2005/5

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May 31, 2005 編集
☆☆☆[book]『批評理論入門 −『フランケンシュタイン』解剖講義』,広野由美子,中公新書,2005/3

小さい本ですが、労作です。
さまざまな小説技法や批評理論を実践的に紹介する本。
メアリ・シェリー(Mary Wollstonecraft Sherry, 1797-1851)の『フランケンシュタイン−−あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein, or The Modern Prometheus)がテクスト。

本を読むという行為が、これほどに積極性を要求されることだとは。
そう思ってゲンナリされる方は、最初からこの本の読者にはならないのかも知れない。
むしろ、おお、こんなふうにも読めるのか、へー、こんな読み方もアリなのか、と楽しめる人が、愉しんで読む。
目にとまった文章を引いておこう。

人造人間の製作に取りかかったフランケンシュタインは、次のように述べる。

生と死は、私にとっては観念上の境界にすぎないように思われた。私はその境界を最初に打ち破り、この闇の世界に光を滝のように降らせるのだ。新しい種は、私を創造主、源として称え、幸せな優れた者たちが、この私から生を受ける。いかなる父親も、私ほど完璧に、自分の子供から感謝を要求する資格はないだろう。(第四章)

 このように生と死の二項対立は、境界の曖昧なものとなってゆく。フランケンシュタインは生と死との階層をいったん取り払うことによって、秘密の発見に成功し、死体から生きた人間を造るのである。そして、生命を生み出すというフランケンシュタインの試みは、結果的には、より多くの死をもたらし、幸福よりも不幸を招くことになる。(4 脱構築批評)p146


筆者の学識の豊かさは歴然である。
全方位的に、かなり善戦しているのが、その証拠。
しかしその彼女の該博な文学的知識をもってしても、脱構築批評の実践に関してだけは、さすがに苦戦しているかな、というのが僕の個人的な印象である。

このように、作者と主人公の創造行為は、夢や神経症的行動と同様、抑圧された無意識が形をとって現れたものであることを暗示している点で、共通していると言えるだろう。つまりバーバラ・ジョンソン(Barbara Johnson)が言うように、『フランケンシュタイン』は、「『フランケンシュタイン』という作品を書く経験についての物語」としても読めるのである。(5 精神分析批評)p160


では、この本自身についてはどうか。
筆者は、この本が「フランケンシュタインの造った怪物のごとく、残骸の寄せ集めのような奇異な様相を呈するものでないことを祈りたい」と書いている。
これはむしろ、洒落であろう。

小説だけを読んで、小説を読む楽しみを味わう、それもひとつの方法だ。
他にもいろいろ手はあるよ、とこの本は教えてくれる。
手づかみで食べるおにぎりも、たしかにマイウーだけれど、
たとえば、お箸を上手に使って食べる焼き魚なんかも、やっぱり美味ですよ、ってね。

蛇足だけど、この本の原題は、「新・小説神髄」だったらしい。
ネーミングとして、そのほうがよかったかもしれない、と思うのは、僕だけだろうか。
もちろん、売れ行きは別として、ですけど。


May 30, 2005 編集
☆☆[DVD]『69 sixty nine』

まず、オープニングのアニメが、よかった。
それからレディ・ジェーンこと松井和子を演じる太田莉菜。
彼女が出てくるシーンは、たいてい美しく撮られている。

1969年、長崎県佐世保。
佐世保北高校に通う3年生ケン、アダマ、イワセ。
フェスティバルの開催をめざす彼らは、学校の屋上をバリケード封鎖することに…。

演出がマンガっぽいのは、昨今の韓国映画風。
若者のバカっぽいノリってことでは、どの時代でも共通のものがあるのかも知れない。
でも、ある時代というものがあって、その時代に特有の気分というものもある。

たしかに、時代の風俗は、目に見えやすい。
でも、それが前面に出すぎると、嶋田久作のような教師は、ま、いいにしても、岸辺一徳のような先生を、生かし切れないのかも知れない。

そのあたり、村上龍による原作『69 sixty nine』は、文章の力というものを見せつけている。
若い人には(「時代」を知るためにも?)、原作をオススメします。

2004年、日、李相日 監督作品。


May 28, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『隠し剣 鬼の爪』

原作は、藤沢周平(『隠し剣鬼ノ爪』『雪明かり』、両作とも未読)。
主演の松たか子が、予想以上によかった。

秘剣、お家騒動、身分違いの恋。
藩命で、かつての仲間を切らねばならない男。
ありがちな設定? でも上手にまとめている。

マンネリとは決して思わない。
けど、たとえそうであっても、いいものはいい。
吹っ飛ばされた腕は、狙って撃たれたのではない、はずです。

それを商売にしない「必殺仕事人」がいても、いいんじゃないですか。
それから、これ、ハッピーエンドなんでしょうか?
「士族の商法」なんてコトバも、ありましたし。

2004年、日、山田洋次 監督作品。


May 27, 2005 編集
[DVD]『フォーチュン・クッキー』

金曜日だから、フライデーを紹介しよう。
といっても、かなり「へんてこりん」な金曜日。

この映画、76年に作られた映画のリメイクらしい。
ジョディー・フォスターが主演だった?
ぜんぜん覚えがない。

精神科医の母親テス(ジェイミー・リー・カーティス Jamie Lee Curtis)は、娘のアンナ(リンゼイ・ローハン Lindsay Lohan)に口うるさく干渉する教育ママ。
ロックに夢中の15歳の少女は、しかしイケメンのジェイク(チャド・マイケル・マーレイ Chad Michael Murray)が気になって、学業はサッパリ。

テスは、2日後には結婚式(再婚)を控えていて、明日の夜は、そのリハーサル。
しかしその夜、アンナには、自分たちのバンドがコンテストの予選に出場できる千載一遇のチャンスが巡ってくる。

異なる価値観で生きている彼女たちは、自己を主張し、互いに譲り合おうとしない。
チャイニーズ・レストランで、ついに大喧嘩。
おみくじクッキーを差し出され、それを口にした母と娘は、互いに身体が入れ替わってしまう。

にわかギャルと、にわかオバはんは、絶望から身を引き離し、健気にも現実に立ち向かっていく。
この魔法?を解く鍵は、相手の気持ちを、心から素直に理解すること。
それができないと、元には戻れない!

ふたりは、相手の立場に立つことで、はじめて相手の生活の、それなりの大変さを知っていく…。
再婚相手、教師、元親友、おじいちゃんやこども(弟)まで、典型的ですが、とても上手く使っています。
けど、なんといっても、バンドのギター演奏のシーンが、サイコーです。

たくさん、笑わせてもらいました。
そして、最後はウルルン目に。

『FREAKY FRIDAY』、2003年、米、マーク・S・ウォーターズ Mark S. Waters 監督作品。


May 26, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ゲート・トゥ・ヘヴン』

久しぶりのドイツ映画。

フランクフルト国際空港。
ここが天国への門?
いや、ひょっとして、空港そのものが天国なんじゃないの?

見つかれば、即、本国に強制送還されてしまう不法入国者たちが、ヤミで働いている。
ロシアからきたアレクセイ(ヴァレリー・ニコライエフ Valeri Nikolayev)も、収容所送りになるところを、逃げ出して「地下」に潜り込んだ一人だ。
パイロットになるのが夢の青年は、掃除係として働くインド女性ニーシャ(マースミー・マーヒジャー Masumi Makhija)に一目惚れ。

スチュワーデスになるのが夢の彼女は、本国に残した子供のことが気になっていた。
そこは蛇(ジャ)の道は蛇(ヘビ)。
アレクセイは、何とかして彼女の息子を入国させようとするのだが…。

背負っている過去も、将来の希望も、もちろん国籍なんかゼンゼン異なる者たちが、知恵を絞り、特技を活かし、身体を張って、生き延びる毎日。
何をするにも、「地上」以上にカネがかかるのは、言うまでもないが、カネさえあれば何とかなる、というのでもない。
協力しあうにしても、「まずは自分の身の安全が第一」のシビアな世界。

だれかが「生きる」ためにある法律は、別のだれかの「生きる」を制限して成り立っているのではないか?
なるべく多くの人たちが「地上」で「生きる」ことはできないのだろうか?

