2005/6

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June 30, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『オールド・ボーイ』

1988年、妻と一人娘をもつ平凡なサラリーマン、オ・デス(チェ・ミンシク Choi Min-sik)は、何者かに誘拐、監禁される。
そして15年が経って、突然解放される。
なぜ、こんな仕打ちを受けたのか。

デスは、知り合った若い女性ミドの助けを借りて、真相を突き止めようとする。
しかし彼は、究極の復讐が着々と進んでいることに、気づけないままだ。
やがてデスとミドは、互いに惹かれ合い、ついには結ばれるのだったが…。

日本のコミック(土屋ガロン&嶺岸信明)が原作だそうだ(僕は未読)。
2004年のカンヌ映画祭でグランプリ受賞。
審査委員長クエンティン・タランティーノが、絶賛したらしい。

チェ・ミンシクの熱演が見物。
公式サイト http://www.oldboy-movie.jp/ では、
いきなりコワーイ顔が出てきますので、ご注意!

『OLDBOY』、2003年、韓国、パク・チャヌク監督作品。


June 29, 2005 編集
☆☆☆[video]『マグダレーナ/「きよしこの夜」誕生秘話』

1818年、革命の余波に揺れるオーストリアはオーベンドルフ。
新しく赴任してきたモア(ボンド Steve Bond)は、進歩的な神父だ。
修道院長(マイズナー Gunter Meisner)やサイドル男爵(ワーナー David Warner)は、モアを追い出そうとはかる。

下宿先のグルーヴァー(エリアス Cyrus Elias)と居酒屋を訪ねたモアは、信仰を失いかけた人々の心をつかむ。
なかでも、娼婦マグダレーナ(キンスキー Nastassja Kinski)は、モアの真っ直ぐな心に感応し、恋に落ちる。
モアは、マグダレーナに惹かれる心と、神への信仰とのあいだで葛藤する。
ザルツブルグの姉の元に移ったマグダレーナは、モア神父を、しかし一人の男性として慕いながら、清く正しい生活を送っていたのだが…。

ナスターシャ・キンスキーは、そのまま娼婦であり、聖母であるかのようだ。
弱さと強さ、清純さと妖艶さ、逡巡と決断を渾然させたキャラクターを熱演している。

There are the usual tough questions that have no answers such as: why does God allow bad things to happen to poor people? http://us.imdb.com/title/tt0097804/


神様は、どうして貧しい人々に悪いことが起こるのを、黙ってお見過ごしになるの?
「きよしこの夜」が俗語の賛美歌として、はじめて誕生するというのが、もうひとつのお話になっている。

マカロニ・ウエスタンを楽しんだ時代の人間には懐かしい、フランコ・ネロ Franco Nero が、革命をめざす盗賊たちの頭領として出ている。

『MAGDALENA』、英題『SILENT NIGHT』、1988年、西ドイツ、モニカ・トイバー Monica Teuber 監督作品。

☆☆☆[DVD]『マレーナ』

マレーナとは、マッダレーナ、つまりマグダレーナ。
いうまでもなく、マグダラのマリア(娼婦/聖女)にちなむ名前である。
少年の心に刻み込まれた、ある女性の話。

1940年、シチリアの漁村カステルクト。
レナートは、早く一人前扱いされたい、12歳の半ズボン少年だ。
村一番の美女マレーナ(モニカ・ベルッチ Monica Bellucci)は、村中の男たちの注目の的だった。

先輩たちの追っかけに加わったレナートは、たちまちマレーナに魅了されてしまう。
しかし、結婚してすぐに戦地へ行ってしまったマレーナの夫ニノが戦死したという知らせが入り、戦況は悪くなる一方となり、生き延びるためにマレーナは…。

監督は、「ニュー・シネマ・パラダイス」「海の上のピアニスト」を撮った人。
少年の「憧れ/感情教育」を、妄想とユーモアにくるんで、ノスタルジックに描く。
その一方で、「生きる/赦す」というテーマを重く鋭く突きつけてくる。

他のたいていの男たちがすべて、ヤらしい奴ばかりだったので、片腕になって帰ってきたニノが、いい男だったのがうれしかった。

『MALENA』、2000年、伊・米、ジュゼッペ・トルナトーレ Giuseppe Tornatore 監督作品。


June 27, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『カビリアの夜』

ローマ郊外。
河を流れていく女(ロッセリーニでは、たしか男だった!)。
男に騙され、金の入ったバッグを奪われた女が突き落とされたのだ。

娼婦カビリア(ジュリエッタ・マシーナ Giulietta Masina)は、仲間に諭されても、なかなか男の裏切りを認めようとしない、懲りない女だ。
ある夜、有名な映画スターに拾われ、夢のような邸宅へ。
しかし別れたはずのカノジョが戻ってきて、閉め出されてしまう。

ついに聖母寺院の参拝をしたカビリアは、自分の生活を改めようとする。
ある夜、偶然入った見せ物小屋で催眠術をかけられ、架空の人物オスカーを相手に自分をさらけ出す。
その帰りに、実際にオスカーと名乗る男が現れ、デートの申し込みを受ける。

やがて、結婚を申し込まれた彼女は、有頂天になって貯金と家を売り払い、男に金を持参する。
避暑地に遊ぶふたり。
しかし、湖を眼下に臨む崖の上で、男はカビリアを殺そうとするのだった…。

お金は取られたけれど、男のために自分で摘んだ花束は残っている。
最後に、音楽と若者たちに囲まれてカビリアが歩く夜道こそは、この世の天国である。
花束には、蝶や虫たちが集まってくる。
マリア=カビリア自身が、自らにもたらした幸いである。

ジュリエッタ!ジュリエッタ!!ジュリエッタ!!!
愛らしくて、可愛くて、無垢で、愛くるしくて、せつなくて、純粋で、汚れのない、娼婦であり聖母である、カビリア。
夜明けは、きっと来ます!

