2005/8

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August 31, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『恋に落ちる確率』

運命の女性に出会ってしまったら、男はどうする?
恋人は、いる。
だが、アレレ、世界が、変わってしまう。

デンマーク、コペンハーゲン(こんなに美しい街だったとは!)、ノーアポート駅。
カメラマンのアレックス(ニコライ・リー・カース Nikolaj Lie Kaas)は、父親から逃げ、恋人のシモーネ(マリア・ボネヴィー Maria Bonnevie)と落ち合う。
小説家の妻アイメ(マリア・ボネヴィー Maria Bonnevie 二役)は、仕事に忙しい夫をよそに、ひとり夜の街を彷徨う。

出会ってしまうふたり。
シモーネを電車に置き去りにして、アイメを追うアレックス。
恋に落ちたふたりは、そのまま一夜をともにする。

しかし翌朝、アレックスがフラットに戻ってみると、最上階にあるはずの、部屋がなくなっていた。
そして管理人も、友人も、同棲していたシモーネさえも、彼のことを、見覚えのない他人とみなすのだった。
やり直しは、できるのか?

一瞬の逡巡、未練が、疑いが、未来を永遠に閉じる。
And life goes on.
哀しいことだが、というよりも、たんに、それでも別の未来は、ある、というか、あってしまうのだ。

音楽もいいが、「ナイト・アンド・デイ」(コール・ポーター/「五線譜のラブ・レター」)は、なかなかハマっている(キザすぎる?)。
特典映像にある、ちょっと自意識過剰気味の監督の、「砂場の話」を、おもしろく聞いた。

『RECONSTRUCTION』、2003年、デンマーク、クリストファー・ボー Christoffer Boe 監督作品。


August 30, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ニュースの天才』

なんという偶然。
今朝の朝日新聞の一面に、記事捏造の事件が出ているではないか。
どうやら、この映画ほど複雑なテクニックを駆使したものではなく、すぐにもバレるようなウソである。

ウソを書かれた田中康夫長野県知事は、「彼とは信頼関係ができていたのに、複雑な気持ち」とかの談話を残していた。
(関係ない話だけど、ヤスオちゃん、新党を旗揚げして、知事と兼務とかなんとかいって、ペローンと国政の舞台に出てきちゃったけど、さすがに抜け目がない。いずれ首相になるための、ここが打って出るチャンスと見たんだろうな。)

記者には、何らかの政治的意図があった?
本人は懲戒免職、担当編集局長は更迭だとか。

素早い処分も大切だろうけど、なんで記者はそんなウソを書いたか、のほうも気になるところである。
キチンと原因を究明してほしい。
さて、映画である。

大統領専用機にただ一つ用意されているという権威ある雑誌「THE NEW REPUBLIC」。
そこに勤務するやり手で最年少のジャーナリストの最高に面白い記事が、実はでっち上げだった。
数年前(1998年)に、アメリカのマスコミ界を騒がせた記事捏造事件を再現。

当たり前だが、たんなる勧善懲悪もの、ではない。
僕は、個人的には記事の捏造の技術的な部分に興味があった。
書かれたものが、どこを境にして虚構へと離陸することになるのか、それが今の僕の関心だからだ。

映画は、気さくで誰にも好かれていた彼が、なぜこうしたウソを書いてしまったのか、どうして編集部のチェックシステムをかいくぐることができたのか、また虚偽の発覚を恐れた彼は、どんな方法でゴマカシ続けようとしたのか、が中心に描かれている。

もちろん、周囲の人間も、思いは複雑だ。
面白い記事を書きたい/読みたいという、彼ら同僚の期待こそが、青年記者スティーヴン(ヘイデン・クリステンセン Hayden Christensen 優秀で人のよい人物の精神的な脆さを、よく演じている)のサービス精神を焚きつけた、かも知れないからである。
ジャーナリストとしての倫理が、とりあえず守られるかたちで映画は終わっている。

しかし、グラスはほんとうに閉じられたのだろうか?
この点については、スティーブン・グラス本人が出てくる特典映像が、面白い。
なにせ、彼は自分で「THE FABULIST(デッチあげ屋)」なんていうタイトルの暴露本まで書いて出版しているだけでなく、ロー・スクールをきっちり出て、現在は弁護士をめざしているんだとか。

物わかりがよくて部下をかばってくれる元の上司マイケル役のハンク・アザリア(Hank Azaria)、スティーヴンの彼女ケイトリン役のクロエ・セヴィニー(Chloe Sevigny)、
新しい編集長チャック役のピーター・サースガード(Peter Sarsgaard)の熱演が、印象に残る。

『SHATTERED GLASS』、2003年、米、ビリー・レイ Billy Ray 監督作品。


August 29, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『シルヴィア』

ふたつの才能は、ひとつの家には、おさまりきらなかった。
でも、見ている僕らは、美しい言葉の数々を、シャワーのように浴びることができる。
それらは、ときには銃弾のように飛び交うし、爆弾のように落ちてきたりもするのだけれど。

その死後に、ピュリッツァー賞を受賞した作家シルヴィア・プラスと桂冠詩人テッド・ヒューズ。
フルブライト留学生としてアメリカからケムブリッジにきていたシルヴィアは、大学院生のテッドと知り合う。
ふたりにとって、互いの才能を認め合うことは、恋に落ちることであり、結婚することであった。

