The Crossing 最近の星々
よんだ本&みた映画 (2004/4/26〜2005/3/6)

以降のものはこちらで
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46 3/6-3/12号

☆☆☆DVD『エレファント』

1999年、アメリカのコロラド州コロンバイン高校で起こった銃乱射事件。
映画は、その1日の、高校生たちの日常を描く。

キャンパスも校舎も高校生たちも美しい。
ときどきストップ・モーション。
人物は歩いていることが多く、キャメラはそれを後ろから追いかける。

幾つもの視点から、時空が重ね合わせられ、構成し直される。
登場人物たちの名前は、若い俳優たちの名前そのままだ。
ストーリーに関係のなさそうな科白(ほとんどが彼らのアドリブだそうだ)。
しかし何気なく映っているものが、少しずつその重みをましていく。

奇妙な感覚だ。
非現実的なほどにリアル、とでも言おうか。
人間の身体(からだ)やそこにあるはずの精神(こころ)よりも、校庭の芝生や校舎の壁、教室の机や食堂の椅子のほうが実在感がある。
だからだろうか、ほんとうにコワイ。
淡々とした『シャイニング』☆☆☆

ここには、生と死の境界がない、と思えるほどに軽薄で表層的だ。
それは見えない。
むしろ聞こえてくるのだ。
そしてベートーヴェンの「月光」や「エリーゼのために」が、若い命のように、あまりにも淡く儚い。

はじめ、なか、おわりに、ストーリーとは関係のない時間帯の空が映される。
それは、夕闇に暮れようとする青なのだろうか、それとも曙光を待つ青なのだろうか。

『ELEPHANT』、2003年、米、ガス・ヴァン・サント Gus Van Sant 監督作品。

☆☆☆DVD『クリムゾン・リヴァー2 黙示録の天使たち』

リュック・ベッソン総指揮だから?
とにかく、すごくテンポがいい。
でも展開は早いけれど、洩れ落としは一つもない。
ムダな贅肉がないというより、むしろ贅沢な印象を受ける。
画作り、音作りに相当に凝っているからでしょうね。

戦争中ドイツ軍が占領していたことがあるフランスの古い僧院。
そこを舞台にした連続殺人事件とその謎解き&アクション。
その見せ方、つなぎ方がうまい。

ジャン・レノはさすがに往年の動きはないが、その存在で味を出している。
 の追跡シーン、カンフーでの格闘場面などは、たくさんある見せ場のなかでも手に汗を握るところ。
主人公たちが携行する銃器の選択にしてもそうだが、わざと曳光弾を使用してみせたり、など、銃撃戦などにも、それなりのリアルさが追求されている。
僕がいちばん驚いたのは、作られた死体の出来映え。
特典映像で、どうやって目の剔られた頭部などを作るのかを知って(へぇー!×3)、納得。

考えてる暇なんてないまま、あっというまにゴールまで連れて行かれて、それでも満足感を感じてしまう、なんとも不思議な映画。

英題は『CRIMSON RIVERS 2: ANGELS OF THE APOCALYPSE』、原題は『LES RIVIERES POURPRES 2 - LES ANGES DE L'APOCALYPSE』、2004年、仏、オリヴィエ・ダアン Olivier Dahan 監督作品。

☆☆DVD『ミレニアム・マンボ』

ファースト・シーンは、惹かれます。
途中、雪の北海道、映画祭の町夕張が、映っています。
東京のホテルでは、電車が右に左に窓の向こうを頻繁に横切ります。

スー・チー演じる若い女の子ヴィッキー。
こんな男、いるいる、という感じの男との腐れ縁。
彼女がひたすら煙草に火をつけて、火をつけて吸う、吸う、吸う映画。

光と色彩の魔術的な組み合わせによる画面構成。
ゆっくり過ぎるくらい、ゆっくりと流れる時間。
撮影は、『花様年華』☆☆☆と同じくリー・ピンビン。

『千禧曼波』、2001年、仏・台、ホー・シャオシェン Hou Hsiao-Hsing 監督作品。

☆☆☆BOOK『チェ−ホフ』,浦雅春,岩波新書,2004/12

チェーホフ(Anton P. Chekhov 1860-1904)、そうあのロシアの作家・劇作家の。
戯曲だと『かもめ』『三人姉妹』『桜の園』なんかを書いた。
日露開戦の年に亡くなってる、享年44歳、若い。

次兄ニコライが亡くなったとき、ひとりアントンだけが葬儀で涙を見せなかったのだという。
チェーホフは医者だった。
だから彼は、兄の死を早くから見越していて、人知れず涙を流していて、葬儀の時には涙はすでに涸れていたのでは?

いや、そうではあるまい、と浦さんは書く。
「ひょっとして彼は泣くことができなかったのではないか」
そしてこう続ける。

いつまでも心情あふれるチェーホフ像を後生大事にあがめていても、チェーホフには肉薄しえないだろう。そう、チェーホフは「非情」だったのだ。

精神病理学でいうアパシー、つまり無気力・無関心の状態に陥っていたのではないか、と浦さんはいうのだ。

チェーホフは名をなした後も、説教を垂れず、世間に毒づかず、声高な主張をしていない。
「かくあるべし」と述べたことはなかった。
彼には独自の芸術観(「客観主義文学論」)があったからである。

芸術家の世界に問題はなく、あるのは答えだけだと言えるのは、一度もものを書いたことがなく、形象など扱ったことがない人だけです。芸術家は観察し、選択し、推量し、構成する。……あなたは芸術家にたいして仕事に意識的であれとおっしゃる。それは正しい。しかし、あなたは「問題の解決と問題の正しい提示」(原文は傍点)を混同なさっている。芸術家に必要なのは後者です。(スヴォーリン宛、1888年10月27日)

ゴーゴリーやトルストイが被った悲劇を、自分は回避したい。
それにはまず、人生と文学、現実と創作を混同しないことだ。

僕が生きて、考えて、戦って、苦しんでいるとすれば、それはみんなぼくが書くものにあらわれます。主義だとか理想だとか、なんでそんなことがぼくに必要なのです? ぼくが才能ある作家だとしても、やっぱりぼくは教師でも、説教家でも、思想の宣伝家でもない」(リジア・アヴィーロワ『わたしのチェーホフ』)

「感情」から逃避するチェーホフ。
モノでしかない「死」を描くチェーホフ。
魂を麻痺させた男は、ひたすら「退屈」という地獄に呼吸するしかないのだろうか。

シェストフは、チェーホフを「人間の希望を殺す」「絶望の詩人」と呼んだ。
だが、詩人はサハリンの旅を経験することで再生を果たす。
サハリンでの「中心の喪失」とその裏返しにある「中心の偏在」の発見が、世界に対するチェーホフのあり方を大きく変えたのだ。
世界は、「一つの中心」から意味づけられるものではなくなる。
そして「意味の中心」が一つでないのなら、「悲劇」もまたありえない。

チェーホフの人物には「肯定」がない。
「いまここ」を逃れ出ては行くが、でははっきりとした脱出先があるか、というと、そうでもない。

比較文学論のガーチェフは、ヨーロッパでは「ここ」と「向こう」(「此岸」と「彼岸」)は明確に分割されているが、ロシアではその境界はあいまいで、「ここ」に対立するのは「向こう」ではなく「どこか」という概念だという。この「どこか」という概念は、チェーホフの人物たちが夢想する「別の世界」をうまく説明してくれる。彼らは「いま、ここ」を否定するが、その否定の先にあるのは、「ここではないどこか」なのだ。

ナボコフのチェ−ホフ評も面白い。

チェーホフの本は、ユーモラスな人々にとっては悲しい本である。すなわち、ユーモアの感覚をそなえた読者だけが、その悲しさを本当に味わうことができる。(中略)この作家にとって物事は滑稽であると同時に悲しいのだが、滑稽さが分からない人には悲しさも分からない。両者は繋がっているのだから。

浦さんは、チェーホフが『イワーノフ』の改作にこだわったのは、彼自身の問題がそこに投影されていたからだろうと見ている。
そして、そこではイワーノフが「主人公」であり、彼が作品のすべてを統御する「意味の中心」になる。
したがって、そこに「悲劇」はある。
しかし、一つしかない見方とは、どうにも窮屈な世界だ。
そして、この「主人公中心主義」から抜け出すのに、チェーホフにはサハリン体験が必要だったというのだ。

実際、チェーホフが『かもめ』を書くのは、約6年間の沈黙の後だ。
『かもめ』の主人公トレープレフは、他のさまざまな視点によって相対化される。
そしてメタ演劇的な『かもめ』は、自体、自己批評的であり、多視点によって重層化された芝居は、一つの意味へと回収されることがないのである。

これは自分(自身の問題)を隠さず、しかしそれを「主人公」に投影するのではなく、作品全体として「表現」することができた、ということになるのだろうか。
そうだとすれば、それはもう狭い意味での「自己」など、超えているのだろうけれど。

最後に、浦さんはチェーホフの小説や戯曲の特徴について述べている。
晩年になるにつれて、ますます簡潔になっていく文体。
チェーホフ自身の言葉がいい。

「小説を書いたら、そのはじめと終わりを削るべきです。そこんところで、ぼくたちはいちばん嘘をついていますから。……そして短く、できるだけ短く言い表わすことです」(ブーニンの回想)
「ある生徒のノートのなかにどんな海の描写があったと思います? 〈海は大きかった〉、それだけですよ。うまいと思うな」(同前)

そして浦さんは、こう書く。

たしかに彼の文体はかなり貧弱な語彙で成り立っている。初期の作品は別にして、後年の名作はロシア語の初学者にも読めてしまう。たとえて言うなら、中学生の語彙でチェーホフはあれだけの作品を書き上げた。これはこれで実におそるべきことだ。「チェーホフの簡潔さはときに薄気味悪くなるような簡潔さだ。この道をもう一歩進めば、芸術の終わり、人生そのものの終わりのような感じだ」とメレシコフスキーが言うとおり、チェーホフはもはやその先には何もないという極限にまで文体を切りつめた。

チェーホフ劇にあるのは、「到着」と「出発」だ、と浦さんはいう。
この間にあったはずの「波瀾」を考えさせるのがチェーホフの芝居だ、と。
「かみあわぬ科白、相手に届かぬことば、意味をむすばぬ科白、成立しない対話」。
「一見にぎやかなチェーホフのダイヤローグはむしろ、人びとの孤独や孤立、通い合うことのないこころを際立たせる」。

僕は、これは漱石作品についても言えるのではないだろうか、と思って読んでいた。
「無意味に解体した世界を前に、チェーホフに唯一残された道は、恒常不変の自然の営みにみずからを位置づけることでしかなかった」。

浦さんは、「音」に着目する。
そして、チェーホフ晩年の作品に「呼びかけ」のモチーフをさぐっている。

僕も以前、「人文科学総合」の科目で同じ本を取り上げたことがあるが、文化人類学者、川田順三さんの本(『聲』☆☆☆)からの「呼びかけ」についての引用が、印象的だ。

いとしい者の名を、ひとりで声に出して呼んでみる、あるいは呼びかける、それはその名と重ねあわされた、かけがえのない存在を、自分の声でいつくしんだり抱きしめたりすることにほかならないし、死の床にある者の名を呼ぶ行為には、その名の消えようとする息を、自分の声で蘇生させようとする願いがこめられていよう。(『聲』)

チェーホフは、「人間!」と呼びかけていたのだろうか。
あるいは、「未来!」と呼びかけていたのかも知れない。


45 2/27-3/5号

☆☆☆DVD『28日後』

今週のDVDは、監督ダニー・ボイル一色でいこう。
『トレインスポッティング』☆☆☆を撮った監督さんが、けっこう作品を撮っているので、まとめて見てみた。
結果、大正解!!!

なかでも、この映画はいちばんサッパリした後味だった。
にっこり、救いがある(劇場公開版とは別の結末)。
もちろん、殴打、吐血、撲殺、血飛沫、刺殺、銃殺、が満載だから、安易なものではない。

事故で気を失ったジムが、28日後、病院で意識を取り戻したときには、ロンドンには人気がなくなっていた。
どうやら人々は、感染すると攻撃性を抑えられなくなるウィルスにやられて、その殆どが国外に脱出してしまったらしい。

ジムとセリーナは、高層マンションに生き残っている父娘と出会う。
セリーナは彼らを「足手まとい」になると判断し、別行動をとろうとする。
そのときの娘の台詞、We need each other. が印象的だ。

結局、ジムたちは行動を共にする。
軍の第42封鎖隊が食料の提供と保護とを約束したラジオ放送(テープによる)だけが頼り。
M602号沿いにあるマンチェスターの北東43キロ地点をめざし、隠し残してあった車を走らせる。

何のために生きのこるのか?
モチろん、自分のため。
しかし世界中で自分一人だけが生き残っても、そのことにどんな意味があるというのか?
セリーナは父娘を見て迷いはじめる。

支え合う関係? 家族のようなもの?
そこに希望が見いだされたかに見えた。
が、偶然が父親を襲う。
父はひょんなことから病気に感染し、ジムが仕方なく殺そうとする寸前、軍の隊員に射殺される。

保護してくれた軍隊の隊員たちは、しかし自分たちの欲望に目覚める。
セリーナと娘の二人を男たちから逃がそうとして、ジムは銃弾に倒れる。
そして、さらに28日後…。

無人のロンドン、無人のイギリスの田舎が美しい。
4頭の馬の親子?たちが走るシーンも印象的だ。
撮影は、『ドッグヴィル』☆☆☆を撮ったアントニー・ドッド・マントル Anthony Dod Mantle という人。
彼はこの映画で2003年ヨーロッパ映画賞(撮影賞)を受賞しているらしい。

さて、劇場公開版では、ジムを病院に運びこんだ女たちが必死に手当をするのだが、ジムはあえなく死んでしまう。
二人の女たちだけの世界。
それでも、「私たちは行かなければならない」(セリーナ)。

が、DVD版ではジムが生き残っている。
田舎の民家での生活、そこで3人は4週間を過ごしたはずだ。
これも「家族」というものに対するひとつの答えなのだろう。

ラストの場面、ジェット戦闘機が飛んでくる。
緑の草原に、カーテンまで使って縫い合わされた布で描かれる文字、HELLOが、まぶしい。

『28 DAYS LATER...』、2002年、英・米・蘭、ダニー・ボイル Danny Boyle 監督、2003年公開作品。

☆☆☆DVD『ヴァキューミング』

濃いよー、これ。
でも、大好きだなぁ。
監督さん、うますぎです。
コンビでやってるジム・カートライト Jim Cartwright っていう人の脚本もいいんだな、きっと。

電気掃除機のセールスマンたちが繰り広げる過激な販売競争。
社内で誰にも1位を譲らない中年のゲスいおっさんトミー(ティモシー・スポール)。
彼は、一見情けも容赦もない直情径行型のモーレツ男。
街中のせまい路上でも、まるで砂漠でラリーのごとし。
タイヤを泣かせて縦横無尽に駆け回り、相手かまわず巧言令色、鮮矣仁。

それがどうした?!
売ってナンボのセールスマン、仲間からの誹謗中傷や孤立無縁でさえ、活力と売り上げの肥やしってモンよ。
そんなトミーに新入りのピートが見習いで付き従う。

ミキシングが趣味で、ガールフレンドのヒモ的存在だったピートは、トミーとは正反対の薄志弱行型の青年。
唯々諾々と彼女に従ってきたのだが、ついに一念発起して働き始めたのだ。
しかし、気弱なところは変わらない。

うぶなピートに、トミーは彼独自の販売ルールその1〜6を、文字通り「叩き込む」のだ。
スキあらば売る、ゴリ押しで売る、騙してでも売る。
使いやすさも性能も、割引だっておかまいなしに売る、ビシバシ売る、売る売る売る。
とにもかくにも、売って売って、売ってナンボのセールスマン。

ちなみに、トミーのルールその6とは、「ルールなんてものはなーい!」
ピートは、なんとか1台を、衝動買い癖のある貧しい一家の主婦に売ってみせるのだが…。

ピートとGFとの仲はどうなるの?
トミーは販売コンテストで優勝できるの?
ピートの大好きなミキシングはどうする?

pride and prejudice?
sense and sensibility?
とにかくここには、古いものと新しいものがあり、消費されるもの、組み替えられるものがある。

しかしそれらを通して僕の心に焼きついたのはむしろ、消費しつくされないものだ。
変わり続けることで変わらずにあるもの、生きているというそのこと、である。

カミカゼやゲイシャが、日本語のまま出てくるのもご愛敬か。
ラストのブラックプールの海岸、波打ち際のシーンが美しい。

『VACUUMING COMPLETELY NUDE IN PARADISE』、2001年、英、ダニー・ボイル Danny Boyle 監督、劇場未公開作品。

☆☆☆DVD『ストランペット』

熱いねー、これも。
最初の印象で見るのをやめるのはもったいない!

クリストファー・エクルストン Christopher Eccleston が、ストレイマンを熱演。
あの『リベンジャーズ・トラジディ』で主演してた人。
それから、タイトル・ロールを演じたジェンナ・ジー Genna G って女優さんも、キョーレツな個性。

詩人(男)とミュージシャン(女)、貧しく淋しい二人の運命的な出会い。
彷徨える二つの魂がふれあい、互いをインスパイアしあって、幻の火花のような1曲ができあがる。
さっそく隣人がマネジャを買って出る。
リチャード・A・G・エクレア(R・A・G・E)という本名をもつ、彼もまた熱い男だ。

ロンドンに向かうバンの中。
フェルト・ペンが書けるスペースは、すでにストレイマンの詩で埋まりつつある。
「ロンドンで君らをデヴューさせて、リッチになった俺は煙突にその名を刻んでやる!」
「名前、長いから、太い煙突が必要ね。」
「イニシャルでいい!」

しかし、ロンドンでの録音がうまくいかない。
彼らは自由の人、運動の人、機会の人、生成の人たちなのだ!
マイクを固定されたスタジオの中では、檻に入れられた熊に等しい。
熊(bear)だけに我慢(bear)することができない、なんてね。

ストランペットは一人でデヴューすることになる。
束縛、契約、管理に引き離される二人。
これじゃ、前と同じで、自分がない。
ストランペットは、クレアという本名を初めて明かして、ストレイマンにそういうのだ。
一度は挫折する彼らだったが、ひょんなことから2人が水を得た魚のように振る舞えるライヴが実現する。

高い煙突に白く大きく記されるマネジャのイニシャル、RAGEの文字。
それはもちろん、激怒・憤怒の意味の単語だ。

ちなみに、ストランペットは売春婦の意。
彼女が自分でそう呼んでほしいと、ストレイマンが飼っている犬たちの名前にちなんで付けた名前。
彼は雄犬( man dog と呼んでたね)をサージャント(軍曹)、雌犬をストランペットと呼んでいた。

ストレイマンは、おそらく stray-man で、迷える人。
(同時に「真っ直ぐ男」straight man も重ねてるのかな、と思ったけど、これ、「喜劇俳優の引き立て役」っていう意味があるらしい)
そういえば、漱石の『三四郎』☆☆☆☆で、美禰子が三四郎につぶやくのは stray sheep 、迷える子羊でしたね。
やっぱり、ジム・カートライト Jim Cartwright の脚本。
え、なんと製作も!

『STRUMPET』、2001年、英、ダニー・ボイル Danny Boyle 監督、劇場未公開作品。

☆☆☆BOOK『自由人は楽しい モーツァルトからケストナーまで』,池内紀,NHKライブラリー,2005/1

池内さんには、昨年5月に『ひとり旅は楽し』で、一人旅の極意を教えてもらったから、今度は「自由人」の生き方について、池内さんがどんなふうに見てるのかを知りたいと思った。
池内さんもきっと「自由人」なんでしょうね。
読んでいて、ほんと楽しい本でした。

副題にもあるように、モーツァルト、ゲーテ、ロートシルト(英語読みするとロスチャイルドね)、グリム兄弟、シュリーマン、トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、ケストナーについて書かれている。
1749年に生まれたゲーテを筆頭に、1974年に亡くなるケストナーまで、3世紀にわたる。そのだれもが自分の生き方、考え方を決して他人にゆだねなかった人たち。

これ、そもそもは、NHKのラジオでやってる、「生きる知恵」という番組のために、メモだけで話をされたんだって。
それがもとになってる。
その話し言葉の基本的なところは残してあるからだろうね。
たしかに読みやすい。

たとえば、グリム兄弟(とその童話)について、こんなふうに語られる。

 ドイツ人のフランス文化に対するあこがれ、また軍事力によって自分たちの国が支配されていたということ。実は、この二つがグリム童話の誕生に大きく関与している。グリム兄弟は、異国の文化に対する劣等感の払拭と軍人支配に対する反抗のために童話を集めたともいえる。集めたものを自分たちの宝物にしようとした。

 「グリム童話」は過去の話を集めたものだが、過去にこだわりがあったわけではない。自分たちの生きている現在にとても大きな問題を見出していた。自分たちが今まさに直面している状態、自分たちが生きている社会状況、そこから、童話を集めるという仕事を始めた。「グリム童話」は過去の遺産ではなく、現在というものを考えるための大きな宝物だった。

そして「『グリム童話』の大きな要素は、物語をしてくれた人々がすべて、聞き手であるグリム兄弟二人のことが好きだったということにある」(p125)なんて書かれると、もう僕は、「グリム童話」を再読するぞ、という気持ちになってしまうのだ。

ヘルマン・ヘッセ像も、変更を余儀なくされた。
ヘッセの小説の主人公は、そのほとんどが一人称単数で登場します。彼はそういう素っ気ない、まったくの個人をそのまま読者の前に提示する。個人であり、一人称単数であるということは、確固とした自分自身の生き方を求め、その結果として生じる責任もまた一人称たる本人が担わなければならない。決して三人称複数形のなかに逃げることはできない。そうした一人称単数の生き方を目前に提示されたとき、読者であり一人称単数でもある「わたし」は、どのように思い、どう考えて判断するか。ヘッセの作品は、そのような厳しい、対決を迫るような構図で書かれています。

邦訳の題名のせいで、小説の読み方まで制約されていたのかも知れない。
これでヘッセも読み直しが必要になった。

最後に、ドキッとした言葉。

 マンが生きた当時、人間はいろいろな体験を積み重ねて成熟していくというのが社会一般に共通した考え方でした。しかし、彼は、もはやさまざまな経験が人を豊かにするなどとは考えていなかったのではないでしょうか。

このトーマス・マンについての言葉には、ほんとに驚き。
というのは、僕も以前、友人に向けて、そんなふうな考えを書き送ったことがあったから。
今はどうなんだろう。
もう一度考え直してみなくちゃね。


44 2/20-2/26号

☆☆☆FILM『舞台より素敵な生活』

観てきました。
梅田の○フトの地下にあるテアトル。

かつては売れっ子だった劇作家のピーターは、最近スランプ。
子供が嫌いで、子役のセリフがうまく描けない。
家に帰ると、妻のメラニーが赤ちゃんほしさに排卵日を計算して迫ってくる。
夜になると隣の犬が吠え、近所ではストーカーまがいの偽ピーターが出没するわで、不眠の日々。

