2005/10

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October 31, 2005 編集
☆☆☆[book]『ヴァルザーの詩と小品』

「音楽」と題した短い文章に、まずヴァルザーはこう書きます。

音楽はぼくにとってこの世で最も甘美なものだ。ぼくは音楽の調べを言いようのないほど愛する。ある調べを聞くためには、千歩飛んで行ってもいいほどだ。

彼のお気に入りはピアノです。

ピアノはぼくにこの上なく魅惑的な調べを聞かせてくれる。たとえつたない弾き手がそれを弾くときも。ぼくは演奏を聞くのではない、ただ調べを聞くだけだ。ぼくは決して演奏家にはなれない。というのも、どんなに演奏しても、まだ甘美さや陶酔が足りないと思うだろうから。聴きいることの方が、もっと浄らかなことなのだ。

そこにはローベルトの芸術観があり、哲学があります。

何かある対象を愛するのはよい。しかし、その愛をみずからに告白するのは心して慎まなければならない。ひとは、自分が愛していると知らないときに、最もひたすらに愛するものである。

彼は音楽を求めようとはしません。逆に、音楽が彼におもねるにまかせるのです。しかし、そのおもねりは彼を傷つけます。さて、それをどんな言葉で表現したらいいのでしょうか。

音楽はいつもぼくを物悲しい気分にする。しかし、それは物悲しげな微笑がそうであるのと異ならない。ほほえましくも物悲しげな気分にする、と言いたい。ぼくは陽気な音楽を陽気と思うことができないし、陰気な音楽にしろ、それはぼくを決してとりわけ陰気にしたり意気沮喪させたりするものでもない。音楽を前にすると、ぼくはいつも一つの感情に襲われる−−自分には何かが欠落している、と言う感情に。

最後に、これまでに書いてきたことは「当たっていないのだから」「あまり真面目に受け取らないでもらいたい」と書いたうえで、ヴァルザーは次のように文章を締めくくります。

音楽を聞かないでいると、何かが欠落している。音楽を聞くと、ますますもって何かが欠落している。これが、ぼくが音楽について言えるすべてである。

この本には、ローベルトのお兄さんであるカール・ヴァルザーの味のある挿絵、幻想的で美しい絵画もおさめられています。


October 28, 2005 編集
☆☆☆[book]『「脳」整理法』、茂木健一郎、ちくま新書、2005/9

ぼくらには、まずぼくらに固有の生まれや育ちや生き方というものがあって、それに寄り添った「小さな窓」からの世界の見え方がある。
そしてそれとは別の、そうした一人称的な世界からは距離を置いた、「神の視点」とでもいうべきところから眺められる世界がある。
それらをそれぞれ「生活知」と「世界知」と名付ける著者が、本書で挑もうとしているのは、

生きていくうえで必要な「熱い知」である「生活知」と、世界をありのままに見るための「冷たい知」である「世界知」。この二つの間に、どのように補助線を引き続けるか…p213

という課題である。
世界は、半ば規則的(必然的)で、半ばランダム(偶然的)な「偶有性」としてある。
では、ぼくらの脳は、世界の本質としての「偶有性」をどう処理しているのか。
これこそが、ぼくらの「生命の本質にかかわる問題」なのだし、「物質である脳からクオリアに満ちた意識が生み出される」という「掛け値なしの不思議にかかわる問題」なのである。
これがわからないと、「生活知」と「世界知」の間にうまく補助線は引けないのだが、著者は、

「偶有性」を手がかりに人間について考えるだけでも、自分の、そして世界にあふれる他者の生命の輝きが増して感じられることだけは、確かなのです。p218

と書く。

根拠のない自信が案外大切であるとする著者は、また成功体験の大切さにもふれている。

成功するかどうかわからない、不確実な状況に直面したときに不安な気持ちを乗り越えてチャレンジし、それが成功するといった体験が一度でもあると、「不確実な状況下でチャレンジする」という脳のルートが強化され、そのような行動が苦労しなくても無意識のうちにとれるようになります。一方、不確実な状況を前にして、尻込みしてチャレンジすることを避けてしまって、それで済んでしまったということがあると、次に似たような状況が訪れたときに、ふたたび挑戦を回避してしまうという傾向が強められてしまうのです。p204

さて、ではたとえば偶然の幸福をうまくつかむにはどうすればよいのか。
まずは「とにかく何か具体的な行動を起こすこと」
次に「その出会い自体に気づくこと」
そして「素直にその意外なものを受け入れること」
だと、著者は言う。