まもなくテッドの作品は、賞を受け、評価もされていく。
ボストンからロンドン、そしてデヴォンへ。
しかしシルヴィアは、思うように詩が書けない。
裕福な家庭に育ち、幼い頃から神童と呼ばれた彼女には、しかし自殺未遂の暗い過去があった。

9歳で死別した生物学者だった父、そしてテッドに対する複雑な思い。
家事や育児が、孤独や疲労が、いや、シルヴィアの嫉妬や妄想こそが、テッドを浮気に走らせたのか。
やがて日常が、シルヴィアの影を、元に戻せないほど削り取っていき…。

公式ページにあったけど、やっぱり、
Life was too small to contain her.
だったのかな。

テッドの浮気相手となった人妻アッシアも、壮絶な死に方をしている。
彼女も、シルヴィアの死後、テッドとの間にできた子供を殺して、自殺したそうだ。
シルヴィアをグウィネス・パルトロー(Gwyneth Paltrow )、テッドをダニエル・クレイグ(Daniel Craig)が、それぞれ熱演している。

衣装デザイナー、サンディ・パウエル(『エデンより彼方へ』『恋に落ちたシャイクスピア』)による、グウィネス・パルトローのレディ・ライクなファッションや、彼女の髪型の変化を追うだけでも、十分に見応えのある映画でした。

『SYLVIA』、2003年、英、クリスティン・ジェフズ Christine Jeffs 監督作品。


August 27, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ステップ・イントゥ・リキッド』

とにかく、気分爽快!
これが、イチバン安易な、残暑の乗り越えかた、かな。
サーフィンの醍醐味を伝えてくれるドキュメンタリー。
監督は、「エンドレスサマー」の監督ブルース・ブラウンを父に持つデイナ・ブラウン。
映画は、波を愛し、波乗りを楽しむ男や女たちを紹介しながら、世界中のサーフ・ポイントを訪ねていく。

ハワイ、カリフォルニア、オーストラリア、タヒチはもちろん、ウィスコンシン州シェボイガン(ミシガン湖)、テキサス、ヴェトナムやコスタリカ、イースター島、アイルランドまで。
子供から老人までが、20数年間一日も休まずに海に入っている人も、30年ぶりに息子と一緒にかつての帰還兵が、あるいは下半身の自由を失ったひとだって、それぞれにそれぞれの、サーフィンを楽しんでいる。
湖で、砂の上で、貨物船のつくる波で、あるいは160qも沖合に出た海での18メートルを超える怪物波にトウ・インで(コルテス・バンク)、サーフする女/男たち。

自然とふれあうことの愉しさだけでなく、自然の恐ろしさも十分に伝わる。
でも映画は、へんに精神的だったり、神秘的だったり、宗教的だったりしない。
だから自然の崇高さというよりは、あくまでも、人間の健やかさ。

伝説のサーファーたちも、数多く出演しているが、なかでもジェリー・ロペス Gerry Lopez は、もうヒゲも剃ってマシュマロ・ヘアーでもなかったけれど、それでもグッと来ちゃいました。
ちょっとした(場合によっては、死をも覚悟した)勇気をもつこと、続けること、楽しむこと。
なーんだ、これって、サーフィンに限らないじゃないか。

『STEP INTO LIQUID』、2003年、米、デイナ・ブラウン Dana Brown 監督作品。


August 25, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『アドルフの画集』

戦争体験を共有した、ふたりの男たちの物語。
原題のタイトルロールであるマックス・ロスマン(ジョン・キューザック John Cusack)は、架空のユダヤ人画商。
裕福な家の生まれで、かつては自ら画家をめざしたこともあるが、従軍し、戦争で右手を失った。
もうひとりは、アドルフ・ヒトラー(ノア・テイラー Noah Taylor)と名乗る画家志望の復員兵。

1918年、ミュンヘンでは、第一次世界大戦の敗戦の傷跡が、まだ生々しい。
アドルフは、戦争で故郷も、両親も、婚約者も失った。
マックスと出会った彼は、軍服を捨て、画家になろうとして自分の絵を見せる。

マックスは「君の肉声が聞こえてこない」と正直な批評をし、アドルフは「自分に唯一残されたもの(自分は偉大な画家・建築家であるという確信)を奪われた」と応える。
ここから、ふたりの微妙な関係が始まる。
マックスはアドルフを一人前の画家にしようと励まし、しかしアドルフは絵が描けない。

生活に困ったアドルフは、陸軍の宣伝のための雇われ演説家として糊口をしのぎ、「政治こそが新しい芸術なのだ」と、その際立った弁舌の才能を開花させていく。
だが芸術家としての自分に未練がある彼は、マックスにアドヴァイスや資金の援助を受けると、やはりアートこそが自己実現の道だと、思い直す。
それでも、いっこうに絵が描けないアドルフは、半狂乱になりながら、「芸術か政治か、その統合が権力である」とノートに書きつけるのだった…。

意外な、ある意味では呆気ない結末は、ここではふれないことにしよう。
映画は、芸術が個人を、世界を、変えることができるのだろうか、と問いかける。
そして他者からの、いや自身のうちにも潜んでいる、暴力に対抗できるのだろうか、と。

自分の道を見つけきれていないヒトラーは、まだまだ、か弱さを残している。
ヒトラーの生臭いまでの肉声が、存在そのものが、まるごと伝わってくる映画「ヒトラー 最期の12日間」を見たばかりなので、英語で演説をするヒトラーには、どうしても違和を感じる。
ヒトラーの演説は、ドイツ語以外にありえない、と改めて思った。

