夏 目 漱 石 『 行 人 』 の 独 身 者

"Dokushinsha(Bachelors)" in Natsume Soseki's Kojin


 武 田 充 啓 (Mitsuhiro TAKEDA)


章立て

 はじめに

   

 

 

 

 

  おわりに
 


  はじめに

 漱石作品を振り返ってみると、その処女作である『我輩は猫である』(以下、『猫』と略す)をはじめとして、『坊ちゃん』『虞美人草』『三四郎』『それから』『彼岸過迄』などの多くに見られるように、独身者を主人公に据えた作品の系譜が存在することがわかる。
 『行人』もまた独身者を主人公とする作品である。ただし、長野家の次男二郎は、その名が示すように、主人公の一人ではあっても主役ではない。この点で、『猫』と類似した作品である。名前のない「猫」もまた、脇役の独身者であり、登場人物でありながら、物語の進行を引き受ける語り手でもある点においても共通している。
 彼らは、自らの資質ゆえに、既婚者が余儀なくされる制約や規範からは自由に、世界を徘徊し観察し、遍歴し報告し、彷徨し独白する。しかし、その役割上、彼らは物事の判断を停止せられ、行為への決断を留保せられもする。彼らは積極的ではないし、創造的でもない。他の誰かにその役割を交換されたところでいっこうに差し支えないかのように振舞う存在である。そして、自身の固有の存在を証すような何ものかを新しく生み出すことなどに消極的であるにも関わらず、かなり困難な形でそれを強いられてしまう存在でもあるのだ。
 語り手でもある独身者たちは両義的な存在である。彼らは一方で匿名的存在であることを義務づけられつつ、他方で固有の存在としての権利を問われることになるからだ。
 しかし、そうした特殊性の一方で、二郎は、他の漱石作品の主人公に共通する性格をやはり持ち合わせている。それは、その生に経験といったものがまるで欠落してしまっているという点である。
 漱石的主人公たちは、遭遇する事件に対してあまりにも無防備であるだけでなく、そうした体験を将来に向けての「技巧」として蓄積していこうとする意志を徹底して欠いているからだ。
 「技巧」は「人間の小刀細工」として切り捨てられる。それは彼らの生活能力や日常への適応力のなさを指しているのではない。彼らには、その生において繰り返しといったものが存在しない。主人公たちは、同じような事件に対してさえ、同じように無防備に、新しくうろたえ新たに傷つくのである。
 彼らのそうした存在のあり方を決定づけている資質の核のようなものを、いまかりに独身者性とでも呼んでおこう。こうした点を考え合わせれば、彼らが実際に結婚していようといまいと、漱石が問題にしようとしているのが、彼らの独身者性であり、漱石的作品は、先に挙げたもの以外のものも含めて、『心』という一つの頂点を示す作品に向けて、主人公たちがいかにしてその独身者性を生きるのかが問われ続けたテクストとして編まれたものだということができるであろう。
 『行人』は、その試みの一つとして、独身者性を持つ脇役が語り手を引き受けるという、方法的には、『猫』の原点に立ち戻ったかたちで問われることになった作品であり、同じ方法で問われる最後の作品が『心』である。その意味で、一つの到達点(この点については後に触れることになる)を直接用意することになった『行人』という作品を、ここではその主人公たちの独身者性を一つの軸にして、私なりに読み解いていきたいと考えている。
 『行人』は、漱石の病によるその中断(「友達」「兄」「帰ってから」)までを前半、病後書き加えられた「塵労」を後半と考えると、大きく二通りの読み方が出来る。一つは、後半を全体の主要な中心部分と考えて、一郎を中心に読み解いたもの、もう一つは、後半を前半の主題からは逸脱した一篇とみなし、前半における主要な人物二郎と直を中心にした読みである。
 しかし、作品の構成上の亀裂を、その主題の分裂という点に注視するばかりでは、今ある『行人』全体を一貫した作品とする読みは期待できない。
 『行人』は、先に『彼岸過迄』で試みられたのと同様に、いくつかのエピソードからなり、そうした独立したエピソードの連なりが一篇の長編小説を形作るように構成されている。しかし、登場人物以外に語り手が存在した『彼岸過迄』とは異なり、『行人』では登場人物の一人である二郎その人が、語り手の役割を果たすことになっている。
 注意したいのは、『彼岸過迄』では、須永や松本が挿話を語る主体(独立した短篇の語り手)として存在しはしたが、全体としては、「結末」と題する元の(登場人物ではない)語り手による締めくくりがなされ、作品としての体裁は一応調えられることになるのに比べて、『行人』では、「塵労」にいたって語り手二郎は小説外部(作者並びに読者)への報告義務を怠ったまま、Hさんという人物の報告(手紙)によってそれが代行されてしまうという点である。(同じ見方をすれば、『心』の語り手「私」も、「先生と私」「両親と私」と続けていた報告の役割を放棄し、「先生と遺書」では先生の言葉(遺書)のみによって、それが代行される、と見ることが出来る。ただし、『心』では構成上、それが円滑になされているため、このことが見えにくい。)
 「塵労」において、二郎が言葉を失ったまま、別の人物の言葉(兄一郎を報告するHさんの手紙)が、代わってそのまま作品の結語にもなるといった事態は、「塵労」以後、それまでの主題から離れて、もっぱら一郎一人が主役を演じることになる事態と、正確に対応している。
 だがそうした事態は、漱石が「塵労」における一郎的「我執」問題を抱えていたためにそうなったと見るよりも、むしろそうした構成の破綻そのものが、漱石的問題を示していると考えるべきである。
 小説家夏目漱石における「問題」とは、むろん「言葉」の問題であり、ここではそれが、語り手である独身者二郎の言葉の喪失という一点に集約されて露見しているのである。
 以上のような観点から、私は、『行人』における独身者性の問題を、特に「言葉」の問題として取り扱うことになるだろう。『行人』においては、登場人物たちがもっとも独身者性を顕すのが「言葉」の領域であり、彼らは気づかぬうちに作者が直面している問題をそのまま演じているからである。

