無垢なるものの行方(二) −夏目漱石『こゝろ』を中心に−

The Art of Innocence in Natsume Soseki's Kokoro (U)

武 田 充 啓


六 (承前)

 
手紙の内容は簡単でした。さうして寧ろ抽象的でした。(『こゝろ』下四十八)。
 
 先生自身のそれとは対照的に、Kの遺書は単簡である。Kが記したような、謎として意味づけを誘いながら、一切の解釈を拒んで、他人に対してだけでなく、自分自身にも背を向けているような「あつさりした文句」(同)ではなく、「矛盾」(下一、十二、十四、十五)を含んだ叙述をもって、さらに「実は何うでも構はない点」(下十六)や「余事」(下三十四)までをもあれこれと書き込みながら、先生は「自己」を「偽りなく書き残して置」こうとする。自分を自分以外の者に伝えようとしながら、実際には彼はたくさんの誰彼の死を描くのである。

 『こゝろ』で死ぬことになるのは、先生の両親、K、先生の妻の母親、明治天皇、乃木将軍、先生、そしてほとんどその死が確実な青年「私」の父親を加えて八人であり、自分自身の死は書けない先生は「私」の父親を除いて六人の人間の死を描いている。そのことによってしかし、先生はそれらの死を序列化したり特権化しようとしたのではない。死が残された生の世界のなかで何らかの意味あるものとされるには、その世界にある種の共同性(精神的価値の共有)がその基盤として要求される。しかし「純白」にこだわり「またどうかして、生まれた儘の姿に立ち返つて生きてみたい」(下九)と書いた先生が、その「汚れ」忌避の姿勢で示していたのは、目の前にある共同体が、「利害心」を持った人間が互いを序列化しあうだけの単なる集合体でしかないことへの落胆であり、自らもそのような共同体の一員であることを自覚せざるを得ないことへの苛立ちに他ならない。
 
私は殉死といふ言葉を殆んど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談(ぜうだん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。私の答も無論笑談(ぜうだん)に過ぎなかつたのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。(『こゝろ』下五十六)
 
 共同体的なものに取り込まれてしまうことへの抵抗は、「明治の精神」が「天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がした」と書きながらも、その「天皇」にではなく、わざわざ「殉死するならば、明治の精神に殉死する積だ」と妻に断る先生の態度にもはっきり示されている。では「古い不要な言葉に新らしい意義を」と書く先生は、失われた「共同体(あるいは精神的価値)」を復活させようとしているのだろうか。おそらくそうではあるまい。「明治の精神」とは、「明治天皇」や「乃木大将」とは対照的に、Kのようにその死が特権化されることのない死者とこそ交通しようとするほとんど私的な(といえば語義矛盾だが)共同性の謂であろう。先生の「殉死」は、失われた精神的共同体の復活を夢想した行為というよりは、その名を誰とも共有できない「恋人」への後追いであり、Kの魂を鎮めるためのものであったとしても、それはごく個人的な関係における行為と見るのが妥当であろう。

 先生がKを「K」という「私」にとっては「余所々々しい頭文字」で書いたのは、Kという「自然」でもあり「魔」でもある存在に対する受容と拒絶の両義的な姿勢の反映である。先生はその「自己」を伝え得る唯一の人物と想定した青年「私」とでさえKの固有の名は共有しようとはせず、妻にもその名を口にすることを禁じていたのである。
 
もし其男が私の生活の行路を横切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き残す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにゐたのと同じ事です。(『こゝろ』下十八)
私は其友達の名を此所にKと呼んで置きます。(同下十九)
 
 こうしてKの本名が明かされないことが、読者に先生の罪意識というものを前景化させる働きをする。しかし先生がKへの罪の意識のために死ぬのでないことは明らかである。「乃木大将」は「つい今日迄生きてゐたといふ意味の句」(下五十六)を書き残したとされ、先生と同じように「遅れ」を生きざるを得なかった者、「明治の精神」に最後まで「遅れ」る他なかった運命を共有する者として召喚されている。先生が「先を越された」(下三十六)と思ったK自身もまた「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句」(下四十八)を書き残していた。Kもまた「遅れ」を生きていたのである。先生の自死は、このもはやどのようにしても埋めようのない「遅れ」を一挙に解消しようとする試みであったようにも思われる。これと対照させるように、『こゝろ』では、青年「私」の父親が、死ねないでいる自らを乃木将軍の殉死に対する「遅れ」(明治天皇の死に対する「遅れ」に対する「遅れ」)として、位置づける姿(「いえ私もすぐにお後から」(中十六))が描かれている。

 Kの固有の名は、他の誰とも「自己」を共有することのなかったK、先生にとってどんな他者とも共有できないKという個人なのである。Kの本名を自分だけで抱えて死のうとする先生は、「誰にも」浴びせかけられることなく襖に迸ったKの「血潮」(下四十九)を、いま遅ればせながらもその身に受けとめようとしているのだと言ってよい。前稿において、漱石の無垢なるものへの欲望が、「模倣」とそれからのずれという相反する姿勢のうちに生きられていることを確認しておいたが、Kの自死を「模倣」せざるを得ない運命にある先生は、Kを真似てその自らの「血潮」を迸らせつつ、しかしKからずれてゆくためには、「誰かに」その「血潮」を、「遅れ」なしに浴びせかけねばならないのである。

