものが、「自己本位」が他者との関係のなかで鍛えられることによって、「感化」も多方向交通的にも可能なものへと、質的に改善され深化していきましたが―この頃から最晩年まで漱石は踏襲しているといえるのではないでしょうか。

 「自己本位」は、まずは世俗の相対世界における処世の方法です。解脱や悟りが可能ならば、すなわち「道」の前に名前なしで直ちに立てるのならば、「自己本位」というような賢しらなものは全く不要であるのかもしれないのです。しかし、やはり漱石が生きているのは私たちと同じ世俗であり、相対の世界です。「老子の哲学」の漱石にも「名をもたぬ」というあり方への憧憬はたしかにあるでしょう。しかしその彼の「去私」の姿勢のうちにも、「余」という一人称代名詞がひょっこりと顔を出すことがあります。

余は敢て不言無為を尊びたる老子が縷々五千言を記述したるを咎むるにあらず無為不言は目的にして上下八十章は此に達するの方便なるべければなり只其無為に至るの過程を明示せざるを惜むのみ(第二篇)


 プラグマティックにノウハウを、すなわち「如何に」を求めようとする漱石は、「名をもたぬ」存在としてというよりは、まさしくその「顔」を覗かせているといっていいでしょう。そういうところに「自己本位」が、それでもしっかり根づきはじめていることが窺えるのではないでしょうか。おそらく漱石は、この頃から思っていたに違いありません。「自己本位」こそが「修身」ではないかと。当時、すでに漱石は「独立の精神」がなければ「平等」も「自由」も「政治上に運用」することができない「机上の空論」に終わるほかないと考えていました。その意味で「自己本位」は社会的貢献の基礎ともいえるからです。



 
 三 ホイットマン(その一)


 そこでもう一つ、漱石の両極思想共存の原点としてふれておきたいのが「文壇に於ける平等主義の代表者『ウオルト・ホイツトマン』Walt Whitmanの詩について」(明治二十五年1892年)です。こちらも学生時代の「哲学雑誌」に寄せた論考です。

元来共和国の人民に何が尤も必要なる資格なりやと問はゞ独立の精神に外ならずと答ふるが適当なるべし独立の精神なきときは平等の自由のと噪ぎ立つるも必竟机上の空論に流れて之を政治上に運用せん事覚束なく之を社会上に融通せん事u難からん人は如何に云ふとも勝手次第我には吾が信ずる所あれば他人の御世話は一切断はるなり天上天下我を束縛する者は只一の良心あるのみと澄まし切つて険悪なる世波の中を潜り抜け跳ね廻る是れ共和国民の気風なるべし共和国に生れたる「ホイツトマン」が己れの言ひ度き事を己れの書き度き体裁に叙述したるは亜米利加人に恥ぢざる独立の気象を示したるものにして天晴れ一個の快男児とも偉丈夫とも称してよかるべし


 この短い引用からでも十分伝わるように、この論文で漱石は「独立の気象を示した」ホイットマン(1819〜1892年)を激賞しています。ここで「独立の精神」と呼ばれて称揚されているのが、「自己本位」ということばで言われるものとほぼ同じであることは、わかりやすいと思います。

 英文学者の亀井俊介は、「老子の哲学」の四ヶ月後に発表されたこの論文には、漱石の「老子的退歩主義に代わる何か積極的な価値を求める気持ち」が込められていたと述べています。亀井氏は、漱石の論文が二人の批評家の文章の―平等主義(democracy)についての説明はダウデン(Edward Dowden)の、伝記的情報に関してはライズ(Ernest Rhys)の―受け売りに近いものであり、それらを「優等生的」に上手くとりまとめたものであることを明らかにした上で、漱石がホイットマンをアメリカの代表とみなす理由として、その「独立の精神」を挙げている点に独自性を見て、それが「徒らに章句の末に拘泥」しがちな「漢文学」に対する彼の不満の表明であると指摘します。そして、文章を書くにあたっては、思想が第一と漱石が考える、たとえば次のような理想を実行している人物を「Whitmanに見出して喜んだのだ」と推測しています*9。