「行動」「気づき」「受容」が、「偶然を必然にする」セレンディピティを高めるために必要なのです。p113

こうして本書は、世界の見方と人生における身の処し方を説いた指南書になっている。


October 27, 2005 編集
☆☆☆[book]『直筆商の哀しみ』、ゼイディー・スミス、小竹由美子訳、新潮クレスト・ブックス、2004/03

entertainment が enlightenment になる奇蹟。
Z・スミスが弱冠24歳で書いた『ホワイト・ティース』は、2000年から2001年にかけて僕がロンドンにいた頃には、どこの本屋さんにも店頭で平積みされていたベスト・セラー(だったけど今もまだ読んでない。でもこっちを読むことになった。しかも訳本で。こういう出会いも何かの縁なのでしょう。原語のままでここまで深くは読めないのも確かなんだけど、英語もやっぱ気になるところ)。
ジャマイカ系イギリス人の母親をもつゼイディーだが、J・オースティン「直系」の日常的で軽やかな平民的俗情世界のなかに、ヤハウェもカバラもブッダも禅も哲学も倫理も人種も性も恋愛も友情も実存も象徴も、ぜーんぶ取り込んでしまっているところが、なんともすごい。
この今年30歳になるケンブリッジ出身の才媛は、現在はハーヴァードで研究中とか。

中国人医師の父とユダヤ人の母との間に生まれたアレックス・リ=タンデムは、有名人のサインなどの直筆文書を売買して生活している。
彼の友人たちは、「黒いユダヤ教徒」アダムにユダヤ人ルービンファインとジョーゼフ。
往年のハリウッド女優キティー・アレクサンダーに憧れるアレックスは、13年間、休みなくファン・レターを書き続けていたのだが、ある日…。
ちょっと引用してみよう。

「非道徳的だよ。なんと言っても」数分後、マウントジョイの目抜き通りを賞賛の眼差しを浴びて進みながら、アレックスは思った。「そもそも保険なんてものはさ。物は壊れる。人は死ぬものなんだ。基本的に異教の概念だよ。保険って、必然の運命にぶつける秘教の儀式みたいなもんだな」
「それはちがう。必然的な運命のなかには」とジョーゼフは返しながら、右に曲がった。「償いの必要性が含まれている。代償を得るのはいけないことだが、それを望むのは信仰に基づく行為だ。そこに神の存在があるんだ。望むことのなかに」
「だけどやっぱりそれは嘘だ」アレックスは頑固に主張する。
「つかのまの恩寵なんだ、きみの健康とか、女とかはね。本来はきみものものではない−−ローンなんだよ、日常の苦難に対する一部払い戻しなんだ」p440-441

えーっと、これも。

「ちがう」ジョーゼフは激しい口調で否定した。「ぼくはそんなこと言ってない、思ったこともないよ。人生はすでに無なんだ。無を打ち消すなんて無意味で空虚だよ。ぼくは空虚なんだ。アダムは最初から言ってた−−」
「アダムは知ってるのか?」
「アダムは察している。あいつはなんでもわかってるんだ。ぼくたちが子供の頃からあいつにはわかっていた。誰かほかに愛する人間を見つけるべきだ、それしかないってあいつは言った。これは偶然じゃない。ぼく自身が選んだことだって、あいつは言うんだ。苦しむための空しい選択だ」p445

これらは、ジョークがふんだんに散りばめられた饒舌な会話でぶっ飛んでいくこの小説の、その愉しさの裏側に張りついている哀しみのようなものが、ちらっと顔を出すところってことになるのかな。
邦題には「の哀しみ」が原題に付加されていて、悲哀が前に出ているけれど、この作品、基本的に喜劇です。
『The Autograph man』、Zadie Smith、Penguin Books Ltd、2003/05、ISBN:0140276343


October 26, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ドイツ零年』

ロッセリーニ「戦争三部作」の第三弾。
廃墟となったベルリンで、日々をからがらに生き延びる少年エドムント。
貧しい借間生活のエドムント一家だが、父は病身、最後まで軍隊にいた兄は世間から身を隠していて働かず、「外人」のお情けに頼るしかない姉はもはや身を売る以外に金を得る道は開けそうにない。

学校には行かず、家族のために稼ごうとして墓掘りまでするエドムントだが、年齢がばれて追い出され賃金はもらえない。
かつてのナチ時代の小学校の教師に周旋された仕事をこなし、小遣い銭を手に入れたエドムントは、そのとき紹介された浮浪児たちと一緒に盗みまで経験するが、彼らともなじめない。
病院から退院してくる父のために金が必要になった少年は、仕事を求めて恩師を訪ねるが、弱いものは餌食にし、負担になるものは切り捨てて生き延びろと、突き放される。

父を病院に見舞ったエドムントは、そこである薬品を手に入れる。
父が部屋に戻った日の晩餐のあと、少年は特別に作った紅茶を父に飲ませるのだった。
そのときのエドムントのなんともいえない透明な表情が気になるところだ。
日頃から自分が家族の負担になっているのを苦にして、死にたがっていた父親だ。
しかし少年は、父の死を幇助しているのでもないし、自分の生を延ばすために罪を犯しているというのでもない、ただそうしなければならない仕事を淡々とこなす、とでもいうような表情をしているのだ。

