2005/7

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July 31, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ヴォイス・オブ・ムーン』

フェリーニの遺作。
空っぽな頭と無垢な魂の持ち主サルヴィーニ(ロベルト・ベニーニ Roberto Benigni)は、「月の声」が気になって仕方がない。
彼は、井戸をのぞき込み、屋根の上に上がり、移動し続ける。

人間どもが、自分たちを見守ってくれている月を、実際に捕まえてしまうところ、そしてそれを映像にしてしまうところが、面白い。
捕まえた月に訊ねてみせる「普通の人々」の質問の、真摯さ。
政治家や宗教者たちの反応との落差は、激しい。

>>
サーカスに出ている、ずんぐりとして、優雅な、あの小柄な下働きの道化師ピエリーノほど、ぼくをうっとりさせ、楽しませ、目眩めく思いに誘う人物は、その後のぼくの人生には現れなかったと思う。(『フェリーニ・オン・フェリーニ』、キネマ旬報社)。
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『LA VOCE DELLA LUNA』、1990年、伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。

☆☆[film]「アイランド」

ハラハラドキドキ、緩みのない作品で、楽しめました。
感動作というよりは、娯楽活劇でしょう。
「アイ・ロボット」を思い出させるような場面もあったけど、こっちは臓器移植用に製造されたクローンの話。
しかし深刻な問題を、あえて深追いせずに、ラストも問題を先送りにしている。
そういうツッコミが可能な、隙がないわけではない。
でも、スピード・スリル・サスペンス、アクションだけでも十二分に堪能できる映画。

ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)もスカーレット・ヨハンソン(Scarlett Johansson)もよく走ってみせる。
立ってるだけでかっこいいジャイモン・フンスー(Djimon Hounsou)。
やっぱり泣き顔で、ほとんど引きずられるだけだけど、マイケル・クラーク・ダンカン(Michael Clarke Duncan)も出ている(「グリーン・マイル」の口からハァーの人)。

こうした配役がいいし、ユーモアもある。
空飛ぶオートバイも、ボートも、かっこいい。
徹底的に疑うこと、必死に生き抜くこと、そして友情の称揚。
では、人はどのようにして同類意識をもち、連帯するのか。
「人生意気に感ず」である。


僕は予備知識ゼロで観たけれど、公式ページはこちら。
http://island.warnerbros.jp/

『THE ISLAND』、2005年、米、マイケル・ベイ Michael Bay 監督作品。

☆☆☆[DVD]『ノー・マンズ・ランド』

ボスニアの、不条理かつ馬鹿馬鹿しい紛争を、強烈に皮肉った映画。
1993年6月のある日、霧の深い夜が明けたとき、道に迷ったボスニア軍の小部隊は、ノー・マンズ・ランドと呼ばれるボスニアとの中間地帯に取り残されていることを知る。
しかし、それを知ったときが、もはや彼らの最期だった。

肩を負傷しながらも、ただひとり生き残ったチキ(ブランコ・ジュリッチ Branko Djuric)は、塹壕に身を隠す。
その塹壕に偵察に来たセルビアの古参兵と新兵のニノ(レネ・ビトラヤツ)は、戦死したボスニア兵ツァラ(フイリプ・ショヴァゴヴイツチ)の死体の下にジャンプ式地雷を仕掛ける。
遺体を動かそうとすると、地雷が空中で爆発し、半径45メートルにわたって殺傷能力を発揮する、という仕掛けだ。

彼らが引きあげようとした瞬間、隠れていたチキが二人を射撃。
古参兵は死に、ニノは腹部に弾丸を受ける。
チキとニノは互いのスキを見ては襲いかかり、ふたりは交互にイニシャティヴを入れ替えることになる。
そんなとき、死んだと思われていたツァラが意識を取り戻す。
あわてて近づき、彼の頭を抑え、その身体を動かさないよう注意するチキ。

そんな極限状況にいる彼らを取り巻くのは、両陣営だけではない。
国連軍は傍観に痺れをきらし、マスコミは当然視聴率アップのため、塹壕にやってくる。
ことなかれではすまないと判断した国連軍の責任者であるソフト大佐(サイモン・カロウ Simon Callow)は、しかし、ヘリコプターで現地に向かうのに、美人秘書を同行せずにはいられない体たらくだ。

進退窮まった現場ながら、映画はたくさんの笑いを用意している。
しかしコメディだからこそ、戦争の愚かさが、余計に心に滲みる。
チキもニノも、お互いの憎しみに飲み込まれて姿を消したあと、地雷のうえに横たわったまま独り残されたツァラは、死体でありかつ生者である。
宙吊りなままで終わる姿は、まさに象徴的であるが、何とも痛ましい。

『NO MAN'S LAND』、2001年、仏・伊・ベルギー・英・スロヴェニア、ダニス・タノヴィッチ Danis Tanovic 監督作品。


27, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『西部戦線異状なし』

映画史に残る反戦映画の傑作。
ロシア、キシノブ出身の監督が、アメリカでこの映画を撮ったのは1930年、マイルストン35歳のときである。

第1次世界大戦を闘う、まだ年若いドイツ兵ポール(リュー・エアーズ Lew Ayres)が主人公。
街頭では、足並みをそろえた隊列が行進し、群衆が歓声でもって彼らを送っている。
学校では、教師が授業そっちのけで、学生たちの愛国心を鼓舞し、教師のコトバにこころを駆り立てられた若者たちは、ただちに入隊を志願する。

しかし、訓練は嫌がらせに近いシゴキであり、向かわされた前線は、特攻まがいの迫撃戦で、敵味方に無数の犠牲を強いながら、一進一退を無意味にくり返すばかり。
直接の突撃戦がない場合でも、ほとんど止むことのない砲撃や爆撃に怯えねばならない毎日だ。
加えて、飢えとの闘いも始まった…。

ずっと昔、中学生の頃にこの映画を初めて見たとき、歩兵戦の苦しさ、というか虚しさというものを突きつけられた気がした。
これでは、どうあっても格好良くは死ねない、のである。
その頃の僕はきっと、カッコよく死にたがっていたのだろう。

戦闘シーンは、いま見ても、ものすごくリアルで迫力がある。
ポールが仲間たちと一緒に、水浴し、禁止されている川を泳ぎ渡って、対岸のフランス語を話す女たちのところにいくシーンが好きだ。
最初、相手にしなかった彼女たちも、彼らが食糧をもっていることを知って、コロリと態度を変えるのである。

プロフェッサーが学生たちを煽ったコトバのうちに、「国のために死ぬことの、なんと美しく甘やか(beautiful and sweet)なことか」というのがあった。
一時休暇で故郷に戻ったポールは、戦場の実際を知らない大人たちの身勝手さに、幻滅を感じる。
久しぶりに母校の教室を訪ねると、恩師が今もなお、当時の彼よりも、もっと年若い生徒たちにまで出征を呼びかけているのだった。

「祖国に尽くすことの意義」を説き、「英雄的な行為」「崇高な経験」を披露して、「彼らを奮い立たせて」ほしい。
そう頼まれて、しかし素直に話ができないポールは、生徒たちに臆病者と罵られる。
しかし、勇ましいことをいう人ほど、現場は踏まない(ですむ立場の人が多い)ものだ、ということをよく知ってしまった彼だ。

ポールは正直に、死は惨めで恐ろしい、たとえ国のためでも、僕は死ぬのはイヤだ、と述べる。
そして彼は、戦場にはただ、生と死があるのみだ、という事実だけを告げるのである。
生まれも育ちも違いながら、互いに友情を感じ始めた伍長カット(ルイス・ウォルハイム Louis Wolheim)との別れも、ポール自身の最後も、見事に、呆気ない。

