2005/4

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April 30, 2005 編集
☆☆[DVD]『シークレット』

幼い娘は、まだ小学校の低学年、といったところだろうか。
ふたりとも、まだまだ若い夫婦なのに、すれ違いの毎日。
ある日、その同じ一日のうちに、親子3人が、それぞれに秘密をもってしまう、というお話。
だから、ここでもやっぱりヒミツが、いいでしょう。

もっとロンドンを!っていうのは、わがままかな。
とにかく、ジャクリーン・ビセット Jacqueline Bisset が素晴らしい。
溜息はやっぱし、こういう種類のものがいい。

『SECRETS』、1971年、英、フィリップ・サヴィル Philip Saville 監督作品。


29, 2005 編集
☆☆[DVD]『赤目四十八瀧心中未遂』

釜が崎から尼崎(アマ)へと流れ着いた青年イクシマ(大西瀧次郎)。
彼は、暗いアパートの一室で、臓物を捌き、竹串に刺す仕事で糊口をしのぐ。
同じアパートに住む女アヤ(寺島しのぶ)の兄が出所してくる。
ある日、アヤはイクシマの部屋を訪ね、情交におよぶが、兄のせいで彼女の運命は急転する。

阪神尼崎駅、JR天王寺駅、近鉄八木駅などなど。
知った駅が出てくるだけで、何となくうれしい。
このさい、俳優たちの関西弁がどうのこうのというのは、やめておこう。

それにしても、この映画の「赤目四十八瀧」は美しい。
人がいないせいだろうか。
アヤの兄が、遠足でそこに行くはずが、貧しさのために行きそびれたという。
ふたりは、右に左に折れながら、あの世のような渓流を登っていき…。

日の当たらない生活。
それをふつうの日常として生きる命の明滅を、映画はていねいに描いている。
サイくん(新井浩文)のうなじに彫られるバーコードの刺青は、しかし笑えない。
生活が「濃い」分、より山水の自然が美しく見えるのだろうか。

監督は、『ツィゴイネルワイゼン』『どついたるねん』などのプロデューサーだった人らしい。原作は、「私小説作家」車谷長吉の同名直木賞受賞作(未読)。
2003年、日、荒戸源次郎監督作品。


28, 2005 編集
☆☆[book]『河岸忘日抄』,堀江敏幸,新潮社,2005/02

「選択」の全ぼうを、あきらかにしようとしている本だ。
あるいは、「ためらうこと」の贅沢さについて、克明に綴った書物なのかも知れない。
どこから読み始めてもいいし、どこで読み終わってもいい。
そして、読み終えたくない書物。

 墓地のなかを散策するとき、足元には死者たちが肩を並べて横たわっている。その数はきわめて多く、しかもますます多くなるだろう。
 「彼らは動くことができず、いっしょに押し合うようにして、そこにとどまらなければならない」
 そのなかで散歩者ひとりが好きなように往きつ戻りつができるし、しかも立っていられる。横たわっている者たちの只中にまっすぐ立っていることの快さ。浩瀚な思想書にあって、墓地を散歩することの愉しさを、このように愉しく考察したものは二つとないはずだ。
(池内紀 エリアス・カネッティ『群衆と権力』を紹介する文の一部 「生きのこること 亡命という生き方7」『文学』2005年1,2月号、岩波書店)


墓地へ。
「時を忘れるために」?
いいえ、「場所」を心に刻むために。


ものごとは、オンとオフで変わりはしない。自分でも気づかないほど些細なできごとの積み重ねが、最後に崩壊を導くのだ。p151

現実に向きあい、ときにはそこに加担し、ときにはそこから退く技を、ひとはしばしば処世術と呼ぶ。他者に対する善意の目配せをつねに目配せだけに終わらせ、自分を追いつめないこと。そういう身のかわし方がこの流派の最良のかたちだとするなら、彼はそこからもっとも遠いところに立っていた。p20

…運転手は応える。「どうってことありませんよ。人間てやつは時を忘れるために墓地に行くんです」。p167

風にあらがいながら蝋燭に火を灯し、熱い鉱泉が薄く底を浸した空間を、ロシア生まれの詩人がそれを消さないよう幾度も往復するという映画の一場面を、彼は脈絡なく思い浮かべる。イタリアのおだやかな丘陵地帯にある聖堂で、心臓を病んだこの詩人はひとりの男と出会う。おのれのことばかり考えず、そして家族のことだけを考えず、もっと多くの人間を救おうとするべきだったと語るそのいくらか頭のおかしい男の言葉からなにかを得て、詩人は取り憑かれたように炎の受け渡しを試みるのだ。p18

少年の弱さは、同時に強さにもなる。しかもその強さは腕力ではなく、(…)たちどころに消えてしまう言葉という蝋燭の炎である。p27

自分はたったひとりだと考えるのは、だからおそろしく傲慢なことだ。おれはひとりぼっちだと、そう考える余裕を与えてくれているのは、なんの血縁関係も、なんの力関係もない赤の他人たちだからである。p197

「『ノスタルジア』において追求したかったのは、〈弱い〉人間という私のテーマだった。〈弱い〉人間とは、(…)思うに、この人生の勝利者なのである。(…)。私の映画にけっして英雄は登場してこなかったが、強い精神的な信念を抱き、他者にたいする責任をみずから負う人物たちはいた」(アンドレイ・タルコフスキー『封印された時間』)p19

なぜ中間に立つことができないのか。あいだに身を置くのは責任の回避では断じてなく、誰にもそうとはわからない微妙なしかたで責任を取ることなのだ。p20

誰が見ても正しいことを、ひとは真実と呼ぶ。誰が見てもあきらかならば、なんの説明も、なんの解説もいらないはずだ。。程度の差こそあれ、真実はあちらこちらに転がっている。だから、真実とはなにかを、正しいこととはなにかについて論じることにも、ほとんど意味はない。真実とは、真実と見なされているものとの関係であり、距離の取り方であって、それ以外ではないのだ。p158

いま切実に欲しいと彼が念じているのは、闇の先を切り裂いてあたらしい光を浴びるような力ではなく、「ぼんやりと形にならないものを、不明瞭なまま見つづける力」なのだから。p84

…一生のあいだおなじところに留まるなんて、どだい無理な相談なのである。しかし与えられた枠のなかでものごとにたいする焦点距離が安定するなら、彼はあたらしいレンズを手に入れる代わりに、焦点が合うところまで視野ぜんたいを移してやるだろう。それが彼にとって、傲慢さやひとりよがりを抑制しながらなお自分を失わない唯一の方法であり、動かずに移動することを可能にするたったひとつの方途だった。p52

たった一度の決断がすべてを変える、そういう例は数こそ少ないけれどまちがいなくあって、…p178

趣味はどこまでいっても趣味にとどまる。そこには「賭す」きびしさも「切り捨てる」つらさもない。なにがあっても避けるべきは、自身の性向と遊離した皮相な遊びに無理をしてつきあうことだ。p263

ところが彼の記憶はいつも肝心なところで頼りなくなる。記録があれば、それを信頼してすべてを委ねたい。にもかかわらず、その記録が他者の記憶ときわどくふれあうのを怖れて、なんの手出しもできなくなることもあるのだ。p159