『LE NOTTI DI CABIRIA』、英題『CABIRIA』、米題『NIGHTS OF CABIRIA』、仏題『LES NUITS DE CABIRIA』、1957年、伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


June 24, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『81/2』

これぞ映像芸術。
夢であり、現実であり、お祭りであり、仕事である。
F・フェリーニ監督の、代表的作品といっていいだろう。

映画監督のグイド(マルチェロ・マストロヤンニ Marcello Mastroianni)は、新しい作品の構想が進まないで困っている。
しかし製作の側は、そんな事情はお構いなしに撮影の開始を今か今かと迫る。
カルラとの浮気は当然するけど、妻ルイザ(アヌーク・エーメ Anouk Aimee)を失いたくはないし、何でもない子が心の支えになったり。

大人でいて子供、詩人でいて俗物、男でいて女のようなグイドの、サナトリウムでの幻想と現実。
コビト、巨女、老女、記憶、無意識、トラウマ。
そして憧れの女性クラウディア(クラウディア・カルディナーレ Claudia Cardinale)。

清濁併せ呑む、というか、聖俗混淆の世界をひたすらに彷徨う主人公だ。
しかし日常の拘束こそは解放であり、夢の自由こそは束縛である。
だから、残された道は二つに一つ、ではない。

追いつめられての自殺も、この世の中のそのままの受け容れも、同じことの両面なのだ。
フェリーニは、どちらか一つではなく、双方ともを、その非決定性/多様性を芸術の道として選ぶのだ。
それを、ムリヤリ一言でいうならば、やっぱり生の肯定、ということになるのかも知れない。

『OTTO E MEZZO』、仏題『HUIT ET DEMI』、英題『EIGHT AND A HALF』、1963年、伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


June 23, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『インテルヴィスタ』

イタリアの撮影所チネチッタ創立50周年を記念。
映画と、映画を可能にしたチネチッタへの愛。

若き日のフェリーニ自身を描きつつ、カフカの「アメリカ」を映画化する監督。
通訳を通した日本のTV局の取材。
例によって、虚構と現実が混じり合う。

路面電車を載せて進むトラック。
その横を歩く象。
そして、過去と現在との混淆。

スタジオに並べられた張りぼての象の鼻が折れる。
マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)の、まさにフェリーニ的な登場の仕方!
そして27年も前のアニタ・エクバーグ(Anita Ekberg 涙!涙!!涙!!!)との共演作『甘い生活』の上映。

最後のインディアンの襲撃の場面では、彼らがテレヴィ・アンテナをかざして馬を走らせてくるのは、なんともご愛敬で、気持ちはまあ、わかるけど…。
たしかに、映画の時代は、とりあえずは終わりました。
でも、これから新たに映画が始まるんだ、ということも同時に、本気で言われようとしている、そう思いたい。

『INTERVISTA』、1987年、伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


June 22, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『汚れた血』

近未来(20世紀末)のパリ。
彗星が近づいているせいか、夜が恐ろしく暑い。
人々は、性交渉によって感染する病気STBOに怯えている。

金庫破りの天才アレックス(ドニ・ラヴァン Denis Lavant)は、GFのリーズ(ジュリー・デルピー Julie Delpy)と別れて、どこか別の世界で生きようとしていた。
父ジャンはアメリカ女の組織に殺された。
父の友人マルク(ミシェル・ピッコリ Michel Piccoli)もそのアメリカ女に借金があった。

そのマルクに誘われて、STBOの特効薬を盗み出す犯罪に手を染めるアレックス。
彼は、マルクの女アンナ(ジュリエット・ビノシュ Juliette Binoche)を愛するようになるが、アメリカ女は彼らの動きを見逃さなかった…。

デルピーが「あの世」的なら、ビノシェも「異世界」的に美しい!
そしてアレックスの疾走感(デイヴィド・ボウイのモダン・ラヴ!)は、とてもとても追いつけない!!
松浦寿輝が、字幕を担当している。

『MAUVAIS SANG』、米題『BAD BLOOD』、英題『THE NIGHT IS YOUNG』、1986年、仏、レオス・カラックス Leos Carax 監督作品。

☆☆☆[book]『アースダイバー』、中沢新一、講談社、2005/5

読み終えて、サーカス小屋でアクロバティックな芸を観てきた、という印象。
コトバの錬金術師、という言葉が頭に浮かぶ。
見だしがまた、かなりキャッチー。

水と蛇と女/湿地のエロチシズム
死霊、東京タワー/タナトスの塔
温泉、地下鉄/都市を流れるもの

金魚、へら鮒、路地裏、盆栽/怪物の作り方
沖積層に咲く花/怪力の美
象徴の森/アジールを支配して守る

現代の東京の地図の上に、洪積層と沖積層を塗り分けた縄文地図を重ねてみると…。
ここからが、スタート。
著者は、地形と考古学的情報をベースに、ランドマークとなる土地や施設、盛り場や下町の風物にまで目を配り、「野生の思考」でもって、それらの意味作用をつないでいく。
浮かび上がってくるのは、「無意識」としての東京の、目には見えない構造だ。

「単一文化と経済主義を特徴とするグローバリズムにたいする強力な解毒剤」としての「二十一世紀の森の天皇」。
それは、現実の東京という都市に重ね見る、著者の夢想である。
おだやかな森番のようにして生きる彼女はいう。


「わたしたちの日本の文明は、キノコのように粘菌のように、グローバル文明の造りだすものを分解し、自然に戻していくことをめざしている、多少風変わりな文明です、そしてわたしはそういう国民の意思の象徴なのです」。p239


「東京をつくりあげている精神の地層を横断していく、アースダイバー的散策」。
それを身につけていけば「この都市とそこに生きる人々の心を、根底からつくり変えていくことができるかも知れない」と、著者は書く。

でもさ、こーゆーコトバにぜーんぜん無縁な人たちが、いーっぱいいてさ、
彼らはもちろん、自分たちの「意思」を明確に自覚し表明する「コクミン」でもなくてさ、
むしろ、そーゆー彼らこそが自然を生きてる「キノコ」や「粘菌」なんかも知れへんし、なぁ。