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 二郎が小説の内部で引き受けることになる報告義務は、二つである。そこで求められる二郎の言葉の性格と、報告を受ける側の言葉の取り扱い方の違いについて確認しておきたい。
 「友達」の章の冒頭で、梅田の停車場に降り立った長野家の次男二郎には、友達の三沢と「落ち合はう」(一)とする目的の外に、一つの義務を負わされていた。それは、長野家の「下女だか仲働だか分らない地位に」(「帰つてから」三十七)いる、お貞さんの縁談についてである。
 「先方があまり乗気になつて何だか剣呑だから、彼地へ行つたら能く見て来てお呉れ」(「友達」七)という母からの依頼で、彼はその点について「家」に報告する義務があったのである。
 いま一つの報告義務は、そしてこれが二郎にとっては重要な課題ともなるのであるが、「兄」の章で、一郎お直の兄夫婦を迎えた二郎が、やがて一郎からお直の「節操を御前に試して貰いたひ」(「兄」二十四)と打ち明けられ、負うことになる「嫂について兄に報告をする義務」(同三十九)である。
 「家」への報告義務は、「要するに、佐野さんは多数の妻帯者と変つた所も何もないやうです。お貞さんも普通の細君になる資格はあるんだから、承諾したら好いぢやありませんか」という言葉(手紙)で果たされる。お貞さんが「家の厄介ものといふ名がある丈」(「友達」七)だとしても、また大阪にいる二郎にとって「一番何うでも好かつた」(同五)ことだとしても、人ひとりの将来を決定するものとして、これは軽薄に過ぎる言葉であり、実際「漸く義務が済んだやうな気がした」(同十)という二郎自身が、「多少自分のおつ猪口ちよいに恥入る」(同)と口にしもするのである。
 しかし、ここで確認しておかなければならないのは、二郎の軽薄さではなく、そうした二郎の言葉で、十分に「家」への報告の義務が果たされてしまっている点である。
 縁談を取り持つ岡田は、二郎の手紙に「すうと眼を通した丈で、『結構』と答へ」(同)ており、この在り来たりな言葉の手紙一本で「宅の方は極る」(同)とされているのである。
 長野家では、最初から独身者二郎の見識や洞察など期待してなどおらず、求められているのは言葉であり、しかも二郎個人の言葉というよりは、家族内に安心さえ伝えられれば用が足りる類の、その意味では形式的な言葉である。つまりは「家」という共同体を円滑さのもとに保守する家族内存在者の言葉が期待されていたのであり、それ以外のものではなかったのである。
 一方、一郎への報告義務は、事情を全く異にする。一郎は、二郎が「家」に報告したような言葉を徹底して拒否することになるし、そのために二郎は、いつまでも「義務が済んだやうな気」にはなれないからである。一郎が二郎に期待するのは、二郎が今までに通用させてきた言葉とは違った、別種の言葉であり、いわば独身者二郎自身の言葉なのである。
 さて、こうして見てくると、長野家では、一人一郎のみが言葉に対する態度を別にしているようにも見える。長野家での二郎、一郎、直を取り巻く言葉の状況と、各人のそれへの態度について、さらに見ておきたい。

些細な事から兄は能く機嫌を悪くした。さうして明るい家の中に陰気な空気を漲らした。母は眉をひそめて、「また一郎の病気が始まつたよ」と自分に時々私語いた。自分は母から腹心の郎党として取扱はれるのが嬉しさに、「癖なんだから、放つてお置きなさい」位云つて澄ましてゐた時代もあつた。(「兄」七)

 ここで象徴的に描かれているのは、二郎の態度が、どれほど家族的な要求に素直であるかといったことではない。一郎の不機嫌でさえ、ある意味では長野家の要求の結果であるともいえるからである。
 重要な点は、藤澤るりの指摘にもあるように@、やはり言葉の問題であって、二郎は家族内での言葉の通用性に敏感であり、十分意識的に言葉を使用しているということである。兄は「気六づかしい」(同)というような、それを口にしてさえいれば、家族に安心をもたらす類の、したがって家族共同の認識に寄り添った言葉を使用することに、かなり巧みであるという点である。
 仮に家族の誰かが、「病気が始まった」といえば、「癖なんだから」とでもいってさえおけば、言葉が通じてしまうような空間では、二郎の技巧は実際役に立つのである。またそうした繰り返しが「二郎さんのお株」(「兄」一)ということで、家族内の新たな安定を補強することにもなるからである。
 ここでは、こうした共同体内に心地よく通用する言葉を既婚者の言葉と呼んでおこう。一郎が拒否しているのは、こうした言葉たちである。

自分許ではない、母や嫂に対しても、機嫌の好い時は馬鹿に好いが、一旦旋毛が曲がり出すと、幾日でも苦い顔をして、わざと口を利かずに居た。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変つた様に、大抵な事があつても滅多に紳士の態度を崩さない、円満な好侶伴であつた(「兄」六)

 「たゞ御前の顔が少し赤くなつたからと云つて、御前の言葉を疑ぐるなんて、まことに御前の人格に対して済まない事だ。(略)」(同十九)

 「(略)そんな形式に拘泥しないでも、実力さへ慥に持つてゐれば其方が屹度勝つ。勝つのは当り前さ。四十八手は人間の小刀細工だ。膂力は自然の賜物だ。」(「帰つてから」二十八)

 二郎が意識的に既婚者の言葉に寄り添うのに対して、一郎は、「わざと」沈黙を守る。互いに予期し合った言葉を適度にやりとりすることなど、彼にとっては「人間の小刀細工」にすぎないのである。
 むろん、そうした「細工」を拒む一郎ではあっても、すべての技巧から自由であるわけではない。対外的には「家」の長男として、「態度を」取り繕うことになるし、「兄」四十二では、家の中での一郎の態度を「常に変らない様子」と記した後で、二郎は括弧に入れて「(嫂に評させると常に変らない様子を装つて)」と付け加えているところからみれば、一郎のその「態度」については対外的に限ったものではないともいえようか。
 しかし「おい二郎何だつて其んな軽薄な挨拶をする。己と御前は兄弟ぢやないか」(「兄」十九)と一郎がいうとき、彼は「態度」よりは「言葉」に、よりこだわっており、ここでの「兄弟」という言葉は「家」の中での立場を指してのものではなく、分け隔てのない血のつながった人間同士という意味で使われているのであり、そうした間柄に、言葉の「細工」を持ち込むなといっているのである。
 そして、彼が「人格」とほぼ同格に認め、切望しているのが、「形式に拘泥しない」独身者自身の言葉なのである。
 では、お直はどうか。彼女は、言葉に対しては一郎とも二郎とも異なった位相にあるように思える。お直の態度には、最初から言葉そのものを疑っているようなところがあり、言葉がそもそも技巧であるしかないということに気付いてでもいるかのように、「殆ど一言も口にしな」(同二十六)いか、「どうでも」(同、同三十五、同三十六、「帰ってから」三十五)というような答えばかりを繰り返している。
 二郎との会話の一部を除けば、長野家の内側での彼女は、独身者の言葉への誘惑を巧妙に回避しており、長男の嫁として特に不足のない振舞いを演じている。母親が心配しているのは、「家」の嫁としてのお直ではなく、一郎の妻としての彼女である。
 いったい直のどの点が、一郎とスレ違うことになるのだろうか。奇妙なことに、彼女もまた技巧を嫌う点では、一郎と共通しているのである。