そんなある日、近所にエイミーという足の悪い少女が母親と一緒に引っ越して来る。
メラニーはさっそくエイミーを家に招くのだが、ピーターは書斎に立てこもって「子供は拒否」の姿勢。
ところが、ピーターは台本づくりに行き詰まって、とうとうエイミーから「子供」について学ぼうと、彼女に近づいていくのだった…。

ピーター・マクガウェンを、確実に中年に移行中のケネス・ブラナーが演じています。
アメリカ人では決してこの味は出せないでしょう。
妻のメラニー役のロビン・ライト・ペンは、ほんとにキュートで、こういう女の人になりたーい、って思う女の人、多いかも。
エイミー・ウォルシュ役のスージー・ホフリヒターは、天才的な演技してます(マジで、って付け加えてもいいくらい)。

最後の最後に、原題(「隣の犬をどうやって殺す」)に絡んだ微笑ましいオマケのシーンがあります。
泣けて心温まる映画でした。

『HOW TO KILL YOUR NEIGHBORS DOG』、マイケル・カレスニコ監督&脚本、製作総指揮はロバート・レッドフォード。

☆☆☆☆DVD『藍色夏恋』

モン・クーロウ(孟 克柔)演じるグイ・ルンメイ(桂 綸? ?は金偏に旁が美という字)もチャン・シーハオ(張 士豪)演じるチェン・ボーリン(陳 柏霖)も初々しく自然な感じで爽やか。

女子高生モン・クーロウには女友達(リン・ユエチェン)がいて、そのリン・ユエチェンはチャン・シーハオという男の子のことが好きで好きでたまらない。
ユエチェン(失恋した彼女が、それまでノートにひたすら連記していた張士豪という名前を不意に木村拓哉と書き変えるシーンでは思わずニンマリ)に頼まれてチャン・シーハオに近づいたモン・クーロウは、なんと彼に好かれてしまう。
でもモン・クーロウはじつは…。

監督のイー・ツーイェン(易 智言、CMディレクター出身らしい)は、微妙な年頃のビミョウに揺れ動くやわらかい心を、自然の光と人工の光のなかに、その揺れのままに写しとっています。
若い男女の「別れ(と結ばれ)」をこんなに明るく描ききった映画って他にあったかなって、これはもう正直、嫉妬してしまいます。
ほんとうに素晴らしい。

とくに自転車のシーンや夜のプールのブルーは、僕自身の「木陰を吹き抜ける一陣の風」や「暑かったあの夏」をいやが上にも思い出させるのです。
これがまた、キュン! かつ、ゲー! でして…。

原題は『藍色大門』(青春の通過儀礼?、邦題より僕はこの方が好き)、英語では『 BLUE GATE CROSSING 』(この題名も好き)、2002年、台湾・仏。

☆☆☆DVD『青いパパイヤの香り』

この青は緑のアヲ。
切られたパパイヤの蔓から滴る白い樹液。
汗、蟻、飛蝗、蜥蜴、洗い髪、そして雨に蛙。

1951年、ヴェトナムの資産家(ゴージャス!)に雇われた奉公人ムイ。
優しい女主人、放浪癖のある旦那、ムイと同い年で幼くして死んだ彼らの一人娘、その孫娘を亡くしてからずっと二階に閉じこもっている姑。
ムイは一家の長男の友人クェンに仄かな恋心を抱く。
そして10年後、彼女は新進作曲家クェンの妻に…。

戦争(第二次世界大戦)と戦争(ヴェトナム戦争)の間の平和?
フランスのスタジオにセットを組んで作られたとは思えないヴェトナムの街の通りとお屋敷。
そしてお屋敷の調度や庭にある自然。
パパイヤの調理の仕方は知りませんでした。

原題は仏英でそれぞれ『 L'ODEUR DE LA PAPAYE VERTE 』『 THE SCENT OF GREEN PAPAYA 』、1993年、仏・越、トラン・アン・ユン監督作品。

☆☆☆DVD『青の炎』

『嗤う伊右衛門』☆☆☆見たときから、蜷川さんのこの映画、見てみたかったんです。
自転車(あ、ロードレーサーって言うべきかな)で走るシーン、海や空の自然の青、そして人工の青い光が美しい。

湘南の高校に通う17歳の少年(二宮くん、頑張ってましたね)は、継父を殺そうと完全犯罪をもくろむが…。
その継父役を演じるデザイナーの山本寛斎は映画初出演だそうで、彼も負けじとかなり頑張っています。
ヤラシイ感じがよく出てました。

秋吉久美子さん、相変わらずお綺麗でした。
こんなに美しいお母さんをもつ少年も、つらいだろうな、きっと。

原作は貴志祐介の同名小説(未読)、2003年、日、蜷川幸雄監督作品。

☆☆☆DVD『青い春』

なんともやりきれない映画なんだけど、リアリティは相当のもの。
男子校、朝日高校の不良たち。

ジェームズ・ディーン主演『理由なき反抗』☆☆☆のチキン・ランを彷彿させるベランダ・ゲーム。
幸せなら手を叩こう。
それは、校舎の屋上の柵の外に立ち、手すりから手を離し、後ろに倒れながら、両手を何度打てるかを競うゲーム。

なんといっても松田龍平と新井浩文がグー!
龍平くんは、彼にしかできないようなクールな九條くんを演じている。
浩文くんは、ついに九條に「連れていってはもらえない」親友青木を演じていて、『血と骨』☆☆☆でのバット振り回しにつながる演技をしている。
ガッコーって、やっぱ最高で最悪なんだね、今でも。

原作は松本大洋の同名漫画(未読)、2001年、日、豊田利晃監督作品。

☆☆☆BOOK『僕の叔父さん 網野善彦 』,中沢新一,集英社新書,2004/11

歴史学者網野善彦の評伝というよりは、その精神史・思想史でしょうね。
その点では、中沢氏は手際よく整理して見せています。
僕なんかのように、網野氏が書かれたものの、ほんの一部しか読んでいないものにも、わ
かりやすく説いてくれているんです。

とうぜん、中沢氏の思想的なバイアスもかかっています。
しかしそれを差し引いても、ここに描かれた「見取り図」は、網野史学の広がりと奥行きをダイジェストに理解しようとする人には、とてもハンディじゃないかな。

全4章からなり、終章を除く3章は次の順に並んでいます。
1章、「『蒙古襲来』まで」網野史学誕生の時期。鍵語はトランセンデンタル、飛礫、民衆など。
2章、「アジールの側に立つ歴史学」『無縁・苦界・楽』の頃。鍵語は、自由、貨幣、仮面など。
3章、「天皇制との格闘」『異形の王権』の射程。鍵語は国体、Country's Being 、性など。

それぞれの章から、1箇所ずつ引用してみよう。

網野さんの歴史の「学」では、それが飛礫を飛ばす悪党や、無頼な人生を送る博打打ちや、性愛の神秘を言祝ぐ路傍の神様だとか、大地とともに生きる民衆の中に、そのトランセンデンタルは宿るのである。それは言ってみれば、「日本国」を抜け出ているアジール(避難地)だ。アジールは権力が手を触れることのできない空間である。つまりそれは権力の思考を離脱している。そういう空間に立つと、人は「日本国」というものさえ抜け出ていくことになる。そしてこの離脱によって、その人は逆に列島に展開された歴史のすべてを見とおす力を獲得することになる。(第一章P63)

人間は自然の決定するものから自由であることによって、言語や法や社会的規則の体系をつくりあげ、その体系の拘束にしたがって生きるようになった。そのとき同時に、人間の中にはそうした規則の体系を乗り越え、否定していこうとする新しい欲望が生まれる。根源的な自由を求めるトランセンデンタルな欲望である。社会的な規則の体系と、この根源的自由とは、まったく同時に発生する。両方とも、人間の本質が自由であることに根を下ろしているけれど、向かうところは反対方向を向いている。
 この根源的自由を現実世界において表現したもののひとつが、アジールなのだ。アジールをつくり出そうとする夢や欲望は、それゆえ人間の本質に属している。(第二章P95)

非人=非人間は、自然との直接的な交歓のうちに生きる。エロチックな身体と直接性の精神をもって、職人として世界を自らの能力によって創造することのできる者たちだ。(中略)人類の原初の知的能力を保存している者たちにほかならないこの非人間たちを差別に追い込む社会を、根底からくつがえしていくための歴史学を、網野さんは構想し、現実化しようとしてきた。
 世界に堂々たる非人間を取り戻すことによって、網野さんは人間を狭く歪んだ「人間」から解放するための歴史学を実現しようとしたのである。「百姓」を「農民」から解放する。人民を「常民」から解放する。この列島に生きてきた人間を「日本人」から解放する。そして列島人民の形成してきた豊かな Country's Being を、権力としての「天皇制」から解放する。こうして、網野善彦のつくりあげようとした歴史学は、文字どおり「野生の異例者」としての猛々しさと優雅さをあわせもった、類例のない学問として生み出されたのである。(第三章P173)

ちょっと美しすぎる?
この本は、たしかに予定調和的な感じになっているよね。
それはこの本が、ことが「終わったあと」から書かれているから。
そして、もともとは追悼文として書かれはじめたものだから。

だから、ここに出てくる網野氏も中沢氏も、あまりにも互いに理解がよろしく、人がよろしいのだとしても、それは仕方がない。
この本は、その人物のすべてがそこに盛り込まれた評伝ではなく、ここでは思想のエッセンスの流れやつながりのみが、分かり易く綴られているんだから。

「悪」を研究していた人の「悪」の部分を見たい?
中沢氏と「通じ合えなくなることが多くなった」頃のことを知りたい?
だったら、それはほかの人が書く網野氏の評伝を待って、それを読むしかないね。


43 2/13-2/19号

☆☆☆☆FILM『ハウルの動く城』

やっと見てきました!!!

少し前に、数学の市原先生が、
「いやァ、初めてですよ、宮崎駿の映画で、最後まで見れたの」
って、仰ってたので、
ほーォ、それならなおさら、って思ってたんです。

少し落ち着いたみたいですね。
小さい劇場だったこともあるんだろうけど、観客は、10数人。

僕以外、みんな女性。
そういうことって、けっこう多い。
そして彼女たちのほとんどは、ソフィーとソフィーの中間くらいの年齢でした。
だけど、こんないい映画、男たちにももっと見てほしいな。

映画のなかで、ハウルが言います。
「美しくなければ、生きていたって意味がない」
僕も、そう思います。
世界は、たいへんに美しいし、これからも美しくあってほしい。

え? 自分自身?
そりゃあ、美しいに越したことないけど。
じゃあ、人間の美しさって何なんだろう?

ソフィーは、ハウルに言い返す。
「わたしなんか、美しかったことなんて一度もない」
そして、外に飛び出して、大泣きに泣きます。

彼女ほど美しい人はいないのにね。
勇気、それが確実に美しさの1つ。
でも、ソフィーにしても、90歳にされてしまったからこそ、もてたのかも知れない。
おびえず、くじけない心を、勇気を。

妹にまで、自分の人生は自分で決めるのよ、って諭されてた18歳のソフィー。
でも90歳になれば、自分の恋にも素直になれる。
明日、いや今日のこの日が、人生の最後の一日になるかも知れない。

ある人が90歳になって、戦争を体験していないことを振り返って、後悔することってあるのでしょうか。
そういう経験のなさを卑下したりするでしょうか。
戦争を経験したかった、今からでも戦いたい、なんて思うでしょうか。
僕だったら、そうは思わない。

戦争を経験した人は、90歳になっても、恐怖を心に抱きながら、毎朝を目覚めるのでしょうか。
戦争で愛する人を失った人たちは、90歳になった今も、憎しみから自由になれずにいるのでしょうか。
僕にはわからない。

そういう人たちは、自分自身を責めるの?
他人を呪うの? 国を恨むの?

人間に欲望というものがあるかぎり、憎悪や怨恨から解放されることは、おそらくないのでしょうね。
そして魔法や呪いが、そこからこそ生まれ出ているのならば、その魔法や呪いが、自らの故郷をなくすような働きをすることは、まずありえないことでしょう。

ならば、人間にできることは何か。
悪には悪でもって対抗する以外にないのか?
いいえそれより、いまここであなたも、90歳になってみたら?

それでも、憎まないこと、恨まないことは、人間にとってはとても難しいことかも知れない。
では、赦すことは?
そして、愛することは?

そんなことを、この映画に訊ねられたような気がしました。

☆☆☆DVD『バッファロー'66』

ヴィンセント・ギャロ Vincent Gallo 監督・主演。
カルヴァン・クラインのモデルなんかもしている彼は、この映画の音楽も担当していて、多才な人。

ずーっと気になっていた映画。
あの顔がなぜか気持ち悪く見えなくなったので、観てみた。
よかった。

ビリー・ブラウン役のギャロとC・リッチの取り合わせがいい。
リッチ演ずるレイラ(ビリーに彼の「恋人」の名であるウェンディという名を押しつけられるのだが)のような存在があってもいいじゃない。
それで生き延びられる人がいるのなら。

刑務所にレーズンを送ってくれたグーンも善人だけど、彼だけじゃあ不足なんでしょうね。
ほんとに寒そうな映画で、マリア様のようなレイラの運命抱え込み的な包み方と、対人関係不全症的なビリーが自殺しそうなあたりに、キリスト教的な背景?を感じてしまう。

それにしてもえげつない両親。
あの4人がテーブルを囲むシーンも、多視点というより、「いない」という感じ、つながりが互いに切れているという感じをうまく表現していた。

ラスト近くで、ビリーは想像する。
埋葬されたばかりの息子の墓前。
いまだにバッファローズを応援している母親と腹減ったというしかない父親。
このシーンは痛ましいばかりだ。

ジャン・マイケル・ヴィンセントがボーリング場の支配人?役で出ていたのは、嬉しかった。
最後に一杯のホット・チョコレート以上の温かさを感じられる映画になっている。

『BUFFALO '66』、1998年、米、ギャロ監督作品。

☆☆☆DVD『ニューヨーク・セレナーデ』

なかなか笑わせてくれて、最後もニンマリできる。

人気TVショーの司会者が主人公。
望むものをすべて手に入れた彼はもはや仕事に意欲が出ない。
彼は以前に別れた妻と寄りを戻そうとして…。

妻の母親はホームレスを、弟は獣姦を、それぞれ望んでいる?
かなりドタバタでクレイジーな喜劇を演じて、サマになっているところ、ギャロくんはなかなかの人と見た。
俳優としては、主人公の前妻の弟を演じた人(名前わかりません!)がよかった。

原題は『GET WELL SOON』らしいんだけど、すぐに悪くならなきゃいいけどね。
2001年、米、ジャスリン・マッカーシー監督作品。

☆☆☆DVD『ブラウン・バニー』

今週のDVDは、ヴィンセント・ギャロ一色。

バイク・レーサーが主人公のロード・ムーヴィー。
レース・シーンから映画は始まる。
最後に「そうだったのか」ってのがあるから、ストーリーは書かない。
特典映像によると、「愛の喪失」を描いているらしい。

「愛」ってのはちょっと難しくて、僕にはよくわからないけど、孤独感・絶望感は伝わってくる。
きれいな映画で、美しい場面もたくさんある。
なかでも Bonneville Salt Plats International Speedway でバイクを走らせるシーンが、印象的。
(と思ってたら、メニュー画面の待機映像として使われていた。やっぱり。)

画面の奥に走り去るバイクを望遠カメラが追っている。
どんどん小さくなるバイクは、陽炎(逃げ水現象)のために、空に向かって飛び上がっていくように見えるのだ。

ここって、ギネス・ブックに載るような、スピードの最高記録に挑戦するときなんかに使われてる場所だよね。
バイクをバンからおろして、後輪をスタンドに立てかけて、ヘルメットをかぶってもう一度スタンドをはずし、エンジンを押しがけしてバイクに跨るまでのシーンもかっこいい。

ギャロってひとの顔がやっぱり気になるんだな。
鼻もそうだけど、目がとくに気になる。
のぞき込むと気が変になりそうで、なんだろうって思って、やっぱりヴィンセントだけに、ゴッホかなって感じ。

ゴッホの自画像に比べると、この映画もまだまだナルシスティックで、ロマンティックなところも残ってる。
で、情けなさ度と遊び度の点でいえばやっぱ『バッファロー〜』のほうかな、好きなのは。

『THE BROWN BUNNY』、2003年、米・日、ギャロ監督、R-15作品。

☆☆☆☆BOOK『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』,池谷裕二,朝日出版社,2004/10

これは是非ぜひ読んでみて下さい!!!

ちょっと前から話題になってた本だけど、噂に違わず(タガワズって読んでね)面白かった。
どれくらい面白いかっていうと、いま読み直している『三国志』より面白い。
なーんていっても、ま、そっちの絵よりこっちのシャツが美しい、ってなもんで、同列に扱うのが、そもそも無理があるかもねー。

動物実験の例とか、ごく最近の発見とか、とにかく、目から鱗ものが満載なわけ。
糸井重里との共著『海馬』☆☆☆(朝日出版社)も相当によかったけど、どちらも、何より読みやすいのがいいよね。
ムツカシイはずの脳科学の最前線をわかりやすく教えてくれるんで、カシコクなった気になれるのも、しあわせ。

池谷さんは、脳科学の専門家で東大・大学院薬学研究科の助手。
2002年からコロンビア大学に研究員として留学されていて、きっとご近所にある?慶應義塾ニューヨーク学院という学校で、中高生相手に集中講義をされたみたい。
その講義録をベースに、この本が作られている。
全4回の講義は、実際は10日間にわたって行われたもの。

僕はそれを通勤の数時間で読み飛ばしてしまったけど、そんな読み方は本当はもったいない。
とくにこの分野に興味のある中高生の人は、僕なんかより、もっとずっと速く読めるかも知れないけれどね。

この本のなかでもふれられているように、「学習の遅さ」って結構重要らしいんだ。
「下等な動物ほど記憶が正確でね」なんていわれると、ドキっとするよね。
正確すぎる記憶って、融通が利かない、応用ができないからダメなんだって。

 記憶があいまいであることは応用という観点から重要なポイント。人間の脳では記憶はほかの動物に例を見ないほどあいまいでいい加減なんだけど、それこそが人間の臨機応変な適応力の源にもなっているわけだ。そのあいまい性を確保するために、脳は何をしているかというと、ものごとをゆっくり学習する(原文は傍点)ようにしているんだよね。学習の速度がある程度遅いというのが重要なの、特徴を抽出するために。

ね、こんなふうにいわれると何となく元気が出るよね。
この本だって、何度もくり返し読んだり、考えたり、「ゆっくり学習する」のがいいと思う。
ま、あんまり遅すぎるのもマズイみたいだけどさ。

僕が面白いと思った話を、2つほど紹介してみよう。

まずは、ノドと心の関係について。
人間は咽頭をもったために、言葉を話せるように脳が再編成された。
言葉はたんにコミュニケーションの手段ではなくて、抽象思考のツールでもある。
その言葉が心を生み出す。
だから、心を作ったのは咽頭だとも言える、って。

つぎに、「見る」という行為について。
これ、思ってるほど意識的なものじゃなくて、ほとんど無意識の現象。
脳ってさ、二次元の網膜に映ったものを、むりやり三次元に解釈しなければならない宿命を背負ってるんだ。
見るっていっても、そういう脳の「都合」に合わせなきゃなんない。
だから、意識でコントロールなんて、めっちゃムズイ、って。

池谷さんは、いろいろ細部のメカニズムまで詳しく教えてくれるよ。
そのうえで、でも、神経とかシナプスとか、脳のパーツ、細部だけを見ていちゃダメなんだって。
部分の総和が全体とは限らない。
部分と全体って、ほんとは互いに分けられなくて、相互に影響しあってるんだ。

それから、「クオリア」についての池谷さんの見解も面白かった。

感情は脳の副産物、実在するけど幻のようなもの、喜びや悲しみは言葉の幽霊。
「感情というクオリアは脳の活動をダイレクトには決定していないと考えたほうがいい」。
え?
じゃ、感情ってさ、脳の機能の効果にすぎなくて、それが脳の活動に影響を与えるってことは、ゼンゼンないの?
こういう点については、茂木健一郎さんなんかはどう考えるのだろう。
聞いてみたいなぁ。

でもこの本の、ホントのホントに美味しいところは、僕が紹介しているところよりは、ずっとずっと研究の具体的な細部にありますからね。
そこは実際に手にとって、読んでみてね。

あ、そうだ。
これは僕自身のためにメモしておこう。
池谷さんによる「意識」の定義。

1、表現の選択
2、ワーキング・メモリー(短期記憶)
3、可塑性(過去の記憶)

この3つを満たすこと、だって。
きわめてクリアだね。
でもって、奥が深い。


42 2/6-2/12号

☆☆☆FILM『エイリアン VS.プレデター』

もう公開終わってからでもだいぶなりますね。
紹介、遅れてしまいました。
今週号にあわてて追加掲載です。
でも、この映画、期待以上に楽しめました。

そーなんだ。
「神」って、そういうことだったんだ。
あちゃー。
自分たちに似せて「人間」を作ったんじゃなかったんだね。
神の飼っている「猛獣」のエサとしての人類?

とにかく、南極へ行きましょ。
キョーレツ寒そうですけど。
神殿があるんです。
過去の幾つかの巨大文明が遺したピラミッドを足し合わせたようにして作られた遺跡。
昔、捕鯨船基地があった、とある島の地下数百メートルのところ。

集められました、専門家たちが。
普通の人じゃあ、行けまセンモン。

例によって、調査が進むにつれて、一人、また一人と犠牲になっていきます。
そしてわかったのは、プレデターがクイーン・エイリアンに卵を産ませて、定期的に「狩り」を行ってきたということだった。
人間たちは、プレデターたちの成人の儀式の、だからあるいはエイリアンの、単なる生け贄にすぎなかった。

しかし環境問題専門家の女性レックス(アレクサ・“レックス”・ウッズ、恐竜みたいな名前ですね)は、なんとプレデターと…。
かなり人間っぽい「神様」だねー。

コミックではもう15年も前に実現していた対決なのにね。
いい脚本がなかったのだとか。
ホントでしょうか。

「敵の敵は、味方」なんて、コワイこと云うてはりました。
これも現実のアメリカという国家と重ねて解釈されるのかな。
それより顔や姿態の醜悪さやおぞましさって、何を僕らに突きつけてるんだろう。
(今回、僕はちょっと「笑い」に近かったんだけど…)
それが気になるなあ。

次回作のあることがわかる終わり方でした。

『ALIEN VS. PREDATOR』、2004年、米、ポール・W・S・アンダーソン Paul W.S. Anderson 監督作品。

☆☆☆☆DVD『花とアリス』

いい感じ。
全部とはいかないけど。
僕は好きです、この映画の感じ。

もともとインターネットで配信された同名の短編ドラマを映画化したものだとか。
岩井俊二はうまい。
男の子も可愛いけど、やっぱり二人の少女が生きている。

もっともっと少女的なコワさがあってもよかった?
いや、あのくらいがちょうどいいな。
そう思うのは、「過去/花」や「親/別離」を通して彼女たちの孤独の深さと結びつきの強さが描かれているからだし、「ウソから出たマコト」の「終わらせない終り方」にもちょうど見合っていると思えるから。

画面構成、キャメラアングル、カットのつなぎも相変わらずうまいし、監督自身が手がけたという音楽もいい。
自分の中学・高校時代を思い出しました(ゲー!)。

落語は花がアリスのダンスくらいにもうちょいと本格的だったら?
とか、
ラストは迷っただろうな、他にも案があったはずだ、
など、
勝手に想像してしまいます。

え?彼らの「恋」はどこに行くのかって?
石の森? 水木?
どこにでも。
手塚高校の学園祭では、この映画が作られた年に生まれたはずの鉄腕アトムも彼らを見守っていたし!