ラホス・コルタイ(Lajos Koltai 『海の上のピアニスト』『マレーナ』)撮影の、映像が美しい。
鉄工所の廃屋を利用したマックスの画廊に、もう一人のマックス(マックス・エルンスト)をはじめとする、のちにヒトラーが頽廃芸術と決めつけて葬り去ろうとする作品が並んでいるのも面白かった。
そして美術担当のベン・ヴァン・オズ(Ben Van Os 『真珠の耳飾りの少女』)の仕事が、ここでもやはり素晴らしい。

『MAX』、2002年、ハンガリー・加・英、メノ・メイエス Menno Meyjes 監督作品。


August 24, 2005 編集
☆☆☆[film]『ヒトラー 〜最期の12日間〜』

映画館に着いてみると、午後1時の分は、すでに満席。
迷ったけれど、遅くはなれないので、立ち見席の券を買って、通路に座って見た。
2時間半を超える上演時間は、しかしアッという間だった。

いよいよ市街戦に突入し、地獄絵図と化したベルリン。
地下要塞を脱出し、戦後を生き延びたヒトラーの秘書がいた。
彼女トラウドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ Alexandra Maria Lara とてもきれいな女優さんです)の目を通してみた、ヒトラー(ブルーノ・ガンツ Bruno Ganz)とその最期。

だからヒトラーが、いちおう中心ではあるけれど、それよりも、第三帝国の滅亡を迎えての、ヒトラー周辺の人物たちの生き様、死に様が、よく描かれていたと思う。
ちょうどドイツに関係した本を読んだあとだったこともあって、ヒトラーにだけ責任を負わせるのではない部分を、どう描いているのか、興味があった。

そこは、やはり取り入れてあったけれど、市民が中心には描かれていないので、ヒトラーやゲッベルス(ウルリッヒ・マッテス Ulrich Matthes)の吐く言葉(国民には同情しない、彼らが私たちを選択したのだから、自業自得である、のような)として出てくる部分が目立った。
こうなると、受け取り方次第になる。

逃げている、というより、うまいというべきか。
いずれにせよ、ドイツだからこそ可能になった映画だと思う。

ヒトラーの描き方も、優しさと狂気を併せもつというような、そんなありがちなものには留まっていない。
冷静な判断力を失った、孤独で哀れで惨めな、「要するに彼もひとりの人間だった」ではすまされないものが(頂上を極めた者の、まさにDOWNFALLとでもいうしかないものが、といってみても、うまく言えてる気がしないけど)、顔の表情だけでなく、身体全体、身のこなしに、顕れている気がした(ガンツ恐るべし)。

ヒトラーが、それでもやはりニンゲンだったから、こういう映画も可能なわけで、カミだったり、ショウチョウだったりする存在だったら、こうはいかないだろう。
ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウン(ユリアーネ・ケーラー Juliane Koehler)の描かれ方も、人間味があって、おもしろかった。

全世界を巻き込んだ、ひとつの「理想」の終焉が、社会にもたらす悲惨。
にもかかわらず、ちっぽけな個人には、生きなければならない現在があり、開かれた未来があってしまう。
終わり方も、よかったと思う。

IMDBの記事によると、ガンツはヒトラーのパーキンソン病を演技するために、スイスの病院で学んだそうな。

公式ページはこちら
http://www.hitler-movie.jp/

『DER UNTERGANG』、2004年、独、オリヴァー・ヒルシュビーゲル Oliver Hirschbiegel 監督作品。


August 23, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『パッチギ』

前半は、ちょっともたついているな、という印象であったが、結局、泣かされた。
公園での、ギターとフルートによる「コンサート」から、ぐっとよくなる。
そして後半、クライマックスの盛り上げにつないでいくのはさすがに、上手い。

60年代の京都を舞台に、日本の、また在日朝鮮の、高校生の青春を描く映画。
もうほとんど社会派作品にでもなりそうな、娯楽劇である。
朝鮮分断の悲しみを歌う『イムジン河』が、それこそ蕩々と流れる。

ザ・フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』『あの素晴らしい愛をもう一度』が、泣かせてくれる。
パッチギとは、ハングル語で「突き破る」とか「乗り越える」というような意味があるそうだ。
僕らは、たんに「頭突き」という意味で、パチキと呼んでいたけど。

1968年、京都の高校2年生松山康介(塩谷瞬)は、隣にあって争いの絶えない朝鮮高校へ、親善サッカーの試合を申し込みに行くことになる。
彼は、そこで音楽室でフルートを吹く女生徒リ・キョンジャ(沢尻エリカ)にゾッコンとなる。
しかし彼女の兄は、ヤクザでさえ一目置く朝鮮高の番長アンソン(高岡蒼佑)だった。
康介は、それでもキョンジャに一歩でも近づこうと、ギターで『イムジン河』を練習するのだった…。

沢尻エリカが、もちろん可愛いのだけれど、この映画ではちょい役の、坂崎役のオダギリ・ジョーが、なんかふッと肩の力の抜けた、いい感じをもった役者だな、とあらためて思った。

2004年、日、井筒和幸監督作品。


August 22, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ぼくの瞳の光』

浮遊感というのか、透明感というのか、人間がつながり合うことの難しさを、画面は映し出している。
孤絶し、孤独でいる人間同士の、微かなふれあい。
でも、こんな粘り勝ちの勝利が、あってもいいのでは。

