2005/11

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November 30, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『座頭市あばれ凧』

シリーズ第7作。
天井から垂直に見下ろすショットに続いて、ハエの動きをなぞらえた手持ちカメラによる映像、居合いで2匹のハエが真っ二つに、というオープニング。

旅の途中で見知らぬヤクザに鉄砲で撃たれた座頭市(勝新太郎)は、お国(久保菜穂子)という女性に助けられたことを知り、彼女を訪ねて鰍沢に行き、その父親である津向の文吉(香川良介)の家に按摩兼手伝いとして入り込む。
文吉は富士川の渡しの仕事を任されていて、今年も河原で花火をあげて人々の娯楽に供するつもりでいたが、川を挟んで対立する吃安(ドモヤス)の仇名をもつ竹屋の安五郎(遠藤辰雄)一家は、代官と組んで文吉の仕事を横取りしようとしていた。
市を撃ったヤクザは、じつは文吉の長男清六(江田島隆)で、その清六が吃安らの奸計にひっかかって捕らえられ、縄張りと交換の取引材料にされるのだが、市は吃安宅に乗り込んで監禁されていた清六を救出する。
しかし事情を知らない文吉が、凶状持ちの市を匿うのかと吃安に脅されて、市を家から追い出すやいなや、吃安の用心棒たちが乗り込んできて…。

ここでも、水中に強い市が見られる。
花火師久兵衛(左卜全)と市とのやりとりが面白い。
花火を音で聞く市が、異変に気づいて文吉のもとへ駆け戻る。

1964、日、池広一夫監督作品。

November 29, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『座頭市千両首』

シリーズ第6作。

女馬子(坪内ミキ子)に引かれて、馬の背で揺られている座頭市(勝新太郎)。
市は、三年前にやむなく斬った男(じつは女馬子の兄なのだが)の墓参りに板倉村を訪ねるが、百姓たちが代官所に上納するはずだった千両箱が強奪される事件に巻き込まれる。
疑いを晴らすために、千両箱を取り戻そうとする市に、追いつめられた国定忠治(島田正吾)一家、代官と組んで悪巧みを働く紋次と用心棒仙場十四郎(城健三朗、後の若山富三郎)らが絡む。

4作目にちらっと出てきた名和宏のあっさり粋な忠治と違い、島田正吾は濃すぎるくらいの重厚な演技だが、乾分思い、百姓思いで、男気のある忠治、という感じはよく出ている。
市の忠告に従って赤城山を下りる忠治たちと彼らを追って山道を上ってくる捕り方たち。
暗闇に浮かぶたくさんの提灯とその動きが美しい。
山肌を埋めた提灯をバックに、急な勾配をものともせず、忠治たちを逃がすために囮となって闘う市は、板割の浅太郎の子供を抱えての奮迅である。
撮影は宮川一夫。
一文銭を斬り合う勝負で見せる市の技も冴えているが、最後の十四郎との対決では、長い鞭を見事にさばく十四郎や馬に引きずられる市のシーンなど、西部劇風のアクションが見物。

特典映像にある、座頭市姿のままの勝が野球をしている写真(バットをもってボールを空振りしているショット)がいい。

1964年、日、池広一夫監督作品。


November 28, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『座頭市喧嘩旅』

シリーズ第5作。

堂山の彦蔵(杉山昌三九)一家と下妻の藤兵衛(沢村宗之助)一家は互いに張り合っていて、どちらも座頭市(勝新太郎)を用心棒にしたがっている。
偶然に江戸の大店の娘お美津(藤村志保)を助けた市は、油断からお久(藤原礼子)にさらわれ、それを横取りした駕籠屋留五郎(吉田義夫)から一旦は取り返すのだが、今度は藤兵衛の乾分、岬の甚五郎(島田竜三 )らにお美津をさらわれ、とうとうヤクザたちの抗争に巻き込まれていく。

あどけなさを残す美津が、青空の下、市と並んでおにぎりを頬張る場面は印象的だ。
「あ、トンボ」とお美津。
トンボが草の茎先にとまる。
市のほっぺたについた飯粒をとろうと美津が手を伸ばす。
その手を左手でとって固まる市(誰かが近づく音を聞いている)。
右手の握り飯を落としながら「動くんじゃねぇよ」。
市の顔のアップから美津の顔へパン(心配そうな美津)。
トンボ、茎先から飛び上がる。
斬り込んでくる男たち。
座ったまま一瞬の居合い抜きで三人を斬る市の仕込み杖。
トンボ、再び茎先にとまる。
刀、鞘に収まる。

お銚子を放り投げて、落ちてくる口に箸を差し入れるという市の「芸」も披露される。
複数の大八車に市が取り囲まれるシーンは、この作が最初か。
斬り合いの最中に、市が井戸の水を汲んで飲む場面がある。
市を慕う18歳の若者お松役の中村豊といい、お久を演じる藤原礼子といい、ちょっとねじれた複雑なキャラを巧く演じている。

1963年、日、安田公義監督作品。


November 27, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『座頭市兇状旅』

シリーズ第4作。

青い空と白い雲。
前作から一転して、画面が明るい。
夏の日差しが、痛く突き刺さるようにまぶしい。
空を仰ぐ座頭市(勝新太郎)の顔には、玉の汗が滴っている。

夏祭りを迎えた上州下仁田では、二代目を継いだ若い佐吉(成田純一郎)一家の縄張りを先代に追われた小幡屋の島蔵(松居茂美)が取り返そうとねらっていて、矢切の貸元をはじめとする周囲の親分衆にもカモにされようとしていた。
島蔵の娘のぶ(高田美和)に好意をもった市は、彼女が佐吉を思っているのを知って佐吉を助けようとするのだが…。

座頭市が超人的になり、斬る人間の数が桁違いに増えたのは、この作からか。
市が相撲をとるシーンや小幡屋の二階にある物干し場でフンドシを干す場面も印象的だが、市の憧れの女性おたね(万里昌代)が、市と対決するヤクザの用心棒の情婦となって現れるところも見物。
浪人は、市の首に三百両の賞金が掛かったとき、斬ろうと言い出したのはおたねだったと暴露する。
「女はいつまでも十七の小娘ではおらんぞ」と聞いて、市はしかし「おれの夢を消そうってのかい」「おたねさんは、美しい人だッ!」と応える。
その浪人との対決では、市の刀が折れ、よもやと思われた瞬間、柄にも仕込みが…、という裏技?が見られる。
ちらっとだけ顔を出す国定忠治(名和宏)が、かっこいい。

最後の別れの場面もいい。
最初に、市が斬った男文珠の喜助(小林勝彦)の母親ハチマキ婆さんが「いまこうしているあんたがオレの息子だったらなあ」と市に抱きつき、市も「おっかぁ」と応えるところ。
佐吉とのぶの手と手をつなぎ合わせた市は、「末永くな」と挨拶し、杖をもたずに陽気に踊りながら去っていくのだが、その市の表情がだんだん暗く曇り、険しいものになっていくのである。

1963年、日、田中徳三監督作品。


November 26, 2005 編集
☆☆☆[book]『近代文学の終り』―柄谷行人の現在,柄谷行人,インスクリプト,2005/11

久しぶりに柄谷行人を読む。
雑誌「國文学」に載ったもの以外は、はじめて読む文章。
講演か対談に加筆したものがほとんどだが、どうやら岩波書店から出た「定本柄谷行人集」(の、とくに第4・5巻かな?)をわかりやすく語りなおしたもの、という印象を受けた。
その「定本」をぼくはまだ買っていないし、だからきちんと読んでもいないので、僕の理解は「定本」以前のものである。
したがって帯にある「新展開」については、ぼくは判断する立場にない。

