『知のケーススタディ』,多木浩二&今福龍太,2400,新書館,96-12
今福 ベンヤミンが言っている(「破壊的性格」)のは、破壊的性格の運動の目的は、瓦礫をつくることじゃない。瓦礫のなかを縫う道を見つけることなんだと書くわけですね。これはおそらく、多木さんがおっしゃったことそのものだと思うんですね。このことは、さっき問題にした、瓦礫そのものを瓦礫として物象化し、異物化し、メモリースケープのなかに閉じこめて、濫用していく態度とは、まったく違う。
瓦礫のなかを縫う道をどのように見つけていくか。そのためだけに、破壊という行為の意味がある。廃虚というものに意味がある。つまり、何事も持続的であるとは決して考えず、破壊のあとの瓦礫に立って、個々の断片をただ積み重ねることに対する信頼ですね。みごとな構築力でピラミッドのように積み上げることは意味がない。そういうことを目標にする必要は全くない。
それは考古学にも言えるんじゃないでしょうか。いまある二次的な廃虚になってしまったものを、もう一度歴史の断片へと解体しなくてはいけないんだと思います。それによって、モニュメンタルに飼い馴らされた廃虚によって隠されていた瓦礫そのものが、思想的にも姿を現わすんだと思うんですよ。ベンヤミンは、瓦礫を瓦礫として意味づける道を探ったんだろうと思うんです。
多木 十九世紀のパリの見方にしても、全部そうですね。
今福 ぼくは、歴史にアクチュアリティをどうやって取り戻すか、ということを考えています。それはいまの歴史学の方法ではできない。
多木 ぼくもそう考えています。これまでの歴史が起こったことだけをとりあげてきたのにたいして、起こらなかったことを含んで成り立つ人類史というものを、ぼくは考えています。(p216-217)
『記憶』,港千尋,1500,講談社選書メチエ,96-12
* 印刷術の一般化にともない、ルネサンス期に頂点に達した記憶術は次第に周縁的な位置に追いやられるが、衰退するのは活字印刷が集団的記憶の在り方を完全に変える一八世紀になってからである。科学と技術が社会を土台から変えていこうとするこの時代は、およそ次の三つの点で記憶の歴史にとっても大きな転換期になった。
第一の点は古代から近世にいたる集団的記憶が、すべて書物のなかに記述されるようになったことである。それは聖人や英雄や戦争の記憶だけでなく、それまで口伝によって学ぶしかなかった諸技術が、印刷物によって社会全体に広まった点で画期的な出来事だった。印刷術が印刷術を伝える。辞書と百科事典によって万人が記憶を共有するようになる。ルロア=グーランは、この時代ほど人間の記憶が急激な拡張を経験したことはないとしている。
第二点は国家による図書館の設立と古文書管理の開始である。フランスでは革命直後にアルシーヴ・ナショナルが創立され、イギリスでは一八三八年にパブリック・レコード・オフィスが開かれている。書かれた記憶を国家が管理することによって、歴史を司る主体としての国家の位置が確定した。
第三点は国家の名において集団的な記憶を再確認する行事、つまり記念日が一般化したということである。この点でフランス革命が果たした役割は大きい。暦と祝日の制定に始まり、記念碑の建造、硬貨やメダルの鋳造からやがては切手や絵はがきと、記念という名の集団的記憶はひとつの巨大なイメージのシステムへと急速に成長していった。(p176-177)
* これらを特殊な記念物とするならば、一九世紀の半ばになると都市空間を恒常的に記念空間化する、一般的な記念物が出現する。すなわち通りにつけられた英雄や記念日の名であり、広場に据えられる銅像である。この空間を近代的メモリアの体系と呼ぶこともできるだろう。
そして今世紀に入り、ふたつの大戦のあいだに新しい種類の記念物がこの体系に加わる。戦死した兵士のための記念碑がそれである。フランスであれば「祖国のために戦った子たち」と刻まれた記念碑がないような町や村はひとつもない。戦勝日あるいは敗戦の日を記念する日とともに、集団的な死を国家の名において記念するこの構築物は、そのもっとも純粋な形態を「無名兵士の墓」という場所に見いだすことができる。ここにいたってはじめて、固有名を持たない人間を集団的に記憶するという逆説的メモリアが生まれた。
今日のほとんど記念狂時代と呼んでよいほどの、おびただしい数の記念行事は、集団的記憶がスペクタクルを必要としていることを示している。発見、革命、独立、戦勝、敗戦、終戦、発明、開通、生誕、没後、開店……あらゆる種類の記念日と記念行事が世界中で繰り広げられる。記憶の消費である。もはや現代人は、こうした記念がなければ歴史を認識できないところまで来てしまっているのかもしれない。明らかに集団的記憶の消費と呼ぶことのできる現象が到来していると言えるだろう。(p177-178)
『 もののたはむれ 』,松浦寿輝,1600,新書館,96-12
灯台へ続く道から分かれて海岸の方へ下ってゆく小道の両側には薄紫のハマゴウが生い茂り、いくぶん盛りを過ぎた萎れた花弁とささくれだった葉むらの密生する中を膝でかき分けるようにしながら歩いてゆくと背筋にそくそくと寒さがこみ上げてくる。雨もよいの空の下で鈍色に静まりかえった海を見渡して、いったい人間というものは海でも川でも湖でも、水のほとりに近づくとなぜ気持ちがなごんでくるのだろうかと牧野は思った。海の中で暮らしていた頃を懐かしく思い出すのは地球上のどの生命体も共有している郷愁というものなのだろうか。もっとも牧野は何もダーウィン的な郷愁を味わうためにこんな三陸の小さな漁村までやって来たわけではなかった。しかしそれでは何のためかと問われてもはっきりした返答の用意は牧野には何もなく、だからただ水への郷愁に浸りこんでぼんやりしていればそれはそれで悪いわけもなかった。実際、何もすることもない日が何日か続くと人間と人間との間で起こるごたごたが遠ざかって、ただ自分は水の近くにいるという意識だけがそれこそ水のようにひたひたと躯に打ち寄せるようになってくる。(p24-25)