アントニオ(ルイジ・ロ・カーショ  Luigi Lo Cascio)は、勤勉で実直なハイヤー運転手。
頼まれたお客を、ある場所からある場所へと移すのが仕事だが、その間、彼はお客を気持ちよく過ごさせる術を心得ている。
話すべきときと、黙っているべきときの、タイミングを心得ているのだ。

アントニオは、待ち時間にSF小説を読む(これがうまく、映画とカブる)。
ある夜、歩道から飛び出してきたリーザ(バルバラ・ヴァレンテ Barbara Valente)を轢きそうになったアントニオは、彼女の母マリア(サンドラ・チェッカレッリ Sandra Ceccarelli)を知り、惹かれてしまう。
マリアは、一人で冷凍食品店を経営し、娘を育てていた。

アントニオは、この母娘を、それとなく助けようとする。
サヴェーリオ(シルヴィオ・オルランド Silivio Orlando)という男に対するマリアの借金を肩代わりしようとして、彼の運転手を買って出る。
しかしマリアは、借金の返済と、うまくいきそうにない男との関係に没頭していて、肝心のリーザともゆっくりと心を通わせる余裕がない。

アントニオは、次第にサヴェーリオがやっている仕事の実態がつかめてくる。
狭い部屋に押し込められた外国人労働者は、しかし搾取するサヴェーリオに怯えながらも、彼を頼りにするのだった。

アントニオはハイヤー会社を解雇され、マリアはリーザの事故と彼女の証言から、彼女を祖父母に引き渡すハメになる。
必死の思いで守っていた一人娘を手放さねばならなくなって、はじめて、マリアはアントニオの優しさを理解し、それを受け入れる準備ができたのだった。

アントニオの上司役のトニ・ベルトレッリ(Toni Bertorelli)が、いい味を出している。

『LUCE DEI MIEI OCCHI』、英題『LIGHT OF MY EYES』、2001年、伊、ジュゼッペ・ピッチョーニ Giuseppe Piccioni 監督作品。


August 21, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ペッピーノの百歩』

30歳の若さで、マフィアに暗殺された実在の青年が、主人公。
イタリアの社会派監督が、たんなる悲劇に終わらせない迫力で描いた佳作。
「A Whiter Shade of Pale」や、ジャニス・ジョップリンの「Summertime」など、使われている音楽も映像にマッチしていて、いい。

マフィアが支配するシチリアのチニシという街に生まれたペッピーノ。
彼の家から、わずか百歩のところに、マフィアのボスであるターノの家はあった。
ペッピーノの父ルイジ(ルイジ・マリア・ブッルアーノ Luigi Maria Burruano)は、ターノに仕事を回してもらっていた。

1960年代、青年となったペッピーノ・インパスタート(ルイジ・ロ・カーショ Luigi Lo Cascio)は、ヨーロッパ中の若者たちが伝統的価値観に反旗を翻す行動に共鳴し、仲間たちとともに新聞を発行し、ついにはラジオ局まで開設して、マフィアを糾弾し続ける。
父親は息子の安全を心配し、思いとどまらせようとするが、ペッピーノは挫けない。
母親と弟は、ペッピーノを支え続けるが、マフィアにとっては、もはや放ってはおけない存在になってしまっていた。

友人がいう。
「お前の主張は正しい でも独断は…
ラジオを占拠しちゃまずいよ ラジオは−−皆のものだ」

ペッピーノが応える。
「時には声を張り上げなきゃ」

再び友人。
「ダメだ 張り上げた声には 苦しみが表れる
それじゃ心は−−伝わらないぜ」

和解しようとした矢先だった。
父親が何者かに殺されてしまう。
ペッピーノは、ついに議員に立候補することを決心する。
しかし最後の選挙集会の直前に、ペッピーノは粉微塵に爆破された死体となって発見される。

チニシは、マフィアなしでは経済が成り立たない、シチリアの小さな町だった。
1978年、5月9日のことである。
警察は、自殺と判断する。
そして、ターノが殺人事件の主犯として起訴されたのは、それから19年も後の、1997年のことだった。

『I CENTO PASSI』、英題『THE HUNDRED STEPS』、2000年、伊、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ Marco Tullio Giordana 監督作品。


August 20, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『風の痛み』

イタリア語が聞こえてくると思っていたら、違った。
「ベニスで恋して」(未見)のシルヴィオ・ソルディーニ監督。
原作は、『悪童日記』三部作(←これはマスト!)で知られるアゴタ・クリストフの『昨日』。

母は、娼婦だった。
彼女には特別な客がいた。
未婚のままトビアシュを産んだ。

母の特別な客は、トビアシュの父親で、小学校の教師だった。
父は、貧しい少年の将来を考え、彼を母親から引き離そうとする。
15歳になったトビアシュは、父の背中を刃物で刺し、隣国へと逃亡する。

スイスの時計工場で働く、単純で貧しい生活。
青年になり、作家を夢見るトビアシュ(イヴァン・フラネク Ivan Franeck)は、フランス語で日記をつけている。
愛のない関係だが、週末に同衾する女友達もいた。

しかし彼の心の支えは、理想の女性リーヌだった。
彼女は、トビアシュが入学した小学校で隣り合わせになった少女で、異母妹だった。
ある日、彼は小さな子供を抱いているリーヌ(バルバラ・ルクソヴァ Barbara Lukesova)を目撃する。

彼女は、トビアシュと同じ工場で働いていた。
彼はリーヌの後をつけ、夫のいる彼女の生活の一部始終を知ろうとするのだった…。

忘れたい過去、運命の女性、許されぬ恋。
東欧の村、スイスの町が美しい。
最後に、イタリア語が聞こえ、イタリアの海が写る。

だから、これも海で終わる映画ではある。
そして、どんなものなのかはとりあえず、明日へと、つながっている映画だ。
3人のこれからの生活は? そしてトビアシュは、何語で小説を書くことになるのだろうか?

