志賀直哉と奈良
   ―あるいは自己への態度―

          

SHIGA Naoya and Nara:Attitudes towards the self in SHIGA Naoya's life and works

                       武 田 充 啓



 はじめに

 このたび志賀直哉の作品の幾つかを読み直す機会があり、志賀は、近年私が中心的に扱ってきた夏目漱石の〈自己〉に関する問題を、彼なりに引き継いで問いかけた文学者であったと改めて思った次第である。直哉は、やはり漱石文学の後継者の一人なのである。
 明治十六(一八八三)年生まれの志賀は、慶応三(一八六七)年生まれの漱石と比べると十六歳年少である。時代を考えると、子供の世代というよりは、年の離れた兄弟として通用する程度の差かもしれない。しかしこの年齢差は、対西欧文化という視点から見ると、意外に大きいのではないか。例えば個人主義に対する構えなど、漱石と直哉では全く異なっている。留学時代の学問との悪戦苦闘を通じてようやく自己を発見し、しかし創作においてその自己を相対化し続けねばならなかった漱石と違い、直哉は創作の最初から自己を手にしていて、しかもそれを素直に肯定するところから出発することができている。しかし志賀の子供の世代といってよい、例えば亀井勝一郎*1はどうか。明治四十(一九○七)年生まれの亀井にとって、自己はもはや自明のものではなく、まずは否定すべきものとして始めなければならなかったのである。
 ここで取り扱うのはしかし、近代日本文学者における個人主義受容の歴史的変遷ではない。漱石文学における〈自己〉の問題が、どのように引き継がれたか、あるいはどのように引き継がれなかったか、という問題である。奈良に生活した時代の志賀直哉とその作品について、漱石文学の大きな核となる二つの思想である「自己本位」と「(則天)去私」の視点から考察する。
 志賀はどのように奈良に向き合い、どのようにその自己を見つめ直し、それらをどう「本位」や「去私」として表現したのか。直哉が書き残したものを読み直すことで、その自己肯定がめぐる行程をたどり、志賀直哉の〈自己〉への態度を、できれば彼の小説において工夫された方法として、切り出してみたいと思う。




 一 自己肯定の行き着くところ

 志賀直哉は〈自己〉をどうとらえていたのか。明治四十五(一九一二)年における日記の記述から見ておこう。

 「何々でなければならぬ」といふ考へは自分は嫌いである。かういふ意味で固定した宗教、道徳。主義。を自分は嫌いである。/人間は一人々々異つたものである。或人には「何々でなければならぬ」場合が或人には「何々であつてはならぬ」場合がいくらもある。若し「あらねばならぬ」といふなら其人一人に左うなのである。「其人の其時に」と更に狭められやう。自分は全然自由で欲しい。自分は自由で自分を出来るだけ深く掘らうと思ふ。/自分の自由を得る為めには他人をかへりみまい。而して自分の自由を得んが為めに他人の自由を尊重しやう。他人の自由を尊重しないと自分の自由をさまたげられる。二つが矛盾すれば、他人の自由を圧しやうとしやう。*2

 同月七日には「自分は自分にあるものを生涯かゝつて掘り出せばいゝ」、また翌八日には「自分は自分の愛すべき所を、美しい所を、又エライ所を一生かゝつて掘り出さねばならぬ」とも書いていた。しかし同時にこの「自己肯定」が「大変な進歩」ではあっても、決して「安心」ではないとも記す志賀には、真の立命に向けて、「自分を出来るだけ深く掘る」かたちで、さらなる「進歩=自己肯定」の行程をたどろうとする覚悟がうかがえる。ただ、それを直哉は、強制によってではなく、「自由に」行いたいのである。「他人の自由を尊重しやう」とするのは、あくまでも「自分の自由を得んが為め」であり、自他の自由が矛盾するときは、あっさり「他人の自由を圧しやう」と書いてしまうあたり、直哉二十九歳の、自己を疑うことを知らない若さを感じる文章でもあるが、これを読むと、私はすぐに漱石の次の「断片」を思い浮かべてしまう。
 
○二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。(中略)夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。徳義心のある者は必ず負ける。(中略)勝つと勝たぬとは善悪、邪正、当否の問題ではない――powerデある――willである。*3

 むろん漱石は、こうした弱肉強食的な認識にとどまっていたわけではない。力と意志でもって自他の戦いに勝つべしというのではなく、他者との関係において「勝つと勝たぬと」という二分法的な思考の枠組みを強いてくる社会的構造に対してむしろ意識的になり、そこから解放されねばならないと考えるにいたる。しかし、ここではさしあたって、漱石の「私の個人主義」(大正三年)を振り返っておけばよい。それは、将来ともすれば権力や金力といったpowerを手に入れやすい立場にいる学習院の学生たちに対して、彼らのwillに向けて、文学者一個人からの忠告として述べられたものである。漱石が右の「断片」を書きつけてから十年以上もの時間をかけてたどりついた〈自己〉についての思想を、すでにその身につけてでもいるかのように日記に書きつけている直哉の世代的な優位さと同時に、その未熟さが浮き彫りにされるだろう。もっとも、そこで漱石が「勝手な真似」と非難したのは、白樺派の作家たちを名指してのことではない。

 私は此自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大変強くなりました。(中略)比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果漸く自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたやうな気がしたのです。(中略)
 近頃自我とか自覚とか唱へていくら自分の勝手な真似をしても構はないといふ符徴に使ふやうですが、其中には甚だ怪しいのが沢山あります。彼等は自分の自我を飽迄尊重するやうな事を云ひながら、他人の自我に至つては毫も認めてゐないのです。苟しくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、其自由を他にも与へなければ済まん事だと私は信じて疑はないのです。*4

 注意しておきたいのは、大正三年の四十代後半となった漱石が、その青少年へのメッセージに明治四十五年の直哉の日記にある表現とほぼ同じ言い回しを使っている点である*5。二人とも、本来の自己、あるいは自己の可能性といったものを埋もれた鉱脈に見立て、それらを発見し開拓することを「掘り出す」「掘り当てる」と表現しているのである*6。
 ここで武者小路実篤の言葉も見ておこう。明治四十四年三月の「白樺」に載せた実篤の有名な『三つ』(「個人主義の道徳」「自分の筆でする仕事」「逃げ場」からなる)という文章の一部である。