 「妻に血の色を見せないで死ぬ積り」(下五十六)だと書く先生は、その「精神」の共同体への参加資格をはなから認めていない。その意味で彼は静を抑圧し、あるいは保護している。先生は妻にではなく青年「私」にその「真面目」を向けようとする。それはしかし先生とKとの「精神」共同体への誘いではない。別の可能性への賭けなのだ。そして「真面目」が何を「私」にもたらすことになるのか、もちろん先生は承知している。Kと先生との間にあるのと同様に、先生と「私」との間にもある「模倣」=「遅れ」の構造は、先生が「死ぬ」ことによって解消されることはない。しかし死ぬと同時に「書く」ことによって、その「構造」の存在を「私」に知らせることは可能であり、その結果「私」自身が、彼もまた「遅れ」の「構造」を生きざるを得ないようになっても、それでも先生は「自己の表現」をしたい、してもよい、むしろすべきだと考えたのである。
 
私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臓を立ち割つて、温かく流れる血潮を啜らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顔に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。(『こゝろ』下二)
 
 「明治の精神」と名づけられたほとんど私的な共同体において、互いの「固有の名」=「自己」を共有し合うという夢を見つつ、先生は第三者に伝える人間の名として「K」という頭文字をそれに当てた。「明治の精神」=「先生とK」という共同体への参入を拒否された「私」にとってKという頭文字が「余所々々しい」のは当然であろう。

 たしかに明治天皇に「殉死でもしたら」(下五十五)という静の言葉も、「明治の精神に殉死する積」という先生自身の言葉も、二つながら「笑談」に過ぎなかった、と断りがなされていた。しかし「笑談」の語はむしろ死の序列化に対する先生の抵抗の表れであろう。そこには、人の死を、したがって生を、意味づけすることが空しい努力に過ぎず、もともと人の生や死に特別な意味などないのだ、とする作者漱石の醒めた認識が背後にある。そもそも「殉死」という行為自体、誰かの死の「模倣」に過ぎない。その「殉死」以外に死を選べないとする先生の遺書は、死というものが(もちろん生もまた)ある種の共同体(的な価値)の中で序列化され位置づけられずには語り得ないことを示している。にもかかわらず、彼自身はそこにおさまることを潔しとせず、その「自己」をそのまま「言葉」にすることによって、私的な共同性においてこそ生きられること(Kとの関係において)、また語られること(「私」との関係において)の可能性のほうにむしろ賭けようとしたのである。だからこそ先生は「精神」という言葉にこだわったのだ。そしてそこには自分自身をそのまま「誰かと共有する言葉」に してしまいたいという先生の欲望が生きられているのである。

 そこでだけは〈私〉が〈私〉のまま何ら損なわれることなく生き死ぬことが許されるという意味で、彼の無垢なるものへの欲望はそこでこそ生きられようとしており、しかし「殉死」という先生の言葉そのものが静が発した言葉の「模倣」に過ぎず、今度はその静の「静」という名が、また乃木将軍夫人の名の「模倣」になっているのである@。そしてそもそも何ら損なわれることのない生き死にが可能な〈私〉とは、すでに「言葉」によって「簡単」にされ「抽象化」された〈私〉でしかないという意味では、Kの短い遺書がすでにその認識を先取りしており、先生の無垢なるものへの欲望は、すでにKによってあらかじめ殺されているともいえるのである。




 
其後私はあなたに電報を打ちました。有体に云へば、あの時私は一寸貴方に会ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。(中略)あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思ひました。それでその意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。(『こゝろ』下一)
 
 物語ることから書くことへ。この偶然に見える「自己」を伝える方法の変更は、もちろん作者の拵えた「自然」である。先生には妻である静を含めて彼の声が直接に届く相手はもはやいない。先生が青年に語ることを諦めて、つまりは自分の「声」を捨てて、「書く」ことを選ばされたことには、作者の「声」というものへの、すなわち他者との直接的なコミュニケーションというものへの、大いなる不信がその背後にある。「話す」ためには、自身の「選択」=「表現」を含めて、予測できない事態を生きることが構えとして必要になる。作者はもはや先生を予測不能の不安定な現在に向き合わせることはない。まるで先生を死へ導いてやることが功徳だとでもいうように、先生から「声」は奪われるのである。

 先生は「書く」ことを一旦は決心しながら、しかし書きかけてやはり「この手紙」を書くために別の好機が偶然訪れるのを待つ。死ぬ都合と書く都合の一致を彼はただ待つのだ。漱石は先生になるべく「選択」させないことで、それ以上「汚れ」ることを回避させているようにも見える。しかしこの非「主体的」な「待つ」は、同時に積極的な「待つ」でもあるのだ。「運命が戸外から来て」くれるのを待つ『それから』の代助と異なるのは、先生がすでに死を自ら「選択」している、すなわちKを「模倣」していることに自覚的な点であろう。
 
始めは貴方に会つて話をする気でゐたのですが、書いて見ると、却つて其方が自分を判然描き出す事が出来たやうな心持がして嬉しいのです。私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒労ではなからうと思ひます。(『こゝろ』下五十六)
 