小生の考にては文壇に立て赤幟(せきし)を万世に翻(ひるがえ)さんと欲せば首(しゅ)として思想を涵養せざるべからず思想中に熟し腹に満ちたる上は直(ただち)に筆を揮つて其思ふ所を叙し沛然驟雨の如く勃然大河の海に瀉(そそ)ぐの勢なかるべからず。文字の美、章句の法などは次の次のその次に考ふべき事にてIdea itselfの価値を増減スルほどの事は無之(これなき)やうに被存候。(明治二十二年十二月三十一日付子規宛て書簡)


 亀井氏は漱石のこの論文について、ホイットマンの「平等主義」を時間的と空間的の二つに分けて分析的に論じている点、比較文学的な考察をしている点、またホイットマンの思想の大要を伝え得た点を評価しますが、論旨が「概念的、抽象的」で、彼の思想が晒されていた「政治的・社会的状態との関係」がつかまれていないために、結局はホイットマンの「生々とした面目やその詩のもつ活力はよく伝えられていない」点を指摘し、『草の葉』を読んで、「ぼく自身の歌(Song of Myself)」や「アダムの子供たち(Children of Adam)」を読まないのは、「『主義』だけを見て、その背後の血潮にふれないこと」だと不満を述べています。

 しかし私がここで注意しておきたいのは、亀井氏が「しかしながら」としているところです。それは「平等主義の基調としての『独立の精神』の把握に、極めて大きな意味があることは否定できない。これらのことを可能にしたWhitmanの発見は、漱石にとって、ほとんど『近代』の発見を意味した」という指摘です。

 「平等」にかなり敏感だった漱石が、ごく若い頃から「独立の精神」すなわち「自己本位」を思想として尊重していたことに疑いはありません。しかし、以後、彼はホイットマンに関して言及することはほとんどありませんでした。「自己」を本位にはしても、それを無限に拡大しようとはしませんでしたし、たとえば「霊魂」についての信頼を育むといったことも、漱石にはありませんでした。この論文のあとに書かれた「英国詩人の天地山川に対する観念」でも、むしろ「去私」的な姿勢に通じるものを探っています。漱石はこの「自己本位」と「去私」という思想の両極を振れ幅一杯に振れながら、たとえば「自己本位」なら、それを「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」ものへと自らの思想を鍛えあげていったのです。

もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。(『私の個人主義』*10)


 前稿(一)でもふれたように、個人主義を説きながら「自己本位」こそが、今現在もやはり自分の支えであることを若い学習院の学生たちに訴える漱石は、もはや過去にそうであったような単なる「優等生」ではありません。「自己本位」を平等に生きる人びとが、そのために当然余儀なくされる社会、「自己」が相対的なものでしかありえないという現実と他者を尊重すべきであるという理想とを、併せて見届けている生活者でもありました。



 
 四 ホイットマン(その二)


 さて、ここからはホイットマンの周辺をめぐりながら、いわば側面から光をあてるかたちで、漱石の原点にある思想を浮き彫りにできたらと思います。

 じつはホイットマンの詩が、昭和二十四年(1949年)の戦後はじめて文部省検定があった高等学校用教科書(『国語三』教育文化研究会編)の巻頭単元「詩歌」の教材(教材名「自己をうたう」)に採用されています。単元「小品」には、夏目漱石「永日小品」の名も見えます*11。そしてホイットマンを最初に「発見」したエマソン(Ralph Waldo Emerson、1803〜1882年)の「エマソン日記抄」(富田彬訳)が、やはり教科書(『新国語 ことばの生活一』三省堂)に教材(単元「書くことに努める」)として採りあげられているのです*12。

 そのことに気がついたのは、佐藤泉の指摘があったからなのですが、佐藤氏は、漱石の『虞美人草』冒頭近くの甲野さんと宗近くんとの会話が、昭和二十四年検定の高等学校用教科書『新国語 ことばの生活三』(三省堂)に談話教材(タイトル「山路」、単元名「話す心」)として採りあげられていたことを紹介し、戦後教育の第一目標として個人主義の確立があり、外的な権威や権力に盲従するのではなく、一人ひとりが判断の主体となることが民主的な社会の基盤を作ると考えられていたことを確認しています。

 また『野分』作中の白井道也の演説「現代の青年に告ぐ」が、教材「風の中の演説会」として単元「演説と司会」に(福澤諭吉「演説の法を勧むるの説」などと共に)収録されていたことにも言及したうえで、しかし漱石と鴎外両者の存命中からあった文学史上における二人の特権化が、教科書の上でもなされていくことと同時に、とくに漱石が小説家としてよりは、むしろ文明批評家として読まれるようになったことを指摘します。

