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第一部
T 戦争・政治・経済
01 コンサイス20世紀思想事典 木田元他 4400 三省堂
冒頭から60ページにわたって、19世紀末から1989年現在までの歴史を思想史的視点から概観したものが、科学哲学の
野家啓一 によって記されている。東洋思想については、碩学
井筒俊彦 が、別に10ページあまりの文章を寄せている。また、図版を多く取り入れたかたちで、万国博覧会からコンピュータ・グラフィック以後の現在に至るまでの機械文化の変遷を、これも別に10数ページを割いて
西本真一 が記している。重要項目は、著名な専門家が、見開きに収めるかたちでわかりやすく解説している。
02 現代思想を読む事典 今村仁司編 1650 講談社新書
その名のとおり「読む」事典。安価であるにもかかわらず、厳選して取り上げられた一つ一つの事項や人名について、くわしい説明がなされている。同じ講談社新書で@
「現代思想事典」 A 「現代哲学事典」
B 「現代科学思想事典」 などがあり、全部持っていて損はないが、「理科系」(というような分け方に意味があると考え、自分はそれだと信じている高専生)向きの一冊、というのならBということになるだろうか。
03 情報の歴史 編集工学研究所 4800 NHK出版
とにかく楽しい年表。「情報」の観点から、有史以来の人間の歩みを世界同時年表のかたちで編集している。テーマによって五つのブロックに分けられた見開きの中に、活字の大きさを変えた見出し、種類別に色分けされた事項が、所狭しと並ぶありさまは、それだけで一つのデザインであるが、決して見にくいわけではない。ここで試みられた工夫によって、むしろ事項と事項の「関係」がよく見えてくる。あちらこちらのページへと飛んでいくのが楽しくて、つい閉じるのを忘れてしまう。(最近になって
増補版 が出た。96年までの直近の出来事や事項が加えられたのはうれしいが、値段が5000
円を超えてしまったのは残念。それでも「買い」の一冊。)
04 想像の共同体 B・アンダーソン 2060 リブロプロート
英語でいう nation は、日本語では「国民」であり「民族」である。nationalism
となると、「国民主義」から「民族主義」、さらには「国家主義」までを含むことになる。いったい「国民」と「民族」と「国家」とは、どういう関係になっているのか。フランス革命が「国民」を発明した、というのは教科書的事実だが、アンダーソンは近代以降の「国民」は、主権的なものでも普遍的なものでもなく、人々の心に描かれた想像的な政治共同体にすぎないのだ、と指摘する。この本は、そうした「想像の共同体」が、いかにして人々の心の中に生まれ、いかにして世界中に普及していったのかという、nationalism
の「起源」と「流行」の世界史的過程を解き明かそうとする試み。
05 ヘーゲル・大人のなりかた 西研 950 NHKブックス
わかりやすく書かれていると思った。大人なんてくそ食らえ、とか、大人になるなんて願い下げだ、と思っている人は、題が気にくわないかも知れないが、そういう人ほど読むべき本だと思う。読んで何が「大人」なのかを知った上で、なお大人になるのを拒否すればよいのである。 ここから
ヘーゲルの「精神現象学」 (河出書房新社、岩波書店)へいければ幸運。
06 戦争論(上・中・下) クラウゼヴィッツ 岩波文庫
戦争についての基本図書。近代の戦争が、それまでと違って「国民」の、つまりは「国家」の戦争となったこと、また「絶対的形態」に限りなく近づいたことを指摘する。
07 戦争論 西谷修 2000 岩波書店
ハイデガー 、 レヴィナス 、 バタイユ
といった20世紀の思想家たちの思想の微妙な差異を読み解きながら、「世界戦争」状況下に宙釣りされている私たちの精神状況を描き出していく試み。同じ著者による
『夜の鼓動にふれる−戦争論講義−』 (東京大学出版会)があり、これは大学での講義をもとにしたもので読みやすくなっている。興味がわけば同じ著者の
『不死のワンダーランド』 (青土社)にも目を通してみよう。現代人が「なぜ死ねないか」がよくわかるはずである。
08 「何故の戦争か」(フロイト選集『宗教論』所収) S・フロイト
1300 日本教文社