☆☆☆DVD『ロスト・イン・トランスレーション』

スカーレット・ヨハンソン Scarlett Johansson は、『真珠の耳飾りの少女』☆☆☆で演じた少女とはまったく異なる人物をとてもうまく演じている。

最後の場面がいい。
ほんの少しだけ、けっして「救い」なんかじゃないけれど、「コレハ突キ放シデハナイヨ」という監督のメッセージのようなものが、かすかに聞こえてくる感じがした。

背景に描かれる東京や日本は、笑える。
っていうか、それ以上に、哀しい。

これはでも、距離をおいて Japan をからかっているというより、彼らこそが、普段、まさにそういう悲喜劇的な世界に生きているんだ、といってるようにも受け取れる。
つまり、ここは「異国」じゃない、っていうか、どこにいてても「異国」かもよ、と…。

人と人の間には「翻訳のずれ」しか存在しないのが、フツウだってことかな。
心の通い合いは、この日常の世界においては結ばれることのできない二人に偶然訪れた。
生活というかたちでは、それは結ばれることのないものだったけれど、それは確かにあったのだ。

それを彼らは「恋愛」だと勘違いしないし、できない。
でもそれは、絶望というものでもない。
だから、死なないでいい。
孤独な魂たちは、確かにふれあったのだから…。

なんてね。

『LOST IN TRANSLATION』、2003年、米・日、ソフィア・コッポラ Sofia Coppola 監督作品。

☆☆DVD『ディボース・ショウ』

ロマンティック・コメディなんだけど、ちょっと大味&大げさ。

離婚専門の凄腕弁護士と富豪との離婚で財産を狙う美女とが、手練手管を繰り出しての騙し合い。
やがて二人は…。

ジョージ・クルーニー George Clooney の演技は、漫画っぽく誇張されすぎてて、カッコよさ減。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ Catherine Zeta-Jones は、さすがにキレイだけど、それだけ。

コーエン兄弟監督、『オー・ブラザー!』☆☆☆は、よかったけどネ。
もそっと、笑わせておくれ〜!

原題は『INTOLERABLE CRUELTY』、2003年、米、ジョエル&イーサン・コーエン監督作品。


41 1/30-2/5号

☆☆☆☆DVD『モンスーン・ウェディング』

いい映画を見ました。
インド映画を久しぶりに観たのですが、これはお薦めできます。
華があって花もあって、唄って踊って、とにかく楽しい。
ノリノリで活力のある音楽も最高!!

見終わって幸せーな気分になれます。
結婚式といえば『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』☆☆☆も面白かったけれど、それ以上によかった。

変化に向けて前向きの映画。
正しい選択への決意と勇気の映画。
だからラストの結婚式も、それがゴールじゃなくて、ここからがスタートなんだって素直に思える。

僕もこの映画に出てくる人物たちのように、勇気をもって決断して、変化に向かって進んでいきたいなぁ。

『MONSOON WEDDING』、2001年、印・米・仏・伊、ミラ・ナイール Mira Nair 監督作品。

☆☆☆DVD『パッション』

イエスの肌が白い。
皮が割けて、肉が引きちぎられて、出てくる血が赤い。

不謹慎ながら、美味しいパンとワインが欲しくなる。
それにチーズがあれば、言うことないんだけど…。

映画に戻りましょう。

十字架が実に重そう。
ゴルゴタの丘までの道のり、遠い。

構図が同じだから?
美術館や画集なんかで見たことのあるキリスト教がらみの絵画を思い出す。
ここも見たような。
あ、これも。

それにしても、しんどい。
「すべて」の人間の罪を背負うなんて、しんどすぎる。
のだろうけれど、そのしんどさが人に伝わるようでは、それは神の子のしんどさではないのだろう。
神に見放されつつ、自分を殺そうとしているものたちのために、その神に祈ること。
だから、この映画を見ても、イエスの辛さなんか、わからん、というのも、それはそれで正しい反応なのかも知れない。

これまでに見てきたイエスのイメージと比べると、この映画のイエスの身体に脂がつきすぎているような気がしたけれど、あれは(事実そうだったという)そういう解釈なのだろうか。
キリスト教についても、その歴史的な背景についても、よくは知らないまま、勝手な印象だけを言うと、人間の愚かさは、いやになるくらい出ていた。

イエス・キリストの受難と死を意味する言葉をタイトルにした映画だから当然?
人間の「良さ」は、せいぜい「迷い」くらいだったかな? という印象である。
イエスの強さが、神の子の強さであり、人間の強さでないとすれば。

『THE PASSION OF THE CHRIST』、2004年、米・伊、メル・ギブソン Mel Gibson 監督作品。

☆☆☆DVD『モナリザ・スマイル』

教えているつもりで、じつは学びきれてないことって、たーくさん、ありますねー。
そのひとつが、自分の目で見、自分の頭で考える、ということ。

1950年代のアメリカ。
全米で最も保守的な女子大、ニューイングランドにある名門ウェルズリー大学に新しい女性教員がやってくる。
ここにでてくる女子大生たちは全米でも有数の「できる子」たちだ。
相手がドクターであろうが、んなもん関係ねぇー。
自信がもてずにおびえている新任の先生をズケズケと値踏みし、なるだけ早く見くびってしまおうって。
それが何より効率的で経済的だから。

そしてなるべく早くに結婚することが彼女たちの理想。
あとはお得意の「優秀さ」でもって、世間が望む妻や母を演じるのだ。

自分の目で見て、自分の頭で考える。
これは相当にムツカシイ。

ワトソン先生は美術史の最初の授業で、すでに教科書を丸暗記してしまっているほとんどの学生たちに圧倒される。
けれども先生もスマートである。
自分の目で、目の前にいる自分の学生たちを見るのだ。
だから、くじけたりしない。

先生は自分がもっているイチバンの「よさ」に気がつく。
それだけではない。
彼女たちの「優秀さ」が見ようとしないものにも、ちゃーんと気づくのだ。
そしてそれを今度は彼女たちに気づかせていく。
彼女たち自身の目で、頭でもって。

うーん、それでこそ教師ですねー。
もちろん情熱だけでなく、スキルも大切。
あの時代であんなにオーディオ&ヴィジュアルかつ現物体験的な講義?
これは見習わねば。

え? 彼女たちは何に気がついたかって?
それは見てのお楽しみに。

『スパイダーマン』☆☆☆のキルスティン・ダンストや『セイブ・ザ・ラストダンス』☆☆☆のジュリア・スタイルズが、50年前の女子大生を熱演しているのを見るのも楽しかった。
それからマイク・ニューウェル監督って、イギリスの人だったんだ、あの『フォー・ウェディング』☆☆☆の。

『MONA LISA SMILE』、2003年、米、マイク・ニューウェル Mike Newell 監督作品。

☆☆☆BOOK『信長』,秋山駿,新潮文庫,99/12(親本は96/3)

古い本ということになるのだろうか。
近所のレンタルヴィデオやさんで、雑誌を立ち読みしていたら、フランス文学者の鹿島茂氏が参加している対談があり、そこでお薦めの伝記・評伝が紹介されていて、そのなかにこの本があった。
前から知っていて、気になってもいたので、早速買って帰った。

『秋山駿批評T〜W』をじつは僕は持っていて、でもあまり熱心な読者ではなかったから、なんとなく秋山氏に悪いような気になっていた。
これで気が晴れた。
氏の最高の仕事がこの本なのかどうかは分からないけれど、力のこもった作品に間違いはない。
とにかく僕にとっては、今まででイチバン読みやすかった。
(それでもスイスイとはいかなかったのだが)

以前、フロイスの『日本史』でもふれたように、信長には関心がある。
秋山氏は、信長という人間をどう見ていたのか、知りたいところだ。
小林秀雄に対しても、批評というものに対しても、大変素直な姿勢で向かいあっているな、というのが第一印象。
信長という、やはり普通ではない人間を、特にその精神を、なんとか全身全霊でもって掴もうとしている。

戦国時代とは、いったいどういう時代だったのか。人々が、己れの力の限りを尽くして、新しい時代を切り拓こうとしたときだ。ここで時代といったのは、人間生活の全部という意味でだ。
要するに、一人ずつの者が、自分の力に賭け、器量に賭けて、あらゆることを試み、実験し、新しい生の形、また新しい生の地平を索めて、右往左往したときだ。(四)
偉大な将帥の本質とは何であろうか。それは、理想を、己れの精神の内奥の秘密と化し、己れの日常の生の波動と化している人のことだ。戦術の巧妙とか戦術眼の確かさなどは、佐官クラスの器量に過ぎぬ。(三十四)

秋山氏は、他人をダシにして自分を語ろうとはしていない。
それでもやはり、書くものにはその人間が出るものだ、と思う。
古今東西の書物からの引用は、はっきりいって、かなり強引だ。
しかし、これくらいの「引水」がないようなら、「我田」もまたないのだ。

こういう無理矢理には、なぜかむしろ爽やかなものを感じる。
僕にとって信長は依然として謎であるが、秋山駿の格闘は明瞭だ。
そして闘いの激しさというようなものはない、激しい闘いがあるだけだ。
(って、これ、小林秀雄の下手な口まねネ)


40 1/23-1/29

☆☆☆DVD『殺人の追憶』

韓国のとある農村。
1986年から91年の6年間に10人の女性が殺された。
取り調べを受けた容疑者の数3000人、動員された警官の数180万人。
だが、犯人はまだ捕まっていない。
映画は、韓国で実際にあったこの未解決の連続殺人事件をもとに作られている。

自らの「勘」を頼りに、強引に事件を解決してしまおうとする、2年制大学出の土臭いパク刑事(前近代?)。
彼が勤めているのは、別件逮捕、拷問、でっち上げ、何でもありの田舎の警察署。
今から見れば、とんでもない、と思う人がいるかも知れないが、こういう「やり方」というのは、この当時の韓国の田舎に「あった」だけじゃなく、そう遠くない日本にも「あった」だろうなと思わせる(さすがに、今はもう近代国家には「ない」と信じたい思いだが)。
そんなところに、大都会ソウルから客観的データをもとに合理的に捜査を進めようとする4年制大学出のスマートなソ刑事(近代?)がやってくる。
上司は入れ替わるが、当然のごとく、ふたりは啀み合う。

誤認逮捕、拷問、釈放の連続から、反発し合う彼らは、懸命の捜査の果てに、しかしようやく犯人らしい人物を絞り込み、ジリジリと追いつめていく。
しかし、たとえ訓練であれ、空襲警報が鳴らされ、実際に灯火管制さえ強いられるような「時代」もまた彼らには味方しない。
機動隊は体制に反対するデモの鎮圧のために出払っていて協力を得られず、予想された事件さえ防ぐことができないまま、殺人は次々に重ねられていく。
クールだったはずのソ・テユン(キム・サンギョン)も、ついに私情から容疑者を射殺しそうにまでなるが、今は苦楽を共にする「仲間」としてつながりを意識しつつあるパク・トゥマン(ソン・ガンホ)が、彼を必死で止めるのだった…。

アップでつながれていく様々な人々の「顔」に、人間という動物の抱える「闇」が浮かびあがる。
そして、「雨」や「列車」を映しながら、それでいて犯罪の、個人的ではない「背景」を描き込んでいくポン・ジュノ監督の手腕は見事である。

この社会派サスペンス映画は、稠密な心理劇でもあり、重く深刻でありながら、ユーモアもしっかり詰まっていて楽しめる。
それにしても、もう一度ソン・ガンホの、土手を飛び降りながらの、あのドロップキックを見てみたいなあ。

☆☆☆☆VIDEO『家族の肖像』

堪能!!!
でも、何度でも見たくなるような映画だ。
そしてここにも「68年」が出てくる。

コンラッドという青年は「68年」にコミットしたためにフランスには入国できない身の上になってしまった。
刹那的に、頽廃的に生きる以外に道をみつけらない若者。
闖入、そして寛容と応答。

教養のない人間のくず。
君たち若者とは接点がないと語る老教授はそれでも彼らと「かかわる」ことになる。
彼らはいったいどのようにして「家族」となるのか。

コンラッドは自殺する事で
最後の言葉を伝えたのよ

私達を永遠に罰するなんて残酷だわ

でも彼が学ばなかった事があるわ
私達は彼を忘れるわ

私達は忘れるわ

彼はこのしたたかな処世術を
学ぶには若すぎたのよ

悲しみなんて
いつまでも残ってないわ

その母親の言葉を信じるなと娘はいう。
おそらく教授にはわかっている。

彼を少しでも信じたのは先生だけ…
彼が死んでも 彼を見捨てないで

さてさて、「家族」っていったい何なんだろう。

原題は、伊・仏でそれぞれ『 GRUPPO DI FAMIGLIA IN UN INTERNO 』『 VIOLENCE ET PASSION 』。
英語では『 CONVERSATION PIECE 』
そういえば、この題をつけた日本の小説があるけど、まだ読んでいなかった。
読んでみよっかな。

(ルキノ・ヴィスコンティ監督、74年、伊・仏、78年公開作品)

☆☆☆VIDEO『地獄に堕ちた勇者ども』

力のあるものには屈しなければならない。
これが生き延びようとするものの定めである。
媚のひとつも売らなければならない。

誰が、どのようにして生き延びるのか。
献金もしないで、のうのうと事業を続けることはできない。
突撃隊か親衛隊か。

手を汚さずに、金儲けを続けることはもはや許されないのだ。
いずれの相手に未来を預けるべきか。
誰が判断し、どのように実行するのか。

1933年、ドイツの鉄鋼王である男爵エッセンベックの一族は、まずは男爵を殺害することから、その破滅の道への第一歩を踏みだし始める。

男爵の子息の未亡人ソフィ、彼女の愛人で総支配人のフリードリヒ、
ソフィの息子マルチン、男爵の従弟で親衛隊幹部のアシェンバハ、
突撃隊幹部で副社長の甥コンスタンチンとその息子ギュンター、
男爵の姪エリザベートとその夫ヘルベルトと彼らの娘二人。
これが一族である。

アシェンバハはフリードリヒをそそのかしてエッセンベックを殺害させ、国外に逃亡させたヘルベルトにその罪を着せる。
コンスタンチンは実権を奪われ、失地回復をたくらむが「血の粛清」のなかで射殺される。
アシェンバハは今度はヘルベルトやマルチンを利用してフリードリヒの殺人を暴き、純真なギュンターまでをナチに引き入れる。
母ソフィへの愛憎に苦しむマルチンはついにその母を犯し…。

ヘルベルトの娘たちがダッハウ収容所から帰ってきたのは救い?
ソフィ役のI・チューリン、マルチン役のH・バーガーの演技がそれぞれすばらしい。
そしてS・ランプリングやR・ベルレーが、なんとも若い。

原題は、英・伊・独語でそれぞれ『 The Damned 』『 La Caduta degli dei 』『 Goetterdaemmerung 』
「神々の黄昏」は日本では80年公開の『ルートヴィヒ』のサブタイトル。
ワーグナーのオペラ「ニーベルンクの指輪」が素材。
(Luchino Visconti 監督、69年、伊・独・瑞)

☆☆DVD『中国女』

67年制作のジャン・リュック・ゴダール監督作品。
「68」年とそれ以後を「予言」した?

5人の若者の共同生活。
哲学科の女子学生、俳優、経済研究所員、画家、農村出の元売春婦。
議論議論議論議論議論。

あくまでもチックに、戯画的に。
黒板、ラジオ、玩具。
暗殺の提案、反対者の除名、暗殺志願者の自殺。

偶然出会ったフランシス・ジャンソン教授。
教授による中止の説得。
何のための暴力か。

暗殺の決行、無関係な人物の殺害、暗殺の再決行。
そして共同生活の終わり。
それは何かの始まり?

字幕を消して、音声も消して、もう一度最初から見てみるとしよう。

☆☆☆☆BOOK『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』,松浦寿輝,新潮社,2004/11

松浦寿輝が小説を書くようになるまでは、彼の本が出たらまずは買っていた。
彼は詩人であり、批評家であり、研究者であった。
そしてそのほとんどを読んできたが、一度もハズレと思ったことがない。

松浦氏の小説が本になったものも半分くらいは買っていると思うけれど、読んだのはそのまた半分くらいだろうか。
その頃はとくに小説に気が向かなかったので、彼のというより小説の読者ではなかったのだ。
そういう傾向はじつは今もそうなのだが、それでもこの本は題名からして僕を引きつけるものがあった。

黒ずくめの本。
買ってすぐに出鱈目にページを開いて読み出した。
それは『逢引』という題の短編。
同じ題名の詩があり、それを書いて死んだ男とその「愛人」であった男(語り手)がでてくる。

自分というものが、どんなふうにしてできあがったのか。
今のこの自分は、過去の自分とどう付き合い、どう別れるのか。
謎の女と死んだ詩人の「愛人」であった詩人との電話による会話、語り手の回想から浮かび上がるのは、「過剰なうるおいの感覚」であり、「みだらな不幸」だ。

たとえば、幾つ目かに読んだ『ゆうすず』は、最初から二つ目に並べられている短編だが、18頁から次のように始まる。

上野広小路の裏道のすし屋を出て、人通りの多い春日通りの舗道湯島天神の方に向かって歩き出したときはもうあたりに夕闇が広がり、行き交う自動車のライトも点きはじめていた。男はかなり酔っていた。一歩一歩足を踏みしめるようにして辛うじて真っ直ぐに歩を運び、ああこうしてだんだん暗い方に引き寄せられていくな、俺はひっそり沈んでいくんだなとふと思う。

そして、こんな言葉が出てきて、そうだそうだと思ってしまう。

日本でも外国でも、ずいぶんいろんな町でこんなふうに夕闇の中を歩いてきたなと、吐息をつくようにして男は考えた。人の姿が影法師のように見えはじめる時刻の影の多い街路を気の向くまま、こちらに折れあちらに折れしながらうっそりと歩いてゆく。そんなときにはいつでも酔っていたように思い出されるのは、これは記憶の詐術で、ただそんな気がするだけのことなのだろうか。

男はマレーシアの田舎町バーで酔ったことを思い出したあと、前を歩く女のハイヒールの足首を見て、先ほどのすし屋で隣り合わせた客の言葉を思い出す。
その客は「ひかがみのきれいな女」の話をしたのだ。
そして男は誰もいなくなった静寂のなかをまだ歩き続けていて、結びの23頁がくる。

ゆうすず。そんなみやびな平仮名の言葉を男は思い出した。夕涼みのことか。夕べの涼しさのことか。いや、それはむしろ、夜になっても滞りつづける暑気の間を縫うようにひとすじ流れてきて、人の首筋をさわさわと撫でては消えてゆく、こんなふうなひんやりしたものたちのことなのではないだろうか。「眠る前に、何マイルもの道のりがある」とそっと呟いてみる。と、聞こえるか聞こえないかというほどの残響がルフランになって心の中に谺した。

男は「どこかで飲み直そうと思いながら本郷三丁目に向かう坂を登って」いく…。
引用されているのは、アメリカの詩人ロバート・フロストの詩「雪の夜、森のそばに足をとめて」の一節である。


39 1/16-1/22号

☆☆☆DVD『明日、陽はふたたび』

これは亀裂とその修復の映画です。
知らなかったのですが、1997年9月26日にイタリアで「アッシジの大地震」というのがあったそうです。
アッシジは、聖フランチェスコの生没地。
有島武郎のからみもあって、かつて訪ねたことのある非常に美しい町で、とても気になりました。

そのアッシジがあるウンブリア地方のカッキアーノという名の架空の町(カンパニア地方に実在する町とは別)がこの映画の舞台。
ロケ地は、アッシジから30キロほど南東にあるセッラーノという町で、実際に壊滅状態の被害だったらしい。
地震で壊れたこの町を人々がそれぞれに生き抜いていく姿を描いた作品です。

特典映像によると、女性監督フランチェスカ・アルキブージ(女優さんみたいにきれいな人です)は、被災地の子供たちの文集からヒントを得て、ニュースなどで作り上げられた一面的なイメージとは違う、現地の人々の様々な「現実」と、それに対する様々な「対応」を伝えたかったようです。

住民は、避難してテントなどでの共同生活を始めます。
それはそれで子供たちにとっては楽しい体験です。
ですが、大人たちは失意の中、日々の生活をそれぞれに営んでいくのです。

小学校に通う少年アゴスティーノの家は、ローンを2年残したまま取り壊されることになりました。
今はキャンピング・カーに別の家族(老母と息子)を迎え、彼らとの「同居」生活を強いられています。
副町長である彼の父は町の再建計画に忙しく、一戸建ての持ち家での生活を夢にしていた妻(オルネラ・ムーティ)との間に溝ができています。

クラスメートの少女2人はアゴスティーノをめぐって友情にヒビが入ります。
フレスコ画の傑作アンジェリコの『受胎告知』の損傷を修復する英国人アンドリューは、仕事に夢中になるあまり、排卵誘発剤を飲んでまで子供をほしがる妻の気持ちが理解できないのです。
やがて仮設住宅が完成し、アンドリューは、唇に亀裂の入った女性教師ベティと同棲し始めるのですが…。

何度も襲いかかってくる余震に怯えながらも、人々はそれぞれの生活を強く生きていきます。
オルネラ・ムーティが家の外に働きに出たことがない、しかし自分をしっかりと持った中年女性を好演しています。

☆☆☆DVD『恋愛適齢期』

大人が楽しめる喜劇。
恋愛に適齢期なんて、実はない。
これがこの映画のメッセージだろうか。
昔から好きだったけど、それにしても、ジャック・ニコルソンはいい役者になりましたねー。

ハリー(ニコルソン)は63歳、独身の遊び人で、30歳以下の女性としか付き合ったことがない。
その彼が、ガール・フレンドのマリンと週末を楽しもうと、海辺にある彼女の母親の別荘にやってきた。
しかしそこには滞在していないはずの彼女の母親エリカ(人気劇作家でバツイチの54歳)がいて…。

笑顔から泣き顔まで、溌剌とした演技で爽快なエリカ役のダイアン・キートンは、この映画で数々の主演女優賞を受賞しているが、それも肯ける。
結婚に失敗して、他人に頼らず、距離をとりながら、何とか自分だけで生きられるようにと努力してきた彼女が、自分の愛に気がついてしまう。
その「現実」に対して正直に向かい合おうとするエリカは、自分に言い聞かせるように、泣きながら、娘に対して「傷つくことを恐れてはいけない」と助言するんだけど、これが印象的。