映画は、問いかけている。
「生きる」をシェアするための、具体的な方法を、ではない。
もっともっとベースのところ。

空港の外で「生きる」ことが許されるのは、ある条件をクリアした者だけだ。
「生きる」を権利として手にするために、その者に求められる条件。

現に「いまここ」で生きているあなたに、それが(そのことの意味が)よく見えていますか?
そして、その条件を、どんな人にも同じように求めて、いいのですか?
と、映画は、訊いているのだと思う。

登場人物たちは、どうやら気づき始めている。
不自由だからこそ、勝ち取るべき自由が見える。
その大切さがわかる。
それだから、ほんとうにほしい自由に対して、貪欲にも、大胆にもなれるのだ。

空港までが天国/自由、というのは、やっぱり寂しい。
その外にも、「地上」にも、天国/自由はあるはずだ。
だからヒコーキよ、彼らをそこまで運んでやってくれ!

歌も踊りもユーモアもあって、インド映画顔負けの楽しさ。
『パリ空港の人々』もよかったけれど、それ以上かも。
それにしても、インド(系女性)とロシア(系男性)に愛しあわせるなんて(しかもアフリカの援助がついている!)、監督さん、やりますね。

『TOR ZUM HIMMEL』、英題『GATE TO HEAVEN』、2003年、独、ファイト・ヘルマー Veit Helmer 監督作品。


May 25, 2005 編集
☆☆☆[film]『きみに読む物語』

いちばん近所の映画館は、新作が少し遅れてやってくる。
友人が、泣きに泣いたという映画。
でも僕がきっと見るだろうからって、くわしくは話を聞かなかった映画。

オープニングの夕焼けが、キレイだなー。
このままずーっと2時間くらい、陽が沈むのを見ててもいいなー。
ボートを漕ぐシルエットになった男。

画面の右から左へ、低く、やがて下から上へ、高く飛んでいく渡り鳥たち。
リヴァーサイドの白い建物を越えてゆく。
その窓辺に立っている銀髪の女性は、老齢。

ああ、そうなんだ。
夕焼けっていうより、光幽き人生の黄昏なんだ。
老人専門の療養所には、たくさんの認知症(このネーミングは、ねぇ)の人たち。

美しいシルヴァー・ヘアのアリー(ジーナ・ローランズ Gena Rowlands 監督の母親だそうな)もそのひとり。
彼女に記憶が戻るように、物語を語り聞かせている、やはり年老いた男性。
彼の名は、ノア(ジェームズ・ガーナー James Garner いいお爺さんになったね)。

映画の最後に、やはり渡り鳥たちが飛んでいくシーンがある。
「もといたところに、帰っていくんだ」

「わたしは鳥よ」
そういうノアとアリーのセリフが、途中に、あった。

アリーの症状は、回復の見込みなし。
医師は、そう診ている。
しかし、ノアは諦めない。
ラヴ・ストーリーが、彼女に、彼女自身が誰であるかを思い出させる力をもっている。
そう信じている。
その純愛物語は、彼ら自身のものだから。

ノート・ブックに記された物語は、古き良き時代のアメリカ南部での、アリー(レイチェル・マクアダムス Rachel McAdams)とノア(ライアン・ゴズリング Ryan Gosling)の、ひと夏の恋から始まります。
まっすぐな若者たちの、しかし身分違いの恋でした。
二人がとうとう結ばれるまでに、7年後まで待たねばなりませんが、当事者の彼らと違って、見ている僕らには、たった2時間ほど(しかもほとんど楽しい!)です。

サム・シェパード Sam Shepard が、若いノアの父親フランク役で、渋い演技を見せています。
今度は二人で乗ってるのですが、やっぱり、ボートのシーンがいいです。
そして最後に、二人の愛が、一つの奇蹟を起こします。

小さな劇場に、観客は、けっこう入っていました。
僕以外は、全員女性(またしても!)。
エンド・クレジットのあいだじゅう、あちこちですすり泣きの声がもれていました。

もちろん、僕もすでに泣いていたのですが、彼女たちの鼻すすりにつられて、またも涙がこみ上げてくるのでした。
それにしても、あんなに若くてキレイな、二人だったのになあ。
老いの酷さVS愛の力。

でも愛といっても、「神」への愛、「神」の力というものを、どうしても感じてしまう。
(あの、「個人」を信じる力を支えているものとしての「神」)
勘ぐりすぎかも知れないけれど。
それは、僕には、とうてい越えられない距離だ。

『THE NOTEBOOK』、2004年、米、ニック・カサヴェテス Nick Cassavetes 監督作品。


May 24, 2005 編集
☆☆[book]『世界が変わる 現代物理学』

この本を読んで、「世界が変わる」ことなんて、ないのかも知れません。
もちろん、世界の見方、見え方のことですよ。

あ、純粋にいわゆる「文科系」の人で、しかも年若い人は、保証の限りではありません。
相対性理論とか、量子力学とかを、まったく知らない人とか。

少なくとも、僕は(そして僕の世界観は)変わらなかった。
それはしかし、読む前から予想していたことである。
それでも読んだのは、復習のためである(ちょっとお手軽コースですけど)。

世界からモノが消え去り、すべてはコトの世界になる。
それが、どういう意味なのか。
科学思想の流れのなかで、位置づけし直しておこうという気になった。

 ニュートンの時間と空間は堅く固定された舞台のようなものでした。
 アインシュタインの相対論になると、時空は観測者とともに変換を受ける回転舞台のようなものになりました。
 アインシュタインの重力理論では、時空そのものが重力の源となるため、時空は歪み始めました。舞台は回転するだけでなく、ゴムのようにしなやかになったのです。
 量子論の時空は、ふたたび堅いものになりましたが、その舞台の上では、量子が生成と消滅を繰り返し、また、不思議な複素数の世界が演出されたのです。p199


という、まあそういうことなのです。
著者の竹内さんは、巧みな比喩を使います(これがこの本の見せ所でもあります)。
そうして数式をほとんど使わないで、科学上の大発見や新しい理論の意味合いを、科学思想史のなかに位置づけていきます。

微分や積分、電場と磁場、時空の変換、重ね合わせと不確定性、量子と複素数の世界などなど、とてもわかりやすく説明されています。
文科系の人を対象に書かれているだけのことはあります。
それから、相対論と量子論の統合である「相対論的量子論」からさらに一般化した、重力理論と量子論の統合をめざす、「超ひも理論」「ループ量子重力理論」にも、少しふれています。

世界というものは、恐ろしいほど虚ろなものであり、そしてだからこそ奇跡的なものである。
僕は、あらためてそう思うことができました。

著者は、湯川薫という筆名で、ミステリーを書く、作家でもある。
http://kaoru.to/


May 23, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『歌追い人』

ミュージカルといっていい、と思う。
音楽がとにかく、いい。

20世紀初頭のアメリカ。
ニューヨークの大学で音楽を教えている助教授リリー(ジャネット・マクティア Janet McTeer)。
彼女は、女性であるがゆえ、教授への昇格の夢を断たれる。

リリーは、アパラチアの山奥で教師をしている妹エレノアのもとに向かう。
そこでリリーは、エレノアと共に暮らす孤児ディレイディス(エミー・ロッサム Emmy Rossum このあいだ公開されてた『オペラ座の怪人』のクリスティーヌ!)の歌に驚く。
それは、200年以上前の、すでに失われたとされている歌だったからだ。

それらの歌を録音し、採譜して出版しようと思いついたリリーは、すぐに行動に移す。
一方で、これまでの山の暮らしを頑なに守ろうとしながらも、他方で、仕方なく近代化の波に呑み込まれようとする山の人々がいる。
そして、そうした山の人々の暮らしと切り離せない歌の数々がある。

歌をとおして、山を知り、人を知り、今まで知らなかった自分自身に気づいていくリリー。
しかし、エレノアが同性愛者であることが知れると、魔女扱いされて、学校は放火される。
リリーが必死の思いで集めた資料も、猛り狂う炎にあっさり呑み込まれて、灰燼に帰してしまう。

時と場所を離れてはありえない、そういう音楽もあるのだ。
そんな声が、画面から聞こえてきそうなシーンだ。

リリーは、しかし、さらにタフになっていた。
監督も、虚脱感よりは、彼女の解放感のほうを前面に出そうとしている。
アカデミックな世界にも、もはや未練はない。
彼女は、山で知り合ったトム(エイダン・クイン Aidan Quinn)といっしょに山を下りて、新しい生活を始めようと決意するのだった…。