エドムントは、行為をしてしまったあとから、自分のしでかしたことの重大さに気がつく。
少年に罪を告白された教師は、しかし自分の責任ではないと言い訳するばかりだ。
じっさい、エドムントは恩師の示唆によって父を殺めたのではあるまい。
しかし彼は、自分のやったことの大きさはわかっても、その意味がどうしてもつかめないのだ。
廃墟の街を目的もなく彷徨い歩き続ける少年。
壊れた建物を上へとのぼっていくエドムンド。
父の遺体を納めた棺桶が運び出され、いくつもの柩を載せた荷台に積み込まれ、トラックが走り出し、駆けつけてきた兄や姉がしかし間に合わず、その場にいない弟の名を大声で呼び続けるのだが…。

エドムント(Edmund Moeschke)
父(Ernst Pittschau)
姉エヴァ(Ingetraud Hinze)
兄カール(Franz-Otto Kruger)
教師(Erich Guhne)

ヒトラーの死体が焼かれた場所は、「ヒトラー最後の12日間」で見たところと同じだったけど、1947年の時点ですでに、主に連合軍の兵士相手とはいえ、そこが観光地になっていて、もうガイドが説明をしているのだった。
それからヒトラーの演説の入ったレコードを闇で売り捌く場面があって、客に試聴させるのだが、それがブルーノ・ガンツにそっくり、というか、ガンツの声が、抑揚が、その興奮/口吻ともども、ヒトラーにそっくりなんだ、とあらためて思った次第。

『GERMANIA ANNO ZERO』、英題『GERMANY YEAR ZERO』、1948年、伊、ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini 監督作品。


October 25, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『戦火のかなた』

ロッセリーニ「戦争三部作」の第二弾。
1943年7月、連合軍はシチリアに上陸し、徐々にイタリアの解放は進んでいく。
映画は、連合軍の北上に絡めた、6つの挿話からなるオムニバス。

若い米兵が、道案内を買って出た村娘と共に城塞に残ることになり…(シチリア)。
酔って少年に靴を盗まれた黒人MPが、少年を捕まえて家に案内させてみると…(ナポリ)。
娼婦は、行きずりに誘った米兵が、解放直後に親切にしてくれた少女を捜していることを知るが…(ローマ)。
家族の身を案ずる地元の男とパルチザンの恋人が心配な米軍看護婦のふたりは、危険を冒して前線へと向かう…(フィレンツェ)。
山中のカトリック修道院に宿を求める三人の従軍牧師だったが、一人はプロテスタント、もう一人はユダヤ教徒だったことから…(ロマーニャ)。
ドイツ軍に包囲され壊滅に追い込まれた連合軍兵士とパルチザン兵は、ついに捕虜となるが…(ポー河)。

ロッセリーニのリアリズムは、まことに呆気ない命を描く。
見ているこっちが投げ捨てられてしまったような感じで、胸にどっかとくる。
戦争が都市や街や村や土地に、とりわけ人に、人びとに何をもたらすかが、よくわかる。

『PAISA』、英題『PAISAN』、1946年、伊、ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini 監督作品。


October 24, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『無防備都市』

ロッセリーニ「戦争三部作」の第一弾。
1942年、ナチスドイツの制圧下にあったローマでのパルチザン活動の顛末を描く。
暗い明け方のローマの屋根伝いでの逃走に始まり、白昼の処刑に終わる映画。

国民解放会議の指導者マンフレディ(マルチェロ・パリエーロ Marcello Pagliero)を中心とした闘争活動は、同志で印刷工のフランチェスコ、その婚約者で戦争未亡人のピーナ(アンナ・マニャーニ Anna Magnani)、神父ドン・ピエトロ(アルド・ファブリッツィ Aldo Fabrizi)らを巻き込んでいく。
逮捕、抗議、射殺、拘束、移送、銃撃、解放。
展開は劇的で、編集にスキはない。

恋人に裏切られ密告されたマンフレディは、ついに神父や脱走兵と共に逮捕される。
そしてナチによる拷問の描写がまた真に迫っている。
その酷さは聞こえてくる呻き声だけで脱走兵が絶望して自殺してしまうくらいのものだ。
エスカレートする暴力、あの手この手で繰り返される責め苦。
それを与えている側でさえ嫌気がさしてしまうくらいの、酷い仕打ちに耐え抜いて、しかしマンフレディはついに息絶える。
そして神父までもが、今度は密室ではなく、白日の下で処刑される。

これを、日頃神父に世話になっている子供たちが金網越しに見守っている。
そして、彼らが銃殺兵たちに口笛で合図すると、それに応えて兵士たちは銃口を神父からそらして発砲する。
誰も彼を撃たない、撃てないのだ。
が、それを見たナチの高官は、自らピストルを神父の頭部にあてて、あっさり引き金を引くのである。
一人また一人と金網を離れ、俯いて丘を下っていく少年たちの重い足取り、落とした肩。
このレジスタンス劇のラストは、相当につらい。
しかしこの映画は、これは歴史の真実として見てもらうぞ、という迫力に満ちていて、有無をいわせないものがある。

原作は、S・アミディ(Sergio Amidei)。
F・フェリーニ(Federico Fellini)と共同で、脚本も書いている。
書き忘れたけど、この映画には、それこそ奇蹟のように、ユーモアが挟まれている。
ナチによる家宅捜査の際に、病床にある老人と神父と子供とフライパンでもってなされる寸劇は、まさに砂漠にオアシス。