はっ! そうか! じゃあ、きみはひとを疑う夢を見たことがあるのか? p196

目的のない希望とはむしろごくまっとうな想いの寄せ方であって、希望に目的があったら、それは欲望に、あるいはもしかすると…p211

絶望と冷笑とはまったくちがうのだ、とショスタコーヴィッチは説いていた。なにも信じていない人間が絶望に陥ることなどありえない。冷笑するのは、ひとを信じることのできない、つまりは待つことのできない連中だけである。p161

わかっていることをいつまでも先送りにするなんて、心の貧しい連中のやることじゃないか、…p178

音楽はかつて経験したことのないものを思い出させる、とロシアの作家が書いていた。p263

たとえば赤ワインのボトルを水槽に沈めて、金づちでぱこんと割ってやる。(…)わずかな時間、器をなくしたワインは水のなかでボトルのかたちを保つのだと。(…)外へ流れ出ていく方法としては、これがいちばんの理想ではないか。p281

だからこそ、文学の言葉は、「悲しみの解釈」に走ってはならないのである。p203

[film]『阿修羅城の瞳』

なんだか、どこかで、見てきたような。
そうだ、『陰陽師』だ。
映画館を出て、もらったガイドブックを見たら、その監督の映画だった。

七代目のために作られたかのような映画で、染五郎がいい。
外連味たっぷりで、音楽もいい。
エンディングに流れる「マイ・ファニィ・ヴァレンタイン」だって、そう外してはいない。

でも、これを見た人たちは、この映画を、市川染五郎の演技で記憶することになるのだろうか。
それともVFX?
まさか、ラストの思わせぶり(というより、露骨)なセリフ?
僕はたぶん、宮沢りえである。

劇団☆新感線による同名の舞台劇を、僕は見ていません。

2005年、日、滝田洋二郎監督作品。


22, 2005 編集
☆☆☆☆[DVD]『恋人たち』

ディジョンというフランスの田舎町に住む人妻ジャンヌ(ジャンヌ・モロー Jeanne Moreau)。
実直な新聞社主の夫との退屈な暮らしに倦んだ彼女。
楽しみは、自分に夢中になっている愛人がいる刺激的な大都会パリへ出かけること。

家を空けることが多くなったジャンヌは、それを夫にとがめられる。
その夫にすすめられ、女友達と一緒に、愛人をも自分の屋敷に招待することになる。

その誘いのためにパリに出た帰り。
自動車の故障から、偶然知り合うことになった青年ベルナール。
考古学者の彼もまたジャンヌの家に一泊することになる。

せっかくの夕食会は、互いに気が合わない彼らの、ちぐはぐな会話に終始する。
その夜、寝つけないジャンヌがグラス片手に屋外に出てみると、やはり酒の入ったグラスを手にしたベルナールがいた。
そこで彼らは、本当の?「出会い」をしてしまう。

月明かりの夜と、その淡い光のもとで、ほどかれ結ばれようとする二人の心情の描写、そしてブラームスの音楽が美しい。
夫も子供も(もちろん愛人だって)バッサリと捨ててしまう。
ほんの少しのためらいが、なかったわけではない。

しかし夜明けが、それをあっさりと振り切る。
倦怠(アンニュイ)から解放され、窓を開けた車に髪をなびかせた彼女。
ほんとうに気持ちよさそう。

『LES AMANTS』、英題『THE LOVERS』、1958年、仏、ルイ・マル Louis Malle 監督作品。


21, 2005 編集
☆☆[DVD]『ビッグ・フィッシュ』

父とその息子の絆を描く、ファンタジー・ドラマ。
ティム・バートン監督は、『シザーハンズ』『スリーピー・ホロウ』を撮った人。
ダニエル・ウォレス原作『ビッグ・フィッシュ 父と息子のものがたり』を、僕は読んでいない。

エドワードは、話好き。
万事に社交的な彼は、自分の人生を幻想的に、いわば「尾ひれ」をつけて語ってみせるのが上手い。
聞いている人は、必ず彼に魅了され、楽しい気分なる。

しかし息子のウィルは、オヤジのホラ話に少々食傷気味だ。
そのせいで、自分の結婚式なのに、父親に主役を奪われてしまう始末。
父と息子は、以後3年間、互いに口を利かなくなる。

そんなある日、ウィルは、母から父の病状が悪化したとの報せを受け、身重の妻と一緒に実家を訪ねる。
自分ももうすぐ父親になる彼は、死に向かいつつある父に、本当の姿を見せてほしいと頼むのだが…。

父と息子の間にある溝は、物語と事実の間にある溝のようだ。
ウソとマコトの話といえば、『グッバイ、レーニン』もそうだったけどね。
深い溝は、しかし真実がそれを埋めてくれる、とでもいうようなラスト。

『BIG FISH』、2003年、米、ティム・バートン Tim Burton 監督作品。


20, 2005 編集
■[DVD]☆☆『愛の落日』

フランスからの独立に揺れる1952年のヴェトナム。
つまりヴェトナム戦争「前夜」を描いているのだが、どうしても現在のアメリカの姿がちらつく。
原作はグレアム・グリーン『おとなしいアメリカ人』(未読)。

初老の英国人リポーター、トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン Michael Caine)には、現地妻のフォング(ドー・ハイ・イエン)がいた。
トーマスの前に一人の米国人青年アルデン・パイル(ブレンダン・フレイザー Brendan Fraser)が現れる。
パイルは、トーマスからフォングを紹介され、彼女に一目惚れしてしまう。

ロンドン・タイムスの本社に戻りたくないトーマスが、スクープをねらって北部に出かけると、そこにパイルが現れ、忽然と消える。
パイルに助けられ命からがら北部からサイゴンに戻ったトーマスだが、妻との離婚ができないことが判明し、フォングはパイルと暮らすようになる。
しかし、医療援助団体の一員だというパイルは、どうもその動きが少し怪しいのだった…。

一人の女性をめぐって争う男二人は、互いに友情を感じてもいる。
だが歴史は、彼らを政治的存在であることから自由にはしてくれない。
譲り合えない彼らは、真っ向からぶつかり合う以外にないのだ。

二人の生き方の違いは、やがて彼らを引き裂くことになる。
二人の男の間を行き来するフォングが哀しい。
マイケル・ケインの名演(その語り!)が光る作品。

『THE QUIET AMERICAN』、2002年、米、フィリップ・ノイス Phillip Noyce 監督作品。


19, 2005 編集
[DVD]☆☆『白いカラス』

監督自身、どこまで納得してこの長さにしているのか。
人種差別発言、人種詐称、社会的引きこもり、幼児期の性的虐待、ストーカー、ベトナム戦争症候群など、問題が盛りだくさん。
あと、30分くらいはほしかったんじゃないか。

もちろん、2時間半も画面にひきつけておくのは大変だけど。
でも短くしたんで、全体の構成も変わらざるを得なかったのでは?
そう思わせるようなところがあった。
ちょっと有名俳優の「顔(存在感や演技)」に頼りすぎてる?

