○個人と全体について、私はこう思う。個人というものがなければ全体という意志もなくなる。個人は、民主主義の中で多数決を採るには欠かせないものである。もし、何かを賛成反対で決めるとき、みんなが賛成と答えると、そこでそれは終わってしまう。個人が生かされない世界なんて存在する価値はない。個人と個人がわかれて、そのことについて議論して、どちらが良いかを決めるのがBESTだ。
○僕のまわりでは個は完全に全体に無力だ。バイトで来月の予定を決める時に、休みたい日があっても全体の状況によって、「この日におまえが入ってくれ」と言われ、バイトを入れられてしまう。全体とは個の集合体で、1つの個のためにそのいくつもの個(全体)が犠牲になるわけにはいかない。個の尊重はとても難しいことだと思う。
○個とは個人、つまりかけがえのないものである。全体とは個人の集合であって、集団ではないはずだ。各個人の考えが集まって初めて全体になるのであって、全体が初めにあって個人の考えがあるのではないと思う。そもそも個人がいなければ全体というものは成り立たない。全体というものはモザイクであるはずで、灰一色ではないはずだ。(略)国家というものはしょせん世界の一部である。全体というにはむなしすぎる。どんなに動いても周りと一緒になることはできない。むしろ人類というモザイクのなかのたった一つの個だからである。
○何もできない個人は全体に対して無力だ。たとえ不平不満を持っていたとしても、力がないのだから何も言わない方がいい。ただ、全体に対して言えることは、個人の能力を高め、全体を見返すぐらいの力をつけることだと思う。何もかもに対して全力でぶつかっていては、ただのバカだ。社会っていうのは、うまく考えていけば今まで大きなものだったのが、とても小さく見えるのではないか。力をぬく所でぬき、力を入れるべき所に全力で入れれば、個人はすごい力を発揮できる。それでも力が発揮できない場合は、一人でも多く味方を作ることだ。一人じゃできないことでも、二人ならできる。ささえあえるから。そうやって少しずつ力をつけていくべきではないか。
○結局どこかで妥協するなら、まだ自分も参加しているという実感がある方が納得できると思う。多数決なら、もちろん意見の通らない人が出てくるし、流される人も出てくるだろうけど、1人1人が参加することで、大小問わず「社会」の一員であるという自覚も生まれると思う。少数の意見が無視されるということより、大勢の意見が通るということの方が注目すべきで、当たり前だとも思う。個が無視されるとか無力とかいうが、規模が大きければ大きいほど、より正しいと思われる意見が通ると僕は思っている(多数決なら)。それのどこがおかしいのだろう。過激派や、勘違いしている人、あまりよくわかっていない人の意見も大きく反映されてしまう方がおかしいと思うのだが。
○多数決という方法で必要なものは、その決定対象に対する関心の高さと、それに対する情報がみんなに行き渡っているということであると思う。これらが満たされていれば、個人が異なる意見をもつことができ、本当の意味で多数決を採ることができるだろう。最も難しいのはそれに対して関心を持たせることだと思う。これは自分がどうしても決定しなければならない立場や、自分の関心のある(好きな)物事を決めるのならいいが、決めたくないこと、どうでもいいことに関して関心を持つのは難しいということだ。
○ある程度の人数の団体になってくると、全員一致はほとんど無理だと思う。僕は「団体」というものには2種類あると思う。一つは、少なくとも何かひとつは同じ志を持って集まってきた団体と、もう一つは、自分の意志に関係なく外力によって集められた団体である。前者の団体では多少の意見の違いはガマンできると思うし、何度も何度も自分の意見が認められないことが続くならば、最後の手段としてその団体から逃げ出るということも可能だと思う。だからこういう団体では多数決は合理的だと僕は思う。後者の団体では、「何で自分がこの人たちと一緒なんだろう」と思っても、その団体を抜け出ることは困難な場合がほとんどだと思う。だからこういう団体で多数決は少数派にとって非常につらいだろう。
○僕の場合は民主主義という名を借りて、他人まかせになるかもしれない。どうせ自己主張をしても、僕個人だけのものなら、結局は何の意味もないかもしれない。だから誰かの意見に同調するだけだと思う。一番意見の多そうなところに手を挙げていれば、最悪その意見のせいで間違った方向に進んでいっても、多くの人での連帯責任なので、そんなに考えることもないと思う。
○日本では、全員一致することにより安心でき、もし失敗だとしても全体で責任があるのでまだ安心できる。個性がないわけではないが、『自分』というものを出すと、この集団生活の中では、浮いてしまうのではないか? という一種のおそれなんていうものがあるんじゃあないかな?