 先生は「会つて話をする」以上に、「書いて見ると」「其方が自分を判然描き出す事が出来た」気がするといっている。しかし注意しなければならない。自分「より外に誰も語り得るものはない」。その自身を「貴方」だけに向けて書いているはずの先生の言葉は、すでにその自分自身を「人間」へと抽象化し、「貴方」を「外の人」にまで希薄化させているのである。先生はもちろん、「人間―外の人」ではなく「私―貴方」の関係の上で、青年「私」に賭けたのである。しかしその賭けが成功したかどうかの答えはまだ出ていない。この答えは、賭けられたものが新たにまた誰かに賭けることによってしか出せない答えだからである。

 ではどうして先生は「今迄の叙述で己れを尽した積です」(下五十六)と書けたのか。小森陽一は、考えられる理由の一つとして、先生が《自らの死によって「私」が追い求めていたところの未知なる〈他者〉性を封印》し、同時に《Kという自らの内なる他者について語ることで代替させてしまうことによって「私」を誘惑し続けていたはずの、自分自身の「私」に対する〈他者〉性については永遠に逃走させてしまうこと。逆に逃走することによって永遠に「私」を誘惑しつづける言説だけを残すことがねらわれていたとも考えることができる》との解釈を示しているA。
 
何千万とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたいのです。(下二)
あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中に仕舞つて置いて下さい。(下五十六)
 
 青年「私」は、それでも先生を裏切って「秘密」を誰かに打ち明けることができる。そして「罪」の意識に悩むこともできる。そうしたことは「模倣」の構造を生きている自覚のある先生には予想し得たことであろう。では先生はいったい「私」に何を望んだのだろうか。先生はKの死を「模倣」しつつ、しかしその遺書を「簡単」にせず、「有りの儘」を書こうとすることで「模倣」からずれようとした。先生の遺書を受け取った「私」が、先生をどう「模倣」し、どうずれて行くにしても、いずれ自身の「自己の表現」を余儀なくされるだろう。そのとき、それだけは「遅れずに」残されている先生=先生の言葉が参照される。あるいはそれは、拙い模倣か、単なる反復に終わるだけかも知れない。それでも先生は青年が「書く」ことを期待したのではなかったか(「語る」相手となるはずの先生は、すでにいない)。そして「語る」ことから「書く」ことへの伝達方法の変更のうちに、すでに「貴方」だけでなく「外の人」へも自己を伝えようとする先生の欲望が紛れ込んでいたのではなかったか。自身の過去をほとんどが名前を持たない人物たち数人の死と共に描いたこと。そしてKの名を伏せたこと 。それらは「貴方」に対してよりも、むしろ「外の人」に伝えるためにこそ必要な手立てであった。「私」の手記が公開されたのかどうかが議論されることになるのも、もとはといえば先生が「語る」(「貴方丈に」)のをやめて、「書くこと」(「外の人にとつても」)にしたからなのである。「模倣」を生きざるを得ない「私」の「自己の表現」は、先生の言葉に応えて「私」だけのうちに閉じられようとしながらも、「私」の「外」へも、やはり向かうことになる。「私」は先生の名前を伏せて手記を書き始める。その時、先生の「外の人にとつても」という欲望は成就したともいえるのである。
 
怒ルノモ仮面デアル、泣クノモ仮面デアル。笑フノモ仮面デアル。本人ハ仮面ヲ被リナガラ、之ヲ真面目ト心得テ居ル。愚ナコトダ。日本デモ西洋デモ死ヌ時ニ云フコト丈ハ真面目ナ者ダトシテアル。本当ヲ云フト是モ仮面デアル。只云フや否や死ンデ仕舞フカラ、其仮面タルコトヲ証拠立テヽ見セル機会ガナイノデアル。(『断片』明治三十九年)
 
 先生は自分の「告白」だけは無垢であり、自身のオリジナルな「素顔」をさらすことができたという夢を見たであろうか。しかし早くから右のように書いていた漱石がまさか「過去」を、「素顔」を、「偽りなく書き残して置く」ことが可能であると信じていたはずがない。もしそうならば青年「私」の手記は不要だからである。「貴方」だけでなく「外の人」にも、と先生が書くそのとき、先生は「貴方にとっても、外の人にとっても」理解可能な、無垢な奉仕によって「素顔」を提供しうるという「仮面」を被った人物になってしまっており、漱石はそれに気付いていないはずがないのである。

 「書く」ことは、受け手とのその場での応答から自由になるということだが、それは内容を「簡単」にし「抽象的」にする自由でもある。そして「書く」ことには、時空を超えていけるという「声」にはない力がある。そして時空を超えられるということは、逆に目の前の現実につねにすでに「遅れ」るということでもあるのだ。漱石はその「遅れ」に先生の死を添えることによってあらゆるものから「遅れ」ることを回避させようとする。「云フや否や死ンデ仕舞フカラ」。先生が「自分を判然描き出す事が出来た」気がしたというのは、その「表現」がもはや何からも「遅れ」る心配がないからである。それはもはやすべてに「遅れ」る以外にないことによって逆説的に何ものにも「遅れ」ないのである。そしてしかし、その「遅れ」=「距離」のために文字は独特の力を持つ。そしてその一つは、「私」に彼自身の「故郷」を捨てさせ、「遅れ」=「罪」の構造を自覚させる。つまり「私」に「書く」資格を与えるのである。