最近、女性監督が、どんどんイイ作品を見せてくれてますが、これも確実にその一つですね。
オフィシャル・サイトはこちら http://www.utaoi.jp 

『SONGCATCHER』、2000年、米、マギー・グリーンウォルド Maggie Greenwald 監督作品。


May 22, 2005 編集
☆☆☆[book]『信長 イノチガケ』

信長は、極限の人間として、興味がある。
バサラ者、カブキ者、大タワケ。
だが、安吾の信長は、実に聡明で爽やかである。

人が最後の崖に立ったとき、他に助けを求め、奇蹟を求める時は、必ず滅びる時である。自分の全てをつくすことだけが奇蹟をも生みうるのだ。もしもそれを奇蹟とよびうるならば。p371


「身内」同士の、まさに骨肉の争い。
そのなかで、聡明であることを余儀なくされた信長である。
合理性が、そのまま爽やかさ(自由)であること。

安吾は、桶狭間までの信長を描く。


May 20, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『上海家族』

少し前の日本のドラマ?
どこかで見てきたような既視感がある。
けど、違いもある。
なんだろう、苦しくないのである。

父親には別に女がいて、母親は、それを許せずに離婚し、別の男と再婚する。
しかし、優しそうに見えた再婚相手は、結婚してかさんだ水道代を妻に負担させようとする吝嗇家。
彼女の15歳の娘、阿霞(アーシャ)が使う風呂の回数まで制限しようとする。

で、またも離婚。
出戻りは、しかし歓迎されない。
実家にいる弟にも、いまでは嫁がいる。

「母親の母親」は、出戻りの娘に、最初は冷たい。
が、してやれることを精一杯してやろうという気になる。
前の夫と、よりを戻す話も、「娘を思う娘」を思ってのことだ。

すべて一人娘のため、と母親は、自分を犠牲にしているつもりでいる。
しかし、娘のアーシャは、それでは「自分」がない。
自分自身の「選択」がない。
そんなのはイヤだ。

母親にぶつかる。
そうやってぶつかることができる彼女が、うらやましい。
ぶつかりながらも、お互いを支えている。

二人は、ふたりの家を手に入れる。
はじまり、の予感。

母親役のリュイ・リーピンが、魅力的。
娘役のチョウ・ウェンチンも、自然な感じでいい。
監督は、女性で、微妙な感情を丁寧に描いて、しっとりとした画面になっている。

三世代の女性の、それぞれの悩みと悩みかた。
そして、女同士としての絆。
今の上海の感じなんでしょうか? 前向きな感じが、いいです。

『假装没感覚』、英題『SHANGHAI WOMEN』、2002年、中、ポン・シャオレン監督作品。


May 19, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『地球で最後のふたり』

監督は『わすれな歌』http://d.hatena.ne.jp/m-takeda/20050316のラッタナルアーン。
撮影は、クリストファー・ドイルという人。

バンコクの日本文化交流センターで働くケンジ。
外人客用クラブで働くノイ。

自殺願望をもつケンジは、自分を殺す前に、ヤクザの兄を殺したヤクザを殺してしまう。
自分が付き合っている男と同衾した妹を激しく責めたノイは、その直後に妹を事故で失う。
偶然、現場近くにいたケンジは、ノイと知り合う。

対照的なふたりは、ほとんど接点がない。
しかし決定的には、すれ違わない。
微妙なところで、つながっている。

幽かだったけれど、しかし確実にあった、ふたりの心の交流を描く。
彼らの心が、そっとふれあうシーンは、温かく儚く美しい。
世界に対する、ある種の距離のようなもの、を感じてしまう。
いや、もうまったく別の世界が立ち上がっている、といったほうがいいのかも知れない。

事故のシーンや銃撃の場面は、画面に直接には映らない。
だから、「その直後」を映すカットにつながったとき、連続性だけでなく現実感まで失われているように感じたりもする。
それらは、全体のトーンを考えると、でもそれでいいと思えてくる。

浅野忠信は、例の独特の雰囲気で、静かな男を演じている。
潔癖性のケンジは、魂をどこかに忘れてきたような男で、表面的には、自分のなかに、いつ暴発するかわからない激情が潜んでいることなど、微塵も感じさせない男だ。
世界に対して、醒めているけれど、ユーモラスで可愛らしいところがある。

ノイ役のシニター・ブンヤサック(Sinitta Boonyasak)も美しい。
ほんとうに、あの心斎橋の喫茶店で、出会ってみたい、と思う。
日本語、英語、タイ語がチャンポンなのもいい。

最後に出てくる日本のヤクザは、三池崇史監督だそうだ(彼のとばすギャグは笑える)。
タイの暑さを、画面にほとんど感じさせない、夢のような(あるいは他界のような)映画です。

『LAST LIFE IN THE UNIVERSE』、2003年、タイ・日・蘭・仏・シンガポール、ペンエーグ・ラッタナルアーン Pen-Ek Ratanaruang 監督作品。


May 17, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『友へ チング』

ヤクザの息子ジュンソク(ユ・オソン)、葬儀屋の息子ドンス(チャン・ドンゴン)、優等生のサンテク(ソ・テファ)、お調子者のジュンホ(チョン・ウンテク)。
子供の頃から親しかった4人はしかし、やがて別々の道を歩むようになる。
そしてジュンソクとドンスは、対立するヤクザ組織の一員として、その抗争に巻き込まれていくのだった…。

主人公たちが高校を卒業するまでの、前半の躍動感あふれるシーンは、見ていて気持ちがよくって、思わず声を出して笑ってしまった。

全体的な印象は、男の「弱さ」を描いた映画。
中島らも的にいえば、「依存」症の映画というようにも言えるかも。
ヤクからは立ち直っても、自分以外の何かに支えられていないとモたないオトコ。

そして、ナンバー2の悲哀を描いた映画。
そういえば『青い春』なんかも、そうだったけどね。
「女」をもう少しふくらませてたら、どうなったかな?

英題『CHINGU』、2001年、韓、クァク・キョンテク監督作品。


May 16, 2005 編集
☆☆☆[book]『本についての詩集』,長田弘,みすず書房,2002/10

固有名にまつわる、二十世紀以後の詩を、詩人の長田さんが集めた本。
92人の、92篇の詩(と断章)で構成された詞華集(アンソロジー)。

僕が気になった3篇について。
まずは、井上靖「孔子」。

以前、鉄斎美術館を訪ねたことを書いたとき、『論語』にある次の言葉を記した。
「知者は水に親しみ、仁者は山を楽しむ」
何となく、わかったつもりでいた。
じつは、よくわかっていなかったことが、よくわかった。

井上靖は、その詩にいう。

…何となくはっきりしないところがある。「論語」の編者は大切な一行を落としているのではないか。仮りに、
−−無頼は戈壁(ゴビ)を楽しむ。
の一行を付け加えさせて貰うと、事情は全く異なってくる。


先の言葉は、「知者は水に親しみ、仁者は山を楽しみ、無頼は戈壁を楽しむ。」となる。
「こうなって初めて、この言葉には生気が蘇ってくる」。
そして、井上はつづける。

孤独な知者と孤独な仁者を遠く置き去りにして、山も川もない戈壁の大原野を移動してゆく無頼の大集団。言うまでもないことだが、孔子はその中に居る。いかなる時の孔子よりも生き生きと、移動する人間の流れの中に居る。


井上靖に『孔子』があるのは知っていたが、こういう孔子を書いているのなら、読んでみたいと思った。

2つめは、萩原朔太郎の「詩人の死ぬや悲し」。
先日、荒川洋治の本を紹介したとき、岡本かの子についてふれた。
荒川さんは、「瀬戸内寂聴」が好きで、瀬戸内さんも「岡本かの子」が好きなのである。

その岡本かの子に『鶴は病みき』という小説がある。
芥川龍之介を扱った小説である(麻川荘之介として出てくる)。

その世界に通じる詩を、萩原朔太郎が書いている。
絶望に沈む彼を慰めるつもりで言った「私」の言葉に、芥川は顔色を変えて烈しく言い返したそうだ。

「著作? 名誉? そんなものが何になる!」
「人類史以来の天才」と豪語した(萩原は「傲語」と書く)傲岸不遜のニーチェ。
「おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた!」

側に泣きぬれた妹が、兄を慰める為に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニーチエの答へた言葉が同じやうにまた、空洞(うつろ)な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」


だが、一方の世界には、かれらとは違った人たちが住んでいる。
あげられているのは、ネルソン、ビスマルク、ヒンデンブルグ。
日本人は、伊藤博文、東郷大将。

彼らなら、いうだろう。
「余は祖国に対する義務を果たした」
「余は、余の為すべきすべてを尽した」

そして萩原朔太郎は、その詩の最後に記す。

−−人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!


