2005/3

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March 31, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ほえる犬は噛まない』

韓国版公式ページでもいかがでしょうか。
http://www.sidus.net/movie/plandas/index.htm

この新しい感じって、何なのかな?
そう思って、ぼんやり特典映像を見てたら、主演のイ・ソンジェが「漫画的想像力」という言葉を使っていた。
まさに、それだ。そう思ってふり返ると、たしかに、展開も漫画的。

無機的な巨大マンション。
飼ってはいけないはずの、犬が飼われている。
出てくるのは、どれも小さな室内犬。
「教授」の椅子をねらう大学の非常勤講師ユンジュ(イ・ソンジェ)。
出世がままならない彼は、臨月に近い妻を抱えながら、イライラの毎日。
犬の鳴く声が我慢できなくて、たまたま見つけた犬を地下室に閉じこめてしまう。
マンションの管理事務所に勤めているヒョンナム(ペ・ドゥナ)は、毎日の退屈にさえ気づかない日常を送っているようなフツウの女の子。
愛犬がいなくなって悲しむ少女のために、犬探しを買って出るが…。

屋上で犬を救おうと走るヒョンナムを他の棟の屋上から応援する人びと、そして風に舞う紙吹雪をスローモーションで映す場面は、これが撮りたかったんだな、と思わせる美しいシーン。
パーカ、レインコート、紙吹雪、すべて黄色。
監督、黄色が好きなんですね。

普通の人びとの、フツウじゃない行動が、おもしろい。
警備員のおじさんが、地下室でこっそりイヌ鍋に(2匹も!)しようとして…、のところも笑える。
監督のこのユーモア感覚、『殺人の追憶』にも生かされてましたね。

原題の意味は「フランダースの犬」らしい。
なんでも、主人公がそのアニメの主題歌を歌う場面があるから、とか。
それから漢字の題では『同床異夢』というのもあるようです。

英題『BARKING DOGS NEVER BITE』、2000年、韓、ポン・ジュノ Pong Jun-Ho 監督作品。


29, 2005 編集
☆☆☆[book]スーザン・ソンタグ,『良心の領界』,NTT出版,2004

スーザン・ソンタグは、昨年亡くなった米国の作家・批評家。

鋭利な知性だけでなく、複眼的思考でもってつねに両義的な位置に立ち続けようとする見識や、精力的で勇気ある行動力をも併せもった知識人だった。
この本には、2002年4月来日時のシンポジウムや講演、インタヴューなどがおさめられているのだが、何といっても「序」にある言葉の密度が高い。

ソンタグは、わたしたちを生き生きさせ、またわたしたちと他者とをつないでくれる「アテンション」について語る。
「異質なものごとに対して示す礼節」こそが「アテンション」を高めるのだと書く彼女は、続いて、

本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。


と書きます。
そして、もてる時間のうちの半分は、自分自身について考えないことです、とアドヴァイスしてくれます。

動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅をすることをやめないこと。


旅ができない人には、彼女はこういうのです。
「もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと」だと。

時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。


暴力を嫌悪し、自己愛を嫌悪すること。
他者に庇護されたり、見下されたりしてはいけない。
義務のしんどさに負けず、目の前にあることに「注意を向けること」。

おおいに笑うこと!
そして、良心の領界を守ること…

あ、忘れるところだった。
ソンタグの発言で、感銘を受けたところがあって、それは彼女がボスニアに行ったときのこと。
「私に何ができるか」を考えて、彼女は、英語を教えること、医療活動の助手をすること、などのいくつかを自分にできることとして申し出る。
ところが、求められたのは、いちばん最後にあげた「芝居の演出」だった、という話。

ほんとうは病院の仕事がしたかったソンタグは、「がっかりでした」。
しかし彼女は、現地の人たちが「我々はたんなる動物ではない」「芸術は我々の尊厳の証」だと主張したことに「大きな感銘を受け、また謙虚な気持ちにもさせられ」たそうです。
その彼女が、「孤独は連帯を制限する。連帯は孤独を堕落させる」という言葉をくり返しているのです。

Solitude limits solidarity; solidarity corrupts solitude.

そして、孤独と連帯の両方が「必要」なのだと。


28, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『バティニョールおじさん』

1942年、夏。
第二次大戦時、ドイツ占領下のフランス。
バティニョール(ジェラール・ジュニョー監督自身が演じている)は、パリで肉屋兼惣菜屋を営んでいる。
ドイツ軍はフランス国民に対し、ユダヤ人一斉検挙の協力を要求する。

娘婿になる予定のピエールは、ナチ協力者。
彼は、階上の住人であるユダヤ人外科医バーンスタイン一家を密告する。
バティニョールは、そうとは知らず摘発に協力してしまう。
その後、ドイツ軍の便宜を受け、逮捕されたバーンスタインの家に住むようになる。

ドイツ軍のために催したレセプションの夜、招かれざる客がやってくる。
収容所にやられる途中で逃げてきたバーンスタイン家の息子、12歳のシモン(ジュール・シトリュック)だった。
バティニョールは、仕方なく、シモンをかくまうことにする。

逃す手立てをさぐるうちに、やはり親と引き離されたシモンの従姉妹サラとギラたちもやってくる。
が、彼らはとうとうピエールに見つかってしまう。
ピエールの密告を阻止するため彼を殺したバティニョールは、自ら子供たち3人をスイスに逃がす決意をするのだった…。

スイス国境近くで、警察に問い詰められたバティニョールが、嘘をついているうちに激昂して、本気で自分が外科医バーンスタインであるかのように、ユダヤ人の立場から憲兵に悪態をつくシーンは圧巻だ。
ごく普通の人たちが、危機にどう対処し、どう乗り越えたか。

ここでもやはり「家族」とは何か、が問われている気がした。
笑えて、ズシリとくる、けど、明るい映画。

『Monsieur Batignole』、2002年、仏、ジェラール・ジュニョー Gerard Jugnot 監督作品。


27, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ナビィの恋』☆☆☆『ホテル・ハイビスカス』

昼過ぎまで寝ていたので、1日が短い。
なんだか、沖縄のものにふれたいという気がして、2本のDVDを借りてきて見た。
同じ監督の作品だけど、どちらもよかった。

先に見た『ナビィの恋』 は、僕のなかのイメージの沖縄に近く(って、今までに二度しか訪ねていないんだけど)、懐かしかった。
79歳の「おばあ」が初恋を貫くところ、うーん、画面にじんでしまいました。

『ホテル・ハイビスカス』 のほうも、小学校低学年の女の子の「無敵さ」がよく出ていて、気持ちがよかった。
もちろん、両作とも、沖縄の文化だけでなく、その歴史的な事情についても描き忘れてはいない。

☆☆☆[DVD]『失はれた地平線』

今日もまたキャプラ監督作品を紹介します。
古典(漢文)の授業で、陶淵明の『桃花源記』を読んだ人も多いでしょうね。
桃の林の奥にある村里。
平和で裕福な暮らしを人びとが楽しんでいる。
そんなところが本当にあるかどうかよりも、あったとして、果たしてそこに留まりたいと思うかどうか。
うーん、難しいなあ。

中国の奥地バスクルに駐在する英国領事ロバート・コンウェイ(ロナルド・コールマン Ronald Colman)。
戦線が拡大し、危険が迫ったため、バスクルに在留していた欧米人を飛行機で脱出させた彼は、最後の飛行機で自らも上海へと脱出をはかる。
ところが、弟ジョージ、化石学者ラヴェット、詐欺師バーナード、娼婦グローリアらが乗り合わせているその飛行機を操縦していたのは、見知らぬ東洋人であり、上海とは逆の西に向かって飛んでいるのだった。