冒頭に結末がおかれている。
だから、一対の男女の関わりの結果としての結末よりも、どうしてそういう結果になったかを語る映画だというのは、明らかだ。

1998年、米マサチューセッツ州の大学のキャンパスでは、クリントン大統領による元実習生との不倫もみ消し疑惑の話題で盛り上がっていた。
学部長も務めるコールマン(アンソニー・ホプキンス Anthony Hopkins)は、ユダヤ人初の古典文学教授。
ある日、講義中に発した一言が黒人に対する差別発言とされ、辞職を余儀なくされる。

ショックを受けた妻をも失った彼は、湖畔の森に隠遁している作家ネイサン(ゲイリー・シニーズ Gary Sinise)に会いに行き、彼らの間には友情が芽生えはじめる。
そしてコールマンは、じつはフォーニア(ニコール・キッドマン Nicole Kidman)という若い女性と出会っていた。
辛い過去を背負った彼女は、夫レスター(エド・ハリス Ed Harris)の暴力からも逃げていた。
やがて、コールマンとフォーニアは、互いに離れられない関係になり、妻にさえ隠していた秘密を彼女に打ち明けようと決意する…。

映画にカラスは出てくるが、もちろん黒い。
人間に育てられたために、カゴの外では生きられないカラスだ。
「白いカラス」という邦題が、コールマンの秘密を明かしている。

この映画が、意志的な選択によってであれ、偶然によってであれ、過去や心的外傷からの解放を描こうとしているのだとしたら、その見解は、かなり悲観的なものだ。
少なくとも、死と引き換えでないと、癒しも解放も許されはしないのだから。
そんなことはわかったうえで、人には「愛」にしか可能性はない、ひとは「愛する」ことしかできない、と、そういうことなのかも知れない。

最後にネイサンは、確かめておくことがあったとレスターを訪ねる。
レスターの発言から、彼にはあらかじめ「計画」があったことが確認される。
ネイサンはおそらく、自分を含めてすべてを「書く」だろう。

しかし、彼ら二人もまた、死ぬまで各自の「問題」からは逃れられないだろう。
こうして「愛」というものが、「愛」こそが、奇蹟に思えてくる。
そして、ほんとうの愛は「神への愛」だけだ、という考えさえ、まんざら嘘ではなさそうなものとして、目の前にちらついてくる。
でも、いまの僕はそこまで。

青年のコールマンを演じたウェントワース・ミラー Wentworth Miller がいい。
最初の彼女にボクシングを教えながらキスへと導いていくシーンも、彼女が踊りながら服を脱いでいくシーンも、印象に残る。
ミラーが出ているシーンは、彼自身の身体のように画面もまたムダなく引き締まっていて、それだけでも見る価値がある、と思う。
原作は『ヒューマン・ステイン』(フィリップ・ロス Philip Roth 、集英社刊)。

『THE HUMAN STAIN』、2003年、米、ロバート・ベントン Robert Benton 監督作品。


18, 2005 編集
☆☆[book]『半島』,松浦寿輝,文藝春秋,2004/07

瀬戸内海にある半島。
その先端に、小さな島が、橋ひとつで繋がっている。
この島に、独りの男が、流れてくる。

「要するに自由になりたくて」
でも「自由なんてどこにもありゃあしない」

「岩鼻やここにもひとり月の客」
**荘という旅館に世話になることになった男は、むしろ島の客として生きはじめる。
が、さて、それは顧客として? それとも賓客として?

「生活がそういう形になりますね。そうすると人生の中身もその形により添った内容になってくる」
「休暇」? それとも「余生」?

「ね、引っ越してらっしゃい。今日にでも」
ヴェトナム料理店〈ホア・マイ〉に務める女性で、どうやら中国人らしい樹芬(シューフェン)に誘われて、男は同棲を始める。
そして男は、次第に地下にひろがる島の隠れた部分を知るようになる。

「流浪でもなく定住でもなく、その間をどちらともつかずゆらゆらと揺れていたい」
事実、男は現実とも幻想ともつかない世界に、しばしば足を踏み入れることになる。
この島というのは、ひょっとして男自身のこと?

内陸の奥でもなく、海に浮かぶ孤島でもなく、半島に橋一つでつながる小島。
迷路のような坑道、左右に激しく揺れながらジェット・コースターのように昇り降りするトロッコ。
止まっていたり動いていたりするエレベータ、どの階にいるかすぐにわからなくなる螺旋階段。

植物園、バー、灯台、大衆食堂。
新しくできつつある怪しい男たちとのしがらみ。
島のチンクエ・テッレ化計画。

慰めてくれるものが、同時に脅えさせるもの。
遠いは近い、近いは遠い。
短いホテル滞在のような人生?

やがて、チェックアウトの時刻がくる。
はたして男は島を出ていくのか、とどまるのか。

「この世のことごとくは仮初のものにすぎない」
「軽く思いなし、軽く生きてゆく」
「生の幸福はこの軽さの中にこそあるのではないか」

いやいや、生というものは、一回かぎり。
「二度とふたたび取り戻しようのない現実」
だからこそ、貴重なのではないのか。

成り行きにまかせて生きる。
それだけを倫理にしているような男。
そして、成り行きの結果に、けっして後悔しないこと。

「生きるってのは思い出すってことだろう」
でも「自分自身からは逃れられない」
自分の「影」との対話は、たしかに自身の「過去」の捉え直しだ。

だが、そこに希望を見出すことは、そう簡単なことではない。
あまりにも深い諦念が、いつも寄り添って、そこにあるから。
「人は皆俺から離れてゆく。それとも俺が人から離れてゆくのか」

「結局、過去などなく『今』が、ただ『ここ』が、あるだけなのではないのか」
「いや、その『今』『ここ』にしたって、はたしてそれが本当にあると誰が言えるのか」

橋は燃え上がり、今にも崩れ去ろうとしている。
現実は、やはり「向こう側」にあるのだろうか。
はたして「俺」は、橋を渡るのか、渡らないのか。

松浦寿輝は、「あとがき」で、「わたしはこれを、自分の人生のある危機−−複数の危機−−を乗り越えるために書いたのだと思う」と書いている。
作家の自作に関する話は、信用しないほうがいい、というのが相場である。
が、冗談のなかに幾ばくかの真実が含まれている程度には、この「あとがき」にも、いくらかの真実があるのかも知れない。
「複数の危機」というのが、やっぱり曲者だけれど。


17, 2005 編集
☆☆[video]『デリダ、異境から』

久しぶりに、ドキュメンタリーを観たいと思って、甲南大学に行って来た。
先年亡くなった哲学者ジャック・デリダを撮ったエジプト出身の女性監督、サファー・ファティーの映画が上映されると知ったからである。

映画は、フランスのTV番組のために編集されたものらしいが、実際に見てみると、ドキュメンタリーのようでドキュメンタリーでない。
ソレハ何カト訊ネタラ?
フィクションとの「あいだ」にあるような映画だった。

たとえば、監督は、デリダの講義の場面で、学生がデリダの方に向き直るシーンに、アルジェの風景をつなぐ。
まるで、学生がアルジェの景色を眺めてでもいるかのように。
そして、また学生たちのカットへとつないでみせるのだが、今度は、その背景にアラビックな音楽を流していたり。
(映画で使われたアラブの音楽は、デリダ自身が望んだらしい。)