『BRUCIO NEL VENTO』、英題『BURNING IN THE WIND』、2001年、伊・瑞、シルヴィオ・ソルディーニ Silvio Soldini 監督作品。


August 19, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ビハインド・ザ・サン』

これも、海に出て終わる傑作映画の一つ。
木の枝に吊したブランコをこぐシーンが美しい。
道を教えた礼に絵本をくれた馬車の女は、夜のサーカスで火を吹く大道芸人だった。

仇討ち、狩る者と狩られる者が走る、走る。
ブッシュの中を、男2人が、逃げて追いかけて、まさに疾走する。
空が、雲が、月が、苦しいほどに美しい。

空から降りてきたかのような太いロープによじ登る女、女に頼まれてロープを回す男、ロープに垂直に躯を伸ばして女は回転し続ける。
そして空、雲、雨が、やはり哀しいくらいに美しい。

土地をめぐって代々争う2つの家族。
流された血の分だけを、きっちりと復讐しあう。
果てしのない報復合戦。

監督は、「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリー」のウォルター・サレス。
アルバニアを舞台にした小説『砕かれた四月』(イスマイル・カダレ)が原案。

1910年のブラジル。
見るからに痩せた土地だ。
ブレヴィス一家4人は、サトウキビの栽培で、ぎりぎりの生活を営んでいる。

敵対しているフェレイラ家は、大家族。
奪った土地で牧畜業を営んでいる。
長男をフェレイラ家に殺されたブレヴィス家は、報復として、次男トーニョ(ロドリゴ・サントロ Rodrigo Santoro)を刺客に放つ。

フェレイラ家の家長を銃殺したトーニョは、今度は自分が狙われる番となる。
そんなある時、彼はサーカスの少女クララ(フラヴィア・マルコ・アントニオ Flavia Marco Antonio)と出会い、彼女に夢中になる。
そして、パクーという名前をもらった弟(ラヴィ・ラモス・ラセルダ Ravi Ramos Lacerda)は、自分を解放してくれる女神のように、クララを人魚としてあがめ、仕事そっちのけで、お話作りに熱中するのだった。

パクーは、トーニョに告げる。
家を出たら? と。
まるで、自分が望んでかなわないことを、代わりにかなえてほしい、とでもいうかのように…。

『ABRIL DESPEDACADO』、英題『BEHIND THE SUN』、2001年、ブラジル、ウォルター・サレス Walter Salles 監督作品。


August 18, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『デッドマン』

久しぶりの再見。
It is preferable not to travel with a dead man.
アンリ・ミショー(Henri Michaux)の言葉で、この映画は始まる。
『ナイト・オン・ザ・プラネット』のJ・ジャームッシュ監督。

同じモノクロでも『ストレンジャー・ザン・パラダイス』では、荒くざらついた感じにして、「風」をうまく表現していたけれど、『デッドマン』の画面は、しっとりとしていて透明感があり、その場の「空気」まで写そうとしているかのようだ。
そして、浮かんでは消えるような、短いカットを積み重ねて、独自の詩的な世界を構築していく手際は、何度観ても見事。

19世紀後半の西部にある鉄道路線の終着駅、マシーンという名の町まで、はるばる訪ねてきた会計士、その名もウィリアム・ブレイク(ジョニー・デップ Johnny Depp)。
しかし就職の内定をもらっていたディキンソン社には、すでに雇用された先人がいた。

先のなくなったブレイクは、酒場で花売り娘を助け、そのまま同衾に及ぶが、彼女の部屋にやってきた元カレと撃ち合いになり、たまたま相手を撃ち倒すが、彼女と一緒に自分も胸を撃たれる。
その元カレは、ディキンソン社長(ロバート・ミッチャム Robert Mitchum)の息子で、ブレイクは、娘の殺人罪まで背負い込んで、殺し屋に追われる賞金首の身となる。

森に逃げ込んだブレイクは、英国で教育を受けるなど、数奇な経験を経てきた1人のネイティヴ・アメリカン、ノー・バディ(だから、ウィリアム・ブレイクの詩が暗誦できたりする)に助けられる。
胸に銃弾を抱えたデッドマンと、本当は「おしゃべり」という名をもつ異世界の住人ノー・バディとの不思議な道行き。
死に近づいて、敵にはますます鋭敏・敏捷になり、見事な殺しを重ねていくブレイク。

ノー・バディは、どうやら最初からすべてを見通していて、ブレイクを彼にふさわしく葬送すべく、海に出る舟を用意するのだった…。

傍若無人のロバート・ミッチャムの、しかし甘くとろけるような喋り、ランス・ヘンリクセン(Lance Henriksen)の非情ぶり、その他たくさんの脇役陣が、なんともゴージャス。
ニール・ヤング(Neil Young)の、即興で演奏したという音楽も、なかなかにいい。
海に出て終わる映画の、傑作のひとつである。