飛行機は燃料不足のため雪深いチベットの山岳地帯に不時着し、操縦士は死ぬ。
しかしそこに原住民らしい一隊が彼らを迎えに現れる。
一同が案内されたのは、シャングリ・ラ(Shangri-la)と呼ばれる理想郷だった。

コンウェイは、自分の本の愛読者で、彼をこの地へ招くことを推薦した女性サンドラ(ジェーン・ワイアット Jane Wyatt)に出会い、すぐに恋におちる。
コンウェイは、自分が以前から夢想していたままのような理想郷に、統治を後継する者として招かれたことを統治者である老僧(200年以上生きている!)から聞き、この地にとどまることをいったんは決意する。
しかし弟のジョージは、警察も病院も必要としないこの土地や人間たちが、どうも好きになれない。

ロンドンに一刻でも速く帰りたいジョージは、やはりここから出て行きたいと願うマリアという娘と知り合い、一緒に脱出するという。
彼らの意をくんだコンウェイは、3人でシャングリ・ラを出て行く。
だが、雇ったシェルパたちには見放される。
理想郷を離れたマリアは、猛吹雪のなか、実年齢の老婆になりはてて倒れる。

半狂乱になったジョージは、自ら谷底に飛び込んでしまう。
コンウェイは一人で脱出行をつづけ、運よく蒙古人たちに助けられる。
しかし、イギリスに戻される途中で記憶を取り戻した彼は、再び失われた地平線を求めて旅立つのだった…。

当時の、最新で最高の技術と莫大な資金が注ぎ込まれた超大作でしょうね。
いま見ても、わくわくドキドキするし、山中は危険で寒そうだし、セットもロケも半端じゃない。
素直にスゴイと思えます。
最後、どうなるかは、実際に見て確かめてね。

『或る夜の出来事』『オペラ・ハット』と同じく、ジェームズ・ヒルトン作の同名の小説をもとに、ロバート・リスキンが脚色し、キャメラもジョセフ・ウォーカーが主担当した作品だそうだ。

『Lost Horizon』、1937年、米、フランク・キャプラ Frank Capra 監督作品。


26, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『スミス都へ行く』

これは最後まで諦めずに見よう。
最後の最後で、やっぱり「人間」が出てくる。

二人の上院議員のうち、一人が急死して空席ができる。
政界を牛耳る資本家ジム・テイラーは、子飼いの州知事と後任の人選でもめるが、結局担ぎ出されたのは第三者で、田舎で少年団のリーダーをしているスミス氏(ジェームズ・スチュワート James Stewart)だった。
だが、黒幕のテイラーやその手先になっているペイン議員らの予想に反して、スミス氏はバカではなかった。

大真面目で、熱心に議員を務めようとする彼は、やがて汚職問題に気づく。
腐敗した政界を向こうに回し、たった一人で抵抗するスミス氏。
しかしテイラーの手は伸びて、彼は議員の資格を剥奪されそうになる。
いったんは彼を見放した秘書サンダース(ジーン・アーサー Jean Arthur)だけが、いまは頼りだが…。

これが「アメリカン・スピリット」なんでしょうね。
アメリカの政治家に、見てほしいって言ったら、笑われるかな?
議長役のハリー・ケリーが実にいい。
J・アーサーもさすが。

『MR. SMITH GOES TO WASHINGTON』、1939年、米、フランク・キャプラ Frank Capra 監督作品。


24, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『Mr.ディーズ』

これは、F・キャプラ監督の『MR. DEEDS GOES TO TOWN』(邦題『オペラハット』)のリメイク。
アダム・サンドラーとウィノナ・ライダーが共演。
現代版だけど、ぐーっと喜劇にしちゃってるところが潔い。

ディーズは片田舎でピザ屋を営む青年。
母方の親戚で大企業の社長が急死して、突然400億ドルもの莫大な遺産を手にする事になる。
ニューヨークで彼を待ち受けていたのは、会社乗っ取りを企む幹部とマスコミたちだった。
運命的な出会いをした女性と恋に落ちるディーズ。
しかし、その女性は彼のスクープを狙うTVリポーターだった…。

最後は、あっというドンデン返しがあって、キャプラ作品とは全く違う結末になっているんだけど、それは見てのお楽しみ。

『MR. DEEDS』、2002年、米、スティーブン・ブリル監督作品。


23, 2005 編集
☆☆☆[book]松井章,『環境考古学への招待 −発掘からわかる食・トイレ・戦争−』,岩波新書,2005/1

「環境考古学」って?
遺跡に残された土器・石器や副葬品などの遺物、あるいは廃土として捨てられている土壌などから、様々な情報を読みとり、過去の人間の生活がどのような環境のもとで、どのような技術をもって営まれていたのかを解明しようとする学問らしいよ。
だから当然のように考古学、文献史学、地理学、地質学、植物学、動物学(昆虫学、寄生虫学)、生化学、年代学、保存科学などの諸学問が総動員されるんだって。

しかし日本は、あまり「環境考古学」の研究には適していないらしい。
日本の遺跡の大部分は、ふつう乾いた土地にある。
雨が降れば水がしみこみ、太陽に照らされればまた乾く。
このくり返しと火山性の酸性土壌は、骨を溶かし、植物を分解してしまうんだ。

でも例外的な遺跡がある。
それが、弱アルカリ土壌の貝塚と石灰岩の洞窟。
松井さんは、貝塚、湿地、洞窟の遺跡からわかってきたことをわかりやすく教えてくれます。

第一章は「食卓の考古学」で、貝塚から出たものから、昔日本に住んでた人たちが、どんなものを食べていたのかをさぐってます。
カニ、アユ、マダイ、カツオにアシカまで出てくるよ。

第二章は「土と水から見える古代」」で、トイレの遺構に残る寄生虫卵や花粉から、当時の人びとが食べていたものや周りの環境を推察していく。

第三章は「人、豚と犬に出会う」と題し、いつ頃人びとが豚を家畜にしたのか、またどんなふうに犬を食べたり、犬に食べられたりしたのかを説く。

第四章は「牛馬の考古学」、牛や馬の果たした役割を問い直し、処理に携わった人びとのもつ技術、当時の社会における彼らの位置づけや、彼らが受けた制約などを明らかにする。

第五章は「人間の骨から何がわかるか」ということで、高知県の居徳(いとく)遺跡の人骨から縄文時代の戦争について考察しています。

最終の第六章は「遺跡保存と環境」と題し、筆者の修業時代を振り返りながら、地球規模における考古学事情を報告し、研究成果をどう生かすかという視点から、文化財や遺跡の保存の仕方、博物館のあり方についてまで書かれています。

いろいろ興味深い話があったけど、皮鞣しに使われた馬の脳の話が、いちばん面白かったかな。
それから、人骨の傷の多くは、殺傷痕というよりは解体痕であろう、という話があって、この話は、殺した後の死体をそのままにしておくと、魂が戻ってよみがえってしまう危険があるためバラバラにした、と筆者が考えたその「理由」のほうに、むしろ気が向いちゃいましたね。うーん。
戦跡考古学については、それに基づく調査によって、たとえばどんな装備のどんな部隊が、どう布陣し、どう移動し、どれだけの成果を得たかが、手に取るようにわかるらしい。

精神科医の中井久夫が、ふつうの(あるいは昔の軍隊の)人間はなかなか人に向けて銃を撃てないというような話をどこかで書いていて、その根拠として、戦場で兵士たちがどれだけ引き金を引いたか、銃口をどっちに向けて撃ったか、などが実証されていることをあげていた。
たしかそこで紹介されていたのが、『戦争における「人殺し」の心理学』(デーヴ・グロスマン、ちくま学芸文庫、2004/5) という本で、そこから漠然とこんなものかなと想像していたが、今回、さらに具体的なイメ−ジが得られた。
しかしこの技術に関しては、なるべくあまり役に立たない方向に、歴史を進めたいですね。


