明視と盲目(一)   ―夏目漱石『明暗』を読む―
 
                       武 田 充 啓
   
Insight and Blindness in Natsume Soseki's Meian (T)  
    

 
 一

 『明暗』は一九一六年、大正五年五月から十二月にかけて東京・大阪の両「朝日新聞」に連載された漱石最後の、そして未完の小説である。このたび『明暗』を読みかえしてみて、まず思ったのは、漱石はここにいたってもやはり老荘の思想を自らの理想として手放してはいない、というそのことであった。漱石には早くに、したがって正確には夏目金之助にということになるが、「老子の哲学」(一八九二年、明治二十五年)があり、そこで絶対と相対の二面性がもたらす矛盾を指摘しているのだが、三浦雅士はその老子批判に漱石のヘーゲル体験を推測しながら、《無という絶対を離れ、有という相対へと向かわざるをえなかった》のは漱石自身であったが、それでもやはり老子は《漱石のなかに根強くとどまっている》と述べている@。《無限という観念はある場合には、人間の悲惨な条件への最大の慰め》であり、《老子の教える無、無為は、その出生の秘密、その悲惨を覆い隠すに十分であった》と。

 老子が理想としたことのひとつに、子供に還る、というのがあるが、『明暗』にも、主人公の津田由雄を「嘘吐き」(二十二)だと非難する、その名も真事(まこと)という津田の従弟である少年が出てくる。また妻のお延の従弟にも、やはり一(はじめ)と名づけられた男の子がいるのである。三浦氏の論考の中心は、《母親を赦す地点までの長い旅路》を漱石文学にたどることにあり、そしてそれはそれで興味深いものではあるのだが、ここでの試みはその旅路を辿りなおすことではない。もちろん《やがて訣別を余儀なくされた》漱石は「老子」の外へ出て行かねばならなかった。三浦氏もいうように、自活する必要のあった漱石には《積極的に生きることを禁じ》た退歩主義の隠遁思想では食べていけなかったからである。わたしたちはここではさしあたって、若い頃に深く傾斜し耽溺した老子の思想を、漱石がその晩年にいたるまで捨て去ることがなかった、とする推し量りをより確かなものにしてくれそうな手がかりがえられたことで満足しておきたい。

 ある英文学者によれば《近代小説とは何よりもまず権力のネットワークに巻き込まれ、その中で、権力を対象化しようとしてもがくジャンルのことである》Aらしいが、もしそうならば漱石の小説はそのような意味での近代小説ではまったくない。処女作の『吾輩は猫である』の「笑い」に明らかなように、彼はひたすら「解脱」を求めたのであって、「普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いた」小説で「美しい感じが読者の頭に残りさへすればよい」(「余が『草枕』」)とされた『草枕』はもちろん、新聞に連載するかたちで書くようになった最初の作品『虞美人草』も、またそれ以降の小説でも、文明批判をベースにしたその解脱志向という基本的な姿勢は変わっていない。もっとも『虞美人草』では、解脱ができないことへの焦りから、主人公がいささか性急に道義を説き、作者が無理やり悲劇を持ちだしてしまった嫌いはあるし、不十分ながら権力にやや近づいて見せた『それから』は例外的な作品といえるかもしれない。しかし「笑い」「非人情」「悲劇」「余裕」「低徊」「無性格」「過去」「連作短篇」「告白」、それらはすべて作家が解脱に近づき、解脱を実現するための小説的手段だったのである。