『DEAD MAN』、1995年、米、ジム・ジャームッシュ Jim Jarmusch 監督作品。


August 17, 2005 編集
☆☆☆[book]『風』、一海知義、三省堂、1996/10

風という漢字のなかには、虫がいる。
この虫は、蟲の略字? え?蝮(マムシ)のこと?
風が吹くようになると、蟲たちが蠢きはじめる。
でも、蛇たちだって、冬眠から覚めてもいいんだし。

風ヘンの字は、『説文解字(せつもんかいじ)』という字書には15字(収録漢字総数約1万字)。
諸橋『大漢和辞典』には、244字(収録漢字総数約5万字)。
漢字全体は、約2000年の間に、ほぼ5倍の数になったが、風ヘンの字は、229字増えた(約16倍になった)ことになる。

颯爽、飄々。
どちらも、好きなことばだ。
『説文解字』によれば、颯は「翔(か)くる風」、飄は「回(めぐ)る風」。

ところで、一海先生によれば、漱石の漢詩に「風」の字が多いそうだ。
高木文雄『漱石漢詩研究資料集−−用字用語索引・訓読校合』で調べてみたら、全208首中、「風」は85回も使われているらしく、「天」や「月」に比べても相当多く、「一文字の使用頻度としては、『風』は最高である」。
なぜだろう、と、先生は読者に問いかけている。

漱石は、人と人とのあいだの、あるいは人と社会とのあいだの、「風通し」をよくしたい、と思っていただろう。
しかし彼が生きた時代、社会全体が、ちょっと「風向き」が、あやしくなりつつあった。
それで、学者の「風上にも置けない」と罵られても新聞屋になり、「風塵」にまみれて小説を書いたのかも知れない。

いや、ほんとうは「風の向くまま気の向くまま」、それこそ「風まかせ」に生きるような、「風太郎」でいたかったのかも知れない。
だから漱石は、その作品に「風刺」が効いているだけじゃなく、彼自身の「風姿」がいいのだ。
「風情」「風流」にとどまらず、「風狂」とまでやってきて、やっと漱石らしくなるのだが。

「風と色事」もおもしろく読んだが、「風は大地の噫気(おくび)なり」も、とぼけたアジの、しかし含蓄ある文章だ。
「夫(そ)れ大塊(だいかい)の噫気(あいき)は、其の名を風と為す」(『荘子』(斉物論篇))
大塊は大地、噫気は、口から出す息、一説に「あくび」また「おくび(ゲップ)」とする。

さすがに、老荘の「風」はおおらかで、ユーモアがある。
そういえば一海先生ご自身が、そのようなひとである(ぼくの大学院時代の恩師である)。
そしてこの本では、「余談」が本文に負けずに面白い。

【余談一】わが国最古の漢詩集を『懐風藻』という。
 「藻」は文藻。晋・陸機「文の賦」(『文選』)の李善注に、「藻は水草の文(あや)有る者なり。故に以(もっ)て文(ぶん)に喩(たと)う。美しい詩文を、文藻という。
 では「懐風」とは、何の「風」を「懐」かしんでの命名か。『懐風藻』序文にいう。
余が此の文を撰ぶ意(こころ)は、将(まさ)に先哲の遺風を忘れずあらむが為(ため)なり。故(かれ)懐風を以(も)ちて名づくる云爾(ぞ)。(小島憲之校注『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粋』、「日本古典文学大系」69、岩波書店、1964)
すぐれた先人たちがのこした余風を慕っての命名だ、というのである。

【余談二】がつづく。
「風格」「風尚」「風骨」「風貌」「威風」などという文字から、人々が「風」に感じていた厳粛さ、気高さ、美しさが指摘され、「風当たり」「風穴」「風の便り」「風を食らう」「親爺風」「臆病風」「すき間風」「風味」「風説」などからは、意外性、いたずら性、自由さ、諧謔性が見出される。
そして先生は、「風」に対して、人々が常に敬意と親近性とをもって接していたことが、その「多義性を生んだ原因の一つであろう」と結んでいる。

この「一語の辞典」シリーズは、奈良高専の図書館にもあります。

☆☆☆[DVD]『五線譜のラブレター DE-LOVELY』

アメリカの音楽家、コール・ポーターの生涯を描くミュージカル・ドラマ。
始まりは、おそらくは亡くなったばかりの年老いたコール(ケヴィン・クライン Kevin Kline)と演出家ゲイブ/天使?(ジョナサン・プライス Jonathan Pryce)による回想。
懐かしい人々が総出演する舞台を眺める二人は、コールが妻のリンダ(アシュレイ・ジャッド Ashley Judd)と出会う1920年代のパリ時代まで遡る。

豪奢なパーティ、洗練を極めた衣裳、ゴージャスな調度品。
初演の度に、カルティエで新しくシガレットケースをあつらえてプレゼントしてくれる妻。
その妻に負けないくらいお洒落で、しかし自身が同性愛者であることを隠さないコール。

年上の妻リンダは、これ以上にない気配りで、夫を社交界に導き、自信を持たせ、次第に大きな仕事を成し遂げさせていくのだが…。
お互いに、自分自身をよく知っているポーター夫妻の、相手とのずれを理解しながらも、友愛とも、姉弟愛とも、母子愛とも一味違った、ひとりの独立した大人同士の「いたわり愛」とでもいうべき心配りと振る舞いが、なんとも哀しく愛おしく素晴らしい。

『DE-LOVELY』、2004年、米、アーウィン・ウィンクラー Irwin Winkler 監督作品。


August 16, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『Ray/レイ』

故・レイ・チャールズの半生を描く。
『愛と青春の旅立ち』のテイラー・ハックフォード監督。
ジェイミー・フォックス(Jamie Foxx)が、まさにレイ・チャールズその人になりきっている。