モンタージュの苦労については、監督自身、15時間に縮めたラッシュを、68分の映像にするために、都合3万回は見た、と仰っていた。
カテゴリーによって映像を分類し、原素材とでもいうべきものにし、それをまた実際に映画に使える素材へと彫刻家のように削っていくのだと。
それを監督は、旅行の際にスーツケースに荷物を詰めることにたとえておられた。
家に残してきたモノが、たーくさんある、と。
編集者(女性)とプロデューサー(女性)との闘いでした、とも。

上映後のトークのメンバーの一員として参加していた鵜飼哲氏は、デリダの「私の声が、すでにして(組み紐のように)複数の声である。そして、それらを自分で聞き分けられることが、政治的に重要なのである」という意味の言葉に注目し、それにからめた「様々な声の反響」について、監督に質問していた。
ファティー監督の発言では、「構造は、内面から呼びだされるものでなければならない」「見えないものを、シーンの外に、感じられるようにしたつもり」という言葉が、印象的だった。
デリダの言葉では、「私を必要としないものが、私には必要だ」というのが、耳に残った。
(デリダは、母親似の、意外に小柄な人だった。)

詳しくはこちらでも。
http://www.frif.com/new2001/derr.html

『D'ailleurs, Derrida』、英題は『Derrida's Elsewhere』、1998年、Safaa Fathy 監督作品。


16, 2005 編集
☆☆[film]『サイドウェイ』

アンコールで再上映されているのを見てきました。
監督は、『アバウト・シュミット』のアレクサンダー・ペイン。

出版されそうにない小説を書いている英語教師、マイルス。
プレイボーイだが今は落ち目のTVスター、ジャック。
対照的な中年の二人は、しかし大学時代からの親友だ。

マイルスは、結婚を目前に控えたジャックのために、カリフォルニアのワイナリー巡りの旅を企画する。
しかしワイン好きのマイルスと女好きのジャックは、ことあるごとにすれ違い…。
笑えるロード・ムーヴィーだ。

ノックで始まって、ノックで終わる。
ワインと人生を重ねながら、その奥深さ、素晴らしさを教えてくれます。
勇気を出して、誰かの心のドアに、ノックしてみたくなるような、映画でした。

『SIDEWAYS』、2004年、米・ハンガリー、アレクサンダー・ペイン Alexander Payne 監督作品。


15, 2005 編集
☆☆[DVD]『パッション』

スイスの小村でビデオ映画が撮影されている。
スタジオに拵えられたセットのなかで、俳優たちは様々な衣裳を身にまとい、決まったポーズをとらされる。
あるいは馬に乗り、あるいは裸で、カメラの前で動き回り、静止する。

製作されているのは、絵画作品の再現映像なのだ。
監督は「こんな光じゃだめだ」とNGを出し続ける。
すでに赤字になって資金調達もままならない現場は混乱しどおしで、撮影はなかなか進まない。

そして作品はついに完成を見ない。
画面の色もきれいだし、構図も決まっている(もちろん、その崩しもある)が、映像と音楽のマッチング(そして音声/ノイズによる中断)が、これまた素晴らしい。
ハンナ(ハンナ・シグラ Hanna Schygulla)を映したビデオ映像には、見るものを釘付けにしてしまう「何か」が映っている。

それは、とりあえず「動き」とでもいっておくしかない。
オープニングの空とそれを横切っていく飛行機雲の「動き」のような。

ところで、これはだれの引用だったっけ?
「分かることがいいとはかぎらない。つかむだけでいい」
この映画そのものについても、そうなのかもしれない。

ゴダールの映画はあとから効いてくる。
達人ラウール・クタール Raoul Coutard の撮影は見事。

『PASSION』、1982年、ジャン=リュック・ゴダール Jean-Luc Godard 監督作品。


14, 2005 編集
☆☆[DVD]『映画に愛をこめて アメリカの夜』

タイトルの「アメリカの夜」というのは、撮影技法のこと。
夜のシーンを、実際には昼間に撮る。
で、どうするかというと、レンズにフィルターをつけておいて、それで夜に見せかけるのだ。

この映画は、この映画のなかで撮られている映画『パメラを紹介します』の、いわば「メイキング」。
でも、ドキュメンタリーではない。
映画が様々な技法によって成り立っているという、そのありさまが、演出・構成されたうえで、映し出されるのだ。

南仏はニース(空港以外にも、街なかも、もっと映してほしかった!)。
フェラン監督(F・トリュフォー自身が演じている)が映画を撮っている。
脚本を書き換え、小道具を指示し、衣装に気を配る。
それでも契約にしばられ、保険に左右され、出演者やスタッフの私生活に影響を受ける。
撮影は、なかなかスムーズにはいかない。

アルコールが手放せずセリフも覚えられない女優セブリーヌ(ヴァレンティナ・コルテーゼ Valentina Cortese)、若い同性の愛人が気になる男優アレキサンドル(ジャン=ピエール・オーモン Jean-Pierre Aumont)、精神科医と結婚したばかりでいまだ治療中の女優ジュリー(ジャクリーン・ビセット Jacqueline Bisset)、幼児的で情緒不安定な男優アルフォンス(ジャン=ピエール・レオ Jean-Pierre Leaud)、契約のあとに妊娠がわかった女優ステイシー(アレクサンドラ・スチュワルト Alexandra Stewart)等々。
問題ありありの出演者&スタッフをかかえて、それでも監督は、バリバリと(あるいは粛々と)撮影をこなしていく。
共同脚本のシュザンヌ・シフマン Suzanne Schiffman がモデルとされるジョエル役のナタリー・バイ Nathalie Baye が、知的でセクシー。

冒頭の「リリアン及びドロシー・ギッシュに捧げる」という献辞。
そして「頼んでいた文献」として監督が封を解く小包から姿を現すのは、ブニュエル、ドライヤー、ルビッチ、ベルイマン、ゴダール、ヒッチコック、ロッセリーニ、ホークス、ブレッソンなどの名を冠した書物たちだ。
トリュフォー自身の過去の作品に出てきた車、シーンそのものも使われている(たとえばドアの外に出されたトレイにある残り物を漁る仔猫→『柔らかい肌』など)。
まさしく「愛をこめて」つくられた秀作。

『LA NUIT AMERICAINE』、英題は『DAY FOR NIGHT』、1973年、仏・伊、フランソワ・トリュフォー Francois Truffaut 監督作品。


12, 2005 編集
☆☆[DVD]『クリビアにおまかせ』

トンデモに近い?楽しいミュージカル!
楽天的で面倒見のいいナースと彼女に厄介になっている個性的な住人たちがくり広げる大騒動。
もともとは、60年代に大ヒットしたオランダのTVドラマシリーズを映画化したものだそうだ。
ピーター・クラマー監督は、舞台やテレビを手掛けてきた人で、長編映画はこれがデビュー作とか。

とある街角で「療養所」を営むクリビア(ルス・ルカ Loes Luca)。
奇態な(関西の人は、ケッタイな、と読んでください)住人たちに手を焼きながらも、毎日を明るく暮らしている。
ある日、彼女は自分の「クリビア・ホーム」に、若くてハンサムな「泥棒」を新たな住人として引き入れてしまう。
しかし偏狭で小心者の大家ボーデフォル(パウル・R・コーイ Paul R. Kooij)は、冷酷にも彼らを追い出しにかかるのだった…。