これまでの生き方を反省したエリカは、これからは変化に向かって恐れずに生きようとする。
それは危険に向かっていくということ、危険を抱えるということ。
そういう姿勢をさらけ出してのアドヴァイスだから、マリンのほうも素直に聞けてしまう。
もちろん、それを聞いたからって彼女もすぐにそうできるってわけじゃないけどね。

キアヌ・リーヴスは、エリカを恋い慕う若い医師役で出ていて、これがもうプッと失笑してしまうくらいに「理想的」な男。
それでも、その振る舞いのスマートさは、これだけ頭がよいと、女性にもてないわけにはいかない、と思わせるに十分。
この映画を一緒に見たわが同居人は、ルンルンとばかり、早速キアヌ主演の別作品を2本も借りてきて、以前はあれほど腐していた『スウィート・ノヴェンバー』☆☆についても、「もう一度見直してみようかしら」などとノタマワっておりました。

原題は『SOMETHING'S GOTTA GIVE』。2003年・米、2004年公開。

☆☆☆DVD『リリィ』

『8人の女たち』☆☆☆の次女役が可愛かったリュディヴィーヌ・サニエ(『スイミング・プール』☆☆☆でも微妙な年頃の女性役を熱演)が、この映画では田舎の少女からパリの女優へと変身する主役のリリィを、好演しています。
魔性の女というよりは欲望の女といったところでしょうか。
オープニングの自然を撮した映像が素晴らしく美しい。

舞台はフランスの田舎町。
青年ジュリアンは映画監督になることを夢に自主制作をしている「まっすぐ」な男の子です。
彼は恋人のリリィを主演にして撮った作品を身内に披露するために上映会を開きますが、母親に酷評されて切れてしまいます。
リリィは子供っぽいジュリアンを見限って、彼の母親の恋人で映画監督であるブリスを誘惑し、二人で駆け落ちしてしまいます。
4年後、女優として成功しているリリィは、ジュリアンが自伝的映画で監督デビューするという話を聞いて・・・。

原作はチェーホフの戯曲『かもめ』(だけど、後半は少し違うストーリー)。
原題は『LA PETIT LILLI』。2003年・仏、クロード・ミレール監督作品で、劇場公開はされていません。

☆☆DVD『キル・ビル2』

もちろん『キル・ビル』☆☆☆とは別の映画ですよ。
わかってますよ。

わかってますけど、それでも前作のほうが楽しめたかな。
速い展開をどうしても期待してしまってるんでしょうね。
焦らされすぎて、イライラ。

好意的に見れば、バド(マイケル・マドセン)やエル(ダリル・ハンナ)といった人物がしっかりと描き込まれていて、それぞれを格好良く見せる場面もちゃんと用意してある。
それらが光沢を感じさせる画面の色調にぴったりマッチしていた。
ただ、その昔を知るデイヴィド・キャラダイン(ビル役)については、やっぱカンフーを披露して欲しかったナ。

エンディングの『怨み節』(唄:梶芽衣子)は、やっぱりなかなかのもの。
この曲を初めて聞いた十代の同居人が、すぐに覚えちゃって、しばらくはハミングしてたくらい。

☆☆☆BOOK『心は転がる石のように』,四方田犬彦,ランダムハウス講談社,2004/12

エッセイを読む愉しさを満喫。
見聞があって、蘊蓄があって、洞察があって、さらに思考への誘いがある。

四方田氏はかつてソウルに、ニューヨークに、ボローニャに住んだことのある人。
2004年はイスラエルのテルアヴィヴに数ヶ月滞在していたとか。

この本に集められているのは、ウェブマガジンに連載されていたものが多い。
世界を駆け回って移動し続けている人にふさわしい軽快さ。
といって重い主題がないわけではない。
僕のアンテナに引っかかったのは、たとえば次のような話題。

自己表現としての投石について。
鉄腕アトムと差別について。
ブランショによる知識人の定義について。
知的探求の最前線について。
男たちの仕打ちに由来するルサンチマンとしての魔女の呪いについて。

批評の消滅について。
「こっそり読みたい禁断の日本語」について。
白土三平と茸について。
小学校と民俗学的想像力について。
朝顔とマニエリスムについて。

世界の中心とスーヴニールについて。
ナーレントゥルムと自己同一性について。
傷痍軍人の国籍と管理社会について。
映画における犠牲者の語られ方について。
ヨーロッパのイスラム化について。

バースデイ・セイントと聖地について。
サイードとレイト・スタイルについて。
イスラエルと女子の兵役義務について。
北朝鮮とイスラエルについて。
アラブとキリスト教について。


38 1/9-1/15号

☆☆☆DVD『パンチドランク・ラブ』

このタイトル、「強烈な一目惚れ」を意味するらしい。
ポール・トーマス・アンダーソンって、あの『マグノリア』☆☆☆の監督といえば、映画の感じがわかるだろうか。
他のどんな映画にも似ていないという点では、似てるかも。

アダム・サンドラー演じる青年バリー・イーガンは、7人もの姉たちから常にいたぶられている。
そのせいもあってか、彼はプリンを大量に買い込んでマイレージを貯め込もうとするような、ただ変わっている人物というだけではなくて、不意に逆上してマジ切れにキレてしまう男でもある。
そこにマリア様のような?バリーを愛で包み込む不思議な女性リナ(エミリー・ワトソン)が現れる。

彼女と知り合う直前、バリーはエッチなテレフォン・サービスを利用していて、それで相手に脅されてお金を取られたり、チンピラどもに襲われたり。
でも、リナを知ったバリーは心を入れ替えて、ヤバそうな男たちにも敢然と立ち向かうのである。

まさしく暴発という感じの暴力の描き方がうまい。
そしてフィリップ・シーモア・ホフマンが、ここでは強請屋のコワーイ男を好演していて、ほんとにヒヤヒヤしてしまったけど、最後はすんでの所でおさまってホッとしました。
彼は『マグノリア』にも『25時』☆☆☆にも出てたけど、どっちも気の弱そうな男だったけどねー。

それから、『ブリジッド・ジョーンズの日記』☆☆☆あたりからでしょうか?
人間、ありのままでいいんだよ、っていうのは。
最近の流行のようですね、どうも。

ハワイの場面が印象的。
タイトルや合間に挟まるサイケな映像も秀逸でした。
ちなみに、ヘルシー・チョイス社のプリンを合計12,000個以上購入し、マイレージを125万マイル分貯めた“プリン男”が実在するんだそうである。

☆☆☆DVD『スーパー8』

DVD『SUPER 8』(AFD-10257)を借りて見た。
あの『アンダー・グラウンド』☆☆☆を撮ったエミール・クストリッツァ監督が、ギター奏者として参加するバンド、 ノー・スモーキング・オーケストラのヨーロッパ・ツアーを記録したライブ映画だと聞いて俄然興味が湧いた。
それにしても、いろんな音楽をミックスしたウンザウンザってどんなリズムなんだ?

期待に違わず、ジャズやジプシー音楽、クラッシックまでが?ゴッタ煮になったようなウンザウンザのノリノリのライヴだけでなく、ツアーでの移動の様子、 リハーサル風景、 メンバーそれぞれへのインタビューなど、この音楽ロード・ムービーは見所が多い。

この映画そのものが1回の公演のような構成になっていて、アンサンブルあり、ソロあり、そしてもちろんアドリブもある。
流暢に英語を話す出演者たちには、自分たちの作るものをより良いものにしていこうとするガッツと直向きさがあり、何より陽気さ&ユーモアがある。
そして映画は(音楽も)、その彼らの笑顔の裏側に張りついて離れない人間の悲しくて暗い「歴史」をも映し出している。
(2002年・伊&独)

☆☆☆DVD『荒神』

面白かった!
『ゴジラ ファイナル ウォーズ』☆☆☆が意外に楽しめたので、同じ監督の作品を見ておこうと思って『Versus』☆☆と一緒に借りてきた。
全部で5人くらいしか人が出てこなくて、ほとんどが2人のやりとりで、それでも退屈しないで、最後まで見ていられるんだからスゴい。
カメラワークとユーモアがいちばんの見所でしょうか。

荒神役の加藤雅也は、何百年生きているのか、松田優作ふうの投げやりなしゃべりが、生きるのにモー飽きタッて感じがよく出ていて、しかしそれがだんだんに変わっていって、しまいには関西訛りまで出始めたりするのも面白い。
一方の大沢たかおは、自分を助けてくれたのが人間ではなく、うち負かして殺して欲しいと思っている存在であるという「現実」を受け入れるというムツカシイ役を熱演している。
役どころとはアンバランスな、全然強そうに見えない顔と声の取り合わせも可笑しい。
彼は荒神に敗れて一度は死に、もう一度別の存在として(新荒神?として)蘇り、当て所のない生を生きることになるのだが…。

☆☆DVD『Versus』

これも北村龍平監督のユーモア作品(2001年公開)。
ちょいともたついた「つなぎ」が2度ほどあって、そこだけは全体にあるスピード感を殺いでしまってるけど、それ以外は軽快に楽しめる。
大量の血液が流れ、腕が落ち、脚が千切れ、腹に(顔にも)穴があきますが、とにかく笑えます。


37 1/2-1/8号 ←これ、お正月には更新できそうにないので、36の掲載と同時に、載せてます。

☆☆☆DVD『ヴァンダの部屋』

リスボンには以前、1週間ほどだが、滞在したことがある。
旧市街はそれほど大きくはなく、少し頑張れば歩いて回れなくはない。
もちろん地下鉄やトラムやフニクラも使ってだけど、とにかくあちらこちらとよく歩いた。
求めるものはテージョの流れであったり、ファドの響きであったり、イワシの焦げる匂いであったり、敬愛する詩人フェルナンド・ペソアの足跡であったりした。

コメルシオ広場、サンタ・ジュスタのエレベータ、ロシオ、レスタウラドーレス、バイシャ、バイロ・アルトのシアード、アルファマ、サン・ジョルジェ城、少し足を延ばして北にエドゥアルド7世公園、東にはマドレ・デ・デウス教会、西にはジェロニモス修道院、ベレンの塔などなど。

そういえば、モラエスの家(Casa de Venceslau de Souza Moraes)も、レスタウラドーレス北側にあるフニクラで坂を上がって、さんざ苦労してやっと探しあてたのだった。
ラフカディオ・ハーンは今でもよく取り上げられるけど、ヴェンセスラウ・デ・モラエスのほうはついつい忘れられがちである。

さて、リスボンのスラム街フォンタイーニャス地区。
こんなところがあったんですね。
ペドロ・コスタ監督(ポルトガルの人、ヴェンダース『ことの次第』☆☆☆の助監督をしていたこともあるらしい)は、そこにカメラを持ち込んで一人の女性の日常を記録していく。
コスタ監督は、1997年に劇映画『骨』(未見)を製作していて、そのときの主役ヴァンダ・ドゥアルテの日常を、デジタルカメラで、少人数のスタッフで、2年をかけて追っている。

アフリカからの移民が多く暮らすこの地域は、再開発のために今にも取り壊されようとしていた。
たまに行商に出る以外は、自分のベッドからほとんど離れようとせずに麻薬の吸引にふけるヴァンダは、その影響であろう、激やせに痩せていて、咳も出だしたらなかなか止まらない。
彼女のけっして広くない範囲の生活が深い闇に浮かぶ。
フェルメールのような淡い光が差し込んだり、重力そのもののようなブ厚い日差しにさらされたり。
深い深い生活の根というようなものが、画面に漂いはじめる。

父親を決して許さない、とヴァンダは言う。
そして、母親のためだったら、どんなことだってやる、と。
画面に映る人間のうち、この母親だけがまともな人間に見える。
まともな人間のまともな苦悩は、しかし演出されることはない。
カメラは非人情に徹している。
ただ娘と娘を取り巻く人間たちの生活が、淡々と映し出されるだけだ。

彼らの多くは、世界に対して甘えているだけのようにも見える。
が、そういう個人的な問題というだけではすまされない問題が、やっぱり背後にあるのだという感じが、強くする。
そしてそれもやはり、怒りのようなものとして演出されるわけではない。
ほとんど起伏のない、絶望に近い現実(そして音)と編集の力(そして音楽)だけでそれを感じさせている。

編集の力、と書いて、先日目にした記事を思い出した。
季刊誌『InterCommunication』51での鵜飼哲と佐藤真との対話である。
(佐藤真はドキュメンタリー『阿賀に生きる』を撮った人である)
鵜飼氏はデリダを参照しながら、次のように言う。

「証言」が「証言」であるためには、それを「証拠」にしたいという誘惑に抵抗しないといけない。
しかし反面、「証言」を「証拠」に類したものにしないかぎり、歴史の生産は成り立たない。

それを受けて佐藤氏は次のように述べていた。

映画のなかの証言というのはキャメラとかスタッフがいる環境のなかで作られていくわけですが、その話が魅力的に輝く瞬間というのは、話のなかにある種のフィクションが混じり込んだ瞬間なんです。・・・(中略)・・・
映像自体に証言能力があるとしても、例えば一つのフレームを切った段階でフレーム外のものは排除しているわけで、そこには「焦点化」という意図と、周縁・背景になった、絵に隠された部分があるわけです。
いくらキャメラがパンしようが何しようがそこにはフレームがある。
ときにフレームは権力でもあるし、差別でもあるし、また常に排除でもあるわけです。
しかもそのフレームに入ってきた人間は何らかのかたちで演劇的にならざるをえない。

『ヴァンダの部屋』に戻ろう。
コスタ監督は、鵜飼氏や佐藤氏が指摘しているジレンマには十分に自覚的である。
そのうえでこの映画は、たしかに何かに耐えている。そう思わせる。それは何か。
そしてこの映画を見ている僕らは、いったい何に耐えているのだろうか。
どちらも簡単には答えが出ない。

真に絶望しているものたちにだけ、希望というものはある。
こういう意味のことを書いたのは、たしかゲーテの『親和力』☆☆☆を論じたベンヤミンである。
ヴァンダとその仲間たちに、希望はあるのだろうか?

☆☆☆DVD『カレンダー・ガールズ』

英国のカントリーライフにふれたい人には、田舎の自然と暮らしがたっぷりのこの作品がお勧め。
おまけにたくさんの女性のヌードまで見れてしまいます。
急いで付け加えますが、中高年の、ですよ。

婦人会主催の毎月の教会での講演会。あーあ、退屈。
刺激に乏しいヨークシャーの田舎町に暮らす中年女性クリス(ヘレン・ミレン)が、白血病で夫を亡くした友人アニー(『リトル・ダンサー』☆☆☆の先生役ジュリー・ウォルターズ)を励まそうと一案を講じます。
それはなんと自分たちがヌードになってカレンダーを作ることでした。
彼女たちは、イギリスはもとよりアメリカでも話題になり、ハリウッドに招待されるまでに・・・。
有名で人気者になったグループやチームにありがちな仲違いを経て、やがて周りの人々の力もあってクリスとアニーは仲直りをします。

この映画は実話をもとにしていて、カレンダーは1999年に発売され、30万部ものセールスを記録したそうな。

オトコたちがそれぞれにいい役どころを演じているのも、この映画の魅力です。
ユーモアがあり、包容力があって、でも、とてもシャイな男たち。
彼らの人間としての肯定的な部分も余すところなく描かれていますから、中高年女性たちの勇気や友情が主役のこの映画を見ていても、男である僕が落ち込んだりすることはなかった。
「オトコ」をやってるのも、そう悪くはないな、と思わせてくれる映画でもありました。
(2003年の作品で日本での公開は04年5月)

☆☆DVD『リベンジャーズ・トラジディ』

喜劇でしょ、これ。アレックス・コックス監督作品。
欲ボケ人間のダーティなところをこれでもかって見せて、それでもそんなモン笑いで吹き飛ばそうぜ、ってノリの映画。
SFチックかつ古典舞台劇パロディ風。「チック」や「風」のところに力点がある。
悲劇も二度目は喜劇でしかない。それは十分に意識的。
話の筋にどう関係しているのか、不明だけど、バスのシーンが印象的で美しい。

男の登場場面が実にかっこよくて、アクションのある続きを期待してしまったけど、身体はそこまで。
髑髏が出てきてからは、欲望や執念、そして何より言葉がむしろ主役。
マシンガンのように言葉が打ち出され、それを音楽のように聞いてるうちに映画は大団円まで一気に駆け抜けていく。

ラストはもうすでにドラマが終わっているからだけど、あっけないというか、あっさりし過ぎでは?と思えるくらい。
それだからイッソウ虚しい感じが追い打ちのようにきて、それがねらいなのかな。

☆☆BOOK『アフターダーク』,村上春樹,講談社,2004/9

今年度は校務分掌として図書館関連の仕事をしている。
そのせいで図書館にはちょくちょく足を向けるし、新着本の貸出状況なんかも気になるところだ。

新着書棚に並べられてから2週間くらいにはなっていただろうか。
いつもはよく借りられている作家の作品なのに、まだ借りられていなかった。
本に呼ばれているような気持ちになって(もちろん勝手にだけど)、借りてみた。

不安になるくらい何の抵抗もなくスイスイ読み進めていける。
いいのかな、いいのかな?っていうささやきが、どこからか聞こえてくる。
文字の連なりから目を離してあらぬ方向に顔を向けてみる。

車窓に長く伸びた自分の顔がぼんやりと映っている。
車内は蛍光灯の光が眩しいくらいだ。
目の前の窓に映っている灯りが、窓の向こうにあるものなのか、それとも背中にしてる窓からの灯りなのかがよくわからない。

車輪がレールの継ぎ目を拾う音が、鉄橋に差し掛かって急に変わる。
また作品に戻る。
たぶん僕自身が僕にささやいていたのだろう。
そう気がついたときには、もうこの本を読み終えていた。

どこか肩すかしを食らわされたような気持ち。
わざとか、そうでないのか、村上氏は書いていない。
たしかに、書かなくてもよい、という気もする。
しかし、どこかで物語ることを禁欲しているような、それが不自然で中途半端な感じが、どうしてもしてしまうのである。

記号と記号の消費だけがある世界。
暴力は、しかし記号や消費の枠組みには収まらないよね。
「物語」なんかに収まるようじゃあ、暴力とはいえないし。
じゃ、どうするのか。
暴力を「物語」に回収されないようにするには?
(と、またまた勝手に問題を作り上げてみる。)

外から見ているしかない世界だ。
中には入れない。
いや入ってもいいのだ。
小説なのだから、入れなくはない。
でも入らない。

語り手は「私たち」っていってくれるし、その「私たち」はどこにでも移動していけるけど、それでも「外」にいるほかないのだ。
そこには、カメラにレンズがあるように、世界との間に「膜」のようなものが挟まっている。
マス・メディアに限らない様々なメディア(媒介するもの)。

メディアを通して確かめられるしかないメディアとしての肉体。
いちばん厄介なメディアは言語?
いいや、意識のほうがむしろメディアなのかも?

白川だっけ? あの厭なヤツ。
あの男の過去や未来も、もう少し覗いてみたかったなぁ。
文字の力はこれからじゃあないの?

「物語」になったっていいじゃないの。
それ自身が「暴力」みたいにブッ壊れてさえいりゃ。
え?ってことは、この半端さがそれってこと?
(と、さらに勝手なオチをつけてみる。)

だとすれば、非常に禁欲的な暴力論だなー。
というのが、とりあえずの僕の感想。


36 12/26-1/1号

☆☆☆FILM『ゴジラ ファイナル ウォーズ』

50周年の集大成。出てきます出てきます。
宝田明、水野久美、佐原健二。チョー懐かしい!
この人たちに比べたら、松岡くんや菊川さんは、ほんの刺身のツマですねー。
船木やセフォーはご愛敬。
「水野」真紀さんは、久美さんの後を襲ってほしいですねー、って「最後」なら無理な話か。

GODZILLA に GOD が組み込まれているところがミソなんですが、今回もその本領は発揮しています。
とにかく壊す☆コワす★壊す。
どんだけ苦労して作ったのかぁ知らねぇーが、所詮人間が作ったもんなんてーのはゴミかカス、ってなもんで、ためらいもなく粉微塵に。
この、気持ちよさ!!

マンダ、カマキラス、アンギラス、ラドン、エビラ、クモンガ、ジラ、ガイガン、ヘドラ、キングシーサー、モンスターX、カイザーギドラ、そしてミニラまで。
総出演ですが、顔見世ですよね、これって。
だから見せ場がありすぎて、それぞれに物足りないとか文句言っちゃあ、いけないのよ。

モスラの触覚ビームが使われていないのはケシカラーん!!
これは、一緒に見た十代の同居人の弁。
エンドロールにナレーターの山寺宏一の名前に目をとめたのも彼女で、彼が有名な声優さん(ポケモン他たーくさん)であることを教えてもらう。
へぇー・へぇー・へぇー!

それにしても北村龍平監督、立ち回りが大好きですね。
それと「回転」がお好み。『あずみ』☆☆☆のときもそうでした。
あのときはもう、キャメラまで縦に360度回転させてましたけど。
今回もどこで学んだのだか、怪獣までカンフーの技を覚えてしまってましたね。
話そのものは、どこかで見たような、聞いたような話の組み合わせ。
その点で新味はないけれど、いっそ立ち回りだけで見せてしまおうとしてるところが、潔い。

とにかくクルクルとよく回る人間やミュータントや怪獣が眩暈でクラクラ快感!
そういえばBOOK『遊びと人間』☆☆☆でロジェ・カイヨワは人間の「遊び」を4つに分類して、その1つとしてイリンクス(めまい)を挙げていました。
あとの3つはというと、アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模倣)。
さッすが北村監督、ぜーんぶ盛り込んでますねー。

それにしても小さな子供たち、古い怪獣の名前や得意技まで、なんでそんなに知ってるの!?
あっちこっちで大声で名前が叫ばれるは、展開まで予想されるはで、でもそれも何だか懐かしかったナ。
ところでゴジラ、最後は「母性」に目覚めたってこと?