 その背景に、経済成長から経済大国へと至る発展のなかで日本文化論において国内外で強調されることになる「和」の精神・協調主義・集団主義的精神構造といった言葉に代表されるかたちで日本が日本としての自己意識をもつようになる時代への移行が並行してあったと見て、「漱石」をどう読むかもまた国際化時代の経済的・政治的要因に条件づけられており、そのために戦後当初は獲得されるべき理想として称揚されるべきものとして出発したはずの個人主義が、時代を経て一九八○年代には、教材の上ではエゴイズムとして剔出され否定されることが主流になってしまったと述べたのでした*13。

 佐藤氏のこれらの指摘は、昭和四十年代後半に中学生だった私自身の経験を振り返った実感と一致するものです。私の中学校時代の教員たちの多くは、おそらくは昭和二十年代に中学・高校時代を送った先生たちであり、彼らには個人主義礼讃があったと思います。授業においてだけでなく、課外活動や生徒会活動を通して、指導し見守って下さった先生方の多くが、個人主義を明白に善いものとして確信しておられ、私たち生徒の心にしっかりとそれを植え付け、育てていこうとされていました。

 敗戦直後には文部省が教育の第一目標にまで掲げていた個人主義の確立が、やがて、むしろ摘み取るべきエゴイズムとして否定的な面のみが強調されるようになったという佐藤氏の指摘はまた、私に内村鑑三(1861〜1930年)を思い起こさせます。なぜ内村鑑三なのか。それは、亀井氏が先に引いた同じ著作でも述べているように、内村こそが日本で初めて「Whitmanの巨大な姿とその精神の全貌を生命をもって伝えた」*14ということもあります。しかし、この時期に日本文化に大きな影響を与えたキリスト教ですが、そのキリスト教を内村の弟子たちがまさにそうだったように、一時は理想として自己に取り込みながら、やがてその教えを棄てていったという歴史的事実が頭のどこかに残ってもいるからなのでしょう。どうして内村だけが、制度的宗教に失望しつつも個性的なその信仰を貫けたのか。それは、おそらくは彼自身の「自己本位」あるいは「去私」の姿勢と密接に関わっているのではないか、と。

 内村は文学というものをどう考えていたのでしょうか。内村については勉強が足りませんから、ここではもっぱら亀井氏の研究に頼ることになりますが、彼の理想主義的な「大文学」観を端的に示しているのがホイットマンの「大なる思想が詩人の天職なり」(‘By Blue Ontario's Shore,§11’にある句)であると亀井氏はいいます。そして内村が「何故に大文学は出ざる乎」「如何にして大文学を得ん乎」(それぞれ『国民之友』明治二十八年七月十三日、同十月十二日)などの論文で、「大文学の中心はつまるところ大なる思想にあり、それをもつように努めることこそ日本に大文学の得られる道であることを説いていた」と指摘しています。「思想」を重視する内村の考えは、若い頃の漱石の文学観に大いに通じるものがありますが、それをまた「自己を清うして天来の思想に接する」という「去私」的姿勢でもって実現させようとしていた点も、見逃せないところです。

人たることなり、人の面を怖れざることなり、正義をありのままに実行することなり、與論と称する呶々の叫びに耳を傾けざることなり、富を求めざることなり、爵位を軽んずることなり、これ大文学者の特性として最も貴重なるものなり*15


 漱石が外国を実際には知らない学生時代に、共和国を形づくる人間が体得すべき理想として「独立の思想」、すなわち私たちの文脈では「自己本位」を心に思い描こうとしたこととは対照的に、漱石より六歳年長の内村鑑三が、漱石が日本で初めてホイットマンを紹介するその八年前(明治十七年1884年)から、「人生の大問題に回答を得んがため」私費で留学していた先のアメリカで実際にその目で確かめることになった、「自己本位」を生きているはずの人々が現実に生き、彼らが拵えあげた社会の実像とは、たとえば次のようなものでした。