March 22, 2005 編集
☆☆[film]『ブリジット・ジョーンズ きれそうなわたしの12か月』

笑えましたよ。
やっぱり。

レニー・ゼルウィガー Renee Zellweger は、前作以上に体重を増やして臨んだのだとか。
出来はというと、前作以上でも以下でもなく、まさに「ブリジット・ジョーンズ」でした。
オープニングの、空からの田園風景には見とれてしまいました。
イヤミもドジも(男同士の殴り合いも!)ちゃーんとあって、とにかく楽しめます。

マークの男ぶりが「かんなり」よすぎたのと、ブリジットがあんまりにも「あんまり」なのが、ちょっとだけ気になりましたけどね。

『BRIDGET JONES: THE EDGE OF REASON』、2004年、米、ビーバン・キドロン Beeban Kidron 監督作品。


21, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『小さな中国のお針子』

深い峡谷の尾根づたいに積まれた石の階段。
モーツァルトを奏でるヴァイオリンの音色。
カメラは、村人で犇めく暗い室内から、屋外へと切り替わる。

外に洩れ聞こえるモーツァルトは、さらに美しい響きで辺りの空気を満たしていく。
それに合わせるように、建物を写していたカメラは引いていき、次第に村全体を取り囲む、切り立つように聳える山岳の、その山肌が遠景にとらえられる。

文化大革命時の中国の辺境地を舞台に、青年たちとの交流を通じて西欧の文学(フランス文学、とくにバルザック)に強い影響を受け、自我に目覚め、自らの運を試してみるべく都会へと旅立つ少女(お針子)の成長を描いている。

お針子を演じるのは、ジョウ・シュン Zhou Xun 。
彼女の容姿も、彼女を飾る衣服も、とびっきり綺麗だ。
顔の感じが、ちょっと南果歩に似ている?

彼女は、人生を賭ける。
バルザックの「女性の美は最高の力」という言葉に。

彼女に恋をするマーとルオは、かなり濃いめの中国的美男子。
反革命分子として村に再教育のために村に送り込まれてきた青年たちで、それぞれ リィウ・イエ Liu Ye 、チュン・コン Chen Kun が演じている。
兄弟のように顔が似ている二人だ。
途中でルオにタバコを吸わせるようにしたのも、識別しやすくするためじゃないかと思わせるくらい。
さて、三人はスタンダール、ドストエフスキー、デュマ、バルザックやフロベールを介して、その結びつきを深めていく。

仙境の地とでもいうべき山村の風景がすばらしい。
少女たちの秘密の水浴み場。
禁書になっている西洋の書籍の数々を隠した「本の洞窟」。

ルオが持ち込んだ目覚まし時計が、太陽の代わりとなり、村の生活のリズムを変える。
そういえば、ここでも彼らは箸の先だけを、皿に入れた何かにちょこっと漬けて、ご飯を食べていた。
あれって、何なんだろう?
おかずは別の皿にあったしね。

毎日の、きつくて汚くて危険な仕事。
しかし、本が世界を変える。
ユルシュール・ミルエ〜っ!!!

町で上映された朝鮮の映画。
二人の青年による村人たちへの語り聞かせ。
映画の内容にあわせて降らせた、籾殻でつくった粉雪。

「モンテ・クリスト伯」の話を聞いたお針子の祖父は、次々と仕立てる服に地中海風の装飾を入れるようになり、デュマの描写した服まで作ってしまう。
足踏みミシンを改造して作った回転ドリルと溶かした錫で、村長の虫歯の治療をする三人。
やがてルオの二ヶ月間の留守、お針子の妊娠中絶、マーはヴァイオリンを売り払う。
そして、一冊の本が、いよいよ彼らの人生を大きく変える。

リィユ・イエとチュン・コンは、27年後の自分たちについても、なかなか好演している。

フランスに音楽留学をしてヴァイオリン奏者となったマーは、以前下放された田舎の村がダムの底に沈むと聞いて一時帰国し、昔懐かしい村や家を訪ねる。
魂を迎える村の祭りで、夕闇の湖には、紙の舟にロウソクを載せた無数の灯籠が漂う。
その湖をあちらこちらへと泳ぎわたりながら、マーが一つ一つ、舟に書いてあるかも知れないお針子の名前を探して回るシーンは、とりわけ美しい。

帰りに、上海に立ち寄り、今は歯科医師&大学教授として成功しているルオを訪ねたマーは、酒を酌み交わしながら、撮ってきたビデオを二人で見るのだった。
もはや屋根しか見えなくなった家。
テーブルに残されたミシン。
マーが置いてきたフランス土産の香水の瓶もいっしょだ。
そしてその水に沈んだ部屋の中で…。

仏語の原題は『BALZAC ET LA PETITE TAILLEUSE CHINOISE』で、「バルザックと」が入っている。
ちなみに英題『THE LITTLE CHINESE SEAMSTRESS』も「バルザックと」を抜いている。

2002年、仏、ダイ・シージエ Dai Sijie 監督作品。


March 20, 2005 編集
☆☆☆[book]中島らも,『今夜、すべてのバーで』,講談社文庫,1996

この本を肴にして飲んでも、らもさん、きっと怒らないでしょうね。
圧巻はヤッパリ、次のようなところだろうか。

「…アル中のことがわかるときってのは、ほかの中毒(アディクト)のすべてがわかるときですよ。薬物中毒はもちろんのこと、ワーカホリックまで含めて、人間の”依存”ってことの本質がわからないと、アル中はわからない。わかるのは付随的なことばかりでしょ。”依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。何かに依存していない人間がいるとしたら、それは死者だけですよ。…」


それから一教員としても身につまされるのは、

「…医者というのは、たとえば駅へ行きたい人に道を教えてあげる煙草屋のおばさん。そんなようなもんでしかない。歩いて駅まで行くのはその人だ。煙草屋のおばさんが背負って走るわけにはいかんからな。もちろん、駅まで行きつけない人間もたくさんいるよ。力が尽きたり、道の教え方がまちがってたりだ。問題は、患者が、前へ進むことだ。だから、助けてやりたい、なんてことはこんりんざい思わないようにした。助かろうとする意志をもって、人間が前へ進んでくれればそれでいいんだ。恋も知らずに死んだって別にかまわない。知らないものは”無い”のと同じだ。生き残ったものがそれを持ち出して涙を流すなんてのは大きなお世話だ。この子はこの子なりに、精一杯前へ進んでたどり着けるところまでたどり着いたんだ。他人のゴールを基準にしたって仕方がない」


というような言葉だ。
「医者」を「教師」、「患者」を「学生」と置き換えても、やはり同じことだと思うからね。


19, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『おばあちゃんの家』

この監督さんは、あの『美術館の隣の動物園』の監督さん。
女性だったんですね、知らなかった。

かなりな田舎の、山の一軒家に一人暮らしをするおばあちゃんに預けられた七歳の男の子サンウ。
ソウルからやってきたサンウは、読み書きもできず、口もきけないおばあちゃんをバカにし、不便で退屈な田舎生活の鬱憤をおばあちゃんにぶつける。
わがままを叱りとばさず、孫のことを思い気遣うおばあちゃん。
いっしょに生活をしていくなかで、たくさんのすれ違いがあり、それでもようやくサンウは、おばあちゃんに身体と心があることに気がつくのだが…。

あんなに強くて、泣き言もいわず涙も見せないおばあちゃんが、はじめて目頭を押さえる場面は、やっぱりうるうるって、きてしまいました。

どう考えても「異物」だよね。
あんな「異人」のようなガキンチョが入り込んできても、つながり合えないことを悲観せずに、自らを与え続けながら、相手を受け止めようとする精神には、なんだかとても知的なものを感じました。
「おばあちゃんの家」って、ひたすら温かい無償の愛が約束されているところ?