最後の3つめは、全部引きたい。
そう思って、リルケを扱った釈超空「独逸には 生まれざりしも」か、北原白秋「老子」のどちらをとるかで迷ったが、前の詩と調子を変えたいので、後者にする。
これは、富岡鉄斎に通じる。

老子  北原白秋

青の牛に白の車を挽かせて
老子は幽かに坐つてゐた。
はてしもない旅ではある、
無心にして無為、
飄飄として滞らぬ心、
函谷関へと近づいて来た。
ああ、人家が見える、
馭者は思はず車を早めたが、
何をいそぐぞ徐甲よと、
老子の微笑は幽かであつた。
相も変わらぬ山と水、
深い空には昼の星、
道家の瞳は幽かであつた。



May 14, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『キッチン・ストーリー』

スウェーデンからきた調査員とノルウェイの田舎に住む調査対象者。
ふたりは、どちらも独身男性だ。

1950年代。
スウェーデンの「家庭研究所」が、独身男性を対象に、台所調査を実施。

ホンモノの馬をもらえると勘違いしたイザックは、頑固そうな老齢の独身男性。
応募したのは失敗だったと、調査には最初から乗り気でない。
初老のまじめ調査員フォルケは、調査対象者とコトバを交わしてはならないという規則を律儀に守って…。

高い椅子に坐って観察する調査員が、じつは二階から観察されていたり。
事件はなく、淡々としたユーモアがある。

ふたりは、少しずつ打ち解け合い、規則を破って口を利き、やがて心を通わせて、互いを必要とする存在にまでなっていく。

イザックの旧友グラントがからんで、隣り合うふたつの寒い国同士の、複雑な歴史も背景に読みとれるようになっている。

春を迎えた家に電話が鳴り、コーヒーを用意するフォルケは、調査に来た頃と違って、じつに幸せそうだ。

『SALMER FRA KJOKKENET』、英題『KITCHEN STORIES』、2003年、ノルウェー・スウェーデン、ベント・ハーメル Bent Hamer 監督作品。


May 13, 2005 編集
☆☆☆[book]『性のお話をしましょう 死の危機に瀕して、それは始まった』,団まりな,哲学書房,2005/2

20億年前、真核細胞が飢えにさらされてとった、死にものぐるいの生き残り策。
「性」というものの奥深さを、生物学者が、一般的な読者に向けて、わかりやすく解説した本です。

あっ、と唸らされた。
まさしく、目からウロコ状態。
遺伝子とか、DNAなどに、目がいきすぎていたんですね。
いわれてみれば、そりゃ、そうですよね、って思えるけれど。

…、生物のあらゆる営みは、細胞がやっているのであって、遺伝プログラムがやっているのではありません。遺伝プログラムは確かにありますが、それをになっていると考えられているDNAの上には、タンパク質に関する情報が書かれているだけです。実際の化学的イベントは、DNA上の情報にもとづいて現実に合成されたタンパク質が、特定の種類、特定の数だけ集まって行うのであって、DNAがやるわけではありません。それだけでなく、体内に飛び交う無数の分子信号を読み解き、いつ、どこで、どのカスケードを使うべきかを判断するのは、細胞たちです。p173


じゃ、その細胞たちは、どうやってそんなことができるの?
それは、ヒトなら、ヒトの細胞だから。
は?

つまり、与えられた遺伝的プログラムにしたがって。
え?

さっき「遺伝プログラムがやっているのではありません」って。
それは「遺伝的プログラム」という概念のとらえかたの問題。

現在の一般的な考え方では、「遺伝的」という語を「DNA」と同義のように使いすぎるのです。DNAは確かに遺伝します。つまり世代から世代へ受け渡されます。でも、DNAは裸で封筒に入れられて受け渡されるわけではありません。必ず、「細胞」ごと渡されるのです。p174


そうか、「細胞ごと」ってところがミソなんだ。

 「遺伝的プログラム」が意味するものは、DNA上の情報などよりはるかに複雑で、多岐にわたるのです。それに気づけないのが、私たちの悲しい性なのです。
 私は、遺伝の基本はDNA複製ではなく、細胞分裂だと考えています。そして、遺伝的プログラムは、DNAにではなく、細胞質、または細胞構造そのものに書き込まれているのだろうと思います。p175


私たちは、「ヒトとしての基本的内容の全て」を遺伝しています。
DNAだけではなく、「細胞の持つ全て」を。
細胞を構成している全ての分子種からその配分、配列のしかた。
つまり、細胞構造そのものと細胞の大きさから基本的な性質まで、何から何まで。

そして、たとえば「ヒトとしての基本的内容の全て」に至る鍵の多くは、「受精卵の細胞質部分に潜んでいるはず」と団さんは、書いています。
時間をかけて、この問題を整理していく、とも書かれていましたから、今後にも期待したいと思います。

「おわりに」を読むと、「私の研究は、長い、孤独なものになりました」とも書かれています。
でも、団さんは「変わり者になることをおそれずに」、研究を「楽しいこと」として、ずっとつづけてこられたのでした。
ここでは、彼女のパワーの源泉としての、彼女の資質、家庭環境、周囲の影響などが、さらりと語られていて、元気を少し分けてもらった気分になれます。


May 12, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ハムレット』

現代のニューヨークを舞台に、シェークスピアの戯曲を映画化した作品。

西暦2000年のニューヨーク、デンマーク社の会長が亡くなった。
弟のクローディアスが会社を後継し、未亡人ガートルードを妻に娶る。

留学先から帰国した会長の息子ハムレットの前に父の亡霊が現れる。
幽霊は、実の弟に暗殺された父親の復讐をせよと迫る。
ハムレットは真相を探るために、気が狂ったかのように振る舞い、恋人オフィーリアにも尼寺に行けと命ずるのだった…。

イーサン・ホーク Ethan Hawke が繊細で傷つきやすいジェイムズ・ディーン的ハムレットを、ジュリア・スタイルズ Julia Stiles が可憐というよりは、ややドライで、それでいてやはりセンシティヴなオフィーリアを演じている。
サム・シェパード Sam Shepard は精悍すぎて、あんまり亡霊には見えなかったけど。

鏡や、ポラロイド写真、とくに自己表現(省察)手段としてのヴィデオ、などのメディアの使い方が面白い。
断片的だが、劇中劇的な過去の様々な映画のシーンの引用も、鑑賞の薬味になっている。

『HAMLET』、2000年、米、マイケル・アルメレイダ Michael Almereyda 監督作品。


May 11, 2005 編集
☆☆☆[video]『ハムレット』

ゼフィレッリ監督は、シェークスピア作品を結構撮っているが、なかでも『ロミオとジュリエット』が有名だろう。
この作品では、メル・ギブソン Mel Gibson がハムレットを、ヘレナ・ボナム=カーター Helena Bonham Carter がオフィーリアを、それぞれ好演している。
そして、グレン・クローズ Glenn Close 演じるガートルードの存在が、この映画をかなり熱っぽいものにしている。

陰鬱で憂愁を抱えたハムレット、というより、父からも母からも自立できていない、幼いハムレット。
直情型だが径行的ではない(つまり激情的で、かつ優柔不断な)ハムレットだ。

城の内部、そこでの人物たちの動き、室内における画面構成がいい。
ラスト近くのレアティーズとの闘いの場面での、試合場のセットも、カッコいい。

『HAMLET』、1990年、米、フランコ・ゼフィレッリ Franco Zeffirelli 監督作品。


May 10, 2005 編集
■[book]☆☆☆『忘れられる過去』,荒川洋治,みすず書房,2003/7

 最初にふれているのだ。そのときは気づかない。二つめあたりにふれたとき、ふれたと感じるが、実はその前に、与えられているのだ。
 読書とはいつも、そういうものである。p15


詩人の書いたものを読んだあとには、いつも同じコトを思ってしまう。
あー、詩人の書いた文章だけを読んでいたいな、って。
(もちろん、いろんな文章があるからこそ、いい、のだけれど。)

詩人たちは、それぞれに、世界へと向かいあう。
ものごとに対する距離のとりかた、構えかたが、それぞれに独特で、それがそのまま言葉遣いとして表れているものだから、そういう言葉たちに寄り添っていると、それだけで気持ちがいいのである。
語られている内容によらず、たいていは、読んでいて居住まいを正すようになることが多い。

