2005/9

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September 29, 2005 編集
☆☆☆[book]『知の教科書 フロイト=ラカン』、新宮一成・立木康介、講談社選書メチエ、2005/5

はっきりいって、新宮一成がいなかったら、ラカンなど皆目わからなかっただろう僕である。
もっとも、それでもまだまだ朧気、いや五里霧中といったほうが正確だろう。
「発見者にできることは、しばしば、誰でもがその発見を再発見できるように、発見された場所を保全しておくことだけなのである。」と著者はいう。
第一部では、夢とのつきあい方から、フロイトの精神分析の方向づけを、またそのフロイトへと遡り、言語と現実の関係を人間のために立て直そうとするラカンの精神分析の方向付けを、それぞれ確認する。
「ラカンからフロイトに遡ることは、フロイトの発見を生きたまま再発見する経験なのだ」

第二部は、ラカンの成果から遡ってフロイトの根源に迫ろうとするキー・ワード集。
第三部は、フロイト=ラカン的思考を、いわば探照灯として、日本文化、仏教、メディア、歴史論争、貨幣論、芸術論、催眠や臨床心理といった世界を、照らし出す試み。
第四部では、フロイト=ラカンを読むための、懇切な見取り図が提供されている。

「精神分析の臨床の存在しないところで、はたして『エクリ』はほんとうに読まれうるのか」という問いかけが重要なものだと確認しながら、「ここであえて答えを与えるつもりはない」とする著者は、しかし「「一般」の読者たちは、『エクリ』をどう読めばよいのだろうか」という問いに対しては、『エクリ』の裏表紙にある次の言葉

この論集を読んではじめて、しかもそれをひと通り読んでみてはじめて、そこで繰り広げられているのがたった一つの議論であるということがわかるだろう。それはいつも同じ議論であり、さすがに時代がかってみえるにはちがいないにせよ、啓蒙の議論であると認められるのである

を紹介しながら、「『エクリ』の中でたえず繰り返されているのは、シニフィアンの概念を中心とした理論装置を用いてフロイトの発見を基礎づけるための議論なのである」というヒントを与えてくれている。


September 27, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『アモーレ』

『人間の声』と『奇蹟』の2作からなるオムニバス。
両作ともにアンナ・マニャーニが主演している。
当時、ロッセリーニ監督と愛人関係にあったとか。

『人間の声』の原作は、ジャン・コクトー。
見所は、マニャーニ迫真の一人芝居。
部屋の外がまったく映らない、ワン・ルーム・ムービー。

ベッドに横たわって受話器をもった彼女は、別れた相手の男に、蜿蜒と話し続ける。
そこには、もう取り戻せないという後悔があり、男のそばにいる女への嫉妬があり、ひょっとしたらという執着があり、こんなふうにしがみつくしかない自分への憐れみがあり、電話を切ってしまったら金輪際お終いだという絶望がある。
文字通り、鬼気迫る演技である。

『奇蹟』の脚本は、フェデリコ・フェリーニ(彼は「聖人」役で出演もしている)。
『人間の声』に続いて見ると、カメラが屋外に出るので、それだけで開放感がある。
しかし、問われているのは、人間相互の愛ではなく(それは、ほとんど諦められているように見える)、むしろ神への愛だ。

山に羊を追い、柴を集めて担いで降りる。
何でも屋で食いつないでいる貧しい女は、山の上で流れ者を聖ヨゼフと誤解し、彼に犯される。
妊娠した彼女は、神の子を宿したことを疑わないが、村人からは冷笑を浴び、迫害される。
馬小屋で、陣痛に苦しみながら、たった独りで出産する女の真摯かつ死に物狂いの姿が、目に焼きついて離れない。

『L'AMORE』、1948年、伊、ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini 監督作品。


September 26, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『テープ』

リンクレーター続きで見てみた、密室の心理劇。
予想以上に出来のいいワン・ルーム・ムービーだった。
あ、それからリンクレーターって、実写とアニメをミックスした、あの不可思議シュールなテイストの映画「ウェイキング・ライフ」の監督でもあったんだね、道理で巧いわけだ。

ヴィンセント(イーサン・ホーク Ethan Hawke)とジョン(ロバート・ショーン・レナード Robert Sean Leonard)のふたりの男たちの噛み合わないやりとりに、しばらくは展開が見えないまま。
でも、緻密に計算されたその台詞だけで、十分に引っ張られてしまう。
エイミーという女(ユマ・サーマン Uma Thurman)が出てくる直前の、中盤あたりから、話はぐんぐん面白くなってくる。