『ALL QUIET ON THE WESTERN FRONT』、1930年、米、ルイス・マイルストン Lewis Milestone 監督作品。

☆☆☆[DVD]『ウェルカム・トゥ・サラエボ』

戦火が続くサラエボを取材する英国人ジャーナリスト、マイケル(スティーヴン・ディレイン Stephen Dillane)。
彼と対照的に、明るく楽観的に振る舞うかに見える米国人ジャーナリスト、フリン(ウディ・ハレルソン Woody Harrelson)。
ふたりは、前線にある孤児院を取材する。

そしてマイケルは、そこで出会ったエミラという少女に、彼女をそこから助け出すという約束をする。
それは、報道者としての役割を踏み越えた、ひとりの人間としての、止むに止まれぬ行為だった。
彼は約束を果たして、エミラを養女として英国に連れ帰るのだが、いないはずのエミラの母親が現れて…。

実話に基く原作に合わせて、生々しい実写の映像が、たくさん挿入されている。
マイケルの選択は、そして実母と別れるエミラの選択は、はたして正しかったのだろうか?
答えは、簡単に出せるはずがない。

映画は、「本当らしさ」でもって、戦争の現実の再現を試みているのでは、たぶんない。
もっとじかに、人間の真実について、様々な問いを、投げかけてくる。

『WELCOME TO SARAJEVO』、1997年、英、マイケル・ウィンターボトム Michael Winterbottom 監督作品。


25, 2005 編集
☆☆☆[book]『音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ』、増田聡&谷口文和、洋泉社、2005/2

ぐいぐい引き込まれるようにして読みました。
レコードの発明以来のテクノロジーの発達に伴う音楽観の変遷と、作品概念の揺らぎ。
それらを丁寧にたどりつつ、現在の著作権システムのあり方や、ネットワーク(ディジタルコピー)時代における音楽という価値についての問い直しを、多層的な視点から平明な文章で綴っています。

録音テクノロジーの歴史は、従来の音楽文化をとらえる基本的な概念枠であった「作曲と演奏」「録音と聴取」「複製と編集」それぞれのあいだの区別を曖昧にする方向に進んできた。特定のテクノロジーやその使用法が問題なのではない。それらが存在する文脈の中で、テクノロジーがどのように意味づけられているかこそが問題なのだ。p92
「誰がその音楽を作ったか」は、経済的な利益配分にとって決定的な要素ではなくなる。そしてその音楽の独創性は、経済的な権利とは別の問題としてとらえられるようになるだろう。/そして音楽テクノロジーの発展と普及は、著作権が前提としてきた古い音楽観を変えてゆくだろう。しかしその変化によって、(現在の著作権制度を固守しようとする人々がしばしばそうするように)音楽における創造性が失われるということはけっして起こらないだろう。おそらくそこでは、「オリジナリティ」の意味もまた変化するだろう。さらに、楽器の意味が、音楽行為の意味が、そして「作曲」の意味が、こんにちのそれとは大きく変化していくだろう。p263

僕は、なかでも第4章「『音楽』を更新するDJ」を、イチバン面白く読みました。
DJの、かっこよさを再確認!

☆☆☆[DVD]『真珠の耳飾りの少女』

映画館でも2回見たけど、また見てしまいました。
構図、色彩の配置、光の強さや方向など、計算し尽くされた画面構成。
抑制された音楽が、ストーリーの展開に合わせて、微妙に音色を変えて、効果的にくり返されています。

フェルメール役のコリン・ファース(Colin Firth)の目の輝きは、尋常ではないと思わせるほど。
それが、美への執着なのか、少女への燃えあがる欲望なのか、にわかには区別がつかない。
いや、たぶんは、そんな区別を試みるような分別など、無効なのであろう。

明らかに才能がありながら、使用人でしかありえない少女グリート( スカーレット・ヨハンソン Scarlett Johansson )。
それは時代の限界であり、だれであれ、その限界を超えることはできない。
憐れではある、しかし、イノセントな少女は、同時にタフな女性でもあるところが救いだ、そう思いたい。

撮影監督のエドゥアルド・セラは、リスボン出身。
マイケル・ウィンターボトム監督の「日蔭のふたり」で英国映画界入りし、以後はパトリス・ルコント監督(『髪結いの亭主』『タンゴ』『イヴォンヌの香り』など)とコンビを組んで活躍した。
ヘンリー・ジェイムズ原作『鳩の翼』(ホセイン・アミニ監督)もこの人。

美術のベン・ヴァン・オズは、ピーター・グリーナウェイ監督『ZOO』のプロダクション・デザイナーとしてデヴュー。
のち、グリーナウェイとは『コックと泥棒、その妻と愛人』『ベイビー・オヴ・コマン』(こっちは未見)でコンビを組む。
『アドルフの画集』(これも未見)の美術もこの人が担当だそうで、この映画、見てみたくなりました。

どこかで見たゾ、と思ってたら、ピーター役のキリアン・マーフィ(Cillian Murphy )は、ダニー・ボイル(Danny Boyle)監督の『28日後』に出てたんだ。
あのときは髪が短かったんで、すぐに思いつかなかった。
『バットマン ビギンズ』でも、いっちゃってるドクター役で出てましたね。

原作は、トレイシー・シュヴァリエ(Tracy Chevalier、『真珠の耳飾りの少女』、白水社。
前にも書いたけど、本は本で、「時間」が上手に描かれていて、面白かったです。

『GIRL WITH A PEARL EARRING』、2003年、英・ルクセンブルグ、ピーター・ウェーバー Peter Webber 監督作品。


24, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『リオ・ロボ』

ホークスの遺作。
「リオ・ブラボー」「エル・ドラド」と続いた三部作の最後の作品だが、出来は、これがイチバンだろう。
脚本も練られているし、キャメラも編集のテンポもよく、まったく緩みのない作品に仕上がっている。

南北戦争の末期と、その戦後の「西部」が描かれている。
北軍の元大佐(ジョン・ウェイン John Wayne)が、南軍の中尉(ホルヘ・リヴェロ Jorge Rivero)や軍曹(クリストファー・ミッチャム Christopher Mitchum)と協力して、極悪非道の裏切り者を征伐するお話。

撮影のウィリアム・クローシア(William Clothier)の腕が、冴えに冴えている。
最初の、列車の到着からして、すでに並みの作品とは全然違うのだ。
戦争が終わるまでにも、どんでん返しが幾度かあるが、後半の戦後に移っても、どんでん返しに継ぐどんでん返し。
それが面白いのだから、簡単にやられたり/やったりすること、に文句を言ってはいけない。

しかし、やっぱりスターって偉大だよね。
たとえヅラをかぶっても、ジョン・ウェインはやっぱりジョン・ウェイン!