『青天有月』,松浦寿輝,2800,思潮社,96-12
われわれもまた、時として、明るく輝いている黄色い月が思いもかけぬ大きさで地平線近くにかかっているのにふと気づいて驚くことがある。だが、四億二千万年前の月の大きさはそんなものではなかっただろう。それは、中天まで昇ってきてもなお巨大な姿で四囲を圧し、その堂々たる輝きで満点に鏤められた星々の煌きもかすんでしまうほどだったことだろう。昔の光とは、ここで、今の光とはまったく違うもののことである。それは、今の光からの類推によってイメージを作ることができるようなものではないはずだ。わたしは今、それを想像してみようとは思わない。想像などという行為がいったい何になるだろう。あの風鈴やあの蝋燭の炎もまた、わたしは想像したわけではなかった。わたしはそれを見たのであり、現に見ているのである。他方、四億二千万年前の月光の場合、それはわたし自身の肉体の延長をはるかに越えた昔の光であり、わたしはそれを一度も見たことがないしこれからも見られようはずがない。もちろん何とかそれを想像してみよう、脳裏に思い描いてみようと試みることはできる。たとえば世界の終末の光景を憑かれたように詩に詠った前世紀のフランス詩人ルコント・ド ・リールにとっての文学創造とはそうしたことだった。だが想像力が豊富であると貧弱であるとを問わず、想像するとはそれ自体、精神の営為として基本的に貧しいものでしかありえない営みだと思う。しばしば詩人の富として語られることもある想像力というものの徳について、わたしはかなり懐疑的である。絵空事としか見えぬ弱々しい想像もあろうし迫真の力強さを帯びた想像もあるだろうが、いずれにせよ想像されたものは、結局想像されたものでしかないからである。いかなる場合でも想像は現実には及びようがない。(p48-49)
『ニーチェの遠近法』,田島正樹,2800,青弓社,96-11
ニーチェのテクストは、真理を直接語るのではなく、上演しようとする。これが彼の哲学に、これまでの哲学とはまったく異なった表現方法をとらせる根本動機となっている。それは、超越論的哲学を根本的に反省し、転覆するものとして企てられた〈遠近法と観点の哲学〉からの、首尾一貫した帰結と考えられねばならない。
超越論的哲学は、真理一般について語る際、その発話がその言説自身の意味内容にいかなる変容をもたらすのかについて十分な反省を欠いていた点で、実際十分に超越論的でなかったと言えるかもしれない。〈超越論的〉とは、認識が認識者の実存へと振り返るような構造をもち、それゆえ少なくとも部分的に、問うものと問われるものの同一性が立てられるような問いのあり方を特徴づけるもの−−つまり、問いが問われるものに内在し、問いのあり方の解明をとおして問われるもののあり方の解明が導かれるような問いのあり方を特徴づけるものであった。ところが超越論的哲学は、自らを真理一般について語られた一つの真理と装うのだが、その際それを語ることが語られることに対して、せいぜい外的・偶然的に関わるにすぎない。発話内容の真理性にとって、実際の発話はあってもなくても変わりがないものであるかのように見なされてしまうのである。したがってまた、そこで内容を理解するということも、理解される内容にとって外的・偶然的なことがらとして、超越論的反省を免れた理解の外的額縁にとどまっているのである。だから、誰によって理解されようと、理解内容は同一のままであ ることが、自明視されてしまっている。つまり、超越論的哲学は、哲学を哲学者の実存に基づけようとしたにもかかわらず、その際認識者としての哲学者の能力が考慮されたばかりで、哲学的発話の現場(論争的対話状況)が視野の外に出てしまっているのである。そのため、その哲学の表現や、それを受け取る読者の側の理解様式の問題は、哲学的反省の外に置かれてしまった。このことは、哲学的真理を匿名的な真理一般・客観的真理として語ることであり、その結果、パースペクティヴの観念を流産させてしまうのである。
一方、意味理解の観点と遠近法について語る哲学は、不可避的に自己の主張の表現方法の問題と関わらざるをえない。ある命題が、複数の観点から多様に理解されるとか、異なる意味内容をもつものと理解されるということは、通常の意味では語りえないはずだからである。一つの文の、(それぞれ異なる観点から理解された)異なる意味内容を語り出すことはできない。それを語り出すためにも文で表現せざるをえず、そうすると今度はその文の意味理解が新たに問題になるからである。(中略)意味理解の観点の複数性、それゆえ単一の文の意味の複数性を主張する哲学は、それを積極的に表現しようとする限り、語りの不可能性の問題に直面する。その主張自体不可避的に弁証論的なものとなり、一義的意味をもつ記述とは見なされえない。それゆえにこそこの哲学は、アレゴリーとの関わりを余儀なくされるのである。そもそも〈観点〉とか〈遠近法〉という観念自体、アレゴリーによっているのであり、この哲学はもともとそれ自身アレゴリーとしてしか表明されえないものなのだ。(p154-155)
『そば打ちの哲学』,石川文康,680,ちくま新書,96-11