いやいや、どうも「ホーム」っていうのは、血とか義理とかでおさまるものではなくて、異なるものとぶつかり合いながらの、認め合いの場であるのかも知れない。
そういえばハウルも「わが家族は、ややこしいものたちばかり」って言ってたっけ。

英題は『THE WAY HOME』、2002年、韓、イ・ジョンヒャン監督作品。


18, 2005 編集
☆☆☆[book]森鴎外,「魚玄機」(私は古い筑摩書房版の8巻本全集の第3巻で読んだけど、ちくま文庫の全集にもあると思う。)

気になっていた森鴎外の『魚玄機』をよむ(不明にして初読である)。
こんな出だし。

魚玄機が人を殺して獄に下った。風説は忽ち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。


さすがに鴎外はうまい。
冒頭から読者を引きつけて放さない。
鴎外は、魚の養家ではなく、その生家を倡家とする。
そして玄機26年の短い生涯を描くにあたり、彼女の詩の師匠である温岐(おんき)[字は飛卿(ひけい)、容貌酬怪なため鍾馗(しょうき)とも呼ばれるが、当今の詩人では三名家の一人とされる]、との交流を軸に据える。

魚を妾にしておきながら、妻の嫉妬ゆえに彼女を捨てた李。
後に情を交わし、下女を殺める元凶となった陳。
これら二人の男との関わりも、もちろん重要ではある。
が、鴎外は互いの才能を認め合う、師友に近い間柄としての魚と温の二人の交わりに、むしろ焦点を合わせているように思う。

鴎外は、末尾に『唐才子伝』『北夢瑣言』『唐詩紀事』など、参照した文献を十種ほど挙げているが、魚の生涯については諸説があるようで、一説に李近仁(りきんじん)ともされる陳氏については、『太平広記』などではただ「客」とのみあるのを、鴎外による命名とする(筑摩の八巻本全集の注による)。
鴎外は、温岐との変わりのない、言葉のうえでの、いわば聖なる交わりを描く一方で、他方、それとはまた対照的に、俗世に生きる魚の、生身の肉体における大きな変化についてもふれている。
性の目覚めである。

「女子の形骸を以て、男子の心情を有していた」魚は、李に求められても、頑なに拒んでいた。
それが道教の修業によって一変する。
鴎外はそれを

これを修すること一年余にして忽然悟入する所があった。玄機は真に女子になって…

と書く。
「これ」とは「四目四鼻孔云々の法」であり、注は、それについて「未詳」と記したのち、続けて「房中の術を修し、男女交会によって仙術を悟得することであろう」と推測する。

また、鴎外は小説中には挙げていないが、魚には「自嘆多情是足愁」(「自ら嘆ず多情は是れ足愁なるを」あるいは「自から多情 是れ愁うに足るを歎ず」ともよむ)にはじまる「秋怨」(あるいは「秋思」)という詩もある。
鴎外が『魚玄機』を書いたこの時期、「新しい女」が世間を騒がせていたこともあるのだろう。

漢詩の世界では、男が女心を詠う詩は多い。
女が自分自身の心を赤裸々に、詩に表白したという意味では、玄機こそは「新しい女」であった。
温に多くの手紙を書き、やがて温からの返書だけでは満たされなくなった魚の、自身気づいてもいなかった「求むる所のもの」を、彼女は陳との交わりのうちに得ることになる。

陳とは七年もの交際がありながら、嫉妬に狂って浮気を疑い、下女を責め殺してしまった魚。
彼女の殺人が「やや久しく発覚せずにいた」事情については、実際に小説を読んでもらうことにしよう。
玄機の処刑に、最も深く心を痛めたのは温岐である。

彼は、当時地方にあって、彼女を助けることが叶わなかった。
そしてその温もまた、やがて不本意な死を遂げる。
鴎外は、温岐の子や弟の不慮の死についてまで記し、そこで小説を結んでいる。


17, 2005 編集
☆☆☆[book]内田樹,『死と身体−コミュニケーションの磁場』,医学書院,2004/10

この本は、カルチャーセンターでのお話がモトになってできたものらしい。
「コミュニケーションの磁場としての死や身体について」書かれている。

まずは、第一章「身体からのメッセージを聴く」。

危機に遭遇したとき、生きるか死ぬかというときには、脳からの命令よりも、身体からの信号に注意し、身体のいうことのほうを信じよう、と内田さんはいいます。
つまりは、感覚を鋭敏にして、生き延びるために身体の声を聴こうってことなんだけど、これって解ってるつもりで、でも、けっこうできてないなーって。

身体からのメッセージということでは、次の話も、そうなんだ、と思った。
たとえば、言葉が上手く出てこないとき、出来合いの言葉を口にしてしまうのがためらわれるとき、そんなときは、むりしなくていいって。
内田さんにいわせると、それは、身体のほうが脳を制御しているのだから、となる。

そうなんだ、それでいいんだ。
ことばにつまったり、顔が赤くなったりしても、それはそれで。
ね、安心できるでしょ。

授業中(国語の!)に当てられたときなんか、ありきたりな言葉で答えるのもいやだし、かといって自分なりの言葉っていっても、ちょっと恥ずかしいし、いいにくい。
そういうときって、あるもんね。

むりしなくても、相手に伝わりさえすればいい。
なにが?
それは「あなたのことばはわたしに届いた」ってこと。

同じ言葉の反復(オウム返し)が、コミュニケーションとして成り立つのは、そのことだけはちゃんと伝わっているから。
そういえば、歌人の俵万智さんが歌ってました。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

先生の質問に、「いまのご質問は、……ってことでしたよね?」と返してみたらどうかな?
先生自身が、その先を答えてくれたりして…。

第二章は「表現が『割れる』ということ」。

ここでは、敬語についての指摘(視点)がおもしろかった。
敬語は、自分の身を守るためのもの、って話。
「敬」っていう言葉、そもそもが「危険な物から身をそらす」って意味なんだって。

『論語』の「鬼神は敬してこれを遠ざく」は知ってたけど、敬語をそういう視点から発想したこと、なかった。
自分と相手との距離感、立場の違い、利害関係に応じて、表情、発声、所作を細かく変化させ、それらを社会的な記号として操作できること。
これが、生き(残)るための基本的技法。

目下のひと(こども)にとって、目上のひと(おとな)って、何をしてくるかわからないコワーイ存在なんだね。
そういうコワーイものに対しては、無防備に近寄るんじゃなく、ちゃんと距離をとっとくほうが安全。
そうか、じゃあ先生や先輩にタメ口をきく人って、自分から「おれ鈍感です」って宣言してるようなものなんだね。

そういう人って、先生や先輩からだけでなく、友だちからも必要以上にグサッと傷つけられること、多いんじゃないかな、きっと。
だって、「鈍い」って看板ぶらさげてるんだから、コイツここまでいわんとわからんやろ、ってね。