○少数派は何だか、いやだ。多数決で決め、大差がつかないとあまり気にならないが、大差になってしまうと、多数派から白い目で見られるような気がする。(略)仲のいい友達は5〜6人はいる。多数決でこの5〜6人と違った意見を持つと、何だか嫌な空気が5〜6人の中で起こってしまうのではないかとか思ってしまい、ついいっしょの意見になってしまうのではないか。
○僕は人と考え方が少しずれているみたいだから、なるべく目立たないように、人の後ろや、数の多い方へついていくようにしてきた。長いものに巻かれている方が楽だからだ。例えば、誰が委員長になろうが、どこへ旅行しようが、しょせんオレにはさしあたって実害がないからだ。人と違うことを言うと変な奴だと思われる。だからいかに自分をカモフラージュして周りに溶け込むかが、仲良しごっこをするための、必要欠くべからざる条件であると思う。
○やっぱり自分たちが意見を出しやすい環境をつくり、1人1人が大小を問わず事業に参加できると実感させることが大切なことである。ふざけた意見を出す人は自分の意見なんか言ったところで誰も聞かないと思ってる。つまり参加できないとわかっていたり、参加する気がないのだ。だから民主主義以前の、個人の大切さを、全体をまとめる人が、これから全体を作る個人に自覚させないといけない。
○多数決で簡単に決まるものと、全員一致でなければ決まらない事があって、深刻な問題ほど、全員一致でないと決まらない。それはやっぱり多数決では少数派の意見というものが、取り入れてもらえず、全員一致では個々の意見を尊重し、みんなが少しずつ妥協し、協力し、一丸となれる気がします。
○どれだけ全体主義を嫌っても最終的に行き着く先はやはり「団体」であり、そこには全体主義がつきまとう。だから結局「自分らしく」生きて行くにはあまり「団体」に関わらない方がいいと思う。(略)自分らしく生きたいなら一人に耐えることができる強さを身につけるべきだと思う。「全体主義」は弱い人間が楽に生きるためのしくみだと思う。
○僕は例えば、ある1つのことをするときに、その方向へのベクトルが強くなれば強いほど、つまり多数決をしたら9割、9割5分、9割9分…というふうに意見が全員一致に近づけば近づく程、内に秘めた少数意見というのも強くなっていくのだと思う。(略)意見がうまくまとまって全員一致で事をすすめるというのは、一見、スムーズにいってるようでも、それはすごく恐いことなんだと思う。
○人間が生活するためには社会が必要だし、社会が成り立つためにはそれをうまく運営するシステムが必要だ。人間はその運営しているシステムにしばられるが、それに守られている。システムの中で、自分の意見を通したりするのは難しい。人は常に自分本位で物事を考える。その考えは、当然他の意見とぶつかる。その考えと考えを天秤にのせて、釣り合いのとれた所でルールを決めればいいけれど、個体には能力差があるから、優が劣に対して同じ条件で行けと言われれば、優は当然不満を持つものだと思う。人間が生き物であるかぎり、そうした問題はつきることがないのは当然だと思う。社会の中では優はだいたいの場で自分を通してきているが、劣が自分を通そうとすると、優から非難を受けるので、劣は優の意見にのっかり、「長いものには巻かれろ」作戦を展開するときがある。人間関係の中では、折れてあげる事というのは大切なことだけど、折れさせられているのを折れてあげたと思う事は、すごく危険なことかも知れないと思った。