 自分は生れつき自我に執着する男である。されば自分は自我を何物の犠牲にしやうとは思はない。寧ろ自我の為に何物をも犠牲にしやうと思つてゐる、しかしその自我なるものが恐らく多くの人の思つてゐるよりも、広い、深いものだと思つてゐる、自分はまだ自我と云ふものを真に知らない、されば真の自我の為めにはどうすればいゝか知らない、しかし多くの人よりは知つてゐると思つてゐる、恐らくずぬけて知つてゐる一人ではないかと思つてゐる*7

 ただし武者小路の特異なところは、彼に「逃げ場」がある、すなわち次の瞬間には《その強烈な自己主張をカラリと投げ棄てることができ》る点である*8。
強い自己肯定は、やがて「揺り戻し」としての自己否定を呼び起こす。実篤はその自己否定から逃れるすべを心得ている人でもあったのである。
 しかし当時の志賀直哉の〈自己〉には、自分自身の豹変を赦せる武者小路の〈自己〉ほどの「広さ」はない。しかし志賀の自己認識が、前向きであり肯定的なのは、彼が経済的に余裕があり身体的にも健康な若者だからというだけではない。この未熟な自己肯定をする人が、それでも「負け」ることがないのは、直哉もやはり実篤と同様に「自分の筆でする仕事」、すなわち他者とsame spaceを奪い合うことのない仕事をする人だからである。「藝術は自己の表現に始まつて、自己の表現に終るものである」と述べ、続けて次のように書いたのは志賀直哉ではなく、夏目漱石である。

最後の権威が自己にあるといふ信念に支配されて、自然の許す限りの勢力が活動する。夫が藝術家の強味である。即ち存在である。けれども人の気に入るやうな表現を敢てしなければならないと顧慮する刹那に、此力強い自己の存在は急に幻滅して、果敢ない、虚弱な、影の薄い、希薄のものが纔かに呼息をする丈になる。(中略)/だから徹頭徹尾自己と終始し得ない藝術は自己にとつて空虚な藝術である。*9

 では志賀直哉の「エライ所」を、例えば芥川龍之介はどう見ていたか。「頗る雑駁な作家」である自分と比べて、志賀を「最も純粋な作家」と見なす芥川は、直哉の作品は「何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品」だとし、立派というのは「『道徳的に清潔に』と云ふ意味」だと述べたあと、次のように続けている。

これは或は志賀氏の作品を狭いものにしたやうに見えるかも知れない。が、実は狭いどころか、反つて広くしてゐるのである。なぜ又広くしてゐるかと云へば、僕等の精神的生活は道徳的属性を加へることにより、その属性を加へない前よりも広くならずにはゐないからである。(勿論道徳的属性を加へると云ふ意味も教訓的であると云ふことではない。(中略)念の為にもう一度繰り返せば、志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。*10

 芥川が、志賀の作品には「清潔」に生きようとする者の「道徳的魂」とその「苦痛」の両方がうかがえる、とも述べているように、志賀直哉は単なる自己肯定の作家ではない。ただ直哉の場合、「苦痛」があるからといって武者小路のように簡単に自己を否定(あるいは放棄)することにはならない。実篤が自己の「広さ」に甘えて他者との間に〈自己〉を曖昧にしてしまうのだとすれば、直哉はあくまでも「深さ」への道筋をたどろうとするのである。弱い自己に対する嫌悪をも乗り越えて、「自分を出来るだけ深く掘」ること、そうでなければ直哉の〈自己〉は、「純粋」でも「清潔」でもあり得ないのである。周知のように、志賀の「自己本位」が行き着いたところは、たとえば「范の犯罪」の主人公の次のような独白である。

自分の未来にはもう何の光も見えない。自分にはそれを求める欲望は燃えてゐる。燃えてゐないまでも燃え立たうとしてゐる。それを燃えさせないものは妻との関係なのだ。(中略)生きながら死人になるのだ。自分はさういふ所に立つてゐるのに尚それを忍ばうといふ努力をしてゐるのだ。そして一方で死んでくれればいい、そんなきたないいやな考を繰返してゐるのだ。其位なら、何故殺して了はないのだ。殺した結果がどうならうとそれは今の問題ではない。牢屋へ入れられるかも知れない。しかも牢屋の生活は今の生活よりどの位いいか知れはしない。其時は其時だ。其時に起ることは其時にどうにでも破つて了へばいいのだ。破つても、破つても、破り切れないかも知れない。然し死ぬまで破らうとすればそれが俺の本統の生活といふものになるのだ。*11

 引用部分の前半は、漱石『こゝろ』の先生を彷彿させもする范の苦悩だが、彼はしかし先生とは違い「妻」という他人のために自己を犠牲にしようとはしない。いや、そればかりか、その他者が「死んでくれれば」と願う自分を認め、それさえもが「きたない」自己欺瞞であると断罪し、自らの意志で相手を「殺す」ことが、そしてその結果を引き受けながら、自ら選び取った道の先に自分の未来を切り開いていくことこそが、「本統」だとするのである。
 これを増長し膨れあがった自己の極大値だといっても、あるいは逆に、行き場のない孤立した自己の弱さの露呈(極小値)だといっても、同じことの両面であろうが、少なくともここには『こゝろ』にあるような、罪の意識を背負う(自己否定する)ことでかろうじて維持される「他人本位」の消極的な自己はない。「本統」を手に入れようとするとき、その軸をあくまで自己の意志に置き、自己を手放さず(自己肯定し)、「自己本位」を貫こうとするのなら、ここまで行き着くのが作家〈志賀直哉〉にとっての自然だったのである。



 

 二 自己認識の深め方

 「自分を出来るだけ深く掘らう」とするのは、もちろん〈自己〉を知るためであり、人間の真実=「本統」を表現するためである。そしてこの目標へと至る行程を志賀直哉は、自己(を含めた世界)を描くことで辿ろうとする。自己認識を深めることは自己の内部からだけではできない。自己を対象としてとらえるもう一つの視点(自己)が必要である。その一つの方法が「記述」である。自己の経験を(たとえば小説の)素材として組み立て直し、登場人物(たとえば「私」)を自己の一部を担う人物として描くこと。こうすれば他の登場人物と同様に取り扱うという点では同じように自己に対して「外部」の視点に立てる。こうして経験された自己は、記述された自己となり、はじめて内部からとは別の他の視点から肯定され得る自己、承認され得る自己となる。そしてこの重層的になった〈自己〉こそが、「自己本位」の基礎となり得るのである。
 むろん〈自己〉は実際の「外部」、すなわち他者や社会との関係を抜きにしては成り立ちえない。ここでジュディス・バトラーの言葉を引用してみたい。彼女は、ある著書において倫理の問題を責任=応答可能性として追究しつつ、ミシェル・フーコーが主体というものをどのように位置づけているかについて、次のように述べている。