 いったいに漱石の小説において主人公の解脱を妨げるものは文明であり、それは彼/彼女自身の猜疑心として顕れる。『吾輩は猫である』の珍野苦沙弥にはじまり、『虞美人草』の甲野欽吾、『こゝろ』の先生、『道草』の健三らは、皆その例に洩れない。しかし『明暗』では、さすがに『草枕』のように「プロツトも無ければ、事件の発展もない」(「余が『草枕』」)とまではいかないものの、津田の痔疾治療にしても、お延の従妹である継子の縁談話にしても、また小林の朝鮮行きにしても、それらの挿話はあくまでも場面展開における修飾的な機能を果たしているだけに見えなくもなく、津田と清子との(過去の恋愛を含む)関係の行方次第によって変化するであろうお延と津田との関係が、とりあえず主軸にはなっているものの、登場人物個人の精神的成長や人格的発展などはおよそ約束されているようには見えない。そしてここでは解脱は作者の作者による作者のための希求であって、小説に登場する人物はだれであれ、そんなものを求めてはいない。彼らはほとんど例外なく、俗情にまみれて生きるだけである。

 ここでは作者は、「写生文家の人事に対する態度」として「大人が小供を視るの態度である」とされるときの「大人」(『写生文』)であり、現実を「非人情」に眺めて描きとる画工(『草枕』)であり、「世界滅却の日を只一人生き残つた心持」(『虞美人草』八)でいる甲野であり、甲野自身が「小供になれれば結構」と憧れた老子的理想としての「小供」(『虞美人草』十八)なのである。もちろん作者は「我執」を「道義」で囲い込んだりしないし、「経済学の独逸書」(三十九)でもって説明するわけでもない。〈文明の進歩=自我の拡大/道義の必要性=近代の批判〉が『虞美人草』における甲野=作者の認識の枠組みであったとするならば、『明暗』では自我の拡大を批判する道義のようなものは存在しない。『こゝろ』のあと、漱石は登場人物に解脱を体現させる方向にではなく、『道草』を経て、どうやら作家はただ語り手や叙述のあり方そのものにだけ解脱の可能性を探ろうとし始めたようなのである。したがって、その世界にあるのはただ主人公たちの、自我の拡大そのものが自我を制御しつつ、それでも「愛」を生成していく姿である。

 二

 ここからはお延の津田に対する「愛」の性格を確認したうえで、津田が清子に見る「夢」について考えていきたいと思うが、その前に『明暗』の作者の作品に対する位置どりを、すなわちその文学的技法を、もう少し具体的に確かめておこう。

 漱石がまず留意しているのは、どんな階層に属する人間であれ、年齢にも性別にもかかわりなく、会話をするほとんどすべての登場人物が同列に扱われることである。これには《津田を二流のエゴイストに設定することによって、諸人物のエゴイズムが同じレヴェルで書けます》Bという大岡昇平の指摘が参考になる。たしかに津田が確固たる自己をもたない人物であり、お延や清子や吉川夫人といった他者の欲望に翻弄されるしかない男であるからこそ、この小説において彼は磨かれた鏡面のような役割を果たすことになり、どんな人物のどんな欲望も、ただ自分だけを気づかい自身を守ろうとするにすぎないという意味で、等しく同じ水準に置かれ、互いに相対化し合うしかない姿が見事に映しだされてくる。彼らは、相手の内心まで明察できるにもかかわらず、自分自身については盲目であるしかない人物たちとして、例外なく共通に設定されているのである。

 こうした平準化を可能にする人物設定に加えて、本文で多用されるのが、「また(表記によっては「又」「亦」)」や「にも」といったような単語を使った両面的、多元的な表現であるC。「また」は早くに相原和邦が「矛盾叙法」や「対比叙法」として取りあげていた表現方法Dの例にあげられた文章にも含まれているが、ここで注意したいのは、人物の視点や立場の多元性だけではない。むしろそれらの言葉の連なりや重なりが浮き彫りにする世界そのものの偶然性や潜在性をである。

 
その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深く見えた。または自衛的に慢(たか)ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間にかそこへ引き摺り込まれた。(十一)E