 「積極的つて何うするの。御世辞を使ふの。妾御世辞は大嫌ひよ。兄さんも御嫌ひよ」(「兄」三十一)

 「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊つたり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌よ。大水に攫はれるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」(同三十七)

 「小刀細工」を嫌い、決して「御世辞」を使おうしないことが、一郎にとって「残酷」(同二十五)なことなのではない。直が、一郎という個人に対してさえ、「家」に対してと同様、独身者の言葉を封じ込めてしまっているということが「残酷」なのである。
 加えて、言葉を重視せず、したがって態度や実際の行為に重きを置く直が、やはり持ち合わせてしまっている技巧、二郎の言葉によれば「針鼠の様に尖つてるあの兄を、僅かの間に丸め込んだ嫂の手腕」「さうして其手腕を彼女はわざと出したり引込ましたりする、単に時と場合ばかりでなく、全く己れの気侭次第で出したり引込ましたりするのではあるまいか」(「帰つてから」一)とされるあたりにも、問題はありそうである。
 一郎をして「霊も魂も所謂スピリツトも攫まない女と結婚している事丈は慥だ」(「兄」二十)といわしめることになる原因は、おそらくそこにあるからである。

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 一郎も直も「技巧」を嫌っている。一郎は彼の仕方で既婚者の言葉を拒否し、直はまた彼女なりに独身者の言葉を殺している。このとき二郎は、直との方が「兄よりも却つて心置なく話をした」(同十四)というのだが、そうした事情には「性」の問題が介在しているように思われる。
 彼ら夫婦間の「性」が、「言葉」の問題とどのような関係にあるかを見ることから、一郎の独身者性について考えてみたい。

時々兄の機嫌好い時丈、嫂も又愉快さうに見える(略)。さうでない時は、母が嫂を冷淡過ぎると評する様に、嫂も亦兄を冷淡過ぎると腹の中で評してゐるのかも知れない。(「兄」十四)

けれども斯ういふ霊妙な手腕を有つてゐる彼女であればこそ、あの兄に対して始終あゝ高を括つてゐられるのだと思つた。(「帰つてから」一)

 二郎の観察は人間を深く洞察することはないが、人物の関係は捉えている。彼の視線は、一郎と直の夫婦の性的関係が、互いに相手を超越することが目指されるような関係であることを教えてくれる。そういう関係であるからこそ、その関係が生んだ一粒種を直は独占しようとするのである。
 一郎と直の性的関係は、そのまま彼らの言葉の関係と表裏であり、お直は自身の言葉を差し挟まない代わりに、娘の芳子を独占するのであり、そのありようは、彼女の「言葉」が、「家」への対応のうちに余儀なくされたものを一郎個人に対してさえ持ち込んだものであった、というのとちょうど逆の形で、一郎に対しての行動であることの延長として、「家」に対してもそうなのである。
 他家に嫁いできた直にとって、「長野家の言葉」を使用することは一つの義務である。彼女はその務めをそつなく果たしたが、お直はもともと一郎や二郎ほどには言葉に敏感ではなく、重視もしていない。彼女に不満や不服があったとしても、それは言葉の領域のものではなかったのである。

 自分は湯に入りながら、嫂が今日に限つてなんで又丸髷なんて仰山な頭に結ふのだらうと思つた。大きな声を出して、「姉さん、姉さん」と湯壷の中から呼んで見た。「なによ」といふ返事が廊下の出口で聞こえた。
 「御苦労さま、此暑いのに」と自分が云つた。
 「何故」
 「何故って、兄さんの御好みなんですか、其でこでこ頭は」
 「知らないわ」(「兄」八)

 ここでの二郎は、言葉の不自由さなどに無縁の存在である。言葉に「細工」を拒否していながら、自らの態度においては「細工」が見え隠れすることになる一郎に比べて、二郎はその言葉を「家」に寄り添わせているだけに、かえって態度や行為において自由であり、そこに直が「心置なく話」すことができる要素があったのである。直は決して二郎に特別な「言葉」を期待していなかったし、二郎にはそんな持ち合わせなどなかった。既婚者の言葉を巧みに模倣することぐらいである。しかし、直にはおそらく、二郎の「話す」という「行為」に意味があったのである。
 彼女は、一郎に対してまで、「家」の言葉でしか語ることのできない女であった。それにはむろん一郎にも問題がある。「家」の中にあって、彼女が家族の一員としてではなく振舞える領域は、一郎との性的関係においてのみである。直は一郎が「言葉」を求めたのと同じように「性」を求めたのである。
 一郎と直との性的な関係が軸となって、新しい長野家の「家」関係が築かれていくのである以上、直の要求はもっともなものである。しかし、一郎にとっての直との性的関係は、「家」からは独立した個人の存在を互いに確認する場として適当なものだとは考えられていないばかりか、現在ある長野家から将来あるべき長野家へといった発想の契機ともなっていない。彼はあくまでも今ある長野家の「長男」であり、それだからこそ当然でもあるのだが、未来の長野家への「主」となることに積極的な意志を必要としていないのである。
 そして「長男」として、現在そうで「ある」ことへのこだわりは、彼の取り繕った「態度」に、「主」として未来にそう「なる」ことへの意志の欠落は、既婚者の言葉を拒否し、ひたすら独身者の言葉を求めるという姿勢に現われている。そうした意味では、一郎は「性」に対して極めて独身者的であり、「言葉」の領域においてと同様、そこでの「技巧」と「無技巧」との間で、まさしく漱石的な独身者性を生きているといえるだろう。
 しかし、「霊」や「魂」や「スピリツト」をことさら問題にする一郎にとって、その獲得の可能性は、「性」の領域にあるよりは、やはり「言葉」の領域にあると信じられているのである。一郎が「詩人らしい純粋な気質を持つて生れた」(「兄」六)とされるのは、彼が観念的な頭脳で抽象的に煩悶する男だという意味ではなく、言葉に対する彼の姿勢をこそ指してのものなのである。