それを断ったうえでいうと、やっぱり気になったのは、アソシエーションのことである。
近代国家を考えるとき、たとえば下部構造と上部構造とに分けて捉えるのではなく、「互酬制」「収奪と再分配」「商品交換」というそれぞれ「国民(ネーション)」「国家(ステート)」「資本」の基盤となる三つの交換形態とその連接から構造的に捉えなおしてみること。
ここからさらに、上の三つの交換形態に収まらないものをX(「トランスクリティーク」ではそれをアソシエーションとしていた)とし、それ以外に資本制=ネーション=ステートを揚棄する道はないと、柄谷行人は指摘していたのである。

アソシエーションとは、「相互扶助的ではあるが、共同体のように閉鎖的ではない。それは商品交換を通して、共同体から出た諸個人によって形成される自発的な交換組織である」とされていた(「トランスクリティーク」p406)。
そして対抗運動は、生産過程において(たとえばストライキ)ではなく、流通過程において(たとえば不買運動)なされるべきだとされる。

対抗運動が出発するのは諸個人からである。しかし抽象的な諸個人ではなくて、社会的な諸関係のなかに置かれた諸個人である。諸個人は、ジェンダーやセクシャリティー、エスニック、階級、地域、その他のさまざまな関心の次元に生きている。それゆえ対抗運動は、それぞれの次元の自立性を認めつつ、したがってまた諸個人のそれらへの多重的所属を認めつつ、それら多数次元を総合するようなセミラティス型システムとして組織されねばならない。(同上p447)

中心をもたなければ、孤立し離散することになるが、「実体的な中心が権威的に物象化されてしまうこと」がないかぎり、中心化を恐れず、代表選出にくじ引きを導入し、「中心があると同時に中心がないような組織」を作ればよい。

資本と国家に対する内在的な闘争と超出的闘争は、流通過程、すなわち、消費者=労働者の場においてのみつながる。なぜなら、そこでのみ、個々人が「主体」となりうる契機が存するからである。そして、アソシエーションとは、あくまでも個々人の主体性にもとづくものである。しかし、右に述べたようなセミラティス型組織においては、諸個人の意志を超えた、そして諸個人を条件づける多次元の社会的関係は決して捨象されないのである。(同上p448)

ここから、どこまでどう進展したのか。
やっぱり「定本」を読んだほうがいいのかな。
(ちなみに、共同主観性や一般性とは異なる普遍性、単独性から直結する普遍性とはどういうものなのか[その社会的対応物がアソシエーションということになるのだが]、そのあたりの柄谷の議論のわかりにくさについては、対談相手の一人大澤真幸が指摘している。本書p234)

しかし何といってもこの人のおもしろさは、「直観」によって意外なものを結びつけてしまう力であり、いわば無意識力ではないか。
その意味でフロイトの「超自我」をとりあげて、意識的なものに対する「無意識」の強さを強調しているところもなかなか興味深い。

一九二○年代において、ワイマール憲法や民主主義体制は、第一次世界大戦の勝利者側から押しつけられたものであり、だからわれわれはそれを拒否しなければいけないというような風潮が強くありました。いうまでもなくその結果がナチの勝利になったのです。このような時期にフロイトは「文化の不満」という論文を書いた。その「文化」とはいわばワイマール体制のことです。文化を否定し自然に帰れ、生命に帰れという時代の中で、彼はいかに居心地が悪かろうと、この文化(超自我)を廃棄すべきではない、なぜなら、それは外から来たのではなく内から来たものなのだから、とフロイトはいいたかったのだと思います。いいかえれば、それはドイツ人自身の戦争体験がつくったものであり、そのような「文化」がいかに神経症的であろうと、われわれはこれから癒える必要はない、と。しかし、一九三○年代にドイツ人はそこから癒えて「健康」になった、すなわち、ナチスになったのです。p104

そして日本の状況に振り向けて、柄谷行人はこういう。

現在、憲法九条を変えようという人たちが優勢になってきているように見えますけれども、そうではないと思う。憲法九条とは、戦後の日本人の攻撃性が内に向けられて作られた「超自我」なのだと私は思います。それは「無意識」です。だから、理屈では説得されないのです。……。憲法を変えようとする側から見ると、これぐらい不合理で執拗な相手はいない。というのも、相手は「超自我」ですから「意識」のレベルでいくら説得しても無駄なのです。p105

November 25, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『新・座頭市物語』

シリーズ第3作。

この作品からカラーになる。
生まれ故郷のすぐ近くまで帰ってきた市(勝新太郎)は、剣術の師匠伴野弥十郎(河津清三郎)と四年ぶりに再会し、成長したその妹弥生(坪内ミキ子)と心を交わす。
過去の因縁で仇を討つために市を追う執念深い島吉(須賀不二男)がいて、天狗党の残党たちと一緒になって弟子の親から金をだまし取ろうとする落ちぶれた弥十郎がいる。
弥生は市と結婚したいと兄に訴え、しかし弥十郎は市にひどい暴言を浴びせて破門にするのだった…。

市と島吉と弥十郎の三つ巴の絡まりが、次第に解けてきて、やがては師弟の対決となるのだが、悪役の二人がいい。
情にほだされて仇討ちを諦め、結果、哀れな最期を迎えることになる島吉を演じた須賀不二男は、最高にイイ役をもらったのではないか。
それから河津清三郎の顔だが、作って見せなくてもフツウにもう恐ろしく暗いのは(カラー作品だというのを忘れさせるほどだ!)、これはもう流石というほかない。
居合いの見せ場は、師匠宅での四方に立てた燭台上のローソクを瞬時に斬る場面だが、これが弥十郎の奸計に利用されるのだ。

あと、弥生と市が一緒に月を見るシーンがやはりある。
「お月様がきれいだといわれれば、ワタシのこの目のなかにもきれいな月が宿ってくれます」
一本の笹でつながった二人が竹林を抜けていく場面も(竹林の恋人たちは日本映画の定番シーンではあるが)印象的だ。
珍しいのは、座頭市が本気で命乞いをする場面だろうか。
弥生との結婚を決意してカタギになろうとした市は、島吉の前で仕込み杖を投げ捨てて土下座するのである。

「市はやっぱりこんな男でした」
もちろん哀しいのである。
だが、カタギにならない/なれない市に、やっぱり安心もしてしまうのである。

1963年、日、田中徳三監督作品。


November 24, 2005 編集
☆☆☆[book]『意味に餓える社会』,ノルベルトボルツ(Norbert Bolz) 村上淳一訳,東京大学出版会,1998/12

「失われた意味を求めることは実は複雑性からの逃避である。」
これが、本書全体を通じてのテーゼである。
ボルツは、「生きる意味」を問い、「不安」を口にすることは、じつは「思考の遮断」であり、「世界の複雑性を他人に背負わせること」であり、つまりは「逃避」にすぎないのだという。
「霊魂の救済は快楽と体験によって取って代わられ、職業はもはや人生を支える天職ではなく何時でも変えられるジョブになり、政治家はカリスマをもたず、事物はその魔力を失ってしまった。」
こんな世界に対して、ぼくらはどう向き合えばいいのだろうか。

本書のねらいは、次のように示される。
「この本は一方で、われわれの社会がどのように『意味喪失状態』で安定化したかを明らかにし、他方で人間本位主義が崩れた後の文化に生きる人々がどのようにして別の意味世界を構想するかを明らかにする。」
その成果のあれこれをここで簡要にまとめる力はぼくにはないが、今回とくに面白く読んだのは、第4章「批判的意識の大思想家たち」である。
(もちろん、ボルツにとっては「批判理論」の役割は、すでに終わっているのであるが)

エルンスト・ブロッホを論じて

近代の自己主張的自我は、神を呼び出す儀式に酔うことなく、自分自身をドラッグとして用いる。このドラッグの陶酔作用によって、単なる自己主張では足りないと思わせるような深層が自我のなかに「発見」される。それ以来、大きな価値と感情の舞台で演じられるものが増えることになる。すなわち意味喪失について語ることが、「自己実現」のための形而上的隙間市場を生むのである。p154