A.アインシュタイン からの手紙の質問に答えるかたちで述べられたこの文章で、フロイトの、戦争やそれを行う人間に対する見方には、大変厳しいものがある。どうすれば戦争を避けられるのか、と尋ねるアインシュタインに対して、フロイトは、それはまず難しいことだ、と答えるのである。なぜか。それはこの文章をじっくり読むにしくはない。フロイトについては
「快感原則の彼岸」 (選集『自我論』所収)も読んでおきたい。とりあえず文庫から、という人には、
「夢判断(上・下)」 「精神分析入門(上・下)」
(新潮文庫、後者は中公文庫も)がある。
09 夜と霧 V.E.フランクル 1339 みすず書房
第二次世界大戦以後、人類は「原爆」と「アウシュヴィッツ」という問題を抱えることになった。著者はアウシュヴィッツから生還した精神医学者である。
10 戦時期日本の精神史 1931-45 鶴見俊輔 950 岩波同時代ライブラリー
鶴見はここで「原爆の犠牲者として」という一章をもうけて、原爆はなぜ落とされたのか、事実はいつどのようにして知らされていったか、反対・禁止運動はどのように展開していくのか、について書いている。そのなかで鶴見は、
「アメリカの英雄」 (いいだ・もも 河出書房新社)という本を取り上げ、次のように紹介している。《このアメリカの英雄とは、原爆を落とした飛行士C・イーザリーをモデルとしている。彼は、犯罪と自殺未遂をくりかえし、やがて精神病棟にとじこめられた》。同じ著者の
「戦後日本の大衆文化史 1945-80」 (岩波同時代ライブラリー)もある。
U 科学と技術
11 精神と自然 G.ベイトソン 2575 思索社
美しい書物。そこに書かれていることそのこと、そのスタイルが一種のデザインとなっている。自然科学者として出発し、やがて人類学者としてバリ島に赴いたかと思えば、またサイバネティクスの
N・ウィーナー や フォン・ノイマン らと交流し、精神医学の分野では、日本の国文学者でさえ当たり前のように用いるほど有名になった「ダブルバインド」という概念でもって分裂病の解明に力を尽くし、晩年はイルカの研究にその才能を捧げた人の集大成が、この本である。ベイトソンは、ここで〈精神〉のプロセスとしての生物進化の考えを展開しているが、ここにいたる以前の彼の研究を集めた
「精神の生態学」 (思索社)も読んでほしい一冊。
12 知恵の樹 H.マトゥラーナ F.バレーラ 3500 朝日出版社
システムが自分自身の組織を形成し、変化させていく。こういうメカニズムを考えるとき、論理的なパラドクスを避けて通るわけにはいかない。自己言及の問題が絡んでくるからである。この閉じた環から出るためにプログラム外部のノイズに着目するのか、それともこの悪循環のなかに踏みとどまり、それを良き循環として捉え直すことに賭けてみるのか。この本の立場は、後者である。生物を制御対象として見るのではなく、自律的主体として見る柔らかい眼を持つこと。新しい生物学の原理を、ヘーッという驚きと、うんうんという納得とで、すんなり読ませてしまうこの本は、脳味噌の掃除だけにでも、一度手にとってみてほしい本である。同じ著者たちによる
「オートポイエーシス」 (国文社)もどうぞ。
13 科学文明の曲がりかど 中岡哲郎 780 朝日新聞社(朝日選書)
この本の第一章の最初のエッセイ「地球と人間」の一部が、以前国語の教科書に取り上げられていたことから、私は中岡氏とその仕事に興味を持ち、
ジョセフ・ニーダム というような怪物的な中国科学史研究者の存在も知るようになった。その意味で
「ものの見えてくる過程」 (朝日新聞社)は、よく中岡氏の人間の一面を伝えていたし、ケムブリッジ留学中の身辺を綴った
「イギリスと日本の間で」 (岩波同時代ライブラリー)は、また別の氏の一面を伝えている。中岡氏の本を読むと(そんなことは直接どこにも書いていないのだが)、学問に限らず、仕事というものは、やはりその人の生き方であり、人柄であるのだな、とあらためて納得させられてしまうのである。
14 形を読む 養老孟司 1730 培風館
著者は解剖学者である。生物の形態を、一般にヒトはどう考え、どう取り扱うか。学問は、時代とともに変わる。とくに現代では、その勢いは激しい。しかしそれを扱っている人間の方はといえば、ほとんど変わってはいないのである。形をどう「読む」か。これは、まず見ることから始まる。この「見る」という単純なことが、とても難しい。著者は、常識がまったく異なる私たちに対しても根気よく語りかけてくれる。この本を読んで、うーん、とうなる数がふえればふえるほど、満足度が増していく。そういう本である。