子供の理解にさえ明かな単純な道徳をまったく無視してその強固さでは数百万の金と銀に依存することのできる合法化された富籤、闘鶏と競馬と蹴球試合の場面で目撃されるような広汎な賭博的傾向、スペインの闘牛よりもっと非人間的な拳闘、自由な共和国の人民によりもホッテントット人によりふさわしい死刑(リンチ)、規模の大きいことは全世界の貿易に比を見ないラム酒取引、政治における煽動主義(デマゴギズム)、宗教におけっる教派的嫉妬、資本家の圧政と労働者の傲慢、百万長者の愚行、夫の妻に対する偽善的愛情、等々、等々は、如何?これが我々が宣教師によって基督教の他宗教に対する優越性の証拠として受け取るように教えられた文明であるか。(『余は如何にして基督教徒になりし乎』*16)


 「高潔で宗教的でピューリタン的」だと思っていたアメリカが、「去私」的な態度で眺めてみると、実際には拝金主義と強固な人種的偏見の国であったということ。しかし内村の場合、彼が「基督教」でさえその身ひとつで、すなわち彼自身の「自己本位」において、とらえようとしているところが特異といえるでしょう(もっとも、「ホッテントット人」云々は、時代の制約から内村もまた自由でなかったことの証拠でしょうか)。

 内村が「外」から見た驕慢で横暴で物質主義のアメリカを、その「内」で生き抜いたのがホイットマンでした。個人主義や自由主義が爛熟したアメリカだったからこそ、ホイットマンという「個人」が、それこそ「自由に」謳いあげた自己の歌、「自己本位」を謳う詩は、特別に大きな意味をもっていました。

 そのことは、ホイットマンを最初に「発見」したエマソンも当然承知していました。彼は、神学部の卒業予定の学生たちに「ひとり立ちすること」「流行、習慣、権威、快楽、金銭があなたにとって無価値なものであるように」と訴え、「汝自身に従え」(『神学校演説』The Divinity College Address (1838年) )と説いていました。

 エマソンはまた、前稿(一)で「打死をする覚悟」を書いたものとして採りあげた漱石の明治三十九年狩野亨吉宛書簡(「僕は自分で自分がどの位の事が出来て、どの位な事に堪へるのか見当がつかない」「どの位自分が社会的分子となつて未来の青年の肉や血となつて生存し得るかをためして見たい」)を髣髴させる言葉も残しています。

 教育を受けているうちに、ある時期がくると、誰しも、羨望が無知であり、模倣が自殺であり、よかれあしかれ自分自身をおのれの天命だと思わねばならず、広い宇宙にはたとい福が満ち満ちていても、わが身に与えられたつとめとしてぜひとも耕さねばならぬその狭い土地で、みずから苦労して働かなければ、おのれを養ってくれる穀物はただのひと粒たりとも手にはいらぬことを、必ず確信するようになる。おのれのうちに宿る力は新しい種類の力であって、自分にできるのはどういうことかが分るのは自分をおいてほかになく、その自分ですら、実際にやってみるまでは分らないのだ。(「自己信頼」1841年*17)


 内村も漱石同様に、正反対のものを自己のうちに抱えうる人であったことは、不思議な一致でしょうか。内村は、決してアメリカの欠点ばかりを見ようとはしませんでした。というより、むしろ「去私」的な態度でその暗い面を冷徹に見据えてしまったがゆえにでしょうか、アメリカの絶望的な現実に対する悲憤と同時に、彼はホイットマンという一個人を「自由を重んじ個人を敬し人道を尊ぶ真正米国人の標本」として「自己本位」に讃美するのです。

 明治四十二年一月、内村は『櫟林集』という小冊子を発行しますが、そこでホイットマンは「基督信者では無かった」人であり、かつ「無宗教の人」でもない人物として紹介されます。

彼は真(まこと)に「神に酔ふたる人」であった、余りに神と親しかりしが故に無神論者のやうに見えたる人であった、彼を万有神教徒と嘲りし米国の基督信者は同じ忌(いま)はしき名をエマソンにも与えた、彼等はトローをも、カーライルをも神の信者として認めなかった、故に彼等が彼等の中に起こりし神の此寵児の真価を認め得なかったことは敢て怪むに足りない、預言者は常に教会の外に起る、昔猶太国に於ても爾うであった、今の米国に於ても爾うである。(「詩人ワルト ホヰットマン」)*18