ロマン主義からポストモダンまで、個性がめざすのは最高の普遍性、すなわちどんな他者とも異なるという意味での普遍性である。ところがそれとは全く逆に、ブロッホが自分の自我を守るために使うのは、私が私をもつためにはまずわれわれが生成しなければならないという巧みな論法なのだ。p155

テーオドア・アドルノ(テオドール・アドルノ)を論じて

かれは自分の思想がパラドクスをはらんでいることを明言している。「自分の弁髪をつかんで自分を泥沼から引き上げようとするミュンヒハウゼンの仕草は、確認することだけ、または構想することだけに甘んじてはいられないすべての認識のシェーマになる」。これは、「否定弁証法」の手続きの見事な記述になっている。p165

批判に取って代わるのは観察である。概念を駆使する哲学者の労働市場において、将来性があるのは、理論をデザインする仕事なのだ。哲学者は永遠の真理を求めるのをやめて、理論の半減期や失効日を計算する。かれはもはや、意味への問いには答えない。考えてみれば、そんなことは、かつては哲学者ではなく神学者の仕事であった。しかしいま見たようにアドルノは、美学という見せかけをとった神学により、もう一度魅惑的な意味提供を試みたわけだ。そのことは見抜いておく必要がある。p167

ヴァルター・ベンヤミーン(ヴァルター・ベンヤミン)を論じて

宗教の機能は明らかに、幻滅を管理することにある。ところで、ベンヤミーンにとっての大きな幻滅は、「体験」という媒体の没落であった。ベンヤミーンにとっての宗教の意味は、「具体的な体験が同時に全体の体験でもあること」を保証するのは宗教しかないという点にあった。p168

ベンヤミーンが注目するのは、「資本主義のもつ本質的に宗教的な構造」なのである。それはつまり、西洋の歴史全体を一つの寄生的関係の発展として理解しなければならないということだ。資本主義はキリスト教に寄生して発生し、キリスト教の力を養分として生きてきたので、ついには宿主と一体化してしまった。だから、近代におけるキリスト教の歴史は資本主義の歴史でもある、というわけだ。p169

祭儀をきちんと執り行うことは、不気味な偶然的世界において人間を安心させる機能を、いつも果たしてきた。人間はつねに偶然に直面して生きてゆくことなどできないから、人為的な必然を求める。それが祭儀なのだ。大ざっぱな言い方をすれば、儀式は不確定性を埋め合わせる。啓蒙が成果を挙げることによって生ずる最も重大なマイナスは、おそらく、呪術の世界の魔力が失われるということであろう。……。科学・技術による近代世界の脱魔術化に対抗して、今日の祭儀マーケティングは、美的な魔法による再魔術化の戦略をとる。p172


November 23, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『続・座頭市物語』

シリーズ第2作。

船から突き落とされる瞬間に、後ろ向きのとんぼ返りをしてみせ、川に落ちる寸前に、相手に斬りつけ傷を負わせる。
のっけから、居合いの超絶技巧を見せる座頭市(勝新太郎)だが、水中に逃れるこの冒頭のシーンが伏線になっている。
一年ぶりに平手御酒の墓参りにやってきた市は、その昔、女をめぐって兄の与四郎(城健三朗、若山富三郎の大映時代の芸名、勝の実兄)と争い、その片腕を切り落とした過去があった。
今や凶状持ちの極悪浪人に落ちぶれた兄と、再び剣を交えることになった市は、しかし捕り方に追われる兄を川に投げ、自らも飛び込んで、瀕死の兄の窮地を救うのだが…。

意外にも、水に強い市を見ることができる。

1962年、日、森一生監督作品。


November 22, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『座頭市物語』

シリーズ第1作。

原作は子母沢寛。
モノクロで撮られたのは第2作まで。
その味わいには、何ともいえない深さというか、陰翳があるのだが、ここでは光と陰というよりは、はっきりいって暗さである。
その暗さに様々の色がある、とでもいおうか。

飯岡助五郎(柳永二郎)の客分となった座頭の市(勝新太郎)は、敵対する笹川繁造(島田竜三)の用心棒である平手御酒(天地茂)を敬愛しながらも刀を交える羽目になる。

市とは斬り合う運命にある平手御酒だが、二人が昼下がりに釣り竿を並べて長閑にふれあう場面がある。
市は、その息遣いのわずかな乱れから平手が胸を患っていることを見抜くのだが、平手はそれができる市の技量を認め、同じ一人の人間として彼と付き合おうとするのである。
また、市に気持ちを寄せていくヒロインおたね(万里昌代)と市が、二人で月を見る?シーンが印象に残る。
最後に市が目を開けてみせる場面あり。

1962年、日、三隅研次監督作品。


November 20, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『兵隊やくざ 強奪』

シリーズ第8作。

終戦直後の満州は、日本軍や日本人に対する民衆の反乱やゲリラ活動、敗戦を認めずに軍事行動を続けようとする部隊などがあって、混乱を極めていた。
敗戦を知って上官にお礼参りをした後、部隊を去った大宮(勝新太郎)と有田(田村高廣)は、ゲリラに縛られた5人の日本兵(江守徹ら)を解放するが、自分たちは敗戦を信じない加藤中隊に捕捉され、倉庫に閉じこめられる。
軍用物資を盗むために倉庫に現れた5人組だが、上官の松川大尉(夏八木勲)と一緒に八路軍から奪った10万ドルの金貨を独占したい彼らは、自分たちを助けてくれたはずの大宮らを見捨てていく。
銃殺される直前に、偶然ねずみに助けられ、からくも脱げ出すことができた二人は、ちょうど処刑寸前だった女ゲリラを助けるが、彼女はスキを見て逃走し、彼らは代わりに捨てられていた赤ん坊を道連れにするはめになる。

足手纏いになるのを心配する有田。
「それに満人の子か、日本人の子か、わからないじゃないか」
「でも人間の子供ですよね」と大宮。
子供を連れて行くことに同意した有田はしかし、すぐに「俺たちの子供」とまでいうようになる。
大宮が山羊を盗みに行っている間に、有田は八路軍に捕まり、機知を働かせて一人逃げ延びるのだが、この後は大宮の行動が中心に描かれる。
赤ん坊を抱えて有田を探す大宮に近づいてきた中国人郭は、頼みがあるといって彼のボス(じつは松川)に引き合わせる。
有田の捜索を条件に、大宮は松川が申し出た八路軍のスパイ三人を殺す仕事を引き受けるが、逆に八路軍に捕縛され銃殺されそうになる。
この窮地を以前助けた女ゲリラの楊秋蘭(佐藤友美)に救われると、さっそく大宮は松川に奪われた金貨を取り戻すべく飛び出していくのだった…。

時系列に沿って大映で撮った一連のシリーズという意味では、本作が完結編であり、第5作からこの第8作までの4本が、DVDBOX下巻に収められている(東宝配給で、シリーズ最終作の『新兵隊やくざ 火線』、1972年、増村保造監督作品は、入っていない)。
有田の出番が少ないのが残念で、そのために最後に三人で抱き合う二人の涙もやや嘘っぽいものになっているが、脚本はよく練られていて、複雑な展開が楽しめる作品になっている。


November 19, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『兵隊やくざ 殴り込み』

シリーズ第7作。

もはや好転しそうにない戦況のなか、激戦が続く最前線部隊。
連隊旗手の香月少尉(細川俊之)は義侠心あふれる大宮(勝新太郎)を見所のある男と評価し、大宮もまた是々非々を一徹に貫く香月を慕うのだった。
大宮が目障りな滝島准尉や赤池曹長は、知恵袋である有田(田村高廣)を引き離すために策を弄し、暗号教育を理由に有田を転属させる。
有田の心配したとおり、大宮はなじみの女郎さつき(岩崎加根子)に暴行した赤池に報復して営倉へ、さらには影沼少尉の情婦あけみ(野川由美子)にまで手を出して、とうとう重営倉行きとなる。