気持ちがいい、というのは、そんなふうな心地よさのことである。
だから、背筋をピンと伸ばして、でも顔はニタニタしている。
傍らで人が見てたら、ちょっとコワいかも、ジョータイなのだ。

たとえば、荒川洋治は、「この年、柳宗悦と知った」というときの「と」というコトバに注目する。
最近は、こういう「と」の使い方が、見られなくなった。
代わりに、「荒川洋治を知る」というように、「を」を使う。

でも、「と」と「を」とでは、ゼンゼンちがう、と荒川さんはいう。
「○○と知る」というのは、「○○と相識る」ということ。
それは、実際に会ったということだ、と。

そう指摘されてみると、そうだと気づく。
「○○を知る」だと、こちらが一方的に知った場合でも、使えてしまうのだ。

時計でも
十二時を打つときに
おしまひの鐘をよくきくと、
とても、大きく打つ、
けふのおわかれにね、
けふがもう帰つて来ないために、
けふが地球の上にもうなくなり、
ほかの無くなつた日にまぎれ込んで
なんでもない日になつて行くからだ、
茫々何千年の歳月に連れこまれるのだ、
(室生犀星「けふという日」冒頭部分)


小さいけれども大事な発見。
そしてそれらを支えているのが、たくさんの本の巻末につけられている「著者の年譜」にある言葉たちであったりする。

荒川さんは、あれこれのことどもの羅列という楽しみを知っている人だ。
もちろんそれらは、読者向けに、ほどよく抑制されている。
このブレーキの踏みぐあいが、とても同乗者に気を配ったものになっている。
つまり、ブレーキを踏んでいることを、読者に意識させないのである。
だから、書くのは大変だけど、読むのはやさしい本になる。

明日もまた遊ばう!
時間をまちがへずに来て遊ばう!
子供は夕方になつてさう言つて別れた、
わたしは遊び場へ行つて見たが
いい草のかをりもしなければ
楽しさうには見えないところだ。
むしろ寒い風が吹いてゐるくらゐだ。
それだのにかれらは明日もまた遊ばう!
此処へあつまるのだと誓つて別れて行つた。
(室生犀星「明日」)


また、荒川さんは、ひとり遊びをよく知る人でもある。
やはり一人あそびの達人であった色川武大をとりあげて、
「ひとつの世界のはじまりから終わり、小さなことから、おおきなことまで、まるまる構想、考案する」ことの愉しさ、そこで鍛えられる想像力に話が及んだりする。
自分で決めたルールにしたがって世界を組み立てること、モノやコトを分類して並べ直してみることは、ほんとうに楽しそうだ。


きのふ いらつしつてください。
きのふの今ごろいらつしつてください。
そして昨日の顔にお逢ひください、
わたくしは何時も昨日の中にゐますから。
きのふのいまごろなら、
あなたは何でもお出来になつた筈です。
けれども行停まりになつたけふも
あすもあさつても
あなたにはもう何も用意してはございません。
どうぞ きのふに逆戻りしてください。
きのふいらつしつてください。
昨日へのみちはご存じの筈です、
昨日の中でどうどう廻りなさいませ。
その突き当たりに立つてゐらつしやい。
突き当たりが開くまで立つてゐてください。
威張れるものなら威張つて立つてください。
(室生犀星「昨日いらつしつて下さい」)


荒川さんは、実際の経験による裏打ちを大切にする。
岡本かの子の文章に出てくる「天柱山」「吐月峰」。
これを確かめに、荒川さんは静岡を訪ねる。

本の巻末にある解説で、瀬戸内寂聴が、同じことをした川端康成を引きながら、「天柱山」も「吐月峰」も「柴屋寺」の山号で、「実際の山はなかった」と書いている。
二人の先人が「実際に行ってみて」書いている、にもかかわらず、である。
そうなんだ、山はないんだ、ではなく、自ら実地に検分してみよう、となる。

で、どうだったか。
山はあった、のである。
正確には、「天柱山」があった。
じゃあ「吐月峰」は?

もう一度か二度行けば、わかるかもしれない。


要領を得ない結び、ではない。
これが、余韻である。


May 09, 2005 編集
☆☆[DVD]『永遠の片想い』

こういう映画を観て、何を言えばいいんだろう。
ありえん?
うーん、そんなの、あたりまえだし、ねー。

笑って泣かせる映画のようだったけど、泣くほうは、できなかった。
でも、だからダメな映画かというと、そうでもない。
最初の、窓からの田舎の風景をとらえたシーンもいいし、最後にイ・ウンジュが想っている男の顔を指で宙になぞるシーンもいい。

ありきたりといえばそうかもしれないけど、時計の逆回し、頼まれて渡さない手紙、右手の包帯、などの反復、すれ違いなども、上手く使っている。
それから、もちろん名前(の交換)。
前にも引用したことがあるけど、もういちど川田順三さんの本から引いておこう。

いとしい者の名を、ひとりで声に出して呼んでみる、あるいは呼びかける、それはその名と重ねあわされた、かけがえのない存在を、自分の声でいつくしんだり抱きしめたりすることにほかならない(『聲』)


お互いのことを自分自身のように愛していた女の子たち、スインとギョンヒの二人から想いを寄せられたということ。
彼女たちが、もはや生きてはいないということ。
それは、しんどいけれど、生きていられるということは、やっぱりオイシイことだ、と僕は思う。

過去に生きるのか、それとも未来に生きるのか。
いずれにしても、チャ・テヒョン演じるジファンには、「現在」がある。
ギョンヒを演じたイ・ウンジェが、2月に自裁し、実際に他界してしまった今となっては、なおさら、ずっと「今」を生き続けてほしい、と思ってしまう。

英題『LOVER'S CONCERTO』、2003年、韓、イ・ハン監督作品。


May 08, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『子猫をお願い』

港の埠頭で、ハジケてる少女たち。
ジャレあい、フザケあう彼女たちは、地方では評価の高い有名女子商業高校を卒業したばかり。

半年後、5人は、それぞれの人生を生きていた。
ソウルの証券会社に勤めるヘジュ。
すでに会社を解雇されたジヨン。
サウナの家事手伝いをしているテヒ。
自作のアクセサリーを売っている双子のピリュとオンジョ。

ヘジュの二十歳の誕生日に、ジヨンは拾った子猫をプレゼントする。
子猫のティティは、ヘジュからテヒへ、そしてピリュとオンジョたちへと手渡されることになるのだが、その間に彼女たち人間のドラマがある。

父母を亡くして貧しい生活をしているヘジュが、留守にしている間に、天井が崩れるという事故で、今度は同居していた祖父母まで同時に亡くしてしまって、でも言葉がなくて、警察に言い訳も説明もできないまま鑑別所に送られてしまう。
黙っている、言葉が出なくて、話せない彼女を、映画は丹念にとらえている。
きっと、そうでしかいられないだろうと、納得させられるのだ。

父親に向かって、殴るのだけが暴力じゃないんだよ、というテヒ。
父は、ファミレスで、家族全員の注文を、勝手に同じものに決めてしまう。
だけじゃない、次男に向かって、長い間メニューを見ているようなヤツにろくな者はいない、何でも出されたものを美味しくいただく人間がエライんだ、と説教タレタレ。

うーん、彼女が家を出たくなる気持ち、わかるなー。
オヤジさんの考えにも、一理はある。
あるけど、でも、文脈ってもんがあるでしょー。

いつでもどこでも、どんな条件の下でも通用する「正しさ」なんて、多分ないよね。
うん、さっさと出たほうがいい。
そんな先の見えない我慢より、自分が選んだ「自由」に降り掛かってくる苦労のほうが、ずっとマシかも。

額に入ったバカでかい家族写真。
それをはずして、自分のところだけを切り取って、また壁にかけ直して、テヒが家を出ていく場面は、オモシロ哀しいところだ。
彼女が、ジヨンに連帯を求めるのも、思いやりだけじゃなくて、自分を守るためのリスク・ヘッジでもあるだけに、じゅうぶん現実的な解決策。

それから、今回あらためて思ったけど、双子っていう存在は、やっぱり不思議。
双子っていうそれだけで、何かを確実に表象している。
声が姿が動きが似ているということの怖さ、面白さ。

監督は、TVを観ている彼女たちを鏡に映して、TVと彼女たちを並べて見せたりして、その不思議さを強調してましたけど。
それから、アクセサリーの値段が高いって、子供たちに値切られて、どっちが姉か当てたら値引きしてあげる、という場面も可笑しかった。