フーコーはある意味で、ニーチェが部分的にしか成し遂げなかった仕事を引き継いでいる。そしてフーコーは、新たな規範をただ単に作り上げる「たった一人の個人」を賞賛することはないが、それらの社会的条件が何度も作り直される場として、主体の実践を位置づけるだろう。*12

 一人の個人が新たな社会的規範を打ち立てることなどあり得ないが、主体としての一個人の実践は、フーコーがそうしたように、倫理の社会的条件が何度も作り直される場として、注目してよい、そうバトラーはいう。私たちは、むろん志賀直哉から、何らかの道徳的規範を学ぼうとしているわけではない。そんなものは、あったとしても一個人の「恣意的」で「偶然的」な見解にすぎない(同前)。しかし、志賀の〈自己〉を描くという個人的な実践そのものには注目してよいのである。直哉の〈自己への態度〉を考察することは、〈自己〉の成り立ちに他者がどう関わるかを問うことであり、また「社会」がどのようにして〈自己〉を作り上げるかを問うことでもあるからである。そしてその水準は異なるにせよ、志賀直哉が記述する主体としての自己(たとえば「私」)が「実体」ではなく「一つの形式」であるように、主体としての作家〈志賀直哉〉もまた「実体」ではなく、《常に、自分自身とイコールではない》*13。このことも確認しておかねばならない。
 たとえば「本統」を表現することについて、奈良時代の直哉は次のような自問を手帳に書きつけている。

絶対にウソのない自伝といふものは書けるだらうか、発表を予期するから書けないのか、発表しないつもりで書いても書けないものか何れであらう。試みて見ていゝ事だ。*14

 この問題は「告白」の問題とも絡んでいるが、これを読むと、「自分の心の径路を有りの侭に現はすことが出来たならば、さうして其侭を人にインプレツスする事が出来たならば、総ての罪悪と云ふものはないと思ふ」*15と述べた漱石の次の文章がすぐに思い浮かぶ。

聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿つて行つても、本当の事実は人間の力で叙述出来る筈がないと誰かゞ云つた事がある。况して私の書いたものは懺悔ではない。*16

 そして志賀直哉は「手帖から」(昭和八年)と題した随筆で、アウレリウス・アウグスチヌスやジャン=ジャック・ルソーの名前を挙げて懺悔の不可能性について記したアナトール・フランスの文章を引用したあとで、次のようにも書いている。

 絶対に偽りのない自伝は書けないものだらうか。一つの事柄で、何が真実かを知る事は実際困難かも知れない。一つの心理――自己に起こつてゐる心理状態――それを正確に捕へる事は容易ならぬ事だ。捕へても、捕へても、その手からもれてゐるものが残るだらう。*17

 たとえば「夢」。夢にはある種の「正直」がある。しかし「例えば自分が尊敬してゐる人の細君を姦した夢を見たとする。若しそれを細々書いて見た所で何になるか」。「人間の性格」が出たからといって「事の真」が描かれるかは別問題である(同前)。「もれてゐるもの」は、自己を作っているそのものであったりする。自己を描くというとき、そしてそのことを通して人間の真実=「本統」を表現するというとき、その自己を作り上げているものに意識的であること、したがって自己認識を深めることは必須であり、そうした志賀の見識は、たとえば次のような小林多喜二への手紙によってもはっきり窺える。

 
トルストイは藝術家であると同時に思想家であるとして、然し作品を見れば完全に藝術家が思想家の頭をおさへて仕事されてある点、矢張り大きい感じがして偉いと思ひます。トルストイの作品でトルストイの思想家が若しもつとのさばつてゐたら作品はもつと薄つぺらになり弱くなると思ひます。/主人持ちの藝術はどうしても希薄になると思ひます。文学の理論は一切見てゐないといつていい位なのでプロレタリア文学論も知りませんが、運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が結果からいつても強い働きをするやうに私は考へます。(中略)/作品に運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋に作品本位でいつた事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません。*18

 たとえば「思想」。たしかに「考へ」は自己の部分ではある。しかしたとえそれが自分の一部を形作っているものであるにせよ、藝術(作品)の「主人」はあくまで〈自己―藝術家〉でなければならない。直哉の態度は、他者の生活に対してと他者の作品に対してとでは、明らかに異なっている。他者の生活はそれとして尊重するが、こと作品に対しては、たとえ他者のものであっても自分の価値観を表明し、その見解を気負うことなく述べている。「作者はどういふ傾向にしろ兎に角純粋に作者である事が第一条件」だとする志賀にとって、「傾向」などは、その作者自身の〈自己〉という深みをもった全体からすれば、ごく〈浅いもの―考へ〉にすぎない。だからこそ「何かある考へを作品の中で主張する事は藝術としては」「よくない事」だともいうのである(同前)。
 右に見てきた文章によっても志賀直哉が〈自己〉に対する態度のありようという視点から「本統」を表現しようとするとき、その方法に対して十分意識的であったことがわかるが、それは彼の唯一の長編であり、足かけ十七年という長い時間をかけて完成にこぎつけた作品『暗夜行路』が、当然「自伝」ではなく、また『大津順吉』のような一人称小説ではなく、三人称小説のかたちをとっていることにも表れているだろう。しかし『暗夜行路』についてはここでは措く。
 以下では小説『佐々木の場合』(大正六年)を取り上げる。〈自己〉への態度の深化という視点から、また漱石(の作品)との比較という点からも、注意しておきたい作品である。「亡き夏目先生に捧ぐ」との献辞があるこの小説は、内容や形式まで漱石(特には『こゝろ』)を意識したものである。三角関係にある人物、不慮の事故(『こゝろ』の場合は自殺)、最後まで自分の責任を果たそうとする主人公、その事情を手紙で知らされた第三の人物のあいまいな位置(あるいは決めきれない態度)など、共通している点が多いのである。
 漱石は『こゝろ』において、それまでに試みていた『彼岸過迄』や『行人』といった三人称小説から、一人称小説に戻った。しかし、ただ戻っただけではない。連作短編数編によって長編一編を構成するという先の二つの小説での試みは、やはり続けていたのである。『こゝろ』では、そのうちの短編の一つ(「先生と遺書」)が長くなりすぎたために、その時点で一編のまとまりをもったものとし、他の短編を加えることは断念せざるを得なかったのである。
 志賀は、それらの漱石の意図をおそらくは理解しながら、しかし彼なりに『こゝろ』を短編の一編によって再構成し、彼なりに〈自己〉への態度の問題をさらに一歩進めたところで問題化しようとしている。