ほんとにみんなが「国民」になっても、「自然と共にあろうとする文明」が残るのだろうか?
それとも、みんなを「国民」にしなければ、やがて「自然」は失われる、と本気で考えているのだろうか。
(もちろん、「みんな」なんて現実にはありえないんだけどね。)
そこんとこ、著者に訊いてみたい気になった。


June 21, 2005 編集
☆☆☆[book]『時のしずく』、中井久夫、みすず書房、2005/04

うっかりしていて、ついこの間、見つけた。
読み終えるのが惜しいけど、でも読了。

☆☆☆[DVD]『フェリーニのローマ』

20年生まれのフェリーニがローマに上京したのは38年。
さまざまな人生経験を積んだようだ。

憧れ、狂乱、現実。
寄り合い所帯、宗教、驕慢、トラットリア、豊満、高速道路、絢爛。
売春宿、猥雑、ムッソリーニ、混沌、高級売春クラブ、誘惑。

芝居小屋の喧噪、地下鉄の建設現場、教会のファッション・ショー。
発見された古代壁画は、空気に触れてみるみる消え去っていく。
「日々の生活が芸術だった」という意味の言葉が、心に響く。

オートバイの群れが、ローマを疾走するシーンが美しい。
「フェリーニは映画における真の野獣である」とは、
ルキノ・ヴィスコンティの評である(『フェリ−ニ・オン・フェリーニ』所収)。

『FELLINI ROMA』、英題『FELLINI'S ROME』、1972年、伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


June 20, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『甘い生活』

ローマという都市への愛?
それも、もちろんあるでしょうね。
街や、街の風俗が、主役にさえ見えます。

でもフェリーニが描きたかったのは、人間に対する愛、じゃないのかな。
俗で、愚かで、なおかつ、つながることさえできない。
絶望的頽廃? 狂気? それでも、ひとは、生き続けるしかない。
甘い生活とは裏腹な、そんな苦い生を、しかしあくまでも肯定している、ような気がする。

オープニング。
キリスト像を運ぶヘリコプター。
ビルの屋上で日光浴をしている女たちとの聞こえない会話。

エンマと同棲中のマルチェッロ(M・マストロヤンニ Marcello Mastroianni)は、作家になる夢をほとんど捨てている、ゴシップ記者。
多くのパパラッツォ(paparazzo)たちと一緒に仕事をしている。
ナイトクラブで会った富豪の娘マッダレーナ(A・エーメ Anouk Aimee)とドライブに出たマルチェッロは、夜の街で出会った娼婦を車に乗せて家まで送り、そこでマッダレーナと同衾する。

家に帰ってみると、エンマは自殺をはかっていた。
それでも懲りずに、マルチェッロは取材対象のハリウッドの女優(A・エクバーグ Anita Ekberg)に一目惚れし、ふたりは夜のローマを彷徨する。

有名な、トレビの泉でのシーン。
マルチェッロが彼女にキスをしようとすると、噴水が止まってしまう。

聖母マリア様を見たという奇蹟。
神木を奪い合う人々。
その陰でひとりの少年の死。

マルチェッロの父親が、彼を訪ねてくる。
一緒にキャバレーで遊ぶ。
疎遠だったはずの父が、しかし懐かしくもある。

毛色の違う知的な友人スタイナー(アラン・キュニー Alain Cuny)はしかし、突然ふたりの子どもと無理心中をしてしまう。
絶望したマルチェッロは、衝動的にエンマと結婚し、いよいよ乱痴気な生活に。

ラスト。
エイ?が網にかかって引き上げられた浜辺。
海の家?でアルバイトしていた女の子ヴァレリア(ヴァレリア・チャンゴッチーニ?)の、やっぱり聞こえない叫び。

「フェリーニの出現とともに距離の映画は接近の映画へと逆転した」とは、
イタロ・カルヴィーノの評である(『フェリ−ニ・オン・フェリーニ』所収)。

ニーノ・ロータの音楽も多彩。

『LA DOLCE VITA』、仏題『LA DOUCEUR DO VIVRE』、1959年、仏・伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


June 17, 2005 編集
☆☆☆[book]『鶴見俊輔ノススメ―プラグマティズムと民主主義 21世紀叢書』、木村倫幸、新泉社、2005/06

できたてのホヤホヤ本を、著者から直々に賜る。
比較現代文化論でペアを組んでいる、同僚のKムラ先生である。
心なしか、まだ生あたたかい…、ナわけないか。

でも、知ってる人が書いた、読んだことのあるアレやコレやの文章が、一冊の本になるというのも、なかなかに嬉しいものだ。
論文がベースの原稿だが、ご本人の弁によると、かなり書き直しをされたそうなので、さらに読みやすくなっていることだろう。

「私的な根」をもつ、「非権力」の思想家であり、しかも状況に対応する現実的な運動家でもある鶴見俊輔は、また「アイマイ」「雑然」の人でもある。
では、そんな鶴見(とその思想)をどうとらえ、どうさばくのか。
そのどこが○(マル)で、どこが×(クス)なのか、あらためて読み直してみようと思う。

☆☆☆[DVD]『シ−クレット・ウィンドウ』

はっきりいって、この映画、恐くはない。
でも、楽しめる。
幻想と現実とを映像表現としてどう描くか、という点で。

いきなり現れた謎の男に盗作疑惑をかけられ、追いつめられていくミステリー作家。
スティーヴン・キングの『秘密の窓、秘密の庭』(『ランゴリアーズ』所収)が原作。

作家のモート(ジョニー・デップ Johnny Depp)は、妻エイミー(マリア・ベロ Maria Bello)の浮気の現場に、自ら踏み込んでしまう。
それ以来、離婚の調停を進めるかたわら、人里離れた湖畔に建つ別荘で、ひとり小説を書いている。
だが、仕事は遅々として進まない。

ある日、ジョン・シューターと名乗る男が訪ねてくる。
そして「おまえは俺の小説を盗作したのだから、俺の名前で出版し直せ」という。
実際、彼が残していった原稿は、モートの著書とソックリだった。

以来、モートはシューターに付きまとわれ、彼の周りの人間が次々に殺されていく…。
「窓」よりは、「鏡」がポイントかな。
フィリップ・グラスの音楽も、サスペンス効果を高めている。