香月は大宮を気遣う同僚たちの嘆願もあり、彼を救おうと試みるが、影沼らに阻まれる。
そこで父親のツテを頼って内地に連絡し、期間を短縮して有田を原隊復帰させることに成功する。
早速、影沼たちが二重帳簿で軍票をごまかしていることをつきとめた有田は、彼らと取引して大宮を営倉から救い出す。
しかし戦況は急速に悪化し、香月隊は全滅する。
それを聞いた大宮は、連隊旗の奪還をめざして単身敵陣に殴り込みをかけるのだった…。

文学趣味のある女郎さつきが活字文化人として持ち出す与謝野晶子の歌と、無文字社会人的な身体的反応でもって大宮が苦し紛れに捻り出す浪花節とは、何とも可笑しい組み合わせ。
大宮の「殴り込み」は、いくら何でも荒唐無稽であるが、これを劇画だと思えば許せる範囲か。
殊勲をたてて帰還した大宮を迎える有田は、日本が敗戦したことを告げる。
このシリーズも本作で、いよいよ終戦を迎えることとなった。

1967年、日、田中徳三監督作品。


November 18, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『兵隊やくざ 俺にまかせろ』

シリーズ第6作。

敗戦間近の北満の戦況は最悪化していた。
大宮(勝新太郎)と有田(田村高廣)は、、過去に幾度も武勲をあげた歴戦の勇者揃いで誉れ高い木崎(須賀不二男)独立守備隊に配属されていた。
大宮は例によって上官たちに暴行し、例によって営倉行きになったりしていたが、男気のある岩兼曹長(内田良平)とは気心が通じつつあった。
有田は同郷の幼なじみである田沼参謀(渡辺文雄)に大宮の処遇を取りなすが、相手にされず、田沼が出世のために女を捨てた過去を持ち出して取引しようとするが、それさえ言下に断られてしまう。
戦線縮小を図り、各部隊を無事に転進させるために、通過地点の孟家屯へ岩兼曹長が二個分隊でもって増援に赴くことになり、有田と大宮はそれに加えられる。
戦闘の後、集落に怪我をして一人残っていた中国女秀蘭(渚まゆみ)を助けた大宮は、有田と二人で彼女を本隊に護送する途中、ゲリラに襲われ、大宮は捕虜となる。
大宮は、日本軍の密偵であったはずの張(杉田康)が実はゲリラの一味であり、秀蘭は彼の妹であることを知る。
秀蘭の好意によって逃亡した大宮は、奇跡的に有田と再会する。
しかし孟家屯ではゲリラの猛攻撃によって岩兼分隊は全滅寸前であり、無線を傍受した岩兼は、田沼の計略によって自分たちが囮にされ見殺しにされたことを知る。
やっと駈けつけた有田と大宮は、岩兼の今際の言葉で田沼の謀略を知り、専用の車で移動しようとする田沼と出会した二人は、田沼をさんざん殴りつけるのだった…。

1967年、日、田中徳三監督作品。


November 17, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『兵隊やくざ 大脱走』

シリーズ第5作。

終戦直前の北満州、脱走中にゲリラの多い地域に紛れ込んでしまった大宮(勝新太郎)と有田(田村高廣)は、軍隊にいるのがむしろ安全と考え、どうせならとゲリラの隠れ家で手に入れた軍服を身につけ、将校に化けて近くの部隊に合流する。
そこに彼らの正体を知る元憲兵伍長青柳(成田三樹夫)が、彼もまた兵隊に身をやつした姿で現れる。
青柳は、一緒に脱走しないかと誘うが、二人はその申し出を断る。
兵隊の癖が抜けず、また東京大学出身などとつい口にしてしまったために、何度もボロが出そうになる大宮だったが、訓練中に慰問団からはぐれた親子を救出する。
助けて納屋に泊めた笹原(南都雄二)の子供が、じつは少女だと判明して隊は一気に騒がしくなる。

最前線に向かうことになった准尉(北城寿太郎)や軍曹たち(五味龍太郎、千波丈太郎)は、翌日に出る最終列車に彼らを乗せて逃がすことを条件に、自分たちに娘を提供するよう笹原に「協力」を強要する。
「死んだ方がマシ」と嘆く父親に、娘の弥生(安田道代)は「死ぬのは厭」とその申し出に同意するのだった。
彼女に惹かれた大宮は、窮地を助け、彼女と結ばれる。
親子を送って汽車に乗せた大宮は、一緒に逃げようと誘われるが、有田を思って断念し、部隊に戻る。
避難民の救出隊に志願した有田と大宮は、メンバーに青柳も加えて出発するが、青柳は他の兵隊たちに二人の正体をばらし、脱走しようと持ちかける。
襟章をはぎ取り、自ら正体を明かした有田と大宮は、兵隊たちを説き伏せ、任務を遂行することに同意を得る。
病人や子供たちをトラックに乗せて救出した彼らは、残りの避難民らを引き連れて、徒歩でゲリラの攻撃から逃げ延びようとするが…。

ゲリラとの銃撃戦を共に闘い、入れ替えた心を、大宮たちと通わせた青柳の最期の描き方は、異論もあるだろう(最期までワルとして、そしてシリーズの最後まで、頑張ってほしかったなあ)。
当番兵役の芦屋雁之助&芦屋小雁兄弟が「八尾の朝吉」(芦屋兄弟も出演している映画「悪名」シリーズで、勝新太郎が演じる主人公の名前)を口にし、大宮が「知らねえ」と応える場面があって、笑える。

1966年、日、田中徳三監督作品。


November 16, 2005 編集
☆☆☆[book]『限界の思考』−空虚な時代を生き抜くための社会学,宮台真司&北田暁大,双風舎,2005/10/22

現代思想の流れと淀みを整理しながら、これからの社会学のあり方や可能性を探っていく宮台真司と北田暁大の対談。
ここでは、二人のローティ理解&批判に関する部分(の一部)を引いておこう。

北田氏の言。

 みずからの底の浅さを認める反思想という思想においては、みずからの政治的立場や権利、そして民主主義といった理念のすべてが偶然的なものとされるわけだから、結局、恣意的にやっていくしかない、となる。しかしもちろん、どこかに線を引く必要もある。そこでローティが持ち出してくるのが、立憲主義や自由民主主義を掲げて、それなりにうまくやってきた「アメリカ」の伝統、さらにはラディカリズムを拒絶し漸進主義的改良に勤しんできたニューディール的エートスです。アメリカ的自由主義は、いろいろと問題を起こしてきたけれども、ファシズムや共産主義よりはまぁ「よい」といえる社会を築いてきた。自由主義に哲学的根拠はないのだけれども、そこそこうまくやってきたんだからいいじゃん。重要なのは、根拠なき自由主義をもって世界の苦痛や悲惨をすこしでも減らしていくこと、苦痛や悲惨への共感能力を生み育てていくこと、その共感によって結ばれる「我われ」の範囲を拡げていくことじゃないか……。
 これはかなりよくできた議論で、共同体主義と帝国主義を媒介するものとなっています。アイロニカルな反基礎づけ主義が「伝統の外部に出ることはできない」という共同体主義を「正当化」すると同時に、共感能力に着目するというプラグマティックなヒュ−ム主義が「我われ」の拡大を「正当化」する。他者の苦痛を除去するために、自由主義をもって「我われ」を拡大すること自体がアメリカの伝統である、というわけです。アメリカにおいて、共同体主義と帝国主義は一体となる。恣意性を回避するために持ち出されるアメリカの伝統は、まさしく地獄へと通じるリベラルな善意ということができるでしょう。
 「俺たちはアメリカに住んでいるじゃん。アメリカの外に出られないよな」という共同体主義が、そのまま「アメリカの外って、あったっけ?」という帝国主義となる。ネグリとハートがいう〈帝国〉、国内的警察活動と戦争とが区別不可能になるような地政学的磁場、それがローティのアメリカです。……p307-309