☆☆☆DVD『抱擁』

大学の研究者の男女が主人公で、彼らの恋愛と、19世紀の詩人男女の秘められた愛が絡みます。
ほぼ百年の時間を行ったり来たりしながら映画は進んでいくのですが、過去の二人の謎を解いていくことが、次第に現在の二人を近づけていくことになります。
大学や図書館にロケをしていたり、借りたフラットをベースに、別の場所にあるはずのセットを作ったり、同じ部屋に別の時代のセットを作っていたり、見所はたくさんあって、特典映像が監督の解説でそれらの幾つかを教えてくれます。

僕としては、主人公が大英博物館の横っちょの入り口から出入りしたり、ふつうの人は入れない資料室の中にいたりしたので、とても興奮しました。
というのは、少しだけですが、僕もあの大英博物館でそういう経験をしたことがあるからです。

きっとあそこの近くには、ブリ☆ン先生と一緒だったおかげで特別に浮世絵を見せてもらったあの部屋があるはず(当事、B先生は幕末における権力の移譲に関する研究をされていて、幕末期の日記の記述の中や図像の上に証拠を具体的に探る作業があったりして、そのお手伝いを門外漢ながら僕もほんの少しばかりだけどしたことがありました)とか、
今は亡き?日本美術展示室でのパーティ(あれは何のパーティだったのだろう。石毛直道さんが英語で講演された、たしかビバレッジ関係のカンファレンスのあとの?)など、
留学時代のあれこれを思い出しながら、見てました。

グウィネス・パルトロウがやっぱり美しい。
ウットリするような英国の田舎の風景は、あっという間に切り替わってしまいますが、彼女の姿はじっくり見ていられます。
同業の男性と付き合いはしていながら、関係には一定の距離を置いている彼女が、偶然知り合ったアメリカからの研究者(アーロン・エッカート)に少しずつ心を開いていって、それと共に自分自身を取り戻していくあたりの演技も見事でした。

2003年3月に公開された映画(2002年・米)ですが、例によって見逃していました。
原題は『 POSSESSION 』で、バイアット( A・S・Byatt )の原作はブッカー賞受賞作です。
このDVDは同居人が見つけました。感謝!

それから Four Leaves のメンバーの皆さんたちにも、多謝!!!
(わが同居人を含めた「お仲間4人組」を、勝手にそう呼ばせてもらってます。
お三方は、19日のわが家でのパーティで、この映画についての話を聞いてくださいました。
あの日はいろいろにどうもありがとうございました。
一緒に過ごさせてもらって、ほんとうに楽しかったです!!!)

☆☆☆DVD『素晴らしき哉人生』

ジェイムズ・スチュワートが、まさに彼そのもののような好人物を演じる。
ほぼ60年前に作られた、こういう古き良き映画もやっぱ紹介しとかなくちゃね。

さまざまな偶然が重なり、大学を卒業して世界一周をするという夢を果たせないまま、生まれ育った町に残ることになった青年ジョージ・ベイリーは、町を牛耳る高利貸しの男から人々を守るために、父親の仕事を継いで良心的な信用金庫の経営をしている。
やがて家庭を持ち、壮年となった彼は、優しい妻と可愛い子供たちに囲まれ、仕事も順調にその規模を拡大していくかに見えた。
 
だが、仕事を手伝ってくれている叔父のうっかりミスによって、大事な大金が高利貸しの男の手に渡ってしまう。
その現金がないと監査にパスできず、不正経理で告発されてしまいそうになったジョージは自暴自棄になり、ついには自殺を企てる。
 
そこに翼のない二級天使が彼を助けるためにやってくる。
この世界に、もしジョージ・ベイリーがいなかったら…。
彼が存在しなかった世界を、天使は彼に体験させるのだ。
ありえないほど荒んで堕落した町を目の当たりにした彼は、自分の存在理由を見出し、本来の自己を取り戻す。
 
家に帰ってみると、妻が町内の人々に事情を打ち明け、助けを求めていた。
その呼びかけに応じて、これまでジョージに助けられてきた町の人々が彼の救済に立ち上がってくれ、たくさんの寄付金が集まったことを知るのだった。
そしてクリスマス・ツリーのそばで、子供たちの一人がいうのである。
「鈴の音が聞こえるでしょ。あれは天使が翼を手に入れた印だよ」と。
 
真っ直ぐに生きる人間を素直に応援する、心温まる映画である。
(原題『 It's a Wonderful Life 』、1946年・米、フランク・キャプラ監督作品)

☆☆☆BOOK『死者と他者』―ラカンによるレヴィナス,内田樹,海鳥社,2004/10

おどろいたなぁ、支社と他社ですよ。
「シシャトタシャ」ってタイトルを打って変換してみたら。
しかしたいていの「他人」なんてのは、自分自身の鏡像に過ぎないという意味では、本社の支社くらいのものであって他社ではない、っていうくらい、本当には「他者」じゃあないんだなって話にすると、ちょっと強引にすぎる辻褄合わせかな。

ラカンもレヴィナスも同時代を生きた人たちで、もちろん第二次世界大戦と呼ばれる戦争を経験している。
彼らの倫理のベースは死者たちにある。
こういう言葉が自然に腑に落ちるようになった。年齢のせいでしょうね。
もちろん、彼らの生きた世界を想像することなどできないし、まさか理解できたなんて自惚れるつもりもない。
僕は僕の身の回りのごく小さな世界をたよりにして生きているだけだ。

それでも、内田氏がレヴィナスを参照しながら説く「師と弟子の関係」は、よーくわかる。
僕と「先生」と呼べる人との関係もまさしく、そういうものだ。
「死者と生き残った者との関係」もそうだ。
僕も、死んでしまった人を、やっぱり自分の心の鏡にはしているのである。
おまけに、ラカンの「父と子」の話も大変にわかりやすく説かれているのだ。

この本は僕たちのコミュニケーションの場が立ち上がるときの条件を、かなりくっきりと浮かび上がらせてくれている。
ただ、外部(他者)であるはずのものが内部(自己)にあることの不思議は、身体ではわかったつもりになれるようなものでも、言葉による表現を理解するかたちでは、なかなかうまくいかないものだ。
それにはほとんどアクロバティックなワザが必要だが、さらにそれをアクロバットだと思わせないでやってもらわないと、すんなりとは呑み込めないのである。
内田氏はそれをかなり上手にやってのけている。

でもねー、ほんとに呑み込めたのかどうか。
個人的な事情をいうと、この「師」と「死者」と「父」とのつながりは、いまいち僕にはよく分かっていない。
この問題はムツカシイ。とりあえずは保留して、再考してみたい。


35 12/19-12/25号

☆☆☆DVD『花様年華』

○濃厚のようで淡泊? あっさりのようでシツコイ? どっちにしてもこの中途半端ぶりはハンパじゃない。互いを想う気持ち、わかり合いながら、それでもだから気持ち、抑えに抑えて。見るほうも、この宙ぶらりんを宙ぶらりんなまま、どこまで楽しめるかにかかっています。だからこの映画、まずは廊下や階段(行き違い、すれ違う場所)の、そして軒下(雨宿りの束の間の避難場所)の映画、といえるかも。

 食べものだって、これでもかってくらい不味そうに描いてあって、それでもって男女の気持ちの純粋さを際立たせようとしているのかな? もし、そうだとしたら、ここでのウォン・カーワイと『初恋のきた道』☆☆☆のチャン・イーモウとは対照的だけど、やっぱり成熟度の高い男女のプラトニック・ラヴを描くには、「旨いモン」は似つかわしくないのかな?

 それから、言わずもがなだけど、マギー・チャンのスタイルと衣装の美しさは絶品で、60年代の香港にあんなに美しい女性がホントにいた? のでしょうね、きっと。そしてチャウ氏との出会いが、さらに彼女を苦しめ、さらに美しい大人の女性にしたのでしょう。そうしておきましょう。

 でも映画は終わったようで終わりません。チャン夫人はチャウ氏の前で靴を脱いでいました。そして彼女に子供ができています。本当にプラトニックなままだったの? ままだった、とも考えられます。でもチャウは声を埋めたでしょ。秘密を。大きな木の幹をくりぬいて、ではなくて、柱に泥を塗って?、だったけど。アンコールワットの遺跡にまで足を運んで。それから彼らが逢い引きではない?逢い引きをしていたホテルの部屋番号が2046でしたよね。

 じゃ、やっぱり見逃した『2046』を見なきゃ。

☆☆☆DVD『初恋のきた道』

○見逃したといえばこれ。前から気になっていたのになかなか見られなかった。ワイヤーのないチャン・イーモウも見とかんとね、と思って見たけど、やっぱりチャン・ツィイーが可愛いかった。どうしてもそこに目がいってしまうけど、風景の映し方や人の歩かせ方、走らせ方なんかにも監督らしさが出ていた。

 恋をした少女の夢見るような浮かれた足どり!凍てつくような寒風の中、棺の担ぎ手を交替しながら、風習どおり、そして妻の願いどおりに、亡くなった夫に家路を辿らせようと協力する人々の行列!! そして草原を、山中を、少女は走る!走る!!走る!!!

 人間の純粋で一途な気持ちが主人公といっていいだろう。夫婦に限らず、人の悪い面は画面に映されていない。裸もないし、唇を重ねるシーンさえない。男が子供たちを教えている教場を見下ろす小高い丘にある井戸、それまでは使っていなかったその遠いほうの井戸に毎日通うようになる少女。彼女は範読する男の声に耳を傾ける。

 そして彼女が竈で煮炊する料理(お焼き、餃子…)! そのどれもこれもが、ムチャクチャ美味しそう!! あれは何なんだろう、味噌?漬け物?ほんのちょこっとだけ箸先につけて、あとはご飯をたくさん食べる、という食べ方、少女はお婆ちゃんになってたけど、見てるだけで嬉しくなってしまった。

☆☆☆DVD『カンダハール』

○これもまた見逃していた映画。なんとも見逃しが多いけど(マフマルバフ監督作品なんて、ほとんどすべて)、でもしょうがない。だからリアル・タイムでなら感じられたかも知れないことが感じられない、といったこともあるだろう。

 空から落下傘をつけて落とされている幾つもの物体が、すべて義足であると気づいたときには、どう言葉にしていいかわからないくらいのショックを受けた。その映像があまりにも美しかったから。この映画は、僕には、この映像につきる。それらを求めて、猛烈な勢いで群がろうとする、松葉杖の、脚のない男たち。彼らの背後にいるであろう、さらに沢山の地雷被害者。

 ドキュメンタリー風の撮り方自体、フェイクに対して十分意識的である、という表明なのだろうか。それをしなければならないほど、嘘や偽りが当たり前のように横行する世界。妹を自殺から救おうとして、カネと嘘と録音テープ(どこかで聞いたような?組み合わせ、そう『セックスと嘘とビデオテープ』☆☆☆だった)でもって、カンダハールへの潜入を企てる女。テープに残される声は、いったい誰が聴くのだろうか。

 偽の家族、贋のガイド、ニセの医師。だが本当のもの、本物とは何か? 人間にとって真実とは何か? そして希望とは? それらを見つめようとしている作品だと僕は見た(正直なところ、この映画の終わり方には、「まだ終わらないはずなのに、これで終わったの?」というような、唐突な印象を受けた)。

☆☆☆DVD『女神が家にやってきた』

○後半からは、ほとんど笑いっぱなし。愉しませてもらいました。女優さんの身体が圧倒的で、見慣れるのに時間がかかりました。いやひょっとして、最後まで見慣れなかったかも。それにしても、スティーヴ・マーティン健在ってところでしょうか。決して罪のない笑いばかりでなく、ちゃんとウラがあって、それでも笑わせてしまうところは、お見事!

☆☆☆BOOK『英語で読む万葉集』,リービ英雄,岩波新書,2004/11

○外国の人に日本語を教えてもらう。それでも国語教師? もちろん。僕の日本語がその程度に拙いのだ、とも言えるし、この外国人はなまじな日本人よりも日本や日本語に詳しいのだ、とも言える。なにせ「日本列島そのものの『時間』にふれてしまった」なんて、しれっと(か、どうかはわからないけれど)書いてしまう人なのだ。

 国語は「国人」にしかわからない、のかも知れないが、日本語は日本と日本語を本気で学ぼうとする人には(どこの国の人に対してであれ)開かれている、のだと思う。それを確信にまで近づけてくれる人が、リービ英雄である。しかし、それでも翻訳というものは、外国語の習得とはまた別の困難であろう。

 たとえば、「あをによし 奈良の京(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」(小野老、巻3・三二八)をリービ氏は、

Poem by Ono Oyu, the Vice-Commander of the Dazaifu
The capital at Nara,
beautiful in green earth,
flourishes now
like the luster
of the flowers in bloom.

と訳す。

 そして、「都市の『盛り』が自然界の比喩によって表現を得て、明るい(引用者注−原文はゴチックではなく傍点)。そして不思議なほど、それが普遍性を帯びたことばとして伝わる」。

 また、「『今盛りなり』が、もし経済だけでなく文化の絶頂を暗示しているのであれば、prosper よりも flourish がいい」。そのもう一つの理由として「flourishes の方の『栄える』は、フランス語の la fleur 、つまり『花』と同じ語源をもつ。だから、いわば『奈良の京は今、花している』というような響きをもって、原作の日本語と同じく自然の美しく明るい比喩が、『盛り』を意味する動詞の中につつまれている。」と解説してくれる。

 リービ氏の日本語は、僕らをまっすぐに歌のほうへ、歌の(ことばの)美しさへと導いてくれる。翻訳された英語の詩のほうは、僕にしっかり味わう力がなくて、もったいないことではあるが、出来具合は、その説明の日本語からもほぼ推測することができる、と思う。「『にほふ』は『光』という意味もあるので luster 、『艶』になる。古代の都会人のことばの艶が、luster が、今も残る。二十一世紀の英語にも、その艶は十分でるのだ」そうである。


34 12/12-12/18号

☆☆☆☆DVD『過去のない男』

○これ、いいです。好きです。音楽もクール(とくにマルコ・ハーヴィスト&ポウタハウカ!それに、なんとクレイジーケンバンド「ハワイの夜」も聞ける!!)。内容書きません。筋を書いてもこの映画の良さは伝わりそうにないから。少しサスペンス風でもあるかな。ちょっとだけ言うと、マルッキィ・ペルトラ演じる記憶を失った男が主人公(なかなかに渋い!)で、男が自分の名前を取り戻す物語かな。

 フィンランド映画ですから、もちろん、暗いんです。でも、明るいんです。なーんて、どっちなんや。とにかく、ラストではいい気持ちになれます、って書いてもねー。前に向かって生きることが大切、っていうのは簡単。だけど、それをうまく示すのって難しい。

 カシコくしてたんじゃ絶対無理だけど、バカじゃ前には進めないし。男は(女も!)、タフでかつジェントルでないと。それから、一人だけで進む、っていうのもありえない。だけど、みんながみんなでシアワセに、っていうのもウソっぽい。

 アキ・カウリスマキ監督はそこのところ、よくわかってらっしゃるようで。この映画は、一人の男の話であって、それが運命的に結ばれる男女二人の話でもあって、それがそのままその周りの人たちとの連帯の話にもなっている。

☆☆☆DVD『グリーン・マイル』

○何で、今頃? そうですよね。でも見てなかったんです。見始めると途中では終われなくなって、深夜までかかって見てしまいました。でも見てよかったです。あの口からハァーーッがよかった。蠅?って思っちゃいましたけど、最初。不思議な力をもつ、「いい人」ジョン・コフィーを演じていた俳優(マイケル・クラーク・ダンカンという人らしい)の小山のようにもりあがった肉体は、ものすごーく迫力があって、それだけでも見た甲斐がありました。

 死刑になるほどの悪は犯してしまったけれど、今は悔い改めている罪人が、ある看守の醜く捩れた自尊心と下卑た好奇心によって、普通ではありえない、かなりエゲツナイかたちでの電気椅子処刑がなされてしまう。その意趣返しのようなかたちで、コフィーの力が働いて、真犯人は看守に射殺され、その看守は精神病院に送り込まれることになるんだけど、そうじゃなくごく普通に、悪い奴らがのうのうと生き延びている展開にするほうが、無垢な巨人のあはれさがさらに増したに違いない。でもそれじゃあんまり悔しすぎるだろうな。

 たしかに、この映画は溜飲を下げて終われる映画ではない。しつこく、理不尽さ、不条理さを僕らに突き付けてきます。しかし「神」が素朴に要請されてるわけでもなく、むしろ「神」の不在こそが、ここで改めて問われている気がしました。人が人の命を裁くということ。そしてそのとき、暗闇を恐れ、明かりを求める人コフィーは、もらった(キリストがらみの、お守り?)ペンダントをはずさねばならなかった。

 予想されたとおりの展開だけど、やっぱり可哀相になって、でも、あれ以上コフィーを苦しませるのは、苦しませるほうも含めて、互いにシンドすぎる気もしました。僕らは「神」にも「超人」にも頼ることはできない。ならば、あれはあれで仕方がないのかも、と。そしてその「仕方のない」行為としての救済/罪に対して、「長生き」という褒美/罰が与えられた?と考えながら、「神の」ではなく、むしろ「人間の証人」として、百歳以上を生き続ける男。

 原作、読んでませんが、これはむしろ原作のよさを想像させる映画じゃなかったかな。

☆☆☆DVD『コンドル』

○まず、題名がいいでしょう。原題は『 ONLY ENGELS HAVE WINGS 』。こっちもいい。南米で郵便飛行機のパイロットをしている男が主人公。コンドルは、この映画では悪役、になるんでしょうね。鳥ではなく、人間が空を飛ぶからこそ生まれるドラマ。脚本がいいからか、映画も引き締まっていて、無駄はどこにもない。男の描き方も、今見ると新鮮で、こんなことやって、それでもモテる男って、まず現代ではありえない。

 ケーリー・グラントは、このころは何だか、クラーク・ゲーブルばりの演技をしていて、それがあんまり似合ってないところが面白い。振り返りざまの顔の作り方なんか、とくにクサイ。ハンフリー・ボガートやマーロン・ブランド、やっぱり似合わないけどジェイムズ・ディーンなんかが引き継いでいたような。たいていの男どもは真似したんだろうね。

 ハワード・ホークス監督、ちょっとクセになりそう。

☆☆☆BOOK『ウィリアム・ブレイクのバット』,平出隆,幻戯書房,2004/06

○するすると「世界」に引き込まれていく。それに平出隆の読者なら、「ここ」にはベース・ボールがあり(『白球礼讃』☆☆☆『ベース・ボールの詩学』☆☆☆)、ドナルド・エヴァンズがいて(『葉書でドナルド・エヴァンズに』☆☆☆)、もちろん猫たちもいて(『猫の客』☆☆☆)、ヨーロッパがあって(『ベルリンの瞬間』☆☆☆)、おまけにドライヴがあるのだから、文句なしに楽しめる。

 今までの本からこぼれ落ちたものを寄せ集めたようにみえて、どっこい安易に編まれた本ではない。窓に差す日射しのわずかな移ろいや心の微かな揺らぎの音までが聞こえてきそうな、静謐な佇まい、澄明な空気感、は、しかしここにはなくて、もっとずっと軽くて楽しい話の連携があり、不連続がある。まるで飛び石を伝って、平出氏が遊んでいる庭を一緒に駆け抜けていくような悦びが味わえる。

 旅に誘うような、平出氏自身の写真とドナルド・エヴァンズの切手を組み合わせた図版も、見ていて飽きない。それにしても、あの幻視の人ウィリアム・ブレイクがボール・ゲームを楽しむ人であったに違いない、という言葉に出会ったときは、美しいダブル・プレイで討ち取られたときみたいに、ほんとうに気持ちがよかったなぁ。


33 12/5-12/11号

☆☆☆FILM『血と骨』

○やっと見ることができた。日曜日、梅田の、以前『ラヴァーズ』☆☆☆を見た劇場で、朝一番のを。遅れそうになって、地下街から闇雲に地上への階段を駆け上がると、そこは見たこともない場所で、高い建物に囲まれて視界は開けず、だから方向も定まらず、もう一度地下に降りて、やり直してみたのに、また失敗して、それでももうやり直しの時間はないから、えいやっと適当に走ってみたら、駐車場があって、出くわした守衛さんに訊いてみたら、そこがちょうど目指すビルの裏側だった。

 人間の原型のようなものを突きつけられた。原作は梁石日の同名の小説で、それを僕は読んでいない。主人公は彼の父親がモデルらしい。映画は、一人の男の生涯を時代や歴史とともに描いている。つまりは個別の特殊な事例になるわけだが、僕はそこに普遍的なものを見た気がした。海から見る大阪の街。食う、寝る、荒ぶ。人間に身体があるということの確認から映画は始まる。

 血の濃さ、関係の濃さ、この「濃さ」を生み出す背景のほとんどを、崔洋一監督は画面の枠から意図的に外している。そうすることで、荒ぶる魂の「わけ」がわかってしまわないようにしているのだ。僕らはすぐに「わけ」を知りたがり、簡単に「わけ知り」になって安心したがるからだ。映画は僕らにそんな「安心」を許さない。制御不能の怒りと寂しみを背負わされた存在は、彼を囲む世界にヒビを入れる。ひび割れが元に戻るまでの僅かな瞬間に、微かな希望がきらめく、ような気もする。しかしそれは誰かの希望には決してつながりはしない。

 彼はただ暴れる。ひたすら暴れるしかない。そして彼はやはり、一個の個体に過ぎないのだ。息を引き取る前から息子によって掘られ始めている墓穴。金俊平が信じたのは、己の身体(血と骨)だけだったのかも知れない。確かなのは、この身体が、いまここにある、ということ。この始まりでなされた確認と同じ確認でもって、映画は終わる。あてどのない力と底のない哀しみの映画。

☆☆☆☆DVD『アララトの聖母』

○1915年のトルコ軍によるアルメニア人大虐殺については、ほとんど知らなかった。

 映画は現代のカナダが舞台。アルメニア人監督が、大虐殺とそのためにアメリカへの亡命を余儀なくされた画家ゴーキーの生涯を描く映画を撮りにやって来る。ゴーキーの研究者である女性大学教員(アーシニー・カンジャン)もアルメニア系で、映画への協力を依頼される。そして彼女の息子ラフィーや彼の恋人(ラフィーの母親の再婚相手の連れ子で、ラフィーの義理の妹にあたる)も映画と過去の歴史的事実の両方に巻き込まれていく。

 ゴーキーは、父親を殺され、母親からもむりやりに引き離された。彼はついに、母親の手を描ききれなかった。絵の具を塗りたくった掌で、キャンバス上に描かれた手の位置に、彼は本物の母の手をまさぐってしまうのだ。ゴーキーと同様に、ラフィーも彼の義妹も自分たちのルーツに問題を抱えていて、自分が誰であるかを確かめられずにいる。ラフィーの父親はトルコ大使暗殺に失敗して死んでいるし、義妹の父親は自殺していて、それを彼女はラフィーの母親の心変わりのせいだと思いこみ、義母を憎んでいる。不安定になった彼女はゴーキーの絵をナイフで傷つけ、ラフィーは「故郷」を求めてトルコに旅に出る。

 もう一つの家族が並行して語られている。ゴーキーの絵を所蔵・展示している美術館のスタッフと彼のパートナー(彼らはどうやら同性愛者のようである)、そして彼らの関係を認められずにいる彼の父親(税関の検閲官)である。彼のパートナーはトルコ系の俳優で、映画中映画で残忍なトルコ軍指揮官を演じているのだが、彼もまた過去を知ったショックのために不安で落ち着かずにいる。撮影終了後に部屋まで車で送ることになったラフィーは、この男に自分の思いをぶつけるが、互いにうち解けることができないまま別れることになる。

 ラフィーはトルコで「故郷」を発見し、それをビデオカメラにおさめて帰国するが、税関で引き留められる。検閲官はラフィーが持ち込もうとした未現像のフィルムを収めた缶の中味が麻薬であると確信し、彼を尋問し追いつめていく。トルコで撮影したビデオ映像を解説しながら、ウソを重ねていたラフィーは、ついに現地の人間に運搬を頼まれたことを白状するのだが・・・。

 映画は、映像が作り物でしかないことを暴き、「いまここ」では共有できなかった事実を、事実として誰かに伝えることの困難さを描く。検閲官は自分の確信は変えないまま、暗闇にした取調室で缶を開ける(そして彼の確信どおり、缶には麻薬が入っていたことがわかるのだが)、しかし彼はラフィーの罪を見逃して入国を許し、自分の息子もまた認めることになる。彼は変わったのだ。

 自身アルメニア系であるらしい監督アトム・エゴヤンは、歴史上の惨劇を、被害者の立場に立って、加害者に向かって声高に糾弾しようとはしていない。一人の人間が、自分を変えることができるかどうか(たとえば偏見や先入観から自由になれるかどうか)は、他者の心の真実を自分の心の重さとして受けとめられるかどうかにかかっているのかも知れない。とでもいうふうに、小声で、しかししっかりと、僕らに囁きかけている。

 トルコ政府は今もってアルメニア人大虐殺を認めていないそうだ。

☆☆☆DVD『トスカーナの休日』

○スローな映画だ。一緒に見ていた同居人は途中で諦めて仕事に切り替えてしまった。たしかに、退屈に落ち込みそうなところもある。もどかしい。しかし、展開の遅さこそ脚本も書いたらしい女性監督(オードリー・ウェルズ)のねらいなんでしょうね。でもそれって小説に近い愉しみ方なのかな?