ジョージアの貧しい母子家庭で育ったレイは、少年時代に弟の不慮の死に立ち会い、さらに緑内障で視力を失う。
しかし「盲目と人に呼ばせるな」「自分の足で立って生きよ」という母アレサ(シャロン・ウォーレン Sharon Warren)の教えを胸に、1948年、音楽の才能を生かして17歳でデビューする。
天才と呼ばれ、次々に大きなレコード会社と契約し、ソウルミュージックでスーパースターになっていくレイ…。

無類の女好きで、麻薬中毒者、そして強かなビジネスマン。
しかし、やはりミュージシャン、レイのライヴは圧巻だ。
背景に、様々なドラマがあって、この曲があるのかと、得心してしまう。

何度か歌われる「Georgia On My Mind」「Unchain My Heart」はもちろん、曲が誕生することの歓びが素直に伝わる「Mess Around」や「What'd I Say」。
ゴスペルをR&Bにアレンジして、初めて自分らしい曲となった「I Got a Woman」。
そして、ほとんどミュージカルになって離陸してしまいそうな「Hit the Road Jack」などが、とりわけゾクゾクものだ。

PG-12指定なのは、セックスや暴力よりは、ドラッグ描写かな。
そのドラッグに一度は溺れながら、誘惑に打ち勝って数十年もミュージック・シーンを走り続けたのは、ホントすごい。
きっと彼がお手本のミュージシャンも多いだろうね。

『RAY』、2004年、米、テイラー・ハックフォード Taylor Hackford 監督作品。


August 15, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』

イブラヒムおじさん役のオマー・シャリフ(Omar Sharif)が、いいオジイサンになっていました。
「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバコ」が懐かしい僕には、寂しくもあり、嬉しくもあり、です。
モモ役のピエール・ブーランジェ(Pierre Boulanger)も、思春期のムツカシイ年頃の男の子を、いい感じで演じています。

60年代初頭のパリですが、ユダヤ人が住む裏町の、ブルー通りという、立ちんぼの娼婦たちがたむろするようなところです。
コンビニに場を譲る前には、街にたくさんあった、小さな食料品店を営むアラブ人イブラヒム。
彼だけが頼りのユダヤ人の少年を、イブラヒムはモモと呼んで、心から可愛がります。

「永遠の語らい」と似たかたちで、「感情教育」の仕上げが、中東トルコへの旅です。
真っ赤なスポーツ・カーが、ひっくり返って予期されたことが事実となりますが、結末はぜんぜん悲しいものではありません。
平凡な日常を淡々と、しかし精一杯生きることと、「自由に生きること」との関係を、うまく提示しているな、と思いました。

『MONSIEUR IBRAHIM ET LES FLEURS DU CORAN』、2003年、仏、フランソワ・デュペイロン Francois Dupeyron 監督作品。


August 12, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『父、帰る』

突堤の先にある塔の上から、落下して、海に飛び込んでみせること。
それがどうしてもできない弟イワン(イワン・ドブロヌラヴォフ Ivan Dobronravov)。
母(ナタリヤ・ヴドヴィナ Natalya Vdovina)は、自ら塔に登って、息子を抱きしめる。

ケンカして走る兄弟。
弟が追いかけているはずが、兄アンドレイ(ウラジーミル・ガーリン Vladimir Garin)が追いかけている。
たどりついた自宅で、父(コンスタンチン・ラヴロネンコ Konstantin Lavronenko)の、12年ぶりの帰還に驚く2人。

家族そろっての、テーブルを囲んでの食事。
料理を取り分ける父。
無言の母と、虚ろな父の母親。

父との車での旅行。
寡黙な父、強い父、厳しい父だ。
父を一人の男として慕い、誇りに思う兄は、彼を何とか理解しようとする。
母に包んでもらって甘えている弟は、父にはまだ期待するだけで、彼を理解することはできない。

無人島に渡る3人。
父は、子供たちに内緒で、掘る、掘り出す。
ナニを?

ケンカして走る父子。
弟を、今度は父が、追いかけている。
追われた弟は、とうとう塔に上る。

弟はしかし、ついに堕ちない。
父は、塔に登りそこねて、弟に代わって?…。
父殺し?

舟とともに沈んでいく父。
そして兄が、父に代わる。
しかし、兄役の男の子は、この映画の撮影終了後まもなく(03年6月)、ロケ地でもあったラドガ湖で、事故死しているそうだ。

兄弟は、十分に、大人へと成長しただろう。
ただし、1週間というあまりにも短い時間のあいだに、だが。

ナタリヤ・ヴドヴィナが、美しい。
ミハイル・クリチマン(Mikhail Krichman)の撮影も、いい。

『VOZVRASHCHENIYE』、英題『THE RETURN』、2003年、露、アンドレイ・ズビャギンツェフ Andrei Zvyagintsev 監督作品。


August 11, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『崖』

アウグスト(ブロデリック・クロフォード Broderick Crawford)は、48歳にもなるいい年をして、チンピラのロベルト(フランコ・ファブリッチ Franco Fabrizi)や画家くずれの(ピカソと呼ばれている)ブルーノ(リチャード・ベースハート Richard Basehart)たちと一緒に、詐欺をはたらくワルだ。
貧しく教育のない者たちを騙し、容赦なく金を奪い取る。