宮台氏の言。

 だから、北田さんの理解と違って、ローティ的アイロニズムは現実に存在するコモンセンスのなせるわざというよりも、ハイデガー的=ニーチェ的=初期ギリシア的な主意主義の立場から、コモンセンスの空洞化がもたらす左翼的オブセッションや理性主義的オブセッションを批判するものです。
 ヨーロッパに準拠すると、アメリカは宗教的オブセッションが支配する、じつに野蛮な国です。宗教的オブセッションがコモンセンスを蹂躙してきた国だといってもいい。宗教的オブセッションが、ポスコロ的・カルスタ的な文化左翼や、ネオコン的な転向右翼にも、見出されます。
 だから、信頼ベースというよりは、不信ベースです。何かというとエビデンス(根拠)を要求し、ルールを明示するという作法も、そこに由来します。また、内発性ベースというよりは、不安ベースです。何かというと超越神にすがりつき、何かというと精神科医を呼び出す作法も、そこに由来します。このオブセッションが、ヨーロッパ人から見ると嘲笑のタネです。
 そういうオブセッシブな空間だからこそ、ローティはストレートな物言いではなく、アイロニカルな物言いを使うわけです。コモンセンスを信頼できるのなら、単にストレートな物言いをすればいい。コモンセンスが信頼できないオブセッシブな空間では、ストレートな概念的物言いがオブセッションを招くので、「なーんちゃって」と諧謔的に語るのです。p354-355

全体的なことでいえば、ぼくは、どこまでも「形式的ロマン主義」(「深み」を求めない)や「アイロニーの倫理」(現実主義に開き直らない)にとどまろうとする北田氏のクールな姿勢を支持する。
宮台氏が現代の思想状況のなかでクリティカルな部分を体現して見せていることには意義を感じるし、彼の主張は心情的にはもちろんよくわかるのだ。

でも、「なーんちゃって」に飽きてしまっても、ほんとうの「お祭り」なんてどこにもないことを自分ではよく知っているくせに、よくもまああんなふうに他人を煽れるもんだな、と思ってしまう。
「全体性への欲望」を抱えたまま「アイロニー」に耐えきれない人たちが踊れる場所を、わたしが提供しましょうなんて、なんとも傲慢で不遜な態度ではないか。
どれくらいの人たちがどの程度「踊る」と、日本社会全体にどういう「利益」がもたらされるのか、そういう見積さえ、あるのかもしれない。
ま、じっさい踊ってしまえば、誰に踊らされたか、とか、それが何をもたらすか、なんて、踊ってる人たちには問題じゃなくなってしまうんだけど。

欲望に自在にハマり、欲望から自在に退却する。
それは実現困難な、理想的振る舞いだ。
そして宮台氏が次のようにいうとき、それはほとんどぼく自身の理想でもある。

 依存ではなく自立を、韜晦ではなく諧謔を、オブセッシブではなく参入離脱自由なアイロニズムを、というのは、ぶっちゃけていえば「つまらないから、面白く生きよう」ということでもある。面白く生きるためには、全体性へと−−〈世界〉の根源的未規定性へと−−開かれている必要がある。この「開かれ」を忘れた瞬間、頽落してつまらなくなる。
 ここから先は見解が分かれるところだけれど… p431-432

まさに、ここから先が、ぼくにはわからないのだ。
「意味を問うのは逃げの姿勢だ」というノルベルト・ボルツの言を、今一度よく噛みしめるべきであろう。


November 15, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『ブレード・ランナー ディレクターズ・カット

「ブレード・ランナー」は、まるでスローモーションのようにじれったい。
中村雄二郎さんが取りあげていた「記憶」についてだけを問題にするなら、「攻殻機動隊」でだって扱っているし、「ブレード・ランナー」でなら、はじめから40分ほどを見ていればよいので、120分近くもお付き合いするのには、たしかに辛いものがある。

でも「ブレード・ランナー」には、もう少し大きなテーマも扱われている。
どうして人間は、自分がいずれは死ぬとわかっていながら、平気でいられるのだろう、という問題だ。
レプリカントと呼ばれるアンドロイド、とくに最新型のネクサス6というタイプは、製造後数年すると感情が生まれてくる。
そこから派生する厄介な問題を回避するために、彼らの寿命は4年と決められている。
彼らは通常、自分たちの「存在」のあり方に自覚的ではない。
つまり、自分たちの寿命を知らない。
法を犯し、人間を殺してまで地球に向かおうとしたレプリたちは、何を思ったのだろうか。
自分たちは、いつどのようにして生まれたのか。
これから、いつまで生きていられるのか。
これらの疑問の原点にあるのは、やはり「もう少し生きていたい」という生物の?個体的存在としての本来的な?欲望なのだろうか。

この欲望はまた、自分たちがレプリであることを彼らが「知った」ということとも、強く結びついているように思われる。
レプリたちが、人間とそっくりに作られているのは、なぜなのか?
人間とそっくりなのに、寿命だけが20分の1だなんて、おかしくない?
この映画には、ホルモンの異常で老化速度が極めて速い技術者、J・F・セバスチャンが出てくる。
「自分には、生命(寿命)は(技術的に)扱えない」という彼は、他の人間たちと比べて非常に短い時間しか与えられていない身の上の行く末を、すでに覚悟しているようなのである。

いや、そもそもこの世界には、ごく普通の人間が、とくに「覚悟」のようなものをしているわけでもなさそうな人間が、自分もまたいずれは死ぬということがわかっていながら、その「いつ」がわからないというそのことのおかげで、パニックに陥ることもなく、淡々と社会生活を営んでいるのである。
このことの不思議を、レプリたちはどう見ただろうか。
人間たちは、重い不安にも深い思考にも堪えきれずに、それこそテキトーに、死をどこかにうっちゃってしまう。
もちろん、死が本当にどこかに行ってしまうわけではないのだ。

いつでもこの生命にくっついて、ここに、すぐそばにあるのだけれど、見ない、見えないことにしてしまうのである。
「ブレード・ランナー」は、その見えなくしたはずの「死」を、目の前にもう一度はっきりと突きつけてしまう(とくにある種の人たちに対しては)。
それはその種の人たちを不安に陥れる。
じっくり付き合ってみたあげく、死の不安に突き落とされるのは、割に合わない。

どうせ死ぬのなら、今すぐに、今ここで殺されたい。
そういうことなのかも知れない。
この映画のじれったさの理由というのは。

☆☆☆[DVD]『兵隊やくざ 脱獄』

シリーズ第4作。

サイド・カー付きのオートバイで脱走した大宮(勝新太郎)と有田(田村高廣)だが、逃亡しきれずに捕まってしまい、軍用刑務所に送られる。
監獄生活の無聊に堪えきれない彼らは、またまた脱獄を図るが失敗。

ついに死刑を覚悟する二人であったが、有田の学友永井中尉(中谷一郎)の計らいで処刑を免れ、その代わりにソ連国境の最前線部隊に転属させられる。
移動の途中、彼らは料理屋の女珠子(小川真由美)を助ける。
前線部隊には、模範受刑者として減刑され、先に出獄していた沢村(田中邦衛)がいた。
しかし沢村は、翡翠の宝石を隠し持っていることを上官に嗅ぎつけられ…。