『RIO LOBO』、1970年、米、ハワード・ホークス Howard Hawks 監督作品。


21, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『エル・ドラド』

自分の腕だけを頼りに、町から町へと放浪するガンマン、コール・ソーントン(J・ウェイン)。
コールが立ち寄ったのは、旧友J・P・ハラー(R・ミッチャム)が保安官をしている町だ。
ほとんど喧嘩友達の二人が、協力して、マクドナルド一家の牧場を乗っ取りにかかろうとするジェイソン一味と対決する。

二人に加勢することになるのは、ナイフ使いの青年ミシシッピ(J・カーン)。
そして、いかにも偏屈そうな、保安官助手のブル。

ジョン・ウェインが馬を自在に操るかっこよさは、その馬を後退りさせるシーンに極まるだろう。
ミシシッピが、チョロキー族の男に育てられた青年で、ナイフだけでなく、その知見/教養?でもって、楽しませてくれる(J・Pの断酒を助ける薬づくり)のも、うれしい。
そして、何かにつけ先住民を貶し続けているブルが、最後には彼らの武器で戦おうとするところなど、ニヤッとさせられる。

重いものを引きずったかたちのスタート、そして緊迫感を保っていた前半だけに、松葉杖の使い方の「言い訳」も含めて、後半はちょっと「何でもあり」的な、緩んだところも目立つが、痛快娯楽西部劇/喜劇としては、これでいいのだろう。
それにしても、ジョン・ウェインが乗ると、馬が小さく見えて、ちょっと馬が可哀相に思えてきます。
それとも、最初からそれが狙い?

『EL DORADO』、1966年、米、ハワード・ホークス Howard Hawks 監督作品。


20, 2005 編集
☆☆☆[book]『北原白秋』、三木卓、筑摩書房、2005/3

北原白秋ってひとは、明治18(1885)年に生まれて昭和17(1942)年に死んだ詩人。
57年の生涯で、詩や短歌だけでなく、歌謡や童謡までの、ひろい範囲にわたって、すぐれた作品を数多く残した。
ほんとに、化け物的といっていいくらいの、活躍ぶり。

三木卓は、「一ファンとして白秋の魅力を語」ろうとし、結果として「日本の近代の激動を生きた一人の芸術家の軌跡」を描くことになった、という。
評伝だから、とうぜん筆はその生涯にわたる。
でも、白秋の人生に山もあれば谷もあるように、三木氏の筆致にも自ずと軽重があり強弱がある。

熱がこもっているな、と思わせるところは、大きくとらえていうと、2箇所。
ひとつは、詩人としてのスタートの時期(第一詩集『邪宗門』、第二詩集『思ひ出』)から、いわゆる「桐の花」事件(人妻との恋愛、姦通罪の告発を受け、収監、のち釈放される)の時期と重なる第一歌集『桐の花』を扱った部分。
もうひとつは、詩人の最晩年の時期について述べた部分。
それぞれ、本書の第三、四、五章、第十四、十五、十六章にあたる。

白秋という詩人が成立していく過程で、「藤村と晶子という兄と姉が果たした役割は大きい」と三木氏はいう。
それを「立て続けに飛んできた二発の銃弾に、かれは射ぬかれた」というように書く。
『若菜集』(明治30年)の島崎藤村は、6歳年下で当時18歳の与謝野晶子に衝撃を与え、『みだれ髪』(明治34年)の晶子(24歳)は、7歳年下の白秋に、それ以上の衝撃を与えた。

『邪宗門』における「イメージの増殖能力の激しさ」。
「生涯にわたって白秋の表現活動を支えた」この力こそが、彼を「生き延びさせ」たのだと三木氏はいう。
そして『思ひ出』は、「柳河という南の風土」から「感覚開放の性格」をもって生まれ出たとする。

母の手をはなれて育った白秋は、まわりの女たちにいわば侵されながら育った。かれが自分をピエロに模して描いたのは、幼年というものが玩具にされやすい存在である、ということへの悲哀から発したものであろう。かれは幼年期の恍惚と恥辱のうちにあったが、同時にそれはともに深い快楽だった。p113

さて、「桐の花」事件である。
白秋25歳、松下長平の妻俊子22歳、俊子には娘公美(くみ)がいた。
白秋が松下の隣家に転居し、二人が出会ってから1年10ヶ月後に、姦通罪で告訴。

明治45年7月6日、両人は市ヶ谷の未決監に拘留される。
300円を松下長平に支払うことで示談が成立。
2週間後の同20日に保釈され、8月10日免訴となる。

では、松下俊子とはどんな女性であったのか。
こう問いすすめる三木氏の筆は、自ずとなめらかさを増してくる。
「男の気を惹く口のききようや、思わせ振りなそぶりをすることにたけている」女。
「相手の男に自分の存在を意識させてしまう術を心得ている」女。
そして「性的な誘引力は強烈」、「そういうタイプの女」。

そういう女は、自分が主導権をとって男を意のままにあやつる恋愛遊戯が好きなのだが、だからといって必ずしも生きる力が強いわけではなく、男をあやつる天性の能力は、男に依存して生きなければ生きられない弱さをも兼ねもっているということでもある。実際どの女もそういう弱さをもつかどうかは別問題としても、少なくとも男がそれを同時に感じとるので、依存されている、という意識のためにその女から逃れることができなくなる。p154

「恋愛という非日常における高揚や鮮明な幸福感や嫉妬や思い巡らし、性的たたかい、性的ゲーム、自己の性的魅力の確認といったことに生きがいを感じる女」。
対して白秋は、「とうに身を引きたくなっていただろう。これはまずい、と思ったにちがいない。いま、ここで何事もなかったかのようにとりつくろって別れることができれば、察知している夫もあえてことを荒立てまい。そう思うことができた段階もあったにちがいない」と、同情的に推測される。
しかし、ここでは次のことが確認されればよい。

白秋のうちには、自らを追い込んだ俊子の情熱に呼応する血が奔騰していた。それは『邪宗門』や『思ひ出』を見てきたものには、火を見るより明らかなことである。白秋もまた恋のために滅びてしまうことを恐れない資質をもった人間だった。性的情熱を生活よりもはるかに上位に置いて生きていた。p160


三木氏が、本書で最初に引用している詩は「夜」(『思ひ出』)である。
そこにすでに「資質」は現れている。
ここでは、第二、四連だけを引く。

夜は黒……ぬるぬると蛇(くちなは)の目が光り、
おはぐろの臭(にほひ)のいやらしく、
千金丹の鞄(かばん)がうろつき、
黒猫がふわりとあるく……夜は黒。(第二連)

夜は黒……時計の数字の奇異(ふしぎ)な黒。
血潮のしたたる
生(なま)じろい鋏を持つて
生肝取(いきぎもとり)のさしのぞく夜。(第四連)p6-7

「夜……夜……夜……」で終わるこの詩は、読む者を真闇の底に引きずり込むようだ。
しかし、「創造者の未来における達成が予測におさまるようでは、いい仕事といわれる程度のものにしかならない」。
『桐の花』「哀傷篇」以降は、「とてもなりふりをかまってはいられなかった」。
「ただ必死で身についたもので表現の場をとりつくろう」その「ぶざまともいうべき裂け方が人を強く打ち、この歌集を存在たらしめたのである」。

童謡は、たとえば「金魚」。
これは全篇、引いてみる。

母さん、母さん、
どこへ行た。
 紅い金魚と遊びませう。

母さん、帰らぬ、
さびしいな。
 金魚を一匹突き殺す。

まだまだ、帰らぬ、
くやしいな。
 金魚を二匹(にイひき)絞め殺す。

なぜなぜ、帰らぬ、
ひもじいな。
 金魚を三匹捩ぢ殺す。

涙がこぼれる、
日は暮れる。
 紅い(あアかい)金魚も、死ぬ(しィぬ)死ぬ(しぬ)

母さん怖いよ、
眼が光る、
 ピカピカ、金魚の眼が光る。(『とんぼの眼玉』)。

ずーっと飛ばして、もう晩年である。
白秋は、時代の新しい意匠の波をもろともせず、不動の存在として、幾つもの波を乗り越えてきた。
いつどんなときにでも、自分の仕事を発表する機関を手にしていること、自分を尊敬する人間を集めて、優秀なグルであり続けること、それを無邪気に、臆面もなくできること。