第三章は、「死んだ後のわたしに出会う」。

ここからは、いま僕自身が考えようとしていることとも重なるので、ちょっと長くなるかも。

たとえば「時間」というものに対して、僕らはどういうかかわり方をしているか。
生きているというのは、経験のうちの「わかったこと」リストを手にして、未来に向かっているのではない。
むしろ「わからなかった」リストを抱えて、その「わからなかった」部分を「そうか」そういうことだったのか、と埋めながら、つまり未来に向かいながらも、そのつど過去にさかのぼり、過去の経験を「書き換え」つつそうしている。

 ラカンは人間は「前未来形で」過去を思い出すと言っています。「前未来形」というのはフランス語の時制で、「未来のある時点で、すでに完了した動作や状態を記述する」ものです。「明日の午後に、私はもうこの地を離れているだろう」というような文がそれに当たります。
 人間は「前未来形で過去を思い出す」というのは、ある人が自分の過去について語っているとき、その回想はそれを語り終えた時点を先取りして語られているということです。つまり、人間が過去を思い出すとき、その記憶のよみがえりには、自分が「どういう人間だと思われたいか」という現在の欲望が強いバイアスをかけている、ということです。(p127)


目の前に起こりつつある厳しい現実に対し、「時間」をずらして対処する。
そのとき、過去に逃げる人と、未来に逃げる人がいる。
「名人達人というのは未来を先取りしている。したがって構造的に勝ちつづける」と内田さんはいう。
それに対してトラウマ的な人は、負けつづける。
つねに過去の経験に立ち返って、過去のフレームで現在を生きようとするから。

内田さんは、フロイトの分析治療の原理を「止まった時計を動かして、時間をふたたび前に進ませること」と考えています。
そのとき、「転移」が最大の原動力になる。
(「転移」を簡単にいうと、分析される人(患者)が分析する人(分析医)を愛したり憎んだりすること。)
それは、いわば「もともと罹っていた病気」を「新たに罹った病気」とすりかえてしまうことです。

身体が同時に二箇所は痛まないように、人間は二つの神経症に同時には罹らない、というわけです。
そうして患者は、過去ではなく、分析医(未来の病症)に向けて歩みはじめます。
やがて周囲の人たちが共有する「客観的な時間」と患者の「主観的な時間」が一致するとき、治療が成立する。

「わたしは過去に死んでいる」「すでに死んだものは、いま殺されない」「ひとは二度死ぬことはないから」というのが、トラウマ的な、過去に帰るかたちの危機管理の技法。
それはしかし「まだ人間じゃない」。
ほんとうの人間は「未来にフライングする」のだ、と内田さんはいう。
そしてフロイトやラカンは、人間というものを「未来に投企する」ものとして見ていた、と。

患者は分析医からの「承認」(未来の達成)をめざして、必死で過去を語ろうとします。
そのとき、それはもうトラウマ的危機管理からは離れつつあります。
でも「ぼくたちは誰も自分の身に起きえた『ほんとうのこと』なんか語れやしないのです」。
なぜなら、僕らが語るとき、それは「誰かに」語るから。
僕らはそのとき、その人がうなずいてくれるように話すのです。

わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは「かつてあったこと」を「これから生起すること」めざして語るほかないのである。[……]わたしは言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。わたしの語る歴史=物語のなかでかたちをとっているのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。そんなものはもうありはしない。いま現在のわたしのうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のなかで実現されるのは、わたしがそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。(ジャック・ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領域」,Ecrits T, Seuil, 1966, p.181. 訳文は内田氏によるもの)


これが「前未来形で語る」ということ。
その未来のいちばんの向こうは、「死んだ後の自分」です。
自分の物語を語り終えた時点から、「いま」を見ることができるひと、そういう人は、よく生きることができる。
目の前の出来事に対する統御能力が高まるだろうから。
これは、内田さんが考える、ひとつの理想のかたちだけど、僕はそこに行くまでに、人間の生存戦略上の問題としての「時間をいじる能力」について、もう少し考えておきたいことがある。

第四章は「わからないままそこに居る」。

倫理の問題。
まず、倫理とは原理の問題ではない、と内田さんはいう。
「超歴史的に、普遍的に妥当するような倫理」を想定したら、その倫理はかならず非倫理的に機能しはじめてしまう。

ある場面において整合性があって正しい理説であっても、一定数以上の人間が採用したり、状況が変わってしまうと正しくなくなることがある。だから、理論の有効期限、賞味期限、地域限定、期間限定についての節度の感覚をもちましょう。
これが基本のスタンス。

では、他者を理解し共感することは可能なのか、不可能なのか。
内田さんは、これに対して「可能であると同時に不可能」だといいます。
ヒントは、オルテガです。

みんながニーチェ(超人)になってしまった20世紀以降の社会における他者の定義は、「仲間だけれども理解できない。敵だけれども共生する」にならざるをえない。
そこでオルテガは、「不愉快な隣人が登場して、わたしとしてはたいへん不愉快である。しかしその不愉快な隣人を排除してしまったらわたしはもう人間ではない」と考えた。
「だれもが仲間」でもないし、「敵はやっつけろ」でもない。
だから、エライ。

僕らがそれぞれに生まれながらにもっているとされる権利、「生命、自由、幸福」。
いちばんにくるのは生命であって、倫理の第一条は「汝殺すなかれ」です。
僕らにとって、いちばんの他者は死者です。
理解したり、共感したりするのが、最も困難な相手です。

でも、ここが倫理のスタートになっている。
つまり、倫理は、死者とコミュニケイトできるということが、前提になっている。
それができないのに、「殺すなかれ」なんて意味がない。
そこで、死者とつながれるという人間の本質的な能力が、倫理の出発点ということになる。

じゃあ、どこでつながり合うのか。
それは言語のレベルでも身体のレベルでもない。
「もうひとつさらに深いところ」だと内田さんはいいます。

さて、最終の第五章が「死者からのメッセージを聴く」。

ここでやっと?「幽霊」の話になります。
埋葬や葬礼を通じた、死者との通信、人間の倫理の基礎についての話です。
ラカンもレヴィナスも両大戦間に青春期を過ごしています。

第一次大戦では、1300万人もの死者が出ました。
第二次大戦での死者は、6000〜7000万人ともいわれています。
これらの死者たちをどう弔うのか。

レヴィナスは、アウシュヴィッツで自分の家族のほとんどを失っています。
しかし、死んだ人たちになり代わって何かをいうとか、誰かを糾弾したりはしない。
自分に「死者の代弁者」としての資格を与えたり、自分が「遺言執行人である」ことを主張したりしてはならないのです。


その叫び声は永遠の時間を貫いて、けっして消えないまま残響しつづけるのです。その叫び声のなかに聞き取れる思考に耳を傾けましょう。(E. Levinas, Difficile Liberte, p.202)

「死者は死んでいるけれども、死んでいない」。
「死者たちは私たちに語りかけている、けれども、そのことばは聞き取れない」。
この「問題を宙吊りにする」仕方で、決着させないこと。
「存在するとは別の仕方で」死者の声を響かせ、それに耳を傾けつづけること。

話は変わりますが、以前、同じ内田さんの『死者と他者』を読んだときにわかりにくかったことで、わかりかけてきたことがあります。
僕らの死者に対する「疚しさ」についてです。
それは、人間がなぜ葬礼をするようになったか、という問題とも関わります。

これまで親しく、愛してきた人が、亡くなってしまったら、どうしてその死者の祟りを恐れるのか。
どうして、その死者が戻ってきて災いをなす、と思ってしまうのか。
ヒントは、やっぱりフロイトです。

「自分の愛する人が死んだときに悲嘆にくれるのは、じつはその人の死を無意識のうちに願っていたから」という説明。
これでひとつ、「他者」と「死者」と「父」とのつながりが見えました。