兄は和歌山行の汽車の中で、其女は慥に三沢を思つてゐるに違ないと断言した。精神病で心の憚が解けたからだと其理由迄も説明した。兄はことによると、嫂をさういふ精神病に罹らして見たい、本音を吐かせて見たい、と思つてるかも知れない。さう思つてゐる兄の方が、傍から見ると、もうそろそろ神経衰弱の結果、多少精神に狂ひを生じかけて、自分の方から恐ろしい言葉を家中に響かせて狂ひ廻らないとも限らない。(「帰つてから」三十一)

 三沢の「例の精神病の娘さん」(「兄」十)の話を二郎に持ちかけられた一郎は、逆に「三沢が其女の死んだとき、冷たい額へ接吻した」(同)ことにまで触れて二郎を驚かせている。しかし、「接吻の方が何だかより多く純粋で且美しい気がします」と「詩を見る眼で」「接吻」にこだわる二郎を後目に、一郎は「もつと実際問題」として、「言葉」をしか問題にしようとはしないのである(同十一)。
 「早く帰つて来て頂戴ね」(「友達」三十二)という言葉を、「己は何うしても其女が三沢に気があつたのだとしか思はれん」「何故でも己はさう解釈するんだ」とし、「噫々女も気狂にして見なくつちや、本体は到底解らないのかな」(「兄」十二)と洩らさずにはおれない一郎の姿には、無技巧な「言葉」から「スピリツト」を、純粋な「スピリツト」から人間の「本体」を一挙に捉えようとする狂気にも似た、しかし彼なりに真摯な欲望が露出している。
 性的関係における直の要求の正当性にもかかわらず、一郎がそうした要求を素直に受け入れることが出来なくなる要因は、おそらく彼にとって「性」の領域が、「技巧」の混じり込みやすい「態度」や「行為」の領域であると考えられていること、そして実際そこに「技巧」が入り込むことになったためであろうと思われる。
 『行人』という小説は、互いに「技巧」を拒みつつも、相手に「言葉」を求め「態度」を求めてしまうスレ違った男女一対(一郎お直夫婦)が、お互いに対してそれを求め合うことを断念し、そのいずれの欲望からも自由であった同じ一人の青年(二郎)を、(きっかけは一郎がつくるにせよ)同時に自分たちの欲望の対象に移し変えることで、自らの欲望の存続を試みる物語である。二人の欲望は殺される。二郎は結局、どちらの要求にも応じることができず、初めて生まれつつある自身の欲望に気付きながら、術なく言葉も行為も喪失してしまうのである。
 むろん、これはいささか図式的な整理であるが、そこには当然込み入った事情が存在している。それらをいま少し詳しく見ておかねばならない。 

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 一郎が「性」と「言葉」の領域において、「技巧」と「無技巧」との間で漱石的独身者性を生きていることは先に少し触れたが、ここで問題にしたいのは二郎の独身者性についてであり、彼の「性」と「言葉」の領域における一郎との共通点についてである。
 いかにも、ある年齢に達した独身者が家の中に存在し続けると、一見安定に見えた生活の内に、隠された家族内存在者の軋轢や葛藤が露になってくるものだとでもいうように、小説は進められる。
 事実、そうした独身者たちこそがすべての元凶ででもあるかのように、お直は「早く奥さんをお貰ひなさい」「早い方が好いわよ」(「帰つてから」二十五)と重ねて強調し、嫂のことについて直接話したこともなかった三沢までが、二郎に独立を勧め結婚を促している(同二十三)。母親はといえば、これは最初から積極的に、片付けやすいものから順に家から独身者を追い出そうとしていたのである。
 しかし、その母親自身が「二郎たとひ、お前が家を出たつてね‥‥‥」(同二十四)とつい口走ってしまうことにもなるのは、問題は二郎が家を出ることそのことにあるのではなく、別の何かが問題とされていることの証左であろう。
 二郎が家を出ることにどうやら積極的になりはしても、結婚に対してはいつまでも消極的なままで終わるであろうことからも、そこに重大な問題が隠されていることがわかる。むろん漱石的独身者性の問題は、一郎において既にみたように、彼が既婚者となるか否かに関わる問題ではない。むしろ彼自身の固有の欲望に関わる問題なのである。
 独身者は、たしかに「性」に対して戸惑いを見せている。

 自分の「あの女」に対する興味は衰へたけれども自分は何うしても三沢と「あの女」とをさう懇意にはしたくなかつた。三沢も又、あの美しい看護婦を何うする了簡もない癖に、自分丈が段々彼女に近づいて行くのを見て、平気でゐる訳には行かなかつた。其処に自分達の心付かない暗闘があつた。其処に持つて生れた人間の我侭と嫉妬があつた。其処に調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味があつた。要するに其処には性の争ひがあつたのである。さうして両方共それを露骨に云ふ事が出来なかつたのである。(「友達」二十七)

 これを引いて桶谷秀昭は、《こういう文章から明らかなのは、主題は嫉妬ではなく、嫉妬とは何かという問いであるということである。》と指摘しているA。「嫉妬」というような既婚者の言葉に落ち着くことなく、ひたすら「嫉妬とは何かという問い」を生きること。
 しかし、桶谷氏が《この問いが一郎の内部に移されると》と続けて問うことになるとき、私たちは、問題が一郎中心、一郎の自己相対化と自己絶対化への欲望の二極分裂という構図に収まってしまうことから回避的でなければならない。
 問題は、氏が追求している「調和」か「衝突」かの極限ではなく、「中心を欠いた」まま宙づりにされて、どうにも「発展し得ない」「性」の問題であり、したがってこの問題が「一郎の内部に移される」とき、問われなければならないのは、一郎の「性」に対する戸惑いであり、たとえば、なぜ一郎が時々直の「霊妙な手腕」によってその機嫌を直されることになるのか、という問題である。

 扉の敷居に姿を現した彼女は、風呂から上がりたてと見えて、蒼味の注した常の頬に、心持の好い程、薄赤い血を引き寄せて、肌理の細かい皮膚に手触りを挑むやうな柔らかさを見せてゐた。(「帰つてから」二十八)