 主人公は離婚したアメリカ女性の小説家フランシス。彼女はトスカーナに旅行に出かけ、ひょんなことからそこで売りに出ている家を買ってしまう。男は美男から曲者、老人までたーくさん出てくるが、それらはほんの飾りに過ぎない。彼女自身の人生が豊かになることがイチバン大切なのだ。彼女は夢を実現させるべく家を改修し始める。この家で結婚式を挙げること、ファミリーをもつこと。そして彼女の願いは、思わぬかたちではあるけれど、実現するのだ。

 最後まで付き合わないと、この映画の良さはわからないだろうけど、見られない人は無理に見てもダメなんでしょうね、きっと。そして僕は、ラストの生き生きとしたフランチェスカの表情を見て、笑顔になっている自分を意識しながら、美味しそうなワインも美しい風景もカッコいいスポーツ・カーも出てきたけれど、でもやっぱりもっともっと、食材を、料理を、食事を見せて欲しかったかな、と思っていたりもしました。

☆☆DVD『半落ち』

○原作は読んでいない。事件そのものがミステリアスだから、「なぜ」を知りたくなるのは当然だが、「空白の2日間」が、ほんとに空白に近くて、「謎」があっけなく知らされてしまうのは残念。また説明過剰、盛り上げ過剰なところがあるようにも思えたせいか、ラストでも泣けなかった。寺尾聡は微妙な心の動きをよく演じていたのだが。柴田恭兵は相変わらずで、あっぱれ。

☆☆☆BOOK『脳と仮想』,茂木健一郎,新潮社,2004/9

○人間の脳が生み出す意識の不思議な性質。この意識現象の起源を明らかにすることは、現代の科学をもってしても不可能である。数量化によるアプローチでは捉えきれないのだ。ではどうするか。茂木氏は、いったん現実を離れて「仮想」という視点から、アプローチしようとする。無限に広がる「仮想」の世界がもつ可能性。そこに手掛かりを見いだそうとするのだ。

 先日ある友人から聞かされた話。僕が小学校の同級生の女の子に軽い気持ちでした悪戯が、彼女を相当に傷つけていて、そのために彼女と中学も高校も同じだったのに、彼女はなるべく僕とは口を利かないようにしていた、とか。僕は、その悪戯がまったく記憶にないことだったので驚いたのだが、茂木氏がちょうど、その「思い出せない記憶」について書いていて、またまた驚いたのである。

 思い出せないからこそ大切な記憶があり、「思い出せない過去という巨大な仮想の上に『今、ここ』の私は生きている」と氏は書く。そして私たちが何気なく日常使っている言葉こそが、思い出せない記憶の貯蔵庫なのだ、というのである。「一つの言葉には、たくさんの『思い出せない記憶』がまとわりついている」。まさしく。

 もう一つ、おっと思ったのは、言葉がいい例なのだが、私たちは過去に多くのものを負っている。しかしそのことをしっかり認識することは、何も過去に縛られるのではない、ということ。私たちは過去からの仮想の系譜に連なることで生きているのだが、それをすでにできあがった固定されたものとして捉えるのではなく、それらを誕生の瞬間においてこそ捉えるべきだと書かれていたことである。

 「歴史を振り返る時に私たちに問われているのは、何よりも生成に対する態度ではないのか」。「陳腐なものの見方から脱出するための跳躍台は、それが生成された瞬間の生命の躍動(エラン・ヴィタール)の中にある」。そしてその生成のまばゆさを、実は私たちは、私たち自身の内部に「思い出せない記憶」として秘めているのだ、という指摘は、さまざまな仮想が生み出される、その誕生の現場への旅を、僕に夢見させてくれたのである。

☆☆☆BOOK『雑学者の夢』,多木浩二,岩波書店,2004/4

○多木氏のおそらくは膨大な読書経験のうちの、ごく一部、しかし「生命のように生きた経験」でもある氏の読書という行為を大きく方向づけた、いまだに「記憶に生々しい」とされる一連の書物群が取り上げられている。

 全体が二部構成になっていて、第一部は言語についての、第二部は記憶や歴史についての一群の書物である。それらは僕の関心ともピッタリ重なっていて、だから自分自身の読書体験を重ねることができて(もちろん氏の読書経験と比べると、それは全く覚束ないものではあるけれど)、大変興味深く読むことができた。

 ロラン・バルト、ソシュール、バンヴェニスト、ベンヤミン、ミシェル・フーコー等々。「ここで挙げたような優れた書物は、それらの書物の外部にある世界への認識を内包している」と書く氏は、世界の不連続と連関を読みとること、それが読書の愉しみである、と述べている。


32 11/28-12/4号

☆☆☆☆DVD『25時』

○この映画に現代アメリカの国際関係や歴史を見る人がいてもいいだろう。スパイク・リー監督は、見事に9・11以後のアメリカを描いていた。もちろん、「以後」を描くには「以前」が必要である。

 傷ついた犬を助ける男。男は麻薬の密売に手を染めて金持ちになったが、密告による不法所持の発覚で7年の刑務所暮らしが確定している。ほとんどこの世の終わりを意味する?収監までの1日間が淡々と描写される。

 その時が近づくにつれて、それぞれに人間の本音が出始める。裏切ったのは誰か。本当の友人と偽りの友人。しかし監督は、ありがちな二者択一的世界にはもっていかない。あれかこれか、という設定自体、問題の安易な単純化であることに十分意識的なのだ。

 犬を預けなければならないのは、恋人ではなく幼なじみだが、教え子に手を出してしまうような、決して頼り甲斐のある男ではない。無理矢理に自分の顔を傷つけることまでさせてみても、これきりで付き合いをお仕舞いにしかねない男が、やはりもう一人の幼なじみなのだ。男はそれをしかし嘆きはしない。

 父親は、西へ逃げろ、そして二度と戻るな、という。戻って来さえしなければ、そこに別の人生がありうるのだ、と。しかしそれは、父親自身が見損ねた夢ではなかったのか? 助けた犬は他人に預けられたとしても、自分のしたことの責任は、自分自身でとる以外にはないのである。

☆☆☆DVD『幸せになるためのイタリア語講座』

○幸せになれました。ホントに。見てよかったなー。そのせいかなー、KTさんにも久しぶりにお会いできることになったし。どうも楽しい時間をありがとうございました!! そう、そのときおっしゃってました。北欧の映画って、常に death が組み込まれてるんですよね、って。

 たしかに、この映画でも、あやしいイタリア語の先生やおっかない父親やとんでもない母親が死んでます。でも、そこから暗闇で手探りするように、指先をのばして、お互いの呼吸やまなざしを感じながら、少しずつ少しずつ、つながりあっていく人たちがいます。牧師さんがいい感じ。寒い国デンマークの、でも少しあたたかくなるお話。

☆☆☆DVD『マグダレンの祈り』

○ひぇー。こんな修道院が1996年まで残っていたんだー。アイルランドに。原題は『 THE MAGDALENE SISTERS 』。修道女の非道ぶりよりも神父や被害女性の家族も含めた男どもの身勝手さのほうがずーっと目について、腹が立つ以上に暗ーくイヤーな気持ちになる。だからこその☆☆☆かな。とにかく無茶な話で、最後に抜け出せる3人の女性がいて、それがせめてもの慰め。

 このDVDに特典映像として入ってた『マグダレン修道院の真実』☆☆☆(こっちの原題は『 SEX IN A COLD CLIMATE 』)という作品が、当時の写真があったり、モデルになった?実際の被害女性3人がそのまま出てきてインタヴューに答えたりしていて、映画本編と併せて見たからでしょうけど、とてもインパクトがありました。こっちもぜひ。


31 11/21-11/27号

☆☆☆☆BOOK『私、今、そして神』,永井均,講談社現代新書,2004/10

○さらに展望が開けてきましたね。どこまでいくのかな。「私」や「今」や「神」を同型の問題(開闢の哲学)として括ろうとしていて、説明の工夫が一通りではなく、説得力もかなり増している。

 ここでカント原理やライプニッツ原理と呼ばれる考え方によって、また神の知性の範囲の問題に対して神の意志に関わる問題といった説明の仕方によって、哲学史を読み替えさせられたような、目から鱗が落ちるような思いを味わった。またしても!

 基本はやはりヴィトゲンシュタインとの対話を通じて深められた、独我論あるいは私的言語の必然性と不可能性に関する著者独自の認識だ。ここから出発して、私たちの言語のあり方、人称・時制・様相といった性質こそが、客観的世界の成立に不可欠であり、しかしそれこそが「開闢」を隠蔽するという構造を丁寧に説いている。

☆☆☆BOOK『ナラ・レポート』,津島佑子,文藝春秋,2004/9

○うーん、読了後、思わず唸ってしまった。何なんだ、これは。少し前に紹介した『その名にちなんで』☆☆☆とは全く異なる世界。同じ「小説」なのに。日本文学の歴史的な厚みを感じる。ナラを舞台にした母と子を主人公とする小説。

 この母と子は、時空を超えて存在し、対話を続けるのだが、情念というのか、業というのか、互いの思いの深さが、この母と子に別れと出会いをくり返させている。もちろん母の子に対する執着心もあれば、子の母親に対する離反の欲求もある。

 しかしそんなことをツラツラ書いていても、この小説の力はうまく伝えられない。これまでに存在した数多くの「母子もの」の物語の枠組みから、少しずつずれていきながら、作者は小説をこそ書こうとしている。しかし、その小説とは何か?

 高橋源一郎は10月10日の朝日新聞の書評欄で、歴史に跡を残すことのない「死者=子」を葬ることができるのは「母」だけだ、として、「この「母と子の物語」は、歴史を取り戻したいと、「死者」の声を聞きたいと願う、すべての読者に接続する。ぼくたちは、みんな、未来の「死んだ子ども」なのだ。」と、鋭い指摘をしている。

 僕は、輪廻を続ける魂の世界を描くこの小説に、死者の鎮魂よりは、むしろプリミティヴな生命の讃歌のほうを聴き取った気がしている。イノチがイノチであるためには、モノでしかない大仏なんか燃えてしまっていい、そんなものはそもそもが供養の不要な白骨にすぎないのだ、と。

☆☆☆DVD『ショーシャンクの空に』

○友情や希望という言葉が、言葉だけのもので終わらずに、現実の形になっていて、それでいて嘘くさいところが一つもない。ただ、僕はこの映画の裏側に張りついている絶望にどうしても気が向いてしまった。それはラストの描き方にも出ている。それだけは未来の時間に、あるいは夢の世界に、とどめられている。だからこそ逆にリアリティーがあるのだし、嘘っぽさからも逃れられているのだろう。誰かが書いていたように、ほんとうに絶望している人にだけ希望はありうるのだ。


30 11/14-11/20号

☆☆☆DVD『永遠のマリア・カラス』

○カラス長年の盟友であり、オペラ演出家でもあるフランコ・ゼフィレッリ監督(『ロミオとジュリエット』'68 の監督!)は、映画に一つのフィクションを持ち込んだ。映像作品『カルメン』の制作である。それによって晩年(最後の数ヶ月)のカラスが浮かびあがる。

 往年の美声を失い、オナシスにも捨てられた歌姫の復活劇。しかしそこには仕掛けがあった。それはなんと「口パク」。いくら何でもそりゃアないでしょ! なかった。よかった。彼女の仕事にかける情熱の凄まじさ、プライドの高さ。しかし「晩年」は誰にでもやって来る。

 カラスの場合、カラスがカラスとしてあり続けるためには、もはや歌うことは許されない。彼女は自らそういう選択をした。その選択が決して後ろ向きなものではなく、前向きなものであることを、監督は描こうとしている。そのためにこそフィクションが必要だったのだ。

追記
 このDVDを見たあと、神戸の百貨店でやっていたフジ子・ヘミング「もう一つの世界」展にでかけて、そこで放映されていたヴィデオのなかで、彼女が演奏するショパンのポロネーズを聴いて非常な感銘を受けた。年を重ねる重ね方には色々ありうるのだ、と。

☆☆☆DVD『スパニッシュ・アパートメント』

○見てる間じゅうニコニコ。とにかく楽しい! バルセロナに集まった欧米各国からの留学生7人でシェアしているアパートが舞台の青春映画。恋愛、友情、不倫、ドラッグと、何より自由な時間をめいっぱいにエンジョイ!

 たくさんの国や地方や民族の人・言葉に囲まれ、それらに揉まれることを通じて、本来の自分自身を見つけ直す、パリの青年の話。やっぱり学生はハメ外すばっかじゃなくて、猛烈に勉強もしてるぞー! うらやましー!! また留学したいなーって思っちゃいました。

☆☆☆VIDEO『トレイン・スポッティング』

○テンポのいいノリのイギリス映画。見よう見ようと思っていて今になった。期待に違わずいい映画だった。ヘロインの効いている感じや暴力描写が優れている。なかなか悲惨でクレイジーで、ピカレスクなところも現実性を感じさせて面白い。続編があるようだけど、さてどうなることやら。


29 11/7-11/13号

☆☆☆☆FILM『父と暮らせば』

○泣いてしまったけれど、泣いてしまうだけではすまない映画。よくぞ作ってくれましたって思う映画。登場人物が極端に少ないけれど、何万、何十万人もの声が響いている映画。

 宮沢りえも、もちろん綺麗だし上手いけど、原田芳雄の声が、しゃべりがいい。方言だからいいというだけでなく、彼の身体を感じられる映画で、だからぜんぜんこの人が幽霊とは思えないけれど(そういう点では宮沢りえのほうが幽霊的な美しさ!)、この「おとったん」のこの身体とこの迫力がないと成り立たない映画に思えた。

 っていうか、死んだはずのこの親父さんをこそ、元気で生き生きした存在として描いている。それが監督のねらいだったんだ、きっと。この映画のほんとうの主役は被爆して言葉を残せないままに亡くなった多くの人たちのほうだから。

 宮沢演じる奈津江がその父親(原田)にいう「話をいじっちゃいけんて!」という科白は意味深である。井上ひさしの原作&芝居は見ていないけれど、「前の世代が語ってくれた話をあとの世代にそっくりそのまま忠実に伝える」のが、自分たちのやり方だという奈津江の科白を、残したにせよ、付け加えたにせよ、監督には、映画が作り物であることは百も承知だろうからである。

 もちろん、黒木監督は「いじっちゃいけん」の精神で撮っているのである。CGだって丸木位里&俊夫妻の「原爆の図」だって、「そのまま忠実に伝える」を果たすための手段であろう。

☆☆☆DVD『僕の妻はシャルロット・ゲンズブール』

○ゲンズブール、女優さんやね。かわいい。知らんかったけど、この映画に主演もしている監督さんは、現実にゲンズブールを妻にしている人。さすがです。とっても綺麗に撮っています。彼女、もともとチャーミングだけどね。

 人物はもちろん、部屋の中、街並み、風景、何を写してもそれら一つひとつの画面のどれもが美しい。ロンドンとパリを往復するユーロスターをうまく使って。女優を妻にしている夫の大変さだけでなく、そのまわりにつながる様々な人々の様々な情感を丁寧に、愛とユーモアとエスプリをもって、描いている。

☆☆☆DVD『インファナル・アフェア』

○楽しめた! 騙し合いに継ぐ騙し合い。パソコンでやってることのなかで、え?と思うことがあったけど、ドンパチも必要最小限だし、ハダカも要らないから出てこないし、好感。ラウの「選択」は、なかなかクールなだけに、ヤンの「友愛」や「運命」をもう少し・・・、と期待してしまうのは贅沢かな?


28 11/1-11/7号

☆☆☆FILM『スイミング・プール』

○F・オゾン監督は「女が好き」と公言しているらしい。それだけに女の怖さ・美しさ満載の映画である。映画の謎を謎として考えてもいいけれど、主人公はなんと言ってもミステリー作家なのだから、そう簡単にやすやすとはいかない。だけど、女という存在そのものを謎と考えてもいいのでは? そんなことを思わせる、まぶしくて洒落た映画である。ランプリングの美しさは、まじ、ヒツゼツニツクシガタイ。(実際は1月ほど前に見たんだけど、紹介が遅れました。)

☆☆☆DVD『きょうのできごと』

○今どきの大学生ちゅうたら、こんなもんなんですかねー。こんなんやねんやろなー。なーんかリアルやなー。僕らの頃と変わってないところもあるしなー。美形で優しすぎる頼りない男、髪切られて腹いせに喧嘩ふっかける男、「殻のない卵」で絡む女、その子らの存在感とリアリティーが強烈。で、主人公らしき男女がちょっと影薄いけど、まあ群像やからなー。それでもいいか。そんでビルの壁に挟まれたまま宙ぶらりんでいた男は助かって/逮捕されて、それもそれでいいとして、浜に打ち上げられたマッコウ?クジラ、あいつはどうなったん?

☆☆☆DVD『刑務所の中』

○ごくふつうの日常の何気ない行為の一つひとつが、とてつもなく貴重なものであり、幸福そのものである。そんな、当たり前といえば当たり前のことに気づかせてくれる映画。朝起きて顔を洗うこと、歯を磨くこと、ヒゲを剃ること、排泄すること、衣服や布団を畳むこと、着替えること、労働すること、休息すること、運動すること、お風呂にはいること、眠ること、これらのどれ一つとして大切で掛け替えのないものはない。

 とりわけ、食べること!!! これほど生きることの快楽と直結した行為はない。人がこんなにおいしそうに食べるのを見ているのは、ほとんど苦しいくらいに嬉しい。この映画に難点があるとすれば、それは実際に刑務所に入りたくなってしまうという点であろう。もちろん、これは褒め言葉である。

☆☆☆DVD『タイムライン』

○楽しめます! 14世紀のフランスに行って、野蛮と運命に対して、大いなる戦いを挑もう。はらはらドキドキしながら、歴史を書き換える、というより、作ってしまうのだ。その現場に立ち会えたという錯覚が得られます! 『トゥームレイダー2』☆☆☆の元カレ役の人が(本作では時代に合わせて?長髪だけど)おいしい役を演じている。圧巻は投石機とその動き。理屈づけられたタイムマシンの方よりこっちのほうが、ずーっとカッコよかった。目に見えるんだもの。あんなものが本当に当時あったの?