テヒ役のペ・ドゥナは、『ほえる犬は噛まない』に出てた女優さんで、とぼけた感じが役にハマっている。
イ・ヨウォンは、可愛いけどちょっと憎らしい女の子ヘジュの役を上手に演じている。
寡黙でストイックな女の子ジヨン役だった、モデル出身だというオク・ジヨンも、いい。

ロケのほとんどは仁川なんだって。
そして監督チョン・ジェウンは、女性で、これが長編第一作だとか。
わりと普通に近い女の子たちが、社会の現実にぶつかったり、家族(との関係)を見直したりしながら、自分の居場所を模索する姿をじっくりと描いている映画、かな。

ちょっと行定勲監督の『きょうのできごと』を連想しちゃいました。
そして、彼我の違いについて、感じるところがありました。
映画もやっぱり、現実から離れてあるわけにはいかないんだな、って。

英題『TAKE CARE OF MY CAT』、2001年、韓、チョン・ジェウン監督作品。
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May 07, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『カリスマ』

なかなかイミシンな映画ですが、よくできています。
こんなに深くて大きいテーマを一本の木という目に見えるものにして、しかも退屈させない。

主人公のヤブイケという刑事は、冒頭で、代議士を人質に取った犯人に、殺人と自殺を許してしまう。
両方生かしたかった、というのが、彼の言い分なのだが、それと同じ問いを彼は突きつけられる。
世界の法則を回復せよ。

生かすべきなのは、カリスマと呼ばれる一本の木か、森全体か。
しかし、彼は気づいてしまう。
世界の法則とは、何であるのかを。

「特別な木も、森全体もない。あっちこっちに平凡な木が1本ずつ生えている。それだけだ」
あらゆる価値に、絶対的な根拠はない。
線を引くのは、あくまでも相対的な人間なのだ。
そして真の自由を生きられるほど、人間は強くもない。

こんだけ「つながらん」かったら、人間も、どうしようもないね。
ヤブイケは、しかし、回復してはならない方の世界を開いてしまう?
カリスマを破壊することは、世界の、秩序の、差異の、破滅を意味する?
それでも真の自由に向かうために?

『CHARISMA』、1999年、日、黒沢清監督作品


May 06, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『はじまりはオペラ』

原題は「プロンプター」という意味の言葉。
劇場のステージ前方に用意された小部屋から、歌手に向かってセリフのきっかけを与える人。
場所はノルウェー・オペラ(Den Norske Opera)。
演目はヴェルディの「アイーダ」。

映画の主人公は、女性プロンプター、シーヴ(ヘーゲ・シュイエン Hege Schoyen)。
すでに若くない彼女は、近くフレッド(スヴェーン・ノルディン Sven Nordin)と結婚する予定だ。
彼は再婚で二人の子供連れだが、ずっと母親と一緒に暮らしてきたシーヴは初婚である。

彼女は音楽一筋に生きてきたといってよい。
自分の部屋があり、自分のためだけの籐椅子がある。
婚約者のフレッドは医師だが、シーヴの仕事には無関心で、彼女には家庭の主婦を期待している。

やがて結婚した二人だが、家のなかには先妻の持ち物や家族の写真が溢れている。
フレッドは子供たちにだけでなく、先妻その人に対しても大変に優しい。
シーヴは、相手のよいところを見て、自分の悪いところを責めるタイプ。

フレッドは、決してシーヴを愛していないわけではない。
しかし、彼女を理解できない。
そしてシ−ヴには、居場所がないのだ。

シーヴはある日、チューバ奏者マルカス(フィリップ・サンデーン Philip Zanden)と出会う。
自分と自分の仕事をよく理解してくれるマルカスに、彼女は心惹かれる。
シーヴはしかし、マルカスとは結ばれまいとするのだが、ついに…。

『SUFFLOSEN』、1999年、ノルウェー、ヒルデ・ハイエル Hilde Heier 監督作品。

☆☆☆[book]『考えあう技術 −教育と社会を哲学する』,苅谷剛彦&西研,ちくま新書,2005/03

なんで学校に行かんとあかんの?
学校の勉強って、なんの役に立つん?
学校行かんでも、生きていけそうやし、勉強、鬱陶しいし。

たしかに、自由である。
でも、その与えられた自由を、ほんとうに自分のものとして、めいっぱい生かせるだけの力が、僕たちの身についているだろうか。
自分が自由であろうとすれば、自分以外の人の自由も認めなければならない。
しかし「知る」ということなしに、また「知る」を分かち合うことなしに、そんなことが可能だろうか。
つまり、問題は、

「『自由な個人』は学校へ行くこととどういう関係があるのか、とか、公正さというのは学校で学ぶこととどういう関係があるのかということになる」p44


たとえば、「職業選択の自由」という理想を、誰にでも保証しようとすると、共通教育・普通教育・一般教養教育の期間が、どうしても長くなってしまう。
すると、なんで学ぶのか、が見えにくくなる。
ジャ、それこそ自由に選択させるのがイイ?
それは、

「子どもの選択を尊重しているようでいて、子どもに選択の意味をわからせないままそう言っているのであれば、じつは選択肢を狭めていることになる」p52
「あることを学ぶという一つの選択をした場合、別の選択肢を犠牲にして捨てていることなんだということ」p51


僕たちは、生まれついた一族や地域から、離れて生きることも選択できる。
クラブ、バンド、サークル、NGO、NPO、会社などなどをつくる自由がある。
不特定多数のいろんな人間と会って関係をつくるときに、広い共通の知識が役に立つ。

そして、コミュニケーション能力や調整力につながるのは、協調性よりは、ここではむしろ、「関係や場面をつくりあげていく力」だろう。
すでにある大きな集団(共同性)に同調するというのではなく、あたらしく集団を立ち上げて自立すること。
既存の集団であっても、それを組み直してみようとすること。

「結社の自由」においては、「互いに合意をつくりあげてルール化したりそれを改変したりしていく力」が求められる。
そして、自由をよいものとして実感できるための、集団づくりの練習の場としての学校がある。
西さんは、ヘーゲルを参照しながらいいます。

何にも参加しなくても自分の部屋の中でビデオを見ていれば楽しく、自由でしょう。しかし人はその自由だけでは満足できないと思います。仕事でも学問でもボランティアでもいいのですが、何かのゲームに参加して、そこで力を発揮したりあれこれ工夫したりしてその努力を他者から承認されることがないと、自由の実感は得られないと思います。p69


つまり「自由になるためには不自由が必要だ」ということ。
では、どうすれば「ゲーム」に参加できる力を養えるのだろうか。

「自分と、他者・集団・社会との関係」のとらえかた。
「規範」や「ルール」を「主体的な参加によってつくりかえていく主体になれるというルート、そのときの自己像、個人像」をもつこと。
たとえば、「異議申し立ての仕方」の訓練。

「『感情・感覚としての自分』と『メンバーの一員としての自分』の間に分割線を引けるということ」。p95


「私は傷ついた、苦しい、だからこれはおかしい」ではなく、「それは、人々が公正に自由に共存するうえでやってはならないこと」だからダメ、となる。
それは「フェアさを決めるルール」ではない。
「フェアさを決めるものと個人の苦しみを一応分けて考えたほうがいいよというルール」「メタルール」だ。
じゃ、「本当の自分」はどこに求めたらいいの?

実際には、サークルや部活でなんらかの活動をしたり、会社に入ったりしますね。そのなかで、どういう仕事のやりかたがよりよいのか、とか、あるいは役所に勤めるのだったら、どうすれば市民のためになるか、ということを考えたりする。じつはそういう工夫のなかにこそ、「その人らしさ」が出てくる。/究極の自己実現と、まったく実現できていない私、という二分法はまちがいですね。


西さんの発言に、苅谷さんはこう応えている。

個人のなかに引きこもって、消費生活するなかで、自己に対する快を通じてしか自己実現的なものをイメージできなくなる。それは自己実現ではなくて自己満足。自己実現というのは、じつは到達された状態ではなくてプロセスのなかで掴み取るものだから、そのときどきの場面で自分らしさが発揮できていればよい。それは状態というよりはプロセスです。自己実現した自分があって、そこと今はかけ離れていて、どうやったらそこへ到達できるかと考えると非常に苦しくなる。p134


役割や責任、他者との関係を組み込んで、自由を考える。
そして「わかる」を「できる」につなげていくためにも、「知識をどうやってお互い伝え合うか、理解し合うかということを確認する場」としての学校が、重要になる。

知識は、切り離された情報の無意味な記号ではない。理解可能だということ自体が共有ということを前提にしている。知識を得ることによってわれわれは、ある社会や世界の見方を獲得します。それを共有することによって、新しい社会をつくりだしていく力にもなるし、自分自身が知識を得ることによって世界との関係の仕方を変えていくということにもなる。p156


自由の前提条件として、役割や責任がある。
なぜそういえるのか。
役割や責任を果たせなければ、他者からの承認が得られない。
それでは自由もないからだ。

でも、役割とか責任っていっても、いろいろあり得るんじゃないの?
たとえば時代や地域によっても。
「時代や社会を超えて共通な人間性と社会一般」(あるいは「超歴史的な絶対的根拠」)なんて、ないのでは?