 『こゝろ』では『それから』のように男の「責任」逃れのために女=「他者」が抹消されるわけではない。それはまた、女の「技巧」が社会を生き抜くための当たり前の技術である、といった議論とも別の水準の問題である。漱石はもっと「技巧」を深いところで捉えている。むしろ「技巧」こそが「遅れ」を生きざるを得ないものの証なのだ。人を騙すとか裏切るといった「悪」に対する世間的道徳的な罪意識というよりは、人と人との関係において、「自己の表現」において、避けることのできない「遅れ」という構造(とそこでの個人的倫理的な罪意識)こそが問題にされているからである。むしろ「選択」を「罪」を、したがって「自己」を確かめたくても、それをはっきりさせてくれるはずの確かな「他者」がすでに目の前にいない、いやそもそもそういう「他者」との関係などあり得ないという悲劇こそが『こゝろ』で描かれているからである。

 静の「技巧」が、先生や「私」の側からの記述だけであり、静の側から書かれていないことは、不十分にも見える。漱石は静にだけ名前を与え、「遅れ」=「罪」すなわち「自己の表現」から遠ざけられた存在として彼女を保護=抑圧している、という見方もあり得る。しかし仮に静が「遅れ」=「罪」に意識的であったところで、そのときに彼女の「自己」を確かめられるような男たちはすでに、いや常にいないはずなのである。

 「K」も「先生」もすでにいない。そして彼らはつねに「遅れる」ほかなかった。だからこそ彼らは「書く」ことにおいて、文字の上に、むしろ積極的に呼び出されることになる。しかし、その「罪責」感情の多寡は別にしても、では呼び出している方の「先生」や青年「私」が、他者の呼び出しと共にそれぞれ自身の「自己」を確実に手にしているかどうか、いや「私」についていえば、そもそも「自己」を手に入れようとしているのかどうかさえ、定かではないのだ。そのことをこの小説は遺書における「告白」や手記における「引用」といった叙述の仕方、また主人公たちの「名前」が名指されないそのあり方でもって表しているのである。『こゝろ』という小説のなかでは、そんなものはあり得ない、とでもいうように、自己を確かめ合うような他者との関係は描かれない。それは、小説の外部に想像するしかないのである。




 
次の日私は先生の後につゞいて海へ飛び込んだ。さうして先生と一所の方角に泳いで行つた。二丁程沖へ出ると、先生は後を振り返つて私に話し掛けた。広い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所に私等二人より外になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしてゐた。私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂つた。先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になつた儘浪の上に寐た。私も其真似をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るやうに痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。(『こゝろ』上三)
 
 これは「私」が先生と初めて口をきいた翌日の出来事であるが、「私」の「愉快ですね」は、まるで先生の「告白」が約束されたかのようなはしゃぎぶりである。
 
人に自己を打ち明けるといふ事は放胆の所為である。打ち明けられた人は其放胆をほめるのではない。他に打ち明けぬものを自分にのみ打ち明けてくれたと云ふ特許を喜ぶのである。/(中略)君がもし君の書中に自己の弱点も構はず吐露したとすれば、其点に於て君は愉快である。僕が君の自白を聞き得たる相手とすれば僕も愉快である。(森田草平宛書簡、明治三十九年一月九日)
 
 青年「私」が先生の行動を模倣するように、『こゝろ』という小説は漱石の「書簡」を模倣しているかに見える。そしてもちろん「私」も先生を模倣する以外にないのだ。

 『それから』の代助は「賽」を振ることのできる特権的な地位を許されていた、つまりは模倣を免れていたのだが、『こゝろ』では「賽」を振ったのが結局誰なのかが最後までどうしてもわからないように書かれている。私たちがこの世界で余儀なくされている《自己の選択が本源的に他者に媒介されている》(大澤真幸B)というありようをたとえば「師弟関係」において見てみるとどうか。内田樹はラカンを援用しつつ「選択」と「自己」とが必然的にずれてしまうことになる構造を次のように説明している。
 
ロールモデルと「私」の関係は、まず「私」がいて、その前にタイプがいくつかあって、その中から「私」の気に入ったものを一つ選んで、「よし、これを私のロールモデルにしよう」と決定した上で成立する、というものではない。だって、ロールモデルを模倣して「私」ははじめて「自己造型」を果たすからである。つまり、模倣が行われたあとになってはじめて、「模倣」の主体であった「私」が何ものであったかが知られるというのがロールモデルと模倣者の関係なのである。(内田樹「大人になること」C)
 
 内田氏は《「ロールモデルの選択」とその「模倣」にかかわるふるまいそのものを私たちはロールモデルから学ぶ》のだと付け加えたうえで、《内容を持たない先生》が《「自分がほんとうは何ものであるか」を取り消すという身振り》によって、「私」の永遠に満たされない欲望の対象となることで先生が《「奥さん」の愛と「私」の敬意をふたつながら手に入れていた》こと、このKとお嬢さんとの関係にも適用できる欲望の構造を一望に俯瞰できる視座を提供し、静に対して《知=権力の水準と、エロスの水準のふたつで、「私」に欲望を成就する方法を伝授した》のだと、ラカンの見事なポオ読解Dに倣って、鮮やかに読み解いている。