○僕は寿司屋でバイトをしています。やはりここでも上の人から押さえつけられていると思う。たまに上の人が来てレシピ通りに商品を作っていなかったら、レシピ通りにしろと言われる。僕の店の店長は「こっちの方が見た目がいい」「こうした方がおいしい」と言って自分でレシピを変えてしまいます。その結果他の店では売れない商品が、うちの店では人気商品になったり、他の店で売れなくて止めてしまっても僕の店だけ続いているとかが結構ある。しかも、えらいさんは、というより、えらいさんの決めたことを守ってるか見回りに来る人は、「レシピ通りにしてくれ」と言うだけ。えらいさんに「この店では、この商品を改良してこんなのを作ってました」とも言ってくれない。この人にすれば決まったことを人に押しつけて、その通りやらせるのが一番いい仕事というのになっているのだろう。それもしょうがないとは思う。しかし店長はいくら言われても自分のやり方を変えない。それが今のよい売り上げにつながっている。店長のやっていることは間違ってないという証拠だ。がんこでこわそうな顔をしてるけれど、やさしく、色んな方向から物事を見ていつも新しいものを見つけようとして
いる。ある程度のルールは守るが、自分の心を殺さない。そんな店長を僕は尊敬する。
○自分の意見を言わずに「早よ終わらんやろか」と思っている人は少なからずいると思う。しかし、それではやっぱりだめだと思う
○その人の話し方が人の心を変えさせることは大いにあると思います。(略)どうしても決まらなくなったら「くじ」など人の手にかからない方法で決めてしまうのが実は一番「公平」で「民主的」なのかも知れないな、と思いました。
○自分が全然納得していないことに流されてはいけないと思う。だからといって自分の主張を相手に押しつけるのではなく、自分を主張するとともに相手の主張を理解しようとし、それでどちらかの意見に納得すればそれに合わせばいいし、ゆずれなくても妥協できるなら歩み寄ればいい。
○だいたい意見が少数になればなるほど少ない方がおかしい、みたいな空気があると思う。多数決は数が多い方の意見が通るわけだから多い方が正しいってことだ。もっと頭使って折衷案とかを出すのがベストなのに…と思う。
○僕は民主主義の国に生まれながらも、特に民主主義というのを実感した事は一度もありません。(略)多数決なんていうものは形的に何をするかを決めるものであって、はみ出された人は無駄な不快感を受けるだけだと思う。それだったら多数決をしないで「これに決まりました」となった方が反対の人もすんなりとあきらめがつくと思う。結局、完全な民主主義というのはぜったいにできない事なので、民主主義という名前はこの世の中から排除した方がよいと思う。
○もし反対したら、部員に嫌われるかも知れない。誰もぼくについて来ないかも知れない。自分の意見を強引に実行して問題が起こったら、責任が自分だけにかかってくる。そんな事を考えたら反対することなどできませんでした。
○僕がそこで感じたのは、今日の日本と同じで、自分の意見を持つ者が少なすぎることである。民主主義以前に、自分の意見を持たずに、他人の批判ばかりするのでは、何も現状を変えることができない。それならば、昔のように誰も逆らえない絶対的な権力者がいた方がいいのではないかと思う。そしてそれが気に入らなければ殺すぐらいの事をしないと、本当の納得する答えは得られないのではないかと思う。