15 自然のパターン P.スティーヴンス 3900 白揚社
自然は多彩である。同じように見えるものでも同じものはひとつもない。しかし、木々の枝分かれと動脈と河川の分岐、結晶粒と石鹸の泡と亀甲、羊歯の葉と銀河系と排水栓の渦とは、それぞれよく似ている。なぜヘビの匍匐と川の蛇行と紐の輪が同一のパターンをとるのか。どうして泥のひび割れやキリンの斑がせめぎ合う泡の膜のように並び合うのか。表面張力? 稠密充填? エネルギー効率? 確率? 進化上の自然選択? 本質的なのはやはり空間の性質による、と著者は言う。説明は理解できなくても、並べられた写真や図版の数々を眺めてさえいれば、まずはこの世界に生きていることの幸せを実感できる。それがうれしい。
16 形の法則 S.ヒルデブラント A.トロンバ 4400 東京化学同人
15によく似た本だが、カラー印刷でより美しく、少し数学(変分法)寄りにできている。著者による参考文献、訳者による参考文献、巻末の索引など、ていねいな本づくりで、役に立つ本に仕上がっている。といっても、この本の内容を全部理解しているわけではない。私にとってはやはり眺めて楽しむ本である。この本は
SCIENTIFIC AMERICAN LIBRARY というシリーズの一冊である。 SCIENTIFIC
AMERICAN はアメリカの一般人向け科学雑誌だが、日本では翻訳されたものが月刊
「日経サイエンス」 として出版されている。この雑誌については、奈良高専の図書館がちゃんと購読してくれている。興味のある特集が組まれたときなど、一度手に取ってみてほしい。
17 リコンフィギュアード・アイ W.J.ミッチェル 5800 ASCII
形にこだわったみたいだが、それはつまりは見ることの問題である。写真は1989
年に150歳の誕生日を迎えたらしい。レタッチソフトは、写真のありようを根底から変えてしまった。デジタル画像は視覚文化をどう変容させたか。電子テクノロジーによる新たな視覚装置は、「事実」を、そして私たちの「見ること」を、どう再構成(リコンフィギュア)するのか。さまざまなテクニックやトリックによる「変奏」の実演は、驚きの連続である。が、なんで電子テクノロジーなのにわざわざ「本」で見るのか? 本当に美しい絵や写真を手軽に見るには、今のディスプレイ(デカイ、重い、解像度が低い)では難しいからである。
18 形の哲学 加藤尚武 1850 中央公論社
「形」は、物から独立した要素として抜け出してくる。「形」は、いつも物にくっついているのに、物とは切り離して扱われるのである。なぜか。それは「同じ形」をした別のものが存在するからである。というような話から始まって、いったい「形」って何なの? 「見る」ってどんなことなの? といった日常ごく普通に経験していること(区別すること、錯覚すること、無意識に知覚していることなど)を根底から考え直していくというのが本書のスタイルである。この「形を見る」ことのテマトロジーのなかに双子の姉妹と作者である「私」の恋愛物語が織り込まれている。女装してまで恋愛を続けるところは物語としてはちょっと無理がないわけではない。が、哲学の話としてのすじは通っていて、このテーマに関する哲学史も学べるようになっている。巻末の文献目録も充実している。
19 唯脳論 養老孟司 1600 青土社
脳がすべてであり、すべてが脳で説明できる、というのが著者の立場である。あらゆる人工物は、脳の産物である。文化、伝統、社会制度、言語、自動車、ビル、都市。そして公園の緑だけではなく、いまでは、山の木々にしたところで、人為的に植林され配置されている。つまり、人類の祖先は自然の洞窟の中に住んでいたが、私たちは今、脳の中に住んでいる、ということになる。人間の歴史は、「脳の世界」が「自然の世界」を浸食していく歴史だったのである。人の敵は、もはや自然ではなく、自分の脳であり、他人の脳である。では脳とはどんなものか。51〜53ページに掲載されている「九相詩絵巻」でも眺めながら、じっくりと考えてみるのもよいだろう(自分のことを考えるんだから、きっと脳自身も興味津々のはずである)。
20 免疫の意味論 多田富雄 2200 青土社