 しかしこの「伝授」についてもう少し考えてみよう。内田氏がいうように「私」は《自分と「先生」を巻き込んでいた欲望の布置を俯瞰的に一望する視座を手に入れた》のだろうか。「師」が「弟子」に伝える究極の言葉が《「パスせよ、キープするな」》であるとしても、「私」にはそれを「パス」する具体的な相手がいないのである。いったい「私」はどのようにしてその「視座を手に入れた」のだろうか。というのも、「私」が手に入れているはずのものは、彼が「パス」し得てはじめて、そこから遡及的に見えてくるものであるはずだからである。そして仮に今この文章を書いている筆者が「私」からパスを受けたと錯覚できたとしても、筆者は小説の登場人物の一人ではない。そこまで錯覚することはできないのである。

 「私」が先生の死を表象化していないこと、先生の死後から「筆を執つて」いる「今」までの時間を描かないことは、「私」による「内容を持たない先生」の「模倣」である。「謎」を提示して読者を引っ張る書法は、「謎」で「私」を誘引した先生の態度の「模倣」であり、そのために私たち読者はその空白に対する意味づけや解釈に誘われることになる。が、先生による「謎」の種明かしと違って「私」による種明かしは、「私」の自己確立にはならない。その「告白」と同時に「自死」することによって自己実現を果たしたと見ることもできる先生とは違い、生きている「私」には「告白」は許されていない。「模倣」から逃れるすべはなく、「模倣」なしに自己実現はない。そして「模倣」するだけでは「自己造型」は果たされないのだ。
 
丁度あなた方のやうな若い人が、偉い人と思つて敬意を持つて居る人の前に出ると、自分も其人のやうになりたいと思ふ――かどうか知らんが、若しさう思ふと仮定すれば、先輩が今迄踏んで来た径路を自分も一通り遣らなければ茲処に達せられないやうな気がする如く、日本が西洋の前に出ると茲処に達するにはあれだけの径路を真似て来なければならない、かう云ふ心が起るものではないかと思ふ。また事実さうである。然し考えるとさう真似ばかりして居らないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう来ても宜しい。また来るべき筈である。(講演『模倣と独立』大正二年、「第一高等学校校友会雑誌所載の筆記による」)
 
 「私」は先生を模倣し、Kに対して先生がそうしたように、先生に身を寄り添わせつつ、しかしそこからずれていこうともしている。「私」は先生の「直接話法的書法」に対して「間接話法的書法」をもって先生から、先生の遺書の言葉から、ずれていこうとしているのであるE。
 
私は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此所でもたゞ先生と書く丈で本名は打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字抔はとても使ふ気にならない。(『こゝろ』上一)
 
 しかし彼はなぜ今も「先生」と呼びかけたくなるのか。押野武志は《先生は自己の物語を受け入れてくれる読者として、青年のような自己同一的な選ばれた読者しか想定して》いないのだと指摘しているF。しかし本当だろうか。たしかに《青年が遺書を差異化したところで、それは高が知れて》いる。青年「私」は先生を批判する気など毛頭ないようにも見える。結果的にその手記の書法が先生の遺書の書法を相対化し批判するものとして機能することになるのだとしても、「私」に意識してその気があるようには見えないのである。

 「私」の「先生」という呼びかけは、彼の内面にすでに取り込まれて他者性を欠いたそれに対するものなのか、それとも具体的他者としての先生を目の前に立たせようとする召喚なのか。「私」に罪責感が稀薄であると見るならば、前稿でも触れた《自己の選択が本源的に他者に媒介されている》ことが、逆説的に《能動的で独立した選択》にしていたのに、他者を失うことで《選択が自分で責任を負えるような選択ではなくなってしまう》という大澤真幸の見解Gを「私」にあてはめて考えれば説明がつくのだが、そうだろうか。先生の固有の名を他の誰とも共有しようとしていない点では、「私」はKを「K」という頭文字で記した先生と同じ姿勢だと言える。先生が遺書に記した「K」を「余所々々しい」としながらも、この点でも「私」は先生を模倣している。「私」自身は「世間を憚る遠慮」ではなく、その方が「自然」だと断っているが、「頭文字」を使わないで「先生」と敬称を記したところで、「本名は打ち明けない」点では異ならないのである。そうだとすると「私」がその「罪」ある「自己」を、「遅れ」を生きざるを得ない「自己」を、共有したいと思う相手の名を呼んでいる可能性も 捨てきれない。だが「私」自身に関する先生の死後の「それから」は書かれていない。「私」の先生に対する「先生」という呼びかけそのものが、「本名」と「頭文字」の中間の位置にあるように、結局のところ「私」の「罪」の自覚についても、先生に対する批判についても、あるともないとも決定できないような書かれ方をしているのである。

 この「私」の中途半端な手記の書かれ方、置かれ方は、「私」の「主体」というものに対する態度に対応している。「私」はそもそも「主体的」なあり方にそれほど積極的ではない。「主体的」であろうとする先生に対しても距離を置いている。「私」には、その罪責感の稀薄さに比例して、先生ほどの「自己の表現」への意欲も見られないのである。もちろん、そこには漱石の「自己」=「主体」に対する疑いがある。そして、そもそも無垢なるものが背負うはずの「理想」は、この「主体」の相対化なのである。




 
先生は美くしい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持つてゐた。さうして其悲劇のどんなに先生に取つて見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れてゐなかつた。奥さんは今でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、先ず自分の生命を破壊してしまつた。/私は今この悲劇に就いて何事も語らない。その悲劇のために寧ろ生れ出たともいへる二人の恋愛に就いては、先刻云つた通りであつた。二人とも私には殆んど何も話してくれなかつた。奥さんは慎みのために、先生は又それ以上の深い理由のために。(『こゝろ』上十二)
 