 「また」については、辞書には副詞として1「再び」「二度」、2「同じく」「ひとしく」、3「ほかに」「別に」「別のとき」、4「新たに加わった事態に驚きや不審の念をこめていう」「この上」、といった意味があり、接続詞として1「その上に」「そのほかに」、2「ならびに」、3「話題を変える時にいう」「それから」、といった意味が出ている(広辞苑)。これらの意味は論理的な側面からは「and」と「or」に大別することができるだろう。「or」的な語が増えるほど表現は二面的あるいは多元的なものになるが、他に「同時に」(74例、『道草』35例、『こゝろ』21例)「でもあった」(23例、『道草』10例、『こゝろ』6例)などの語も『明暗』では多用されている。

 「再び」「そのうえ」などのように語の前後にあるものを先後的、直列的につなぐ場合を「and」的なものとし、「同時に」「あるいは」などのように語の前後にあるものを同時的、並列的に分ける場合を「or」的なものとすると、『明暗』のテクストは、これら必然性の意味を担う「and」的な言葉と偶然性の意味を担う「or」的な言葉とが、縦糸と横糸となって織り込まれているといってよいのである。

 そしてもちろん「ことによるとそこでまた一波瀾起したのではあるまいか」(百十九)の場合のように「再び(and)」と「あるいは(or)」のいずれの意味合いをももっている例もあり、同じ例として「お延はお延でまた」(九十)「私は私でまた」(百三十八)「彼には、彼でまた」(百五十)「僕は僕でまた」(百五十六)「男は男でまた」(百六十六)などがある(「でまた」は『明暗』20例、『道草』6例、『こゝろ』6例)。あるいは前を承け残しつつ後ろには矛盾するように意味を捻って繋ぐ「それでいて」(『明暗』10例、『道草』2例、『こゝろ』16例)のような言葉の使用も比較的多い。

 故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿(つけまつ)わった。それがまた津田の訊こうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅(うるさ)くあり、じれったくあった。何となく遠廻しに痛振られるような気した。(百十八)

 こうした表現の多用は、描かれる対象がもつ同時的な可能性としての潜在的多元性だけでなく、対象となる人物の行為や出来事の必然性や偶然性、それらの継起における時間的な連続あるいは不連続についても共に示すことになり、その効果としてテクストはさながら迷宮の観を呈する。迷宮とは、わたしたちが生きる多元的かつ偶然的でありながら必然的かつ連続的でもあるこの世界のことであるが、さらにこれまた多用されている「急に」「突然」といった言葉Fや情景描写(このいちばんの例は「一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水」(百七十八)であろうか)などとも重なりはじめると、津田が引き込まれた吉川夫人の「迷宮」(百三十九)以上に、彼が「迷児(まご)ついて」(百七十六)しまった湯河原の宿の廊下以上に、迷路めいてくることになるのである。

 迷路においては一層はっきりするが、そこで何かが見えているということがそのまま何かが見えていないということである。そして世界は、現実は、出来事はつねにすでに事後的なものでもある。小説家はしかし、事後的な彼の了解を書きつけるのではないし、また事後を事前のものにすり替えるのでもない。いま起こりつつあるものをここに準備し現前させようとするのである。見えないものを書くことによって、また見えるものを書かないことによって。変化していくことを、生成していくことを、ただ外側からとらえるのではなく、内側からそれらを生きることができないだろうか。作家の文学的技法には、彼のそうした欲望がおそらくは生きられている。

 漱石が『明暗』で描こうとしているのは、変化であり、移行であり、生成である。要するに、わたしたちが生きるこの現実の明滅をである。それを言い換えて、我々が生きる時間の実相と人間の自由意志の可能性といってもよい。時間は繋がっているようで切れていて、不連続なようで連続している。自由な意志などありえなく、すべては必然のようでもあり、しかし偶然に救われて生き延びる意志もある。起きつつあることの正確な経路をなるべくそのまま写しとることが目論まれている。そしてまさに作家のこの姿勢にこそ老子の無為の思想が、その最良のかたちで生きられようとしているのではないだろうか。

  三

 お延は、津田が自分を愛していないことを知っている。

 「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
 今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部から覗いてもとうてい判りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。(八十三)