 平岡敏夫の指摘にあるように、小宮豊隆は、漱石の日記にある「○夫婦相せめぐ外其侮を防ぐ/○喧嘩、不快、リパルジヨンが自然の偉大な力の前に畏縮すると同時に相手は今迄の相違を忘れて抱擁してゐる」「夫はそれを愛すると同時に、何時でも又して遣られたといふ感じになる。」という一節の「自然の偉大な力」とは、性欲ではないかとし、ここでの一郎が、その「自然の偉大な力」を前にして、直に《対する反撥が畏縮して行く事を感じ、相手から「手触りを挑」まれたあとでは、きつと相手を「愛すると同時に又して遣られた」と感じたのに違ひない》と述べているB。

 「(略)結婚は顔を赤くする程嬉しいものでもなければ、恥づかしいものでもないよ。それ所か、結婚をして一人の人間が二人になると、一人でゐた時よりも人間の品格が堕落する場合が多い。(略)」(「帰つてから」六)

 「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。さういふ僕が既に僕の妻を何の位悪くしたか分らない。(略)幸福は嫁に行つて天真を損はれた女からは要求できるものぢやないよ」(「塵労」五十一)

 こうしたお貞さんへの忠告、お貞さんに関するHさんとの会話からも察せられるように、一郎は「性」に対していつでも「自然」を感じているわけではない。たとえそうした「自然」が、小宮氏の考えるように「和解」や「慈悲」の契機になるとしても、一郎は「性」を積極的に肯定できないでいるのである。
 注意すべきは、一郎が「性」の領域においても「技巧」が存在すること、またその「技巧」が、他の誰でもない自分自身が身につけさせるものでもあるということに十分意識的であり、そうした状況を彼が拒もうと努めつつも拒みきれないという点である。
 「性」を前にしたとき、一郎は沈黙している。そしてその一郎の沈黙をなぞるように二郎もまた、「性」については言葉を持てないでいる。むろん、二郎は一郎のように、そこにはっきりと「技巧」を見てそれを拒んでいるわけではないし、はっきり「自然」を感じてそれに惹かれているわけでもない。
 将来「調和」か「衝突」のいずれかに「なる」ことを拒み通し、「中心を欠いた」まま現在そうで「ある」ことにひたすらこだわる二郎は、「我侭」や「嫉妬」という言葉にさえ落ち着くことが出来ず、「性の争ひ」を「争ひ」そのものとして内に抱え込んでいるのである。そして、当然そうした「争ひ」を御し得る「技巧」のあるはずもない二郎は、欲望の対象に直接語りかけること、行為することが出来ず、ただ「自分の罪を詫びる心持ちで」、第三者の三沢に、「もう退院は勧めない」という言葉しか口に出来ないのである。
 しかし、こうした態度こそ、『行人』における独身者の、独身者性をもっとも露呈している姿ではなかったか。
 お貞さんとであれば、「其委細を知つてゐるものは、彼等二人より以外に、恐らく天下に一人もあるまい」(「帰つてから」三十四)とまで二郎にいわしめるほどの話を、「差向ひで」する一郎もまた、お直に対してはついに「手を加へる」ことにまでなっても、直接直に語る言葉を持たず、第三者の二郎に「直はお前に惚れてるんぢやないか」(「兄」十八)という言葉を告げることになるからである。
 ここでも、別の人間に対し別の言葉が用いられ、独身者の欲望は、つまりは二重に代行されてしまっているのである。なぜ彼ら独身者性を生きる者は、自身の欲望の対象に向けて、直接語ることが、行為することが許されないのであろうか。 

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 「性」に「技巧」が入り込むことを極力拒む一郎の姿勢は、「性」の欲望の対象との間に既婚者の言葉が入り込むことが忌避されることで示され、そこに独身者の言葉による対話が成立することが切望されている。しかし、事実はまるで逆のかたちでしか実現されない。
 「技巧」による以外、「中心を欠いた」まま宙づりにされ、代行されるばかりの独身者の欲望は、何処にその活路を見い出すことが出来るのであろうか。
 こうした疑問を前にするとき、一郎が洩らす「二郎、ある技巧は、人生を幸福にするするために、何うしても必要と見えるね」(「帰つてから」五)という言葉は、その痛切な響きの内に、微妙な意味合を含ませているようにも思われる。
 一郎の対人姿勢の基本としての「無技巧」の極限において、やはり必要とされてしまうのが「ある技巧」ではないのかという自問が、そこに現れているかのようだからである。むろんこのとき、「ある技巧」とは、他人を「綾成す技巧」、「何うしたら綾成せるか」という「分別」(同)などとは無縁のものである。
 漱石的独身者性を生きる者が、自身の固有の欲望を、直接その対象に向け、発語し、対話し得るためのスタイルのことであり、それなくしてはどうしても独身者の言葉が生きられないような、あるかたちのことである。
 このとき、この一郎の「ある技巧は何うしても必要」だという言葉は、「性」を前にして、それに対応し得る自身の言葉を(あるいは態度を)、したがって「ある技巧」を持つことが出来るか、という、二郎に対する問いかけの言葉にもなるのである。
 しかし、一郎が二郎に告げた、「実は直の節操を御前に試して貰ひたいのだ」(「兄」二十四)という言葉こそは、実は彼が口にし得る、ぎりぎりに独身者の言葉に近いものではなかったか。というのは、この言葉が一郎が直へ直接向けるべき欲望の代行としてのものではなく、二郎その人に与えた課題であり、したがって二郎への「愛」の言葉ではなかったか、という点においてである。
 独身者でありながら、あるいはそれ故に独身者の言葉を持てないでいる二郎であっても、二郎に対してなら語られるであろう直の独身者としての言葉(態度)に対して、二郎もまた当然自身の独身者の言葉(態度)で応じざるを得ないであろう。そしてそれが二郎に可能となれば、自分とも独身者の言葉で語り合うことが出来るようになるのではないか。
 こうした隠された欲望が、そこに存在していたのではあるまいか。

君、女は腕力に訴へる男より遥に残酷なものだよ。僕は何故女が僕に打たれた時、起つて抵抗して呉れなかつたと思ふ。抵抗しないでも好いから、何故一言でも云ひ争つて呉れなかつたと思ふ(「帰つてから」三十七)