 アメリカが「預言者」ホイットマンを嘲笑し誹謗したことを「斥けられし詩人の名誉である、斥けし米人の大恥辱である」と内村は述べるのですが、その内村自身、さまざまな曲折がありました。明治二十四年(1891年)には、いわゆる「第一高等中学校不敬事件」で講師の職を失い、日清戦争は愛国的立場から支持しましたが、鉱毒事件(1900年)では政府を批判し、日露戦争に際しては非戦論を展開し、「万朝報」を退社しています。そうした内村ですから、「余は正統教会の信者に非ず」と断言したホイットマンは、真の勇者として、どんなにか彼を勇気づけてくれたことでしょう。

 しかし亀井氏は、その内村が無視しているものがあるといいます。それはホイットマンの「愛の思想の根底に」ある「肉体の愛」である。内村は「肉体の意味を高く理解しながら、なおかつ霊魂をそれより上においている」のだと。この点も漱石に通じるものがあるように思うのですが、もう一つの不満として氏が指摘していたのは、内村が「最初から完成された予言者」としてホイットマンを描いている、ということでした。彼が「善き心」を「嬉々的人生観」をもつにいたるその「精神の道程」を、すなわち「彼は如何にして大詩人となりし乎」が書かれていない。それを内村がどう考えていたのか知りたい、というわけです。

 漱石が「老子の哲学」で老子に対して述べていた不満とよく似ている気もしますが、まさしくこうした「如何に」こそは、それぞれの個人がそれぞれの生き方によって、つまりは「自己本位」を貫きつつ、同時に「去私」的に自己を含んだ世界と向き合おうとすることによってしか捉えることができないもの、ではないでしょうか。この「特愛詩人ワルト ホヰットマン」については、内村が特愛(することをつねに必要としたが)ゆえに、自分自身を対象にしたときほどには、「去私」的姿勢を構えることができなかったのかもしれません。

 明治二十八年(1895年)に内村鑑三は、すでに自分自身の「余は如何にして」を英文で出版していました。「このときすでに内村は、単に自己の内心を見つめる男ではなく、彼の外の世界を理解し、その意味を発見しようとする人間として、あらわれていた」*19のです。そう指摘する加藤周一は「日本国中は誤ってい」た、その日露戦争時において「なぜ一人の内村は正しかったのか」と問い、こう答えています。

おそらく超越的な正義が彼の側にあったからではないし、また単に彼が現実を客観的に観察したからでもない。そうではなくて、現実に超越する正義の立場にたちながら、しかもその立場と現実の条件との緊張関係を彼がみずから生きていたからにちがいない。


 私は、漱石もまた「外の世界」すなわち「現実の条件」との緊張関係を生き抜くかたちで、自身のあるべき姿勢としての「自己本位」と「去私」とを問い続けたのだと考えています。そのとき彼は「超越的な正義」を、「絶対者」を頼もうとしない、その意味ではより困難ともいえる道を歩もうとしたのでした。

 個人主義や「自己本位」といった思想が、どんなかたちで日本社会に根づいていくのかは、教員の身としても気になるところです。佐藤氏が指摘したように、時代に左右される「読み」に無自覚なまま、「自己本位」を否定する流れに棹さしているばかりではいられない、という思いがあります。しかし、やはり「如何にして」を問い続けながら、ということになるでしょうか。

 それは当面、私にとっては、漱石が「自己本位」と「去私」という両極にある理想を同時に実現するために、どのように彼自身の「方法」を試みていったのかを明らかにする、という、そのことになります。続けて、職業作家となってからの作品を具体的に見ていきたいと思います。(この稿つづく)



 
 注


1 福永光司『老子』(朝日新聞社、一九九七年、上篇第一章「道の道とす可きは(体道)」二九―三○頁)。

2 三浦雅士『出生の秘密』(講談社、二○○五年、第十章「孤児の道」三二九頁)。

3 同前(第十一章「捨子の笑い」三六六頁)。

4 『文学論』(第四編「文学的内容の相互関係」第六章「対置法」第三節「不対法」)。

5 明治三十九年1906年十月。

6 『ホトトギス』第二巻第十二号、明治三十二年九月十日。『飯待つ間 正岡子規随筆選』(岩波文庫、阿部昭編、一九八五年)所収。

7 福永光司前掲書「解説」九頁。

8 同前一一頁。

9 亀井俊介『近代文学におけるホイットマンの運命』(研究社、一九七○年、第二部「日本におけるホイットマン」第一章「明治浪漫主義の成立とホイットマン」1.「夏目漱石」二六九頁)。