16, 2005 編集
■[DVD]☆☆☆『わすれな歌』

タイの歌謡曲に乗せて描く、スローなラブ・ストーリー。

のどかなタイの田舎、川べりの小村に住むペン(スパコン・ギッスワーン)は、子供のまんま大きくなったような、歌うことの好きな青年。
一途に思いを寄せて、やっと結ばれた妻サダウ(シリヤゴーン・プッカウェート)とわずかな時間を過ごしただけで、兵役に就かなくてはならなくなり、ふたりは離ればなれに。

ペンは最初の6ヶ月は毎日のように手紙をサダウに送るのだった。
贈られたトランジスタ・ラジオだけが慰みのサダウは、やがてペンの子を出産する。
歌謡コンテストに参加し、つのる思いを“わすれな歌”に込めて歌うペン。
妻子と一緒に暮らすことを切望するペンは、軍隊を抜け、巡業にきた芸能プロダクションに潜り込むのだった…。

ペンは相当に心を込めて歌うせいか、歌ったあとに必ず失神してしまうところが可愛い。
妻との再会までの、彼の波瀾万丈の経験、紆余曲折が、面白く、そして哀しい。
さまざまな水が、美しく印象的な映画でもありました。

英題は『TRANSISTOR LOVE STORY』、2002年、タイ、ペンエーグ・ラッタナルアーン Pen-Ek Ratanaruang 監督作品。


March 15, 2005 編集
☆☆☆[book]井波律子,『奇人と異才の中国史』,岩波新書,2005/2

中国の約2500年にわたる歴史のなかから、56人の逸材を採りあげ、彼らの生涯をたどる。
孔子から魯迅まで、著名な文人、思想家はもちろん、医者、冒険家、芸人なども紹介されている。
たとえば三国志がらみでは、曹操、華佗、諸葛亮ら3人が選ばれている。

今回、僕が面白いと思った人について書いておこう。
まずは、魚玄機(ぎょげんき 843?-868?)。
全部でわずか数名しか選ばれていない女性のうちの一人。
「悲劇の女性詩人」と題されている。

妓楼の養女となり、詩的才能を花柳界で開花させた彼女であったが、嫁いだ男の不実な変心に深く傷つく。
道教的な出家をした彼女は、その詩を求められるようになり、新しい恋人もできたのだが…。
裏切りに怯える彼女の過剰な猜疑心が、愚かな罪を呼び、魚玄機は26歳で処刑される。
引用されている彼女の詩がいい。

雲峰満目放春晴(雲峰満目春晴を放つ)
歴歴銀鉤指下生(歴歴銀鉤指下に生ず)
自恨羅衣掩詩句(自ら恨む羅衣の詩句を掩うを)
挙頭空羨榜中名(頭を挙げて空しく羨む榜中の名)


いくら詩才があっても、立て札に書かれていく者(男)の名を、羨ましく眺めるだけ。
そんなこの身が、うす絹をまとう女であることが恨めしい、と彼女は歌う。
森鴎外に短篇『魚玄機』があるらしいので、読んでみたい。

二人目は、歴史家趙翼(ちょうよく 1727-1812)。
「晩成型の才能」と題されているように、代表作を完成させたのが70歳の時。
「細かい事物や言葉の考証よりも、各時代の重要な問題や矛盾点をとりあげ、史実を列挙して比較研究しているところに特色があり、読み物としてもすこぶる興趣がある」とされる。

代表作からの引用は、三国志がらみである。

人才は三国より盛んなるは莫く、亦た惟だ三国の主のみ各おの能く人を用う。故に衆力相い扶して、以て鼎足の勢を成すを得たり。而して其の用人も亦た各おの同じからざる者有り。大概曹操は権術を以て相い馭し、劉備は性情を以て相い契り、孫氏兄弟は意気を以て相い投ず。


あと2人は、書家・画家の趙孟[兆頁]([]内は1字。ちょうもうふ 1254-1322)と思想家の厳復(げんぷく 1853-1921)。
それぞれ「類いまれなる貴公子」「中国・翻訳事始」と題されている。
長くなるので、紹介は厳復の引用のみにしよう。

訳事に三難あり、信・達・雅。(翻訳には三つの困難があり、信(原文に忠実であること)・達(訳文が明快であること)・雅(措辞が優雅であること)がそれである。)


趙孟[兆頁]については、露伴に『幽情記』「泥人」があるらしい。


14, 2005 編集
■[DVD]☆☆☆『或る夜の出来事』

銀行家の一人娘エリー(クローデット・コルベール Claudette Colbert)が、飛行家ウェストリーに恋をして、婚約までしてしまった。
父親は、娘を思いとどまらせようとする。
エリーはマイアミに浮かぶ父のヨットから脱出し、ウェストリーのいるニューヨークへ向かう。
夜間バスの中で彼女は、新聞記者ピーター・ウォーン(クラーク・ゲーブル Clark Gable)と知り合う。

父は娘を心配し、1万ドルの懸賞金を付けて行方を捜索しはじめる。
ピーターは新聞でそれを知りながら、彼女とのバス旅行を続けていく。
伸びてくる捜索の手から逃れながら、二人は少しずつ親しくなっていく。
ヒッチハイクで、いよいよニューヨーク郊外まで来た二人は…。

エリーとウェストリーはどうなるの?
エリーとピーターは?
ラストでの急展開、そして父親の粋な計らい。

さすがにキャプラは、うまい。
脱帽です。

この映画は過去に少なくとも2回は見ている。
と思ってたのに、今回あらためて見てみると、記憶にまったくないシーンがあって、えーっ、て驚いてしまった。
ついに脳が溶けはじめたかな。

それはとにかく、クラーク・ゲイブルの、タフな感じ、一筋縄ではいかなさそうな、でも根のまっすぐさは失っていない男っぽさ。
これがいい。
屋外シーン、車のシーンもいい。

『IT HAPPEND ONE NIGHT』、1934年、米、フランク・キャプラ Frank Capra 監督作品。

■[DVD]☆☆☆『我が家の楽園』

若い男女が恋をする。
二人は同じ会社の副社長(=社長の息子)とその秘書の関係にある。
彼らの結婚が難しいのは、二人の「身分」の違いだけじゃない。
彼らの父親の考え方、生き方が、あまりにも違いすぎるのだ

彼女は、彼の両親に認められたうえで結婚したい。
彼は、何とかなると思っている。
彼女は、彼と彼の両親を食事に招く。

彼は、両親には彼女のふだんの生活を知ってもらうのがいちばんと、わざと約束の日の前日に彼女の家を訪ねてみるのだが、そこで彼と彼の両親が目の当たりにしたものは…。
仕事一筋の忙しさのなかで自分を見失い、友人もなく、家族にまで離れ去られてしまう男。
家に好きなことに一所懸命になっている奇人変人を住まわせ、自らも好きなことだけをして生きている男。

寛容の精神はここでも健在だ。
人間にとって何が一番大切なのか。
友情だと彼女の父はいう。
そして自分にとって大事なことは、自分がしたいことをして生きることだ。
それが人のためにもなるなら、いうことはない。

そういえば、ちょっと前に目にした文章で、こんなのがあった。

「何が起こるか判らない人生で、美と快楽を追求しつつ、しかも倫理的に生きることは難しいが、それ以外に目指すべきものとてない。」(茂木健一郎、『脳のなかの文学』第十一回「真実の瞬間」、『文学界』2005年2月号、文藝春秋)

まったくもって、そのとおり!