 後にまたHさんという第三者に対して、直に「手を加へた」ときのことを述べる、こうした直の「言葉」を要求する一郎の言葉は、もはや彼の身勝手な独白に過ぎない。事実は、二郎に対して「直の節操を御前に」と口にしたときすでに、一郎は直との間に独身者の言葉で語り合うという欲望を自ら殺していたのである。
 したがって、「節操を御前に」という言葉は、直への欲望の代行としてはあり得ず、それは直接二郎に向けての一郎の独身者としての言葉であり、また独身者の言葉による対話の成立という彼の欲望を存続させることをもくろんだものだったのである。「スピリット」を捉えようとする一郎の主要な関心は、だから二郎にそれが可能であるか否か、ということに移っている。
 こうして、二郎が一郎からの報告義務を負うことになるとき、彼は同時に、直からの返答の義務をも負うことになる。一郎には「言葉」によって、直には「態度」によって、それぞれ応じねばならぬ課題を前にしたとき、二郎はどのように振舞い得るのか。そして、そうした二郎の振舞いは、一郎や直に何をもたらすことになったか。
 しかし、今まで「家」の中で、「懸隔のある言葉で応対するのが例になつてゐた」(「兄」二)とされるほど、「上下」の関係を生きてきた二郎に、突然同じ平面に降りてきた一郎の、独身者としての言葉をどのようにして受け取り、どのようにしてそれに答えよというのか。

「お前直の性質が解つたかい」/「解りません」/自分は兄の問いの余りに厳格なため、つい斯う簡単に答へて仕舞つた。さうして其あまりに形式的なのに後から気が付いて、悪かつたと思ひ返したが、もう及ばなかつた。/兄は其後一口も聞きもせず、又答へもしなかつた。(「兄」四十二)

 自分はしばらく兄の様子を見てゐた。さうして是は與し易いといふ心が起つた。(略)もう少し待つてゐれば自分の力で破裂するか、又は自分の力で何処かへ飛んで行くに相違ない。−−自分は斯う観察した。
 嫂が兄の手に合はないのも全く此処に根ざしてゐるのだと自分は此時漸く勘付いた。又嫂として存在するには、彼女の遣口が一番巧妙なんだらうとも考へた。(略)昨日一日一晩嫂と暮した経験は図らずも此苦々しい兄を裏から甘く見る結果になつて眼前に現はれて来た。(同四十三)

 お直との和歌山での一夜を過ごした後、和歌の浦に戻った二郎が一郎に報告を迫られる場面での言葉である。
 二郎は、「此時の自分の心理状態を解剖して、今から顧みると、兄に調戯ふといふ程でもないが、多少彼を焦らす気味でゐたのは慥である」として、「自分は今になつて、取り返す事も償ふ事も出来ない此態度を深く懺悔したいと思ふ」(同四十二)というのだが、二郎のいうこの「今」は、おそらく予定されていた結末(カタストロフ)が変更されたことによってか、小説ではついに明らかにされることがない。したがって、どのような意味で取り返しがつかないのかが不明である。
 しかし、独身者性の観点から『行人』をみてきた私たちには、この言葉が一郎の「愛」に応えることが出来ずに終わった二郎が、自身の独身者性に無自覚ではいられなくなる事態を迎えるだろうことを知ることが出来るのである。
 直との間についても、事情は同じである。二郎のいう「嫂と暮らした経験」が、一郎を「焦らす」程度の「技巧」を身に付けさせるだけで、先の程度にしか一郎を理解させないものだったとすれば、それが直にとってどの程度の「経験」であったのかは知れている。
 おそらく、一郎に二郎との和歌山行きを命じられたとき、すでに一郎に対してだけでなく、自身にも絶望していたはずのお直にとって、仮に必要とされるものがあるとすれば、それは二郎の実際の態度であり行為であった。二郎自身さえ必要としていない言葉など、直にはそれこそ「どうでも好い」ものだったのである。

嫂の前へ出て、斯う差し向ひに坐つたが最後、到底真底から誠実に兄の為に計る事は出来ないのだと迄思つた。(略)何んな言語でも兄の為に使はうとすれば使はれた。けれども其を使ふ自分の心は、兄の為でなくつて却つて自分の為に使ふのと同じ結果になりやすかつた。自分は決して斯んな役割を引き受けべき人格ではなかつた。(略)/「貴方急に黙つちまつたのね」と其時嫂が云つた。恰も自分の急所を突く様に。(「兄」三十一)

 二郎は、「自分の為に使ふ」言葉を口に出来ない。では彼は態度や行為でそれが出来るのだろうか。

 「正直な所姉さんは兄さんが好きなんですか、又嫌なんですか」
 自分は斯う云つて仕舞つた後で、此言葉は手を出して嫂の頬を、拭いて遣れない代りに自然口の方から出たのだと気が付いた。嫂は手帛と涙の間から、自分の顔を覗くやうに見た。 
 「二郎さん」
 「えゝ」
 此簡単な答えは、恰も磁石に吸はれた鉄の屑の様に、自分の口から少しの抵抗もなく、何等の自覚もなく釣り出された。
 「貴方何の必要があつて其んな事を聞くの。妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思つてゐらつしやるの」
 (略)
 「云はなくつても腑抜けよ。能く知つてるわ、自分だつて。けど、是でも時々は他から親切だつて賞められる事もあつてよ。さう馬鹿にしたものでもないわ」
 自分は甞て大きなクツシヨンに蜻蛉だの草花だのを色々の糸で、嫂に縫ひ付けて貰つた御礼に、あなたは親切だと感謝した事があつた。
 「あれ、まだ有るでせう綺麗ね」と彼女が云つた。
 「えゝ。大事にして持つてゐます」と自分は答へた。自分は事実だから斯う答へざるを得なかつた。(同三十二)

 互いに独身者的存在として、最も近いかたちで向かい合うことになったこの場面でも、二郎は直の求める態度や行為に出ることはなかったのである。
 お直の悲劇性は、彼女の欲望の二次的な対象として二郎が選ばれてしまったということではなく、そもそも一郎にしてからが彼女の欲望の二次的な対象であったという点であろう。欲望そのものが二次的であるしかない彼女には、その一次的な対象などというものは存在し得ないからである。

親の手で植付けられた鉢植のやうなもので一遍植ゑられたが最後、誰か来て動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝としてゐる丈です。立枯になる迄凝としてゐるより外に仕方がないんですもの(「塵労」四)

 直は、水を与えてくれる「誰か」がそばに居さえすれば、自身の欲望に気付かぬ「鉢植」でいるしかない存在なのである。
 独身者は、「言葉」が求められている相手には「態度」で、「態度」が求められている相手には「言葉」で、しかも中途半端なかたちで、それぞれに応えてしまう。二郎はこのとき、一郎や直の、誰より自身の欲望に気が付いていない。しかし、一郎や直にとっては、自らの欲望を殺すことになるだけで終わったこの「経験」も、二郎にとっては、その後になって自身の欲望に目覚まされることになる一つの「事件」であったのである。 