「多磨」を独裁的に運営していく白秋。
「結社の中心になるものは、タイコをたたいてフエをふいてシシマイを踊ってみせるというぐらいの覚悟が必要である」と三木氏はいう。
「しかし、今見てきたような大結社の組織・意地という企てが行われたということは、白秋が芸術家として晩期を迎えていた、ということと大いに関係している」。

表現者は、自ら表現のモチーフを探しにいく者ではない。
(中略)
モチーフはいつも表現者にとって向こうからやってくるものであって、かれにとっては絶対である。
作品になってから、批評家や読者がどうそれを受け取るか、ということはまた別問題である。個人的なモチーフだったものが時代のものとされるとき、その時代は表現者を持つということになるかもしれない。p407

19, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『リオ・ブラボー』

ジョン・ウェイン(John Wayne)演じる保安官チャンスは、酒場で人を殺した男ジョーを逮捕する。
ジョーの兄ネイサンは、弟を助けようと、様々な手を打ってくる。
雇われた殺し屋たちを迎え撃つチャンスの味方は、助手のデュード(ディーン・マーチン Dean Martin)。

デュードは、かつては音に聞こえた拳銃の使い手だったが、流れ者の女との生活に失敗した後は、ずっとアルコールが欠かせないボラチョン(酔っ払い)だ。
そして、もっぱら牢番をしているもう一人の助手、脚の悪い頑固老人スタンピー(ウォルター・ブレナン Walter Brennan)。
その二人に、チャンスの古い友人が率いるキャラバンの用心棒として雇われた、凄腕の若者コロラド(リッキー・ネルソン Ricky Nelson プレスリーを思わせる髪型で、ギターを弾いて見せたりもする)が、仲間に加わる。

クールなコロラドが、チャンスを助けに入る、その入り方も絶妙だ。
もちろん、意地っ張りでプライドの高いスタンピーにも、ちゃんと活躍の場が与えられている。
そして、これはあくまでもオマケとして、やはり生活を改めようとしている女賭博師(アンジー・ディキンソン Angie Dickinson)に対する無骨でギクシャクした態度の裏にある淡い恋情。

悪戯でスタンピーの禿頭に、キスをして逃げるジョン・ウェインの可愛らしさ。
『ライフルと愛馬』を歌う、ディーン・マーチンの美声はどうだ。
相手側に捕まったり、何度も窮地に陥るような、間抜けたところのある二人だが、酒を断って更生しようとする熱い男デュードの弱さと、そんな彼を丸ごと見守ろうとする温かい男チャンスの男気の演出が、泣かせてくれる。

「自分の敵がハッキリわかったよ」
『皆殺しの曲/デグエイヨ』を聴いて、手の震えをぴたりと止め、呷ろうとしたグラスの酒を瓶に戻すデュードは、かっこいい。

『RIO BRAVO』、1959年、米、ハワード・ホークス Howard Hawks 監督作品。


18, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『PiCNiC』

双子の妹を殺したココ(CHARA)は、精神病院に入院させられる。
そこで、サトル(橋爪浩一)とツムジ(浅野忠信)という2人の青年と出会う。
ツムジは、自分をいじめた小学校の担任を殺害、その教師の亡霊/妄想に苦しんでいた。

塀の上を歩いて楽しむ彼らに加わったココは、彼らが今まで踏み出せなかった新しい世界に踏み出してしまう。
教会の賛美歌、神父、聖書と出会い、地球の滅亡を確信したツムジは、2人と一緒に終末を見届けるピクニックに出発するのだが…。

塀の上だけが彼らの生きられる世界だ。
伝う、走る、堕ちる、そして消える。
狂気が、罪が、命が、世界までもが?

黒いカラスの羽根をはおって、塀を疾走するココ。
サトルは、地上に堕ちて/死んでしまう
塀の行き着く果て、つまりは世界の切っ先で、太陽に向かって弾丸を放つツムジ。

世界は、しかし変わらない。
ココは、やっぱり自分が消えなくては、世界は無くならないと、ツムジに代わって引き金を引く…。
そして黒い羽根が美しく舞う、ラストのシーン。

寓話的な映画だが、その映像は、イリュージョンとしてのリアリティとでもいうべき浮遊感/質感を、もっている。

1994年、日、岩井俊二監督作品。


17, 2005 編集
☆☆☆[film]『バットマン ビギンズ』

ババババババババ、ババババババババ、バットマーン!
あの白黒画面のTVシリーズからは、ずいぶんと遠くまで来ましたね〜。
でも僕はこの映画、大賛成!!

大富豪の一人息子である少年ブルース・ウェイン。
彼は、幼なじみのレイチェル(ケイティ・ホームズ Katie Holmes)と遊ぶうちに、井戸に落ち、コウモリの群れにおののく。
ほどなく両親を目の前で殺された少年は、復讐心に燃え、悪の世界に身を沈める。

チベットで服役していた青年ブルース(クリスチャン・ベイル Christian Bale)は、デュガード(リーアム・ニーソン Liam Neeson)と出会い、ヒマラヤ奥地で「影の同盟」の一員としての鍛練を積む。
そしてようやく自身の恐怖に打ち勝つことができた彼は、悪の処刑を強いるグルに反逆し、腐敗が極まった瀕死のゴッサム・シティへと舞い戻る。
父が遺した企業を受け継いだブルースは、悪を恐怖させるシンボルとして、コウモリを活用することを思いつくのだった…。

「トゥームレイダー2」や「スパイダーマン2」と見紛う場面も、ないわけではない。
それでもバットマンが超人ではなく、ベースはあくまでも普通の人間だというところ。
そして、事件の解決に、やはり普通の、しかし健全な警官を、その協力者としているところが、いい。

でもこのあたりの展開、アメリカ一国では、もはや「テロ」や「悪の枢軸国」を退治することはできない、というメッセージのようにも見えたけどね。
このあいだ見た「スター・ウォーズ」もそうだったけど、自らの恐怖心の克服というのが、どうもポイントみたい。

監督は、あの、頭クラクラの映画「メメント」を撮った人。
マイケル・ケイン Michael Caine、モーガン・フリーマン Morgan Freeman、ゲイリー・オールドマン Gary Oldman などの脇役陣も充実。
公式サイトは、こちら http://www.jp.warnerbros.com/batmanbegins/

『BATMAN BEGINS』、2005年、米、クリストファー・ノーラン Christopher Nolan 監督作品。


16, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『シェフと素顔と、おいしい時間』

互いに見ず知らずの間柄でありながら、携帯電話を貸し借りしたことから、ホテルで一夜をともにする羽目に。
女は、メイキャップアーティストのローズ(ジュリエット・ビノシュ Juliette Binoche)。
男は、元シェフで、現在は食品関係の事業家であるフェリックス(ジャン・レノ Jean Reno)。

シャルル・ド・ゴール空港で足止めを食らい、偶然に知り合った二人だが、ストで飛行機は欠航。
フェリックスは、関わりたくはないものの、空港のベンチで寝ようとするローズをホテルに誘う。
しかし二人は、なにかにつけ反目し合うのだった。

腹を立てながらも、その相手が気になる二人。
ルーム・サービスでディナーを共にした二人は、しだいに「素顔」を見せ合い、ぶつかり合いながらも、引き戻せないくらいにまで親密になっていく。

濃いめの化粧を落とした「素顔」のジュリエット・ビノシュの美しさ。
田舎に帰って、レストランを経営する父親と再会/和解するジャン・レノの可愛らしさ。
そして、常夏の楽園アカプルコの風景が、まぶしい!