さまざまなアングルから撮られ短いカットでつながれた映像は、DVカメラで撮影された作品だそうだ。
映画は、安モーテルの一室から一歩も外に出ない状況を、決して退屈させない。
カメラは、ありうる場所のすべてにあって、臨場感&リアルさを生み出すのを助けている。

記憶がコトバにされようとするそのとき、別の人間のコトバが差し挟まれる。
そのときの介入のありかた次第で?テープという記録媒体のせいで?
記憶は、違ったコトバとなってあらわれる。

そして、いったん口にされたコトバの意味は、重ねられる会話の文脈によって微妙にずれていき、まったく思いもよらぬ展開となる。
誰がどこまでを準備し、どこまでを予期しえたか。
ワルがマジメをいたぶり、正直が嘘を呼びこみ、ヒョウタンからコマが出るように、ウソから出るマコト。

ほんと、人のココロは恐ろしい。

『TAPE』、2001年、米、リチャード・リンクレイター Richard Linklater 監督作品。


September 22, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ビフォア・サンセット』

『ビフォア・サンライズ』の続編で、9年後のお話。
ジェシーは作家になっていて、パリの本屋でインタヴューを受けている。
そこにセリーヌが現れる。

約束した再会の日に、祖母を亡くしたセリーヌは現れなかった。
約束どおりウィーンにやってきたジェシーは、失意のまま去ったのだった。
やっと再会を果たしたふたりは、お互いを語り合う。

ジェシーが帰国する便に乗るまで、残された時間は85分。
彼らは、カフェに行き、パリを歩き、セーヌの遊覧船に乗る。
最後に、ジェシーはセリーヌの部屋を訪ね、彼女の歌を聴く。

それで、ジェシーは飛行機に乗ったの?
それとも、そのままパリに居残ったの?
見る人が判断してね、というちょっと唐突気味のラスト。

前作から、実際に9年の年月を経たイーサン・ホークも、ジュリー・デルピーも、以前よりは(とくに顔が)ぐっと痩せていて、肌のピンクや張りもなくなっていて、シワが深く刻まれていて、なんとも複雑な気持ち。
なにせ、こっちは一夜にして9年の時間経過を目の当たりにするわけだからね。

しかし、クライマックスは車の中で、お互いが相手を得られなかった過去の不運に対する不平と現在の不幸をぶちまけるシーンで、ここの演技はさすがと思わせるものがあった。
監督は、特典映像で、主演の二人と三人で作った映画だっていってたけど、実際、脚本は3人の名前で出ているし、デルピーは相当のページを書いたらしい。

「三人行えば必ず我が師あり。」「船頭多くして船山に上る。」
イイ意味でもワルイ意味でも、そんな感じの出来映え。
でも、前作をより際立たせる一篇になっている。

自分の部屋でセリーヌがジェシーに歌う「A WALTS FOR A NIGHT」は、デルピー自身の曲。
その後にかかる Nina Simone の「JUST IN TIME」も素敵な曲だけど、最初の「AN OCEAN APART」と最後の「JE T'AIME TANT」もデルピーが作って、彼女が歌っている曲だったなんて。

『BEFORE SUNSET』、2004年、米、リチャード・リンクレイター Richard Linklater 監督作品。


September 21, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)』

「スクール・オブ・ロック」の監督の他の作品を見たいと思っていて、やっと見ることができた。
列車の中で偶然に出会った若い男女が、奇蹟のような一夜を過ごす、というお話。

アメリカ男ジェシー(イーサン・ホーク Ethan Hawke)とフランス女セリーヌ(ジュリー・デルピー Julie Delpy)。
読んでる本が、女がバタイユ、男はクラウス・キンスキー(ナスターシャ・キンスキーのオヤジさん)の自伝。
名前を訊いたセリーヌが、ジェイムズで、ジェシーという答えに、ジェシー・ジェイムズ?と、ちょっと怯えて/戯けてみせるところがあって、「地獄への道」('39)のタイロン・パワーが蘇った(この映画の原題が「Jesse James」で、パワーがタイトル・ロールを演じている)。

初夏の日差しのもと、二人の肌色が美しい。
とりわけ、朝を迎えたデルピーの背中には、どっきり。
ちょうど、昇ったばかりの太陽の光を浴びた建物の外壁が、同じ色をしていた。