10 大正三年(1914年)十一月二十五日学習院輔仁会における講演。

11 この単元では最初に「時代と国土との隔たりはあるが、生命感のあふれた二種の歌を学ぼう。一はアメリカ近世の代表詩人の作品、一は日本最古の古典である万葉集の歌である。」と記し、訳詞の前に次のようにホイットマンを紹介している。「ホイットマン(Walt Whitman)は一八一九年にアメリカのロングアイランドで生まれ、一八九二年に没した。詩人。大胆素朴な自由詩で、生の神秘と民主主義と自由とを賛美した。詩集に「草の葉」、論文に「民主主義展望」などがある。」。

12 佐藤泉が注13に掲げた本で述べているように、当時『新国語』という教科書は、二分冊形式であり、「言語生活そのものを陶冶する分科」(『新国語 ことばの生活』)と「文学を中心とした一般文化教養を目的とする分科」(『新国語 われらの読書』)とに別れていた。この教科書(『ことばの生活一』)では、巻頭言として「ことばの生活に励む」があり、そこには次のような言葉がある。「日々の一ことば一ことばをだいじにして、考えて物を言う人のことばは、その人をよく表わし、人が聞いてもわかりよい。いつも楽しい話しあいができれば、生活は明るくなる。/書くことは、ことばの生活をひきしめてゆき、拡充発展への足場を固める。日記は心の記録であり、手紙は友を呼ぶ。」。以下、目次としてT「ことばは生活のためにどんなにだいじであるか」、U「話すことへの愛」、V「書くことに努める」、W「聞くことを楽しむ」、X「好んで読む」、Y「日々の言語生活のために」が並んでいる。ちなみに『ことばの生活二』の巻頭言は「ことばの生活を高める」であり、『われらの読書三』のそれは「世界への道」と題され、次の言葉がある。「われわれは、ことばや文字や文章によって、人間がほんとうに人間でありうるということを、学んできた。個人が、自己をみがく道具や自己の生活を鍛える場所も、言語・文章の中にあることを知った。自己をつくるということが、何を意味するかも知っている。この自己が、それぞれに完全に生きてゆき、それによってまた、他をよりよく生かしうることも学んだ。社会生活ということが、どんな意味を持っているかも体得したはずである。」。そして、単元「世界」の教材として森鴎外の『寒山拾得』を収めている。

13 佐藤泉『漱石 片付かない〈近代〉』(NHKライブラリー、二○○二年、第1章、第2章)。

14 亀井氏前掲書(第二部第二章「明治浪漫主義の外辺とホイットマン」2.「内村鑑三」三二七頁)。

15 亀井氏前掲書より重引、三三○頁。

16 内村鑑三『余は如何にして基督教徒になりし乎』(岩波文庫、鈴木俊郎訳、一九三八年、一九五八年(改版)、一二三頁、第六章、原著は一八九五年刊)。ドイツ語版序文には「余は茲に復た詩人ワルト・ホイットマンの言を引き」とあり、最後にホイットマンのことばが添えられている。「復た」については、岩波文庫の(訳者である鈴木氏のものと思われる)注に「『代表的日本人』のドイツ訳(一九○八年、明治四十一年刊行)の序文にすでにホイットマンの他の言葉が引用されていることを言っているものと解される」とある。

17 エマソン『エマソン論文集(上)』(岩波文庫、酒本雅之訳、一九七二年、一九四頁)。

18 亀井氏前掲書より重引、三四三―四頁。

19 加藤周一『日本文学史序説 下』(筑摩書房、一九八○年、第十章「第四の転換期 下」「内村鑑三と安部磯雄」)。


付記 小論は、平成二十一年度奈良工業高等専門学校公開講座「日本文学講座U」第一回「夏目漱石を読む」(七月二十四日実施)における講演をもとに大幅に加筆・修正したものです。漱石における「自己本位」と「去私」について、あらためて考える場を与えて下さった参加者の皆様に感謝いたします。

(なお、本Web板では、紙媒体の論文で傍点が施されている箇所を、イタリック体での表示に変えています。) 

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