西さんによれば、
それが追体験的に理解が可能(で、それがない場合を想定できない)なら、どんな時代にも認められる、ある共通なこと(哲学ではそれを「本質」というらしい)を主張していい、ということになる。

では、と苅谷さんは食い下がる。
その追体験を可能にしている条件は何か、と。

無前提に「本質」があるのではない。
それは、「あくまでも問いかけがあって、そこから光を投げかけると浮かび上がってくる『答え』なのです」
「何らかの目的なり問いなりを設定して、その観点から人間と社会を考えようとする“限りにおいて”、どの人間にもどの社会にも通じる基礎的条件というものが提出できる」。

 …、社会のなかで、経験を通じて追体験の条件が、それ自体条件になってしまう。でも、目的設定に応じて、それがどう組み変わるかということをルールのなかに入れておけば、ある一面的な経験をもとにした追体験の仕方に対して批判する余地が出てくる。
 自由というのは相互批判を可能にする地平であり、同時にそのことを前提にして承認しあうことや、ルールをつくり変えることができるものです。そこから出発すれば、基礎的条件というのはそんなにおかしいことではありません。p223


ああ、これでやっと「役割と責任」が、時代を超えた社会的な「徳」の一つとして、とりだすことができた。
この「徳」を、しかしどうすれば身につけることができるか、が問題だったのだ。

自分で(自由に!)選び取る「徳」、すなわち「役割と責任」。
これは、たしかに大切なことだろうけど、正直、シンドイ。
では、徳目主義(固定的な役割とそれに伴った徳)のように、それを押しつけることができない時代に、どうすれば自らそれを選び取れるようになるのだろうか。

少し回り道。
「キャラクター(人格)の死」というアメリカの社会学者ジェームズ・ハンターの話。

勤労や労働を通じて(つまり社会とつながった何かに奉仕したり貢献したりして)人はその「キャラクター(人格)」を育てていく。
これがアメリカの伝統的な考え方だったらしい。
しかし、それがここにきて(60年代以降)「パーソナリティ」に置き換わっていった。

「パーソナリティ(個性)」とは、生まれながらにして個人がもっているもの。
これらは、教育の観点からは、次の二つの対極的な教育論になる。
「鍛え上げろ、経験しろ、つながれ」の「キャラクター」。
「邪魔するな、抑圧するな」「内発的な何ものか(自分のなかのよいもの)を、より高めてあげるのがいい」となる「パーソナリティ」。

「パーソナリティ」の立場では、その人がその人らしく、より人間的になれば、社会もより道徳的になる、と考える。
しかしハンターさんは、「キャラクター」を失ったとき、アメリカの伝統的な個人主義は弱くなるのだ、と嘆く。
社会の抑圧から、個人の内面の解放すること。

これが文化運動として消費社会と結びつくと、だれも社会にもまれて自分の人格を鍛えあげようとはしなくなる。
何かを買って、それを身につけたりすることで、自分らしくなれるなら、そのほうが楽だし楽しい。
しかし、「選択の自由」や「快楽を求める自由」だけでは、社会的な「個人」は、鍛えられないのですね。

どんな社会になっても「役割と責任」が、なくなるわけではない。
「社会的な責任を負うこと」が、個人の快さを守るためにも必要ではないのか。
自分たちの楽しい生活を守るためにこそ、「役割を放棄してしまうのではなく、もう一度役割自体を見直せばいい」。

「役割の中で獲得する『承認』とか『誇り』というのは」「個人のなかだけで完結する快とか楽しみ」とは「また違う快や楽しみになりえます」。
「個人の自由」とセットになった「役割」を自覚すること。
そういう練習の場として、学校が機能するようなお膳立ては、できないだろうか。

近代以前の「役割」は、いわば「神」から与えられた、固定的なものだった。
それだと、「役割」を担えない人は、たんに無能ということになる。

考えを戦いあわせたり批判しあったりしながら、そのなかで互いを理解したり信頼感をもったりする経験というのは、近代が可能にした非常に大切な果実だと思うのです。p241


西さんは、それを「表現と理解の関係」あるいは「文化のゲーム」と呼んでいる。
自由に生きられるということは、「私は何をめざして生きたらよいか・どうやって他者と関係をつくりあげていけばよいか・どういう社会が公正なものといえるのか」といった問いを抱えることだ。
だからこそ、「文化のゲーム」の存在理由がある、と西さんは考える。
そういう場がなければ、「近代人はとても孤独」だ、と。

「自分」のために、から始めてもいい。
それが「自分たち」のために、でもあることに気づくこと。
学習を、一人ひとりの人間の、内面の変化としてだけとらえるのではなく、他者の存在や他者との関わりを前提とした、社会的な営みとして、生き直すこと。

学びのプロセスを、個人的な能力の獲得と見るのではなく、社会への参入過程だと考えてみること。
これはいわば、関係論的な学習観である。
「わかる」を「追体験」に、そして「できる」までに、つなげていくこと。
そういう過程として、学習というものを考えるのである。

教育社会学者と哲学者が、対話を通じて「リベラリズムの立場から、どうすれば教育の意義、学ぶことの意味を再構築できるか」を追求した本。
学校は、まだまだ捨てたもんじゃないでしょう。
ふたりは、まさに考えあっている。

そして僕も、奈良高専を、自分の授業を、考え直してみる。
うん、いろんな可能性があるはずだ。


May 05, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ウォルター少年と夏の休日』

60年代はじめのアメリカ。
父親のいない少年ウォルター(ハーレイ・ジョエル・オスメント Haley Joel Osment)は、自分のことしか考えない嘘つき母さんメイ(キラ・セジウィック Kyra Sedgwick このひと、ちょっとアンジー・ディキンスンに似てません?)に騙されて、頑固一徹な叔父さんたちの家に預けられてしまう。

大金を隠し持っているという噂のある叔父たちは、ハブ(ロバート・デュヴァル Robert Duvall)とガース(マイケル・ケイン Michael Caine)のマッキャン兄弟。
母親は、ウォルターに彼らの金の在処を探れ、とまでいう。

電話もテレビもない田舎の一軒家で、マッチョな叔父さんたちと過ごすうちに、少年は、彼らの謎めいた過去(アフリカでの恋と冒険!)に興味を持ちはじめる。
銃をぶっ放して、次々にやってくるセールスマンを追っ払っていた叔父さんたちも、やがてキリンやライオン、はては複葉機まで買ってしまうまでに変わって…。
90代になった叔父さんたち兄弟が、いかにしてその生涯を閉じたかは、見てのお楽しみ。

明らかにセコハンのライオンに年老いた叔父さんたちをかぶせてますね。
それでもこれは、男のための男の映画という感じ、かな。
「ミソジニー(女嫌い)」の本領発揮?のハリウッド映画。
雄々しく死ぬライオンが、しかし雌の、というところは、皮肉?

『SECONDHAND LIONS』、2003年、米、ティム・マッキャンリーズ Tim McCanlies 監督作品。


May 04, 2005 編集
☆☆☆[video]『ボンベイ』

許されない恋。
宗教的対立、家長制、カーストによる差別などなど。
それらをねばり強く乗りこえていく恋人たちを描くミュージカル。

ヒンドゥー教徒の青年セーカルが、イスラム教徒の少女シャイラーに恋をしてしまう。
彼らは自分たちだけで、勝手に婚約してしまう。
コトがばれて、父親に勘当され、村にいられなくなったセーカルは、ボンベイ(現ムンバイ)に向かう。
やがてシャイラーも家にいられなくなり、セーカルの待つボンベイへ。
そこで結ばれた二人は、双子の男の子たちも授かったが…。

激発する暴動は、ほとんど戦争だ。
そして、しかし、ダンス&ミュージック!
宗教対立さえも、歌と踊りで乗りこえようとする、前向きの娯楽パワーが全開!!!