ソ連の狙撃兵が待ちかまえる国境の川に、単身、ピストルでカモを撃ちに行かせられる大宮の振る舞いが、なんとも愉快で痛快だ。
大宮の魅力は、彼の性格の単純明快さというよりも、単純さに抗おうとするその行動にこそあるのだろう。

オーダー(秩序、命令)に縛られない自由を、彼は、命を賭けてまで死守しようとする。
一方的な「贈与」を有り難く頂戴することを峻拒するその姿勢は、一貫したものだ。
大宮が(そして有田が)求めるのは、対等な交換であり、やりとりなのである。
この第4作までが、先に紹介したDVDBOXの上巻に収められている。

1966年、日、森一生監督作品。


November 14, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『新兵隊やくざ』

シリーズ第3作。

将校の慰みものになる寸前、看護婦緒方恭子を救出した大宮(勝新太郎)と有田(田村高廣)は、軍用トラックでの脱走に成功する。
が、やがて燃料が切れ、徒歩で大平原を彷徨ううち、八路軍に出会してしまう。
戦闘中に現れた友軍によって九死に一生を得た彼らだが、またもや軍隊に復帰するはめになる。

そこでもやはり騒動を起こし脱走した二人は、天津まで辿りつき、浪曲師になりすまして軍用物資を盗み出すことに成功する。
大金を手にした大宮はしかし、勇んで乗り込んだ妓楼「竜宮」の主人に騙され、賭場で有り金のすべてを巻き上げられたうえに、大量の借金まで背負うことになる。
苦力並みの一日30銭の下働き生活に耐えきれず、大宮たちは同じ境遇の女郎たちを引き連れて「竜宮」を脱走し、新しく女郎屋「いろは」を開店させるのだが…。
丸っこい勝新の身体はまるで、あちこちに弾み弾けてどんどん勢いを増していく護謨鞠のようだ。
最後は憲兵隊との闘いになる。

むすんでひらいて、の映画だな、と思う。
弱みをにぎる、ひらいて取引する。
むすんでひらいて。
拳をにぎって殴りつける、ひらいて逃げる。

憲兵隊伍長青柳(成田三樹夫)の過去の殺人を暴く元同僚の豊後一等兵に藤岡琢也が、大宮と桃子(瑳峨三智子)の結婚式と青柳に殺された豊後の葬儀を怪しい念仏で執り行うエセ坊主上州一等兵に玉川良一が、それぞれ扮している。


November 13, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『続兵隊やくざ』

シリーズ第2作。

機関車に乗り移り、客車を切り離して脱走を成功させたはずの大宮(勝新太郎)と有田(田村高廣)だったが、地雷の爆破で機関車ごと吹き飛ばされた二人は怪我を負い、軍の病院に収容される。
一刻も早く内地に帰りたい有田は除隊できる見込みと聞かされ喜ぶが、親切にしてくれた従軍看護婦緒方恭子(小山明子)に憧れの感情を抱く大宮は、むしろできるだけ病院に残っていたいのだった。
しかし戦況が逼迫し、彼らはふたたび軍隊に戻されることになる。

軍律であろうが、命令であろうが、理不尽で筋道の通らないものには断じて従わない二人は、息のあったコンビネーションで悪徳上官を追いつめ、叩きのめす。
一作ごとにゲストヒロインを登場させて大宮と絡ませ、有田と一緒に脱走しては軍隊に戻り、戻っては天誅のごとく上官に制裁を加え、はてはまたしても二人で脱走するという、このシリーズのパターンができあがった。

純で優しい八木曹長(上野山功一)と権柄ずくで横柄な岩波曹長(睦五郎)との間で苦しむ情婦染子役に水谷良重。
大宮に特別の「お守り」を求められ戸惑い、それでも翌朝、彼が出立する直前に紙に包んだそれを地面にそれとなく落としてその場を去る小山明子の恥じらいの演技が可愛い。

この作から、八路軍との実戦のシーンが出てくる。

1965年、日、田中徳三監督作品


November 12, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『兵隊やくざ』

軍隊と戦場とを舞台にしながら、見終わったあと、爽快な気分になれる映画だ。
「兵隊の話はもうごめんだって?私も同感だ。20年たった今もカーキ色を見ると胸くそが悪くなる」
これが映画の冒頭に聞こえる、ナレーター(田村高廣)の言葉である。

昭和18年早春、太平洋戦争の雲行きが怪しくなりはじめた頃の満州。
厳しい軍律と猛烈な訓練で知られる九八一部隊が駐屯する孫呉は、4万人の軍隊の他には酒場と女郎屋しかなく、町というよりは兵営であり、実のところは、はるか南方の都会とただ鉄道1本でつながるだけの、刑務所にすぎなかった。

帝大出のエリートでありながら、軍隊が嫌いで、わざと幹部候補生試験に落ち、下士官にならずにいる有田上等兵(田村高廣)のもとに、字も読めないほど無学でヤクザ上がりの暴漢大宮二等兵(勝新太郎)が預けられることになる。
沈着冷静で外交派の有田と直情径行で破天荒な武闘派の大宮との間に、奇妙な、しかし堅い友情が結ばれる。

頭は切れるものの、それだけに悲観的で沈鬱的になりがちな有田と、天真爛漫で豪放磊落、いつでも楽天的な大宮。
万事に対照的な二人だが、義に堅く、情に厚いのが共通点だ。
階級が一つ違うだけで天国と地獄、制裁ビンタ、リンチ、演習と称するシゴキが常習の理不尽で不条理な軍隊生活を、彼らはその絶妙なコンビネーションでもって切り抜けていく。

じつはこの映画には、敵軍との戦闘シーンはない。
大宮が闘うのは、駐屯地内・兵舎内であり、相手は自軍の性根の腐った兵隊、とりわけ上官たちなのだ。
その喧嘩や乱闘の場面でも、カメラはバスト・ショット以上には寄らず、しかしスピードと迫力は伝えながら、なお人物の位置取りに気を配った構成的な画面づくりになっている。

「こんな胸くそ悪いカーキ色ともおさらばしましょうや」
機関車のボイラーに自分たちの軍服を投げ込む大宮。
「いい気持ちだ」
「どこへ行くんだ」と有田。
「大陸は広いです。隣は支那、その先はヨーロッパまで地続きですからね」
「まったくとんでもない奴だ、お前は」
「へへへ、あは、音丸(淡路恵子)に見せたかったなあ、この脱走」

原作は有馬頼義「貴三郎一代」。
山本直純のメリハリの効いた音楽も印象的。

1965年、日、増村保造監督作品。


November 10, 2005 編集
☆☆☆[book]『パンク侍、斬られて候』、町田康、マガジンハウス、2004/03

長編の難しさがモロに出ている。
たとえば、主人公掛十之進のことを、真鍋五千郎(ゲラちゃん)や茶山半郎(差オム)らに、せっかく「シトゲちゃん」と呼ばせたのに、彼らとの幼少期はくわしく描かれずに終わったこと、あるいは後半は茶山半郎(この名前だけから茶川一郎を思い出せる人はどれくらいいるだろう?)が、むしろ主人公のようになってしまって、掛十之進の「人物」が十分描かれなかったこと。
(これらの「欠落」した部分は、ある意味では『告白』で描かれることになった、と見ていいのかも知れない。そしてそれを可能にしたもののひとつが、原作=枠組みではないか。)

しかしこの小説がもつ、物語の枠組みからも溢れでてしまう「過剰」さは、そうした「不足」を補って余りある。
(この小説の主人公は、ではなく)この小説は、パンクだからである。
そして punk 小説ならば、ところどころ punc しているのが、正しいあり方なのである。
ではパンク小説は、いかにしてロマンティシズムを振りきり、物語から逃げきるのか。