オフィシャル・サイトはこちら http://www.sonypictures.jp/movies/secretwindow/

『SECRET WINDOW』、2004年、米、デイヴィド・コープ David Koepp 監督作品。


June 16, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ターミナル』

ひとりの男が、ニューヨークのJFK国際空港に降り立った。
東ヨーロッパのクラコウジアという国からきたビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス Tom Hanks)という男だ。
しかしフライト中に、本国でクーデタが発生、パスポートの効力が無くなった彼は、入国を拒否される。

しかも、帰国もできない。
法の隙間に落ち込んでしまった男。
ビクターは、しかし空港で生活しながら正式な許可を待とうとする。

もちろん、空港内で生き延びるための裏技は使う。
まずは自分の力で生き延びることが基本である。
入国管理の責任者フランク・ディクソン(スタンリー・トゥッチ Stanley Tucci)は、ビクターをもてあまし、自分の責任を転嫁したいために、さりげに抜け道を示唆したりもするのだが、ビクターは頑なに「正しく」あろうとするのだ。

入国については、狡いやり方でごまかしたくない。
疚しい気持ち、後ろめたい気持ちでそれをやり遂げたくないのだ。
たぶんそれが、自分の夢の実現にかかわるから。
いや、正確に言えば、父親の夢を継いだ自分の夢だからである。
(それがどんな「夢」であるかは、ここではふれないでおこう。)

しかしそんな彼でも、ウソも方便という態度で当局に対するときがくる。
ロシアからのトランジット?で、カナダに薬を持ち出そうとして捕まった男を助けるときだ。
彼は、自分の入国手続き上の苦労から、動物用の薬なら持ち出しが可能なのを知っていて、ディクスンに嘘をつくのだ。
それは、人のためであり、命に関わる要求のためだからである。

彼の夢は、別に人命に関わるような優先的な問題ではない。
だから、彼が一日だけの入国許可を得られそうになったときに、空港で知り合ったそれぞれワケありの仲間たちが、解雇されたり、逮捕されたり、強制送還されたりするぞと脅されたら、彼は自分の夢を諦めて、帰国することを受け入れるのだ。

ビクターは、空港で知り合ったフライト・アテンダントのアメリア・ウォーレン(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ Catherine Zeta-Jones)を諦める。
というより、彼女が聡明にも自分自身を、そして彼を、よく知っていて、そのうえで、結ばれないほうを選ぶのだ。
(とでも解釈しないとねぇ。彼女は「謎」として、その後もビクターを虜にする、みたいな描かれ方はされていないし、ね。)

作った噴水が吹き上がらない場面では、キスしようとする瞬間にトレビの泉の噴水が止まる『甘い生活』(F・フェリーニ)を思い出してしまったが、「二兎を追う者は…」の教訓なのだろうか? 性的不能? それともやっぱりミソジニー?
いずれにせよビクターは、「女」のほうは断念する。
そして、親子二代にわたる「男(たち)の夢」のほうをとる。

同じく空港を舞台にしているが、『パリ空港の人々』や、このあいだ紹介した『ゲート・トゥ・ヘヴン』のような映画ではない。
「スピルバーグ/アメリカ」は、いまだに英雄が好きなようで、また英雄を必要としてもいるのだろう。
もちろん、現代の英雄は、昔のようなスーパーマンではありえない。
それでも、群像(ピープル)ではなく、個を際立たせようとしている。

まずは、自分のために闘える自立した男、
つぎに、他人の生活や生命にかかわることならば自分の夢さへ諦められる男、
そして、自由を求めて権力に屈しないことでピープルを勇気づける男。
そういうニンゲンの象徴としての、気さくで明るくて挫けないワン・マンが、心底好きなのだ。

『THE TERMINAL』、2004年、米、 スティーヴン・スピルバーグ Steven Spielberg 監督作品。


June 14, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『CODE46』

内と外。
ウチの世界の人間たちは、ソトの世界の人間たちをニンゲンとは見なさない。
生者の世界と死者の世界の違い以上の違い。

I miss you...
これは、もはや異界からの、届かない女の囁きだ。
そしてこの世に生きる男の無音の呟きでもある。

空からの俯瞰。
土地・場所のもつ美しさをなめるようにして移動していくキャメラ
かつて女がそうされたように、男は記憶を消されてしまう。

近未来? 
これは今此処(現在の上海)じゃないの?
なんとも美しい、別世界的上海。

ぱぺる? それにしても滞在許可が短すぎるねぇ。
ムダがなさすぎ。
それでホントに仕事ができるのかな。

CODE46。
(1)子作りの前に遺伝子検査を義務づける。遺伝子が100%、50%、25%同一の場合の受胎は許されない。
(2)計画外の妊娠は胎児を検査すること。100%、50%、25%同一の場合は即中絶すること。
(3)両親が遺伝子の同一性を知らない場合、法規46違反を避けるべく医療介入する。
(4)同一性を知りながらの妊娠は、法規46に違反する重大な犯罪行為である。

クローン技術の進歩のせいで、同じような遺伝子をもった人が増えている。
特定の遺伝子をもつ人たちには、確実に剣呑なウイルスが世界のあちこちで暴れ回っているらしい。
それでも、「向こう側」に、行きたいひとは行きたいのだ。

たとえばそういう人たちのために、上海の発行会社で、パペルを偽造し、彼らに手渡している女。
調査員ウィリアム(ティム・ロビンス Tim Robbins)は、マリア(サマンサ・モートン Samantha Morton)が犯人だと突き止めるのだが、別の報告をする。
そして彼らは、結ばれる。

妻と息子がいる男は、母親がクローン人間で、人工授精で生まれた男だ。
砂漠の嫌いな女との逃避行。
皮膚の感覚。

ふたりは、避妊をしない。
遺伝子が50%一致とわかったあと(女に「医療介入」がなされたあと)でも。
そういう選択肢はあったはずなのに。

いや、避妊の前に、やはり性交が重大な問題なのかも知れない。
50パー一致ということは、マリアが母親のクローンであるということなのか。
ソトからウチに入ろうとする男に、マリアの偽造パペルを手渡すウィリアム。
そしてふたりは、それが自分たちの意地の証明でもあるかのように、まんまと掟に引き裂かれていく…。