『ROMA, CITTA, APERTA』、英題『OPEN CITY』、1945年、伊、ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini 監督作品。


October 21, 2005 編集
☆☆☆[book]『詩とことば』、荒川洋治、岩波書店、2004/12

詩を愛している氏が詩について四つの文章を書いている。
ぼくがいちばんふむふむとよんだのはここ。

 詩は、読まれることをほんとうには求めていない。人に読まれないからこそ詩は生きることができる。それは少しもうしろ向きの考えではない。むしろそのことが詩を前向きなものにする。
 読まれないことは、わかっている。そのうえで、考える。もし読まれたら、どうするのか。突然、誰かが路地裏の店に入ってきて「見せてください」といわれたとき、腐った林檎を出すわけにはいかない。そのときのために、少数の人のために、きびしい目をもつ人のために、はずかしいものは書けない。用意だけは、しておかなくてはならない。詩は個人のことばとはいえ、その個人のことばであることに甘えない、しっかりしたものを書いておかなくてはならない。そのために、ものを考える。ことばを吟味し、新鮮な、意味のあるものにしておく。それが心得である。p136-137

この文章のすぐ前で筆者はこう書いていた。

「ぼくはうすっぺらの詩を書いているので、あまり人に読まれたくない」

じつはぼくもぼくのろんぶんをあまりひとによまれたくはないのでした。


October 20, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ブレード・ランナー』

今回観たのはディレクターズ・カット(最終版)の前半部分のみ。
そういえば主人公のナレーションが消されているようだ。
よく覚えていないのだが、オリジナル版はもっとテンポがよかったのでは?
それとも新しい映画のわるい効果?

主人公やレプリカントの感情はじっくりと描かれている。
小道具もクリーチャーも言語もチャンプルーでよろしい。
2019年をこんなふうに想定していたのだなあと感慨にふける。
また、古さを感じさせるところに味を感じた。

原作(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』フィリップ・K・ディック)も懐かしいが、いつまた読める日が来ることやら。
オリジナル版は、82年公開。
完全版というのもあるらしいけど、僕には不明。

『BLADE RUNNER: THE DIRECTOR'S CUT』、1992年、米・香港、リドリー・スコット Ridley Scott 監督作品。


October 18, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『海を飛ぶ夢』

大いに笑い、大いに泣いた。
尊厳死を扱っているが、暗さは微塵もない。
ラモン(ハビエル・バルデム Javier Bardem)本人の思いの強さ。
周囲の人々の文字どおり複雑な感情。
映画は、それらを余すところなく描いている。
知性とユーモアを愛し、生を、やはり肯定しているのだと思う。
そして「自由はときに愛をも超える」という静かで確かな声を、僕はここに聴く。

ここでも女性は皆、美しい。
女性弁護士フリア…ベレン・ルエダ Belen Rueda
幇助する地元女性ロサ…ロラ・ドゥエニャス Lola Duenas
支援団体の女性ジェネ…クララ・セグラ Clara Segura
嫂マヌエラ…マベル・リベラ Mabel Rivera

『MAR ADENTRO』、英題『THE SEA INSIDE』、2004年、西班牙、アレハンドロ・アメナーバル Alejandro Amenabar 監督作品。


October 17, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『トウキョウ アンダーグラウンド』

サスペンスとコミックのバランスがいい。
表面を滑っていく楽しみと深く潜っていく喜び。

ドイツに住む少女アンジェラは18歳。
高校の卒業パーティで、彼女は憧れの日本人のDJヤマモトに勧められて、トウキョウに向かう。
紹介されたモニカはトウキョウでホステスをしながら、同僚たちと狭いマンションをシェアして生活しているのだが、この設定にリアリティがある。
モニカと同じ店で働き始めたアンジェラは、やがて行方不明になっているホステスがいることを知るのだった…。
鉱物的で、金属質な感じのするディープなトウキョウのアンダーグラウンドが、彼女が描くコミックの世界とクロスしながら、展開していく。

鉛筆をペンを筆を紙のうえに走らせる気持ちよさ。
色がかたちが勢いが物語を生みだしていく悦び。
主演のクロエ・ウィンケル Chloe Winkel は、妖精のような美しさ。
日本人ヤマモトを演じているのは、ヨン・ヤン Jon Yang。

先日、授業でこの映画のタイトルを口にしたら、妙な反応があった。
で、あとで調べて知ったんだけど、日本のコミックに同名のものがあるみたい。
それとは別の、ドイツの映画です。

『STRATOSPHERE GIRL』、2004年、独、M・X・オバアーグ Matthias X. Oberg


October 14, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『オランダの光』

'Light deffuses circles and needs time for that'「光は円形状に拡散するが、そのためには時間を必要とする」Christiaan Huygens (1690)
'When I think of Dutch Light, I think of Spinoza polishing lenses'「『オランダの光』を考えるとき、レンズを磨くスピノザを思い起こす」Michael Denee (1996)
'Not the paint, but the quality of the natural light is the most important material of the painter'「絵の具ではなく、自然光の質が、画家にとっては最も大切な材料だ」Edy de Wilde (1984)