* その昔京都の某大学で講師をしていたころ、あるとき講師仲間の酒宴の席で、舞鶴の国立高専でドイツ語の非常勤講師をさがしている、という話が聞こえてきた。不便な所で、なかなか来手がいないという。その話を耳にしたとき、わたしの脳裡ににわかに浮かんだのは、ほかでもない高専のほど近くにある手打ちそば屋のことだった。舞鶴といえば、同じ京都府下でも、京都市から急行で二時間半もかかる辺地で、高専の所在地はさらにそのはるか郊外である。わたしはそれまで、その手打ちそばを詣でに、何度かわざわざ舞鶴まで行脚したものである。京都市内に店を構えていた老夫婦が、市内の店を息子夫婦に継がせて、隠居仕事として、ひっそり舞鶴郊外の国道ぞいに庵を構えていたのである。日にほんの数十人前しか打たないから、その分が捌ければ、どんなに早い時間でもその日はそれで閉店である。腰のしっかりした艶のある見事なそばだった。
高専の話を聞いてふと考えた。もし毎週一回出講することになったなら、そのたびにあのそばを拝める。ドイツ語そのものはわたしの専門ではなかったが、当時わたしはドイツ留学から帰国した矢先だった。話を持ち出した知人に即刻わたしの意を伝えると、あれよあれよという間に話がまとまった。行くとなればまる一日を犠牲にしなければならない。大学のプログラムを切りつめて、週の一日をまるまる舞鶴に充てた。仲介に立った知人のそのときの半信半疑な表情は今でも忘れられない。だがわたしの腹のうちははっきりしていた。なにしろ、定期的にあのそばにありつけるのである。ありがたいのはこちらの方である。こうして、そばがわたしをひたすら舞鶴へと招きよせていった。(p151-152)
* 「『おい』と声を掛けたが返事はない」とは、『草枕』の一節で、主人公が峠の茶屋に立ち寄る場面である。「ごめんください」と呼びながら、自分の居合わせている場面がそれとそっくりであることに苦笑した。店内と開けっ放しの座敷にあかりがこうこうと照っているが、人気がない。店とはいっても近ごろのちゃんとした構えではなく、老化に朽ち果てる寸前の体である。それでも辛抱強くもう一度、「ごめんください」と繰り返してみる。どうしてもそうしなければならない理由があった。テーブルに、かなり以前のものと見受けられる先客の食べ残したそばが、二、三本せいろの上にのっていたのである。始末が悪いと言えばそれまでであり、美的でないと言うのが常識である。だが、猟師が糞から獲物の居場所と種類を当てるように、そば狂は食べ残しからただならぬものを読み取った。太さが割箸ほどあり、形にアクセントがある。色はほどよい。最も目を引いたのはそばの角である。恐らく、少なくとも一時間はたって延びきっているはずのそばの鋭い角が、形をとどめていたのである。そば粉十割の手打ちで、腰がよほど強くなければこうはならない。待つのも味のうちとは、そば三昧に おける自分の原則であるから、苦にせずすわりこんでじっと待ち続けた。
ある年の正月、おとそ気分も抜けないうちに集中講義のため山形に逗留していたときのことである。(p157-158)
『実存から実存者へ』,E・レヴィナス,西谷修訳,780,講談社学術文庫,96-11
〈ある〉の体験としての夜の恐怖は、それゆえ、死の危険や苦痛に出会う危険があることを私たちに啓示しているのではない。ここがこの分析全体の核心である。ハイデガーの不安が見出す純粋な無は、〈ある〉ではない。存在の恐怖は無の不安に対立する。存在するのが怖いのであって、存在にとって怖いのではない。任意の「何か」ではない何ものかに引き渡され、それに捕らえられていることの恐怖なのだ。最初の陽の光によって夜が霧散すると、夜の恐怖はもはや定かではなくなる。その「何か」は、何ものでもない「無」に見えてしまう。
恐怖は永続的な現実への、「出口なし」の実存への、断罪を執行する。「天も、宇宙全体も、わたしの先祖にみちみちている。/どこに身を隠そう? 地獄の闇に逃れようか。/いえ、なにを愚かな。あそこでは父上が裁きの壺をささげている」。フェードルは,死が不可能なことを悟り、充満した宇宙の中にある自分の存在の永遠の責任を見出す。この宇宙に抜きさしならず巻き込まれているフェードルの実存には、もはや私的なものは何ひとつ残されていない。
こうして私たちは、夜の恐怖、「闇の沈黙と恐怖」を、ハイデガーの不安に対置する。つまり存在への恐れを無への恐れに。ハイデガーにおける不安が、何らかのかたちで把握され了解された「死への存在」を成就するのに対し、「出口なし」、「答えなし」の夜の恐怖は仮借ない実存なのである。「ああ、明日もまた生きねばならぬのか」、無限の今日に内包された明日。不死性の恐怖、実存のドラマの永続性、その重荷を永遠に引き受けねばならないという定め。(p123)
『言語表現法講義』,加藤典洋,2163,岩波書店,96-10
* なぜなら、考えることは、書くこと同様、まず感じる、それをなぜ自分は感じたか、と吟味する仕方で、自分を基礎づけることでしか、自分の基礎−−疑えないもの−−をもてないからです。しかし、それは、その起点に置かれた「感じ」、いわゆる「実感」が間違いのないものだということではありません。実感は大いに間違うことがあり得る。しかし、にもかかわらず、人はそこからしか正当にははじめられない。そしてそこからはじめられることで、一歩一歩、その正しさを確認する仕方で、また、誤りがあればそれを修正することで、ゴールの正しさに到達できる、そう僕は考えます。これは僕個人の考えですが、でもこの僕の考えは、文章を書くという経験から割り出されています。書くことは、こういう場所で、こういう形で、考えることと出会っているのです。(p137-138)