裁判シーンなんかもあって、当然キャプラ作品を意識してるんでしょうね。
オランダ・ミュージカル版『我が家の楽園』かな。

『JA ZUSTER, NEE ZUSTER』、英題は『YES NURSE! NO NURSE!』、2002年、蘭、ピーター・クラマー Pieter Kramer 監督作品。


11, 2005 編集
☆☆☆☆[DVD]『イヴの総て』

こういうの、「バックステージもの」っていうらしい。
見応え十分の、なかなかの作品です。

田舎からニューヨークへ出たイヴ(アン・バクスター Anne Baxter)は、お涙ちょうだいの身の上話をでっち上げ、大女優マーゴ(ベティ・デイヴィス Bette Davis)の付き人となる。
そつなく仕事をこなす彼女は、やがてマーゴの代役を手にし、有名批評家にも取り入って、一躍ブロードウェイの寵児にのし上がる…。

純真で熱烈なファンを装う仮面の下に、したたかな野心と計略を隠しもつイヴ。
彼女と「同じ仲間」だという批評家役のジョージ・サンダースは、この映画での演技でオスカー助演賞を得ている。
そして、よく知られているように、まだ初々しいマリリン・モンロー Marilyn Monroe が、ちょい役で出ている。

名優たちの火花散らす熱演。
監督マンキウィッツ自身による脚本。
この年のアカデミー賞をほぼ独占した映画。
作品賞は、『サンセット大通り』と競ったが、オスカーをもらったのは、やはりこっち。
公開当時の宣伝文句には、"All About Eve" is all about women, and all about men. とある。

『ALL ABOUT EVE』、1950年、米、ジョセフ・L・マンキウィッツ Joseph L. Mankiewicz 監督作品。


10, 2005 編集
☆☆[book]『評伝 西脇順三郎』,新倉俊一,慶応義塾大学出版会,2004/10

西脇順三郎に関する新倉さんの本を、続けて読んだ。
詩人と30年あまりも「質疑を繰り返してきた」けれど、「やはり詩を通して以外にその内面の肖像を語ることはできない」。
そう考える新倉さんは、この本のなかで、西脇がその「個々の作品の背後にいかにしたたかな現実を踏まえているか」を、いくつも明らかにしてくれる。

もちろん体験は、詩人の想像力によって、詩のなかでは変容している。
また、詩は「伝記的事実だけに還元されるものではない」し、自分が提示した伝記的読みが、詩の意味のすべてであるはずがない、とも断っている。

たとえば西脇がよく引き合いに出すものに「茄子」がある。

これもしばしば現実の代名詞として使われ、「茄子をただ茄子とよんでは詩にならない。それを『なんちゅう紫の瓢箪かな』というところに詩がある」と、なんべんも聞かされた(「オーベルジンの偶像」)。西脇順三郎はこれを「クリティーク・ドモシロイ」(諧謔の詩学)とふざけて命名しており、たんなる言葉の遊びにすぎないのではないかと反発するひともいるが、郷里に来てみて私たちはこの詩人における茄子のしたたかな現実性を改めて痛感した。

私の道は九月の正午
紫の畑につきた
人間の生涯は
茄子のふくらみに写つている
すべての変化は
茄子から茄子へ移るだけだ  (「茄子」)

この抜き差しならない現実意識があったからこそ、「現実はつまらない。このつまらない現実を変えて若干の快感を得させるのが詩である」という『超現実主義詩論』の断言に到達するのだろう。


『超現実主義詩論』は、詩人が35歳になった1929(昭和2)年の刊であるが、その2年前に、西脇は佐藤朔の編集による本邦初のシュルレアリスム・アンソロジー「馥郁タル火夫ヨ」に序文を寄せている(『アムバルワリア』に収められた同名の詩とは別物)。
その全文を、新倉さんは引いているのだが、ここではその一部だけを引く。

現実の世界は脳髄にすぎない。この脳髄を破ることは超現実芸術の目的である。崇高なる芸術の形態はすべて超現実主義である。故に崇高なる詩も亦超現実詩である。


ここで、西脇は「シュルレアリスム」という流行の詩派を宣伝しているのではなく、普遍的な詩論を説いているのである、と新倉さんは説いている。
戦争が始まろうとする時期に至っても、西脇は「言葉が観念(象徴)を離れて、ほとんど記号と化した『純粋詩』」を書き続ける。
1934(昭和9)年は、萩原朔太郎が「モダニズムから後退して『氷島』の素朴な詠嘆に戻った年」であり、萩原は、西脇の詩論集『純粋な鶯』を「ヂレッタントの詩論」であるとして批判する。

新倉さんは、萩原の態度に、「最後のロマン派」をもって任じたイエイツが、『荒地』の詩人エリオットを批判した態度と同じものを見る。

そして『氷島』以降、萩原は帰るべき詩の故郷(イデア)を失い、もっぱら人生の悲哀への「絶望の逃走」を続けた。
 萩原朔太郎ばかりでなく、当時の日本回帰の詩人たちは同じような伝統的リリシズムへ後退していった。いや、小林秀雄のような批評家でさえも、作品の形態でなしに「作家の顔」をつねに問題にして、どの作品にも悲哀の情緒をもとめている。


こう指摘したあとで、新倉さんは、小林の実朝論のような「憂鬱な鶯の群れにあって、西脇の一貫した『純粋な鶯』の批評的態度は稀有な歌声と言わなければならないだろう」と述べる。
新倉さんのこの本が、今現在この時期に書かれているということもまた、きっと、故のないことではないのだ。

いよいよ大きな戦争が近づいて、『アムバルワリア』でギリシャ的蒼天をもたらした西脇でさえも、後に自らの詩にも記したように「もはや詩が書けない」状態となる。
この時期、詩人は母校の慶応大学で、折口信夫や柳田國男と同僚であり、数年間『古代文学序説』研究に沈潜している。
「幻影の人」とともに『旅人かへらず』で復帰するのは、戦後になってからであるが、かつての盟友北園克衛は「戦争が貴方の偉大な書斎をめちゃめちゃにしてしまったように、貴方のあの見事な峻烈さをも破ってしまった」と嘆いた。

新倉さんは、「この世のあらゆる瞬間も/永劫の時間の一部分」(『旅人かへらず』)という言葉に、詩人の「透徹した認識」を見ようとしている。
そして「人間のどこかにひそんでいる人間の淋しさから、直接に自然の草木、岩石に心をひかれる」(「いらくさ」『土星の苦悩』)といった心境が、従来からの詩論にあった「現実のつまらなさ」の延長であり、深化であるとも言える、としている。

が、はたしてどうか。
「風邪をひいた牧人」(北園克衛)について、あるいはその「無常観」について、もう少し、くわしく知りたいところだ。

さて、この紹介もすでに長くなっている。
本も、詩人の生涯も、まだ半ばをすぎたところだというのに。
村野四郎が、その詩境を「透明なる成熟」と呼んだ『近代の寓話』以後、最後の詩集『人類』まで、そしてさらに詩人の死後にまで、新倉さんの筆は及んでいる。
しかし到底、そのすべてにふれるわけにはいかない。