○学校で学生総会をやって会長を決めるにしても、選挙を用いるが、それに立候補している人がどんな人かわからない。社会でも同じだと思う。衆議院議員、参議院議員、市長など、選挙するときもその人のことが全くわからないことが多いと思う。はたしてそれでいいのだろうか。結局のところ、全体が個を選ぶわけだが、全体は個のことをよくわかっていないことが多いのではないだろうか。
○だいたい意見が少数になればなるほど少ない方がおかしい、みたいな空気があると思う。多数決は数が多い方の意見が通るわけだから多い方が正しいってことだ。もっと頭使って折衷案とかを出すのがベストなのに…と思う。
○多数と少数ぐらいなら少数に入っても一人ではないけれども、自分一人だけとなると絶対がまんできないと思う。一人一人の意見を尊重しなければとか、個性を大事にしろとか言われるけど、それができる人は自分に自信があるか、すごい才能があるかじゃないとうまくいかないと思う。よく世の中に個性的なカッコとか、生き方とかいわれているものがあるが、それがずっと残っていくとはかぎらないと思う。もしその個性的が残っていったら、それはみんながまねし、個性的ではないと思う。
○自分の大衆についてのイメージは「一人では何もできない(規則を破ることや人を傷付けることなど)。しかし大衆になれば、皆一緒であれば何でも平気でやる。」という悪いイメージがある。だからオルテガ・イ・ガセットの言葉には共感できる。自分ではそれは悪いことだと分かっているのに皆がするからする。みんながいじめるから、俺もいじめる。そして皆一緒であって安心する。また大衆の一部だけが得するのを他の大衆は許さない。大衆を構成する各個人は一人一人同じではない。しかし、大衆になると画一化されてしまう。それは教育などにも原因があり、子供の頃から人と同じことをする。それが「無難」だからだ。人と違うことをすると、何か言われる。だから、これ以後、このような社会がゆるやかに進んでいくだけで大きな変化はないと思う。
○「大衆とは自らを推し量ろうとせず、皆と同じであることに快感を抱く人間類型である」。僕も、まさにこのとおりであると思う。自分自身にこの考えをあてはめてみると、自分という人間は常に周りと同じ(普通な)自分を演じ、快感(安心感)を得ているのではないかと思う。しかし、これに反抗して、誰とも似ていない自分を演じてみると、これは世間から異端児と呼ばれる。これは人間の考え方の根底に自分達とは違うものを受け入れないという考えがあるからだろう。それでは大衆という枠組みから抜け出し、皆と同じでないにもかかわらず周りからは特別視されないようにするにはどうすればいいのだろうか。答は簡単だ。人目につかない山奥、島などで孤立して生きればいい。人目につかないということは、周り(大衆)から切り離され自分個人で生きていくことができる。だれからも、非難されることはない。しかし現実的にこんなことが可能なのかは分からないし、やはり誰も実行しないだろうと思う。
○あるところに1人の青年がいました。彼には父方は母方ともに祖父母が健在でした。ある時、彼は父方の祖父母のもとに遊びに行きました。彼が将来のことを相談すると祖父母は「自分のことは自分で考えろ」と言い、自分達の趣味に熱中していました。彼は何か安心を覚えました。一方、母方の祖父母のもとに遊びに行きました。すると祖父母は「早く結婚しろ」。彼はなんとなくいごごちが悪くなり早々に帰りました。……価値観の相違は、自分がどちらの価値に同調するかによって違うものになるのでしょうか? 大衆社会とはどちらの考え方が合致しているのでしょうか?