* 言葉は、自分が書く、誰かが読む、そのあわいを生きます。自分はそんなつもりで言ったのではなかった、でも、相手を傷つけてしまった、なぜだろう。言葉を書く経験はこの問いの吟味のうちに生きているのです。自分はよい文章だと思った、でもそうは受け取られなかった、なぜだろう。答えはいろんなふうにありうるでしょう。でも、文章を書くことの経験は、この落差、疑問、の間に生きるので、この問いにさらされること、それが大事なのです。
そう思ってみれば灘本氏の言っていることがまさしくそのことであることがわかるでしょう。なぜ「××は差別語であり、被差別者を傷つける」という論法はだめなのか。それでは正義が外からくる、それがよいか悪いかを自分の中で吟味する道が、閉ざされてしまう。この灘本氏の言葉は、言葉一般を戦略的に使用することの弱点がどこにあるかを、明らかにしています。(p245)
『現代社会の理論』,見田宗介,850,岩波新書,96-10
* 情報の意味は一般に、〈みえないもの〉、〈みえにくいもの〉を、〈みえるもの〉として〈明確に〉経験させてくれるということにあるといえるし、現代の社会システムの「外部問題」との関わりでいえば、〈目にみえる〉幸福とひきかえに〈目にみえない〉幸福を解体するメカニズムに目を開かせてくれることにあるともいえるが、この〈目にみえないもの〉は、空間的に遠い人びとに転嫁されているゆえに目にみえないもの、時間的に幾年も幾世代ものちの帰結であるゆえに目にみえないものであるだけでなく、モノとして存在しないために目にみえないもの、測定し、交換し、換算しえないゆえに目にみえないものであることがある。これらすべての目にみえないもの、見えにくいものに対する視力を獲得することが必要なのだけれども、それはこのように、測定し交換し換算しえないものへの視力、つまり〈かけがえのないもの〉についての視力を含まねばならないだろう。そしてこの〈かけがえのないもの〉という領域は、〈情報〉というコンセプトの可能性の核心にあるものでありながら、〈情報〉というコンセプトを越え出てしまうほかはないという、逆説的な出口を開いているように思われ る。(p164)
* 〈消費〉のコンセプトの最も徹底した、非妥協的な追求者であったバタイユは、やがてこの〈消費〉の観念の肯定形の転回ともいうべき形式であると同時に、それ自体としていっそう原的な根拠であり地平であるものの表現として、〈至高なもの〉というコンセプトに到達し、三部作をこのコンセプトを主題として展開している。至高性とは、〈あらゆる効用と有用性の彼方にある自由の領域〉であり、他の何ものの手段でもなく、それ自体として、「たとえばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きにほかならないこともある」としている。(『至高性』)
バタイユはこの朝の陽光という単純な至福のうちに、最も奢侈でぜいたくな〈消費〉の極限の一つをみている。他の何ものの手段でもなく、測られず換算されない生の直接的な歓びの一つの極限のかたちをみている。けれども、この生の「奇蹟的な要素」、「われわれの心をうっとりとさせる要素」は、どんな大仕掛けな快楽や幸福の装置も必要としないものであり、どんな自然や他者からの収奪も解体も必要とすることのないものである。(p166-167)
『ノイマンの夢・近代の欲望』,佐藤俊樹,1500,講談社選書メチエ,96-9
近代的な〈個人〉というのは、自由意思にもとづいて選択し、その選択の結果を自己の責任として引き受ける存在である。そのような〈個人〉が成立するためには、自己のみが自己を特権的に制御でき、かつその自己が過去・現在・未来を通じて同じもの=「この私」でなければならない。そうしたメタ自己をもつ個人が〈個人〉なのである。
自己表現として書くことは、確かに、メタ自己性の感覚を身につける上で絶好の訓練となる。過去の自己について書き、その書かれた自己を読んで現在の自己が反省する−−その具体的で反復的なプロセスのなかで、自己の制御可能性と一貫性の感覚がうえつけられる。書くことが自律的な意思をもった〈個人〉を育んでいくのだ。実際、そうした自己訓練の手段として、「作文」は一般的な公教育に取り込まれていった。
けれども、くり返すが、それは(1)書く行為が必ず自己を表現しており、(2)反省される過去の自己と現在の自己が連続しているという信念があって、はじめて意味をもつ。(1)は自己のみが自らの行為を完全に制御しうる唯一の存在であることを、すなわち自己を特権的に制御できる自己であることを、実は前提にしている。だからこそ、自己について自己が書くことが最高の自己表現の手段となり、さらには自己反省を通じた自己訓練の手段となりえたのだ。(2)はそのまま時間的な一貫性をもった自己につながる。
要するに、書くことが自己表現・自己反省の手段となって近代的な〈個人〉が生まれたのではない。近代的な〈個人〉=メタ自己の観念があるからこそ、書くことが最高の自己表現・自己反省の手段となったのである。(p90-91)
『日本人の身体観の歴史』,養老孟司,2200,法蔵館,96-8
* おそらく人間には、死んだ仲間に対して、特殊な感情を抱く性質が付与されているのであろう。葬儀という儀式は、それをよく示している。もしことばで済むものであれば、葬儀という「儀式」は、とくに必要ではない。しかし、ことばは、葬儀の一部にはなるが、全部ではない。現代人に比較すれば、はるかにことばに乏しかったと思われるネアンデルタール人が、すでに埋葬儀礼を持っていた。このことは、埋葬儀礼を引き起こす動機と必要性が、かれらの脳内に、すなわちおそらく明晰な言語の発生以前に、あらかじめ存在していたことを示す。その性質をなぜかわれわれは引き継ぎ、したがって、死者への想いは、しばしばことばより脳の深部に位置している。