 佐々木は今その女の心をさえぎっているものは紋切り型な道義心と犠牲心とで、それをとり除く事が出来れば問題は解決すると思っているらしい。そしてその道義心と犠牲心に余りに価値を認めない点が、佐々木も可哀想だが、自分には少し同情出来なかった。自分もそれらをそう高く価づけはしない。然し佐々木はそれを余りに低く見ていると思った。そして仮令消極的な動機からにしろその女が信じた事を堅く握りしめているその強さに自分はいい感じを持った。佐々木には今の自身の位置を誇る気さえ多少ある。それは無理はない。然し佐々木の妻になる事が必ずしもその女の幸福を増す事になるとは自分は考えない。佐々木が或幸福を与えるだろう事は佐々木自身が信じている如く確かかも知れない。然し同時にその女が今持っている或幸福を捨てねばならぬ事も確かだ。しかも佐々木には女の今持っている幸福が如何なものかは本統に解っていないと云う気がする。*19

 漱石の『行人』では、Hさんが一郎を報告する手紙において一郎を批評しているが、受け取った二郎にはそれらしきものはない。同様に『こゝろ』における手紙の受取人である青年「私」にも「先生」へのはっきりとした批評の言葉はない。『佐々木の場合』において直哉は、佐々木からの手紙を受け取った「自分」に佐々木を(あるいは事態を)分析させ言葉にさせている。「自分はそれで、何と云っていいか分らなかった」という結びに表れる「自分」の態度は、いかにも中途半端なものであるが、佐々木という人物の〈みずから〉なる自己がたんに主張しているのではなく、小説ではそれを受け取った「自分」という人物の自己が重層化され、いわば志賀自身のもう一つの自己として、対象から距離を置いた位置にあって、しかし事態にまったく寄り添っていないわけではない自己が、方法として用意され、結果として読者には作家〈志賀直哉〉のさらに〈深い―おのずから〉なる〈自己〉が、より自然なかたちで浮かびあがるかたちになっている。
 志賀は父親との「和解」(大正六年八月)の前に、『城の崎にて』(大正六年四月)を発表しているが、同じ月に発表した『佐々木の場合』においてすでに、その〈自己〉に対する態度を漱石から学び、今度は自分自身の方法として試していた。それは、〈みずから〉を包む〈おのずから〉*20が志賀の視野に入ってきたということであり、小説の方法における「自己本位」偏重から「去私」的態度への相対的な重心移動である。もちろん方法とは人為であり、小説は人工のものである。しかし、その人為や人工における「方法」のうちにこそ、他者に相通じる何か(現実性を保証する基盤のようなもの)が存在するのではないか。「本統」の表現には、そうした方法が生む〈自然―本当らしさ〉というものが必要なことにも、志賀直哉は気づいていたはずである。




 三 奈良への態度

 いったい奈良とは、どういう〈場所〉なのか。同じ古都でも奈良は京都とはかなり印象が異なる。今でも現役の大都市であり、都市としての歴史が長い京都と違い、奈良は都であった期間が圧倒的に短い。いにしえのその〈場所〉まで歴史的記憶を辿ろうとするとき、いわば線の上をなぞって遡っていくのではなく、一挙に遠くの点にまで戻っていく感覚がある。そういうところにも「ふるさと」のイメージが作られやすい要因があるのではないか。根拠のない懐かしさ、あるいは安らぎ。自分たちの土地から地続きではない、生活における心情からも切り離された遠いところに、だからこそ存在する懐旧と安寧の〈場所〉としての故郷。それが古都としての奈良のイメージではないか。
 その奈良が、近代において天皇制と結びつけられ、国家の統一感、国民の一体感の養成に向けて一役買うことになっていく。具体的には、一方で鉄道網やその他の交通機関が整備され観光化が進められていくなか、他方で橿原神宮のような礼拝の場が建造されることでいよいよ聖なる場としての仕上げがなされていく。そこではもはや飛鳥や斑鳩が、あるいは吉野までもが、つまりは時間的にも空間的にも一括りにされ、天皇のふるさとこそが、また自分たち日本人の遠いふるさとであり、「私たち」がそこから始まり、その私たちの「昔」が文化財として(主には仏具が美術品とも見なされる形で)今なお残る始源の〈場所〉として奈良がイメージ化されていくのである*21。
 以下本章では、志賀直哉の随筆「奈良」(昭和十三年)*22と全集では小説扱いになっている『早春の旅』(昭和十六年)*23をとりあげ、志賀の奈良に対する姿勢、自己自身に対する態度について考察する。
 随筆「奈良」では、最初にそこに住む前の奈良の印象と直哉の気持ちが記されている。奈良の「暢びりした気分」は「限定された気分」であり、「余りに完成してゐる」その気分から出ることも、またその気分に浸かっていることも「不愉快」だろうから、住むのを躊躇ったというものである。では「それから一年半程経つて偶然の事から奈良に住むやうになり」十三年をその地で過ごした後はどうなったか。文章は次のように続く。

 
然し来春――此雑誌が出る時でいへば此春、私も此所を引き上げることにしてゐる。既に先発として八人の家族の内五人、東京へやり、その関係で、近頃は頻繁に上京するが、妻子五人ゐる自分の家にゐながら、二三日すると、矢も楯も堪らず、奈良に帰りたくなるのは不思議な位だ。(中略)
 東京のかへり、米原を越し、田圃の彼方に琵琶湖が見えだすと、私はいつも、ああ帰つて来た、と思ふ。既に妻子五人を東京へやつてある今日でもさう思ふ。かういふ気持はこれからも何年か続きさうな気がしてゐる。それ程、土地として何か魅力を持つてゐる。