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 引き延ばされ、その間だけはかろうじて生き延びることになった一郎の、独身者の言葉への欲望は、彼が二郎に「士人の交はりは出来ない男だ」という「烈しい言葉」(「帰つてから」二十二)を吐くことになるとき、またも自らの手でそれを殺すことになる。ここにおいて、一郎の言葉は、直に対しても、二郎に対しても、その独身者的対話を生きる可能性を閉ざされてしまうのである。
 独身者の言葉を持てないでいる二郎にとって、「節操をお前に」という一郎の言葉も、「死ぬ事丈は何うしたつて心の中で忘れた日はありやしない」(「兄」三十八)という直の言葉も、対話の不可能な不可解な言葉にすぎない。

云ふべき言葉は沢山あつたけれども、(略)最後の一句は正体が知れないといふ簡単な事実に帰する丈であつた。或は兄自身も自分と同じく、此正体を見届ようと煩悶し抜いた結果、斯んな事になつたのではなからうか。自分は自分が若し兄と同じ運命に遭遇したら、或は兄以上に神経を悩ましはしないかと思つて、始めて恐ろしい心持ちがした。(「兄」三十九)

 二郎は、言葉の領域において、自分が「兄と同じ運命に遭遇」することになることに気が付いていない。それでも彼は、自身の言葉の独身者性に付いて考えざるを得ないであろう。

下宿後の自分は、兄に就いても嫂に就いても不謹慎な言葉を無責任に放つ勇気は全くなかつた(「帰つてから」三十八)

自分の胸には、火鉢を隔てゝ彼女と相対してゐる日常の態度の中に絶えざる圧迫があつた。それが自分の談話や調子に不愉快なそらぞらしさを与へた。自分はそれを明かに自覚した。(略)自分は硬くなつた。さうしてジヨコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦まざるを得なかつた。/「二郎さんは少時会はないうちに、急に改まつちまつたのね」(「塵労」二)

 一郎を「馬鹿にし易い所のある男」(「兄」十九)と見た二郎は、「人格の出来てゐなかつた当時の自分」を反省し、「今の自分は」「相応の尊敬を払う見地を具へてゐる」(「兄」四十三)とし、兄に対する見方の変化を告げている。しかしお直に対しては、ついに「正体の知れない嫂」(「兄」三十九)の域を出ないままである。「塵労」にいたっては、その「嫂の幽霊に追い廻された」(六)りもするのだが、「柔らかい青大将」(一)への関心よりは、やはり「兄の自分対する思はく」が「一番知りたかつた」(二十一)というのである。
 そうした二郎が、何故Hさんの報告に言葉を譲ることになるのかという問題は、従来の作品の主題の分裂という見方では答えきれない。
 既婚者の言葉だけで生きていくことがもはや許されず、しかも独身者の言葉を交わすはずの相手をなくしてしまった自分とまったく「同じ運命」を先行して生きる兄へ、兄一郎の語る言葉へと、二郎の欲望の対象は次第に明確になってきている。
 しかし「兄に報告する義務」は回避し得たものの、それが語り手としての、兄を報告する義務さえも放棄せざるを得なくなることに、彼はどれほど自覚的であり得たか。兄一郎から「軽薄児め」(「帰つてから」二十二)と罵られた人物が、それに対応し得る如何なる言葉すら有しないまま、一郎の何をどのように報告出来るというのか。二郎は自身の「言葉」について、「兄以上に神経を悩ま」さねばならないだろう。
 二郎は、自身の言葉を確かめるために、かつて言葉を交わし合えたはずの三沢を訪ねることになるだろう。三沢とならば、独身者としての言葉のやりとりが可能ではなかろうかという微かな望みを抱きつつ。しかし二郎がそこで出会うのは、もはや結婚が決まり、すでに既婚者の言葉しか話そうとしない男なのだ。

「君兄さんを旅行させるの、快活にするのつて心配するより、自分で早く結婚した方が好かないか。其方がつまり君の得だぜ」(「塵労」十六)

 二郎が最終的に選んだ方法は、自身の言葉の喪失を今一度考え直すためにも、兄一郎の「言葉」をなぞることであり、その言葉を自身の言葉として生き直すことであつた。しかし、一郎と二郎との間には直接独身者の言葉を交わし得る関係が壊れてしまっている。そこで二郎は、一郎の言葉を媒介してくれる第三者Hさんを、そのまた第三者三沢を介して要請するということになるのである。
 さらに問題は残されている。「塵労」の多くを占めるHさんの報告の中で、一郎はHさんと独身者の言葉を交わし合っているのだろうか、という問題である。
 なるほど、Hさんは一郎とは性格から体格にいたるまで、正反対の人物として描かれてはいるが、一郎の「言葉」にとって、真の他者たり得ていないのではないか。一郎の欲望の対象は、Hさんとは考えられず、そもそも二人の旅は、一郎の直や二郎への絶望が前提となっていることから考え合わせても、彼らの会話は、またしてもせいぜい一郎の欲望の存続のために代行されるものでしかあり得ないからである。
 「心臓の恐ろしさ」(「塵労」三十二)を告白する一郎の言葉は、Hさんには伝わらない。「君の心と僕の心とは一体何処迄通じてゐて、何処から離れてゐるのだらう」という一郎の問いかけに、Hさんが「Keine Brucke fuhrt von Mensch zu Mensch.(人から人へ掛け渡す橋はない)」という答えをする場面(同三十六)では、一郎は同じ「Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit!(孤独なるものよ、汝はわが住居なり)といふ独逸語」でもって、Hさんの言葉に応じるのだが、それは独身者の言葉による対話の成立を意味するものではなく、Hさんの不用意な既婚者の言葉に絶望した、一郎の決別の言葉であったのである。
 以後、語りかけるその言葉の対象を失っているはずの一郎は、しかし、Hさんの「好意」に寄り添って、独白を続けることにはなるが、彼らの関係が「言葉」によって本質的に変革するような事態は、ついに出来することがないのである。
 そうした意味でも、Hさんの役割は、一郎と独身者の言葉を交わす真の「他者」としてではなく、やはり一郎の「言葉」を知りたいという二郎の欲望に添ったものであり、二郎の欲望の代行者としてであろう。