萩原朔太郎を敬愛し、三好達治を嫌い、佐藤春夫を追悼し、堀口大學と語らう詩人。
池田満寿夫や飯田善國と詩画集を出し、安東次男や加藤楸邨と芭蕉を論じる西脇。
やがて、官憲に検挙されて以来、恩師に気を遣ってつとめて遠ざかっていた瀧口修造も帰ってきて、二人のあいだの「失われた時」がふたたび見出され、わだかまりをもっていた飯島耕一とも意気投合する順三郎。

終戦直後に疎開先の小千谷で「『ツアラトゥストゥラ』と正反対なものを書いてみたい」と思いながら、それを果たせなかった詩人。
その西脇の「『野原』は拡大の一途をたどりはじめる。人間の影がだんだんちいさくなり、点のようになってくる」(田村隆一)。

晩年、「僕は八十になったから、もう人類ではなくなったよ」と周囲を笑わせた詩人は、数年後に出した最後の詩集に『人類』という題をつける。
新倉さんは、「人生の諦観に深いかかわりを秘めており、これまでの詩集と同じく哀愁と諧謔のヤヌスの面をそなえた詩集である」と述べている。

折口信夫の著作を、それほど読まなかった西脇に、折口学を「伝授」していたのが学生時代の井筒俊彦であったというのは、この本ではじめて知った。
そして、詩人晩年の独特の漢語研究に、本当に興味をもっていたのも、井筒ただひとりだった、らしい。

「詩とは何か」と訊ねられて、「遠いものの連結です」と答えた詩人の詩は、「自己」の世界を否定する言葉遊びと信じられてきた。
しかし新倉さんは、この本で、西脇の詩の世界を「詩的自伝」として、順三郎の「脳髄の日記」として、読み直そうと試みている。
それは詩人の「遠いものの連結」の詩法と矛盾しはしない、それに新しい評価を加えるのだ、と。


09, 2005 編集
■[DVD]☆☆『サンセット大通り』

過去の男になりつつある脚本家ジョー・ギリス(ウィリアム・ホールデン William Holden)は、作品が書けず、金に困っていた。
万策尽きて、取り立て屋に追われた彼は、偶然、サイレント時代の伝説的女優ノーマ・デスモンド(グロリア・スワンソン Gloria Swanson)が隠匿生活を送る大邸宅に、飛び込んでしまう。
金がほしいジョーは、ノーマが自身のために書いたシナリオの修正を引き受ける。

ノーマは、ジョーに高価な洋服や持ち物を買い与え、自分のツバメにしようとするが、やがて彼は彼女の束縛に我慢できなくなる。
脚本家をめざす一途なベティ(ナンシー・オルソン Nancy Olson)に恋をしたジョーをノーマは許さなかった…。

過去の栄光だけを糧として生きる忘れられた大女優ノーマ。
彼女の最初の夫だが、いまは彼女の召使で、かつて彼女の出演第一作を監督したこともあるマックスという男も、奥行きのある人物だ。
彼を演じるエリッヒ・フォン・シュトロハイム Erich von Stroheim も素晴らしい。

本作の脚本は、オスカーに輝いているだけのことはある。
ハリウッドの光と影を、皮肉で辛辣な視線を交えながら、B・ワイルダーが描く。

オープニングのプールに浮かぶ脚本家。
その死んだ彼が半年前に遡って真相を語りはじめる。
当時すでに、実際に過去の人だったノーマ役のG・スワンソン。
とくにラスト・シーンの彼女の演技は、文字通り鬼気迫るものがある。

バスター・キートン Buster Keaton やセシル・B・デミル Cecil B. DeMille が本人の役で出ている。

『SUNSET BOULEVARD』、1950年、米、ビリー・ワイルダー Billy Wilder 監督作品。


08, 2005 編集
☆☆[DVD]『スタア誕生』

1937年にウィリアム・A・ウェルマン William A. Wellman 監督によって作られた同名の作品(未見)のリメイク。
でも、1932年作のジョージ・キューカー監督による『栄光のハリウッド』(未見)こそがオリジナル、ともいわれているらしい。

巡業バンドに雇われているコーラス・ガールのエスター(ジュディ・ガーランド Judy Garland )は、偶然にも、ハリウッドの大スター、ノーマン(ジェイムズ・メイソン James Mason )に素質を見いだされる。
ノーマンの口利きで、エスターは売れっ子になり、彼に代わって会社の看板スターに成長する。

互いに愛し合うようになった二人は、結婚する。
しかし、仕事のないノーマンは、アルコールにおぼれ、どんどん落ちぶれていく。
エスターは、ノーマンのために生きようとして、一度は引退を決意するが…。

ジェイムズ・メイソンが、傍若無人で、純で、気さくで、なおかつ悲しくも哀れな男を好演。
生きにくい男と、生き抜く女。
所狭しと歌って踊るジュディ・ガーランドが、愛くるしい。

『A STAR IS BORN』、1954年、米、ジョージ・キューカー George Cukor 監督作品。


07, 2005 編集
☆☆[DVD]『柔らかい肌』

生真面目そうな中年男にかぎって、どうしてこうも簡単に若い女性にイカれてしまうんでしょうね。
あ、関係ないけど、冒頭に置かれているリスボンの街のシーンはうれしかったなぁ。
とにかく足を使って歩き回った街って、目にするだけで懐かしいようなところがある。

さて、おじさんピエール(ジャン・ドザイー Jean Desailly)は、TVなんかにも出ている有名評論家といったところだろうか。
頭は悪くなさそうだし、清潔でソツのない感じ。
だけど、ちょっと神経質で自分勝手で独り善がりなところがある。

でもそういう「わるいところ」が外に出てないのは、献身的かどうかは別にして「配偶者のおかげ」の部分が大きいのでは?
彼、どうもそのことに気づいていないのか、気づきたくないのか。
会ったばかりの、よく知りもしない(でもカワイイ!)おネエちゃん相手に、女運がよくなかった、なんて、罰当たりなことをほざいておられました。

ランスという町や、とくにそこに住む人びとの田舎臭い感じもよく出てた。
ピエールの乗ってるシトロエン、ダッシュボードの上にバックミラーついてたね。
うーん、かっこいい(このクルマ、『アメリカの夜』にも使われてました!)。

トリュフォーは、ほんと、動くものを(とくに動きながら)撮るのがうまいなあ。
若くて魅力的なニコルを演じているのは、カトリーヌ・ドヌーヴの実姉フランソワーズ・ドルレアック Francoise Dorleac。
これを撮影した2年後に、交通事故で、25歳の若さで亡くなっています。

それにしても、ミニをかっ飛ばす奥さんフランカ(ネリー・ベネデッティ Nelly Benedetti)のキレぐあい、これが半端じゃない。
凄絶。
ピエールさんには、独りになって、それでも自分をある程度支える努力をしていくチャンスを与えてあげたかったような、気がします。

『恋のエチュード』もそうだったけど、ジョルジュ・ドルリュー Georges Delerue の音楽もいいです。

『LA PEAU DOUCE』、英題『THE SOFT SKIN』、1963年、仏、フランソワ・トリュフォー Francois Truffaut 監督作品。


06, 2005 編集
☆☆[book]『詩人たちの世紀 西脇順三郎とエズラ・パウンド』,新倉俊一,みすず書房,2003/5

西脇順三郎の詩が好きだ。
といっても、クレイジーにそうだというわけではない。
もちろん、彼が英語やフランス語で書いた詩のよさがわかるほどには、僕は語学が堪能ではない。