○以前クラスで席がえをしようとした時、運悪く?私は少数派になりました。多数派は「このままでいい」、少数派は「席がえをしよう」という意見に分かれました。席がえをする話は、クラスの中から出てきたのに、結局多数派の為、席がえはしないことになりました。みんなが席がえをしたいと言いだしたはずなのに、変な雰囲気にとらわれたのか「やっぱりやめておこう」という人が増えたようで、少数意見は消し去られてしまいました。この時、すごく何か変な感じがして、「多数派はみんなの意見」ということではないような気がしました。だからといってどうやって決めるのかというと、それもまた問題ですが、最終的に「あきらめる。合わせる」という方法しかないのだろうかと疑問に思いました。多数決でも、本当にそれがみんなの意見なのか、だれかにちょっとでも合わせたり、自分の意見をあきらめたりしてはいないだろうか。少数派が、また、自分がはっきり思うことを言えなかったのも悪いのだが、多数決でも、多数の中の一部の考えに合わせ、あきらめたりして、何かに流されてはいないだろうか…。結局はもしかすると、多数の中の少数、ごく一部の意見がとおっているのではない
だろうか。
○人数が多くなればなるほど代表者によって話し合いが行われることが多くなると思う。もちろん代表者はみんなが選ぶが、代表者の考え方が変わってしまう事もあると思う。しかし、考え方が変わってしまっても、それはみんなの意見として扱われ、それに従わなければならなくなる。民主主義はこのようなことが多くあると思うので、あまり好きにはなれない。好きにはなれないが、代表者なしでは意見がまとまりきらないと思うので、仕方ないと思える。
教室で多数決を取る時、みんなゆっくりと手を挙げる。これは周りの様子を見て、多い方に自分もしようと思っている人が多いせいだと思う。少しずつ手を上げる人が多くなると自分も手を挙げる。たぶん、これが全体によって自分の意見が決まっている一つの例だと思う。
○個々における人の意志と全体が持つ意志とでは、普通、明らかに後者の方が強い。それ故、人は個々として生きるよりも全体の中で生きることを望むものが多い。また、全体は一度全体になると全体の崩壊を恐れるのか、全体の調和を乱すような因子(個)を見付けると、全力でそれを排除、もしくは懐柔しようとする。また全体の持つ意志と同一方向性の強力な意志を持つ者、カリスマ性を持つ者が現れた時、全体はその者の下に従うことでより意志が強固になる。この時、個を排除する方法は全てその者の意志にゆだねられ、また、排除する個を選択できるものもまたその者である。
全体が情報によって管理される全体となった場合、全体の意志の方向性を決定づけるのは情報管理者の意志となる。この場合、意志の方向性を急激に転換させるのは無理だが、より多くの個を確実に己の意志に従わせることができる。
いずれの場合にも、全体と異なる方向性を持つ個が全体の中で生きていくのは難しい。だが、個と同一の意志を持つ個が結束し、新たな全体を作り上げることができれば、全体に対抗し得る力を持つことが出来る。改革などはその一般的な例である。だが、個が全体に勝つことは出来ない。個が全体に勝つためには、全体をあらゆる方法で分断し、より個に近付けなければならず、それは全体の数が多ければ多いほど不可能に近い。人は、生きてゆくためには必ず全体に属す。
○大衆社会というのは、個人が自我を捨てる所に理想があるように思う。「私」という存在があればある程、純粋な大衆社会ではなくなるのではないかと思う。それでいて、「私」が「私」でいられるのは、大衆社会と同一でない観点で一つの社会を構成し、その中にいるからだと考える。大衆社会>>「私」の社会で、又、「私」の社会>>「私」、であるので、「私」が何をしていようと大衆社会はゆるぎないものであるし、これは「私」の社会についても同じである。唯一、大衆社会に影響を与える手段とすれば、「私」の社会を大衆社会まで成長させることであろう。
○社会とそれを構成する個体間の影響は、社会が大きくなるにつれて(個体数が大きくなるにつれて)社会が個体に射影される割合が大きくなると思う。つまり、社会が大きくなればなるほど、その統一的思考は抽象的なものとなっていき、個体にフィードバックされやすくなる。現在世界はち密に関係し合っており、情報伝達の高速化によって、一つの社会としてしゅうしゅくし始めて、画一的な文化が生まれ始めると思う。