『YOU CAN'T TAKE IT WITH YOU』、1938年、米、フランク・キャプラ Frank Capra 監督作品。

☆☆☆[DVD]『オペラハット』

ゲイリー・クーパー Gary Cooper & ジーン・アーサー Jean Arthur 主演。

ヴァーモントの田舎町で工場を営むディーズ氏。
母の兄にあたる大富豪が急死し、莫大な遺産(2000万ドル)が彼に転がり込む。
当然、そのお金をねらう者たちがいる。

初めて生まれた町を出たディーズ氏は、右も左もわからないまま、一人でニューヨークの夜を楽しもうと豪邸を出たところ、若い女性の行き倒れに出くわす。
それは、スクープをねらった辣腕女性新聞記者ベイブの「芝居」だった。
彼女は、「シンデレラ・ボーイ」の記事を書きつづけ、騙されているとも知らずにディーズ氏は、彼女を本気で愛し始める。

ベイブは、ディーズ氏と付き合い、その自然児のような健全さにふれるうちに、都会暮らしのなかで、自分が無くしてしまっているものに気づかされる。
ディーズ氏に求婚された彼女は、嘘をついていたことを告白しようと決意するのだが…。

ふたりの愛はどうなる?
莫大な遺産はどうなる?
それは、自分の目で見て確かめてね。

ラスト近く、財産を狙う弁護士たちが一計をたくらんで、裁判になる。
不利な証拠を突きつけられても無言のまま、落ち込んでいるだけだったディーズ氏。
しかし、ベイブの一言を聞いて、気持ちを入れ替えてからの彼の自己弁護は、切れ味抜群。
知的で、具体的で、わかりやすく、しかも大声で笑える面白さがあって、とにかく最高です。

『MR. DEEDS GOES TO TOWN』、1936年、米、フランク・キャプラ Frank Capra 監督作品。


13, 2005 編集
☆☆[film]『あずみ2 Death or Love』

見てきました。
たくさん入ってました、お客さん。
上戸彩人気というところでしょうか。

『あずみ』が北村龍平監督で、今度の『あずみ2』が金子修介監督。
だから、これはいわば、「あずみ=ゴジラVSガメラ=あずみ」なんだよね。
で、どっちが勝利したか?

僕の印象では、あずみ=ゴジラの勝ち。
だって、北村監督のゴジラはきっちりあずみになってたけど、金子監督のあずみはガメラになりきれてなかったもん。
それに金子監督は、悪人や狂気を描くのが苦手のよう。

アクションでの見所のひとつは、方向転換するあずみの視線に沿った肩越しのカメラが、ガメラを思わせるところ、かな。
役者はそれぞれいい演技をしていただけに、惜しいという感じ、でした。

北村監督の秘蔵っ子の坂口拓が出ていたのはご愛敬。
彼がらみのユーモラスなシーンがある。
もっともっと笑いもほしかったなあ。
『3』に期待しましょうか。


11, 2005 編集
☆☆☆[book]「ガダラの豚」,集英社文庫,1996/05

最後はドタバタになったが、それでも筆者の才能は疑うべくもない。
もちろん、独特のユーモアによる笑いだけではない。
人間やその社会にとって、とても大切な問題が扱われている大作である。

これを1993年に書いているところも、やはりすごい。
今から見れば、時代のほうがその後を追いかけるような結果になっている。
いちばん印象的で気に入った表現は、「”きれいな爪”のような顔」という直喩。

☆☆☆[book]本橋哲也,『ポストコロニアリズム』,岩波新書,2005/01

題名がカタカナである。
日本語では、カタカナ語はふつう、外来語を意味する。
漢字に直すとどうなるか。
「植民地主義以降」である。

著者の本橋さんは、ポストコロニアリズムを「人間の歴史のとらえかたの一つとして」考えている。
では、どんなふうに歴史をとらえるのか。
ポストコロニアリズムは、人間の歴史を、過去と現在と未来が一直線に連続したものだとは見ない。
それら三つの局面は、切れることなくつながり、折り重なっている。
その「連累」を、つねに「現在進行形において」考えようとするのである。

本橋さんは、便宜的に大きく三つの時代に分けて、歴史のつながり具合を探っている。
一つめは、コロンブスの「新大陸発見」(1492年)から第二次世界大戦までの西洋による植民地主義の時代。
二つめは、アジア・アフリカ諸国の独立し始めた1950年代から1990年代までの時代。
三つめが、米ソ冷戦が終結し、ひとつの経済システムが世界を覆うようになった1990年代以降の現代。
そしてそれらの時代の連なりや重なり具合を、これも三つの領域から検証していく。
その三つとは、歴史、文学、証言である。

植民地主義という近代のプロジェクトをその発生期において再確認した後、「カニバル=食人種」という言葉が、どのように生まれ、どのように一人歩きし、どのように利用されていくか(カニバリズムの系譜)を記号論的に考察しつつ、植民地主義による他者支配の軌跡をたどる本橋さんの手際は見事だ。
そのあとで、フランツ・ファノン、エドワード・サイード、ガヤトリ・スピヴァクといった著名な理論家たちが、〈他者〉との出会いの試みを、それぞれ具体的にどう実践した/しているのかを追いかけている。

東洋人は西洋人より劣っているのだから、東洋が西洋による支配と解明の対象となるのは当然だ。
インドもエジプトも、アフリカも中国も、似たり寄ったりで、オリエントと呼べるところは、どこにしたってそう違いはない。
こうした、サイードが指摘した「オリエンタリズム」の根本にあるのは、他者の主体性の無視であり、他者同士の差異に目を向けようとしない姿勢だ(『オリエンタリズム』)。

自分たちには好ましくない性質(遅れていて、とんでもなくて、イヤらしくて、相変わらずで、受け身的)を東洋に押しつけることで、自分たち西洋は、その反対のものとしてのアイデンティティを手に入れる、というやり方。
もちろん、サイードの議論そのものも、逆に西洋を画一化している、という批判はある。
しかし彼の意図が、二項対立の強化にあったのでないことは、その後の仕事からも明らかだ。

では、サイードはパレスチナをどうとらえたか。

パレスチナ民族という「どこでもない場所」の民こそが、民族の共生という未来の可能性を示すことができる。その目標に向けた抵抗運動の現場として、パレスチナは、自己と他者の新たな関係構築という希なる望みを担う普遍的なトポス(場所にして観念)とされるのである。(p127)


サイードは、文学による力に注目する。
どんな植民地も、政治や経済の力だけでは維持できない。
支配者側の人間たちが、自分たちを正当化するとき、あるいは自分たちの間違いに気づくときに、文学の果たす役割は小さくない。
また、支配される側の人間が、支配に合意するとき、あるいは抵抗に目覚めるときにも、文学の果たす役割は大きいのだ。

ある小説にでてくる植民地、帝国主義的な政策。
それらが当時の読者にとって「ごくあたりまえ」と思われていたのなら、それはなぜ?
これがポストコロニアルな視点だ。

文学テクストの「対位法的読解」。
サイードは、帝国主義と文化表象(文学作品)を、抑圧と抵抗を、コロニアル文化とポストコロニアル文化を(たんなる因果関係としてでもなく、二項対立としてでもなく)同時に、複眼的にとらえようとする(『文化と帝国主義』)。
普遍性の意識をもって、中核と周縁の両側から読むこと、文化の雑種性に鋭敏になること。
サイードが他者の前に立つのは、たとえば次のようなスタンスだ。

知識人が、現実の亡命者と同じように、あくまでも周辺的存在でありつづけ飼い慣らされないでいるということは、とりもなおさず知識人が君主よりも旅人の声に鋭敏に耳を傾けることであり、慣習的なものより一時的であやういものに鋭敏に反応することであり、上から権威づけられてあたえられた現状よりも、革新と実験のほうに心をひらくことなのだ。漂白の知識人が反応するのは、因習的なもののロジックではなくて、果敢に試みること、変化を代表すること、動きつづけること、けっして立ち止まらないことなのである。(『知識人とは何か』p117、大橋洋一訳、平凡社ライブラリー、1998年)