カメラによる映像(定点撮影が効いている)、インタヴュー、実験、証言等々により、「オランダの光」の謎を追いかけるドキュメンタリー。
撮影は、パウル・ファン・デン・ボス(Paul van den Bos)。
ドイツの現代芸術家ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)によると、「オランダの光」は前世紀半ばにして、すでに消え失せてしまったらしい。永遠に。
20世紀前半に行なわれたザイデル海(現在のエイセル湖)の大干拓事業によって、太陽光を反射する特大の鏡が喪われたからだとするその説は、はたして正しいのだろうか。

芸術家ヤン・アンドリーッセ 'Light is space, expansion, breath ... it's oxygen'
芸術家ロバート・ザントフリート 'All we have is the power of observation'
気象学者ギュンター・ケンネン 'The secret of Dutch light lies in the fact that we can see the horizon'
芸術家ヤン・ディベッツ 'I can't believe that reclaiming the Zuyder Zee would've made any difference'
天文物理学者フィンセント・イッケ 'The main difference between Dutch light and any other light is water'(この人の実験、シンプルながら、説得力あり)
芸術家ジェームズ・タレル(20年以上かけてまだ未完成らしいんだけど、「わたしにとって光は啓示です」っていってるこの人が、アリゾナ砂漠の真ん中に作っている『肉眼のための天文台』は、面白そうだ)
美術史家エルンスト・ファン・デ・ヴェーテリング 'What we now call Dutch light wasn't an issue for them. They were simply Dutch painters painting light'
美術史家スヴェトラナ・アルパース 'You can't destroy Dutch light because it's there, in the paintings'
南仏の農夫リュシアン・フェレロ(たしかに、オリーヴの色を極めた人はいないのかも知れない)
モニュメントヴァレーの案内人アレックス・ビーゲン(光は命です、っていうこの人の声が、ヴァレーを渡る風のささやきって感じで、いいです)

「空にはいつも白くて鉛のような灰色の雲、丸い雲の群れがある」「オランダは水から出現した国。水に停泊中の国。水差し(カラフ)の塩水を通して太陽光が濾過される。そして常に水でいっぱい」(ゴンクール兄弟)
「水面から立ちのぼる霧と透けたヴェールが、景色を絵画的にする。湿った大気は輪郭線をやわらげ、優しい銀灰色の色調を与える。光と大気で湯浴みをしているようだ…」(マックス・リーバーマン)
「空は十分に見えない。空は上から見るべきだ。空と光、それは魔法使いだ」(ヨーハン・ヘンドリック・ヴェイッセンブルッフ)

湖水は健やかに波打ち雲を映す/刻一刻と変わりながら/同じであり続ける…
日は昇り また沈む/低く高く また低く輝き/辺りは果てしなく同じで/一瞬たりとも同じではない…(ネスキオ)

「オランダの真っ直ぐな地平線は何の変哲もない」「空中に漂うモヤのせいで輪郭線は柔らかく、眠気を誘うようにぼんやり霞んでいる。透明さの違いや、色の濃淡のニュアンスに驚かされた」(イポリット・テーヌ)
南仏プロヴァンス地方において
「ここでのモチーフはオランダと全く同じだ。違いは色にある。太陽が輝くところはどこも硫黄色だ。何という緑! 青!」「南にとどまり自分の色を改善すべきだと、この海を見て分かった」(ヴィンセント・ヴァン=ゴッホ)

数年前に見た光景が、昨日のことのように蘇ってきた。
美術史家たちが口をそろえていうように、美術史的な意味での「オランダの光」は、やはり描かれた絵画のなかにしかない。
僕が見たいと思ったのは、カメラ・レンズ&フィルムによって採取された、21世紀初頭のオランダの光である。
そして僕は、一日のうちに四季が訪れるといわれるオランダの、その土地の低さ(地平線)や強い風(流れる雲)までをしっかり感じることができた。

それは一年前のようだ/あるいは一年後のようだ/もう一度/光を眺めてみる/いつも同じで/いつも違っている(ネスキオ)
http://www.icnet.ne.jp/~take/vermeerhollandslight.html

『HOLLANDS LICHT』、英題『DUTCH LIGHT』、2003年、蘭、ピーター=リム・デ・クローン Pieter-Rim de Kroon 監督作品。


October 13, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『靴に恋して』

意味深長な邦題である。
恋と愛は違う。愛はムツカシイ。
いや、愛に実際に出会うだけなら、むしろ容易いことなのかもしれない。
偶然だってある。気まぐれだって。

メイキング・ムービーに、本編以上に愛があふれていたりするのは皮肉である。
(この映画のことではない。)
ほんとうに難しいのは、愛を描くことだ。
そして愛を誰かに届けるためには、おそらく形が要る。
それに直接ふれることが出来ないのならば、せめて目に見えるように、それをおさめる箱やリボンが必要なのだ。
このことは、愛を持続させることに通じている、…のかも。