 しかし奈良に住む気になった(「偶然」以上の)理由は示されず、奈良の「土地」としての魅力についても、それが何であるかははっきりとは書かれない。続いて奈良の「暑さ寒さの評判は奈良に少し気の毒だ」と述べ、「食ひものはうまい物のない所」「欠点は税金の高い事」とする志賀は、生活者の視点で奈良を捉えている。そして「奈良の人達」に対して、これは部外者や旅行者の視点を交えて、率直な助言を与えている。要するに「打算を越えて親切」であれ、「気持ちの温さ」をもて、と言うわけだが、ここまでの踏み込みは、やはりそこで生活をした者の実感があっての物言いである。結びを見よう。

 兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残つてゐる建築も美しい。そして二つが互に溶けあつてゐる点は他に比を見ないと云つて差支へない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。
 御蓋山の紅葉は霜の降りやうで毎年同じには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。五月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も、奈良を憶ふ種となるだらう。


 明らかに懐古的な眼である。志賀が現在有している奈良についての記憶は、過去十三年間住み暮らしてきた奈良のごく一部分にすぎないだろう*24。たとえそうであっても、もし奈良における直哉の全経験が「名画」としてあるとしたら、その残欠である奈良についての記憶も、それが記憶として今も生きている限り、やはり「名画の残欠が美しいように美しい」。そういうことなのかも知れない。しかし経験の残欠としての記憶の美しさが「名画の残欠」の美しさとどのような関係にあるのか、それは明示的には書かれないのである。
 明治時代後半から興行性の向上を図って若草山の山焼きを夜間に実施するようになり、明治末年から大正初めにかけてそれまでの巡礼宿的な施設ではなく近代観光の宿泊施設として「奈良ホテル」や「日吉館」を開業させ、大正五年になって浮見堂を建設した奈良。志賀が暮らした時代だけで見ても、昭和三年に奥山周遊道路を開通させ、同六年に観光協会を発足させ、同八年には市が奈良観光を聖蹟顕彰運動と捉える「『大和宣揚』運動の前衛」を全国中小学校長に頒布し、翌九年には市が観光課を独立させた奈良。そうした「近代化」していく奈良*25は隠されてしまって全く見えなくなっている。「産業を盛んにする為め、煙突が無闇に多くなる」のは「考へもの」というだけの、僅かな記述によってあっさりと、ごく曖昧に抽象化されてしまっているのである。随筆「奈良」は、志賀にとっての奈良が、「ああ帰つて来た」という懐かしい「気分」をもたらす「土地」であるということだけは確かな、そして「古都」奈良のイメージの定着化にも一役買うに違いない文章である。
 では『早春の旅』はどうか。この「小説」は、昭和十五年春に直哉が実際に東京から京都・奈良・大阪・宇奈月・赤倉を旅した経験をもとにして、同十六年に発表されたものである。平城、西大寺、油坂とやってきて、いよいよ奈良に到着した「最初の印象は不相変の奈良だと云ふ事だつた」「総ては不思議なほど不相変であつた。然し又、公園の杜の上に高く、春日山を望んだ時には不相変いいところだとも思つた」とあり、変わらない「奈良」と変わりゆく「私」(とその周辺)を対比させながら、次のように続くくだりがある。

 奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足らぬものを感じ、東京へ引越して来たが、私自身は未だに未練があり、今でも或時小さな家でも建て、もう一度住んで見たい気がしてゐる。殊に去年の夏、苦しい病気で寝てゐる時には矢も楯もたまらず奈良に帰りたかつた。それまでは奈良の住まひを売る事にしてゐたので買手の話もあつたが、それを断り、病気が直つたら自分だけ奈良に住み、月の十日程東京に出て来る事にしようなどと考へてゐた。然し暫くして世田谷新町の静かな場所に家を見つけ、それを買ふ事にした時、買ふためには売らねばならず、私は漸く奈良の住まひを念ひ断つた。ところが、私の娘達は遊びには行つてみたいが、再び奈良に住みたいとは思はぬと云つてゐる。娘達は若く、私は年寄つたからであらうか。(一)

 三年前に書かれた随筆「奈良」との違いは、「矢も楯も堪らず、奈良に帰りたくなる」気持ちが「もう一度住んで見たい」という「私」の「未練」からのものであることが、はっきりわかるように書かれている点である。叙述は時間的に入り組み、心残りだったのは「去年」のことであり、その後「未練」は「念ひ断つた」かの印象を受けるが、よく読めば「住みたい」という気持ちは、〈現在〉にまで持ち越されたものであることがわかる。語り手は「私」に老いを自問させていて、そしてしかし、この「小説」にその端的な答えは用意されていないが、時間意識が意識的に導入されているところも随筆との違いであろう。
 小説『早春の旅』の奈良に関する叙述は、分量的にも内容的にも、特に多いわけでも深いわけでもない。ただ「不相変」であることはことあるごとに強調される。たとえば「若山君」とされる画家若山為三の家を訪ねたとき、昔なじみの人たちに会い「昨日会つて、又今日会つてゐるやうな」と記され、その部屋に以前と同様にある「十何年の古馴染」の絵画やテラコッタ、ブロンズ像や陶器の壺が並んでいるのを眼にして、「総てが昨日見て、今日見る品々であつた」と述べられるのである。こうして並べられた「不相変の奈良」が伏線的な効果となって、かつて住んだ自分の家が「もう私の家ではなく、完全に関さんの家になつてゐた」ときの「私」の感じ方は、対照的で印象深い。

 私には昔から用もない品々を雑然と身辺に置く癖があり、永くさうしてゐると、つまらぬ物にも愛着を生じ、捨て難い気持ちになりそれらに取巻かれてゐる事で、自家という感じもするのだが、今、此所に来て、それらが一つもないと、最早自家の感じはなく自家とは家屋よりも寧ろさういう品々の事かも知れないと云ふやうな事を思つた。
 二階の客間で昼飯の御馳走になつたが、此部屋には前から余り物を置いてなかつたためか、却つて、ゐた時の感じがあり、懐かしい気がした、戸外は山国らしく、遠く青空の見えたまま、綿雪がさかんに降つて来た。(二)

 自家とは家屋のことではなく、家具や飾ってある品々のことではないか。そんなことを思い、馴染みの物がどこにもない空間で、寂しさを味わった「私」は、しかしなまなかなことでは自己を手放さない人であり、かつてあまり物を置かなかった部屋で、かえって昔の空気を感じとる。そして自己を確かめ直し、その懐かしみの感じに身を浸す「私」に、はじめて戸外の奈良「らしい」情景が自然として見えてくる、そういう語り手の叙述になっている。
 小説の奈良は、随筆の奈良よりは自己(の感情や時間意識、欲望や老い)を一層明白なものにする。それは、奈良との間に、「私」の自己の同一性に揺らぎをもたらす「距離」が、語り手が「不相変」を強調せざるをえない程度には、やはり生まれつつある、その証左ともいえるであろう。