たとえば、ニセの聖職者になりすまし、あらかじめ埋めておいたニセ宝箱を掘り出してみせる。
中身の宝はすべて土地所有者のものだが、殺されて一緒に埋められた人のための祈祷が条件だ。
そんなことを騙って、教会への献金を強要し、目の前の宝石に目のくらんだ貧者から、有り金すべてを巻き上げるのだ。

公共住宅に入ろうと抽選を申し込んでいるスラム街の住民たちから、当たったから予約金を払えと、なけなしの金をむしり取る。
ささやかな希望を、縒り合わせるようにやっと紡いできた夢を、掠め取る。

だが、アウグストは久しく会わなかった娘パトリッツィア(Lorella De Luca 無茶苦茶キレイ!)に出会う。
彼女は、大学教授になる夢をもち、学業を続けるために経済的な保障を必要としていた。しかし父は、その美しい娘の目の前で逮捕されてしまう。

刑務所を出ても、やはり詐欺をするしかないアウグスト。
しかも、かつての仲間たちはいない。
別のメンバーと組んで、またも聖職者になりすましたアウグスト。

だが、騙すはずの相手である貧しい百姓には、自分の娘と同年の小児マヒの娘がいた。
その娘の必死の祈りの要請を振り切って、アウグストは仕事を終える。
しかし、仲間たちには、金は取らずに来た、と告げるのだった…。

戦後のイタリアにおける、アメリカ文化の影響力の大きさが、伝わってくる。
悪に染まりきれないワルを、B・クロフォードが好演している。
ピカソの妻役イリスのジュリエッタ・マシーナ(Giulietta Masina)も、やっぱりいい。

話は、ピカソとイリスにも焦点があったのに、後半はアウグストひとりにしぼられる。
人を信じないことが心の貧しさであり、神を信じることが心の豊かさである。
ただし、ここでは人に騙されることは、ちっとも美徳ではなく、ただただ愚かさでしかない。
いずれにせよ、人は人を信じることができない。

これが前提となった描き方のような気もするところが、つらいところでもあり、リアルなところでもある。
結局、人は、神を(騙したりはできないから)信じることしかできない?
それができないかぎり、ひたすら愚かでいるしかない、そうなの?

でもこうしてみてくると、「トレインスポッティング」「ストランペット」のダニー・ボイル監督が、フェリーニ作品をかなり意識している(たとえば「ヴァキューミング」は「道」+「崖」でできている)のが、よくわかるなぁ。

『IL BIDONE』、1955年、伊・仏、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


August 02, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『道』

海に出て終わる傑作映画の一つ。

海岸で泣き崩れるザンパノ(アンソニー・クイン Anthony Quinn)は、懺悔しているのか? していない。
彼の心は癒されるのか? されない。
彼に救いはあるのか? ない。

しかし、そういうザンパノこそが「ニンゲン」なのだ。
ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ Giulietta Masina)だけが「無垢」なのではない。
たしかに、彼は無垢なだけではなく、無知で粗野で乱暴だ。

行為の結果がどうなるかを、考えない。
殴った、殺した。
彼はまず、やってしまう。
殴った、裏切った、追いかけた、しかし捨てた。

でも、先のことを知るなんて、誰ができるのだろう。
ザンパノは、ジェルソミーナが自分にとって大切な存在であったことに気づく。
「私が死んだら悲しいと思う?」

その問いに直接には答えられなくなって初めて、ひとりで泣く、という形で答えているのである。
そこで初めてザンパノは「人間らしく」なる、のではない。
たぶん彼は、それまでと同じようにしか、これからも生きられないのだ。
そしてしかし、それこそがニンゲン(らしさ)というものなのだろう。

淀川長治は、綱渡り芸人「キ印」(リチャード・ベースハート Richard Basehart)は天使だと、どこかでいってた気がするけど、そうだとしたら、なんとも冷たくトボけた天使である。

『LA STRADA』、1954年、伊、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。


August 01, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ジンジャーとフレッド』

ジンジャー・ロジャース&フレッド・アステアの物真似「ジンジャーとフレッド」。
50年代には、絶大の人気を誇ったアメリオ(ジュリエッタ・マシーナ Giulietta Masina)とピッポ(マルチェロ・マストロヤンニ Marcello Mastroianni)。
30年ぶりに再会したのは、クリスマスのTV出演があったからだ。
ふたりは、過ぎ去った日々を懐かしみつつ、久々に舞台に立つ…。

汚らわしくも愚かしいテレビのショービジネス。
監督は、あくまでも乾いたタッチで、かつての恋人同士、しかし今は老いた二人の心情を描いていく。
そしてふたりは、昔の感情を少しずつ取り戻していく。

フリーキー、スピーディー、しかしノスタルジー。
戸惑い、後悔、そして労り。
TVは徹底的に貶されながらも、その色彩は見事というほかない。

「前にも言ったが映画を作ることは旅をするのと同じことだ。だが、旅の中で、ぼくの興味を引くのは、到着ではなくて出発なんだ。ぼくの夢は、どこに行くのか分からない、あるいは、どこにもたどりつかない旅に出ることだ。」(『フェリーニ・オン・フェリーニ』、キネマ旬報社)。

ジュリエッタとマルチェッロの熱演に尽きる映画でした。

『GINGER E FRED』、仏題『GINGER ET FRED』、英題『GINGER AND FRED』、1985年、伊・仏・西独、フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini 監督作品。