ジョルジュ・スーラ、ベートーヴェン、エゴン・シーレ、バッハ。
もちろん、シュトラウスも聞こえてくる。
彼らがさまよい歩いた、夜のウィーンの街も美しかったなあ。

光の量や色のバランスを考えた画面構成がうまいのだ。
会話がてんこ盛りだが、ここぞとばかり、手に入れた貴重な半日、互いに相手に退屈させまいと気を遣っているのだから、しかたがない。
でも、それでウソっぽくもなる。

だけど「これは作り物だ」なんて、文句を言っちゃあ、いけない。
だって「作り物」だと、お互い思わないかぎり、こんなに恥ずかしい時間なんか、もてないじゃないか。

だから、二人ともに、自分がどこまで演技しようかって、迷ってるところがあって、それはうまく撮られている。
一夜限りの出会いを演じるというお芝居。
でも、そういう「枠」のようなものに自分たちをはめ込んだところから、ひょっこり彼らのマコトが出る。

嘘っぽいといえば、二人がふれあうことになるウィーンの街の人々。
素人芝居の役者たち、バーテンダー、喫茶店の客等々が、まったくウソっぽいのである。
そのために、このファンタジーが、むしろドキュメンタリーに見えてしまうという逆説が、オマケとしてついてくる。

映画は、二人がそれぞれに別れたあと、ウィーンの街をもう一度写していく。
夕暮れに訪ねた小さな無縁墓地、キスを交わしたプラターの観覧車、深夜に腰掛けた路地のベンチ、明け方近くになってとうとう結ばれることになった公園の芝生…。
それらすべてが、朝の光に晒され、街は何事もなかったかのように、毎日の呼吸をはじめる。

『BEFORE SUNRISE』、1995年、米、リチャード・リンクレイター Richard Linklater 監督作品。


September 19, 2005 編集
☆☆☆[book]『嗤う日本の「ナショナリズム」』、北田暁大、NHKブックス、2005/02

世代が違うと受け取り方もずいぶん違う、という格好の例だが、内容に足を引っ張られることなく、形式的な差異に留意しながら、言説やメディアの布置をクールに考察する姿勢には、共感を覚える(っていうか、まあ僕には絶対ムリって思うから、本当は羨望なんでしょうね)。
「2チャンネル化する社会(アイロニーと感動的指向の共存)」と「クボヅカ化する日常(世界指向と実存主義の共存)」という二つのアンチノミーが、いかにしてスノッブ帝国日本に成立したかを探る。
連合赤軍(自己否定の迷走)からナンシー関(メタからじゃないベタ批判の遂行)までを、丁寧にたどっていく著者は、昨日紹介したローティのいうアイロニストそのものであるかに見える。

が、彼が分析する現代日本のアイロニーは、ローティの立ち位置からは、かなりズレているようだ。

動物の国アメリカにおいて独断のまどろみを覚ます契機であったものが、スノッブの帝国日本ではまどろみを深める麻薬ともなりかねないのである。p247

ローティのいうリベラル・アイロニストとは「自己の立場を正当化する絶対的な思想的基盤が存在しえないこと、哲学的言説の特権性を相対化することを踏まえつつ、漸進的な社会改良を断念しない政治的立場」に立つ人のことだ。
そしてローティ自身は、著者も指摘しているように、ローカリティを(哲学的にではなく)共同体主義的に認める立場である。
だから同じアイロニストといっても、信頼する共同主観(たとえば「自由」や「民主」)をもてるアメリカと、そういうものが希薄な日本では、アイロニー戦術のもつ意味合い(方法としてのアイロニーの効果)が、大きく変わってくるだろう、というのが著者の見解だ。

著者は、日本の「戦後民主主義」が、アメリカの「自由」や「民主」並に、共同幻想として機能しているかどうかは、「微妙」だと見ている。
いずれにせよ、何らかの共同幻想が機能しなければ、アイロニーは自己目的化して空転し、ロマン主義的なシニシズム=嗤う日本のナショナリズムに陥ることになる。
さてさて、こういう事態をどうシニカルに嗤えばユーモラスに笑えばよいものやら。


September 18, 2005 編集
☆☆☆[book]『偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性』、リチャード・ローティ Richard Rorty&斎藤純一ほか訳、2000/10