けれども私は断言します。兄さんは真面目です。決して私を胡麻化さうとしては居ません。私も忠実です。貴方を欺く気は毛頭ないのです。(同五十二)

 報告の中での一郎の言葉が、二郎のことに一言も触れていないことを言い訳しようとでもするのだろうか。一体、Hさんが忠実なのは一郎に対してなのか、二郎に対してなのか。それとも二人ともになのか。二郎を欺くつもりがないのはHさんだけではなく、一郎もそうなのか。彼自身もまた、一郎と二郎との間で言葉の独身者性について悩んでいるとでもいうように、報告を締めくくるHさんの言葉は曖昧である。
 いずれにせよ、一郎と二郎のスレ違いの「愛」を描くために、直が必要であったのと同じ様に、Hさんもまたそのために不可欠な存在であることに違いはないのである。
 こうして見てくれば、『行人』はその作品の構成上の破綻にも関わらず、つねに個人の欲望が媒介され、代行される形でしか存在し得ず、そうした欲望は当然満たされることがないという姿を描くことにおいて一貫しており、このことこそが漱石の直面していた問題であることを知ることが出来るのである。 

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 おわりに

 一郎の性急にすぎる欲望と底のない絶望には、好意的なHさんもついていけない。しかし、この一郎の性急さを、漱石その人のものだとするのは、それこそ性急であろう。
 既婚者の言葉を模倣することを自ら禁じ、言葉を喪失した二郎はおそらく、一郎の独白する言葉(から吐露される情熱)の速度をゆっくりと眺めているはずである。彼は一郎の言葉を記したHさんの言葉を引用する。
 模倣するのではなく、それを引用するとき、二郎はそれを自身の言葉として生き直すことを意志している。このとき言葉は、何度も再現され模倣されて共同体的な心地よさに寄り添っていく既婚者の言葉としてではなく、そのつど一回きりの現在として、独身者の言葉として生きられようとしているのである。引用による反復は、このとき真の事件となる。しかし、『行人』において、それは成功しているようには思えない。
 たとえば『心』では、「私」に直接語られた先生の言葉を、それが誰に語られたものかまるで忘れてしまったかのように、もう一度「私」が客体化して引用するとき、初めて言葉は個人的な発語の領域を超えて、共有されるべき独身者の言葉(対話)として生きられることになる。
 『行人』の場合、それが果たされないのは、Hさんという媒介者が介在するからだけではない。なにより一郎の言葉そのものが閉ざされたものだからだ。
 たしかに一郎の言葉は閉じられており、しかもその個に閉ざされた言葉の中を堂々巡りする苦悶のうちに、ある種の安らぎがあることも確かなのである。個の自己同一性を確かめることさえ出来ずに加速されていくばかりに見える一郎の閉じられた言葉は、ある時ほんの一瞬、いわば等速度運動に移行するのである。その瞬間、一郎に絶望への不安から解放された閉じられてあることの安らぎが訪れる(その最も長い瞬間が、結末の一郎の深い眠りである)。
 しかし、この安らぎは死を決意した『心』の先生の安らぎとは別のものだ。他者を、他者の言葉を、独身者の言葉を求め、それへと向けて言葉の彼岸を越えていこうとする臨界で、一郎の意志はしかし踏み留まっているのだ。彼は気が狂うことも死ぬことも恐れてなどいない。自身の欲望の死を、絶望を恐れているのである。
 すでに先行している幾多の言葉に囲まれて、一体如何なる「言葉」が自己に固有の言葉として発語可能か。それは一体誰との間に可能であるのか、誰がその言葉の固有性を保証してくれるのか。
 漱石は、その可能性を「恋愛」に見ていた。互いに交換不可能な個人の間には、そうした独身者としての言葉による対話が可能であるはずだと考えたのである。
 一郎が独身者の言葉にこだわっているのは、それによる対話が可能であるということが、そのままその相手との関係が交換不可能なものであることの証左であり、したがってそこに「恋愛」の成就が確認されるからである。
 一郎は妻の直との間にそれがかなわず、二郎にその欲望の対象を移すことで、自身の「恋愛」へのロマン的欲望を生き延びさせようとする。しかし、それにさえ失敗する一郎を描く漱石は、「恋愛」の不可能性を徹底して描いているともいえるので、ここではそうした「言葉」=「恋愛」へのロマン的欲望の真摯さとそれへの絶望が、どちらに行き着くことさえも出来ずに、まさしく「中心を欠いた」まま次々と先送りされていくことになるのである。
 漱石作品における独身者性とは、この「言葉」=「恋愛」へのロマン的欲望とそれへの絶望が、徹底され得ないという必然性からもたらされるものである。
 大切なのは、二郎が一郎の欲望と絶望をなぞることになることで、彼が丹念に自身の欲望を辿りさえすれば、欲望と絶望の両面において、ぎりぎりの所まで問われたはずなのである。重ねられた欲望と絶望が、ここでは独身者性を生きる者をその極限へと導く契機として活かされないままである。
 一郎は「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」(「塵労」三十九)と叫ぶことにはなるのだが、そのいずれにも行き着けない。
 それは二郎が自身の欲望にまだまだ忠実でないためである。おそらく、二郎もまたこう叫ばなければならなかったはずである。「告白か、引用か、それでなければ小説を書くか。僕の前途にはこの三つの『言葉』しか残されていない」と。そして、そこで初めて一郎の独身者の言葉の問題が、言葉を組織する小説家夏目漱石自身の問題として抜き差しならぬものとなるのである。
 しかしこの問題は『心』において、再び、そして今度は徹底的に扱われることになるであろう。(ここで徹底的というのは、死、狂気、宗教のいずれかに決定され、それに落ち着くということではない。そうではなく、「言葉」=「恋愛」の問題が要請する不可避の不徹底性こそが、徹底して生きられるという意味である。)

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 註

@ 藤澤るり「『行人』論・言葉の変容」(「国語と国文学」五十七年一○月号 、後、日本文学研究資料叢書『夏目漱石V』所収)

A 桶谷秀昭「相対と絶対との間」(『夏目漱石論』河出書房新社、第八章)

B 平岡敏夫「『行人』その周辺」(『漱石序説』塙書房)
  小宮豊隆「夫婦の問題」(『夏目漱石』岩波文庫 下巻六六)

 尚、テクストは漱石全集(新書版岩波書店)による。引用文中の仮名は原文のまま、漢字は新字に改めた。傍点は特に断わりのない限り引用者による。 


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