○僕は現在××部に所属している。部員数は41名で僕は幹部の1人として(4年生は全員幹部、3年生が準幹部)△△という仕事をやっている。幹部になってつくづく思うのは、民主主義がどれほど難しいかということである。僕が3年生の時は、幹部があまり僕たちの意見を聞いてくれず、部の運営がうまくいかなかったので、今年はしっかり下の者の意見を聞こうということになった。しかし20名余りが集まって話し合いをすると、いつまでたっても決まらない。終わらない。ムードも悪い。少数意見が出ると、それを無視できない(多数決をとれないムードになる)。これだけ苦労して、全員の意見を何とか統一させようとしているのだが、やっていることはほとんど昨年といっしょになる。不満の声が全員(ほとんど全員)から聞かされる。とにかく難しい。結局、我が部は、誰もが望んでいるはずの「楽しい部」というものからどんどんかけはなれてゆく。個々が望んでいるものは同じはずなのに、全体は思ってもない方向に進んでしまう。難しい。結局、だれの意見でもない全体ができあがってしまうのである。
○僕は少数意見派になったら流されます。したがうのがルールになっているから。たとえおかしくても従わないとだめでしょう。結局、「少数意見も大切に」とかいうけど意味ない。
○民主主義は多数決であると思うが、これはとても変革(改革)の難しいものだと思う。変革を望む者は、たいがいの場合少数派であり、多数決主義の場合、少数意見は採用されることはないまた、多数決で決まった事も、あまりに無難な意見であることが多く、全体としては良い意見でも、個人としては少数派はもちろん、多数派にとっても最良であることは無い。無難な意見は無難の域を出ることはない。
○小さい集団でずっとつき合っていけば、その集団の中の人のことは目をつぶっていてもわかるだろうし、相手にも自分のことをわかってもらえることができて、それはそれで良いことかもしれない。しかし、大きい集団で希薄なつき合いをしていても、その人の心の奥底まではわからないかもしれないが、いろいろな考え方を持つ人に会うことができることによって、自分が考えてもいなかったようなことを教えられたのはよかった事だと思う。
○個は確立すべきです。たとえ全体の中であっても。自分らしさがなくなると生きている気がしないと思います。もちろん周りを尊重することも必要です。自分だけで物事が動くわけじゃないから。クラブ等も同じですけど、やはりお互いに尊重していくからこそ、自分に対する自信と責任をもつことができ、成長できると思います。「個と全体」といいますが、あくまで個と対立するのは個であると思います。でも最近「自分主義」って多いですよね。わき役にも面白さがあるのに気付いてないんでしょうか?
○個は、全体を決める代表を決めるのに、全体は個を無視し、個は全体に対して、無力である。
○全体は個人の集団と思うのだが、一度全体として形成されれば、全体はそれだけで個人を無視していくようになる。民主主義とかは、私はみんなの妥協点だと思うのだが、その点は民主主義として完成されたところで暴走するものだと思う。
○たとえば自分がこうしたいと思っている時、家族や友達の中でそう思っているのが自分だけであったら、やっぱり周りに流されてしまうことはよくある。結局、民主主義の社会の中では、全体の意見が尊重され、各個人が持つ少数意見は無視されていると思う。
○今まで生きてきて、自分の意見を言うと嫌がられるので、多数派の意見にのっかる方が楽であるとつくづく思う。
○一人違う意見をもっていても、それは、その人が特殊であると扱われて、放置されることが多かった。個人と全体はどうしても対立するものだと思う。
○日本人は全員一致が好きなように思う。好きとゆうより、自分の存在が少ないように感じてしまう。皆が、こうしてるから、自分もこれでいいや。みたいな。本当は少し違うのに、別にこれでも嫌ではないし、反対すると、1人になるから、何も言わないでおこう。そういう考えが多いと思う。
○この個性を生かせない世界の中で、いかにして『自分』というものを表現しようかということを今までずっと模索していた。流行の渦に流されている奴らは馬鹿だと思っていた。今でもそう思う。でも、そういう皆と同じでないと不安であるという考えを持たせるというのも、教育のあり方に問題があるからだと思う。