27 10/25-10/31号

☆☆☆☆DVD『ゲロッパ』

○いやー、泣かせてもらいました。音楽、いいですねー。ゲロッパ! ジェイムズ・ブラウン、いいじゃないっすか。ホンモノがいいのは、もちろんだけどネ。親分が歌い始めるところで、もう我慢できませんでした。ニセもんを使いながら「ホンマもん」のありどころをちゃーんとおさえてますね、監督は。井筒監督には頑張ってもらいたいですね。この笑いの感覚。大好きです。岸部さんも藤山さんもいいしなー。エンディングの踊りは、ソウル・トレインとか、あの時代知ってる人には、とくに感激もんでしょう。

☆☆☆DVD『花』

○日本映画は、最近ちょっとこういう極端な設定の人物をやりすぎてるんじゃない? 映画というより、その原作がそもそもそういう設定の話が多いのだろうか? そうしないと読まない? 泣けない? それがむしろ普通なくらいにリアルに感じられているの? 疑問はどんどん湧いてくるけど、まあこの映画とは関係ないか。人生を整理しようとする男と人生を生き直そうとする男。記憶がなくなるかも知れない男と記憶を取り戻そうとする男。牧瀬里穂がかわいい。対照的に、西田尚美もよかった。赤いミニ・クーパーと旅、花、そして花畑。

☆☆☆DVD『この世の外へ クラブ進駐軍』

○阪本順治監督は、映画の最後に朝鮮戦争での死傷者数を挙げていて、それによると、米兵は10数万人の死傷者のうち、5万人以上が戦死している。第二次世界大戦の敗戦後のどさくさを、楽器ひとつで強く生き抜こうとする若者たちの青春群像だが、歴史ドラマ&人間劇としての幅も厚みも、ちゃんとある。フィリピンのジャングルを彷徨いながら、戦争終結のビラは信じられなかったけれど、飛行機から流れてくるジャズは信じられた、という主人公の科白。武器よりも楽器というスタンスは、監督自身のものでもあるのだろう。


26 10/18-10/24号

☆☆☆BOOK『その名にちなんで』,ジュンパ・ラヒリ(小川高義訳),新潮社,2004/7

○久しぶりに新しい小説を読んで、小説を読んだという気になった。その意味で大変いい経験をしたし、読んでる間はとても幸福な時間だった。インド系のアメリカ人。父親に事情があって、息子は「ゴーゴリ」と名付けられる。大学進学を機に彼は「ニキル」と名を改めるが…。移民の特殊性と人間の普遍性。人生がほとんど表面や細部として描かれるのだが、女性作家だからかも知れないけど、最後は主人公が女性の方に移っちゃってるんじゃないの? と思わせるところも。とにかく、転機のきっかけや心の機微を描くのが抜群にうまい。大河小説じゃないけど広がりがあり、深刻じゃないけど深さがある。

☆☆☆BOOK『音楽と社会』,ダニエル・バレンボイム&エドワード・W・サイード(アラ・グゼリミアン編&中野真紀子訳),みすず書房,2004/7

○ぐいぐい引き込まれてあっという間に読み終えてしまった。ワーグナーとベートーヴェンをまた聴き直してみたい気持ちになる。英文学・比較文学者サイードは、エルサレムに生まれ、カイロで育ち、アメリカで教育を受けたパレスチナ人。ピアニスト・指揮者バレンボイムは、ブエノスアイレスに生まれ、イスラエル国籍をもつユダヤ人ながらベルリンを中心に活躍する。つねに境界をまたいで移動しつづけた/ている二人が、音楽と社会について率直に語り合う。ワーグナーと彼の音楽を演奏することについて、また無調音楽に対する二人の見解の違いをとくに興味深く読んだ。

☆☆☆BOOK『旅するニーチェ リゾートの哲学』,岡村民夫,白水社,2004/8

○1870年代の終わりからの約 10年間が、旅行時代のニーチェである。ドイツを遠く離れて南欧のリゾートを巡り続けた哲学者は、主著のほとんどをこの旅の時代に書いている。著者はニーチェの滞在先を訪ね、彼の歩みを実際に追いながら、その旅を当時の社会環境や文化環境のなかに位置づけなおす。そうして、この「大いなる健康」を生きようとした哲学者のパースペクティヴの特質をさぐりつつ、その文章を練りあげていくのである。本書は、ニーチェの旅と彼の思想との相関性を身体と場所の視点から問う試みであり、たいへんおもしろく読んだ。


25 10/11-10/17号

☆☆☆☆DVD『鬼が来た』

○日中合作。先の日中戦争を背景にした映画で、でもどちらかを悪者にして裁いているような映画じゃない。こういう映画が中国と合作でできるようになったのは本当にいいことだと思う。

 何ものかが貧しい村の農家に日本兵と通訳を連れてくる。預かれというのだが来るはずの迎えが来ない。日本兵は死にたがるが、中国人通訳は都合のいい通訳をして生き延びようとする。そうこうするうちに半年が過ぎる。迷いに迷ったあげく村人は日本軍に捕虜たちを渡して代わりに食糧を手に入れようとするのだが…。

 つながりかけた人と人が目には見えない力によって断ち切られ引き裂かれる。事態が最悪の形に展開していくなかで、人間の根っこのところにある弱さをこれでもかと見せつけられる。救いはそれでも生き抜いていこうとする民衆のその力強さとユーモアの精神だ。それは動物たちを使ったシーンや最後の映像にでてくる主人公の笑顔に、ストレートに現れている。

☆☆☆DVD 『ドッグヴィル』

○犬の村なんだな、やっぱり。悪魔にも見放されるか? ドッグヴィルに現れた謎の女を村人は受け入れることにする。受け入れられた女は逆に村人たちを受け入れ、そのことで村を人間らしい姿に変えていきそうに見えた。が、やがて人々は欲望をむき出しにし始める。「赦し」は、やはり犬たちには効果がない(いや、むしろ逆効果)とされ、「捌き」が下される。ゲームだというのは、壁も屋根もない村の家々という設定で明らかだとしても、その上から見すかしてるようなところは、ねえ。でもニコール・キッドマンがもう、あの世的に美しいから、いいか。

☆☆DVD『レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード』

○うーん、もったいない。これがすぐに出た感想。すごい役者さんたち集めてるのに、その意味では壮大な失敗じゃない? これ。人にお金遣いすぎて、予算残ってなかった? それとも「お笑い」だったのかな? せめて『フリーダ』☆☆☆のように、メキシコに行きたくなるような画面だったらよかったのになあ、ってお門違いか、やっぱし…。


24 10/4-10/10号

☆☆☆DVD『嗤う伊右衛門』

○お岩さんがこれほど白日の下にさらされているのは見たことがない。これはこの映画の長所だ。そしてだからこそ「うらめしや」を描くのは難しくなる。しかし不幸が運命によるものではなく人為的なものであったこと、それを知らされてしまったこと、に彼女は自己を爆発させてしまう。

 「うらめしや」は、伊右衛門にというよりは、むしろ彼女自身にこそ向けられているように聞こえる。世間やこの世など、恨むことさえ馬鹿らしい。そこまで超えているお岩さんだ。そして伊右衛門も彼女にふさわしい、いい男だ。真っ直ぐに純に相手を思う愛そのものは決して目には見えないが、それが現実の世界で余儀なくされる様を映画は形にして残している。

☆☆☆DVD『ヴァイブレータ』

○音楽がよかった。走ってるトラック。無線。ゲロにオシッコ。二人の距離がいい。出会いと再生っていうとちょっと大げさになるけど、女の子(といっても 31 歳)は確実に変わる。食って吐いてた女の子は、この旅を経験することで、たぶんは快方に向かう。快方もちょっと言い過ぎだけど、ま、いい方に。男は年下だけど、ほんとうに優しい。これ以上の展開はウソになるし、これがリアルで、そのギリギリかな。

☆☆☆VIDEO『傷だらけの天使』

○最後は予想できたけど、ふさわしい終わり方で、プロセスに不足はないし、伏線も抑制効かせて必要最低限のところでおさえてて上手いし、映画としても主人公の生き様としても納得がいく。TV 番組の世界とはまた別の世界ができている。この映画を陰画のようにして、もう一度 TV の「傷だらけの天使」を見てみたい気がする。あの妙に浮わついた二昔以上前のリアリティーが懐かしい。でもそれでいうとこれは一昔前のリアリティーになるのかな。


23 9/27-10/3号

☆☆☆VIDEO『ブエノスアイレス』

○男同士も恋愛病にかかると大変やなあ。男と女の関係よりも、なお痛々しい感じがしたけど、青春映画でもあって、もっと若い頃に見ていたら、影響を受けたかも知れないな、とも思う。友愛的な展望を最後は見せていたのだろうか? 孤独でも、何とかなるよ、って言ってたような。

☆☆☆DVD『ブルー・クラッシュ』

○ハワイの波もすごいけど、女性プロサーファーたちのライディングがまたすごい。ビルの壁のような波を真っ逆さまに落ちるように滑っていく。巻き込みながら崩れるパイプラインをくぐり抜ける。事故による恐怖心を克服して一流のプロサーファーへと歩み出す女性の物語。友だちやボーイフレンドに支えられながらも、男に頼らない自立した女性へと成長していきます。こわくって、気持ちのいい映画でした。

???DVD『ブルー』

○イヴ・クラインに捧げられたデレク・ジャーマンの遺作とか。すんませーん。眠ってしまいました。むっちゃくちゃ眠いときに見たんで、いい映画かも知れませんが、縁がなかったということで。そういう意味では評価するのはちょっと気がひけるので、これはたんに紹介です。青といえば、BOOK『青の美術史』(小林康夫)☆☆☆がありました。


22 9/20-9/26号

☆☆☆☆DVD『美しい夏キリシマ』

黒木和雄監督自身の戦争体験をもとにした映画。鹿児島、霧島地方を舞台に1945年8月の敗戦前後の15歳の少年の日々を中心に描く。単なる反戦ドラマではなく、自然を背景に様々な立場の人間の複雑な心理や生き様を盛り込み、幅も奥行きもある豊かな映像作品になっている。

☆☆☆DVD『シービスケット』

美しいシーンがたくさん。手綱や鞍のつけられていない裸馬が草原を走ったり、木の下で寝そべっていたり。ホントいろんな人がいるよー、失敗があってもセカンドチャンスってきっとあるよー、見捨てるのも、諦めるのも、アカンよー、という話だったような。禁酒法や大恐慌の時代のアメリカとアメリカの夢を描いた作品。

☆☆☆☆DVD『ダーク・ブルー・スカイ』

チェコの空軍兵士の友情を描いた映画。第二次大戦時、独軍に武装解除された彼らは、恋人を母国に残し、海を渡って英国空軍に加わって戦う。戦後になって帰国してからも共産主義国となった母国で不遇を余儀なくされた彼らだが、異国の地で言葉を覚え、異国の女性に恋をしてしまう。同じ一人の女性を好きになってしまった二人の友情は壊れたかに見えたが…。特典映像での解説がよかった。CG や模型による撮影方法なんかがよーく分かる。


21 9/13-9/19

☆☆☆FILM『ラヴァーズ』

梅田の映画館。阪神百貨店のビルの南側の。お昼の分が一杯で夕方まで待って見ました。一緒に観た十代の同居人は『ヒーロー』☆☆☆よりよかったと申しておりました。衣装も踊りもセットも風景も、もちろんチャン・ツィイーも美しい。「謀」という漢字のタイトルが内容を伝えている。3年対3日の対決? ヒロインの演技に騙されるのが楽しい。生活も恋愛もギリギリまで省略されて、色・形・動きに置き換えられたチャン・イーモウの映像美の世界が展開する。雪は偶然だとか。梅林茂の音楽もよかった。

☆☆☆DVD『ブラッド・ワーク』

イーストウッドはやっぱり天才です。ひとつひとつのカットが贅肉なしの的確さで切り取られていて、それらのつなぎがまた絶妙にうまい。どんどん映画に引き込まれていって、その世界に自分もいるような感じでサスペンスを楽しめる。

 心臓移植手術を受けて引退していた元FBI心理分析捜査官マッケイレヴのもとに、グラシエラという女性が訪ねてくる。彼女は犠牲者となった姉のために未解決の殺人事件の捜査を依頼し、その姉こそが心臓提供者であると告げる。マッケイレヴは犯人を探るうちに、というお話。

 これを観たら『ミスティック・リヴァー』☆☆☆☆って、かなり突っ込んだ作品だったんだなあって、改めて思った。

☆☆☆DVD『ブラス』

笑わせますね。笑いました。泣かせますね。泣きました。イギリスらしい悲惨皮肉ギャグ満載。ラストの演奏後の演説で、みなさんはアシカやクジラのためになら動くけれど、と話し始めて、はてはサッチャーをしっかり名指してこき下ろすバンマス、かっこいいぞー、でも顔が涙でにじんでよく見えないよー、って思ってたら、拒否したはずの優勝トロフィーをメンバーがかっさらっていくのには笑った。そうだそうだ、持ってけ持ってけ!!

 閉鎖されていく炭坑町のブラスバンド。『リトル・ダンサー』☆☆☆☆(こっちはロンドンで最初に観たときの状況や音楽の好みも入ってます!)的状況っていったほうがわかりやすいかな。夜のロンドン市内を2階建ての屋根なしバスで走りながら「威風堂々」を演奏するラストは印象的。


20 9/6-9/12

☆☆☆DVD『フロム・ヘル』

19 世紀末のロンドンを舞台に「切り裂きジャック事件」を題材にした映画。性懲りもなく好きなシーンの話になるが、テムズ川のほとりを警部(ジョニー・デップ)と娼婦(ヘザー・グラハム)の二人が歩くところ。バタシー公園あたりの緑しかバックには映らないのだが、何かが映るんじゃないかって、ついつい期待してしまう。

 ラスト近くの死んでいく男の幻覚とかぶることになるアイルランドの荒涼とした、しかし緑あふれる海岸の風景ももちろん美しい。それもこれも陰鬱な夜霧に煙るロンドンがあるから。題名のわりにはサラッとした出来映えで、暴力描写が直接的でなく、残虐な場面も直には見せない(もちろんフラッシュ的には使われている)点も僕には好感。

☆☆☆VIDEO『ナインス・ゲイト』

魔女とか悪魔崇拝とか、僕には歴史的文化的背景も知識もないので、まったくわからん、というのが本音。でも楽しめたのは、本(300年も400年も前に出版されたのがワンサカ!)、古書店、印刷・製本所、3人の稀覯本コレクターの書棚等々、がニューヨークやスペイン(マドリ?)、ポルトガル(らしいんだけど?)、パリを舞台にどんどん出てくること。本好きにはたまらんでしょう。あの雰囲気だけでも垂涎もの。実際には、僕んちに置いといたら何年もつやろ、とか思いながら。

 謎の美女? 彼女こそルシファーなんじゃないの? え?ただのお使い? じゃあ、あの双子のおっさんたち? それにしても悪魔に見初められた男にしてはワルぶりも大したことなく線も細いが、3人のコレクターよりは醒めてるってことかな、コルソ(ジョニー・デップ)くん。いや単に若いってことかも。錠前を開ける鍵にはやっぱり元気がないとね。しかしラストは微妙だ。タイトルは9番目の門。あれがそうだとすると「あっち」へ行くんでしょうね、やっぱり。あ、本がらみで謎というと『薔薇の名前』☆☆☆もよかったね。

☆☆☆DVD『スリーピー・ホロウ』

楽しめました。今週は故あってジョニー・デップ。ええ、彼のことが大好きな人がいるんです。そのおかげです。18世紀末、ニューヨーク郊外の農村で起こる「首無し騎士」による「自分(の首)探し」的連続首切り事件。怖さと滑稽さが絶妙にマッチしていて、「あっち」の世界と「こっち」の世界のつなぎ方もうまい。映像としての見た目の面白さと謎解き的な知的な面白さもある。

 この映画は、(ごく一般的に?)楽しめる映画ではないかな。『ナインスゲイト』☆☆☆もそうだったけれど、音楽もいい。ニューヨークに一緒に帰ってきて、19世紀に「間に合った」とクリスティーナ・リッチと喜び合うダメ科学捜査官ジョニーもなかなか可愛い。


19 8/30-9/5

☆☆☆BOOK『増補 小さなものの諸形態 精神史覚え書』,市村弘正,平凡社ライブラリー,2004/4

この本の中にある1つのエッセイ「家族という場所」から引用しておこう。「すなわち、家族のなかの言葉は、未生以前の時間と死後の時間とを包み込んでいる。したがって、一人の子供の誕生は家族を貫く時間を始動させる。動きだした時間は、成員の地位や役割の移動と変換、つまり親や祖父母に『なる』ことを通じて、それぞれを集団的時間のなかを生きていく(死んでいく)存在とするのである」。「『他の人』への依存を恥と思う感情が、非人格的に制度化された『養育』への依存、つまり管理されることを招き入れてしまうのである。『他の人』を追放した領域に専門制度が全面的に侵入し、逆にその制度によって新たな依存の心性が形づくられてしまうのである」。はたして家族という場所は「『相互依存を認めることが恥ではなく解放であるような社会』のための助走路となる」だろうか?

☆☆☆BOOK『哲学のなぐさめ』,アラン・ド・ボトン(安引宏訳),集英社,2002/5

ド・ボトンって人はいったい幾つなんだろう。若いというのは本当だろうか、と疑いたくなる。『旅する哲学』よりももっと哲学史家らしい顔を見せているが、こういうベースの知識があって、『旅する哲学』☆☆☆の余裕がでたのだろう。難しい哲学といったって日常生活でだれもが抱え込みそうな問題について、具体的な力にならなければ意味がないではないか(もちろん、哲学についての別の考え方もある)。だって哲学って、そもそも「良い人生を生きるための知恵」だったんじゃあないの? そういう視点から「皆と群れることができない人」「充分なお金を持っていない人」「自分自身を好きになれない人」等々の症状に応じて、それぞれに適した処方がきちんと示される。

☆☆BOOK 『良寛への旅』,学習研究社,2004/07

これも「ちなみ本」。フォトブックというらしいが、良寛の生涯を、その足跡をたどる写真と文章で浮き彫りにする。撮られているのは現代の風景だが、越後の風景が写っている気がする。新潟を撮り続けてきた写真家らしい。良寛の内面としてではなく、あくまでも彼を取り巻く風景として見たが、たぶん風土のようなものが目に見えるのだろう。良寛の漢詩の紹介や簡単な「良寛への旅ガイド」もある。良寛の書をもっと見たいが、それは別に望むべきなのだろうか。


18 8/23-8/29

☆☆☆DVD『小早川家の秋』

中村鴈治郎の存在感のある軽さが小気味よい。やっぱり宝塚映画だからか、関西弁が川のせせらぎのように流れているのは嬉しいし、大阪や京都のあちこちが映し出されるのは、見ているはずがない昔の風景であっても、いやだからこそだろう、懐かしい。西大寺の競輪場って、今もあるあの競輪場の前身でしょう? あの頃からあって、あんな木造の建物だっただなんて。鴈治郎のしゃべくりは当然絶妙だけれど、関西出身ではなさそうな役者さんの関西弁が結構上手いことに驚ろいた。今より耳がよかったのかな。役柄上か、原節子にはしゃべらせてないですね。『麦秋』☆☆☆では淡島千景と秋田言葉をやりとりさせていたけれど。

☆☆☆DVD『秋日和』

人間のイヤらしい部分も含めた夫婦・友情関係がユーモラスに描かれるなかで、それらに比べると真っ直ぐといっていい親子関係が浮かび上がる。母子で外食する場面で原節子がグラスに残ったビールを飲み干す場面にどきっとしたけど、いちばん好きなシーンは、やっぱりハイキングで若者たちが横一列で歩くところかな。司葉子と岡田茉莉子の二人が会社の屋上から新婚旅行に行く同僚が花束を振ってくれるはずだった電車を見送る場面もよかった。岡田茉莉子がオジサンども三人組を前に啖呵を切るところ、迫力あり。うなぎ、お寿司、ピーナッツと食べ物は大事な場面にいつもあるけど、ゆで小豆は一度きり。

☆☆BOOK『良寛』,水上勉,中公文庫

新潟(長岡技科大)に行く用事があったので、「ちなみ読み」をしようとして読んだ本。漱石も良寛のファンだったこともあって、以前から良寛の生き方と思想に興味があったのだが、ほとんど関連本を読んでいなかった。良寛が「荘子」を深く読んでいたことは、若い頃に「老子の哲学」を書いている漱石と共通するところがあるし、「素人と玄人」についての考え方や禅への関心なども、漱石を絡めながら読んだ。せっかく長岡まで行きながら、良寛さんにちなんだ場所には行くことができなかったのは残念。大学への往復のバスの窓から信濃川は見ることができたけれど。


17 8/16-8/22

☆☆☆☆DVD『晩春』

原節子が小津作品に出演した最初の作品。自分を心配する娘に対して、再婚するつもりだと嘘をついて、嫁にやる笠智衆演じる父親。その父がうんこすわりで嫁入り前の最後の挨拶を受ける。人物の並べ方、動き、すべてが計算された様式美になっているが、それが心情表現と相即不離の関係にある。とくに自転車のシーンが美しい。

☆☆☆DVD『東京暮色』

最後の縁側にあふれる光。冬木立の空。これを見せるためだったんだろう。そんなふうに思ってしまう。長女の、次女の、父の、そして母の、人物それぞれのさびしさ。幾たびか挿入される仰角のショット。それは幸せへの予感を感じさせる。というか、どれも幸せが目に見える形をしているとすれば、そういうものでしかありえない、とでもいうふうに映し出されている。

☆☆☆DVD『麦秋』

大和のおじいちゃんが訪ねてきているので、4世代が一つ屋根の下でいる。兄夫婦の子供達二人を除いて一家全員がノリちゃんの結婚について心配している。ノリちゃんはふとした切っ掛けで、自分一人で結婚を決めてしまう。相手は(戦死したらしい)次兄の友人で彼女自身も幼なじみの、3年前に妻と死別している子持ち男である。秋田に、奈良に、北鎌倉の一家は三つの家に別れて生活することになる。オープニングの打ち寄せる波を遠景にとらえたシーン、ラスト近くの兄嫁と妹の二人が砂浜から汀へと移動する場面はとくに美しい。オオラスには三輪山を背景にした嫁入り行列の場面、そして大和三山のひとつ耳成山をバックにした麦畑のシーン。


16 8/9-8/15

☆☆☆BOOK『旅する哲学』,アラン・ド・ボトン(安引宏訳),集英社,2004/4

現代のモンテーニュというのはさすがに、ちょっと褒めすぎだけど、若いのになかなかやるじゃないか、というのが正直な感想。まあ哲学でも文学でも、そこから学んだことを、自分自身の生き方として、ほんとうに実践できるかどうかにかかっていると思うけど、それって、時と場合に応じて適当な挿話やジョークがすらすらと出てくるといったこととは、ぜーんぜんカンケイナイんだな、これが。もちろん、臨機応変、当意即妙な対応自体は、別に悪いことでもなんでもないけど。

 ド・ボトンは、生きるという一回切りの出来事をより豊かにする方法を教えてくれる。具体的な提案を添えて。もちろん、ひけらかしとは違った知(知識よりは知恵に近いものとしての教養?)として示してくれる、彼の提案自体、深みも厚みもあって楽しめる。たとえ一度は読んで知っている誰かのものであっても、もう一度その本を読んでみたくなるように、文章が並べられている。

☆☆☆BOOK『ハワイ・ブック』,近藤純夫,平凡社,2001/8

何よりも「火山と溶岩の世界」としてのハワイをこの本で教えてもらった。溶岩の種類としてのパホエホエやアアの区別は知った後だったけれど、マウナロアにある世界最長の、キラウエア火山にある世界最深の、洞窟なんか、この本を読むまでその存在を知らなかった。マウナケアの天文台や星空の美しさに気を取られていたけど、足下にそんなすごいところがあったなんて。動物・植物・神話・歴史などについても、一通りのことはこの本でわかる。

☆☆☆FILM『スパイダーマン2』

ちょっと説明過剰なところもある。だから、少し長い。でも、よかった。前作よりも、さらによいと思った。蜘蛛の糸のノビノビ感が気持ちいい。見ていない人のために内容に詳しくふれるのはさけるけど、列車を止める場面(とその後の乗客の反応に)はウルウルきてしまった。そこで致命的な?展開になるのだが、面白いと思ったのも、その展開が含まれているからだ。こういう展開にしてしまったら、次はどんな風になるのだろうか。明らかに次作がある、という終わり方なのだが、次はどう始末するんだろうと、それが気になる。これじゃあ作り手の思う壺か。もちろん気になってるのは「素顔と仮面」の問題なんだけどね。


15 8/2-8/8

☆☆FILM『ローズ・オブ・アトラクション』

優秀な(だから、こだわり屋さんで、どこか抜けている)弁護士同士の二人がトコトンぶつかりあって、そのぶつかりを通して互いの愛を確かめてゆくというお話。ジュリアン・ムーアが難しい役を好演しているが、彼女もこうした映画に出るくらいに認められてきたということだろうか。しかしアイルランドの扱いはどうだろう。そこだけ古いフィルムを繋いだみたいに典型的な人間像と風景。心のふる里であり、愛のキューピッド的役割を果たす土地としてのアイルランドっていうのはわかるけど。(最初、英語で聞こうとしたが、字幕なしだったので、ダダモレ、断念して日本語吹き替えにして観た。なお、下記映画もプロジェクタによる上映。)

☆☆FILM『シュレック2』

僕には前作の方がよかった。話はよくできているし、最後の王様のオチも悪くない。でもなんだか前ほどのハチャメチャさが足りない気がする。日本語吹き替えだったせいか、ゾロ猫の意味がよくわからなかったし。バンデラスの声もかなり無理してるみたいだったけど(上記映画と同じく音声を切り替えることができたので)。最後の踊りにつけてる歌とか、観客の母語なんかも考慮してるのかな。

☆☆BOOK『座右のゲーテ』,斎藤孝,光文社新書,2004/5

目次を読んだらそれでいい本だって? いやいや、この本の中身をさらっとでも読んでみた人は、きっと種本であるエッカーマンの『ゲーテとの対話』(岩波文庫 上・中・下)☆☆☆をこそ読みたくなると思うからだ。もちろん、読んだ本から何をどんなふうに受け止めるかは、読んだ人の特権である。ゲーテ自身の作でなら『親和力』(柴田翔訳、講談社文芸文庫,1997/11) ☆☆☆なんかはどうでしょう。


14 7/26-8/1

☆☆DVD『トゥーム・レイダー』

けっこう楽しめはしたのだが、もとのゲームを知らない僕にはテンポが速すぎて。もう30分ぐらい長めにしてもらって、部屋や調度の細かいところや、ララの人物像を示すエピソードなどのシーンを盛り込んでほしかった。しかしジョン・ボイトがアンジェリーナ・ジョリーの実の父親だなんて、知らなかったなあ。ホンマ、顔一緒やん。

☆☆☆DVD『トゥーム・レイダー2』

やっとわかりました。見方が。007「より自由」なスーパー・ウーマン。「2」が断然いいですね。娯楽作品として幅も厚みもできたような気がします。これなら007並みにシリーズ化もあり得るか。今回は監督も脚本もキャメラも変わってるようだけど、ぐっとベター。高層ビルから元カレと一緒にウィング・スーツを着て飛び降りるシーンは気持ちいい。その元カレを惜しみなく使い切る所なんかも潔い。DVD特典の監督のコメントも面白かった。教えてもらわんと、どこでCG使ってるかなんて、まーず、わかりませんもん。

☆☆☆BOOK『ハワイの歴史と文化』,矢口祐人,中公新書,2002/6

移民、戦争、観光といった様々な視点から、楽園としてだけのハワイではない、いわばハワイの「文化の地層」とでもいうものを、丹念に掘り起こしていく。写真や映画や音楽などのメディアを通じた、人々の「生活」に寄り添いながらの作業が、説得力を生む。


13 7/19-7/25

☆☆☆DVD『マドモアゼル』

クレア(サンドリーヌ・ボネール)は、このたび製薬会社の支社を任されることになったやり手の女性マネージャ。彼女は会社のパーティに呼ばれた即興劇団の男ピエール(ジャック・ガンブラン)と出会う。『マディソン郡の橋』☆☆☆もフランスではこうなる?