うーん、「マリア」か〜。
どうも46つながりで観てきた『2046』『CODE46』だけど、二つの作品は、「母」への複雑な感情ってことで、つながっているのかも知れないなあ。

『CODE 46』、2003年、英、マイケル・ウインターボトム Michael Winterbottom 監督作品。


June 13, 2005 編集
☆☆[DVD]『2046』

1960年代の後半、香港の古びたホテル。
チャウ(トニー・レオン)は、近未来SF小説『2046』を書き始める。
出てくるのは、彼が今までに付き合ってきた女たちだ。

失われた愛を見つける場所。
すべての記憶が残されている場所。
そして、そこから帰ってきた者は誰もいないという場所。

ただひとりの男(木村拓哉)を除いては。
そして今、男は再び列車に乗り込んでいた…。

『欲望の翼』、『花様年華』、そして本作。
共通するのは、過去の女から自由になれない中年男の郷愁である。
この執着のすごさ。

SF的な部分は、ほとんどない。
キムタクも、彼が出る必然性は、皆無。
商売に、上手く乗っけられたのかも。

チャン・ツィイーは、いちばん魅力的に撮られている。
彼女が美しいと思えたら、観て損はないだろう。
ずっと思い続ける、ということ、秘密をもつ、ということ。
それらを、人間のもつ普遍的な傾向であるかのごとく、描いている。

それにしても、監督、泣くのが好き。

『2046』、2004年、香港、王家衛 ウォン・カーウァイ Wong Ka wai 監督作品。


June 12, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『男と女』

14歳の小僧に何がわかるというのか。
それでも、「見るべきほどのことは見つ」のつもりの、生意気ざかりだった。
そのときは、心のどこかで、男が女に会えず、途中で事故死するのを期待していたような気がする。
自分を、少しでも大人に見せたがっていた頃。
だから、アヌーク・エーメ Anouk Aimee はきれいだと、素直に思ったことを、でも決して口には出さなかった。

話すのは、クルマ(フォード・ムスタング)のこと、レース(ル・マン24耐、モンテカルロ・ラリー)のこと。
マスタングではなく、当時ムスタングと僕らが呼んでいたその車は、幌をオープンにして窓を下げたとき、後ろに残る三角窓が、じつにカッコいいのだ。
そして、トランティニャン Jean-Louis Trintignant のカーディガン姿、シブかったなァ、とか。

このたび、この映画を観直したときは、もう事故なんかするなよ、と思ってみていた。
いまの中学2年生は、どんなふうにこの映画を見るのだろう。
案外、美しさや優しさを、照れずに、素直に受けとめるのかも知れない。
(見る子がいたら、だけどね。)

板張りの遊歩道のある海岸の美しさ。
浮き世のあれこれの結ぼりを、ゆっくりと解いていくような、水平に近い陽の光。
揺らめく波のうえの船、風に吹かれて乱れる髪。

ともに脚が悪い a man and a dog は、シルエットになって、遊歩道を散歩する。
砂浜を駆け回り跳ね上がり、波とたわむれる耳の長い黒犬のヨロコビは、ピントを外して。
そして別の大切なシーンを挟んで、2回に分けて、それを見せている。

男の仕事を紹介する場面は、セリフを聞こえなくして、サウンドと音楽だけで押し通して見せた。
牛の群れが走る沼沢地を乗馬するシーンは、見ていてほんとに気持ちがいい。
しかし、なんでパリへの道路がまた、こんなにも美しいのか。

二人になろうとして、夜が明けていく、独りでいる時間。
アイシテイルの電報に、疲労も達成感も吹き飛んだ。
置き換わった歓喜が、身体を離れて跳んでいきそうなほど、踊りまわる。

心は、フロント・ノーズよりも先を駆けている。
制御しなくてはならないのは、エンジンやタイヤではないのだ。
6000キロを旅して、帰還する、港を見つけた。

男は海岸にかけつける。
砂浜で遊ぶ女と子供たちを前景に、キャメラは遠くにそれをとらえる。
男が女に向けて、車のライトを点滅させるカットが、はさまる。
これは、近くからのショットだ。

港のつもりが、しかしカノジョもまた彷徨える一艘の船だった。
しかも、過去という荷物を積んだまま。
降ろしかけた碇を、引きあげ直して、彼女に併走しようとするカレだ。

降ろせないときには、無理には降ろさない、がいい。
碇も、積み荷も。

『UN HOMME ET UNE FEMME』、英題『A MAN AND A WOMAN』、1966年、仏、クロード・ルルーシュ Claude Lelouch 監督作品


June 10, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『オルフェ』

もう自分には、詩は書けなくなったのだろうか?
もういちど、詩が書けるようになりたいオルフェ(J・マレー)。

「詩人カフェ」に王女と呼ばれる妖しい女性(M・カザレス)が現われる。
若い詩人セジェストが目の前でオートバイにはねられる。
王女は、オルフェを同乗させ、セジェストの死体を、彼女の家まで車で運ぶ。

そこで蘇ったセジェストは、王女とともに鏡の中に消える。
オルフェもまた、鏡のなかに入ろうとしてかなわず、気を失う。
気がついたときには、すでに鏡は消滅していた。

王女の妖しさの虜となったオルフェは、虚ろな毎日。
しかし、王女が夜毎、彼の夢まくらに立っているのを、彼は知らない。
妻ユリディス(M・デア)は、夫の心が離れてしまったことを嘆く。

王女の仕業か、ユリディスは、オートバイにはねられて死ぬ。
オルフェは、王女の僕(しもべ)から彼女の手袋をもらい、鏡の中の世界へと妻を追う。
妻の顔を二度と見ない、という条件で、この世に戻ったオルフェ。

試作に集中したいオルフェは、妻と顔を合わせられない生活に、苦しむ。
そしてオルフェは、ついに妻の顔を見てしまい、彼女は再びあの世へ。
セジェストを返せと家に押しかけた群衆と揉みあううち、自分がもっていた銃で、オルフェは撃たれてしまう。