ちょっと前に読んだのだが、ほぼ同じところを、松浦寿輝が『[文化季評]5 エドワード・W・サイードの偉大』(「UP」387、2005年1月号)という文章のなかで、「何度でも読み返し拳拳服膺するに値する行文の一部」として引用している。

周辺性という状態は、無責任で軽佻浮薄なものと見られがちだが、しかし、ふだんの生活や仕事において、絶えず他人の顔色をうかがいながらことを進め、和を乱さないかと心配し、同じ集団の仲間に迷惑をかけないように気を配る生きかたから、あなたを解放してくれる。……わたしが言いたいのは、知識人が、現実の亡命者と同じように、あくまでも周辺的存在でありつづけ飼い慣らされないでいるということは、とりもなおさず知識人が君主よりも旅人の声に鋭敏に耳を傾けるようになることであり、慣習的なものより一時的で危ういものに鋭敏に反応するようになること、上から権威づけられて与えられた現状よりも、革新と実験の方に心を開くようになることなのだ。


(訳文に少し違いがあるのが気になるが、手元にあるはずの平凡社の単行本が見あたらない。二人のどちらかが大橋訳に手を加えたのか、訳文そのものが書き換えられたのか、確かめられないままである。)

スピヴァクについては、ランドリー&マクリーンの『スピヴァク読本』が、彼女の脱構築的姿勢を四つのスローガンにまとめていて、本橋さんによるその紹介がわかりやすい。

1、特権があったからこそ学び知れた。その知識がまた特権である。そのことを認め、同時にそれら特権を自ら解体し、学び捨てる(unlearn)こと。

2、倫理とは知識の問題ではない。関係性への呼びかけである。他者から学ぶとは、他者になり代わって語ることではない。自分自身にとって欠かせない声として聞き、存在として関わり、むしろ自分たちがどのように他者に言葉をかけうるのかを、学ぶのだ。

3、脱構築は、何らかの具体的な政治的プログラムにはなりえない。しかし、政治の行き過ぎや誤りや盲点を指摘する安全装置には、なりうる。現実と記号とのギャップにつねに意識的であれ。

4、そこに安住したくなるような、自分の利害関係や既得権益を保証する既成の構造を相対的なものとして崩してしまうこと。対象に寄生し、他者に依拠するという自らの弱点をすすんで認知し、自己批判を徹底すること。

そして彼女は、被抑圧者に対して「自己教育」を呼びかける。
この点は、サイードとも共通するのではないか。
2001年の春に、ロンドン大学での講演で、実際に彼の声を聴いたときにも、聴講者の質問に答えて、「未来は暗い。教育だけが望みだ」と、彼はいっていた。

本橋さんは、最後に「日本」にとってのポストコロニアリズムについて書いている。
先に挙げた三つの領域での再検証。
歴史の領域では、「新たなる歴史の主体としてのアイヌ」が、
文学の領域では、「目取真俊『魂込め』と沖縄」が、
そして証言の領域では、「『従軍慰安婦』たちの声」が、とりあげられる。

それらの問題を直視し、あり得たかも知れない別の世界やあり得るはずの社会を構想するための想像力の問題として、新しくとらえなおしたうえで、本橋さんは「日本の脱植民地化の課題」を四つに整理して述べる。

1、日本の植民地主義がいつ始まり、どう展開したのか。
2、戦後の日本の脱植民地化がどう進んだのか。
3、日本以外の東アジアにおいて脱植民地化はどう進んだのか。
4、「特需の物語」からの解放。

本橋さんはいう。
だれかが「特需」で利益を受けたのなら、だれかは損害を被っている。
他者への想像力を欠いた経済的繁栄への信仰が、真の脱植民地化への努力を先延ばしにする。

「特需」の思想から脱却してアジア全体の脱植民地化を果たすこと。
それは、植民地暴力と闘ってきたアジアの民衆に、私たちが彼らから貰ったともいえる憲法第九条の、その(軍事力否定・戦争放棄の)精神を現実化してお返しすることであり、それこそが私たちの目指すべき道ではないか、と。


09, 2005 編集
☆☆☆[film]『アフガン零年』

西垣敬子さん(宝塚・アフガニスタン友好協会代表)のトーク・ショーを聞いてから、映画を見た。
なんでも、NHKが相当の資金を援助したそうだ。
アフガンの復興はまだまだです、という彼女のことばが耳に残る。

路上で健気にも逞しくドル紙幣を手に入れているのは、お祓いの力をもつお香を売る少年(モハマド・アリフ・ヘラーティ)だ。
水色のブルカの群れ。
女たちは、食べ物と仕事をよこせと、デモをはじめたのだ。

ほどなくタリバンが制圧にやってくる。
放水に逃げまどう女たち。
ところどころに虹ができる。

しかし監督は、主演の少女(マリナ・ゴルバハーリは、物乞いをして生きのびてきた戦争孤児)が戦争を思い出すたびに流す涙を見て、希望をあらわす虹のシーンはすべてカットしたのだそうだ。
対照的に、ラストのお湯をあふれさせて風呂に入り、頭まで潜る老人の姿には、絶望を見る思いがする。
なんともシンドイ映画だった。

見ていて(とくには男達だが)吐き気がしてくるような気分の悪さ。
そう感じるのも、画面に見えているイヤなものが、この自分のなかにもきっとある、と思えるからだろう(認めたくはないけど)。
事実かどうかは別として、あれが真実の一部なんだな、と思わせる説得力がある。
それにしても歯痒く、口惜しい。

人権という考えをふつうのものとする人間には、「人間」というものに対する、明らかな冒涜であり、許されないことだ、と思ってしまう。
「人間」観が異なっているというだけでは、慰めにも何にもならない。
ではどうすればいいのだろう。
人間観を変えるなんて、すぐには無理だろう。
そんなに簡単なことではない。

タリバンに捕らえられた収容所のなかで、少女が縄跳びをするシーンでは、見ている女性たちの多くが、無念さを共有するかのように、嗚咽をこらえてすすり泣いていた。
僕のくやしさは、同情や共感というよりは、怒りに近いもので、泣くに泣けなかった。
少女の命は、老人の妻になるというかたちで救われるのだが、はたしてそれは本当に彼女を救ったことになるのか。

借り物の人間観を押しつけえたとしても、それは実際には彼らのものにはならない。
彼ら自身がそれを選びとらないかぎり。
そういう「選択」が可能となるような条件を、少しずつそろえていくこと。
あるいは、少なくともそれに協力していくこと。
僕には、それしかないような気がした。

西垣さんの話によると、バルマク監督の次回作は、コメディだそうである。
やはり資金の調達に困っておられるとか。
楽しい映画ができあがることを、心から期待する。

英題『OSAMA』、2003年、アフガニスタン/日本/アイルランド、セディク・バルマク Siddiq Barmak 監督作品。


08, 2005 編集
☆☆☆[book]中島らも,『お父さんのバックドロップ』,集英社文庫,1993/06

下田くんのお父さんは悪役プロレスラー下田牛之助。
43歳の牛之助は、ある事情から「熊殺し」の異名をもつ27歳の空手家ボブ・カーマンと真剣勝負をすることに…。

その他にも、「お父さんのカッパ落語」「お父さんのペット戦争」「お父さんのロックンロール」があって、それぞれに楽しめるのだが、僕は「カッパ」が好き。
落語を聞いてるみたいに読めて、笑って泣ける好短編集。