 

 四 自己への態度

 『早春の旅』において、志賀直哉の〈自己〉に対する態度を考察する上で注目したいのは、主人公がとらえたある仏像の姿と息子に対する主人公「私」自身の態度、そしてその「私」を描く語り手の姿勢である。
 奈良に着いた翌日に「私」が「一人博物館」に行き、若い頃は好まなかったという法輪寺の虚空蔵菩薩を飽かずに眺め入る場面がある。志賀は奈良に移り住んで二年目の(この「小説」の〈現在〉からは「十五六年前」になる)大正十五年に自ら編集した図録『座右寶』*26を出版しているのだが、そこに「夢殿の救世観音や法隆寺の百済観音は載せたが、此虚空蔵は載せなかつた」という。当時の奈良帝室博物館では百済観音と背中合わせに安置してあったために、あまり関心を引かなかった仏像であったが、「今から七八年前、百済観音が急に法隆寺に帰る事になり」「虚空蔵菩薩が一体だけになつて中央に置きかへられると、これが又、不思議な程に光りだし」たというのである。そしてこの仏がこの世を眺める姿として描かれたそのあり方と、この小説の主人公である「私」自身の姿勢とが、重なって見えなくもないのである。

 私は其所の長椅子にかけて飽かず此像を眺めてゐた。そして、暫くして次のやうな事を思つた。推古朝といへば今から千三百年前、此像は其時から日本の歴史のあらゆる嵐を見て来てゐる。平重衡や松永久秀の南都炎上も法輪寺からならば眼のあたり望み見たわけである。そして、今はまた此像は未曾有の国難を見てゐるのだ。元兵が九州を犯した国難も知つてゐれば、法華堂の執金剛神が蜂になつて救ひに出たといふ将門の乱も知つてゐる。千三百年来のよき時代も苦しい時代も総て経験してゐるのだ。此像は今の未曾有の時代も何時かは必ず過ぎ、次の時代の来る事を自身の経験から信じてゐるに違ひない。が、同時に其時代もどれだけ続くか、又その先にどんな時代が来るか、そんな事も思つてゐるかも知れない。然し如何なる時代にも此像は只この侭の姿で立つてゐる。執金剛神のやうに蜂になつて飛出すわけには行かない像である。此世界がいつ安定するか分らないが、その理想を此仏像は身を以つて暗示してゐるかのやうである。(二)

 この仏像が身をもって暗示している「理想」とは、世界の「安定」のことであろう。それはもちろん、若い志賀が日記に記した個人的な「安心」とはまったく異なるものである。この虚空蔵菩薩にあって自己は「如何なる時代にも」「只この侭の姿で立つてゐる」以外のあり方ではありえない。ならば自己はあって、同時にない、というより、菩薩の〈自己〉はそのまま「世界」なのである。だが、語り手は自己から離れた「世界」を描いたりはしない。語り手が描くのはあくまで自己であり、その自己を含んだ身近な世界である。
 「これからは俺の方がお供だよ」「それぢやあ、これから自分の鞄は自分で持つ事にしませうか」そんな会話から『早春の旅』の最終章は始まる。「私は今までの旅も楽しかつたが、直吉が喜ぶだらう、これからの旅も楽しい気がした。二人は何となく快活な気分になつてゐた」(三)という記述に注意しよう。「私」を主語とする文のあとには、主語の「二人」が「快活な気分になつてゐた」とする文が続いている。ここで語り手は、まずは「私」を対象とし、続いて「私」と「直吉」を「私たち」ではなく(いったん「私」を離れ)、「二人」という形で距離を置いて対象化している。この点だけを見ても、この「小説」は一人称小説であるが、語り手が登場人物の「私」よりも多くの情報量をもっていることは瞭然である。次にあげるのは、宇奈月の宿屋での場面である。

 先に湯に浸つてゐると、直吉は裸で手拭を下げ、スリッパーを穿いたまま入つて来た。
「オイ、傑作、傑作」と云つても未だ気がつかず、直吉は湯壺のふちにしやがんで不審さうに私の顔を見た。
「足を見ろ」
「いけねえ!」
 直吉は急いで又出て行つた。前々夜、大阪の宿で、私が枕の所までしかなかつた短いシイツを掛蒲団と一緒にまくり、その下に寝たのを直吉は鬼の首でも取つたやうに喜び、時々「あれは傑作だつたよ」などと冷やかしてゐたが、これで帳消しになつた。(三)

 ここには『大津順吉』の主人公のような「不機嫌」な「私」*27はどこにもいない。語り手は滑稽な失敗をしてみせる息子と息子から見た滑稽な父親を平等な目線で捉えユーモラスに描いている。「父と子」を描くにあたって、実際の父親との「和解」がなかったら、あり得なかったと思われる視点であるが、いずれにせよ自己表現における方法的意識がなければ、書けない文章である。赤倉でのスキーの場面でも、次のようなやり取りが描かれる。

「俺はもう止めるから、あぶない事はしないやうに。明日又、一日朝からやれるんだから、いい加減に今日は帰つて来るんだ」
「もう、へたばつた?」
「へたばるもんか。つまらないから止めるんだ」
 然し、直吉は薄暗くなるまで戸外にゐた。
(中略)
 暫くして私達もその吹雪の中に出て行つた。然し私は直ぐ厭になつた。スキーを脱ぎ、雪の中に立つて直吉の滑るのを見てゐたが、それも寒いので部屋に帰り窓から見てゐた。
 直吉は時々その窓の下にやつて来た。私が窓を開き、二タ言、三言話をすると、直吉は又一人、身体を左右に揺りながら歩み去り、斜面まで行くと、其所から下へ滑つて行つた。私は若山君の画会の推薦文を書いた。
 帰つて来た直吉は流石に疲れた風で、ベッドに身を横たへた。
「へたばつたか」と、昨日のかたきを打つてやると、
「少し休んでゐるのよ。おひるを食べたら又出かけますが、お父様は如何ですか?」とこんな事を云つた。(三)