オルフェを愛する王女は、彼を現世に返すことを決意する。
そして、僕(しもべ)たちと協力し、ユリディスと共に彼をこの世に戻すのだった…。

苦悩を抱えたJ・マレーの、彫刻のような顔が印象的。
2台のオートバイに跨った、死に神たちの無言の疾走も、不気味。
古典的なトリック撮影だが、コクトーの映像は、不思議に夢幻的だ。

ギリシャ神話のオルフェウス伝説といえば、現代のNYに舞台を移して、
パトリック・マグラー Patrick McGrath が、怪異で、しかも切ない話を、
「O'Malley and Schwartz」(『The Universe of English U』東京大学出版会、所収)
というキリッとした短篇に、見事に仕上げていました。
そこでは、オルフェウスは、ヴァイオリンの virtuoso オマリーとして出てきます。

『ORPHEE』、英題『ORPHEUS』、1949年、仏、ジャン・コクトー Jean Cocteau 監督作品。


June 09, 2005 編集
☆☆[DVD]『丹下左膳 百万両の壺』

『ミリオンダラー・ベイビー』が、心にモヤモヤと残っている。
首の骨が折れて、身動きがとれなくなっているのは、まさしく現代のアメリカ自身ではないのか?
イーストウッドは、自身、そういうアメリカにしてしまった責任を回避することなく、幕引きを買ってでようとしているのではないか?
『ミスティック・リバー』のラストなどを考えあわせても、アメリカという国家と関係がないわけがないだろう。
そう思えてくるのは、僕の、穿った見方のせいだろうか?
しかし、では一体どこへ向かう?

少し、気分を変えてみよう。
日本には、昔、一風変わったヒーローがいた。
それが蘇った。

山中貞雄監督作品(1935年)のリメイク版。
片目、片腕のヒーローといっても、今の若い人たちは、まず知らないでしょうね。
嵐寛(アラカン:嵐寛寿郎)も、坂妻(バンツマ:坂東妻三郎)も演じてきた左膳だけど、やっぱ大河内傳次郎かな?

豊川悦司と和久井映見、野村宏伸と麻生久美子がそれぞれカップル。
この取り合わせ、彼らのやりとりが、なかなか面白い。
ちょび安を演じている武井証は、『いま、会いにゆきます』で秋穂佑司役をやった男の子で、すでに公認ファンサイトがある。http://www7a.biglobe.ne.jp/~akashi/

思慮は浅いが、腕は立つ。
ニンゲンの軽さに応じて?反応はメッポウ速く、情にはトコトン厚い。
見慣れてくると、豊悦左膳も、思い切った現代風の誇張が、結構ハマっている。

外連味があって、それでいてツルリと透明な画面に、独特の「文体」が作られていく。
助けているのは、気っぷのいい連れ合いお藤(和久井映見)との、掛け合いのような科白回しだ。
ナンテッタッテ、べらんめぇだい! 歯切れがいいや!!

そもそも山中作品が「余話」とされていた。
それは、この映画の左膳が、それまでの左膳とはまったく異なるキャラで、原作から遠く離れすぎた設定のために、原作者からクレームが付いたから、だとか。
くわしくは、こちらで http://www.sazen2004.com/

2004年、日、津田豊滋監督作品。


June 08, 2005 編集
☆☆☆[film]『ミリオンダラー・ベイビー』

昨日、『誰も知らない』を紹介する文章で、「知っている」人間が、誰も「介入」しないことについて、ふれた。
あの子たちは働く権利のない子供たちなんだから、介入があっていいだろう、そう思った。
もちろん、介入なんて、しなくてすむのなら、しないほうがいい。

一人前の大人のことに、他人が介入するのは難しい。
問題があるとはいえ、一応ちゃんとした国家に、他国が介入する場合を想定すれば、よくわかる。
第三者的な存在が、おのれの利害からでなく、客観的な視点でもって、全体の利害を調整するような形で、介入がなされる。
そんなに都合のいいことは、まず、ない。

誰もが、誰かである以上、何らかの立場があるものだ。
第三者の、イチバン遠い存在が、たとえば「神」だ。
しかしその「神」は、たいていは何もしてくれない。

牧師はいう、神の道に背いて、罪を作るな、と。
要するに、神に任せて、おまえは何もするな、ということだ。
(「神」の名による「介入」もあるが、実際に入り込むのは「ヒト」なのだ。)
結局のところ、介入は、それをよく知る当事者が、自分でするかしないかを選択しなければならない。
そして介入する以上は、リスクは自分で取るのだ。

他人が侵すべからざるもの。
それは、その人の生き様/死に様であり、生命の尊厳だ。
そればかりは、誰も踏みにじることができない。
神でさえも? これがクエスチョンだ!

人間に尊厳を与えたのが「神」ならば、人間からそれを奪うのも「神」だというのか。
尊厳を奪われた生を甘んじて生きることのほうが、むしろ「神」への冒涜ではないか?
究極の「介入」。
そしてそれは、当の本人から要請された「介入」でもある。

彼女は、自分で選択することはできる。
しかし、その選択を実行することは、もはやできない。
その実行を本人に代わって、行うこと。

本当の家族との間に愛を確認できない者同士が、「父」と「娘」になる。
31歳の女性ボクサーと老トレーナーだ。
ここでは、出会いは「選択」であり、選択の結果は自己の「責任」である。

一つの挿話があった。
「娘」の本当の父親は、脚の悪い犬を飼っていた。
ある日、父親は犬を連れてドライヴに出かけ、ひとりで帰ってくる。
車にはシャベルが積まれていた、という話。

「娘」は「父」に頼む。
私の父が犬にしたことを私にもしてほしい。
「父」にとって「娘」は、まさにミリオンダラー・ベイビー。
「父」は愛ゆえに、その願いを聞き入れる。
「神」には任せられない。

「神」のいなくなった時代を、僕らは「選択」と「責任」と「愛」でもって生きるしかない。
そして「愛」とは、ほとんど運命のように、そうすることを余儀なくされた「介入」である。
そうイーストウッドは語っているように思えた。