 たとえば石原千秋は『こゝろ』を《女性性を抑圧》するテクストであるとし、これまでは《単に静は全く何も知らないとだけ読まれてきた》と述べているH。しかしそうだろうか。彼女は「みんな」知っている女と「何も知らない」女の間を生きているのではなく、そもそも「知る/知らない」といった権力的な関係を生きねばならない「主体」たちを相対化し批判する存在として描かれようとしていたのではないか。先生や「私」が彼女の「潔白」を信じようと疑おうと、そんなことに関係なく、彼らの「解釈」や「議論」といったものから自由な静である。その可能性の片鱗は次のような場面に現れている。
 
「あなたは学問をする方だけあつて、中々御上手ね。空つぽな理窟を使いこなす事が。世の中が嫌になつたから、私までも嫌になつたんだとも云はれるぢやありませんか。それと同なじ理窟で」/「両方とも云はれる事は云はれますが、この場合は私の方が正しいのです」/「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白さうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来ると思ひますわ」/奥さんの言葉は少し手痛かつた。然しその言葉の耳障からいふと、決して猛烈なものではなかつた。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出す程に奥さんは現代的でなかつた。奥さんはそれよりもつと底の方に沈んだ心を大事にしてゐるらしく見えた。(『こゝろ』上十九)
 
 作家は青年に静の声を拾わせている。大切なのは、「理屈」が「主体」的であろうとする者が行う闘争の道具に過ぎないということを静が知っているということ、そして彼女にとっては、まず「主体」そのものがほとんど「空つぽな理窟」に過ぎないということである。要するに、「主体」は浅い、そう漱石は言っているのだ。

 「私の責任丈はなくなるんだから、夫丈でも私大変楽になれるんです」(上十九)という静は、彼女もまた「主体的」存在であるかに見える。しかし「今迄の奥さんの訴へは感傷を玩ぶためにとくに私を相手に拵えた、徒らな女性の遊戯と取れない事もなかつた」(上二十)とされるほど態度を豹変させる静も描かれる。「主体」的であろう、ありたいと願うものが、彼女に「主体」を想定しようとすれば、謎として立ち現れるように静は作られているのである。これは女性性の抑圧として片付けられる問題ではない。

 漱石が描いているのは、《女からの働きかけを、「女であるという事を忘れ」なければ受け入れることのできない男、あるいは、それを技巧として「批評」しなければ済まない男の姿勢》(石原千秋)だけではない。その《女の技巧を「批評」しなければ済まない男》(同)を「批評」するために、自ら「技巧」性を身にまとってみせる男をも描いているのである。その男は「書く」代わりに、曖昧で誘惑的な態度を示す。そして焦らしやはぐらかしの姿勢を豹変させて自分の「たつた一人」になってほしいと若齢者に頼み、他の誰とも交換不可能な愛の告白ともとれる長大な手紙を送りつける、と同時に自ら死んでも見せるのである。

 なんと勝手な。しかしこれほど「主体的か主体的でないか」といった問題枠から遠い存在はなかろう。そして、先生の遺書をいくら読み込んでも、それが先生の「自然」であるか「技巧」であるかは決定できないし、「私」の手記を読んでもそれは同じである。先生の遺書の言葉を、何とか「主体的」であろうとして「自己」を見極めようとする言葉として読もうとすればそう読めるし、「私」の手記の言葉を、「主体」=「自己」から逃れ出ようとする模索の試みが含まれる言葉として読もうとすればまたそう読めるのである。もちろん、それとまったく逆の読み方も可能である。そのように『こゝろ』は作られている。「私」は先生の単なる「随伴者」ではない。先生の物語を受け入れる《自己同一的》(押野武志)な存在にも見えるが、同時に先生を批判する立場にある異質な他者とも見えるのである。

 罪であれ、責任であれ、それらはおおむね「主体」的であろうとする者だけが抱える「問題」である。それらを身軽にすり抜けていく存在は男であれ女であれ「主体」に対する批判的存在者だといえる。そして進んで不自由に「主体」的であろうとするものこそが、そもそも「主体」とは無縁な存在を自らの物差しで裁こうとしがちなのだ。おそらく「主体」的であるほかない「読み」という行為が、不快感とともに『こゝろ』につまづくのはまさにそのためなのである。

 だが「書く」静という設定を漱石に期待するのは無理な注文だろうか。彼女が「書く」ことをしながら、なお「主体」の問題枠から自由な存在であり続けること。「書く」静を設定したうえで、さらに彼女に「主体」を相対化する役割を背負わせてみること。『こゝろ』において、そのような意味での「書く女」の可能性が問われなかったのは残念なことである。もちろん漱石は、女性は「選択」=「自己表現」などしないほうがよい、という認識にとどまっていたわけではない。さすがに「書く」ことまではさせていないものの、『道草』のお住も『明暗』のお延も「汚れ」を忌避することなく「自己の表現」を試み、それぞれの小説の内部で他者とかかわり、自己を確かめようとするのである。




 
「私は過去の因果で、人を疑りつけてゐる。だから実はあなたも疑つてゐる。然し何うもあなた丈は疑りたくない。あなたは疑るには余りに単純すぎる様だ。私は死ぬ前にたつた一人で好いから、他を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其たつた一人になれますか。なつて呉れますか。あなたは腹の底から真面目ですか」(上三十一)
 