さすが、フレンチ。
大人のための、洒落たロマンティック・コメディーになってます。

『DECALAGE HORAIRE』、英題『JET LAG』、2002年、仏、ダニエル・トンプソン Daniele Thompson 監督作品。


15, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ロッテとアンナ』

双子として、共に生を受けながら、生後間もなく母を亡くし、6歳で父までも失う。
ドイツ(貧しい農家)とオランダ(裕福なブルジョア)とに引き裂かれた姉妹(少女アンナ:ジーナ・リシャルト、少女ロッテ:ジュリア・クープマンス)が、たどらねばならなかった道。

数奇な運命に翻弄され、ナチ親衛隊将校の妻となった姉(成人アンナ:ナディア・ウール)。
そんな姉を許してしまうと、アウシュヴィッツで亡くなったユダヤ人の恋人を裏切ることになってしまう。
悩んだ末に、姉をいなかったものとして生きてきた妹(成人ロッテ:テクラ・ルーテン)だ。

ベルギーのヘルスセンターに通う、すでに老いた妹ロッテ(エレン・フォーヘル)のもとに、やはり年老いた姉アンナ(フドゥルン・オクラス)が訪ねてくる。
逃げるように山に入る妹ロッテ、追う姉アンナ、ふたりはとうとう道に迷い、落ち葉を毛布代わりにして、野宿することに…。

引き離されても、なお、互いを想う幼い二人。
ロッテは、何通も手紙を書くのだが、養父母はそれをアンナには送らない。
成長したアンナは、やがてメイドになり、ロッテは大学に進学してドイツ語を学ぶ。

ロッテは、手紙が投函されていなかったことを知り、アンナに会いにドイツに向う。
しかし、一緒に再会を喜べたのは、たったの一夜きり。
そして戦争は、二人の運命を大きく変えていくのだった…。

妹ロッテは、姉アンナをほとんど赦しているのだが、どうしても許せない。
エレン・フォーヘルは、その機微をとらえた、絶妙の演技をしてみせている。
このあたり、人間の愛(寛容)と憎しみ(制裁)の限界(有限性)を表現しているのかも知れない。

原作は、オランダの女性作家、テッサ・デローという人の小説で、これは結構売れた小説らしい(未読)。
公式サイトは、http://www.anna-lotte.com/home.html

『DE TWEELING』、英題『TWIN SISTERS』、2002年 、蘭・ルクセンブルグ、ベン・ソムボハールト Ben Sombogaart 監督作品。


14, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ショコラ』

ばあさん(ジュディ・デンチ Judi Dench)が主役かな。
因循姑息っていうコトバがあるけど、まさにソレを感じた。

伝統を大切にするフランスの小さな村に、一風変わった母子がたどりつく。
ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ Juliette Binoche)と幼い娘(ヴィクトワール・ティヴィソル Victorie Thivisol)は、ふたりでチョコレートの店を開く。
伯爵をはじめとする村人たちは、彼女たちを無視しようとし、やがては追い出そうとまでする。
一方で、そのチョコレートの美味しさに、心を揺るがされる人たちも出てくる。
そして、船で川を移動しながら定住しない人たちがムラはずれにやってきて…。

ヨーロッパの人は、ほんと、チョコが好きですね。
ロンドンでも、地下鉄(の駅のホームに、たいてい自動販売機がある)で、大のオトナがチョコバーをかじっている。
あれが、ヤツらのパワーの源泉かも、って思ったことがある。

このあいだ生協食堂で、今夏ドイツに行かれるというU先生とお話してたら、精神安定剤でもあるのでしょう、と教えてくださった。
カカオって、そうでしたね。

甘いものに対してもそうだし、甘いもの好きに対してもそうだけど、
どうも未熟さや子供っぽさ、弱さや緩さと結びつけられて、悪い評価を受けやすいような印象がある。
でもこの映画のミソは、ただスウィートなだけではなくて、ビターやチリが効かせてあるところ。
そして世代間の(とくに母と娘との!)和解が、ひとつの大きな軸になっている。

マレビトはもちろん、差別され、迫害される。
マレビトの訪れが、共同体を活性化する話は、珍しくはないけれど、
『ショコラ』は、マレビト自身が、また別のマレビトによって救われもする、
そんなお話になっている。

ギターを弾くジョニー・デップ(Johnny Depp)が、いい。
そしてこれは、若い神父が、はじめて伯爵による添削なしで、説教をしてみせたときの、そのことば。
「私たちにとって大切なことは、何を禁じ、どう排除するかではなく、
何を受け容れ、どう寛容でありうるか、ではないでしょうか。」

『CHOCOLAT』、2000年、米、ラッセ・ハルストレム Lasse Hallstrom 監督作品。


12, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『僕の彼女を紹介します』

「猟奇的な彼女」の監督と女優が再びコンビを組んで撮ったラブ・ストーリー。
なんといっても、チョン・ジヒョンの長身と長い黒髪の、脅威的な美しさ。
これでもか、というくらいマンガ的に誇張された喜怒哀楽も、すべては彼女の黒髪のためにある、そう思えてしまうほど。

ひったくりの現場に居合わせた婦警のヨ・ギョンジン(チョン・ジヒョン Jeon Ji-Hyeon)。
彼女は、逃げる男を見事取り押さえるが、それはじつは泥棒を追いかけていた青年だった。
コ・ミョンウ(チャン・ヒョク)は、女子高で教師をしている、いたって真面目な青年なのだ。

やっとのことで解放されたミョンウは、ある日、交番で再びギョンジンと遭遇。
夜間パトロールに付き合わされた彼は、またもや尋常とは思えない強烈な一夜を過ごすことになる。
しかし、これを縁に、ふたりは互いを恋するようになる…。

ミョンウは、自分が死んだら「風になる」といっていた。
「風」は、残された女の子の心を開いて、新たな出会いへと導いていく契機となる。

その人の死があったからこその、関係。
生だけが、命を支えているのではない。
命は、たくさんの死によっても、つなげられている。

自分もまた、そういう世界のなかの、ひとつの生/命である。
そのことに気づくこと、元カレの死を受け容れること、新しいカレとの出会いの予感。
じつはそれらは、同じひとつのことであり、ギョンジンのもとにやってきた風たちが、彼女のその「前向きの一歩」をやさしく見守るのである。

最愛の人を喪った哀しみを乗り越えていく女性の話という点では、この映画も『まぼろし』と同じテーマを扱っているのだが、その扱い方の違いが面白かった。
幻を介在させながらも自らの「個」を鍛えあげ直そうとする女性と、たまたまできた自分という結び目を因縁生起/関係性の網のなかにほどいていこうとする女性。
これだと、ちょっと典型化しすぎかな。

でも『源氏物語』について、ヴァージニア・ウルフが書いていた。
「経験の根といったものが東洋の世界からは取り払われて」いる、って。
(「源氏物語について」『病むことについて』所収、みすず書房)

それは、こういう経験/感情の「根」の組み替え方についてなのかな、と思ったりした。
「すべてのものの根本にあって、その生育をつかさどり、存在の根拠となるものである」

「根」の字の旁の「艮」は、もともとは「目+人」でできていたらしい。
「目」は、呪的な目的で聖所などに掲げられている邪眼のこと。
その下に、後ろ向きに退く人の形「ヒ」が書かれている。
「邪眼の呪禁に会って進みがたく、一所に渋滞して巻曲する意がある」
(『字通』、白川静、平凡社)