5人の女たち。
年齢も境遇も大いに異なる彼女たちは、それぞれにそれぞれの悩みを生きている。
そして彼女たちのだれもが、不幸からの再生をめざしている。

高級靴店の店員レイレ23歳(ナイワ・ニムリ Najwa Nimri)の夢は靴デザイナーになることだが、店から新しい靴を盗んでは薬でラリってクラブで踊るという毎日で、ついには恋人クン(ダニエレ・リオッティ Daniele Liotti)に去られ…。
郊外の高級売春宿を預かるママ、アデラ49歳(アントニア・サン・フアン Antonia San Juan)には知的障害をもつ娘がいて、夢は小説を書くことだが、高級官僚のレオナルド(ルドルフォ・デ・ソーザ Rodolfo De Souza)から予期せぬ求愛を真面目にされて…。
知的障害をもつ娘アニータ25歳(モニカ・セルベラ Monica Cervera)は、母アデラに雇われた看護士の好青年ホアキン(エンリケ・アルキデス Enrique Alcides)にほのかな恋心を抱きはじめるが…。
スリッパしか履かないタクシードライバー、マリカルメン43歳(ビッキー・ペニャ Vicky Pena)は夫の急逝後10年間、ひたすら3人の前妻の子を育ててきたのだが、次女は家に寄りつかず、引きこもりで自殺未遂常習の長女は薬漬けの生活が改まらず…。
高級官僚レオナルドの妻イザベル45歳(アンヘラ・モリーナ Angela Molina)は子無し、足にきついワン・サイズ小さい高級靴を買い漁るだけでなく、万引きまでして集めることだけが悦びだったが、若い足治療師と出会い…。
やがて「靴」がメディアとなって、彼女たちの運命は交錯する。

空が飛べそうなくらいに眩しく、かっこいい黄色のスニーカー。
床をこするヒールの音、人生のようなタンゴとタンゴのような人生!
最後にリスボンが(海へと広がるテージョが、青い空が)映るのは個人的には涙ものでしたが、いよいよのラストでレイレが自分の手紙の内容を読むナレーションの部分の音声/音楽的な盛り上げは、正直ちょっと恥ずかしい気もしましたし、(とくに男同士の)愛の肯定に力が入りすぎ?(あれでサラッと?)と感じた部分もありましたが、どうしても他人とかかわらずにはいられない関係性のなかで、他者を支え/他者に支えられる、そのあり方というのが本当にむつかしいけれど、それでも(とくに女の男からの)自立を応援しようとする姿勢があって、全体的にかなり好印象を抱いた映画です。

男たちがわりあい典型的に描かれている一方、女たちはほんとうに個性的で美しい。
レイレがいちばんそれに近いかもしれないけれど、顔やスタイルの整った、いわゆる綺麗所は一人も出てきません。
愛の困難さのなかにあって、ロラ・ドゥエニャス(Lola Duenas)演じるイザベルの友人ダニエラの悲劇を通して、(とくに男の女への)暴力だけはきっぱりと否定されていました。

『PIEDRAS』、英題『STONES』、2002年、西班牙、ラモン・サラサール Ramon Salazar 監督作品。


October 11, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『孤独な場所で』

サイコ・サスペンス/恋愛映画の傑作。
テンポがよく、スリルもサスペンスも楽しめる。

ディクスン・スティール(ハンフリー・ボガート Humphrey Bogart)は、ハリウッド映画のスクリーンライター。
彼は、クラブのホステスを自宅まで連れてくるのだが、深夜、帰宅途中の彼女が、何者かによって殺される。

ディクスンに殺人の嫌疑がかけられるが、向かいの部屋に移ってきた女優ローレル(グロリア・グレアム Gloria Grahame)の証言によって、彼のアリバイが成立する。
やがて二人は急速に親しくなり、ローレルはディクスンを愛し始めるのだが、同時に、自らの暴力衝動を抑えられない彼を、しだいに疑うようにもなっていくのだった。

すばらしい才能をもちながら、社会にも、仲間にも、とけ込めないライター。
はじめて出会った運命の女性は、自分を理解し、すべてを優しさで包みこんでくれそうに思えたのだった。
だが彼女から見れば、あまりにも真っ直ぐでピュアな彼の愛は、やや急ぎすぎのように見えてしまうのだ。

撮影のバーネット・ガフィ(Burnett Guffey)によって、ちらちらと顔に光を当てられたボガートは本当に恐ろしい。
犯人はだれなのか、そして彼らの愛はどこに向かうのか。

彼の親友がローレルに諭すようにいう「そのすべてが彼なのだから、丸ごと受けとめるしかない」という意味のセリフが、なんとも痛々しく響く。
ボガートの演技は、彼自身の弱さをさらけ出していると思わせるほどに、すばらしい。
そしてグロリア・グレアムは、文句なしに美しく、画面に映っているだけでドキドキしてしまう。