 飯田祐子はお延が自分の津田への「愛」を疑わないのはおかしいと述べているG。《自分が愛していた人柄がすでに失われているのだから》というわけである。そして、自分が愛しているのは自分自身ではあるまいかとか、「愛」とは何かといった懐疑に陥ることもないのは変だ、と。おそらく、お延が自分の津田への「愛」を疑わないのは、その愛がむしろ作為的なものであるからである。

 「彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった」(百十二)。お延は彼女の「愛」の「主人公」(六十五)であり「責任者」(同)である。そのかぎりにおいて彼女は自分の「愛」を疑う積極的な理由をもたない。津田の清子への愛は、『それから』の代助の愛に似ている。自覚できないところで心が動いているのである。しかし『明暗』の場合、津田をリードするという点ではむしろお延こそが主人公であり、そのお延と津田の関係は、たとえば『虞美人草』の藤尾と小野の間にあった関係と比べると一目瞭然なのだが、二人の外部にある世界をかなりその内部に持ちこんでいるという意味で、随分発展したものになっている。藤尾が思い描いた利害や彼女が抱えた感情に較べるとお延の自由意志は、あるいは彼女の「小さい自然」(百四十七)は、はるかに煩雑な計算と複雑な心理を処理するところに成り立っている。

きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。(中略)/お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉(ふ)った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存はなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。/しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具っていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪(にく)い吉川に口を利いて貰おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説き落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手であった。(百十三)

 もちろんこうした差異は、明治の社会より大正の社会のほうがこみ入ったものになったというようなことを意味しているのではない。それよりはむしろ作家の愛というものに対する認識の深化、人間世界を描く方法意識の変化をそこに見るべきである。そして『明暗』で作者が主として扱う「愛」は、二人の間だけに閉じることのできる、そんな可能性をもった関係ではおそらくない。その愛には、いわば最初から外に向けて開かれたままついに閉じることのできない窓があるからである。つまり、近代西欧の文学(作品)が多く取り扱ったような、社会の通念と対立する個人と個人との情念の結びつきとしての「恋愛」とは異なる愛とその可能性が問われようとしているのである。彼らは藤井や岡本といった親族に代表されるそれぞれの「世間」を背負っており、それを抜きにした自己などどこにもありえない。したがってお延と津田が抱えている課題は、自身の猜疑心を乗り越えながら、自分たち以外の存在がたえず出入りする関係のただ中で、それでも互いへと通うつながりを確かめあっていくことなのである。

 「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」(百二十八)。このお延の問いは、津田が彼女の「ほかにまだ思っている人が別にある」(百二十七)のではないかと疑っていながら、そうだとお秀に悟られたくないためにこしらえた問いであるが、わたしたちの文脈ではこの問いは、世界の偶然性、多元性にかかわる問題である。つまり、必然性の前で人間の自由な意志は存在するか、という問いかけであり、またその裏側で、もし自由意志(「あるいは(or)」)が存在するのなら、お延は、津田の自由な意志がいつでもそのつど同じものを選び直すこと(「再び(and)」)によって、不連続が連続となり、連続が必然となることを期待してもいる。要するにお延は、津田に自由を与えようとし、同時にまた、彼を束縛しようともしているのである。

「こう云って絶対に継子を首肯わせた彼女は、後からまた独り言のように付け足した。」(七十二)
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」(百七)
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌いなんだから」(百三十)
本当に彼女の目指すところは、むしろ真実相であった。夫に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であった。そうしてその疑いを晴らすのは、津田の愛を対象に置く彼女の生存上、絶対に必要であった。(百四十七)

 こうして並べてみると、お延は「絶対」の人であるかに見える。しかし彼女が口にしたり、語り手が彼女に添えてみせる「絶対」は、せいぜい「どうかして」「どうしても」といった言葉に置きかえられる程度の「絶対」であり、それは結局のところ「彼女の自然」にすぎないH。次の引用は、津田との関係が「度胸」と「技巧」で演出される「暗闘」であることが確認されたあとに置かれた箇所である。