これが木にではなく、心にあると「恨」ということになる。
多情多恨だからこそ、ということもあるのだろう。
映画は最後に、「風を感じる」ことの爽やかさを、残してくれる。

『WINDSTRUCK』、2004年、韓、クァク・ジェヨン Kwak Jae-yong 監督作品。


11, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『まぼろし』

ロンドンで見逃していた映画。
とてもキビシイ映画だ。

子供のいないマリー(シャーロット・ランプリング Charlotte Rampling)とジャン(ブリュノ・クレメール Bruno Cremer)は、結婚して25年。
一見して、幸せそうな、どこにでもいそうな初老の夫婦だ。
彼らは毎夏を、フランス南西部、ランド地方にある別荘で過ごしていた。

バカンスを楽しむはずだった二人は、海水浴のために海岸に向かう。
マリーがうたた寝をしている間に、ジャンが行方不明となる。
レスキュー隊が捜索するが、それでも彼は見つからなかった。

鬱病に苦しんで薬を飲んでいた夫。
そのことを知らなかったマリーは、ジャンの母親がそれを知っていたことを知り、動揺する。
「私はあの子の母親よ。母と子の絆を軽く見ちゃいけないわ」

マリーはいう。
「施設に入る前に、精神病院に入るべきだったのよ」
負けずに老母が返す言葉、「入るのは、あんたが先よ」

「あなたは軽いのよ」
コトの最中に大声で笑われたあげく、こんなふうにいわれて、凹まない男がいるだろうか。
新しい男友達ヴァンサンを演じるジャック・ノロ(Jacques Nolot)は、小心な男の狼狽ぶりと、男の女への「届かなさ」をよく演じている。

「スイミング・プール」でも、その奇蹟のような美しさを披露したシャーロット・ランプリングだ。
この映画では、その人の「ホントウ」を知ることのなかった彼女が、それでも威厳と風格を失わず、哀しみに耐えて、最愛の人である夫の死を受け入れていく女性を、好演している。

『SOUS LE SABLE』、米題『UNDER THE SAND』、2001年、仏、フランソワ・オゾン Francois Ozon 監督作品。


10, 2005 編集
☆☆☆[film]「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」

楽しんできました。
話をつなぐという意味では、けっこう制約があったと思うけど、この一篇だけでも十分に魅せてくれます。
スカイウォーカーの映画になりましたね。

そのアナキン・スカイウォーカー/ダース・ベイダー役のヘイデン・クリステンセン Hayden Christensen が、成長していましたね。
彼がダークサイドに堕ちていく過程をきっちり描いていたら、あと20分はかかる。
この映画では、それは見切られていて、たぶんそれで正解なんだろうと思う。

それでも「善」の心を残しているアナキン(の涙)。
ダース・ベイダーのマスクが着けられる場面は、なんだかこっちまで苦しくなりそうでした。


08, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『永遠の語らい』

2001年7月、ポルトガルの歴史学者ローザ=マリア(レオノール・シルヴェイラ Leonor Silveira)は、インドのボンベイにいるパイロットの夫に会うために船旅に出る。
一人娘のマリア=ジョアナ(フィリッパ・ド・アルメイダ Filipa de Almeida)が一緒だ。
娘の教育ということもあるが、自身、本で読んでしか知らなかった歴史を実地に確かめるためでもある。

ジョン・マルコヴィッチ(John Malkovich)演じる船長の船は、リスボンのベレンの塔を皮切りに、フランスはマルセイユ、イタリアではナポリ、ベスビオ火山、ポンペイ、ギリシャはアテネのアクロポリスの丘、パルテノン神殿、エレクティオン神殿、円形劇場、トルコでは聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア寺院)、エジプトのピラミッド、スエズ運河、紅海を過ぎてイエメンのアデンへと辿っていく。
それは、まるでヨーロッパの歴史を遡るような旅だ。

その途上で、フランス人起業家のデルフィーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ Catherine Deneuve)、かつてはイタリアの有名なファッションモデルで未亡人のフランチェスカ(ステファニア・サンドレッリ Stefania Sandrelli)、ギリシャ人の女優ヘレナ(イレーネ・パパス Irene Papas)らが、船に乗り込んでくる。
船長を囲んだ彼女たちに、ローザとマリアが加わっての丁々発止の会話は、人生を、愛を、そして女や子供を巡りつつ、フランス語・イタリア語・ギリシャ語・英語・ポルトガル語が飛び交うのだが、誰ひとりお互いのコミュニケーションに不自由を感じていないのだ。

マリアは、船長がアデンで買った人形をプレゼントされる。
しかし片時も離すことのできない宝物になった人形が、彼女たちの運命を大きく変えてしまうのだった…。

人間って、どうして戦争をするの?
マリアの無邪気な質問が、耳に残る。
そしてローザとの旅が、この上なく美しいものだけに、かなり衝撃的で、つらい結末でもある。

監督のテロに対する怒りは、尋常でない。
人間の生命と人類の歴史を冒涜する行為は、断じて許されない、そう描かれているのでもわかる。
映画は、いまやてんでに遠く別れてしまっているかに見える文化や世界が、じつは深くつながっているのだ、ということを説得的に語っている。

オリヴェイラ監督といえば、ヴェンダース監督の『リスボン物語』にも出演していたけれど、『クレーヴの奥方』で、マストロヤンニとドヌーヴの娘キアラ・マストロヤンニ(Chiara Mastroianni)を主演させていたのも、記憶に新しい。

『Um Film Falado』、2003年、葡・仏・伊、マノエル・デ・オリヴェイラ Manoel de Oliveira 監督作品。


07, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『スウィングガールズ』

ジャズを、生で聴きたくなる映画だ。
「ウォーターボーイズ」の矢口史靖監督が、東北の高校を舞台に青春を描く。

夏休みの教室では、数学の補習が行われていた。
野球の応援に行ったブラスバンド部の弁当が遅れ、補習クラスの女子たちは、サボリが目的で弁当運びを申し出る。
だが炎天下の珍道中に、弁当は腐ってしまい、それを食べたブラバンのメンバーたちは、次々と食中毒に。

ただ一人助かった拓雄(平岡祐太)は、即席でも何とかブラスバンドを編成しなくてはならない。
しかし集まったのは、補習サボリが目当ての、友子(上野樹里)たちだった。
拓雄は、人数が少なくても演奏可能な、ビッグバンドジャズをやろうと思いつくのだが…。
映画のなかで演奏される楽曲は、すべて吹替えなしだとか。
出演者なみに懸命にやれば、4ヶ月で、誰でも楽器が演奏できるようになる?
まさか、ねぇ。
でもそれでいうと、映画に出るってことは、とても大きいことなんだなぁ(って、いまさら!)。

平岡祐太がよく頑張っているし、脇役陣も、いい。

2004年、日、矢口史靖監督作品。


06, 2005 編集
☆☆☆[book]『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』,岡田温司,中公新書,2005/1

じつは、先月ブックハンティングの引率をしたときに目について、買った本。
『マレーナ』『マグダレーナ』を観た直後ぐらいだったので、タイトルが目に入りやすかったのかも。
西洋において、最もポピュラーな女性といえば、きっと聖母マリア、エヴァ、そしてその二人の「あいだ」を生きるひと「マグダラのマリア」であろう。
じゃあ、「Maria Maddalena」というキャラは、どこでどんなふうに生まれ育ってきたの?