久しぶりに、あちこちに傍線を引きながら読んだ。
それだけ面白かったということだが、ここには書ききれないので、ひとつだけ。
私的なものと公的なものを、どうつなげるのか、という問いに対して、誰もにある(だろう)共通の何かを探したり想定したりすることはやめて、そもそもそれらは個人の生においては別のものであり、無理につなげようとしなくていいんだ、と言い切っているところが、なんとも潔い。


September 16, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ヴィタール』

事故ですべての記憶をなくした博史(浅野忠信)。
医学部に入学し、解剖実習を始めた彼の班に、若い女性の遺体が割り当られる。
そして博史は、なぜか異常なほど実習にのめりこんでいく。

少しずつ記憶を蘇らせていく彼は、向こうの世界に遊ぶようになる。
そこには、車に同乗していて亡くなった女性涼子(柄本奈美)がいた…。

『六月の蛇』ほどのエロティシズムはないが、ニンゲンをまるごと愛するという意味での、純愛を感じさせる。
人体(の内部)をかなりリアルに映像化しているところもスゴイが、煙突のシーン(重ねていきかたが独特)や浜辺でのダンスのシーン(生きているニンゲン以上に溌剌と躍動的でアカルイ)が印象的。

吉本郁美役のKIKIも、いい。
しかし身体って、ホントに宇宙だな、これは。
例によって、塚本晋也が、監督、脚本、製作、編集をこなしている。

2004年、日、塚本晋也監督作品


September 14, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『犬猫』

2001年に自主制作された同名作品(特典映像に、その予告編が入っている)を同じ監督が、リメイクしたもの。
キャストは、一新されている。

現実って、何だろう?
映画を見て、あらためてそんなことを思う。
女同士の関係では、「下妻物語」「花とアリス」なんかがあった(し、今は「ナナ」が上映されている)。

それぞれ、リアルの追求の仕方には特徴がある。
それを承知でいえば、日常の感じは、この映画が、かなり「そのまんま」っぽい。
もちろん、「素」ではなく、その「ぽさ」を出すために、手が加えられている。

男(西島秀俊、忍成修吾)の影は、これはもう意図的に薄い。
けっして悪いニンゲンではないが、イノチガケで奪い合いをするほどの男ではない。
「悪くない」というところが、彼女たち(榎本加奈子、藤田陽子)にとっては、ワルく作用するのだが、じつはそれすら問題ではなくて、たまたま同じものを好きになってしまう彼女たちの、その対象のひとつ、という扱いである。

うーん、カメラの位置が、いいのかな。
光の感じも、何だかポラロイド風。
撮影は、前作では録音も担当していた鈴木昭彦(監督の師匠らしい)。

2004年、日、井口奈己監督作品。


September 12, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『雲 息子への手紙』

フランスの女性監督が、世界各地で撮り上げた雲の映像。
そして彼女が自分の息子に宛てて書きためた手紙の朗読。

  雲は、想いであり、命であり、魂である。
 雲は、生成であり、流れであり、消滅である。
雲は、瀑布であり、ジェットであり、雪崩である。
 雲は、輝きであり、調べであり、舞踏である。
  雲は、燃焼であり、凝結であり、昇華である。
   雲は、離散であり、孤独であり、連帯である。

喜望峰、アイスランド、アルプス、マダガスカル。
撮影期間は、1年以上に及んだらしい。

ふたりの人物が並んで歩いてきて、歩いていくシーンが、始めと終わりにある。
ほとんどシルエットなのだが、その二人が、母親とその息子だとわかるのが、面白い。

ナレーションは、カトリーヌ・ドヌーヴ Catherine Deneuve(フランス語版)とシャーロット・ランプリング Charlotte Rampling(英語版)。
ランプリングの英語は、霧消を急ぐ水蒸気のように、おそろしく足早だ。

『NUAGES: LETTRES A MON FILS』、英題『CLOUDS: LETTERS TO MY SON』、ベルギー・ドイツ、2001年、マリオン・ヘンセル Marion Hansel 監督作品。


September 09, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『山猫』

哀しくなるくらいに贅沢な映画だ。
このゴージャスさは、たしかに頽廃を孕んでいる。
しかし、退屈なものは、これっぽっちもない。

人間が営々と築きあげてきた歴史・文化・芸術だって?
安吾ではないが、そんなものは糞食らえだ、という考え方も、もちろんアリだ。
いま生きている人間をさしおいて、それ以上に大事なものなんて、ないからだ。

そしてしかし、これから生まれてくるものたちだっている。
死んでいこうとしているものたちに、どのように向かい合うか。
それは、これからを生きようとしているものに、どう向かい合うか、という問題と、別の問題なのだろうか?