 
それが彼女の自然であった。しかし不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥か上にも続いていた。公平な光りを放って、可憐な彼女を殺そうとしてさえ憚からなかった。/彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から退ぞいた。二口拘泥れば、二足退いた。拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増して行った。大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙した。一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔いなかった。(百四十七)

 「彼女の自然」とは、それがあくまでも人為であるという意味である。そして「大きな自然」は人事に(個人的な倫理にも、共同体的な道徳にも、そしてもちろん個人的な欲望にも)一切関わることがない。自然の「公平」性とは、ほとんど「偶然」という意味に近いのである。

 ここで少し先回りしてたとえば津田と清子が再会をする湯河原の旅館の庭を思い出してみよう。その築山には「噴水」の他に「小さな滝」があった。そして宿の裏手にやはり、しかし本物の滝がある。人造による「小さな滝」は「卑俗」なものとして紹介されている(百七十八)。とすれば作者が用意した自然の滝は「大きな滝」ということになる。ここで小説が大団円を迎えてもおかしくはない、というよりもむしろ最も相応しい舞台ともいえよう。ここから振り返れば、作家は登場人物の心理や行動を自然界の万象に照応させつつ、人間がその世界で生きざるをえない条件を暗示して見せていることがわかる。人間の自由意志すなわち「小さい自然」は、「大きな自然」すなわち「偶然」の手の内にあると。

 四

 「憑りかかりたいんです。安心したいんです」。お延がついに津田に対して「隠さずにみんなここで話してちょうだい」と捨身で迫る場面(百四十九)がある。「愛」が「いかに必要であろうとも、頭を下げて憐みを乞うような見苦しい真似はできない」「もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せる」。そんな「意地」も「決心」もかなぐり捨てて、彼女は「偽りのない下手に出た」のである。お延は自分をいったんは「悔い」てみせるのだが、ここで作者が用意した「自然」は、そうした彼女の行為を蹂躙したり、彼女の目的を破壊したりはしないのである(百五十)。

仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。(中略)彼は明らかに妥協という字を使った。その裏に彼女の根限り掘り返そうと力めた秘密の潜在する事を暗に自白した。自白?。彼女はよく自分に念を押して見た。そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜しがると同時に喜こんだ。彼女はそれ以上夫を押さなかった。津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。(百五十)

 
 「利害の論理」(百三十四)でもって生きる彼らは似たもの同士である。そしてその技巧による暗闘の果てに敵を憐れむ「同情」の応酬がやってくる。どれほど駆け引きだらけの「戦争」であっても、それは「愛の戦争」である。やがてそこに自然の情愛が偶然のように生まれ出ることに不思議はない。「始めてお延に勝つ事ができた」津田は「ようやく彼女を軽蔑する事ができた。同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた」のだし、お延はお延で「自分の弱点」をさらした「残念」「と同時に」「気の毒という念」をもつことができている(百五十)。しかしこうした僥倖のような自然によってもたらされた時間は、彼らの「愛の戦争」の束の間の休息ではありえても、彼らの「愛」の本来の未来ではありえないだろう。少なくともお延は、こうした偶然に満足することなく「喜び」とともに自らの「愛」を先へ進ませるはずである。

 飯田氏は《『明暗』の「愛」は、何かと二項対立をつくることもなく、定義がはっきりしない》と述べているI。たとえば愛と結婚とが対置され、それがまた家庭と家、近代と前近代、自然と社会といった二項対立と重ねられるとき、愛はそれぞれの二項の後者に対する前者のプラスの価値を示すメタファーとして機能するというわけである。しかし、『明暗』にはそれがない。《『明暗』は「愛」だけを扱おうとしたテクスト》ではないだろうか、と。