この本は、福音書からはじめて、17世紀の詩や絵画にいたるまで、かなり網羅的に、西洋の人々が、彼女にいかなる願望や欲望を投影してきたのかをさぐり、その歴史的な変遷をたどっている。
ジョット、ボッティチェッリ(ボッティチェリ)、ティツィアーノ、カニャッチ他、豊富な図像を見ることができるのもうれしい。
彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、グイド・レーニの描いたマグダラのマリアの絵を見て「何と美しいことか、見なければよかったほどだ。まさに天国の絵だ」と叫んだらしい(シャントルー『騎士ベルニーニの一六六五年のフランス旅行記』)。

詩人ジョヴァンニ・バッティスタ・マリーノが見たティツィアーノのマグダラ(の一部)を見てみよう。

懇願と悔悛のそぶりを見せるこの女は、
人里離れた場所で、みずからを深く憂い、
若かりし華の年頃に犯した罪に、
痛ましくも美しく涙している。
主の信奉者にして、愛しき侍女として
歓迎された女の肖像。
かつては、狂った世界に迷い込んでいたが、
その後は、キリストにかくも愛された恋人。
さあ、ご覧なさい、キリストのために彼女がいかに嘆いているか。
そして、淡い四月の光が、その顔をいかに潤しているか、を。
はたまた、かつての心の重荷を下ろして、
謙虚でせつなげな様子で苦悶しているか、を。
垂れ下がる頭髪は、黄金の宝石となって、
アラバスターのような裸身に纏いつく。
その頭髪で結わえられていたのは、かつては他人、今は自分自身、
かつては世間と、今はキリストと結ばれている。そして、彼女は涙し、祈る。
(「ティツィアーノのマッダレーナ」『ラ・ガレリーア』)

ここでは、マグダラのあらゆる側面が、「巧妙かつ雄弁に集約されたかたちで披露」されている、と筆者はいう。
−−神聖なる愛(アガペー)と官能的な愛(エロス)、敬虔と美、苦悶と悦楽、清貧と豪奢、悔悛と虚栄、自然と技芸−−


05, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ゆきゆきて神軍』

反応はよくない。戦後60年が経っている。ひとくちに60年といっても、その年数は、明治維新(1868)から数えるなら、昭和3年(1928)にまで到達する。明治元年(1868)は、たとえば世界文学でいうと、ロートレアモンの「マルドロールの歌」、ドストエフスキー「白痴」などが書かれた年である。翌1869年には、ボードレールが「巴里の憂鬱」を、フローベールが「感情教育」を書き、トルストイは「戦争と平和」を完結させている。

維新60年後の1928年だが、その前年の昭和2年(1927)には、日本では岩波文庫が刊行を開始し、芥川が自殺し、西脇や瀧口らが「馥郁タル火夫ヨ」を創刊、嵐寛寿郎の鞍馬天狗シリーズ第1作「角兵衛獅子」が封切られ、独逸ではハイゼンベルクが「不確定性原理」を唱え、ハイデガーは「存在と時間」を出版。このあいだ紹介したジャン・コクトーの「オルフェ」は、なんと、この年に撮られている。

昭和3年(1928)は、日本で初めて普通選挙が実施され(「普通」とはいいながら、もちろん女性に参政権はない)、張作霖の爆死事件が起こり、蒋介石が国民政府の主席に就任、ノイマンは「ゲーム理論(Theory of Parlor Games)」を発表し、エッシャーは「バベルの塔」を描き、ブニュエルは「アンダルシアの犬」を撮り、ロレンスが「チャタレー夫人の恋人」を書いた年であり、またミッキーマウスの誕生した年でもある。ちなみに、オックスフォード英語辞典(OED)12巻は、第1部出版から44年間にわたる編集作業の継続の末に、この年にやっと結実している。

かなり「ゆきゆきて」しまったが、何を言いたかったかというと、1945年の60年前(明治18年硯友社創立、OEDの第1部出版がその前年の1884年)を考えてみるまでもなく、「敗戦は遠くなりにけり」ということである。戦争の犠牲者の「象徴」ともいえる奥崎謙三自身が、すでに亡くなってしまった。

奥崎は、結果として全体によいものをもたらすのなら、個人の暴力はよし、とした。彼の暴力を受けた山田さんは、しかし警察を呼ぶことはしなかった(奥崎自身の電話によって結局は来たのだが)。その山田伍長は、ニューギニアの戦線でギリギリの状態にあったときに、人並み以上に勘がよかった(地形や水の有無を察知できた)せいで、彼を殺してしまえという兵士も実はいたけれど、救ってやろうという仲間もいたので、なんとか助かった(仲間に殺されて、食べられることなく、生き残れた)のだといっていた。

山田さんが苦しんで吐き出すようにいう言葉を、自分の信念のコトバに置き換えてしまおうとする奥崎謙三の暴力は、(その結果が、全体にとって、必ずよいものをもたらすと、確実に推定しうる根拠がありえない以上)殴る蹴るといった暴力と同様に、決して許されるものではない。僕はそう思うし、原一男監督も、奥崎謙三を相対化しうる存在として、山田さんをこの映画に残しているのだと、僕は思っている。ただ、戦後60年経った今も、そして奥崎謙三が亡くなってしまった今も、彼のいう「責任をきちんととってないじゃないか」という言葉は、相当に重いし、重く受けとめるべきだと思う。

☆☆☆[DVD]『dot the i』

カルメン(ナタリア・ベルベーケ Natalia Verbeke)は、マドリード出身だが、今はイギリスはロンドンで暮らす。
彼女は、リッチマンのバーナビー(ジェームズ・ダーシー James D'Arcy)と結婚することに決めた。
女友達だけの独身最後のディナーパーティ。

カルメンは、そこで相席になったキット(ガエル・ガルシア・ベルナル Gael Garcia Bernal)とディープなキスを交わしてしまう。
バーナビーを捨てたくはない、でも…。
運命の男キットとの間で心が揺れ動くカルメン。

彼女を追いかけるレンズがあった。
マドリード時代の男から受けた暴力。
彼女をつけているのはその元カレ?
いや、意外な人物が、すべてを仕掛けていた…。

「ドット・ジ・アイ 」は、「Dot the i's and cross the t's.」のこと。
「i」には点を打つ、「t」には横棒を引く、これを忘れないように、という意味らしい。
つまり「いやが上にも慎重に、最後まで気を抜くな」ということ。
だからこの映画、最後の最後まで目を離しちゃあダメですよ。

『モーターサイクル・ダイアリーズ』のガエル・ガルシア・ベルナルは、メキシコ出身。
かなり小柄な男優だが、独特の甘い雰囲気をもっている。

誰がどこから見ているか、それが問題だ。
公式ページはこちら http://www.dot-the-i.jp/

『dot the i』、2003年、英・スペイン、マシュー・パークヒル Matthew Parkhill 監督作品。


04, 2005 編集
■[DVD]☆☆☆『モーターサイクル・ダイアリーズ』

さわやかな青春を描くロードムービー。

ブエノスアイレスの医学生だったチェ・ゲバラ。
エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(ガエル・ガルシア・ベルナル Gael Garcia Bernal)は、年上の友人アルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ Rodrigo De la Serna 彼は、チェ・ゲバラの「はとこ」だそうだ)とバイク(ポデローサ=怪力号)で南米を縦断する旅に出る。

マチュピチュ、アンデス、アマゾン。
アルゼンチンはブエノスアイレスからチリ、ペルーを経てベネズエラはカラカスまで、6か月1万kmの珍道中。
ふたりは、バイクの故障にもめげず、旅をつづけ、ついにハンセン氏病患者たちと心から触れ合う。