1860年春、イタリア統一戦争時代のシチリア。
300年も続いた名門貴族サリーナ家は、没落が確実となった。
覚悟を決めた家長ドン・ファブリッツオ公爵は、新興勢力に便乗して生き延びようとする、前向きな甥タンクレディに、むしろ理解を示すのだった…。

このDVDは、2004年に復元したイタリア語完全版をマスターにしたもの。
サリーナ公爵をバート・ランカスター(Burt Lancaster)、その甥タンクレディをアラン・ドロン(Alain Delon)、その婚約者アンジェリカをクラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)が、それぞれ演じている。
その他に、ジュリアーノ・ジェンマ(Giuliano Gemma)やオッタヴィア・ピッコロ(Ottavia Piccolo)も出ている。

『IL GATTOPARDO』、英題『THE LEOPARD』、1963年、伊・仏、ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti 監督作品。


September 08, 2005 編集
☆☆☆[book]『〈民主〉と〈愛国〉』、小熊英二、新曜社、2002/11

助走から、やっと離陸。
鶴見俊輔の読み方にならって、序章、結論から読んで、第一部(第1〜6章)までを読む。
このまま、失速しないといいが。
上野千鶴子が、大河小説になぞらえていたが、まさに同感。

それにしても、「民主」「愛国」「近代」「民族」「市民」などといった言葉が、
こんなにも人や時代によって、違った意味で使われていたのだなと、
これはもう目を瞠るというようなものではなく、
あんぐり開けたままの口から、ヨダレ垂れ流し、という塩梅である。

「私たちは「戦後」を知らない」と著者はいう。
まったく、そのとおりだと唸らされる。
「戦後とは」そして「戦争の記憶とは」を問いなおし、
そこからあらためて「いまここ」にいる私(たち)を再検討するために、
強い助けになってくれる本である。


September 06, 2005 編集
☆☆☆[book]『幻獣標本博物記』、江本創、パロル舎、04/2

偽物語、偽日記、偽標本を愉しむ。
フィクションというものの、醍醐味と寂びし味を、満喫する。
アレクサンドル・ヒロポンスキー博士や多々良蝶介博士の調査報告に、
しばし耳を傾けるのも一興かと思う。
Green Dragon がいて、骨ノ落トシ子がいて、悪獣たちがいる。


September 05, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『伯爵夫人』

チャップリンが、例によって脚本も音楽も手がけている。
香港を経由してハワイへ向う豪華客船。
石油王の息子オグデン(マーロン・ブランド Marlon Brando)は、その香港で、ロシアからの亡命貴族という美しい女性3人を紹介される。

翌朝、クローゼットを開けてみると、そのうちの一人、伯爵夫人のナターシャ(ソフィア・ローレン Sophia Loren)がいた。
密航である。
さて、大使に任命されるようなVIPにスキャンダルは禁物と、オグデンは彼女の存在を秘密にしようとして…。

マーロン・ブランドが、あのムツカシそうな顔をしたまま、欽ちゃん顔負けのドタバタ(って、たとえが古すぎ)をやってくれるのは、なんともウレシイ(チャップリン監督とは、もめたそうだが)。
執事役のパトリック・カーギル(Patrick Cargill)のギャグは、ミスター・ビーンがきっと学んだであろう素晴らしさだが、友人役のチャップリンの息子シドニー・チャップリン(Sydney Chaplin なんだか彼、田村亮に似ているなぁ)の笑いの演技のクールさ、間の取り方の見事さには、もっと驚いた。

真っ白い髪になっちゃった老チャップリンが、船室係の船員として2回出てくる。
その2度目に出てくるときの、船酔いの演技は、さすが、と唸らされる。
見るからに低予算の映画だが、揺れる船室を撮るカメラも、観客を酔わせない程度に、ゆーらり揺れてるところなど、ニクい画面づくりをしている。