サムライが本来の侍でありえなくなった江戸時代に、フリーランス侍の掛十之進が、激しく腹を振って踊る新興宗教「腹ふり党」対策要員として黒和藩に採用されるが…。
茶山は、教祖ではなく代理であり、腹ふり党はいったんはすでに鎮圧されていて、彼が掛(黒和藩)に頼まれる騒動というのも、規模が限られた「お芝居」にすぎない。
つまり、茶山は自分(たち)の運動が不可能なものであることを、あらかじめ承知しているのであって、この自覚こそがロマン主義の用件ともいえるのだから、ここまでならロマンティシズムから逃れているとはいえないのである。

だが人語を操る猿、大臼延珍が登場するあたりから、話は急展開して文字どおり驚天動地、怒濤のクライマクスへと突き進む。
腹ふりは芝居をとうにこえ、商家を打ち壊し城に放火してすでに狂乱であり、延珍率いるサル軍団に頼ってこれを鎮圧する以外に策はない。

腹ふり党の党員達はこの世界は巨大な条虫の胎内にあると信じています。彼らにとってこの世界で起こることはすべて無意味です。彼らが願うのは条虫の胎外、真実・真正の世界への脱出であり、その脱出口はただひとつすなわち条虫の肛門です。

アップサイド、ダウン。インサイド、アウト。
世界の本質を、あるいはその全体性を、一挙につかみ取ろうとするのではなく、世界をめくり返そうとする、その現場に立ちあうこと。
たとえその世界が、裏返しにされて表側になったはずの裏側が同時にやはり元の裏側のままでもあるような世界、つまりは「外」のない閉じられた世界だとしても。
輝く条虫の、これらは吐瀉か排泄か、ニンゲンどもが猿たちが、虚空に開いた闇黒穴へとひりだされ、垂れ下がる無数の縄にぶらさがれば天空へと吸い出され…。

この世界の前提?そんなことはどうでもいい。
虚妄であろうが、虚構であろうが、一人の力で生きてきたし、生き延びるだけだ。
しかしパンク侍、あっけなく刺されて候。
もちろんここでも「なぜです」という問いかけではなく、やっぱ「アイドンケアー」っていう応えでしょうな?

通俗時代劇ふうに始まり、陶酔狂乱阿鼻叫喚的爆発があり、詩のように終わる作品。


November 08, 2005 編集
☆☆☆[book]『書 筆蝕の宇宙を読み解く』,石川九楊,中央公論新社,2005/09

漢字文化圏においては「書」こそが、あらゆる表現の根底を支えている、と著者はいう。
だから書は「音楽のようにも、デザインのようにも、建築や織物・編物のようにもふるまう」のであると。
「その多彩なふるまい方から書の表現の宇宙をとらえ返すとどうなるか」。
本書で追究されているのは、このことである。

書法の詳細についても、もちろん面白いのであるが、ここではぼくが付箋をほどこしたページのうち、歴史と宗教性に絡むところを幾つか。

甲骨文で確認される最古の動詞は、私たちが素朴に想像するような「歩く」「走る」あるいは「食べる」「寝る」などではありません。人間の王による天の人格神、すなわち天帝への問いかけです。甲骨文に刻まれている「ト(占う)」「貞(問う)」という動詞は、天帝の存在を前提とする宗教的な世界観に裏づけられた動詞です。p69

筆で対象に働きかける。反発する力が跳ね返ってくる。それはたんなる物理的な手応えではありません。この手応えのなかに、書き手は天を意識するのです。天を意識する契機の生まれない表現行為は、そこにいくら物理的な手応えがあっても、表現としては「遊び」になってしまいます。p81

古代中国の宗教的観念においては、天には「帝」と「神」がいました。帝は人格神、神は自然神です。ところが秦王政は、みずからを地上に降り立った最初の天帝、「始皇帝」であると規定しました。これ以降、中国の天上には人格神は存在しなくなりました。東アジアは無宗教地帯となったのです。(中略)西欧の宗教に相当するのが、「書く」という行為です。「書く」という行為をとおして、私たちは絶対的なものからの問いかけに直面し、つねに自省を迫られます。「書く」という行為が消滅すれば、書字中心言語で、宗教をもたない東アジアでは、誰も世界をコントロールできなくなってしまうはずです。p264-265

余白、間、あるいは沈黙……。そこには天から地へと向かう重力が働いています。その重力とは、歴史です。歴史の膨大な堆積が、重力として働くのです。/白い紙には書の歴史、文字の歴史のすべてが充填されています。真っ黒に近いといってもいいほど目詰まりした歴史に白いヴェールを被せたもの、それが白い紙の本質です。p287

おそらく、一神教ののちに多神教が生まれたという、私の考えは理解されにくいと思います。しかし、現在言うところの多神教はあくまで、一神教を前提として措定されています。一神教のない時代は多神教めいてはいても、多神教と断定することはできません。大陸からの漢語流入以前に、混沌とした倭語(前和語)はあったでしょうが、現在想定する和語は、漢語流入語にこれとの関係において生まれたものです。一神教と多神教の関係もこれと同じように考えられるのですが、いかがでしょうか。p296

「縦に書き、横に話す」東アジアは、すでに宗教を超えていて、対して「縦に話し、横に書く」西欧は、いまだ宗教を超えられないでいる、と著者はいう(p297)のだが、「天」を意識する「縦書き」の文化が、「横書き」の西欧世界が生んだ「自由」や「民主」といった理念を生み出せなかった、ということもまた事実なのである。

しかし自由も民主も、とどのつまりは宗教を超えることができず、ひょっとしてもはや賞味期限さえ切れかけようとしているのならば、それらを超え出ていく概念、理念が、では「縦書き」の世界から出てくるのかどうか。

表現と倫理性に絡んだところも少し。

頂点を超えた瞬間に、美には退廃と形骸化が忍び込みます。個人のレベルにたとえれば、「この前はうまくいった。だから今度も同じ要領でいこう」と前例を踏襲したとき、表現は無自覚のうちに退廃し、形骸化し始めているのです。一歩でも、たとえ半歩でも、自分の枠の外へと出ていこうと意識し続けない限り、表現は自己模倣に陥ります。p151

字と書とは異なるものです。規範を維持しようとするのが文字の特性です。いっぽう書は、「書く」という実践をとおして文字を揺さぶり、文字をおのれ(言葉)の実態に即したものに変えていこうとします。/書とは、揺さぶりをかける運動そのもの。いわば革新です。いっぽう文字とは、規範を強制し厳然として存続しようとする力。いわば守旧です。「こんな画数の多い煩瑣なのは嫌だから、少し省略させてもらうよ」−−こうして、書は文字に寄りかかりつつも、文字の姿を変えてきました。p245

文字という規範ではなく、書という運動にこそ可能性がありそうです。


November 07, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『嘆きの天使』

ギムナジウムの真面目教授ラート博士(エミール・ヤニングス Emil Jannings)が、キャバレーの踊子ローラ(マレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich)の色香に狂って転落していく姿を描く。

ヨドチョー(淀川長治)さんが解説でいうほどには、ローラが悪女とは思えない。
両脚を広げて立つ、脚を組んで座る、椅子の背に向かってまたがるディートリッヒのかっこよさが目立つせいかな。
今から見れば、問題がほとんど男のほうにあるのは丸わかりだということもある。

それでもラート博士が、ピエロの格好をさせられて、かつての教え子や同僚たちも混じる故郷ハンブルクの人々の前で、ニワトリの鳴き声まで強要される場面は、やはり心が痛む。
ラートがそれこそ半狂乱になって雄叫びをあげ、ローラを追いかけるところがクライマクスだろう。

ほどこされた拘束具をはずされた彼が向かうのは、夜の教室である。
かつて教壇に立ったその自分の教室で、ラートは突っ伏したまま、しかし教卓にしがみついて離れない。
カメラはそんな彼の頭部をスポットライトで映しながら、しずかに遠ざかっていく。