不屈の闘志をもった一人の青年。
彼の未来を変えた旅が、ここに蘇る!
伝説の革命家は、こんなにも人間味と情熱にあふれていたのだった。

「南米の国境に意味なんてないさ。僕らはみんな、一つの南米大陸人なんだ。」

『THE MOTORCYCLE DIARIES』、2003年、英・米、ウォルター・サレス Walter Salles 監督作品。


03, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『サテリコン』

まさに、圧巻。
チネチッタで、やはり監督はこれを撮ったようだ。

紀元前のローマ時代?の青年の彷徨記?
神話のようでもあり、寓話のようでもある。
一大絵巻物であり、また一炊の夢でもある。

飽食、同性愛、カニバリズム。
何でもありの世界を、学生エンコルピオ(マーティン・ポッター Martin Potter)が、愛人の美少年を追いつつ、友だちと共に経験する数奇な運命。
あらすじなんて、紹介できそうにない。

この映画、映像が、そのまんま音楽!
ルイジ・スカッチアノスの美術だけでも、必見の映画でしょう。

『FELLINI-SATYRICON』、1969年、伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


02, 2005 編集
☆☆☆[video]『フェリーニのアマルコルド』

このあいだ紹介した『マレーナ』の、映画的「故郷」の一つでもあるだろう。
「アマルコルド」とは、「私は覚えている」という意味だそうだ。

北イタリアの小さな港町リミニ。
町中に、(マニーネと呼ぶ)たくさんの綿毛が飛んで、春を告げる。
ムッソリーニ率いるファシストたちが跋扈する時代だ。

少年チッタ(ブルーノ・ザニン Bruno Zanin)とその家族を中心に、様々な挿話をはさみこんだ映画。
町一番の美女グラディスカ(マガリ・ノエル Magali Noel)は、町中の男たちの視線を集めているが、彼女自身はゲイリー・クーパーにゾッコン。
30歳を越えた彼女にとって、チッタはほんの子供だが、少年のほうは彼女に夢中なのだ。

万事に怒りっぽい職人あがりの父は、しかしファシズムを嫌っていて、そのために拷問を受ける。
この父に連れ添い、気が狂いそうになりながらも、夫や子供を愛している、健気な母。
お尻を振ってオナラをし、一瞬のスキをついて、母のお尻を触る祖父。
ファスナーも開けずに用を足し、木のうえに登って大声を上げる叔父。

そういう家族に囲まれて、少年はまた彼自身の悩みに悶々とする毎日だ。
そしてチッタは、ついにたばこ屋の巨女に胸を押しつけられる。

巨大客船レックス号を船で迎えるシーン(セットみえみえでも、なんだかウレシイ)。
そして霧の、白い牛が出てくる幻想的な場面。

降り続く雪によって広場にできた迷路。
チッタとグラディスカのすれ違い。
チッタの母(プペラ・マッジオ Pupella Maggio)の死。

フィナーレは、海岸近く、屋外でのグラディスカの結婚披露パーティ。
この宴の終わりに近く、やはりフェリーニ的な驟雨が、慈雨のように人々を濡らす。
集まった面々が一人二人と去っていく。

グラディスカたちの車も去ってしまった。
再び綿毛が舞い散る季節だ。
少年たちの声が聞こえる「海岸に行ってみよう!」

『AMARCORD』、1974年、伊・仏、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。

☆☆☆[book]『僕が批評家になったわけ ことばのために』、加藤典洋、岩波書店、2005/05

批評って、ナニ?
これは、とっても難しい問題だ。
自分で考える、自分だけで考える。
それだと、本当には他者には出会えないのだろうか?

「師」をもたない「独学者」であっても、自分の殻をうち破って、外の世界に出ていけるのだろうか?
できるはずだ、と筆者は書く。

たとえば、筆者は小説を読み、批評を読むが、そこでの「テクストからの呼びかけ」により、自分の既知の世界の外に踏み出ていくことが可能だと思っている。それが「テクスト」の力であり、「文学」の力だろうと思っている。p218

では、筆者の考える批評とは、どういうものか。

誰もがどこからでも、何の予備知識なしにも、誤った先入観に立ってでも、そこに参加し、もし何も知らなければそのことを思い知らされ、もし誤っているならその誤りに気づかされる、そういう自由参加の、どこからもはじめられる言語のゲーム p219

それが批評だ、ということになる。

ものを考えるとき、人は息をつめる。しかし息をつめ続けていたら死んでしまう。ものを考えるのは、リラックスしていることとの往還なのだ。p246

批評は、それに携わる者を「永遠の初心者」たらしめる。
しかしそれは、〈世間知らず〉という意味ではない。
「批評と作品と両者を乗せる台としての世間の三者がらみのダイナミクスの謎」。
書かれたものが評価されるのは、「世間」においてであって、けっして「世界」においてではない。

したがって、頭で考えられただけの善意、純粋な徳義心で書かれた小説がほとんどの場合、面白くない駄作に終わるのは、その善意、善、徳義心が、書かれる過程で、いわば作者の具体的な個人性に試されず、地上性の原理に基づく「世間」の風にさらされないまま、書き終えられるからだということがわかる。p228

「世間の基準を破壊する」こと、「世評を更新し変革し自分に従える」こと、それらによってのみ、「世評からの評価を受け続ける」ことができる。
それを実践し得た作家として、筆者は、大江健三郎、中上健次を例に挙げている。

あることばが、何か心にとどまる、すぐれている、と感じられるとき、起こっていることは、よく考えてみるなら、そういうことである。何かが中空に浮かび、とどまる。知識の量、頭脳の明晰さ、着眼の面白さに還元されないものが、そこにある。すぐれた批評に接したと感じるとき、私たちは、他なる思考の泳者がたしかに私たちのなかの世間にしっかりとタッチして、私たちをその世間的思考から彼岸まで連れて行き、さらに私たちのなかの世界にタッチした後、もう一度、世間の場所に連れ帰るのを、感じているのである。p242

頭上には「世界」があり、地上には「世間」がある。
きっと「地下室」もあるのだろうが、大切なのは、「一階の視点を手放さないこと」だ。
これが腑に落ちるひとなら、批評の極意として示された次の比喩も、スッとわかるはずである。

二階に上り、地下にくだり、しかも一階の感覚を失わないこと。
逆もいえる。
一階にとどまり、のほほんと机の前に身をおき、しかも、二階の感覚、地下の感覚を、失わずにいること。p247

01, 2005 編集
■[inf]「第30回 読書感想文コンクール」

情報メディア教育センター運営委員会主催の読書感想文コンクールでは、以下の本が推薦されました(推薦者名は省略)。

森鴎外『舞姫』『雁』『山椒大夫』『高瀬舟』『阿部一族』『安井夫人』『大塩平八郎』『堺事件』等[イメージ省略]
夏目漱石『三四郎』『それから』『こころ』[イメージ省略]
中原中也の詩
『平家物語』[イメージ省略]
『ブラウン神父の童心』(G.K.チャスタトン)
『ガラスのうさぎ』(高木敏子)
『顔がたり ユニークフェイスな人々に流れる時間』(石井政之)
『父と暮らせば』(井上ひさし)
『村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩)
『天国の五人』(ミッチ・アルボム)
『アフガニスタンに住む彼女からあなたへ―望まれる国際協力の形』(山本敏晴)
『マクリーンの川』(ノーマン・マクリーン)
『憲法読本』(杉原泰雄)
『外国語上達法』(千野栄一)[イメージなし]
『ぼくらはガリレオ』(板倉聖宣)[イメージなし]
『日本のモノづくりはいつの時代も世界のお手本なんです』(赤池学)
『「暗号解読」入門―歴史と人物からその謎を読み解く』(高川敏雄)