監督自身による音楽も、いい。公式サイト http://www.md-baby.jp/

『MILLION DOLLAR BABY』、2004年、米、クリント・イーストウッド Clint Eastwood 監督作品。


June 07, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『誰も知らない』

1988年に、実際に起きた事件をもとにしている。
僕には、泣ける映画ではなかった。
もっと別の、強い感情に支配され、今もなかなかそこから抜け出せないでいる。

母親と共に暮らす4人の子供たち。
彼らは、父親がみな別々の兄妹たちだ。
学校に通いたいが、許されない。

それどころか、アパートの外に出ることさへ、できないのだ。
いくらかの現金を残して家を出ていく母親。
父親たちを頼って食いつなぐ子供たち。

やっと帰ってきた母親は、しばらくすると、また出ていくという。
ワタシには、シアワセになるケンリはないの?
長男の明(柳楽優弥)は、母親の自分勝手さを詰るが、なるべく彼女の負担にならないよう、弟や妹たちの面倒をみていこうとする。

いつか酔って帰った母親が悪戯に、長女の爪に塗ってみせたマニキュアは、すでに剥がれてしまった。
クリスマスにも帰らない母親に代わって、お年玉を用意する明。
フローリングの床に、こぼして叱られたマニキュアの痕跡。

水道も、ガスも電気も止められた。
イジメを受けていたセーラー服の女の子(韓英恵)と出会った。
行きつけのコンビニで、毎日の売れ残りをもらった。

ベランダいっぱいに並べられたカップ麺容器の植木鉢。
公園の手洗い場からバケツやペットボトルで汲んでくる水。
育っていく草花たち、子供たちの汗、散髪されずに伸びていく髪。

母親の、ひとりの人間としての自由を、尊重しようとするのか。
しかしまだ12歳の、働くことの許されない少年が、しかも3人もの弟妹を抱えながら。
夜明けに、隣で寝ている母親の頬を、涙が伝うのを見ている明は、子供と大人とのはざまで、宙づりにされているニンゲンだ。

もちろん、子供たちにだって、意地はある。
それを尊重するのも、大切なことだろう。
しかし、なぜ大人が誰も「介入」しないのか。

誰かは、知らなければならない。
子供を殺すのは、自分勝手な大人たちだけではないのだ。
優しく、物わかりのいい大人たちが、だからこそ子供たちを殺してしまう。

悲しいよりも、腹が立つ。
僕にしたところで、どうすることもできなさそうで、どうにも悔しい。
救いは、それでも前向きに、彼らは生きていくだろう、と思えることだ。

母親役のYOUが、役にピッタリはまっている。
淡々と流れる、ゴンチチの音楽もイイ。

英題『NOBODY KNOWS』、2004年、日、是枝裕和監督作品。


June 06, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行』

2枚組、243分。
ぐいぐい引き込まれます!
2枚目に入れ替えるのも、モドカシイほど。

ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini、ヴィットリオ・デ・シーカ Vittorio De Sica、
ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini、
ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni。

彼らの作品を、彼自身大きな影響を受けたというM・スコセッシ監督が案内してくれる。
監督は、フィルムスクールの名門、ニューヨーク大学の映画講師の経歴を持つ。
オリヴァー・ストーンやスパイク・リーも、彼の教え子らしい。

紹介されているのは、全部手元に置いておきたいような作品ばかり。
ロッセリーニの「白い船」(1941)「無防備都市」(1945)「戦火のかなた」 (1946)
「ドイツ零年」(1948) 「奇蹟」(1948)「ストロンボリ」(1949)
「神の道化師、フランチェスコ」(1950)「ヨーロッパ一九五一年」(1952)「イタリア旅行」(1953) 。
デ・シーカの「靴みがき」(1946)「自転車泥棒」(1948)「ウンベルトD」(1951) 「ナポリの黄金」(1954)。
ヴィスコンティの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942)「揺れる大地」(1948)「夏の嵐」(1954)。
フェリーニの「青春群像」(1953) 「甘い生活」(1959) 「81/2」 (1963) 。
アントニオー二の「情事」(1960)「太陽はひとりぼっち」(1962) 。
他にも、アレッサンドロ・ブラゼッティ「1860年」(1934) 「ファビオラ」(1948)「鉄の王冠」(1941)、
ジャン・ルノワール「どん底」(1936)、ピエトロ・ジェルミ「イタリア式離婚狂想曲」(1961)が収録されている。

『IL MIO VIAGGIO IN ITALIA』、英題『MY VOYAGE TO ITALY』、1999年、米・伊、マーティン・スコセッシ Martin Scorsese 監督、劇場未公開作品。


June 05, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『茶の味』

ほのぼの、かつ、シュールな映画だ。
『鮫肌男と桃尻女』の監督。
ホームドラマのなかに、いくつかのエピソードを盛り込んでいる。

囲碁が好きな高校生の長男ハジメ、逆上がりの稽古に熱心な小学生の妹幸子、アニメの仕事に戻ろうとしている母親の美子、そして催眠療養士?の父親ノブオ。
それぞれが、モンダイを抱えている。
ノブオの弟が轟木一騎で、このハルノ家の祖父が轟木アキラってことは、ノブオが春野家に養子に来たということかな?