身体を論じるとすれば、その典型である死体を抜きにすることはできない。ところが、もともと言語化に困難があるというだけでなく、死体そのものが、現代社会では、ほぼ完全に隠蔽されたという事情がそれに重なる。死体はもはや、具体的にはほとんど存在していない。存在しないものについて語ることはきわめてむずかしい。したがって、身体論はいまでも多いが、そこにはたいてい、死体が欠けているのである。(P5-6)
* 文化とは、実在感を統制する機能である。そう言ってもいい。子供たちは、実在については白紙の脳を持って生まれ、その文化を保つ社会のなかで育つからである。脳や行動の研究者は、このことを理解してくれるであろう。心の産物は実在してよろしい。身体はダメだ。それが江戸以降の日本文化なのである。それをめぐって、むしろ社会と文化が構築される。
身体の統制は、日本だけではあるまい。どこの国だって、そうではないか。そうでない国があるとすれば、それは要するに野蛮だからだ。
身体の実在感を統制するのは、それが真の目的だからではない。それが人間の自然性を強く示唆するからである。脳化社会から根本的に排除されなくてはならないのは、身体ではなく、それが帯びている自然性なのである。脳は予測と統御を目的とする器官である。それが社会を作り上げる。したがって、社会は予測と統御が可能な方向へと、必然的に移行する。それが「進歩」である。
ところが、その脳は、身体の一部である。その身体はまさに自然であって、それは脳が統御しなくてはならないものである。ゆえに、脳はそれを統御する。しかし脳は万能ではない。身体はやがて死に、その際、脳を道連れにする。支配しているのは、はたして脳か、身体か。だから社会が、文化が、個人を越えて生き延びようとするのである。社会や文化という脳の産物は、それを生み出した脳を越えて生き延びる。
遺憾ながら、乱世はそれを壊してしまう。その乱世を導くものはなにか。身体である。だから、身体は、脳によって、心によって、さらに社会によって、統御されなくてはならない。しかし身体のほうが、脳よりも大きい。だから、脳は自分が持っている都合のいい性質を総動員する。身体は存在しないのだ、と。そう「思えば」いいのである。だから、「腹を切る」のである。身体は脳の思いのままだぞ、と。だから、身体に実在感を付与しないのである。そういうふうに社会を構築すればいいからである。(P61-62)
『ベンヤミン アドルノ 往復書簡1928-40』,ヘンリー・ローニツ編,野村修訳,5300,晶文社,96-7
(優美さについていえば、ぼくはそれを子どもについてのみ語りたい。といっても、自然な現象をそれの登場する社会から切り離して、つまりまずく抽象して、扱おうというわけではない。子どもの優美さは、たんに存在しているだけでなく、何より、社会を訂正するものとして存在している。それは「規律に縛られない幸福」をめざしてぼくたちに与えられている指示の、ひとつなのだ。……)。
狭い意味での態度についてのきみの叙述がぼくのなかに呼びさます留保を、ぼくはきみ自身のテクストから取った言いまわしでもって、示唆してみよう。その個所はほかでもなく、孤独者はかれとひとしく孤独なすべての者の独裁者である、というみごとな定式をひっさげて、きみがぼくのボードレール論に言及している個所だ。一人間の本質的な孤独がぼくたちの視野にはいってくるところで、ぼくたちは態度なるものにめぐりあう、といっても言いすぎではあるまい。この孤独は、かれの個人的な充溢の場であることからはかけ離れた、歴史的に条件づけられた空虚の場ではなかろうか。そしてそこには、かれの不運としての仮面が、置かれている。態度が充溢を見せびらかすものである(じじつそういうものとしてゲオルゲはそれを理解していた)ところでは、ぼくはどんな留保をも理解し、きみとも留保をともにする。けれども、空虚を断じて譲らない態度というものもあるのだ(たとえば、後期のボードレールの相貌のなかに)。要約すれば、ぼくの理解するような態度は、きみが告発するような態度とは違っている−−ちょうど、烙印の痕が入れずみとは違うように。(p347-348 ベンヤミンから アドルノへ パリ15、ドンバル街10号 〔一九〕四○年五月七日)
『純粋な自然の贈与』,中沢新一,2575,せりか書房,96-6
バフチーンはラブレーやドストエフスキーの文学の中に発見した、この動的な活動の本質を、「カーニヴァル性」あるいは「ポリフォニー性」と呼んだ。しかし、私たちの考えでは、そのような特性のすべてが、贈与の本質と結びついているのである。贈与の精神によって、柔軟さとふくらみをとりもどした世界では、いっさいのものごとはカーニヴァル的な行動を取り、あらゆる意味と価値が、ポリフォニー的な対話を開始する。経済学的な表現をすれば等価交換の否定、哲学的に表現すれば還元主義の拒否、芸術の問題として語れば小説の生命、それを倫理の言葉で語るとすれば、まさに贈与の精神にほかならない。
では、インディアンたちが語っていたという、あの「贈与の霊」とは、いったい何なのか。私たちの考えでは、まさにそれこそが、贈与の空間を動かしている力の「唯物論」的な表現にほかならない。唯物論というものを、私たちはヴァルター・ベンヤミンのように理解している。すなわち、それは「器の破壊」なのだ。トリンギット族の長は、神々の姿を彫り込んだ貴重な銅板の中から、「贈与の霊」を飛び立たせるために、小気味よいほどのいさぎよさをもって、その銅板を火の中に投じた。真冬の祭りの場で、たくさんの贈り物が交換された。それらの贈り物はどれも物質性をそなえていて、その贈り物が現実世界の中を移動していくのといっしょに、目には見えないなにものかが、人の心と心の間に、確実な流動をはじめるのである。(p181)