『IN A LONELY PLACE』、1950年、米、ニコラス・レイ Nicholas Ray 監督作品。


October 09, 2005 編集
☆☆☆[film]『蝉しぐれ』

久しぶりの映画館(ピピア)。
見終わってMKKは開口一番、よかった、と満足気。
このあいだ見てきた「忍 SHINOBI」と比較しても、こっちのほうがずっとよい、らしい。

たしかに、何本もの刀を畳に突き刺しての大立ち回りは、殺陣のかっこよさを犠牲にしても、ウソっぽさを排除しようとしていたし、文机の脚を斬るシーンにも迫力があった。
文四郎の袖をそっと摘む佐津川愛美は可愛いし、しっかり腕ごと掴んでしまう木村佳乃の演技もいい。

ただ、お門違いかも知れないけど、藤沢周平原作時代劇とはいえ、だからこそ、もう少し冒険があってもよかったのでは?
今田耕司やふかわりょうが出るのなら、もっと笑わせてももらいたかったし。

監督・脚本 黒土三男、主演 市川染五郎、木村佳乃。


October 07, 2005 編集
☆☆☆[book]『告白』、町田康、中央公論新社、2005/3

あかんではないか。
泣いてまうよ、これ。
語り手の主人公への距離感が、絶妙やね。
超越的なものに対する、いうたら垂直的な感覚を、こないに水平的に表現できるんや。
事件のあとを書いた部分も、好きやなあ。

行為(選択)に対する言葉(意識)の遅れについても、十分に自覚的。
それがもう、熊太郎が吸うたり吐いたりする息のなかにまでとけこんでる感じで、「これが問題なんです」いう看板はどこにも見あたらへん。
それをまた河内ことばで実現させてるとこが、ちょうウレシイやんか。
(ちょう、って「超」とちゃうよ、ちょい、ちょこっと、の意味ね)

河内の人間やのうても、僕らは熊やんの声を聞いているだけで、知らんうちに社会から、現実から、どんどんズレていける、離れていける。
くほほ。自分だけはすぐに戻れる安全なところにいながら。
うぅわ、これって熊やんがいっちゃん嫌ろてたことやんか。
(…あかんかった。)

告白は、つねに遅れる、だけやない。
微に入り細をうがっても、コトバで心の真実(ほんとう)をいうことは、でけへん。
熊太郎は、漱石(『こゝろ』)も失敗したこのアポリアを生きている。

この小説は、明治時代に河内で実際にあった「水分騒動」から想を得ている。
もちろん、河内音頭(京山幸枝若「河内十人斬り」)も参考音源に挙げられている。
語り手の「あかんではないか」の突っこみに始まり、主人公の「あかんかった」の独白に終わる傑作長編である。


October 06, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『暗黒への転落』

Crime / Film-Noir 映画の佳作。
オープニングで、いきなり魅せてくれる。

人通りの多いにぎやかな繁華街にパトカーが駆けつけてくる。
警官がバーへの階段を上る頃にはすでに群衆が店を取り巻いている。
強盗に入った犯人が裏口から逃げ階段の踊り場に出てきた警官と撃ち合いになる。

警官を射殺して逃げた犯人を追う警察は容疑者を片っ端から逮捕し移送車に放り込んでいく。
並んだ取調室の最後で青年が弁護士を呼ぶ権利があると主張する。
一気に息つく暇もなく続くこの場面までが約3分。

ハンフリー・ボガート(Humphrey Bogart)が、弁護士アンドリュー・モートンを演じる。
モートンは、恋人のソーシャル・ワーカーの無言の圧迫に負けて、スラム育ちで犯罪歴のある青年ニック・ロマーニ(ジョン・デレク John Derek)を弁護する。
青年の無実を信じて熱弁をふるうモートンだが、法廷では思わぬ結末が彼を待ち受けていた。

公判中に青年の過去の回想シーンが何度か挿入されるのだが、最初が短いカットでつないだ速いテンポの展開だっただけに、少しスロー・ダウンした印象を受ける。
ただ、ねらいが一種の社会批判(社会こそが犯罪を生み育てている)にあるとすれば、この丁寧さはしょうがないだろう。
ニック・ロマーニが社会に溶け込もうとして、しかしその社会からはじき飛ばされてしまう姿を映画は丹念に描いている。

映画が活き活きとするのは、やはり犯罪シーン。
それから、キス・シーンがなんとも美しい。
撮影は、バーネット・ガフィ(Burnett Guffey)。
『KNOCK ON ANY DOOR』、1949年、米、ニコラス・レイ Nicholas Ray 監督作品。


October 04, 2005 編集
☆☆☆[book]『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュV』、中沢新一、講談社選書メチエ、2003/1

「人間のおこなう行為としての「経済」の現象が、交換の原理を中心に組織されているのではなく、贈与と純粋贈与というほかの二つの原理としっかり結びあった、全体性をもった運動として描かれなければならない」
そんなふうに考える著者が、モースの失敗を乗り越えて、新しく独自に「贈与論」を書き改めようと試みたのが、本書である。
レヴィ=ストロースの「浮遊するシニフィアン」を足がかりに、経済学と精神分析学との構造的同型性を見いだし、つまりはマルクスの「資本の増殖」とフロイト=ラカンの「悦楽」とを結びつけつつ、グローバル資本主義(交換−テクネー−経済−近代技術)の彼方に、来るべき人類の社会形態(贈与−ポイエーシス−愛−自然)を展望する見取り図を提示してくれる。