田舎の風景(栃木県の茂木町というところだそうです)が、美しい。
非現実的CGが、不思議な効果を出している。
それから、小池健という人が、アニメーション・ディレクターらしいのだが、挿入されるアニメがまた、いい。

たまたまなのかどうか、最近見た日本の映画は、『69 sixty nine』も『下妻物語』も、アニメを取り込んでいた。
そして、それらがみんな、なかなかの出来なのである。
これを見るだけでもイイ、そう思わせてくれる。

CGにしても、アニメにしても、監督が画面を主観的でロマンティックなものに染めあげてしまいそうになるところを、自分自身で、あるいは他者の視点から、相対化しているところが、気持ちいいのかも知れない。
庵野秀明が、アニメ監督役で出ている。
患者役の和久井映見のナレーションがいいし、教頭先生(田中星児)のお話もいい。

しかし、何といっても祖父役の我修院達也だ。
彼がいなかったら、この映画は、その「宇宙的」な広がりをもてなかったのではないか?
そう思えるほどの存在感、というか存在の不安定感・揺らぎ感・浮遊感。

我修院達也は、『鮫肌男と桃尻女』のときもよかったけど、この映画でもいい「外部感」を出している。
正確には、内と外との「ワタリ」という感じだけど。
彼演じるお祖父ちゃんが、アニメ作家だったこと、そして家族を温かく見守っていたことが、彼がいなくなったあと、あらためて確かめられるシーンがある。

2003年、日、石井克人 監督作品。


June 03, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『下妻物語』

嶽本野ばらの同名原作は、未読。
ゴーイング・マイ・ウェイで、独りでもオッケーな女の子が、友情に目覚め、消費者としてだけではなく、社会と出会っていく物語。
深田恭子演じるロココ狂の桃子とは、対照的なヤンキー娘を、土屋アンナが熱演している。

これ見よがしな典型化や安易な誇張が過ぎて、正直、笑えない部分もある。
僕には、「尼崎」と「ジャスコ」は無理で、「一角獣の龍二」はOK。
桃子の父の宮迫博之はNOで、母親の篠原涼子がYES。

挿入アニメも、ぜんぜん映画に負けてなくて、なかなかグロくて、いい。
自分が心から好きだなと思えることを職業にしている人は、そうたくさんいないと思う。
けど桃子は、大好きな刺繍の仕事のオファーをもらって、でもまだ消費者の立場でいたいな、って。

自信からくる余裕? それとも、そんなに甘くはないぞ、っていうシビアな認識から?
いずれにしても、桃子は、自分自身に対しても、とことんクール。
けっして夢の世界でひとり遊びをしているだけの少女ではない。
彼女のそういうところには、したたかさだけでなく、知性を感じます。

2004年、日、中島哲也 監督作品。


June 02, 2005 編集
☆☆☆[book]『他界からのまなざし −臨生の思想』,古東哲明,講談社選書メチエ,2005/4

小池昌代の「カフェの開店準備」にある、

そうすると、世の中のあらゆる行為について、どれが準備で、練習で、どれが本番だ、開店だ、ということは本質的にどうでもよくなります。すべてが、いつも本番ということになる。


という説を補強してくれる本だ。

現代人ならだれしもまず認めざるをえないように、存在(自然)は、原理的な虚無性に貫通されている。なにかが〈在ること〉そのことに、究極的な根拠や理由や目標はない。しかも、有限。刻一刻に非在化する刹那生滅のために服している。手堅い根拠をもとめ、可能なかぎりの生存の持続をねがう人情からすれば、つらいはなしだ。p120


あってもなくてもいいもの、が、しかし、それでも今ここに「ある」、ということ。
そのありえなさ。
存在神秘(存在するということ、そのことの神秘さ)。

しかし、死はどうだろう?
いろいろであるはずの生を、ひとしく破壊してしまう死。

死は、絶対的他性の陰画である。しかし同時に死は、〈共に生きることができない〉ということのその〈ない〉を通告することで、かえって、今ここに生を享け、絶対的に他なるはずの森羅万象と〈共に在る〉ことそのことを、浮き彫りにする。p151


「共に」を、打ち砕く死。
死は、しかし、共同体を破綻させるものではない。
むしろ、死が共同体を否定することこそが、共同体の最終根拠になる。

死がなければ、自他の区別はありえない。
だから自他の共在だって、なくなってしまう。
そのうえでの、この世界が「ある」ことの、そのかけがえのなさ、である。

そのかけがえのなさは、僕たちに、だれかの肩代わりやだれかへの同情などが、思い上がりにすぎないということを突きつけてくる。

生を、生以外のナニカのタメに役立つものとみなし、生とは別のナニカかとの関係でしか生きることも考えることもできなくなっていること。だから、生それ自体に応接しないありさま。それを、生のユーティリティ化と名づけておけば、そんなユーティリティズム(功利主義)に染め抜かれたぼくたちだからこそ、「何のタメに生きるのか」などと問い、はては生の目的が分からないとか生の指針が明確にならないとか嘆いて、人生の否定のニヒリズム劇に陥るだけではないのか。p157


もちろん、だからこそ、他者と共に生きるということが、そのありえなさが、尊いのである。
たまたまこの世に生を享け、めぐり逢う必然性もなかった人々と、いずれ死ぬという儚い存在を、いまここで共にしている、という奇蹟。

筆者は、世阿弥の「離見の見」、宮澤賢治、現象学、プラトン等々を引きながら、死の側から生きる生、すなわち「臨生のまなざし」、について語る。
たとえば、賢治は、次のように言ってたはずだ。

こんなにせはしい心象の明滅をつらね
すみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう。
(『小岩井農場』)本書p122


そしてあるいは、プラトンのイデアは、「〈死者の眼〉がみている地上の光景」ということになる。
すべては、この地上の存在の輝きや、森羅万象の存在の感覚を、得心してもらうための方便。

考えてもみられたい。地上世界のくだらなさを説明するために、あんなに膨大で情熱的な思想を語ることができるだろうか。この世のつまらなさを自覚し、あの世のすごさを体験するために、わざわざあんな善行の八日間が必要だろうか。彼岸の別世界(死界)がそんなに素晴らしいのなら、さっさと他界すればよいし、肉体が墓場だというなら、とっとと死ねばよいからだ。p195


いつまでも来ないバスを、待つのはもうよそう。
そう筆者は、提案する。
〈いつかどこか〉ではなく、〈いまここ〉にある生をこそ、一所懸命に生きよう、と。

死の側より照明(て)らせばことにかがやきて/ひたくれなゐの生ならずやも(齋藤史、歌集『ひたくれなゐ』)


かくして、『バスを待ちながら』(『LISTA DE ESPERA』、2000年、キューバ・仏・スペイン、フアン・アルロス・タビオ監督作品)が、必見リストに、またひとつ加わるのである。