『虚構の時代の果て −オウムと世界最終戦争』,大澤真幸,660,ちくま新書,96-6
* たとえばマルクス主義者は、しばしば、商品や貨幣に対する物神崇拝ということを言う。この場合の物神崇拝とは、商品が(交換)価値をもったり、貨幣が価値をもつのは、本当は社会関係の効果なのに、商品や貨幣がそれ自身として価値を持っているかのように錯認することである。だが、われわれは本当にこのように錯認しているか? 否である。われわれは、貨幣それ自身に価値があるのではなく、貨幣がただある種の社会関係の効果に過ぎないということを、つまり人々の約束によって、それが市場に投入された事物に対する請求権を表示する記号となっていることをよく知っている。その証拠に、もはや誰も貨幣を欲望していないことが明らかになれば、われわれにとって貨幣は屑も同然になってしまう。貨幣が価値をもつということは、虚構であり、われわれはその虚構性を自覚している。虚構を信じているのは(想定された)他者である。だが、だからと言って、われわれ自身が貨幣の物神崇拝から自由なわけではない。虚構を信ずる他者を想定したとたんに、いかにその虚構性に自覚的であろうと、貨幣を求めて行為することになるのであり、行為の水準でみれば、虚構を信じているものと 区別がつかないからである。このことを、スラヴォイ・ジジェクは、われわれが「理論上ではなく、実際的に、物神崇拝者なのだ」(Subulime Object of Ideology, Verso : 23-26)と表現している。(p222-223)
* 現実をまさにそれとして構成する、現実と〈虚構〉との距離は、どのようにして保持されているのか? 〈虚構〉は、想定された第三者の審級に帰属する認知として、構成される(「皆がそう思っていること」として)。したがって、その問題の距離は、第三者の審級がまさに決して経験的な現実の中に現前しないということによって、つまりその抽象性によって保たれているのである(つまり、〈虚構〉を本気で受け取っている他者には、実際には会うことができないわけだ)。
しかし、今やわれわれが到達しているのは、第三者の審級の抽象性が還元され、具象的な実体として直接に経験的な現実の中に登場している、という事態である。このことの代償は、今や明白であろう。〈虚構〉と現実の間の距離が無化されてしまうということ、これである。現実は「仮に〈虚構〉として」受け取られる限りにおいて、意味を与えられるのだが、今や、この「として」という構成を可能にしていた現実と〈虚構〉の区別が失われてしまう。〈虚構〉は、もともと現実との差異によってまさに〈虚構〉としての地位を獲得していたので、その差異が消えたときには、ただの虚構へと差し戻されてしまう。このとき、第三者の審級に帰属するものとして認知されていたことがらが、つまり〈虚構〉が、あるいはむしろ(すでに現実との距離を失っているので)ただの虚構が−−、直接にそのまま、言わば文字通りに、完全に現前する現実として妥当することになる。虚構が現実を分節化するための擬制として受け取られるのではなく、そのまま直接に生きられてしまうわけだ。虚構と現実はこうして完全に等置される。虚構の現実化とは、このような現象を言う。(p271-272)
『現代思想の源流 現代思想の冒険者たち第00巻』,今村仁司&三島憲一&鷲田清一&野家啓一&矢代梓,2800,講談社,96-5
「英雄的作品の内実は、言語同様、共同体のものである。……主人公は古き法の手から完全に逃れているわけであって、この古き法の手が主人公の身に及ぶときは、彼は、自分の本質の無言の影、すなわち自我を犠牲に供し、魂はそれに対して遠くの共同体の言葉の中に救い取られているのである。……悩み苦しむ主人公の姿を見て共同体は、彼の死の賜である言葉に対して畏敬の念に満ちた感謝の気持ちをいだくようになる……そしてこの言葉は、詩人が伝説の内に見いだした新たな局面のたびごとに、ちがった個所において、新たな贈り物のようにひらめき輝くのである。」
つまり、恐怖と戦慄に襲われながら、英雄的主人公を犠牲にしたおかげで生き延びた共同体のなかに、「暴力なき合意の手段」(『暴力批判論』)としての言語の可能性が開かれるのである。強度の経験と共同性とは、暴力なき合意、無傷の間主観性のポテンシャルによってはじめて、その相互に必要な内実を獲得し、関係を結びえるのである。逆に言えば、どんなに強度の経験であろうと、それが近代の国家や民族のような非合理的な共同性と結びつくかぎりは、暴力に退化せざるをえない。合理的かつ情熱的な共同性のみが、その意味ではいまだかつて与えられていない共同性、悲劇において神話が歴史化する段階でその可能性だけが与えられている共同性だけが、ニーチェの求めている強度の経験を可能にする。それのみが自然の暴力(神話)からの解放の、つまりいまいちど神話の暴力が合理性の暴力となって襲ってこない解放の可能性なのである。神々に反抗し、罰に服する悲劇の主人公は、啓蒙の成功とはどのようなものであるかを、ひそかに沈黙のうちに語り出しているのである。/(略)/