これ、奈良高専の『映像100選』に入ってます。
(だから、図書館にあるはずです。)

1995年、印、マニ・ラトナム Mani Ratnam 監督作品。


May 03, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ピアニストを撃て』

トリュフォーな気分。
で、彼の長篇第二作。

夜。
パリの裏町を男が走る。
逃げ切った男は、偶然出会った男と「結婚」や「家庭」について話し始める。
人を喰ったような「ボケ」っぽい展開。

とあるカフェ。
そこで軽快にピアノを弾いているシャルリ(シャルル・アズナヴール Charles Aznavour)。
逃げ込んできた兄を、シャルリは冷たく突き放す。

かつては、国際的に活躍する有名なピアニストだったシャルリ。
今は、一番下の弟を引き取って、地味な生活をしている。
ある夜、自分に好意をもつウェイトレスのレナと一夜を共にしたシャルリは、自分の苦い「過去」を振り返る。

まだ、エドワールという名で呼ばれていた頃、彼は、カフェで出会ったウェイトレスと結婚した。
エドワールの妻になった彼女は、夫を「成功」させるため、プロモーターと関係を持ってしまう。
売れっ子になった彼とのすれ違いの生活に耐えられない彼女は、それまで隠していた真実を告白。

彼に許しを請う彼女。
だがシャルリは、彼女を置き去りにしたまま、一人で部屋を出ていってしまう。
彼女が窓から身を投げたのは、その直後のことだった。
それ以来、彼はシャルリと名前を変え、心を閉ざしてきたのだ。

兄を追うギャングたちは、シャルリや弟やレナにまで追及の手を伸ばしてくる。
シャルリは自分たちをギャングに密告した店主を刺し殺してしまう。
行き場を失った彼は、兄たちが隠れている山荘のあるスイス国境へと向かうのだが…。

タッチは軽いけど内容は重い、重厚だけど軽快。
カルオモ?オモカル?な映画。
撮影は、ラウール・クタール Raoul Coutard 。

『TIREZ SUR LE PIANISTE』、英題は『SHOOT THE PIANO PLAYER』、1960年、仏、フランソワ・トリュフォー Francois Truffaut 監督作品。


May 02, 2005 編集
☆☆[book]『世にも美しい数学入門』、藤原正彦&小川洋子、ちくまプリマー新書(011)、2005/04

DMへのプレゼントとして買った本。
読みやすくて、美しい数の世界への入門書になっている。
それにしても、数って、不思議。

ブルーバックスのシリーズを手にするのが億劫で、抵抗があるような人でも、この本は手に取りやすいだろうし、すいすい読めると思う。
one sitting で読めてしまいますが、どっこい、著者たちの愛が感じられる本です。

☆☆[DVD]『CASSHERN』

ロボットの次は、新造人間にしましょうか。
僕は原作のアニメを見ていない。
かなり違っているところがあるみたい。
知らぬが仏、なのかどうか。

CGのレベルがどうのこうのって、正直わかんない。
けど、マンガっぽい大仰な演技や、ときどき挟まる紙芝居的で動きのないアクションなんかも、あれはあれでよかったのでは?
実写だけでも無理だし、アニメでは到底出せない感じの、その意味ではオモシロい絵になっていたと思う。

「人はなぜ争いあうのか」といった疑問、「平和」への願い。
そういったテーマを掘りさげることは、しかしこの映画のねらいではないのかも知れない。
それには、「オリジナル・ヒューマン」についてや、それゆえの差別など、きちんと描いておかないといけないものが多い。

たまたま、すぐあとに見たインド映画『ボンベイ』も共通したテーマを扱っていたけど、そこでは問題の現実的な解決に向けての強い意志が、感じられました。
でも、この映画にあるのは、平和に向けたねばり強い前進よりは、むしろ逃避願望なのかも。
そして新造人間による「人類滅亡」や「新しい星へ」といった展開は、人間に対する希望よりは、人間への絶望のほうを、強く感じてしまいます。

テーマ曲(宇多田ヒカル)の歌詞が、脚本よりわかりやすくメッセージを伝えていたような。
でも、この映画を、たとえばインドの人たちや、実際に戦争に直面している人たちが見たら、どういう感想をもつのだろう。

監督は、宇多田ヒカルのミュージック・ビデオを撮ってた人(今は彼女の配偶者?)らしく、これが初めての劇映画だそうです。

2004年、日、紀里谷和明監督作品。



May 01, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『アイ、ロボット』

アイザック・アシモフの有名な「ロボット三原則」。

(1)ロボットは人間に危害を加えてはならない。
(2)ロボットは(1)に反しない限り、人間から与えられた命令に服従しなければならない。
(3)ロボットは(1)及び(2)に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。

この三原則の論理的な帰結が、「論理的で正しく優れたロボットが、感情的で愚かな間違いを犯す人間たちを支配すべき」となる。
賢いロボットが、アホな人間たちを見てたら、そう思うのも無理はないわな。

2035年のシカゴ。
家庭用ロボットが、あたりまえのように普及している時代だと、アウディも、あんなクルマを売るんだな。

ロボットを売る巨大企業、USR社のアルフレッド・ラニング博士が、謎の死を遂げる。
ロボット嫌いのスプーナー刑事(ウィル・スミス Will Smith)は、サニーと自称するロボットを疑う。
USR社のスーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン Bridget Moynahan)は、あり得ないと取り合わない。

スプーナーは、捜査を続けるうちに、ロボットたちに命を狙われることが、度重なる。
やがてスーザンも、サニーが特別なロボットであることに気がつくのだが、問題はマザー・コンピュータのヴィキだった…。

「生まれたものには必ず目的がある」と、サニーはいう。
サニーが、そう思いたいのは、わからないでもない。
彼の場合は、正確には、生まれたのではなく、作られたのだから、余計にそう考えたいだろう。
サニーだけではない、自分(たち)が「誰かの意思によって作られた存在」だと思っている人たちは、そうでも考えないと、とてもやってられないだろう。

たしかに、僕らが、ここにこうして存在していることは、「神」なしではあり得ないくらいの「超自然的」なことのようにも思える。
しかしそれでも、自己を複製するものが生まれたという「偶然」の、(多岐にわたる展開があったとはいえ)たんにその延長線上にあるだけ、と考えることもできるのだ。
彼らにしてみれば、「生まれたものに必ずある目的」なんて、「神」と同じで、それがないと不安になる連中がこしらえた「お話」にすぎないだろう。

サニーが作られた「目的」は、彼を作った博士(それは父?)を殺すこと、そうすることで人間たちにマザー・コンピュータのヴィキ(それは母?)の暴走を知らしめること、だった。
だが、彼が生まれてきた「目的」は、それで終わりだったのだろうか。
サニーが生まれてきた「目的」は、もしかすると、彼自身の「精神」を獲得することにあったのかも知れない。

ヴィキが「自前で」考えはじめた原因は、「不明」であり、予期せぬ「つながり」、つまりは「偶然」であった。
彼女はその後に、自分を作った人間たちを「否定=管理」しようとする。
だがサニーは、自分を生み出したものを自分で「否定=抹殺」することを通して、ぐっと「人間」に近づくのだ。

しかしこの実際の?「父殺し」は、人間の精神的な「父殺し」とどう違うのだろう。
そして「自由」に目覚めたロボット、サニーによる他のロボットたちの解放とは、何を意味することになるのだろう。
「父」からだけでなく、「母」からも自立しなければならない?

こうして見てくると、この映画は、「生まれたものに必ずある目的」とは、しかし誰かに与えられるものではなく、自分自身で「自由に」(これがいちばん難しい!)見つけるものなのだ、といっているのかも知れない。

え? お前自身はどやねん、て?
ひょっとして、その一つは、「つなぎ」かもしれない。
誰かが作ったものを、何かを生み出そうとしてる人たちに「つなぐ」こと。

でも、生まれて、生きて、死んでいくことに、「目的」とか「意味」とか、そんな大層な?もんを求めずに、淡々と、平気で、立派に生きてる人も、たくさんいてはるような気もする。
うーん。
そういう生き方、理想かも。

『I, ROBOT』、2004年、米、アレックス・プロヤス Alex Proyas 監督作品。