しかしその日本語の美しさには、いまも気持ちが揺れる。
西脇の詩集は、旅に出るときに、しばしばカバンに詰め込む本のうちの一冊になることが多い。
それは、そこに尽きない(美しさの?軽さの?)謎があるからである。

「生まれたときに漬かった産湯」。
現代詩のことを、そんなふうにいう新倉さんだ。
そして日本の「荒地」派とエリオットの『荒地』とを、意識のうえで区別なく受容したのが、自分の「二都物語」のはじまりだった、とも書いている。

西脇とパウンドを交互に辿りながら、現代詩の20世紀をさぐる試みは、なかなかにエキサイティングだ。
三好達治については、「日本の伝統をこよなく敬慕しながらも、ついに過去を現在化しそこねた詩人にしか映らない」と評する新倉さんは、西脇については、

ボードレール以来の海外詩学の正当(キャノン)を正しく受け入れることは、日本の近代詩の成立にとって必須の条件であり、昭和初期の西脇はその重要な文化的触媒の役割を果たしたのだ。その上で自国文化の伝統的な土壌と融合をはかることは、どこの国の詩人も必ず果たさなければならない複眼的作業である。まさにこの「伝統」と「独創」のヤヌスの仕事を成し遂げる人こそ、真の「正当」と呼ぶにふさわしい。


と、評価する。

ホメロスの『オデュッセウス』、ジョイスの『ユリシーズ』、パウンドの『キャントーズ』、西脇の『旅人帰らず』、田村隆一の『帰ってきた旅人』。
クール、コナーイ、カーエラナイ、カエルー、と歌ったのは、アグネス・チャンだ。
帰るべきところに、男は帰るのか、帰らないのか。

そこは、旅の終わりなのか、それとも新たな旅の始まりなのか。
新倉さんは、西脇の詩と老荘を、ダンテを、芭蕉を、ペイターを縫い合わせながら、世界へと開いていく。
そのなかで引用されている、田村隆一の詩を見てみよう。

一九三八年の春

ぼくは早稲田の古本屋で
ワインレッドの表紙の不思議な詩集を手に入れた
菊判変型 グレーのコットン紙に四号活字で印刷されていて
「カリマコス」「Catullus」「La Table」「蛇つかひ」のセピアの古い四葉の写真が入っていて
ギリシャ的抒情詩と拉典哀歌の「Le Monde Ancien」
近代的失楽園を記述的に歌った「Le Monde Moderne」
それがまるで一枚の銀貨みたいに
古代的歓喜と近代的憂鬱とが表裏になっていて
〔……〕
ワインレッドの詩人は
ホメロス以来の文学文明にあらわれた憂鬱の諸形式を脳髄に刻みつけて
憂鬱の成熟に向かう
(「ワインレッドの夏至」)


また、別の所では、こちらの詩も引用されている。

ぼくは十七歳の四月 早稲田の古本屋で
不思議な詩集を見つけて
東京の田舎 大塚から疾走しつづけた
ワインレッドの菊型の詩集をめくっていると
ほんとに手まで赤く染まってきて
小千谷の偉大な詩人 J・N
言葉の輪のある世界に僕は閉じこめられてしまって
古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし
イタリアの白い波頭に裸足のぼくは古代的歓喜をあじわって
だしぬけに中世英語から第一次世界大戦後の
近代的憂鬱に入る
〔……〕
四千年まえの 二千年まえの 百年まえの
言葉という母胎に帰ってくる旅人たち
(『帰ってきた旅人』「哀」)


新倉さんは、通時的に、また共時的に、パウンドと西脇の、それぞれの詩的展開を明らかにしていく。
そして、古今東西の文学世界を縦横無尽に逍遙しつつ、西脇が「他の詩人に見られない東洋と西洋の融合した世界を築き上げた」ことを示し、彼こそ「パウンドの世紀」の巨匠の一人であると説く。
だからこそ、次のような比較も大変に興味深いものとなる。

エリオットとパウンドの詩的思考の差は象徴主義的詩法と表意文字的詩法との本質的な違いに要約できるかもしれない。言い換えれば、一方は隠喩的であり、他方は換喩的である。また文化的に見ても、エリオットは一元的であるのに対して、パウンドのほうは多元的であると言える。エリオットのように伝統的なキリスト教の理念に収斂する替わりに、パウンドは東西のさまざまな文化を折衷しようとしていく。


パウンドの死後、彼の第二の故郷であるヴェニスで、ヨシフ・ブロツキーとスーザン・ソンタグが、パウンドの愛人だったオルガを訪ねる話も印象的だ。
新倉さんは、ルイス・ズコフスキイの言葉を借りていっている。
その政治的立場から是非を論じるよりも、彼自身の「詩について語ろうじゃないか」。

伝記、時代背景、影響と、いわば外堀を埋めてきた新倉さんは、いよいよ第五部でパウンドの作品に入っていく。
「あくまでも多くの意味の糸のうちの一本にすぎない」と言い訳しながら。
僕は、新倉さんのこの本で、西脇の「軽さ」の重さと大切さを、あらためて感じることができたのが、何よりうれしかった。

☆☆☆☆[DVD]『大人は判ってくれない』

トリュフォー27歳の時に撮った長編第一作。

学校になじめない主人公の少年アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオ Jean-Pierre Leaud )。
共稼ぎの両親は、仲が悪く、口論ばかり。
父親は実父ではなく、母親が望んだ子供でもなかった。

しかしアントワーヌには、悪友ルネがいた。
親の金をくすね、学校をさぼり、映画を見て、ゲームセンターで遊ぶ二人。
ある日、金に困ったアントワーヌは、父の会社のタイプライターを盗む。
やがて捕らえられた彼は、両親の希望で少年鑑別所に送られてしまう…。

エッフェル塔をめぐるオープニングのシーンは、パリという街の比類なき美しさ(そして残酷さ)を映し出す。
ラストのアントワーヌの走る姿を併走して追うキャメラも、哀しくなるほどに?素晴らしい。
海に出て終わる映画の、傑作の一つだと思う。

原題『LES QUATRE CENTS COUPS』、英題は『THE 400 BLOWS』、1959年、仏、フランソワ・トリュフォー Francois Truffaut 監督作品。


04, 2005 編集
☆☆☆☆[DVD]『恋のエチュード』

フランス青年クロード(A・ドワネル役じゃないジャン=ピエール・レオ Jean-Pierre Leaud)は、英国人女性アンヌ(キカ・マーカム Kika Markham)と出会う。
彼女には、ミリュエル(ステイシー・テンデター Stacey Tendeter)という妹がいた。
クロードを英国の実家に招いたアンヌは、彼とミリュエルの間を取りもち、2人は互いを恋するようになる。
しかしクロードの母親の反対にあって、彼らは1年間の別離を余儀なくされる。

クロードは、しかしミリュエル(妹)と別れ、女性遍歴を重ねる。
数年後、クロードはパリを訪れたアンヌ(姉)と再会、二人は結ばれる。
しかし、奔放なアンヌもまた、男性遍歴を重ねるのだった。