 先生は「私」の「真面目」を質しているかに見える。しかし先生は青年を信頼し、そしてその後に彼に遺書を書いたのではなく、「私」に向けて遺書を書くという行為のうちに自分自身の「真面目」とその可能性を試みたのである。

 先生の「なって呉れますか」は、自分の「モデル」=「先生」になってくれますか、に等しい。先生と青年の位置は今や逆転している。どうして経験の浅い未熟な若者が先生の「先生」に選ばれるのか。青年にそれにふさわしい「内容」があるからではない。知ることを何かのためにそうするのではなく、単に知りたいがために知ろうとするそのことが先生を動かす。「私」が欲望しない者であることによって、つまりは青年の「欲望しないことを欲する欲望」が先生の欲望を刺激する。しかしそれこそはKの死後の先生の姿であり、したがって先生自身の無垢なるものへの欲望ではなかったか。
 
私はKの死因を繰り返し繰り返し考へたのです。(下五十三)
 
 「私」は先生の死を書こうとしない。それは「私」が描こうとしているのが先生の死ではなく、自分自身の生だからである。Kはなぜ死んだのか、それを知りたい。Kとは誰だったのか。これを問うたのは先生である。それは自分自身が誰であるのか、という問いの前に立つことだ。そうして先生は「自己」をそのまま「言葉」にしようとした。この先生の立場と同様に、先生を模倣せざるを得ない「私」は、やはり先生の死因を「繰り返し」考えることになるだろう。それは「私」とは誰か、という問いを抱えることであるはずだ。先生の欲望を模倣した青年の欲望を先生自身が欲望し、その先生を「私」が模倣する。この合わせ鏡のような欲望の模倣関係、永遠の不充足。それこそが無垢なるものへの欲望のありさまではないか。欲望は満たされないかぎりで欲望である。無垢なるものへの欲望はこうして殺されつつ生きられているのだ。

 しかしこの向かい合う鏡のような世界を生きながら、どのようにして「告白」=自死することなく自己を確かめることができるのか。『こゝろ』で問題にされているのは、「現在」において生身の他者と出会えないという「遅れ」の問題、出会いがつねに「模倣」=「遅れ」という形でしか実現せず、したがって他者が「過去」でしかあり得ず、しかも自分と他者との関係を含んだ「過去」という他者の方が、目の前の生きた人間よりもリアルであってしまうという問題である。

 「模倣」=「遅れ」を意識しつつ、「模倣」=「過去」からずれていくこと。「主体」的であること、と同時に「主体」的問題枠から自由であること。「自己本位」につきまとうアポリアを抱えながら、その課題を今まさに生きつつあることを映す鏡のように、自分の目の前に(あるいは自身を記述する「手記」の後に)、「私」は先生の遺書の「引用」を置いたのである。
 
例へて云へば主題の頭と尻尾とを書いて肝心の胴中を抜かしてゐると云ふ気を起させるやうな、罪を犯すに至る迄の経過と罪を犯して後の十幾年に出来上がつた態度とのみが書かれてゐて、罪の重みに悩みつゝ一つの態度から段々他の態度へと映つて行く『先生』の内面の経過が、殆ど示されてゐない(小宮豊隆「漱石先生の『心』を読んで」I)
 
 「私」は「自己」の「内面の経過」を示す代わりに、先生の遺書を置いた。しかしそれは「肝心の胴中」を埋めるためにではなく、やはり彼の「胴中」も空っぽであることを示すためであった。先生のその遺書にある空白こそが「私」の空白であり、「私」という謎、「自己の表現」という謎なのである。

 「私」は「自己」自身よりもむしろ先生を伝えながら、さらには先生の遺書を「引用」しながら、そのようなかたちで模倣するしかない「自己の表現」というものを試みている。
 
日本の開化はあの時から急劇に曲折し始めたのであります。また曲折しなければならないほどの衝動を受けたのであります。(講演『現代日本の開化』明治四十四年J)
 
 漱石がいう「主体的」=「内発的」でない「開化」における日本の立場のように、「私」は「模倣」を余儀なくされた世界を「上滑りに滑つて行かなければならない」のである。

 「選択」は主体的でありえない。自由な意志はないと同然である。「自己本位」は叶わぬ境地である。しかし「私」は、「自己」を確実にできない宙ぶらりんの姿勢のまま、先生の言葉を「引用」し、「模倣」の姿勢のうちに自らを試みつつ「出来るだけ神経衰弱にならない程度に於て、内発的に変化して行く」「自己」を育てていく。必ずしも外部的な他者とのあいだの対話を通してではないにしても、母親の口まねをして言葉を覚えていく幼児のように、まずは近しい相手を模倣し、それを反復する。そうした試みのうちに生まれてくるズレをも含んだ「良く出来た小説」に向けて、試行錯誤的な自由を生きようとしているのかも知れない。