初期ニーチェの思考を脱美学化することでベンヤミンは、〈損壊されていない共同性〉という、悲劇に示される〈根源の歴史〉に保持されているポテンシャルに即して、モデルネの問題を考えよう、つまり、個人の経験の強度と共同性のあり方を考えようというニーチェの真の問題を一歩先に進めたのである。しかも、その際、現実政治の枠組みには−−その枠組みの中では批判的左翼であり続けながら−−とらわれないで進めたのである。(第二部「ニーチェ−力への意志のモルフォロギー」,三島憲一,p154-156 )
『『パサージュ論』熟読玩味』,鹿島茂,2400,青土社,96-5
ひとことで言えば、アルカイックな気味の悪いものは、新しいテクノロジーが出現して、まだ自分の衣装を見つけることができずに他の衣装を借用しているとき、ようするに「集団的意識」が、テクノロジーの衝迫によって「夢見」を強いられるときに、テクノロジーの深部から、「仮装」をかいくぐるようにして湧出してくるのである。アルカイックなものは上部構造が下部構造に施す「仮装」それ自体の中に存するのでもなく、また新たに登場したテクノロジーそのものの中にあるのでもない。それは、集団的意識が、新しいテクノロジーの出現によって、仕方なく「夢」を見ることを強制されるという、その現象のうちから生まれ出てくるのだ。アルカイックなものが「技術の黎明期」に多く現れるのはこのためである。
ただ、ベンヤミンにいわせると、そうした技術の「黎明期」が「成熟期」に移行する時間的余裕は、技術革新のテンポが短くなるにつれて、次第に失われてきている。新しいテクノロジーが次から次へと現れるので、テクノロジーは成熟する暇がない。その結果、アルカイックなものが出現する機会は、時代を追うごとに多くなってくる。(p235-236)
『 アーレントとハイデガー 』,エルジビェータ・エティンガー-大島かおり訳,2369,
みすず書房,96-5
*アーレントは、二十五年前に自分の恋したハイデガーといまのハイデガーがちがうのを痛感した。しかし、そのいまの彼を受けいれることを学んでいった。しばしば心の内ではあらがいながら、そしてハインリッヒ・ブリュッヒャーへの手紙から見てとれるように、いまこそ彼の内も外も知りつくしたと錯覚しながらである。しかも彼女は、彼の魂の深みを理解できる者は自分しかいない、自分は彼にいのちを注ぎこむ力をもっている、自分こそ彼のミューズ、彼の癒し手なのだ、と信じきっていた。彼女は夫への手紙にしばしば書いているように、二人の精神的絆のゆえに、彼はほかのだれよりも彼女を必要としていると信じていた。じっさいには彼女は、彼が自分を必要としてくれているのを必要としていたのである。(p106-107)
* カール・ヤスパースはアーレントが彼の学生だったとき以来、一貫して彼女にとって権威をもつ人だった。「私が若かったころ、あなたは私を教えそだててくださった唯一の方でした」。大人となってからの彼女は、彼を教師として仰ぎみるとともに、信頼する賢明な友人として尊敬した。彼はその意見が彼女にとってひじょうな重みをもつ数少ない人の一人だった。ヤスパースは、もしもハイデガーについて彼自身のなかに相反する気持ちがせめぎあっているのでなかったなら、アーレントの死後になってやっと印刷されて世に出たこと、つまりハイデガーは二心ある友だということを、おそらく彼女に告げていただろう。だが彼は沈黙を選んだ。おそらく、ハイデガーにせめて一人の友は残しておきたい、彼はそれに値する、と信じてのことだろう−−せめてハンナ・アーレントだけは、と。そしてこの役割を、彼女はハイデガーを免罪する手紙を書くことで遂行したのだった。
ハイデガーが正しくも言っているように、アーレントは「ヤスパースとハイデガー」のあいだの「と」(und)だったのである。(p132-133)
「神話をこわす知」(『知のモラル』,小林康夫&船曳健夫編,所収)小熊英二,1545,東京大学出版会,96-4
* この稿で述べてきたのは,最初から最後まで,たったひとつのことです.私は,知には2種類あると考えます.ひとつは,人びとに答えと確信を与え,敵を指示し,特定の方向に導く神話をつくる知.そしてもうひとつは,問いを発し,立ち止まりながら対話をはかり,神話をこわす知.どちらが世の中で求められているかは,いちがいには言えません.対話よりも,まず闘わねばならないのだという立場も,十分にありうるからです.しかし私は,神話をこわす知を選びたいと思います.そしてこわす対象は,何よりもまず自分自身の神話,より正確にいえば自分という媒体をとおしてあらわれたこの現代社会の神話です.神託として答えを提示するよりも,過去や対抗相手を裁くよりも,まず自分自身が打ち壊され,迷い,考え続けるその過程を示すことで,世界へ開かれる可能性を見せること.それがいくたの神話が希望と悲惨をまきちらして滅んでいった近現代の苦い経験をうけつぎながら,なお知を行使しようとする者のモラルのひとつのあり方だと私は思うのです.(p85)
* 人びとを連帯させ立ち上がらせるには答えを指し示すことが必要で,よけいな問いを発することは団結を乱すもとになる,という考え方があります.アウシュビッツの生還者であるエリ・ヴィーゼルは,まったく逆に,「答えは人をわけ隔てるが,問いは人びとを結びつける」と述べています.たがいが抱く答えがちがっていても,たとえばかりに私がヴィーゼルのパレスチナ問題に対する答えに賛同できないとしても,何が問題であるかの問いは共有できます.そして,あたかも一粒の塵が水蒸気を雪に結晶させる核になりうるように,人びとのあいだに埋もれているいまだ言葉にならないたくさんの思いを結晶させる問いを発することができたなら,それこそが知のはたらきと呼ぶにふさわしいと思うのです.(p86)