 たしかに『明暗』は『こゝろ』のように神聖でも罪悪でもある恋愛が変心の比喩として語られることはない。清子の変心は津田の想像の及ばない出来事であり、お延には変心などありそうもなく、「お延を愛してもいたし、またそんなに愛してもいなかった」(百三十五)とされる津田にお延に対する変心があるとすれば、いずれの方向であれそれは、彼らの外部にある世界を含めた生活上の経験による感化に関わってのものだろう。飯田氏がいうように、『こゝろ』のような作品と違って《人間の豹変や裏切りについて語るのに、恋の物語が使われて》いないのが、『明暗』なのである。『明暗』で問われようとしている「愛」とは、どうも「相対」が「絶対」に向けて「馬鹿になっても構わないで進んで行く事」(百七十三)そのことであり、その行為のうちにだけ求めることが可能な「自由」のことではないか、とも思われるのである。

 お延と津田との間にある関係を、征服の度合いに応じて同情の度合いが増すようなそれぞれの自己愛にすぎぬもの、不純なものとして否定し去るのは簡単である。「けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません」(五十一)と従妹の継子に対してお延が心の中でいうように、『明暗』では「天然そのままの器」(同)が実質的な力をもつことはない。越智治雄の言葉を借りれば《純真といった観点からの批判は実際には何の意味も持ちはしない》Jのである。たしかにお延たち二人は、岡本夫人が、お秀が、そして吉川夫人が心配するように、「自分を可愛がるだけ」(百九)で、しかも互いに互いを道具のように「扱い得るもの」(百五)にしようと躍起になり、お延はとくにそのことに一心で余裕がないかに見える。しかし《彼女は本来的に人の住むべき場所で、精一杯の努力をしているのであって、これは我執などと言い棄てるべき性質のものではけっしてない》(越智氏)のである。

 『明暗』には、一見すると「我執」からは自由に見える清子と、彼女とは対照的に「怨恨」の塊のような小林なる人物が設定されている。津田やお延がいわば水平面を生きる存在だとすれば、清子と小林はその水平面を貫く垂直軸の上と下とに対称的に配置された存在であろう。この二人について藤森氏は《語り手が焦点化して内面を語ることのない他者として設定された人物である点で、二人に関係づけられた原理は中産階級の物語の外部からやってくるなにかの契機をあらわしている》Kとしながら、しかし清子が宿の庭にある通俗的な噴水と同列化されることで《その超越性が頓挫するように暗示》されていると指摘している。「世の中がない」「人間がない」(八十二)と自己規定してみせるのは小林だが、この点に関しては共通していそうな清子の、自己を去り、浮世の利害から離れたかに見える「優悠(おつとり)」(百八十三)は、たしかに津田に対してなら、その自己を見失わせる程度の力はあるのだろう。しかしお延に対してはどうか。彼女の自己を改めさせる力が清子にあるだろうか。そこからひるがえって津田への影響を考えてみよう。もし仮に、清子が体現しているかに見えるものが、そもそもが津田のロマンティックな欲望に支えられた彼の「夢」ではないのだとしても、津田の「理想」に働きかける清子の「鷹揚」(百八十五)よりも、むしろ行為においてつねに「主人公」「責任者」であろうとするお延の利己的な「愛」のほうが、津田の「現実」に働きかける点で変化への可能性があり、小説の未来はこちらにあるように思えるのである。

「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴むような予言だ」
「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」
 津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終そう思ってるの、いつか一度このお肚の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ないって」
「いつか一度? だからお前のは妄想と同なじ事なんだよ」
「いいえ生涯のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」
「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵わない」
「いいえ、あなたのためによ。だから先刻から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」(百五十四)

 「たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ」(七十二)と言い切ったお延の「復活の曙光」(百十二)はしかし、どのあたりに見えるのだろうか。「生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好い」(八十七)と見得を切ったお延が、彼女の「予言」どおり、その「勇気」を実際に試さねばならない日がくるのだろうか。それとも津田がいうように予言は妄想に終わるのか。というのも津田に清子と再会させようとする吉川夫人の目的の一つが、「お延の教育」であり、彼女に対する「療治」だからである(百四十二)。しかしいずれにせよお延の本領は、その洞察力(明視)にだけあるのではない。彼女の逞しさは、愛というものが自分だけでは確かめきれないこと(盲目)を知っていて、諦めずに津田に働きかけるところだ。働きかけ続けることが自分の「愛」だとでもいうように。そして津田の使った「妥協という文字」にやっと「黙認に近い自白」を認めるところまで、自分の「弱点」をさらすことで相手の「弱点」を見透かせるところまで、なんとかにじり寄ってきたのである。