さらに数年後、アンヌはクロードと再会。
今度も彼女はミリュエルと彼を会わせようとするが、彼と姉とのあいだに関係があったことを知ったミリュエルは、クロードには会わずに去っていく。

やがてアンヌは病死する。
ベルギーで教師をする予定のミリュエルを迎えたクロードは、彼女と7年越しに結ばれる。しかしそれは、ミリュエルが自分の恋を葬るための儀式だった…。

イギリスの田舎、海岸沿いの傾斜地の風景が素晴らしい。
青年たちの清らかで淫らな恋、熱く醒めた想い、嫉妬と思いやり、激情と情欲、そして愛の獲得と喪失。
濃密な時間の重なりのせいか、時間が過ぎていかない。
そんな気がしてしまう。
しかし、人生は確実に過ぎていきます。

『LES DEUX ANGLAISES ET LE CONTINENT』、英題は『TWO ENGLISH GIRLS』、1971年、仏、フランソワ・トリュフォー Francois Truffaut 監督作品。


03, 2005 編集
[film]『オペラ座の怪人』

公式ページはここ。
http://phantomthemovie.warnerbros.com/

名作ミュージカルの映画化。
舞台版を手掛けた作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバー自身による製作。
映画は1919年の廃墟となったパリ、オペラ座でのオークションの場面から始まる。
シンバルをたたく猿のおもちゃが競り落とされたのち、いわくのあるシャンデリアが紹介されて、時代は1870年代へと移る。

オペラ座の地下に住む謎の怪人ファントムは、若いコーラスガール、クリスティーヌに歌を指導し、彼女に主演をさせるため奇怪な事件を頻発させる。
クリスティーヌの歌声を聞いた彼女の幼なじみの青年(そして今はオペラ座の新しいパトロンでもある)子爵ラウルは、彼女に恋してしまう。
しかしファントムを亡き父が授けてくれた“音楽の天使”と信じる彼女は、彼に導かれるまま、オペラ座の地下深くへと降りていくのだった…。

舞台版にわりと忠実に映画化されている。
そして、映画ならではの細部の描写力と思わせるところも、けっこう多い。
でも、どうしても人物に近寄らざるをえない場面もあって、そこでは(仕方ないけど)奥行きや広がり、動きに欠ける画面になってしまうところがあった。

それから、怪人の素顔はむしろ、さらさなくてもよかったのでは?
舞台だと、まずはあんなにもハッキリは見えない。
だからかえって、もっとオドロオドロシイものとして、想像力で補って見ることもできたりする。

この場合は、見えすぎてしまう不幸、ということになるのかもしれない。
説明が多すぎて、だから「たんなる異形の人間」にされちゃった怪人は、何とも痛ましい。
これまでのワシは、ナニやったんや!って、言いたなるやろな。

クリスティーヌのキスは、たしかにファントムを解放する。
しかしそれは、同時に怪人の存在根拠を奪うものでもあったのだろう。
音楽を捨てた彼女が、以後の人生を幸せに過ごしたかどうか、解釈に幅を残す「猿のおもちゃ」が墓に供えられる。

クリスティーヌを演じたエミー・ロッサム Emmy Rossum が可愛い。

『THE PHANTOM OF THE OPERA』、2004年、米・英、ジョエル・シューマカー Joel Schumacher 監督作品。


02, 2005 編集
☆☆[film]『エメラルド・カウボーイ』

南米はコロンビアの「エメラルド王」、早田英志という人が、自分の半生を自ら製作、脚本、監督、主演した映画。
緑色の宝石エメラルドは、別に「緑の血」とも呼ばれているそうだ。
その世界最大の産地がコロンビア。

70年代に単身コロンビアに渡ったハヤタは、「エスメラルデーロ」と呼ばれる売人から、ついには鉱山、輸出会社、警備会社の経営者へと、エメラルド・ビジネスの頂点にまで登りつめ、「王」として君臨するようになる。
しかし、現地人たちの妬みから、家族が誘拐されそうになり、ゲリラに襲われ、国外に排斥されそうになる。

ハヤタ役を演じるはずだった日系アメリカ人俳優は、撮影の1週間前に突然帰国したらしい。
それほど、コロンビアという国がムチャクチャ危険、ということで、その感じは、この映画がよく伝えている。
ということで、現在のハヤタは本人が、青年のハヤタ役はコロンビア人がそれぞれ演じている。

この映画は、その出来を云々するより、コロンビアという国の、ある種の真実を伝えているところに価値があると思った。
映画の最後に、ハヤタは2002年のゲリラ戦で被弾し、「現在も意識不明」と出てくるが、これは「ゲリラよけ」なのだそうだ。
(また、戦闘服を着たゲリラが敗退するシーンは、コロンビアでは上映できない、という説明もあった。)

『ESMERALDERO』、英題『EMERALD COWBOY』、2002年、コロンビア、早田英志&アンドリュー・モリナ Andrew Molina 監督作品。


01, 2005 編集
☆☆[DVD]『北京ヴァイオリン』

ヴァイオリンの音色から、たくさんの声が聞こえてくる映画。

ヴァイオリンの上手い13歳の男の子チュン(タン・ユン 唐韻 Tung Yun)も、もちろんいいんだけど、なんといっても息子思いの「お父さん」のリウさん(リウ・ペイチー 劉佩奇 Liu Peiqi )が絶品。
脇を固めるチアン先生(ワン・チーウェン 王志文 Wang Zhiwen )、チュン憧れの女性リリ(チェン・ホン 陳紅 Chen Hong )や監督自ら演じるユイ教授も、それぞれくっきりとした個性をもった人たちだ。
しかも3人ともに人間に奥行きがあって、それぞれに惹かれるが、いい加減さと律儀さを共存させているリリが、とくにいい。

運河の水面をバックにして、男の子の刈り上げされてるうなじが映されるファースト・シーンから、ああ、これは結構いけそうだな、と思った(散髪のシーンは、後半のヤマ場にもう一度出てくる)。
なんだか蒼いヴェニスとでもいうような街の、運河に架けられた橋を、狭い路地を、少年は駆け抜けていく。

チュンは父と二人暮らし。
幼いころに亡くした母の形見であるヴァイオリン。
父は息子に一流のヴァイオリニストになってほしいと思い、働き貯めた全財産を帽子に隠して、息子を連れて北京に出る。

コンクールで入賞したチュンの才能を見抜いたチアン先生の指導を受けるため、父子は北京に移り住む。
世俗の世界からは隔絶した仙人のようなチアン先生の独特な指導が始まり、父は息子の「成功」を夢見て、懸命に働くのだった…。

チアン先生との別れから、映画は後半、憧れのリリとの絡み、もう一人の候補者リン(この女の子役のチャン・チンもじつに演技がうまい)との軋轢、父リウとの本当の関係の判明などが、最終選考会と当日の父の帰郷というクライマクス(もちろん、チュンのすばらしいヴァイオリン演奏がある)へとむすばれ/ほどけていく。
主人公のヴァイオリンは、映画のコンサート・シーンでも出てくるヴァイオリニスト、リー・チュアンユン(李伝韻 Li Chuan Yun )が演奏しているそうです。

原題は『和?在一起』(?は一字で「イ尓」)。
英題は『TOGETHER』、2002年、中、チェン・カイコー 陳凱歌 Chen Kaige 監督作品。