エイズ、アレルギー、O157。免疫がどういう働きをしているかを考えていくと、必然的に「自己」とは何か、という問いが浮かんでくる。なに、自分の持っている遺伝子全体(ゲノム)の産物であろう。そんな答えをしてしまいやすいのだが、本当にそれでよいか? 人間の免疫系は、たとえば人間に寄生しているウイルスを「自己」のなかに含めている。マラリアの原虫や住血吸虫でさえ、「自己」と同様に扱うらしい。それに対して、自分の遺伝子でコードされている蛋白であっても(たとえば甲状腺のコロイド蛋白などを)、免疫系は「非自己」として認識し、自己免疫病を起こしたりするらしいのである。遺伝子だけでは「自己」を規定できない。ではどう考えればよいのか。昨日の「自己」が今日の「自己」と違っていたら、これは問題である。しかし、免疫学的に見た「自己」とはそういうものであり、どうやら「自己」というモノが存在しているわけではないらしいのである。反応する「自己」、認識する「自己」、認識される「自己」、寛容になった「自己」。つまり「自己」は免疫系の行動様式によって規定されるのである。「自己」とは、行為そのもののことであって、「自己」という
固定したモノではない、というのがどうやら多田氏の見方であるらしい。
V 大衆社会・文化・芸術
21 大衆の反逆 オルテガ・イ・ガセット 角川文庫他
産業化社会の大衆現象を分析する枠組みとしての大衆社会論として、 D・リースマン
の 「孤独な群衆」 (みすず書房)とともに授業中に少し触れた。また全体主義の源泉としての大衆社会論として、
K・マンハイム の 「変革期における人間と社会」
(みすず書房)、 E・フロム の 「自由からの逃走」
にも言及した。ここでは、それらに加えて E・カネッティ
の 「群衆と権力」 (法政大学出版局)を紹介しておく。
22 消費社会の神話と構造 J.ボードリヤール 3090 紀伊国屋書店
「湾岸戦争など起こらない」と予言してみせ、実際に戦争が起きても何食わぬ顔で、その終結を見届けてから、やはり「湾岸戦争はなかった」と宣言し、その題を持つ本まで出したのだから、物議を醸したのはいうまでもない。そのボードリヤールが20年以上も前のフランスで、つまり資本主義の先端から充分「遅れて」いたフランスで、アメリカや日本ぐらいがやっと到達しつつあった高度資本主義的な消費社会の現実を記号論的に分析し批評してみせた切れ味の鋭い書物がこれである。インターネットに象徴されるネットワーク社会がこの書物を乗り越えていこうとしているようにも見えるが、従来の資本の論理に呑み込まれてしまうならば、虚無の落とし穴(出口なし!)まではすぐの距離である。もっとも企業でさえ変わろうとはしているらしいのだ。そうなるといちばん遅れるのはやはり「学校」?
23 知識人とは何か E・W・サイード 1800 平凡社
国家や民族といったものがまだまだ実際には力を持って現実を動かしているのだとしたら、そこでどう世界に関わりどう生きていくか。パレスチナ人として、しかしアメリカに生きる西洋の知識を身につけた人間として、いかに生くべきか。サイードはしっかりとその指針を示してくれる。これでパワーを身につけた人は同じ著者の
「オリエンタリスム」 (平凡社)へどうぞ。
24 レヴィ=ストロース マリノフスキー 世界の名著71 1200 中央公論社
二つの作品が収められているが、まずは レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」
がおすすめ。予備知識なしでもOK。著者は、いきなり「旅」に誘ってくれる。場所は南米。おそらくは人類の最後の「探検」であろう彼の強烈な体験に、すなおに付き従っていくうちに、やがて私たちにも「発見」がやってくる。人間はなんて豊かなんだろう。しかしこの感想は、現地人たちの心の純粋さや素朴さに対するものではない。もちろん彼らは西洋文明に「汚染」されていない独自の文化を持っている。しかし真に驚くのは彼らの頭脳の明晰さであり、その普遍的な知性である。入れ墨や刺繍の紋様から結婚制度にいたるまで、そこに浮かび上がる「構造」を解明するために
L=ストロースは最新の言語学や数学を駆使して挑むのだが、ここには本当に豊かなもの同士の出会いがある。この本を読む喜びを与えてくれているのは、この圧倒的な豊かさであると思う。
25 人類学とは何か J.L.ピーコック 今福龍太訳 岩波ライブラリー
これを読めば、人類学の歴史、方法とその意義、大学で人類学という名でどんなことをやっているのか、といったことがよく分かる。そのうえで、いちばん新しくてスリリングな実践の報告として、訳者でもある