志賀直哉の「小僧の神様」、ラスコーの洞窟壁画、北欧神話、コルヌコピア、聖杯伝説、クリスマス、アメリカ先住民のポトラッチ、親鸞の思想、クエーカー教徒の集会など、論証のための具体例もなかなかに楽しめる。
神話的世界は、現代においても決して死に絶えてはいない。
著者は、資本主義(純粋贈与−交換−資本)が見捨ててきたものを、これまでもなんとか生き延びてきた神話的世界(純粋贈与−贈与−純生産)から拾い上げることによって、人類と自然との愛の関係(適切な問いかけ−自発的な応答)を、取り戻そうとしているのである。
著者本来の怪しさ(=魅力)あふれる一冊。


October 03, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『イタリア旅行』

wealthy and sophisticated な二人は、仲がいいように見えて、じつは崩壊寸前。
結婚して8年目のカテリーナとアレックスを、イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)とジョージ・サンダース(George Sanders)が演じる。
ふたりは、叔父の遺産であるイタリアの別荘を売りに来た。
しかし妻は、昔の恋人(詩人)の面影を追ってひとりナポリの名所旧跡を巡り、夫は夫で、カプリでこっそり浮気を試みる始末。
お互いに離婚以外に道はないと、いったんは相手を見限ったかに見えた二人は、無理にもと勧められ、そろってポンペイ遺跡の発掘現場に向かう。

そこで、抱き合ったまま掘り出された男女の遺体を見た妻は、苦しくなって泣き崩れる。
帰り道、祭りの行列に出会って車から降りたふたりだったが、洪水のような群衆に妻が巻き込まれて…。
え?という、やはり唐突に思えるラスト。
ひとが人に対して「素直」になるためには、何が必要なのだろうって、条件をあれもこれもって数え挙げていくと、ものすごくいっぱいありそうな気もするけど、そんなハードルなんて一切なかったかのように、あっさりと「素直」が達成されてしまう瞬間が、ふいに訪れたりもする。
それぞれの過去、ふたりの時間の積み重ね、いまここにある現在、そして開かれた/閉じられた未来。
これからどうするんやろ、このふたり。

外国映画のタイトルをなじみやすい自国語の題に変えるのは、どこも事情は同じようで、この映画も、アメリカでは「Journey to Itary」以外に「Strangers」、イギリスでは「The Lonely Woman」というタイトルで知られているらしい。
J=L・ゴダール(Jean-Luc Godard)は、この映画を見て「男と女と一台の車とカメラがあれば映画ができる」という、あの有名なセリフを口にしたんだそうな。

『VIAGGIO IN ITALIA』、1953年、伊、ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini 監督作品。


October 02, 2005 編集
■[DVD]☆☆☆『ストロンボリ/神の土地』

夫と一緒に観た「無防備都市」にショックを受けたバーグマンは、今度は一人で「戦火のかなた」を観に行く。
そして「もしもあなたの作品に、英語は話せるけれど、イタリア語は『Ti amo(あなたを愛しています)』しか知らないスウェーデン女優が必要なときには…」という有名な手紙を送る。
感激したロッセリーニは、その返事として、早速この映画を構想したそうだ。

第二次大戦で祖国リトアニアを追われた避難民のカリン(イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman)。
彼女は、収容所から出ていきたい一心で、言い寄る青年アントニオ(マリオ・ビターレ Mario Vitale)の求婚に応えて、彼の島に渡る。
しかし彼の故郷ストロンボリ島は、彼女の想像とはかけ離れた土地であった。

情け容赦なく噴火する活火山。
溶岩や噴石に呑み込まれそうな痩せて乾いた土地。
貧しく粗野で、余所者に冷たい人々。

戦争で自分の舟を失ったアントニオは、一介の見習い漁師となって生活を支えようとするが、殺伐とした島の暮らしにカリンは耐えられない。
灯台守の男との関係を疑ったアントニオは、カリンを家に監禁してしまう。
横暴に耐えかねたカリンは、妊娠中であるにもかかわらず、火山を越える決心をし、山に登っていくのだったが…。

お得意の? 唐突なラスト。
山の上での夜明けを迎えるシーンは、「暗夜行路」(志賀直哉)ラスト近くの自然との一体化の場面よりも、ずっといい。
行くのか、留まるのか、いずれにせよ、彼女には生命力がある。

マグロ漁の場面、火山の噴火と海へと避難するシーンが、圧巻。
もちろん、夫も子供も、ハリウッドも捨てて、ロッセリーニのもとへ奔ったバーグマンの情熱が、この映画に反映されていないはずがない。

『STROMBOLI, TERRA DI DIO』、1949年、伊・米、ロベルト・ロッセリーニ Roberto Rossellini 監督作品。