○少し前、とあるバイトをしていました。そこでは、たかがバイトにもかかわらず、いろんな店のきまりごとやなんかをみんなで話し合う、といったミーティングが数回行われてました。社員さんも含め私もそのミーティングには参加していました。そこで思ったこと。感じたこと。結局は社員さんの思いや考えをバイトに押しつけてるなあ。その数週間後から、意見の対立でバイトがポツポツとやめていくようになりました。バイトみんなが不満や不平に感じていたこと、それを直してほしい、ムリならやめる、と言った人もいました。社員さんはそこで、何も言い返さずそこで一言。「いらんのならやめろ。」 けっきょくはたかがバイトなんや…と感じ、その数週間後に、みんなと同じ理由で私もやめました。私がやめたことによって変わるってゆうことはないものの、それが逃げてると考えるよりはむしろ、自分の意思を伝えるのによい方法やったと今は思います…。
○自分1人の場合は自分の思い通りに行動し、成功すれば良いし、失敗しても自分1人の責任だと思う。ただし全体になると自分1人の意思だけでなく相手の意思もあり、お互いが自己主張ばかりだと何も決まらないので、だきょうが必要だと思う。ただ全体が1つの行動をする時、まちがった方向に進み失敗した時、誰が責任を取るのかという事で内輪で争いが起こるのではないかと思う。例えば第2次世界大戦での日本の責任は天皇にあるかという事だけど、天皇1人の責任でなく、その意見に賛成した人などすべての人に責任があるのではないかと思う。つまり個人では自分の責任、全体では連帯責任になるのだろうと思った。
○個人と集団全体について、部活において考えてみると、部活は中心となってみんなをひっぱっていく部長(個)とその他の部員(集団全体)で構成されている。部長はもともと部員達によって選ばれるけれど、その部員全体が大きく二分してそれぞれ別の部長にとおすこともめずらしくない。そういう時は、多数決によって決められるので、全員の気持ちが一つにならないまま選ばれてしまった部長は最初のうち、自分についてこない部員達にとても苦労することになる。全員のそれぞれ個人の意見をすべて尊重するような形で進めていく方法はないのかと思う。こんな時は、大抵少数意見の部員達が、居場所がないとやめていってしまう。集団の中の1人(個)では、何もできない自分をとてもうとましく思うこともある。
○大勢の中でなにか決める時は多数決で決めることがほとんどです。公平だし、てっとりばやいので良いと思う。この時私自身は自分の意見で気軽に投票できる。仲の良い友人との時は、他の意見をきいてとくにひっかかるものがなければ従う。でもどうしても同意できないときは自分の意見を貫く。家族の中でもほぼ同じ。これが私にとって他の人との関係をこわさず、また「自分」を守る、有効的な方法になっていると思う。ただ「社会」という大きな流れの中では反対であっても、流されてしまうのだろうと思う。少しコワイかもしれない。
○やっぱりお互いの言い分を言い合って、その後、多数決っていうやり方が多い。お互い妥協してます。で、反対意見やった子には、すごく気を使って楽しませようって思ってやってきました。(略)とりあえず、話し合いはかなり重要だと思う。クラブで4年の仲がいまいちよくなかった時、話し合いをして、人の意見を聞いて、仲が復活しました。ウムム、思いやり? 社会的な部分を見て、まだ選挙権がないから、そーゆー社会全体の団体行動にうといんですが、政治家は自分の利益を最優先してるかな? ウムム、上手く、政治を動かす人に、声がとどけばいいのにと思う部分は多々ある。努力不足もありますが…。
○今まで、民主主義ってすばらしいとつくづく思っていたことが、実は単に無知なだけの人だったということがわかった。こういう授業を受ければ受けるほど、何が正しいのかわからなくなる宙ぶらりんな心にあせりを感じる。
○私は、私なりに、考えを持っていると思う。だけど、この考えは、大きな流れ(全体)の中の考え方であって、ムナしくなる。ボランティアをしていて、私の考えと、他人の考えがとことんぶつかるのが面倒だから、ある程度までいくと、なげ出してしまう。私の場合、私と社会や世界を別々に見れない。大きな顔をして自分の意見を言っても、言ってる途中で …アレ? と思う。まだ未熟だから? 理由はそれだけか? 民主主義だ、自由だ、…そんなこと言われて、ちょっと浮かれてたけど、気が付けば、私自身の考えなんて、常に流されやすかった。全体の力って すごい。全体という手のひらで私達はころがされてる。自由だと思ってる…。