『A COUNTESS FROM HONG KONG』、1967年、英・米、チャールズ・チャップリン Charles Chaplin 監督作品。


September 03, 2005 編集
☆☆☆[book]『アメノウズメ伝 神話からのびてくる道』、鶴見俊輔、平凡社、91/5

こういう本こそ、外国語に翻訳されたらいいのに、と思う。

かくれたアマテラスの機嫌をなおす。
サルタヒコに出会い、異族とつきあう糸口をつくる。
彼女は、どんな権威をもおそれず、見知らぬものを敵と決めつけたりしない。

アメノウズメノミコトを、鶴見はこんな風にとらえている。

 笑いを自分の内部にもち、相手からも笑いをさそいだす。
 彼女にはいつも、いきいきとした気分がある。おもくるしい不安が一座にたちこめる時にも、一瞬の風をまきおこし、一座をもりあげてゆく力をもっている。その力ゆえに、彼女は、仲間から信頼されている。p25

ここを読んだとき、ぼくは自分の足下から、ほんとうに風が巻き起こったような気がした。
ほんとうに、そういうひとが、世の中にはいるものだ。
「セックスについての考え方は、私にとって思想を支える重大な柱なんですよ。」(『戦争が遺したもの』p194 における発言)

『古事記』からスタートし、フロッタージュ(貼りまぜ)の手法を使って、日本文化に潜むエロティックスの問題を、浮かび上がらせていく。
ハダカ、宗教、オドリ、糞尿…、そして人が、その生き方が、その言葉たちが、紹介される。
彼/彼女たちこそが、アメノウズメたちなのである。

日本の伝統から自分用の目録をつくってゆく、それは誰しも生きてゆくなかで実行していることだろうし、そういうおぼえとしてこの文章を私は書いているのだが、…p241

なるべく低い視線に寄り添いながら、十文字、いや蜘蛛手の方向に、さまよいながらの展開は、論述もまた滑らか、というふうにはいかない。
しかし、どのページを開いても、そこが始まりであるかのように綴られている文章の、どこを切り取っても、次のような、筆者の世界に対する姿勢のようなものは、手にとるように伝わってくるのである。

天と地のわかれめに立って、異相の人を前にした時のアメノウズメの、対等性を求めて排他的でない態度を、今も自分たちの前におきたい。アメノウズメには、日本と外国、天と地のはざまに立って、権力のめざす思想の固定をゆすぶる、ひとつの姿がある。いや、私はサルタヒコの立場に自分をおいて、外から来るアメノウズメに対するほうがよいのかと思う。p247


September 02, 2005 編集
☆☆☆[book]『戦争が遺したもの』、鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社、2004/3

まだ『〈民主〉と〈愛国〉』への助走が、続いている。
これも読んでおこうと思って、読んでみた。
戦中と戦後について、上野千鶴子と小熊英二が訊き、鶴見俊輔が応える。

鶴見が、いつ、誰と共に、どう動いたか、学ぶべきことは、たくさんある。
そして、彼の家庭(とくに母親や父親)が、彼に与えた影響の大きさをあらためて思う。
しかし『アメノウズメ伝』が、鶴見なりの「一条さゆり伝」だというのは、知らなかったなあ。

たしか一条さゆりは、ちょっとしたエピソードとして出てきただけだったような。
じつは、出てすぐに買っていた本だが、いい加減に、パラパラとしか見ていなかった。

私が長い間に自分を培ってきた、魂の彷徨の話なんだ。あれを六十歳をすぎて書けたというのは、私にはうれしかった。p193

「ステート・ヴァーサス・セックス」の話らしいので、
この際、きちんと読んでみることにする。


September 01, 2005 編集
☆☆☆[book]『対話の回路 小熊英二対談集』、小熊英二他、新曜社、2005/7

やっと『〈民主〉と〈愛国〉』を読む気になった。
しかし、あれだけの大部の書物を読みとおすには、なんというか、助走のようなものが必要だ。
そう思って、まずこれを読んでみた。

網野史観に限界を示し、民俗学(谷川健一、赤坂憲雄)に引導を渡す。
小熊のツッコミは、なかなかに鋭い。
でも、対談するにあたって、これほど綿密に自分の書いたものを読んでくれていたら、相手だって真剣に受け答えすることになるだろうな。

日本近代文学(村上龍)だって、容赦なく葬送される。
「要するに、国家を単位として、国民共通の問題意識とかを足場に文学が成立していく時代」は、終わった。
あとは、グローバルなところに出ていくか、いっそ思いっきりパーソナルなところで回路を開いていくか。

もちろん、「マスメディアで流通している言葉」、「大状況の言葉」、「支配的な言葉」では、そうした回路は開かれないのである。
むしろ、「不器用な言葉」でないと、ということらしい。
村上龍の『半島を出よ』は、遅ればせながらの回答になっているのかな?