原作『ウインラート教授』の作者ハインリッヒ・マンは、トーマス・マンの兄。

『DER BLAUE ENGEL』、1930年、独、ジョセフ・フォン・スタンバーグ Josef von Sternberg 監督作品。


November 06, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『愛の悪魔〜フランシス・ベイコンの歪んだ肖像〜』

ダブリン生まれの画家フランシス・ベイコン(1909-1992、デレク・ジャコビ Derek Jacobi)の生涯を60年代から70年代にしぼって映像化。
彼に最もインスピレーションをもたらしたとされるモデル&恋人であるジョージ・ダイアー(ダニエル・クレイグ Daniel Craig、『シルヴィア』でテッドを演じた男優)との愛を描きながら、画家の心のなかにある悪魔をあぶりだしているのだが、ベイコン独特の歪みや流れの表現をムーヴィーとしてどう描いているか、が見物。
坂本龍一の硬質で金属的に響く音楽は、メロディアス/センティメンタルになるのを極力抑えた感じで、物語を遠くから支えるというよりは、むしろ画面の動きにぐっと寄り添ったものになっている。

『嘆きの天使』のなかでマレーネ・ディートリッヒがペッペッと吐いた自分のつばで練ったマスカラをつける場面があるのだが、ベイコンがちょうどそれと同じことをしていた。
それから、彼が影響を受けたとされるエイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』も映されていた。
有名なオデッサ階段のシークエンスには、メガネの女性の顔に血が降りかかるシーンがあるが、それと同じように、ボクシングを見ているベイコンの顔に、やはり血が降りかかるのである(メガネのない彼の場合、血が目の中にしっかりと入る/目が見えなくなるのだ)。

『LOVE IS THE DEVIL: STUDY FOR A PORTRAIT OF FRANCIS BACON』、1998年、英、ジョン・メイバリー John Maybury 監督作品。


November 05, 2005 編集
☆☆[DVD]『サルバドール・ダリ 世界が愛した芸術家ダリの超現実的な人生』

サルヴァドール・ダリ(Salvador Dali)本人ほか、彼にかかわった人たちへのインタヴューやダリにまつわる過去の映像資料でもって、シュールレアリスト・アーティストの生涯と作品を構成したTVのドキュメンタリー番組。

ダリとガラ(友人ポール・エリュアールの妻)との強い結びつき、徹底して非政治的な彼の孤独とその天才性が明らかにされる。

『SALVADOR DALI』、1986年、BBC、アダム・ロウ Adam Low 監督作品。


November 04, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『バットマン&ロビン〜Mr.フリーズの逆襲!!〜』

シリーズ4作目のバットマンはジョージ・クルーニー(George Clooney)。
前作から登場のロビン(クリス・オドネル Chris O'Donnell)には、クルーニーのほうが相性がよさそう。

ゴッサム・シティを凍らせてしまうミスター・フリーズ役のアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)は、ほとんどその「素顔」を見せる機会はないものの、存在感はたっぷり。
ユマ・サーマン(Uma Thurman)演じるポイズン・アイビーが、うまく絡んでいる。

バットガール(アリシア・シルヴァーストーン Alicia Silverstone)まで登場するは(彼女はさすがに、取ってつけた感じ)、死病に取り憑かれていたはずのアルフレッド(マイケル・ガフ Michael Gough)も元気になるは(今回はブルース・ウェインと彼との愛&絆を描くのがテーマともいえるのだが)、とサービスはやや過剰気味。

暗い力=暴力は、アカルイ希望によって正しい力に変えられる?

『BATMAN & ROBIN』、1997年、米、ジョエル・シューマカー Joel Schumacher 監督作品。


November 03, 2005 編集
☆☆☆[film]『恋すがた狐御殿』

2000年に始まった宝塚映画祭も今年で第6回目。
「名カメラマン岡崎宏三と宝塚映画」と題した特集上映作品5本のうちの1本。
映画祭の詳細は、こちら http://takarazukaeiga.com/index.htm

原作は北條秀司の戯曲「狐と笛吹き」。
亡くした妻まろや(美空ひばり)を忘れられない笛師春方(中村扇雀)のもとに、忽然と現れた娘ともね(美空ひばり二役)はまろやに瓜二つ。
じつは彼女は、彼が助けた子狐の代わりに御礼奉公にきた姉狐だった。
妹の代理として春方の亡き妻の代役を務めるという二重の代行を演じていたともねだが、次第に彼に心惹かれていく。
春方も亡妻の身代わりとしてではなく、一人の女性として彼女を愛そうと決意するのだが、ともねには従わねばならない狐の世界の掟があった…。

50年前なら、こういうロケができたんだなあ、日本で、とまずは感心。
松原、竹林、梅園のどれをとってもメチャンコ(←死語?)美しいではないか。
衣装のすばらしさや踊りの優雅さも、ファンタジックな和製ミュージカルを支えるにふさわしい。
わずかだが馬を走らせるシーンがあって、この迫力だけでも撮影のうまさがわかるのだが、殺陣もまた、ほれぼれする出来映えになっている。

若い美空ひばりがこんなに可愛いなんて(目以外は、ほとんど狸といっていい彼女だが、そして事実ひばりは狸御殿シリーズにも出演しているのだが、その歌のうまさもすごい)。
ともねの母狐おこん役に浪花千栄子、笛の師匠の娘役にまだあどけなさを残した扇千景が出ている。
DVDも今春発売されたみたい。

1956年、日、中川信夫監督作品。

☆☆☆[DVD]『バットマン・フォーエヴァー』

ヴァル・キルマー(Val Kilmer)演じる新しいバットマンはやや神経質気味だが、ダークサイドのほのめかしという点では、マイケル・キートン(Michael Keaton)より向いている。

ロビン役のクリス・オドネル(Chris O'Donnell)にも、バットマン同様、親兄弟を自分の目の前で殺される役柄として、ちゃんと陰がある。

顔の半分を硫酸で焼かれたトゥー・フェイス(トミー・リー・ジョーンズ Tommy Lee Jones)とマッドサイエンティストのリドラー(ジム・キャリー Jim Carrey)の悪役二人の絡み具合こそイマイチなものの、前作よりカラフル&コミカルで、おチャラケ度はアップしている。
ニコール・キッドマン(Nicole Kidman)は、さすがにセクシー。

『BATMAN FOREVER』、1995年、米、ジョエル・シューマカー Joel Schumacher 監督作品。


November 02, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『バットマン・リターンズ』

前作よりもさらに『シザーハンズ』色濃厚ではないか?

半ペンギン人がゴッサム・シティを掻き回す。
それにキャット・ウーマン(ミシェル・ファイファー Michelle Pfeiffer)が加わるのだが、この役所、どうも描ききれていない、という印象。
しかしキャラクターとしては魅力的。

シティの黒幕クリストファー・ウォーケン(Christopher Walken)が渋い。

『BATMAN RETURNS』、1992年、米、ティム・バートン Tim Burton 監督作品。


November 01, 2005 編集
☆☆☆[DVD]『バットマン』

ジョーカー役のジャック・ニコルソン(Jack Nicholson)の怪演に尽きる。
彼が歌い踊るシーンはどれも印象的で、とりわけ美術館の名画を滅茶苦茶にする場面は爽快だ。

でもサイヤ人みたいな超人じゃなくて、ごく普通の地球人がヒーローだっていう点では、バットマン役のマイケル・キートン(Michael Keaton)は、結構イイ線いってる、ともいえそう。

ボス役のジャック・パランス(Jack Palance)も、ヒロインヴィッキー役のキム・ベイシンガー(Kim Basinger)も、とってもかわいいっす。

『BATMAN』、1989年、米、ティム・バートン Tim Burton 監督作品。