おわりに

 
 先生の遺書は、人が何らかの理想に誘われてそれなりに自然な歩を進めていくうちに、なぜかその理想を自ら裏切り捨て去ることになるような、つねに「遅れ」ることで「罪」を伴う「自己の表現」に追い込まれていく心の「不可思議」を描いている。先生は親友の固有の名を明かさずにKと記した。それは先生のKに対する肯定と否定という両義的な姿勢と見合っている。先生はKの名を「私」とも妻とも共有しようとせず、自分だけで抱えて死ぬのである。「私」の「真面目」に対して彼も「真面目」で応答すること。先生はそうすることによって自らの人間不信、孤独、自己不信の解消をめざす。他方、先生はしかし「塵に汚れた」自己の存続を許さない。無垢なるものは、「生まれた儘の姿」やKとともに最早ありえず、「弱点」と「罪」を抱えたまま彼は自死するのである。先生はKを否定し「自己」を肯定しようとして途方もなく長く「書く」のであるし、しかしKを肯定し「自己」を否定しているから死ぬのである。そうした分裂した自己を「有りの儘に」書こうとすることは、自分自身をそのまま矛盾した言葉にしてしまうことでもある。そしてこの試みのうちに先生の無垢なるものへの欲望 が生きられているのである。

 先生を「先生」と記す青年「私」は、少なくとも「先生」という自分との関係を示す呼びかけ方の中に、自分自身を含ませようとしている。そして自身を含めた「先生」を読者へ開こう、読者と共有しようとしているのである。だがそのことはまた、青年が先生の固有の名をやはり自分だけで抱えようとしているとも、その「自己」を誰とも共有できていないとも読めるのである。他者がいないから「自己」もあり得ないという悲劇と、それでも独りで「自己」を求めてしまうことの悲劇。「私」はその二つの悲劇の間で宙ぶらりんの自由を生きている。彼は先生との間にだけ可能な私的な共同体にのみ生きようとしているのではない。そこでなら自身の「自己」が位置づけられ、「自己」を「言葉」にすることが可能な何らかの共同性を、先生以外の誰かとの間に求めてもいるのである。「私」は自らの欲望を無理にどちらか一方に限定しようとはしない。声であれ文字であれ、そもそも「告白」が許されていない青年は『先生と私(上)』『両親と私(中)』と「私」を報告する途中で、先生の遺書を『先生と遺書(下)』として「引用」する。それらすべてが彼なりの「自己の表現」である。「自己」のす べてを言葉にできたわけではなかった先生以上に、青年は過去の「自己」を言葉にすることができない、また無理してしようともしないのである。

 「隠しもせず漏らしもせず」に「自分の心の経路を有りの儘に現はす」こと。そのことがどれほど困難なことであるかは、ポオに学んだ昔から漱石には自明のことだったはずである。Kを模倣しつつ同時にずれていこうとする先生。その先生を模倣しつつ同時にまたずれていこうとする「私」。「自己」というものの「本当の真実」を描こうとして両方向に引き裂かれる両者の姿勢の重ね合わせのうちに漱石の無垢なるものを希求するほとんど不可能な夢が、予め殺されつつ、それでも何とか生き延びられようとしているのである。

 「善」や「美」のかたちで無垢なるものをそのまま描くことはできない。そこで「真」へと向かおうとする姿勢のかたちでそれを残そうとする工夫が、ここでの「告白」とその「引用」という方法なのである。『こゝろ』において漱石が抱えていたのは、変わりやすい心を抱えた人間を、そして無垢なるものをどう描くか、という問題であった。それはすなわち、「選択」に「遅れ」てしまう「自己」という「不可思議」なものをどのように表現するか、そして「無垢なるもの」への欲望をどのようなかたちで生き延びさせるか、という問題である。漱石は「真」を描き得る「方法」を模索するなかでそれらの可能性を問うた。そしてその「真」なるものとは、「告白」という直接性ではなく、「告白」とその「引用」という間接性と虚構性を備えた「小説」という装置によって初めて、表現の可能性をもつものだったのである。




@静の名が固有の名ではなく、「私」の編集によってつけられたのだとしたら、という新しい視点から読み解こうとしている論考に、たとえば松澤和宏「『心』における公表問題のアポリア―虚構化する手記」 (「日本近代文学」第六一集、一九九九・一○、日本近代文学会)が ある。
A小森陽一「『私』という〈他者〉性―『こゝろ』をめぐるオートクリティック―」(季刊「文学」第3巻・第4号、一九九二・秋、岩波書店)
B大澤真幸「明治の精神と心の自律性」(「日本近代文学」第六十二集、二○○二・五、日本近代文学会)
C内田樹「「大人になること」―漱石の場合」(『『おじさん』的思考』第四章、二○○二・四、晶文社)
Dジャック・ラカン/佐々木考次訳「《盗まれた手紙》についてのゼミナール」(『エクリT』所収、一九七二・五、宮本忠雄他訳、弘文堂)
E高田知波「『こゝろ』の話法」(「日本の文学」第8集、一九九○・一二、有精堂)には《「先生」の遺書を、語り手の評価の言説の表出 を極力避けて発話者自身の声の直接的再現を基軸にした手記のエクリチュールの後に引用している「私」は、きわめて意図的な叙述者だと 言っていい。》という指摘がある。
F押野武志「『遺書』の書法―ペンとノイズ―」(『総力討論 漱石の『こゝろ』』所収、一九九四・一、翰林書房)
G大澤真幸(前掲論文)
H石原千秋「テクストはまちがわない」(「漱石研究」第六号、一九九六、翰林書房)
I小宮豊隆「漱石先生の『心』を読んで」(『アルス』第一巻四号、一九一五・七、『夏目漱石研究資料集成』第二巻所収、一九九一・五、日本図書センター)
 

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