 『明暗』で扱われる愛は、『それから』の代助が夢想したような愛ではない。お延の求める「愛」は、おそらく『草枕』の画工が那美さんの顔に浮かんだ「憐れ」をとらえるように得られるものではないだろう。ぎりぎりのところでその人間のほんとうが出る。「事実」(百五十八、百六十七)によって目が開かれる。これが小林や吉川夫人が津田に語っていたことだ。少なくとも津田はぎりぎりの窮地へ追いやられるだろう。それでも彼は変わらないのかもしれない。だが「まるで自分が見えない」(百四十一)津田に突きつけられることになる「事実」とはどんなものなのだろう。彼の目の前に、すでにあったものこそが「事実」であり、それが津田に見えていないだけなのではないか。清子の謎は、彼に果たして解けるだろうか。津田が自らその「体裁」を棄て「余裕」を手放そうとしないかぎり、清子(偶然)の謎は解けまい。では津田の愛の未来を背負うのは偶然(運命)か、それともお延(自由意志)か。漱石はけっして自由意志を見捨ててはいないのである。(この稿続く)

 注

@三浦雅士『出生の秘密』(講談社、二○○五・八)

A富山太佳夫「近代小説、どこが?」(『漱石研究』18、二○○五・一一)

B大岡昇平「『明暗』の結末について(『小説家夏目漱石』、筑摩書房、一九八八・五)

C以下の数字は単語の表記レベルでの機械的な検索によるものであるが、ある程度の傾向はうかがえる。平均は連載回数分の使用例数。「また」は『明暗』545例/188回、平均2.89(ちくま文庫)、『道草』302例/102回、平均2.96(岩波文庫)、『こころ』277例/110回、平均2.52(集英社文庫)、『行人』381例/167回、平均2.28(ちくま文庫)、『彼岸過迄』280例/118回、平均2.37(ちくま文庫)、『それから』241例/110回、平均2.19、『虞美人草』143例/127回、平均1.13。「また」の語は新聞連載のかたちで小説を書き始めた頃に比べると、使用頻度が増してきていることがわかる。「にも」は『明暗』375例、『道草』170例、『こゝろ』192例。

D相原和邦『漱石文学の研究―表現を軸として―』(明治書院、一九八八・二)

E富山太佳夫(前掲論文)《『明暗』には深みはない》とする氏は、その面白さは《漱石の文学的な技法そのもの》にあると述べ、この引用部分を含んで例示した文章から技法としての《焦点の拡散》を見て取っている。さらに《焦点の拡散》的表現が多用され、それらが《フラグメントの集積》になってしまわないように、漱石は津田に藤井、お延に岡本といった《人間関係の安定した対比構造》を用意したのであって、《その構造が焦点の拡散を防ぐとともに、転移の可能性を保証》すると指摘している。

F「急に」は『明暗』115例、『道草』33例、『こゝろ』52例、「突然」は『明暗』89例、『道草』35例、『こゝろ』47例。

G飯田祐子「『明暗』の愛に関するいくつかの疑問」(『漱石研究』18、二○○五・一一)

H藤森清「資本主義と文学=v(『漱石研究』18、二○○五・一一)は、「比較」が『明暗』の作者の説明原理になっていること、また「絶対」を口にするお延自身も「比較」に敏感なだけでなく自ら「比較」してやまない存在であることを指摘している。

I前掲Fに同じ。

J越智治雄「明暗のかなた」(『漱石私論』、角川書店、一九七一・六)

K前掲Gに同じ。


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