 男女のふれあいの機微がフランス映画らしい微妙さで描かれる。出会いを呼び寄せ、最後にはカフェに残される塔(の模型)は何を意味しているのか。嵐に閉じこめられている間、話を聞いていただけで友人の恋人に恋してしまう灯台守の話。偶然に身をゆだね、つかの間(丸1日間)許された自由を生きる女性。男とタンデムで乗るミニバイクのシーンがいい。監督は『パリ空港の人々』☆☆☆(これもよかった!)のフィリップ・リオレ。01年の作品。

☆☆BS『美術館の隣の動物園』

ふられた男チョルス(イ・ソンジェ)と恋愛歴のない女チュニ(シム・ウナ)が同居する羽目に。最初のムリヤリに目をつぶることができる人は、一目惚れでない恋愛もありうるという結論も認めてしまうかも。劇中劇としてチュニが書き進める(のちにはチョルスとの共作になる)シナリオ世界の映像が重ねられるのだが、この世界はぐっと純化されていて(愛し合う男女はそれぞれの片思いの相手)、それがためにストレートで喜劇的な現実の世界にもメルヘン的なソフト・フォーカス効果が及ぶ。シム・ウナは『八月のクリスマス』(こっちは泣いてしまいました)とはまた別の顔を見せている。英語による原題は『ART MUSEUM BY THE ZOO』(ふつう、こっちでしょう、やっぱり)で98年の作品。

☆☆☆CS『新座頭市 破れ!唐人剣』

シリーズ22作目。71年公開の作品で、市が初めて異国の剣豪と闘う。唐人(ジミー・ウォング王羽(ワン・ユー))のカンフー・アクションは、技の速さよりは力の強さの表現を重視していて、73年公開の『燃えよドラゴン』☆☆☆(ブルース・リー主演)がアクションを根本から変えてしまう前の動きだが、そもそもは市の殺陣の凄さを側面から支えるためのものだ。この殺陣は30年以上過ぎた今見てもすごい。

 懸賞金をかけられた隻腕の唐人が言葉の通じる親友の日本人僧に裏切られ、言葉が通じず目の見えない市に一度は助けられながら、ついには斬り合うことになる。どうしてもそうなる、その「どうしても」をどういう仕方でか説得的に描くのが映画だ。

 異人という幅の広がりだけでなく、無垢でありつつ無邪気とはいえない子供、両親を殺され市を誤解する若い農の女性(寺田路恵)、市に惚れる気っぷのいい夜鷹(浜木綿子)などを配して、作品に奥行きも与えている。勝新のパロディ三波伸介の座頭波の市は見た瞬間に笑える。伊東四朗はすでに天才的。てんぷくトリオは久しぶりで、それだけでも楽しかった。


12 7/12-7/18

☆☆☆DVD『美しき虜』

これも同居人が借りたもの。第二次大戦時、ナチスドイツのもとに赴いたスペイン映画チーム。ドイツ主導の共同製作は難航する。そこに宣伝相ゲッベルスが現れ、女優マカレナ(ペネロペ・クルス)に横恋慕。暗い世相を背景にしながらもドタバタに近いユーモアをちりばめたフェルナンド・トルエバ監督の姿勢には大いに共感。

☆☆☆BOOK『伊良子清白 日光抄』,平出隆,新潮社,2003/10

読了。清白の漂白の後半生。唯一の詩集『孔雀船』の刊行を待たずに東京を去り、山口、大分、台湾、京都、三重へと、保険会社の嘱託医、県の検疫官、精神病院の助手あるいは村医として流れていく日々。その詩の世界からの遠離/厭離が何故のものであるのかを興味の中心に据えつつ、著者は清白の日記をたどり、詩史を参照し、清白の生と死を重層的に組み立て直していく。ただ、超空折口信夫との接点「海やまのあひだ」に触れた部分は『折口信夫事典』(西村亨編、大修館書店)の記述に負うところが多いように思われたが、なんら断りのないのが少し気になった。

☆☆☆BOOK『俳人漱石』,坪内稔典,岩波新書,2003/5

漱石の俳句をとりあげて、俳人としての漱石像を描く。文学史的な資料も必要最低限は参照されているが、いちばんの魅力は坪内氏独特の視点からの漱石俳句の批評だ。子規と漱石本人にも登場させて、合評の形をとっているところがミソであり、3人のやりとりを通じて、「切れ」などの俳句の基礎が学べるだけでなく、漱石や子規の生活や人柄まで浮かんでくる仕組みになっている。坪内氏によれば、漱石の俳句はほとんどが月並みの凡作ながら、写実よりは虚構、むしろ体験を離れたところで発想したものに見るべきものがあるようだ。「詩歌というのは、もしかしたら、個人の純粋な創作というものではないね。先達や仲間などの力によって、個人が他者に開かれてゆく。そのような表現が詩歌なのかもしれない。」


11 7/5-7/11

☆☆☆VIDEO『魅せられて四月』

同居人が借りてきたもの。20世紀の初め、第一次大戦後。4人のイギリス女性が4月のイタリアの古城で時を過ごす。中流階級の生活に埋没している「婦人」ローズとロティ。著名な文化人たちのそばにいた過去に生きる老女ミセス・フィシャー。社交界での華やかな生活に倦んでいる貴族の女性レディ・キャロライン。それぞれの人生。それぞれの愛。イタリアという別世界で自分を見つけ直しながら、皆が誰かとつながっていく話。ローズの明るさが「つながり」を生み出していくのだが、彼女を演じたミランダ・リチャードソンは『めぐりあう時間たち』☆☆☆に、キャロラインを演じたポリー・ウォーカーは『エマ』☆☆☆に、フィシャーを演じたジョーン・プロウライトは『ジェイン・エア』☆☆☆にそれぞれ出ている。92年のイギリス映画。

☆☆☆BOOK『磁力と重力の発見1 古代・中世』,山本義隆,みすず書房,2003/5

第2巻に続いてやっと第1巻を読み終えた。手応えがありすぎて、すいすいとは進めない。一定のリズムでもって読んでいけるほど、こちらに力がないせいなのだけれど、それでもやめられないところが、この本の魅力ということになるのだろう。自然学における経験と数学の重要性を語り、自然力の技術的応用という学の理想を示すロジャー・ベーコン。しかしアリストテレス哲学を超え出るのはなかなかのようです。僕が紀元前の段階でとどまっていても何ら不思議じゃないか。

☆☆☆BOOK『伊良子清白 月光抄』,平出隆,新潮社,2003/10

明治の一時期にその希有な才能を開花させながら、一冊の詩集のみ残して詩壇から去り、やがて人々の記憶からも遠ざかっていった詩人伊良子清白の評伝。惜しくて読み終えたくない本だが、もう一冊あるので、それが読みたくて、ついつい読み終えてしまった。清白の詩とともに、自身詩人でもある著者の鋭い洞察、慎重に選ばれ吟味され綴られた言葉が、心に染み込む。


10 6/28-7/4

☆☆☆VIDEO『ストレイト・ストーリー』

タイトル・ロールの役者(リチャード・ファーンズワース)の目がいい。ストレイトかつシャイなこの男をよく表している。話し方もいい。娘さんの話し方もこれしかない。周りの人たち。とくに老人たちがいい。名前どおり、ストレイトな、しかし73歳になるアルヴィンが、トラクターによる一人旅を遂行する。目的は10年来音信不通になっている兄と再会し、和解すること。出会いと別れを通じて男の人生が浮かびあがる。

☆☆☆☆DVD 『マルホランド・ドライヴ』

???? 星の数は?の数。いったいどうなってるの? そういえば「着いた」のに「お別れ」の妙な始まり。あの赤いスタンドと電話は? いや黄色い電話だよ、問題は。結局だれが死んでるの? あれ、これどこかで見たぞ。自分がほんの今見終わった夢のような気がしてくるよォー。

☆☆VIDEO『シュリ』

今頃なんで?と言われるかも知れないが、事情があって?初めて見る。娯楽作品とはいえ、血と弾丸が多すぎたような。恋愛映画としてより、友情のほうに気持ちがいったのは、少なくとも今の僕にはそういう映画だったのかな? 99年の作品で、00年の公開。先のワールドカップ以前の南北朝鮮の動静や日本との関係なども変化していて、そういう意味では時間的にかなり距離をおいてしまったので、その分、リアルさからも遠ざかってしまったのかも。ラスト近くでの北の特殊部隊長(チェ・ミンシク)の言葉だけはさすがに強いが。


9 6/21-6/27

☆☆☆VIDEO『オール・アバウト・マイ・マザー』

交通事故による子供の死。父親を探してバルセロナへ。しかしそこで出会った少女はその「男/女」を助け、「彼/彼女」と交わり、妊娠し、エイズに感染していた。再び「母」となる母。劇中劇としての「欲望という名の電車」。エンディングには「女優を演じた女優たち、すべての演じる女性たち、女になった男たち、母になりたい人々、そして私の母に捧げる」との監督の言葉があり、それがほとんどすべてを物語っている。

☆☆VIDEO『ハイヒール』

母と娘の愛憎劇。アルモドバルはそれをミステリー風味で仕上げている。母親の昔の恋人と結婚している娘。その男が殺される。犯人は母親か娘か愛人か。しかし坂本龍一の音楽の方が映像をちょっと追い越してしまっていたのでは? それにしても今週はアルモドバル一色。

☆☆DVD『マタドール』

男女の究極の愛の形。なのだろうか。ナチョ・マルティネスとアサンプタ・セルナの2人が何とも魅力的。一人の青年を介して知り合う引退した闘牛士と女性弁護士。2人はやがて互いに離れられない存在であることを確信する。ここまでいけたら許しちゃいます。はい。


8 6/14-6/20

☆☆☆DVD『フリーダ』

画面のそして画布の深みのある色彩があでやか。フリーダ・カーロとトロッキーがマヤの遺跡を訪ねるシーンが印象的。偶然の事故による障害を抱えながら、幾多の困難を乗り越えて力強く生きる画家であり一人の女性であるフリーダ。生きる力を応援する力が、フリーダ・カーロとこの映画にはある。

☆☆☆☆VIDEO『トーク・トゥ・ハー』

かなり久しぶりに観たアルモドバル。特異な状況のもとにある男女を描きながら、生と死、愛と友情といった問題をリアルかつ共有可能な「普遍」として浮かびあがらせる。ラストのシーンもいい。これまでに観た数作品のなかでは最も静かな印象。アルモドバルは持ち前の取り合わせのうまさに磨きをかけ、しかし以前は力業でねじ伏せてきた「偶然」を、ここでは限りなく「自然」に近づけている。

☆☆☆BOOK『太宰治 弱さを演じるということ』,安藤宏,ちくま新書,2002/10

太宰を倫理的読解から解き放ち、他者との共生感を求めて得られなかった人間関係の悲劇を太宰作品から読み解いていく刺激的な論考。著者の言を借りれば、入門書であると同時に、今を生きる私たちにとっての太宰とは何なのかを問う評論であり、また太宰の文体や方法の必然を解き明かそうとする歴史的な意味を探る研究の書でもある。


7 6/7-6/13

☆☆☆BOOK『俳句的生活』,長谷川櫂,中公新書,2004/1

潔さ、というと語弊があるかもしれない。昨今はやりの情緒的なフリカケのたっぷりかかったブシドーのようなものと誤解されかねないから。俳句の「切れ」を、これほど腑に落ちるかたちで説明したものには、これまで出会ったことがなかった。感服。著者自身の生き方が、やはり潔いというしかない。家のローンもあって、育ち盛りの子供が二人もいるのに、二十数年勤めた会社(新聞社)をあっさり辞めてしまうなんて、まずできないな、とあこがれてしまう。

☆☆☆BOOK『磁力と重力の発見2 ルネサンス』,山本義隆,みすず書房,2003/5

第1巻の序文を読むほどのひとならば、だれでもこの本の本文を読んでみたくなると思う。この巻は、クザーヌスから始まるが、そこでもうため息が出て、なかなか先へ進めない。彼の『知ある無知』の新しさ。神が創造した万物の各々は、固有な数と重さと尺度を持って自存している。このことを、宗教的な正邪の観念と結びつけてではなく、「人間による地上の事物の認識の可能性の根拠として語った」こと。「クザーヌスにとって知性的な認識とは、同一度量単位に還元することによる量的一元化と、それにもとづく定量的測定によってのみ成し遂げられるものであった」。

☆☆BOOK『筒井順慶の生涯』,筒井順慶顕彰会,非売品,2004/2

本屋さんで売ってる本じゃないけれど、わが校の図書館にはある。情報工学科の松尾先生が熱心に読んでいたので、興味がわいた本。大和郡山市にある学校に勤めていながら、でもはっきりいって順慶には興味がなかった。「日和見」順慶で十分と思っていたのである。それがどうも違うようなのである。分厚くないので手に取りやすい。漫画で大筋をつかめるようになっているのも、うれしい。その合間あいまに詳しい解説が入る。愛の感じられる一冊。


6 5/31-6/6

☆☆☆FILM『スクール・オブ・ロック』

久しぶりに映画でガンガン来ました。ロックとスクールなんて、子供でなきゃ組み合わせるの無理。現に子供たち自身がこのバンド名を考えている。みんなで分かちあいながら伝えていくという、まっとうな「教育」が実践されるのは、たいてい「教室」以外? 校長先生もよかったけど、何といっても最後に演奏する劇場がいい。ロンドンな劇場。

☆☆FILM『エルミタージュ幻想』

90分ワンカットの映画を見ておきたい、という興味本位の気持ちから、妖怪じみた時空の旅老人「ヨーロッパ」に案内されて近代ロシア史の迷路を彷徨うことに。どんなふうに終わるんだろうと思っていたら、うん、やはりヨーロッパには「ここに残る」と言わせて、キャメラはというと、へぇ、こんなところに出られるのか。深い鈍色のネヴァ河を思い出しました。

☆☆☆BOOK『真珠の耳飾りの少女』,トレイシー・シュヴァリエ(木下哲夫訳),白水uブックス,2004/4

映画の原作だが、読み応えがある。映画とは全く別物と考えて読んだ方がよいだろう。両方を比べてみると、それぞれの表現の特徴も見えてくる。映画は、光や色彩はむろん、音楽の活用によって、より繊細な「空間」の演出を行い、どちらかといえば少女のイノセントな美しさを前面に押し出していた(むろん、その反面が描かれているからこそ、ではある)が、小説は、「時間」を、また、女のしたたかさを、丁寧に選択された、しかも平易な言葉を重ねることで、浮き彫りにしている。これを読んで、映画も、もう一度観てしまった。


5 5/24-5/30

☆☆☆FILM『真珠の耳飾りの少女』

フェルメールも大変だったんだね。昔、佐野元春が「〈生活〉という うすのろを乗り越えて」(「情けない週末」☆☆☆)と唄っていたけど、どうしてどうして、この「うすのろ」はタダモンじゃない。絵画の物質的経済的基盤を丁寧におさえていた点、街はずれの運河と並木、堤で若いふたりが睦みあう場面など、屋外のシーンをうまくはさみこんでいたのがよかった。

☆☆☆BOOK『日本その日その日1』,E・S・モース(石川欣一訳),東洋文庫171,1970/9

なーんだ。太宰の『富嶽百景』☆☆☆☆のずーっと前に、モースが富士山の鋭角的把握傾向について、しかも学生たちに実際に描かせてみながら、書いているじゃないか。

☆☆☆BOOK『日本史4 キリシタン伝来のころ』,ルイス・フロイス(柳谷武夫訳),東洋文庫164,1970/6

うーん、やっぱり信長はすごい。すごいけど自分たちの布教活動を阻もうとする人間たちを平気で「悪魔」よばわりする「ぱあでれ」たちも決して信長に負けていませんね。信長はきっと彼らのことが好きだったにちがいない。それにしても「世界の果て」でよくこれだけの情報を得たもんだ。


4 5/17-5/23

☆☆FILM『コールド・マウンテン』

今風『風と共に去りぬ』☆☆☆☆か。時代劇風『シティ・オブ・エンジェル』☆☆☆か。『イングリッシュ・ペーシェント』☆☆☆の監督らしいけど、男のアホさ、だから逞しく生きざるを得ない女の強さがよく出ていた。南北戦争という「内戦」を舞台にしているところ、「俺たちは天使じゃない」ってところが「今」風なのかな。カンケーないけど、『俺たちに明日はない』☆☆☆☆

☆☆BOOK「源氏物語について」『病むことについて』,ヴァージニア・ウルフ(川本静子訳),みすず書房,2002/12

「経験の根といったものが東洋の世界からは取り払われており」「それとともに、活気、豊かさ、成熟した人間精神もまた姿を消しているのだ」なんて、手厳しいですね。日本文学の代表作?もこんな風に映るんだなあ。って、ウェイリーの英訳本を読んでいるわけじゃないんだけど。

☆☆☆BOOK『ビギナーズ・クラシックス 平家物語』,角川書店編,角川ソフィア文庫,2001/9

平家物語が読みたい、という十代前半の同居人に、適当なものを、と探していて見つけた本。平家ってやっぱりいいな。『源氏物語』☆☆☆よりもずっと、ずーっと「近い」感じ。


3 5/10-5/16

☆☆☆BOOK『ひとり旅は楽し』,池内紀,中公新書,2004/4

人間ができているから、旅が楽しいのか。旅をしたから、よい人間ができあがるのか。どうもこれは愚問である。やはり「ひとり」というところが大切なポイントなのだろう。ノウもハウも、心構えというか、覚悟というか、気持ちがあってのこと。引き締めるところは引き締めつつ、弛めるところは弛めて。むゥすゥううんで、ひィらァいいて♪

☆☆☆BOOK『カポーティ短編集』,T・カポーティ(河野一郎編訳),ちくま文庫,1997/2

なかでも「ローラ」が最高によかった。村上春樹や池澤夏樹といった作家たちが、ギリシャや地中海で暮らしてみようという気になるのがよくわかる。作家だったら、やっぱりここで暮らしてみなきゃ。そう、カポーティだって「先輩」たちに惹かれてやってきたんだから。小さな島にも行っときゃよかったな。


2 5/3-5/9

☆☆☆☆BOOK『兆候・記憶・外傷』,中井久夫,みすず書房,2004/4

わずかな言葉で何をどう書けばよいのか。中井氏の文章に、またもや苦もなく同期してしまっている自分を発見する。読みながら私は、冷静なまま高揚し、興奮しながらも心静かに安らいでいられるのである。内容はむろん決して軽いものではない。相当に重い。けれどノリがあり、開けがあり、したがって楽観がある。どんな本も読みたくない、そんなときでも、ページをめくればすぐに入っていける。

☆☆☆BOOK『博士の愛した数式』,小川洋子,新潮社,2003/8

話題になっている本なのに、珍しく手に取るのに抵抗感がなかった。うちの図書館で表紙を見て、すぐに借りた。記憶が80分しかもたない数学者。通いの家政婦と10歳の息子。素数、完全数、友愛数。タイガース、江夏、野球カード。そして博士の秘められた恋。かなしいあたたかい物語を静かに淡々と読ませるところに作者の技量を見た気がした。

☆☆BOOK『読書術』,エミール・ファゲ(石川湧訳),中公文庫,2004/5

第八章「読書の敵」、第九章「批評の読書」をとくに面白く読んだ。「読書の主要な敵は、自尊心・臆病・激情・及び批評心である」「著者そのものを読み返すためにでなければ、著者の批評家を決して読んではならない」など。当たり前でいてなかなか含蓄のある言葉、味わいのある文章。高校生、大学生向き。


1 4/26-5/2

☆☆BOOK『龍馬の手紙』,宮地佐一郎,講談社学術文庫,2003/12

龍馬の手紙139通のほとんどが写真でも載せられているのがうれしい。龍馬の生涯について概略でも予め知っているとたのしみが増すこと請け合い。龍馬の手紙を眺めていると、その闊達自在な筆致がまず眼について、かの人物の奔放自由さが思い浮かぶのであるが、何度も眺め直していると、どうもその筆跡はただならぬほどの達筆のように思えてくる。

☆☆BOOK『龍馬を読む愉しさ −再発見の手紙が語ること−』,宮川禎一,臨川選書23,2003/11

新しく発見された手紙から、新しい龍馬像を組み立て直す作業につきあうのも、もちろん楽しいけれど、それは龍馬の字が眼に見えて美しいからこそ。内容に沿うように軽妙洒脱なスタイルに見えたり、内容とは関係なく、書体がそのまま絵画か、音楽か、あるいは彼の精神の運動そのもののように見えるといえばいいのか、とにかく、見飽きるということがない。不思議である。

☆☆BOOK『地図が読めればもう迷わない 街からアウトドアまで』,村越真,岩波アクティブ新書97,2004/1

またワンゲルでも始めるってかい? まさか。でも地図そのものが好きなんですよ、まず。かなり基本的なところから教えてくれているので、そうだったそうだった、と復習してみたり、あ、そうだったんだ、と初めて学んだり。でも地図の「読み」がけっこう論理的。これでアウトドアで実際に試してみれば、ボケかけた頭のよい体操に、きっとなる。