 子を思う父と親を気遣う息子。語り手はここでも直吉を見守る「私」(父親)と同じ目線で、強がったり悔しがったりする「私」(父親)をとらえているが、これは〈〈子供を見る私(父親)〉を見る私(語り手)〉のように二重になった見守りの姿勢である。そしてこの「見守り」を可能にしている精神的基盤が双方向的、交通的な感情としての「共感」ではないだろうか。
 この自他を肯定することが前提になる「共感」という基盤的態度は、たとえば夏目漱石には、たとえ親族に対してもついぞ持ち得なかったものである。漱石作品に頻出する「気の毒」のような同情的な感情でさえ、一方向通行的であって、相手から拒絶される可能性をもっている。それに対して「共感」には、憐憫や慈悲のような上からの目線はない。そして肉親や友人に対してならば、誰もが取れるというような態度でもない。特殊な経験を通して主体形成をした作家〈志賀直哉〉によって意識的に選び取られた姿勢であり、それは〈自己〉を知る=叙述するための方法的なものである。子規や漱石が理想とした「大人が小供を視るの態度」*28とされる「写生文」のそれをより進化させた姿勢ともいえる。この意味で「共感」は、他者を、そしてまたその他者との関係の中から生まれ出る〈自己〉を、より深く認識するための「方法的態度」なのである。
 この「共感」を基礎にした見守り姿勢が最も効果的なかたちで現れるのが、結びの場面である。汽車の出る田口駅まで自動車で先に下った「私」は、後からスキーで下ってくる直吉を、ずっと冷静には見守っていられなくなる。その「私」(父親)をさえ、まるで我が子を見守ってでもいるかのように淡々と記述する「私」(語り手)がそこにいなければ、大量の蜜柑が消費されることで結ばれるこの小説を私たちが読み終えるときに感じる「快活な気分」、あの爽やかな健やかさと静かな温もりは、けっしてもたらされることはないだろう。
 こうして見てくると、『早春の旅』の志賀直哉は、個人的な事、身の回りの事、せいぜい家族や友人たちの事を、小説的構成に特段の工夫を加えることなく書いているかに見える。しかしこれは自己への執着ではない。自分とその周辺を肯定的に見つめるその眼は、同時に自分をやはり肯定的に離れようともしている。善悪好悪の判断の基準として、自分以外のものに頼ろうとしない自己は、その自己自身を「記述=表現」しようとするところで、自身に距離をおき、しかし方法としての「共感」を携えながら、冷静に見つめ直した自己を受け入れている。そういう姿勢を貫くことで、語り手は虚空蔵菩薩の(慈悲的)水準ではなく、より世俗的、人間的な(共感的)水準における「去私」の態度となり、「私」は小さな〈自己―みずから〉のみによって肯定や否定をされてしまうことなく、自己を離れた〈自己―あわい―方法〉によって、より大きな〈おのずから―自然〉に肯定された形で描出されている。
 ではこの小説で志賀直哉は漱石の理想を、すなわち「自己本位」と「去私」との両立を実現することができているのだろうか。しかしそれに答えるにはまだまだ問い確かめねばならないことが多い。『暗夜行路』における主人公時任謙作の〈自己〉とその〈自然〉との一体化の問題とも絡め、稿を改めて問い直したい。




 五 むすびに代えて

 昭和三年、志賀直哉は漱石全集を推薦する次のような文章を書いている。

夏目先生のものには先生の「我」或ひは「道念」といふやうなものが気持よく滲み出してゐる。それが読む者を惹きつける。立派な作家には何かの意味で屹度さういふものがある。然し芸術の上から云へば此「我」も「道念」も必ずしも一番大切なものではない。そして誰よりも先づ作家自身、作品にそれが強く現れる事に厭きて来る。「我」というふものが結局小さい感じがして来るからであらう。「則天去私」といふのは先生として、又先生の年として最も自然な要求だつたと思へる。*29


 これはおそらく、その当時の志賀が自分自身について思っていること、彼自身が求めているもののことを、漱石の名を借りて書いているのである。
 もう一つ、よく知られているが、次の文章も紹介しておきたい。小林秀雄が「続私小説論」の冒頭で引用して有名になった言葉であり、これもやはり昭和三年のものである。

 夢殿の救世観音を見てゐると、その作者といふやうなものは全く浮かんで来ない。それは作者といふものからそれが完全に遊離した存在となつてゐるからで、これは又格別な事である。文芸の上で若し私にそんな仕事でも出来ることがあつたら、私は勿論それに自分の名など冠せようとは思はないだらう。*30


 だとすれば、どんな作品であれ、それに志賀直哉という名前が記されている限り、自分を離れたかたちで作品がそれ自体として存在してしまうほどのもの、それを書くことにおいて「(則天)去私」が実現できているような作品を、少なくとも彼自身は書けたとは思っていない、ということになる。作家〈志賀直哉〉にとって作品は〈自己〉であり、また自己との関係が作品である。作者がその作品から遊離するとは、しかし作者が自己否定することによって得られることでは、少なくとも直哉にとっては、ない。
 他者を否定することで自己を守っている限り、自己を離れる(去私する)ことはできない。また自身によってさえ否定されているならば、離れ去ろうにもまずその自己がそこにない。志賀直哉が求める〈自己〉とは記述(表現)という形式を通じてはじめて確かめられる自己との関係の総体である。たとえ自己自身によって肯定された自己であっても、それが完成ということにはならない。〈自己〉はつねに形を変え続けるものである。他者や自身との関係のもとで自己は次から次へと新しく生まれ出る。その自己を〈自己〉として肯定し続けること、同時にまたその〈自己〉からも離れてゆくこと。自由というものがそこにこそある。そうした道の可能性を志賀直哉は探ろうとしたのではないか。
 「自己本位」を生きつつ、自在に「去私」すること、それはどこまでも目標にすぎないのかもしれない。しかし文芸の上で、それを目指すことが、志賀直哉の一つの理想であり、テーマであって、それは夏目漱石の追究した問いを、志賀直哉なりに引き継いだものだと、私は考えている。「自己本位」と「去私」をつなぐ志賀文学独自の方法としての「共感」が、具体的に作品の中でどう機能しているのか、これをさらに問うことが今後の課題である。



 
 注


1 志賀と亀井には、生母や義母との関係など共通点も多いが、それぞれ青年期に感化を受けた、直哉ならキリスト教、勝一郎なら社会主義に対する、その態度には大きな違いがある。後に「余りにたわいなかつた」(『濁つた頭』明治四十四年「白樺」)と書いた志賀と違い、亀井にとって社会主義は自己否定的契機として以後長く影響を及ぼし続けた。ただし、以下本稿では亀井にはふれない。