『言葉のラジオ』,荒川洋治,1500,竹村出版,96-4
*〈こんにちは〉とは何か。
こんにち、は今日のこと。「今日はいかがですか」「今日は良いお天気で」など、まあなんでもいいのだが、その後半を略したものが「こんにちは」である。
だから「こんにちは」は、「こんにちは」と書かなくてはならないのだが、よく「こんにちわ」「こんばんわ」と、「わ」にして平気な人がいる。ひょっとしたら言葉の意味がわかっていないのかもしれない(まさかとは思うが)。(p10)
* また、読書感想文はどんなに内容がよくても、また悪くても、担任の先生が見て判断するものである。だからそこをわきまえれば、あまり張り切ることはないのである。担任の先生にいい印象を与えればいいのだから、その先生の弱点をつくことだ。
まだ若い先生のとき⇒先生じたいが本を読まない世代なので、どう書いてもいい。漢字を多くつかえば、目くらましとなり、えらいと見られる。またその本のデータ(頁数、定価、判型、出版社名、発行日など)を末尾に書くと、情報世代は弱い。
四○代の先生⇒もうちょっとのところで戦争体験がないことをコンプレックスと感じているので、戦争の話などではこまかいところを紹介すると、ギャフンとなってしまう。女性の美しさなどに触れると、ちょうど油がきれてきている年頃なので栄養剤みたいにごくりごくりのんでくれる。
五○代以上、定年間際の先生⇒教育の意欲よりも、これまでの人生への郷愁で生きている。そこを刺激するには漢語がいい。特にことわざ、人生訓などの四字熟語を使うとよろこんでくれる。こんな昔の言い回しを知っていてくれる、というだけで泣いてくれるはずだ。李下に冠を正さず、洛陽の紙価を高からしむ、刎頸の交わり、虻蜂取らず、蟷螂の斧、竹馬の友、急がば回れ、猫に小判、なんでもいい。どしどし使って押しまくる。
読書感想文は、認識の深さなど求めていない。先生の歓心を買えるかどうかだけが問題。相手を知る。これに尽きるのである。あと、自分の名前を忘れず書くこと。(p13-14)
* 日本語地図の一つに「かお」と「つら」の分布図がある。日本列島の北と南のほうは顔のことを「つら」といい、列島の胴体部分は「かお」が多い。例外はあるが、だいたいそのようである。「かお」と「つら」の境目の地域では「かお」と「つら」を合わせた「かおっつら」という言葉になっているところもある。地図からはっきり読みとれないものの茨城県東南部の一角。他にもある。その町や村では「かおっつら」。顔も人生も二つあるみたいでぜいたくである「境」という字のつくりの「竟」は区切りの意味。土地の区切りに土塁を築いたかららしい。だが、「境」はただの境目だけではない。
秘境の「境」は境目でなく地域のこと。佳境、逆境、環境、苦境などとすすむと「境」は立場や状況を指すようになる。「かおっつら」が「かお」でも「つら」でもないように、境目そのものが独自の世界を持つのである。(p168)
『だれのための仕事 労働VS余暇を超えて』,鷲田清一,1460,岩波書店,96-3
* ヴェイユが指摘したもっとも重大な事態は、意識が眠ること、批判の眼も摘まれ、根こそぎにされることだ。むしろ完全なまでの隷属に、心が魅入られたように向かうということだ。「不幸の第一の結果は思考が逃亡を欲しているということである。思考は自らを傷つける不幸を眺めることを欲しない」と、別の文章の中で、ヴェイユは痛切な思いで書いている。
先に見たように、マルクスは、人間の労働過程を特徴づけているのは、労働過程の全体がはじめに労働者の表象のなかに現存しており、労働者は自分がおこなうことの意味を理解しつつ作業を進めるということであった。そのかぎりで、労働は肉体的ないとなみであるだけでなく、自己の目的をあらかじめ描きだし、そして実現する精神的な課程でもあるのであった。労働はそういうありかたをしているからこそ、たとえイデオロギー的であろうとも、あらゆる行為のモデルともなりうるものなのであった。(p64-65)
* そういうポジティヴな受け身ということを、改めて感じさせてくれたのは、中井久夫(神戸大学)を核とする精神医学者グループの活動をまとめた『1995年1月・神戸』である。この本のなかで、じっと「その場にいてくれること」(「プレゼンス」の中井流の訳語である)がどれほどポジティヴな意味をもつかについて、中井はこう書いている。−−「待機しているのを《せっかく来たのにぶらぶらしている(させられている)》と不満に思われるのはお門違いである。予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる」。
いうまでもなく、これは医療の現場だけのことではない。(中略)「ひとには、じぶんがだれかから見られているということを意識することによってはじめて、自分の行動をなしうるというところがある」とは、わたしの信頼する発達心理学者の言葉である。面前でじっと見つめられるというのでなくてもいい。だれかがわたしを気づかい、わたしを遠目に見守っている、そういう感触、それが〈顔〉の経験ではないか。〈顔〉とは、呼びかけ、あるいはささやかな訴えであり、見られるものではなくて与えるものだ、そしてそういう顔の存在が他人を深く力づけるのだということを、つくづくおもった震災以後の日々であった。ヴォランティアというのも、じつはこの、〈顔〉を差しだすという行為のなかにあるのかもしれない。(p158-160)
『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』,ヨシフ・ブロツキー,1600,集英社,96-1