今福龍太 の 「クレオール主義」 (青土社)
「移り住む魂たち」 (中央公論社) 「野生のテクノロジー」
(岩波書店)などを読んでみよう。混ざること、移動することの快楽に身をゆだねながら。(オーソドクスな入門書はどうも、という人には、ちょっと違ったところからアプローチをしている
山口昌男 の 「文化人類学への招待」 (岩波新書)をすすめる。)
26 複製技術時代の芸術 W.ベンヤミン 1200 晶文社
「幸福であるとは、なんのおそれもなしに自己を眺めうる、ということである。」と彼が書いたのは
「一方交通路」 であったか、 「パサージュ論」
であったか。ベンヤミンはその自由な文体と具体的な素材をもとに、歴史や社会を根源的にとらえていく。彼は複製時代の芸術の特徴を〈アウラ〉の喪失と見た。アウラとは、かけがえのない一回性の源泉であり、自然界においてと同様に歴史の場においても、外的な仕方ではどんなに近づいてもそこに到達しえないユニークな現象のことである。「森の中を迷い歩くように都市のなかを迷い歩くには、修練が要る。迷い歩くひとには、さまざまな街路の名が、乾いた小枝が折れてポキッと音を立てるように語りかけてこなくてはならない。」(「一方交通路」)
27 明るい部屋 R.バルト 2575 みすず書房
バルトは何を実践したのか。母親について書くバルト。写真について書くバルト。写真について論じたすぐれた批評的書物なら
スーザン・ソンタグ「写真論」 もある。しかし彼は言葉を書いたのだ。エクリチュール(文字/書字)の実践者バルト。対象への愛を臆面もなく綴りながら、したがってナルシスティックな自己を無防備にさらしつつ、これほど嫌みがなく、しかも最高度にロマンティックな文章を外に知らない。「作者」の死を告げるバルト(
「テクストの快楽」 (みすず))、書きながら「恋愛」(の不可能性?)を生きるバルト(
「恋愛のディスクール・断章」 (みすず))も紹介しておこう。
28 機械美術論−もうひとつの20世紀美術史 伊藤俊治
2300 岩波書店
「テクノロジーの変貌は人間に何をもたらし、芸術表現はどう変わったか。ニューメディア時代の新しい哲学」とは、帯に書かれた宣伝文である。哲学に新しいものがあるのかどうかは知らないが、とにかく多くの、しかし選りに選られた、一枚一枚の写真や図版を見ているだけで、著者のテクノロジーというものに対する慈しみの心が伝わってくる本である。機械に霊魂があるとすれば、その鎮魂のためにつづられた文章のようでもある。テクノロジーと分かち難く結びついた「芸術の20世紀」をたどり直す。
29 サウンド・エデュケーション R・マリー・シェーファー
1700 春秋社
授業でやった「音に関する質問」はこの本からのもの。ここに出ている課題を私たち向きにアレンジした。シェーファーの本領は
「世界の調律」 (平凡社)に明らかである。大著だが、生きることと「音」との関係を多方面から捉え再確認していく作業に付き合ううちに、自分の周りのサウンドスケープが以前とはまったく別物のように立ち上がってくるのに驚かされる。環境音楽的な試みの日本人の例として
吉村弘「都市の音」「町のなかでみつけた音」 (春秋社)を紹介しておこう。ふだん何気なく歩いている街角にもけっこう音のインスタレーションがあることに気づけば散歩の愉しみもふえるというものである。街の雑踏よりは野山を歩くのが好きだという人には、
J・ケージ「小鳥たちのために」 (青土社)はどうだろうか。面白い「きのこ」たちが語りかけてくるかも知れない。
30 音・ことば・人間 武満徹、川田順三
900 岩波ライブラリー
惜しいことに、最近亡くなった武満は、海外でよく知られた現代音楽家だった。川田もまた世界的な人類学者である。川田はアフリカの「無文字社会」(そこでは、人の「声(ことば)」でさえなく、楽器の演奏、つまり「音」だけによって、ある部族の神話が「語られ」、またそのストーリーがきちんと「語り伝えられ」たりする)の研究で知られる。この二人が手紙をやりとりしながら音、言葉、人間について語り合うのである。おもしろくないはずがない。異分野の「交通」といえば、音楽家
坂本龍一 と哲学者 大森荘蔵 が「対話」する
「音を視る、時を聴く」 (朝日出版社)も、あげておきたい。ちがう分野とはいえ、第一線に立つお互いの仕事を認め合う二つの精神が、あるときふと共鳴する瞬間に立ち会える喜びがここにある。