2 志賀直哉「明治四十五年三月十三日付日記」(『志賀直哉全集 第十巻』所収、岩波書店、一九七三年)。

3 夏目漱石「断片(明治三十八・九年)」(『夏目漱石全集 第十九巻』所収、岩波書店、一九九五年)。

4 夏目漱石「私の個人主義」(大正三年)(『夏目漱石全集 第十六巻』所収、一九九五年)。

5 日比嘉高『〈自己表象〉の文学史』(翰林書房、二○○二年)は、従来の「私小説」論の問題枠から離れ、〈作家が自分自身を登場人物として造形した小説〉を〈自己表象テクスト〉として、その誕生、意味と機能について、メディア状況、読書慣習、自己観、隣接ジャンルなど多角的な視点からくわしく論じている。

6 この比喩は現在でも使われている。たとえば刊行年は少し古いが、今年度の高等学校国語検定教科書も採録している河合隼雄「こころの新鉱脈を掘り当てよう」(『心の処方箋』所収、新潮社、一九九二年)がある。

7 武者小路実篤「自分の筆でする仕事」『三つ』(「白樺」明治四十四年三月)。

8 本多秋五(『志賀直哉』上、岩波新書、一九九○年、一二九頁)は、「逃げ場」という自己放棄の文章とセットではじめて武者小路は彼の〈自己〉を表現(主張)することができた、と指摘している。

9 夏目漱石「文展と芸術」(大正元年)(『夏目漱石全集 第十六巻』所収)。

10 芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な 五 志賀直哉氏」(昭和二年)(『芥川龍之介全集 第十五巻』所収、岩波書店、一九九七年)。

11 志賀直哉『范の犯罪』(大正二年)(『志賀直哉全集 第二巻』所収、一九七三年)。

12 ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』(佐藤嘉幸+清水知子訳、月曜社、二○○八年、二四三〜二四四頁)。

13 J・バーナウアー/D・ラズミュッセン『最後のフーコー』(山本学/滝本住人訳、三交社、一九九○年、三六頁)。

14 志賀直哉「手帳6」(昭和五年三月二十一日付)(『志賀直哉全集 第八巻』所収、一九七四年)。

15 夏目漱石「模倣と独立」(大正二年、講演)(『夏目漱石全集 第二十五巻』所収、一九九六年)。

16 夏目漱石『硝子戸の中』(大正四年)(『夏目漱石全集 第十二巻』所収、一九九四年)。

17 志賀直哉「手帖から」(昭和八年)(『志賀直哉全集 第七巻』所収、一九七四年)。

18 志賀直哉「昭和六年八月七日付小林多喜二宛書簡」(『志賀直哉全集 第十二巻』所収、一九七四年)。

19 志賀直哉『佐々木の場合』(大正六年)(『志賀直哉全集 第二巻』所収)。

20 竹内整一/金泰昌『「おのずから」と「みずから」のあわい―公共する世界を日本思想にさぐる』(東京大学出版会、二○一○年)所収の発題T竹内整一「『みずから』と『おのずから』の『あわい』」を脱稿直前に知り、「『みずから』は、何らかのかたちで『おのずから』という,おのれを超えた働きというものを介さなければ,『みずから』の価値なり意味なりを,またひいては,他者の価値なり意味なり荘厳なりを感得することはできない.」との指摘に示唆を受けたが、両者の相関としての「あわい」については未消化のままで、小論には十分なかたちで生かすことができなかった。ただ、「みずから」を手放さずに「おのずから」を生きようとする志賀直哉の「〈自己〉への態度」は、そこで否定されている田山花袋や高村光太郎のような「『あわい』を消して行こうとする方向」でも、また「『みずから』を無にして全的に『おのずから』へと参入するかたち」でもないと考えている。

21 浅田隆/和田博文編『古代の幻 日本近代文学の〈奈良〉』(世界思想社、二○○一年)第T章所収のシンポジウムにおける浅田隆の発題、および近代の奈良の歴史と近代文学との関係について三期(「鉄道網の整備と紀行文学」「近代観光都市と古都巡礼」「十五年戦争下の日本回帰」)に分けてなされた討議がくわしい。

22 志賀直哉「奈良」(昭和十三年)(『志賀直哉全集 第七巻』所収)。

23 志賀直哉「早春の旅」(昭和十六年)『志賀直哉全集 第四巻』所収、一九七三年)。

24 志賀直哉は大正十四(一九二五)年京都山科から奈良市幸町に移り住む。以降、昭和十三(一九三八)年に東京に移るまでの約十三年間、志賀は一時期を除き寡作である。奈良時代の主な出来事を列挙すると、大正十五(一九二六)年『座右宝』刊行、昭和三年小林秀雄奈良に移り住む、昭和四年父直温死去、高畑に新築・転居、昭和五年内村鑑三死去、昭和六年小林多喜二来訪、義母浩奈良に住む、昭和八年小林多喜二拷問死、昭和十年浩死去、昭和十二(一九三七)年『暗夜行路』脱稿、となる。

25 前掲書21参照。

26 志賀直哉/橋本基編『座右寶』(座右寶刊行會、一九二六年)。

27 山崎正和『不機嫌の時代』(新潮社、一九七六年)は、この「不機嫌」が明治末期から大正期における一つの時代的気分であることを早くに指摘している。

28 夏目漱石「写生文」(明治四十年)(『夏目漱石全集 第十六巻』所収)。

29 志賀直哉「『漱石全集』推薦」(昭和三年)(『志賀直哉全集 第八巻』所収)。

30 志賀直哉「『現代日本文学全集・志賀直哉集』序」(改造社、一九二八年)(『志賀直哉全集 第八巻』所収)。

付記 小論は、平城遷都一三○○年記念事業と共催するかたちで実施された平成二十二年度奈良工業高等専門学校公開講座「日本文学講座V 奈良一三○○年の文学」第二回「奈良と近代文学 志賀直哉と亀井勝一郎」(八月六日実施)における講演をもとに大幅に加筆・修正したものです。志賀直哉における「自己本位」と「去私」について、あらためて考える場を与えて下さった参加者の皆様に感謝いたします。

(なお、本Web板では、紙媒体の論文にある「ふりがな」は省略しています。) 


論文リストに戻る  (Publications